晩秋の寒さが、肌に染み込むようなある日、呉はふと顔を上げて室内の所員たちの様子を見た。
皆、寒いですねえ寒いねえと言いながらも、精力的に動いている。
ふと、なんだか頭が重いと思う。ぎゅっとつぶると眼球が痛い。
風邪のひきはじめだろうか。いけない。五歳の子供じゃあるまいし、体温計をくわえて寝ていられる身分ではないのだ。寝込む訳にはいかない。
例によって生真面目に自分に言い聞かせる。この頃毎夜遅かったからだ。なんとかケリをつけて、今夜は少量の酒でものんで早めに寝てしまおう。
目を通していない報告書を手に取り、めくり始める。しかしエンジンがかからない。何度か、眉間を押さえる。しかし、頬杖をついて仕事をするなどということは、絶対したくない。
昨夜も遅かったからなあ…と幾度目かに目をぐりぐり、とやって、しかし、これにハンコをついたものを欲しがっている人間がいるのだから、と細い目を見開いて、かすむ書類に向き直った。
呉は、細い道の上を歩いている。
周囲は、見渡す限り鉛色の平原だ。地平まで、ずっと、ずっと続いている。山も谷も町も、視界を変化させるようなものは、360度何もない。その中にたった一本、白い骨のような色の道がまっすぐに引かれていて、その上を歩いているのだった。
空はこれまた死にたくなるような灰色で、雲の凹凸すらない、まるでセメントを一面に塗ったような曇天だ。もうすぐ日が暮れるらしい、遥か彼方の空(多分そちらが西方なのだろう)だけ、血を刷毛でなすった様な、火事の残り火のような赤さに染まっている。
ひどく寒い。
雪でも降りそうな程の寒さの中、随分前からこうして歩いているらしく、手も足も感覚がなくなっている。
見下ろすと、時折目に入る素足の部分が、紫色になっている。
思わず手を上げて、はあ、と息をはいた。その瞬間だけ、その空間だけ、ほんの僅か温まったが、すぐにそれ以上の冷たさが呉の両手を、まるで細い紐のようにかたくしばりあげて、満足に動かすことも出来なくなった。
私はどこへ行こうとしているのだろう。
この道の彼方に、私の目的地があるのだろうか?本当に?
目を上げて行く手を見ても、足元では平行な線が、地平のかなたで一点に収束しているという、遠近画法の見本に出てくるような…
現実にはあまり見ない風景が、無表情に広がっているだけだ。
振り返っても、行く先と全く同じ景色が、同じ量、同じ感覚で呉を見返している。
今はまだ、行く手に向かって右手に、日が落ちていくから、わかる。しかし、
完全に落日を迎えた後、
この場で、くるくると回転して、止まったら、どちらから来てどちらへ行こうとしているのか、私はたやすくわからなくなるだろうな、と思った。
唇が震えた。
寒さと、言い知れぬ恐怖で。
この先、どこまで行っても、この景色が変わらなかったら、
どうしたらいいのだろう。
立ち止まる。
引き返そうか?
まだ、自分がやってきた方向がわかっているうちに。…
だが、
本当に私は、今自分が背を向けている方から、来たのだろうか?
あの点になって見えるところから、ここまで、やって来たのか?
私は、
いつ、どうやって歩き始めたのだったか、覚えていない。
歩くしかないのだと思って…歩いているだけなのだ。そうだった。思い出した。
呉の顔に、意味の無い、笑みに似たひきつりが一瞬はしった。
私には、目的地などないのだった。
気がつくと、また歩いている。自分で自分の肘を掴み、のろのろと。
ちらと目を上げると、地平の彼方には、まだ不吉な茜色がかすれて残っている。
…さっきから、大して時間が経っていないということだろうか。
何時間も歩いた気がしているけれど。
それとも、あの落日は、未来永劫沈まないで、あの位置でじっとしているのだろうか?
要するに、私が、どっちの方向にどれだけ歩いても、何の変化もない、という象徴なのかも知れない。
何度目かに足元を見る。
紫色の素足、靴、その下の白い道、
その脇の鉛色の平原は、よく見ると、沼だった。
どっぷりと澱んで、底などうかがいしることもできないような、深く暗い淵だった。
底なし沼の上の道を、呉は歩いている。
地平まで続く、海よりも大きな底なし沼の上を、どこからか、どこへまでか、歩いている。
両手も体も足も、すっかり冷え切って、体温も感覚も失われた状態で、歩き続けている。
他に道がないので。
ただそれだけの理由で。
遥か後ろから、誰かがやってくる。
そう気づいた時から、振り返れなくなった。
はるかな遠くから、誰かが、走ってくる気配が、近づいてくる。
誰だろう?
私を殺しに来たのだろうか?
逃げようと思うのだが…足が動かない。寒くて、かじかんで、無理に動かすと転ぶか、折れてしまいそうだ。
左右に広がる鉛の海に落ちたら、どんなだろう、と思うと、恐怖で喉が塞がる。もがいてももがいても、鼻に口にどろどろしたつめたいかたまりが流れ込んできて、どんどん暗くなってゆく底の方へ引きずり込まれてゆくのだ。
足音が、はっきりと耳に入ってくる。
やめてくれ、か、いやだ、かよくわからない叫び声を上げて、懸命に足を動かし、もつれ、
倒れそうになる。灰色の沼の上に。底知れぬ陥穽の上に。
我を忘れ、助けを求めて、声をあげた時、
背後から、力強い腕が呉の体の下にすべりこんできて、落ちかかる呉の体をしっかりと支え、つかまえ、引き戻した。
えっ、と思った時、
背後の人物の胸に、抱きすくめられていた。
広い広い懐には、呉の体はすっぽりとおさまってしまう。両腕が呉の体を背後からしっかりと、身動きもできないほどきつくかたく抱きしめている。そして、
この腕を覚えている、と呉は思った。誰の腕かわからないのに、私はこの腕を知っている。…何を言っているのだろう?
呉の体を抱きしめている腕が、呉の体が押し付けられている胸が、最初はふと、温かい、と思った。それは加速度的に強まって、最後には、熱いほどの感覚が呉を支配し、思わずのけぞった。
がくんと目が開いた。目の前に、自分がチェックしていた書類がある。
全身はまだ、重苦しい恐怖の檻からのがれきれず、怯え、縮んでいる。けれども、
いつの間にかうたたねをしていたのであろう自分の肩に、背後からかけられている温かさに、何かの記憶を感じて、呉はゆっくりと顔を向け、それを見た。
見慣れた、濃紺の背広だった。
ふと、たちのぼる匂いに、呉のくちもとが緩んだ。
灰色の景色の中、最後に自分をつつみこんだのと同じものだった。
「ああ…これの、お陰ですか」
声に出して呟いて、それをそっと胸の前に持ってきて、たたもうとし、
何故だか発作的にそれを抱きしめて、泣き出した。
最後は賛否両論でございましょうが、悲しいだけの涙じゃないんだよということで、許されて〜
![]() |