その日の昼食は、珍しく、三人一緒にとることになった。大概、実験で忙しくていなかったり、どこぞで遊んでいたりして、誰かが欠けているものなのだが、今日は三人揃って遅くなったのだった。
ぞろぞろと食堂に入る。時計を見ると、昼食と呼ぶには大分遅い。そのため食堂はあまり混んでいなくて、すぐに順番がまわってきた。トレイを持って、A定食というやつを乗せてもらうと、長いテーブルに横一列に並んだ。
「おっ肉か!いいなあ。力入るぜ」
武蔵が嬉しそうにはしゃいだ。その視線からさっと自分の皿をかわして、竜馬がわめく。
「言っとくが俺の分は俺が食うからな。あてにするなよ」
「何言ってんだ、人聞きの悪い」
といいながらも、武蔵は最後のところでチッと舌打ちをした。
「やっぱり狙ってやがったか」
竜馬は憤然と吐き捨て、じりじりと武蔵から離れ、慌てて食べ始めた。どん、と肘で突かれて、隼人の左手の椀から味噌汁がこぼれそうになった。
「おい」
「え?あ、悪い」
ほんの一瞬、竜馬の意識が隼人の椀に行ったその刹那、武蔵の手が伸びた。さながらゲッター3の伸縮自在腕のようだった。だが、
がし!と音がして、武蔵の箸は、竜馬のそれに防がれていた。
勝ち誇った顔で、肉のかけらを口から飛ばしながら、
「見え見えなんだよ!それにまず自分の分を食え!」
「もう食った」
空っぽの皿を見せて、丸い顔丸い目をきらきら輝かせ、竜馬とその向こうの隼人の皿を、ちらちら見ている。竜馬はとほほという顔、隼人はやれやれという顔になった。
その時、廊下の方からぱたぱたぱたと誰かが走ってくる音が近づいてきた。といってもこの研究所内で、あんな軽やかな足音を立てるのは一人だけと誰もがわかっていたが。
案の定、入口から中を覗き込んだ足音の主は、野球帽の下の大きな目を輝かせて、
「いた!」
叫んで、駆け寄ってきた。
「なんだ、元気か。どうしたんだ、びっしょり汗かいて」
「それにあんまり顔色がよくねーな」
肉の奪取と死守に懸命になりながら、二人が尋ねる。元気と呼ばれた少年は、側まで来てから急にもじもじとうつむいた。そのため余計に顔色が悪く見える。
「夏バテか?ちゃんと肉食わないと駄目だぞう」
「お前は食い過ぎだ」
竜馬が腕を振り回した。こぼされないように食器を二人からやや離して、隼人が元気の様子を観察しながら、
「どうした」
「うん…あの…」
まだ少しもじもじしていたが、そんなヒマはないことを思い出したのか、急に顔を上げて、
「お願い!手伝って、ハヤトさん!」
悲鳴のような声を上げた。
「手伝う?なにを」
「ハヤトが手伝って何するんだ、元気」
名指しされなかった方の二人がやかましく聞いてよこす。隼人はちらと時計を見、
「どのくらい残ってるんだ」
元気はびっくりして目を見開き、
「算数がかなり…あと社会も…でもなんでわかったの?」
相手の質問に答えてから、自分の疑問を口にした。隼人は片頬に微笑をみせて、
「今日は8月31日だからな」
あ、そうか、とつぶやいて、元気は泣きそうな顔で笑い出した。複雑な心中である。まださっぱりわかっていない二人は顔を見合わせ、
「…?」
「さあ」
言いながら肉を取り合い、取り合いながら尋ねる。
「よお、何の話だよ。教えろ」
元気は人の目をはばかっているのか、小声でぼそぼそと答える。
「しゅくだい…」
「え?」
「宿題。夏休みの。まだ、全然終わんないんだ」
「ああ…夏休みの宿題を、手伝ってくれって言いに来たのか」
武蔵が遠慮のないでかい声で言った。近くにいた数人がこちらを振り向き、元気はしぃっと人差し指を口の前で立てた。
「大きな声で言わないでよムサシさん!」
「ああ、悪い悪い」
そう言いながらもでかい声でなんだ宿題か、そうかさっぱり終わらないのか、そうか宿題か、とでかい声で言い続ける。元気はげっそりと半眼になった。
「それにしてもお前、もうちっと早めに言えば良かったんじゃねえのか」
なんとか守った肉を慌てて噛み締めながら竜馬が言う。
「だってお父さんが絶対自分でやれって怒るんだもん。だから寝ないでずうっと頑張ってたんだけどやっぱり終わらないんだもん」
ここ数日の悪戦苦闘が蘇ってきたのか、うっすら涙ぐんでいる。顔色が悪いのは、目の前に迫った締切りのプレッシャーならびに寝不足もあったらしい。
「ははぁ、あのじじいならそう言うかも知れねえな。なんだ、じじいに内緒でこっそり頼みに来たのか。ばれたらゲンコか?」
まさか、と元気は首を振った。
「ばれたらそんなもんじゃ済まないよ。今日はお父さん学会があるとかで長崎の方に行ったんだ、ついさっき。だから今日しかないんだ、本当に」
竜馬は隼人の顔を見た。そうだ、というように隼人はうなずいた。
「へえ」
「長崎って何が名物だっけなあ。お土産は食えるものがいいな」
「そうだな。変に木彫りの熊とか買ってこられるとがっくりくるよな。あれは北海道か」
どうでもいいことで意見の一致をみている二人に、気の違いそうな思いで、
「それどころじゃないんだってば」
元気がわめいた時、後ろから、
「元気!」
父親と同じくらいの威厳をみなぎらせて、その声は元気の襟首をつまんでもちあげた。猫のように背を丸めながら、よろよろと振り向いて、
「お…おねえ…ちゃん」
「お父さんが出かけたからって、やっぱりハヤトくんにすがりに来たわね!」
よく通る声で弟を叱っているのは、すらりとした肢体をミニスカートに包んだ、快活な印象の娘だった。きれいな眉が怒りのためカーヴを描いている。怒っていても、いや怒っているが故の魅力のある顔だ。「怒った顔も可愛いよ」というアレだ。
惜しげもなくさらしている日に焼けた腕を組んで、弟を見下ろす。仁王立ちだ。弟は上目遣いでぼそぼそと言い訳する。
「だ、だって、こんなにあるんだもん…とても終わらないよ…」
「だから、最初からちゃんと予定を立てて、毎日朝の涼しいうちに少しずつやれって言ったでしょ!」
「だってぇ、…気がついたらもうこんな日付になってて…」
「だってだってって言わないの!」
姉の剣幕に恐れをなしたのか、三人の男も周囲の所員も何も言わない。元気にとってははなはだ頼りにならない大人ばっかりだ。
「だってぇ…終わらないものは終わらないよう。あーんあーん」
とうとう泣き出した。あーあ、という調子で、にやにやして竜馬が、
「泣かした、ミチルさん」
「なによ。ハヤトくんには頼らないって約束だったのよ。破ったこの子が悪いんだから」
慌ててミチルが言い訳をする。急に子供っぽくなった娘に皆笑った。
「ちょっと、元気、泣かないのよ!私がいじめて泣かせてるみたいじゃない」
「えー、違うんですか?」
笑いながら武蔵も茶々を入れる。ムサシくん!とミチルは一応怒ったが、相手はでれでれ〜と喜んだだけだった。
「ちょっと、みんな、もう〜」
ため息をついた姉が譲歩の方向に流れているのを感じ取り、涙を拭う手の隙間から彼女の表情を見てとっていた弟は、ここぞとばかり前に出て、
「お願いおねえちゃん!これからはちゃんと言いつけ守るから!マンガも貸してあげる!トイレの順番も代わってあげる!」
「ちょ、ちょっと、やめてよ!んもう、しょうがないわねえ。…ハヤトくん、ごめんなさい。今日は演習もないし、ちょっとだけでいいから手伝ってやってくれる?」
「ああ。いいですよ」
微笑して隼人が言った。わーいやったーと元気は飛び跳ね、ミチルはもう一度ごめんなさいね、と言ってから、
「この埋め合わせはちゃんとするから。ね」
にこりと笑った。その笑顔に残りの二人がやおら立ち上がって、
「なんだなんだ、埋め合わせって!あやしいぞ!」
「俺もっ!俺も手伝いますから、ミチルさんっ!」
「え?ムサシくんも手伝うの?…何を…」
はなから考えてなかったと言わんばかりの口調に武蔵が無念の涙を浮かべた。ひどいですよ!あ、あら、ごめんなさい、とやっている二人を置いて、
「どれ。じゃあ俺はすうがく…いや算数をばーっとやる。どれだ」
「うん、これ。ほとんどやってないんだけど」
打ち合わせをしている方の二人の間に顔をつっこんで、竜馬が、
「おい。俺も手伝ってやろうじゃねえか。何かやらせろ」
ほとんどいやがらせに近い援助の押し売りだが、元気はさすがにイヤな顔も出来ず、ひきつった笑顔で困惑している。どうしよう。確かに猫の手も借りたい有り様だが、キ○ガイ空手家の手は何に借りたらいいのか。あまり、正確さや緻密さの要らないなにか…
「そうだ!」
明るい声で、え日記、と書かれた妙にでかい版のスケッチブックのようなものを、山と積まれた学習帳の下から取り出して、竜馬に手渡した。
「これか?」
「うん!僕は最初の方ちょっと描いただけなんだ。何でもいいからさ、描いてよ。全部で7日くらい描いてくれればいいから」
早口でまくしたて、色鉛筆とクレヨンと水彩絵の具の入った布袋(下の方にさおとめ・げんきと平仮名で書いてある字が大分薄れているので、ずっと昔から使っているものだとわかる)を手渡し、頼むねリョウさん、と言った。竜馬は目をぱちぱちさせていたが、やがて一つ大きくうなずいて、よし!と力強く応えた。
「任せとけ!賞を取るような絵日記にしてやる!」
「し…賞はいいよ。とにかくお願い」
それでね、と隼人との会話に戻ろうとした時、元気ぃ!と妙に張り切ったもう一人が、
「リョウなんかより俺の方がずっと頼りになるぞ。何だ。何なりと言ってみろ」
がはははと笑う。後ろでやれやれと肩を落としているミチルの顔を見て、武蔵が気を取り直すまでなだめたりすかしたりしていたんだなと隼人は思った。
再び、欲しくもない援軍にかなり困った元気は、しばらく悩んでいたが、
「虫!なんでもいいから虫捕まえてきて!できればちょっと珍しいのがいいけど」
「なるべく珍しい方がいいんだろ?」
「え?うん、そりゃあできれば…」
どすっと音がした。武蔵が自分の胸を叩いたのだった。
「任せとけ!新種だ新種!世界初の標本つくってやる!」
がははは、と笑いながらのしのし出て行く。待ってろよう元気ー、見てて下さいミチルさん。こう見えても俺は虫を捕らせたら世界一…
ふと見ると、竜馬も、意味不明の笑みを浮かべて、道具一式を抱え出て行くところだった。
なにかしら、不吉な思いが元気の胸をかすめた。
しかし、今日は8月31日なのだという事実の前に、そんな懸念はすぐに消えてしまった。
隼人はいくつかある会議室のひとつで、作業にとりかかった。彼にとって元気の宿題は「考える」「思い出す」といったプロセスを必要としないので、まさしく「作業」と言うほかはなかった。『算数』と書かれた、青を基調とした幾何学模様が書いてある冊子の3ページ目(1ページ目と、2ページ目だけ元気がやっていた)を開くと、一回だけ息をついて、空欄を埋め始めた。
隼人の向かいに座って漢字の書き取りをしていた元気がふと顔を上げて、相手の手の動きをしばらく見ていたが、
「ハヤトさん、算数やってくれてるんだよね」
「そうだ」
「なんか、全然止まらないで書いてるけど」
隼人はにやりと笑って、
「リョウじゃあるまいし、適当に数字入れとけなんて事はしていない。安心しろ」
「べ、別に疑ってるんじゃないよ。あんまり早いから」
「早いに越したことはないだろう?残り時間は限られてる」
「うん」
その言葉で我に返り慌てて漢字の書き取りに戻った。
しばらく、かりかりという筆記用具の音が部屋に響いていたが、次に口を開いたのはやはり元気だった。
「お父さんが急に帰ってくるなんてこと、ないかな」
「ないだろう。ちょっとそこまで、って距離じゃない。戻ってくるのは明日だろう?大丈夫だ」
「そうかなあ」
「万一帰ってきたら急いで教えてくれるように下の連中にも言ってある。心配してないで漢字を書け」
「書いてるよ」
機械の機、という字を延々書いている元気は、はあとため息をついて、
「だんだん、字が模様に見えて来たよ。もしお父さんが帰ってきたら、僕は全部ここのを持って自分の部屋に飛んで行くね。ハヤトさんはどうするの」
「会議室で昼寝してたとでも言うさ」
「不自然だよ。リョウさんやムサシさんならともかく」
「そうか?…じゃあ、詩でも書いていたと言うか」
元気は目を剥いた。
「もっと不自然だよ」
隼人は低く笑ったが、その間も手は止まっていない。それを見て再び元気は機の字にとりかかった。
それからはある程度の沈黙があったが、隼人が十数回目にぺらとページをめくった時、
「おしっこしてくるね」
元気がぽんと椅子から降りた。
「それからなんか飲み物もってくるよ。ハヤトさん何がいい?コーラ?」
コーラ好きな元気に首を振って、
「ただの水でいい」
「ああ、ポルピックね。あ、今は八甲の美味しい水だったかな。この前おねえちゃんが安くなってたって山ほど買ったんだ。2リットルで168円だって。安い?」
「安いな」
ふーんと言いながら元気は出ていった。
この前というのは多分ヨーカペニマロが真夏のザ・セールをやってるわ!とチラシを振り回していた時のことだな、と頭のかたすみで思いながら、すれ違って5秒経った時の電車の距離を暗算し、あの時はムサシが同行すると言っていたから多分クマが持つより沢山かついで来たんだろう、と続けて相づちをうち、『520m』と書き込んだ。その時、
「進んでるかあ」
突然後ろから声をかけられ、正直吃驚した。振り向くと竜馬がいて、隼人の手元をのぞきこんでいる。
しかし、俺に気付かれずにこんな近くまで寄ってこられるというのは全く、しかもこいつは気配を隠そうなんて思ってもいないのに、と内心首を傾げながら、
「まあまあだ。お前は」
「俺はもちろんバッチリだ。完成したら元気のやつ泣いて喜ぶぜ」
得意げに反り返るTシャツの前が色々な色をくっつけている。描いた部分に覆い被さって描いたので、色が移ったのだろう。
「何やってんだ?算数…ドリル?ははあ、ドリルだからお前がやってんのか」
アホらしい。隼人は苦笑とため息の混ざったような声で、
「ビーム、とは書いてないが、お前と交代してもいいぜ」
「え。ああ、いい」
母音の発音ばかり並べてから、
「俺は絵日記を頼まれたんだ。頼まれたものに関してちゃんと責任を持たねえとな。ああそうだ、絵日記の表紙にビームって書いてあったぜ」
嘘をつけ、と思ったが隼人はあえて口にはせず、にやにや笑って、汚くなった相手の服と顔を眺めた。顔にも色がついている。
「にしても、なんだか小難しいことやってんだなあ最近の小学生は」
「この程度なら昔からやっていただろう」
「そうか?」
算数ドリルをさらうと、ぱらぱら、と眺めた。『こんなのやったっけ』の世界が果てしなく続いている。
随分な量をやらなきゃいけないんだなあ、と竜馬は思った。それに、算数だけではない。他の教科もあって、自分が描いている絵日記もあって、武蔵がやっている虫捕りもあって、多分他にもあるのだろう。休んでる暇なんかあるんだろうか。
自分の時はどうだったのだろうとふと思ったが、考えてみるまでもなく夏休みの宿題なんか一回もやったことはなかった。それが、「昔の子供はのびのびしていた」という話と、「流竜馬は昔からこうだった」という話のどちらを導き出す逸話であるか、本人にはわからなかった。
わかっているらしい男が、竜馬の手から算数ドリルを取り返して、
「どうせお前は夏休みの宿題なんか提出しなかったんだろ」
「馬鹿にするな!ちゃんと、…そうだ。アサガオの観察記録を」
「あーっ!」
突然響き渡った悲鳴に二人はドアの方を見た。元気が、コーラと、八甲の美味しい水のペットボトル(それは元気の手には少々あまる大きさだった)を持って、呆然と立っていた。
「ど、どうしたんだ?」
竜馬は聞いたが、隼人はすでに悲鳴の意味を察知していた。
「忘れてたのか?それも」
「…うん…」
途方に暮れて突っ立っている。
「アサガオか?観察するのは」
「…うん…」
「適当に描いてやる。水をくれ」
「…ごめん…」
しおれながら側に来てペットボトルをよこした。受け取ってから、まだ呆然としている相手の手にコップがないのを見て、(これをラッパ飲みするのか)と思った。と、竜馬がそれを奪い取って、ぱきっと音を立ててキャップを開けると、ごっごっごと飲んで、
「しかし、何もやってねえお前にも呆れるけど」
自分のことは棚に上げてそう言い、続きを飲み、
「すげえ量だな。同情するぜ。来年はもっと多いのか?」
「そんなことわからないよ」
深々とため息をつく。来年のことなんか考える余裕も暇も無い。
「ま、とりあえずは今年の件を何とかするのが先だな。じゃあな先生、お互い頑張ろうぜ」
そう言い残して、隼人のために持って来られた筈の水を持って、そのまま出て行ってしまった。
「リョウさん、何しにきたの?」
「さあな。息抜きと、冷やかしと、ってところじゃないのか」
「手伝ってもらってるんだから、怒る訳にはいかないよね」
既に怒っている言い方に隼人はちょっと笑った。
コチコチ言い続ける時計と、同じ速度で、隼人はどんどん終わった分の冊子を積み上げていった。
算数が終わり、国語が終わり、理科が終わり、社会が終わった。さて次は、と思って元気を見ると、作文用紙を広げたまま、口からはヨダレがたれ、手の中でシャープペンがワルツを踊っている。元気より勤勉な時計を見ると、もう夜と言っていい時間だ。窓の外は、夏とは言えかなり暗くなっている。
肩を叩いて、声をかけた。
「元気」
びくっとして目を開ける。
「えっ?なに?もう朝?」
慌てて左右を見回している。ヨダレをすすって、目をこすろうとし、シャープペンのオシリで目を突き、あうっと叫んだ。
「違う。終わった。次はなんだ」
「え…もう終わったの?ふわぁ…すごいや。ええとあとは、ああそうだ。さっき言ってたアサガオのかんさつきろく…」
バツが悪いのか小声になっていく。今更遠慮しているヒマはないだろうに、と少し呆れてから、
「どれに描くんだ」
「これ。あ、色塗りの道具はリョウさんが使ってる」
「さっきから大分経ったし、いくらなんでももう終わってるだろう。取ってくる」
隼人は廊下に出た。いつになくしーんとしている。別に、皆が早乙女が帰ってきたらすぐわかるようにしておこう…と思っている訳ではないのだろうが。
そういえば竜馬がどこで描いているのか知らなかったことに気づいたが、どうせ自室だろうとふんで行ってみると、ドアが開きっぱなしになっている。覗くと、案の定いた。いつもは隼人一人が使っている机にとりついて、がしゃがしゃやっている。
(まだ終わらないのか。こんなに経ったのに)
こちらでも少々呆れた、その時、
「うぉー!終わったー!終わったぜー!」
雄叫びを上げ、ぬおおおおおと伸びをして、それから背後に立っている隼人に気づき、
「うぉっ!なんだお前!見るな!」
慌てて隠した。
「何故隠す。傑作じゃなかったのか」
「いや、別に見せてもいいけどよ。まずは元気が見てからだ」
とは言ったが、どうせ隼人に見せたら何かバカにされると思ったからだった。
「それにしてもお前、随分かかったな。たかだか数ページの…」
言いかけて、ちらっと見えた絵日記帳が、最後のページを開いているのに気づき、
「…ひょっとして一冊まるまる描いたのか?」
「ああ。そうだ」
ふん、と腕組みして威張る。
「俺はやる時にはやるんだ。数ページなんてけちくさい事言ってられっか。びっちり描いてやったぜ。こいつを見りゃ元気の先生も感心して、5をくれるだろうぜ」
今は五段階評価じゃない筈だ、と思ったが口にはしなかった。それにしても、凝り性な男だ、と隼人は思った。
「とりあえず、絵日記も終わった組の仲間入りだな。色を塗る道具一式くれ。使うから」
「ああ」
色鉛筆やらなにやら受け取って部屋を出ると、竜馬も一緒に来て、
「そういや、ムサシのやつ帰ってきたのか?」
「え」
言われるまで、忘れていた。
「まだ戻ってないと思うが」
「おい。ちょっと遅すぎやしないか。虫捕りに何時間かかってんだよ」
お前の日記だって同じだろうと思ったが、確かに遅い。
「リョウ、お前ちょっと見てきてやれ。なにかあったのかも知れん」
「ちぇっ。なんで俺が」
とは言ったが、やはり自分から言い出したことだし、結局は了解して出て行った。
隼人が会議室に戻ると、元気は、今度は頑張って作文を書いていた。色塗り道具を並べ、アサガオの絵が描いてあるノートの一ページ目を開きながら、
「何の作文なんだ」
「読書感想文だよ。課題図書じゃなくて助かったよ」
言いながら、ちょっと天井を見て、続きを書き始め、
「もう新しい本読んで書くヒマないからね。去年読んだ本思い出して書いてるんだ」
「一年前の読書感想文か」
「まあ、読書した感想の文には変わらないから、いいじゃない」
そうだな、と気のない相槌をうちながら、アサガオの成長速度がどのくらいだったか、ちょっと考えてから鉛筆を取った。
「ムサシー、どこだー。何やってんだー。う、蚊が口に」
ぺっぺっと蚊を吐き出しながら、竜馬は懐中電灯を左右に散らして、研究所の裏山をがさがさ上がって行った。
辺りはカナカナカナカナという騒音が満ち満ちている。が、ふと気を逸らすと音そのものが聴こえなくなる種類の音だ。
「おーい、ムサシー」
竜馬が膝と胸で藪をかきわけ、ぐいと小高い場所に出て、後ろを振り返ると、早乙女研究所が思いのほか眼下に見えた。
「結構来ちまったな。あいつどこまで行ったんだ?」
でこぼこした地面に足をとられながら、何度目かに武蔵を呼ぼうとした時だった。
薄闇の向こうから、何か巨大な影が襲い掛かってきた。
「うわ!」
咄嗟に身をかわして、反射的に蹴りを入れようとしたが、『それ』はまるで重さがないかのように、ふわりと竜馬の足を避け、闇に消えた。
「…なんだ?今のは」
と、彼方から、何かの音が近づいてくる。はっとして顔をそっちにむけ、威嚇の叫びをあげようとした時、
背後から伸びた手が、竜馬の口を塞いだ。
「!!」
もがきながら、背後をなんとか見ようとし、それから近づいてくる音の方を見ようと努力するが、背後の人物はコツでも心得えているのか、竜馬をしてもふりほどけない。音はぐんぐん近づいてくる。やがて、黒々とした森の中、更に濃いシルエットが、向こうからやってくるのが見えた。音が更に大きくなってきた。
背後の人間がぽいと何かを放った。白くて四角いそれはごろごろと転がって、落ち着いた。巨大な影は、それの方に方向転換して、近づいていく。
何だあれは、と思った耳元に、
「来い」
聞きなれた声がした。手が外れたので竜馬は振り返って、そこに武蔵の顔を見た。
喋ろうとするのを制して、親指でこっちだと示す。大人しくついていくと、もう少し行ったところに蚊帳がつってあった。二人はごそごそ入り込んで、
「おい、一体何だ、あのでかいの」
「俺だってよくわかんねえけど」
ぼりぼりと腕や首筋を掻いているのを見ると、随分あちこち蚊にくわれている。顔なんかボコボコだ。
「山に入って歩き回ってるうちに俺も襲われた。アレ、虫だな」
「なに?」
「ムシだよ。なんでか知らないけど巨大なんだ。さっき近づいて来たのは蚊だな。俺も結構アタリがつくようになったぜ。随分遭ったからな」
こんな時だと言うのにへへんと威張っている丸い、ややでこぼこの顔に、
「蚊」
呟く竜馬はまだ半分、といった顔だ。
「知ってるか。蚊ってのは人の息に含まれる、えーと、一酸化炭素だっけ。に寄ってくるんだぜ」
「一酸化炭素って、中毒になって死ぬやつじゃないのか」
「あれ、そうだっけ。じゃあ二酸化炭素かな。三酸化炭素かな?四酸化…」
「言いづれぇな。そんなに種類あったか?」
「知らねえよ、バカ。とにかく、ドライアイスはそれを出してるんだ。だから奴をひきつけるために投げたって訳さ」
再び得意そうになる。ドライアイスが一酸化炭素を噴き出していたら、危なくてサーティーワンでテイクアウトできないのだが。
「なんでそんなもん持ってたんだ?」
「ミチルさんが弁当つくってくれたんだけどよ。食後にどうぞってアイスクリーム持たせてくれたんだ。気がきくなあ、ミチルのやつ」
勝手に呼び捨てにしてぐふふふと笑っている。竜馬はそのことには取り合わず、
「さっき、やたらでっかい(このくらいあった、と手で示した)のがふらふら顔の前にきて、思わず蹴ろうとしたけど手ごたえがなかったんだ」
「ふーん。蝶か、蛾かな」
「なんだよ、蚊も蝶も関係なくでかくなってんのか」
「らしいな。気がつかなかったか。この辺に来てやたらセミがうるさくなったろう。あれは一匹あたりがでっかくなったからなんだ」
「原因はなんだ。まさか恐竜帝国が」
「だから知らないって。案外、ゲッター線がもれててそいつにやられたとかじゃねえのか。あぶねえなあ」
武蔵はげたげた笑ったが、竜馬は複雑な顔で黙った。ありそうなことだと思ったからだった。
「とにかく、そっと戻ろうぜ。山の中の虫全部相手にしてられねえや」
「待てよ」
武蔵の目がきらんと光っている。
「下りる前に一匹捕まえようぜ。これなら夏休みの宿題には立派すぎるくらい立派だ」
「何言ってんだ、お前」
さすがの竜馬も呆れた。
「あんなでかい蚊に血吸われてみろ。たちまちミイラにされるぞ。蚊もいて蝶もいるんならハエだっているぞ。あいつらどうやってエサ食うか知ってんのか?相手をドロドロに溶かしてちゅーちゅー吸うんだぞ。お前、肉ジュースにされて吸われたいのかよ。その上卵産みつけられたらどうなると思ってんだ」
そう言った直後、うわ、と言ってうつむいた。
「想像しちまった」
「何一人で遊んでるんだ?」
武蔵が呆れてから、
「何でもいい。一匹は絶対捕まえるぞ。元気と約束したからな。それにミチルさんだって『あなたならやれるわ。頑張ってねムサシ君。虫を捕りに行く男の人ってステキ』って言ってたんだしよううう」
「それはその、あれだろう。お前の妄想か、でなければええと、しゃ、しゃこう、射光式…」
「土偶か?」
「違うと思う」
ここに隼人がいれば、「社交辞令だろう」と言ってくれてそこで終わるのだが、生憎この二人では正解は出なかった。
「とにかくよ、俺は捕る。怖いんならお前帰れ」
「待て」
地を這う低い声がして、見ると、竜馬の顔は真っ黒に塗りつぶされていて、目だけが透過光処理で光っている。部屋を明るくして、離れて見なければならない顔だ。
「怖いだと?ふざけるな!この流竜馬に怖いものなんかねえ!」
泣く子も黙ってひきつけをおこしそうな顔と声だったが、武蔵はケロリと、
「だったら手伝えよ」
「お、おう」
ゲッターチームの仲間にすごんでも無駄だった。竜馬は顔を元に戻して、
「種類は何でもいいんだろ。簡単そうなのを何か捕まえようぜ」
「見た目が派手なのがいいな。カブトムシとか、あの大きさだったらすげえぞう。元気くらい乗せて這うかもな。明日はそれに乗って登校すればいいかも」
「カブトムシが採れるのは朝早くだろう」
「ちぇっ。まあいいや、リョウ、お前それ持ってちょっとその辺うろうろしてくれ」
それ、と言われたものを見て、竜馬はげっという顔になった。懐中電灯だった。
「大丈夫だ。蚊が寄ってくる前に一匹捕まえるから。さっさと行け」
「やっぱり、ムサシを探しに来るんじゃなかったぜ」
ぼやきながら、蚊帳を出ると、懐中電灯をつけて、その辺を歩き始めた。
ものの三十秒と経たないうちに、わっさわっさと巨大な羽のある虫が何匹も近づいてきた。
「蛾だ」
「ちょっと待て。やっぱり地味だなあ」
「贅沢いわねえで、捕れ!」
わめいているうちに蛾はわあーっと寄って来た。鱗粉がぼっさぼっさ降って来て、気持ち悪いことこの上ない。
「わっ口に入った、気持ちわりー!バカ野郎ムサシこの、早く捕れ!」
「色が悪いよなあ。茶色っていうか灰色っていうか一色で」
しかし、身の安全を確保しながら手っ取り早く捕まえようというのならこれくらいしかいないだろう。武蔵は今ひとつの顔のまま、一番大きいゴミ袋を取り出すと、口を大きく開けて、
「リョウ、こっちこーい」
妖怪のようなことを言った。返事をしようとした時、巨大な蛾はぺたりと竜馬の顔にへばりついた。
「ぎゃっ」
さすがに悲鳴を上げて、竜馬は思わず走り出した。
「そっちじゃねえぞ。こっち…」
目が見えなくなった竜馬は、どーんとばかりに近くにあった木に体当たりした。上から、腕ほどもある毛虫が降ってくる。
「わ、でっかい。よくアフリカの方で芋虫蒸し焼きにして食うけど、このくらいあったら喰い応えあるよな」
「この状況で、言うことはそれだけか」
脳震盪をおこして地面にへたりこみながら、竜馬が怒鳴った。その声を凌駕して、禍々しい騒音が、どこかから聞こえてきた。
思わず二人とも黙る。
(この音は…)
「蚊だーーーーー!」
「違う!ブヨだー!」
なんでもいいのだが、細い体に白と黒の縞々模様の彼女らが、二人を産卵のための栄養補給に使おうと決めたらしくどっと襲いかかってきた。二人とも脱兎のごとく走り出す。
「ムサシ、得意のアレ、投げろ!ドライアイス!早く!」
「おう!あれ?…もう無かった」
「なんで!」竜馬の声は引きつっている。
「いやあ、実は大分、お湯に入れてジュディ・オングごっこして使っちまったんだよな。みなみ〜にむい〜てるま〜どをあっけ〜」
「この…バカー!デブー!わあああ」
二人はぎゃーぎゃーわめきながら、もはや真っ暗な山道をイノシシのように駆け下りた。音がすぐ後ろに迫っている。堪えきれずに武蔵が振り返って、そこによく百科辞典の『昆虫』のページで見るようなムシのアップが、そのまま原寸で存在しているのを見た。
(俺O型だからなあ。蚊ってO型を美味しく感じるって言ってたな。美味しいのかなホントに)
一瞬、そんなことを思ってから、
「ぎゃーっ」
飛び上がって、前にいた竜馬に激突する。急な坂に居たので踏みとどまれず、二人はつんのめって、ごろんごろんごろんごろんごろんと転がった。転がり続けた。
どさん!どすん!「ぐえっ」という音と声の後、ようやく止まった。だが…
音は、なおもしつこく、迫ってくる。
「ムサシ、立て!逃げろ!」
「もう駄目だ。動けない。お前だけでも逃げてくれ。ああ、感動的なシーンだなあ。俺ってかっこいい」
「お前が上に乗ってると俺が逃げられないんだ!」
確かに、武蔵は竜馬の上に乗っかってあえいでいた。
わぁーん、という音が降って来た。二人揃って絶叫した時だった。
ぱう、というような妙に間の抜けた音の後、目も眩むような紅蓮の炎が、突如として二人の頭上を舐めた。炎は一瞬にして数十メートル先まで伸びて、数秒の後消えた。
二人とも声も出ず、ぼとぼと降って来る黒焦げの巨大虫の姿を見ている。それからややゆっくり、頭をめぐらせた。
研究所のすぐ側まで落っこちてきたらしい。窓がいくつか開いて、皆が顔を突き出してこっちを見ている。
そして、一番近くにいた汚い白衣の男が、ガニマタで近づいてくる。でこぼこのハゲ頭にほやほやした毛を生やし、重力の実験が失敗したんですかというような顔をしている初老の男だった。手に、一見ただの銃を持っている。
「生きとるかー、二人とも」
「敷島博士」
「助かったぜ。ありが…」
「残念じゃな。せっかくわしの試作品の実験台になれたのに」
ニタニタ笑って言い、くるりと背を向けて、やはりガニマタで歩み去っていく。その後ろ姿を見送りながら、
「そういや一番端って、敷島博士の研究棟だったな。…なあ、リョウ、俺今ひとつ思いついたことがあるんだけど」
「うん、俺もだ。…多分、同じことだと思うぜ」
「こいつらの出どころだろ?」
巨大な虫の死骸を指して言うと、竜馬はうなずいた。
「あーあ、一匹も捕まえてねえのに、どうしよう」
「この際だから、一番燃えてないやつ標本にしろよ。縞模様だし派手だし、文句ねえだろ」
竜馬は疲れきった声を上げた。
二人はよろよろ食堂まで戻ってきて、へたばった。隼人が入ってきて、茶を一杯飲んでから、
「何があったんだ?」
「虫を捕ってきたんだよ」
言ってみればそれだけだった。
「元気は?」
「机の上で寝ちまった」
「他のは終わったのか?」
「ああ」
「そうか」
長々とため息をつき、「夏休みの宿題てのは大変だな」
実感のこもった声をしぼった。
これだけ苦労したのに、翌日三人と元気は早乙女の前に並ばされていた。
「あれほど言ったのに手伝わせたのか!お前たちもだ!訓練もしないで元気の宿題で一日つぶしおって!」
「ごめんなさい。ごめんなさい。わーんわぁーん」
しこたまシリを叩かれて、元気はわんわん泣いている。三人ともそれぞれの方向を見て、かゆくもないのにどこか掻いている。
「で、でもよ、なんでバレたんだ?」
竜馬がへどもど尋ねる。早乙女は苦々しい顔で、
「絵日記を描いたのはお前だろう、リョウ」
「げっ。そ…それは…でも」
「本当にばれないと思ったのか?」
隼人は手を伸ばし、机の上に置いてある絵日記を取って、中を見た。
最初の数ページは、元気がプールに行って泳いでいる絵とか、ゲッターの格納庫で走っている絵が稚拙な筆遣いで描いてあった。だが、途中から、
「………」
7月29日 メカザウルスがせめてきたので出動した。こんなやつゲッター1で一発だ。形もわからないくらいにしてやった。ザマーミロ。
そして、稚拙という言い方なら元気より稚拙な、ひたすら力強い線で(力強すぎて筆の毛が何本かくっついている)ゲッター1らしい赤いカタマリが、腹からメガホンのようなものを出している絵が描いてあった。
…これは、多分、ゲッタービームなんだろうな。
隼人は理性的にそう判断した。
8月3日 メカザウルスがせめてきたので出動した。スピード勝負だぜ、とハヤトが言うのでゲッター2で戦った。出動寸前にメシを喰ったので振り回されてちょっとむかむかした。
赤いパンタロンをはき、傘をさした白いロボットが、走っているらしい。流線が沢山書いてある。そこまできて、これは傘じゃなくてドリルなのだとわかった。
次のページにはポストが卒塔婆を背にさして座禅を組んでいるような絵が描いてあった。多分ゲッター3だろう。卒塔婆は…なんだろう。…オーラか?
次々とページをめくっていったが、全編その調子だった。
ふと見ると、竜馬が、不安そうで誇らしげな、複雑な表情で自分を見ていた。
「どうだ?」
何と答えたものか、数秒逡巡してから、敢えて『出来』に関しては触れず、
「リョウ、これは元気の絵日記だろう。お前の夏の思い出を書いてどうするんだ」
「あっ…そうか!しまった」
素直に動転している。隼人の体から力が抜けそうになった。そこに、
「アサガオの観察記録と、おそらく大部分の宿題帳はハヤトだな」
ズバリ言われて、うっとつまる。宿題帳はともかく、アサガオはどうしてバレたんだろう?俺はリョウとは違う、筆跡だってちゃんと元気に似せたし、『やっとアサガオが咲きました。朝日にかがやいてとてもきれいです。』と書いた日が快晴だったということさえ事前に調べてから書いたのだ。どこに漏れがあったのか。
隼人は考えたがどうしてもわからなかった。そんなことはめったにないので、こんなしょうもないことだというのにかなり彼は動揺した。最後に諦めて、
「どうして俺だとわかったんです」
「気になるか」
「ええ、まあ」笑うような早乙女の言い方にじりじりする。
「簡単だ。聞いたら元気のやつ、アサガオの種をまくこと自体忘れておったんだ。ここにアサガオは存在せんのだよ」
隼人の顔が一瞬赤くなり、それから青くなる。迂闊だった。…それ以前に…蒔いてもいないとは。
元気がおそるおそる隼人を見ると、『ものすごい』顔になっている。元気はびびりまくってうつむいた。涙もひっこんだ。後で殺されるかも知れない。自分が悪いんだけど。
竜馬と武蔵は日ごろ滅多に見ない、『早乙女(というか、誰か)にへこまされている隼人』の図に、笑ったりからかったりしようかなと思ったが、なんだか放射線すら出ていそうな隼人の様子に、やめておくことにした。
「ムサシは」
早乙女は言いかけ、顔も体も虫さされだらけの相手の顔を見て、ちょっと黙ってから、
「もうこれからは、宿題は一人でやれ。わかったな。お前たちも手伝うな。まったく、ヒマな連中だ」
言い渡して出て行った。
入れ替わりに、
「おとうさまのお説教、終わった?」
ミチルが、飲み物を持って入ってきた。
「ごめんなさいね、ハヤト君、手伝ってって頼んだのは私と元気だって、何度も言ったんだけど」
「ごごご、ごごご、ごめんね…ごめんなさい、ハヤトさん」
「いや、別にいいさ」
女子供の前では紳士な男であった。元気は生き延びられるらしい喜びにため息をついたが、隼人の目がうずまきになっているのを見て、安心するのはまだ早いと思った。ミチルはもう一度ごめんなさいね、と言ってから、目を輝かせ、
「ムサシ君、あの標本すごいわ!新種よ、絶対。学会に発表したらって、お父様に言ったんだけど…駄目だって言い張るのよね。なんでかしら」
「それはやっぱり」
「なあ」
武蔵と竜馬が気まずそうに顔を見合わせ、今ようやく隼人が苦笑して言った。
「あれを発表したら、研究所が封鎖されることになるからだろう」
ミチルは訳がわからなくて、可愛い顔をかしげた。
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