アリスの電話


 昼過ぎから各支部の上層部を集め、会議が持たれた。年に数度という大きなものだったので、主催側の北京支部の面々は結構な緊張を強いられた。
 夕方には無事に閉会したが、その後来賓方を一流料亭までお連れしおもてなしする仕事が残っている。お偉いさん方は酒が入るとその地位にも似合わず豪快さんや暴れん坊になる方々が多く、いろいろな方面に気を配らなければならない。胃の痛むことであった。
 日付が変わる頃ようやく全てお開きとなり、幸いなことに死人を出すことなく終わった。怪我人は何人かでたようだが、この際それはもういい。
 「お疲れ様でした、呉先生」
 「お疲れさま」
 一緒になってあれこれセッティングした人間とねぎらい合いながら、呉は夜半過ぎの町を疲れた足取りで支部へと引き上げた。
 全く、あの人の酒乱っぷりには驚きましたよ。あ、見るのは初めてでしたか?ええ、もしかして毎回ああですか。うん、まあ、そうですね。ひえええ。
 「支部長は最後まで全く変わりませんでしたね。なんとなく予想してましたけど」
 そう言われて呉は微笑し、
 「長官は変わりません。どれほど飲んでも」
 「さすがは『静かなる中条』ですねえ」
 感心しきりの声を聞いていると、呉の胸には誇らしい気持ちと、くすぐったい喜びがこみあげてくる。
 他のお偉方(中には九大天王のメンバーも居た)に混ざって、左手にウィスキーの水割りのグラスをぶら下げながら右隣の人間と談笑していた。あまりに魅力的なその姿を、呉は遠く離れた席から無言で見つめていたものだった。
 「支部長が狼狽したり慌てたりすることってあるんですかねえ」
 他のひとりが、
 「呉先生、見たことあります?」
 「ありません」
 やっぱり、と言って皆納得している。
 「呉先生が見たことないんなら、『したことが無い』ってことですね」
 「そうですよ。支部長の一番近くに居るのは呉先生なんだから」
 その言葉に呉はまた照れて、ひどく嬉しくなり、それをがんばって噛み殺した。
 しかしどうしようもなく顔が熱くなっているのを感じる。夜の繁華街だから目立たないだろうが、多分もう真っ赤だ。酒に酔ったのだと言い張って通るだろうか。
 誰かが呉の顔を振り返る気配があって、慌てて何かに気をとられた振りをして後ろを見た。
 その時、
 視界の端に、違和感をおぼえた。えっと思いそっちを注視すると、何もない。しかし、やはり視界のはずれギリギリに、
 (女の子?)
 しっかり焦点を合わせて見ることが出来ないので曖昧だが、アンティーク人形のようなやけにデコラティブな格好をした、7・8才くらいの女の子の姿が見える。夜更けの繁華街で見かけるには、格好も年齢も、とにかく場違いだ。
 しかし、何故そっちを見ると位置がずれるのだ?まるで強い光を見た直後に目を瞑った、瞼の裏の闇に浮かび上がる残像のようだ。いくら追いかけてもしっかり見ることが出来ない。
 しかしどうやら、女の子は呉を見ているようだ。目が、こっちに向けられているのを感じる。そして、口元が笑った形になり、
 くすっ
 確かにその笑い声を聴いたと思った時、
 「呉先生、何キョロキョロしてるんですか」
 隣の人間にそう言われ、一回そっちを見て、
 「いや、こんな場所に小さな子が」
 言いながら振り返ったが、もう視界のどこにも女の子の姿はなくなっていた。
 「小さな子?」
 「ええ、まだ10才にならないくらいの子が居たように思ったんですが」
 「気のせいでしょう。でなきゃバニーちゃんの形のネオンを女の子と見間違えたとか」
 あはは、そうですよきっと、と言われて、そうかなと呟いて首をひねった。と、
 「あれ、君、どうしたのこんなところで」
 ずっと後ろの方でそんな声が聞こえ、呉はそっちを見た。幾人かの人間の向こうに、同じ支部の下っ端が、酔って赤い顔で、しゃがみこんで誰かに話しかけているようだ。
 だが話しかけられるべき場所には誰もいない。
 「フリルがいっぱいついた、かわいい服だね、ひっく。ママに買ってもらったの?」
 フリルのいっぱいついた。そうだ。上等のレースやリボンや、フリルが山ほどついた、そこら辺の子供が着ているようなものではなく、
 (さっきわたしが見た、あの子に話しかけているんだろうか)
 しかし側には誰もいない。
 しゃがんで喋っている男が、え?と目を見開いて、
 「あっはは、これは懐かしいなあ」
 呉はなんだか気になって、足を止め、男の方へ歩み寄ろうとした。
 しかし、呉とその下っ端の間に酔っぱらいの団体がどっと割って入り、視界を完全に遮った。団体は大声で笑い、号令をかけ、雄叫びをあげ、なにも聞こえない。
 焦って、酔っぱらいの集団をかき分けようとしたが、
 「おうおうなんだあ呉先生じゃないですか。ご苦労さんでしたなあわはははは」
 「よし、飲みなおしましょう呉先生。さっきまでは全然飲んだか食ったかもわかりゃしない」
 「ちょっと、あの、放し」
 「おいおい、そこ。呉先生がご迷惑そうだろう。やめやめ」
 「なんだと。偉そうに。ちょっと呉先生と一緒に何かやったと思っていばりやがって」
 「そうだそうだ」
 「酔っぱらいはひっこんでろ」
 「なにぃ」
 「ちょっと、君たち、静かにしてくれ」
 しかし聞くものではなく、そのまま喧嘩騒ぎになってしまい、下っ端の姿はそれきり見失ってしまった。

 翌日は各々寝不足や、あるいは二宿酔いのために重い頭を抱えて、それぞれの仕事場でどんよりした顔をしている。
 「議事録をまとめました」
 「うん、ありがとう」
 そんな中で変化のない二人が淡々と仕事をこなしていく。
 机についている中条が左手で眼鏡のつるを押し上げるのを、斜め上から見下ろし、胸の奥でほっと火をともすような気持ちになってから、その場を離れた。その後すぐ、
 「あ、呉先生」
 慌てた声をかけられる。今部屋に入ってきたのは昨夜も一緒に夜道を歩いた人間だった。
 「どうしました」
 「整備担当の男が、ここに来る途中で車の事故に遭って、病院に運ばれましたがダメだったそうです」
 「誰だって?」
 相手は名を言ったが呉にはわからなかった。
 「この男ですよ」
 更に後ろから入ってきた男が、何かの時の集合写真を出して、差し出し、指でひとりを示した。
 その男の顔を見て、一拍置き、呉の胸が
 (あっ)
 ひゅっと冷えた。
 それは確かに、目に見えない誰かに話しかけ、フリルがかわいいとか評していたあの下っ端だった。写真の中で、口を真一文字にむすび、はりきっている。
 「車の事故?」
 「ええ。運転していた人間は、こいつが突然車道に出てきたんだって言い張ってるそうですが」
 突然車道に。
 「その…彼の遺体はまだ病院だろうか」
 「ええ。管轄の警察が居ますし」
 「場所を教えてくれませんか。ちょっと、関係者に聞きたいことがある」
 「いいですけど」
 場所を聞いて、呉は病院へ行った。
 国際警察機構の身分証を出すと皆、すんなりとわかっていることを教えてくれたが、どうやら本当に彼が飛び出して車に轢かれたらしい。
 しかし、一番知りたい「何故、そんなことをしたのか」に関しては不明なままだった。
 「ひかれた男に、連れはいましたか?」
 「いえ、いなかったようですよ」
 「所持品は」
 「こちらです」
 身分証やライター、ペンにハンカチといったごく一般的なものがテーブルの上に並んでいる。それらに混じって、ひしゃげた紙コップがひとつあった。血が飛んでいる。
 紙コップ?
 もしや、誰かに、一服もられたのでは。
 「事故の直前に何か薬剤を服用した様子はありませんか」
 「いいえ、特に何も」
 あっさり否定された。コップの底にも、液体が入っていた痕跡はない。
 呉は結局なにも掴めずにもときた道を戻った。
 支部に戻り、エレベーターを待っているところで、
 「呉先生」
 中条だった。
 「これは長官」
 「事故に遭った男について、何かあったのか」
 「は、」
 「顔色が悪い」
 きみの、と手で示されて、頭を下げ、
 「つまらないことだとは思うのですが、…というより、何があるのか自分でも説明できないのです」
 「説明はできないが、何かがひっかかっているから、確かめたい、というところか」
 「はい」
 「わかった。気をつけてくれ」
 「ありがとうございます」
 もう一度ふかぶかと頭を下げる。上げた顔は、さっきよりも血の気がさしていた。
 とりあえず、あの男が見えない相手に向かって喋っていた辺りに行ってみた。昼間の歓楽街は夜のきらびやかさがウソのように消え失せ、ハゲた厚化粧をそのままにしてうたた寝している女のように見える。
 (この辺りだった)
 赤ら顔でしゃがんで熱心に話していた男の姿を瞼の裏に思い描いて、それから、
 そうか。ここは、わたしも視界の端に、女の子の像が映った場所だ。
 そのことに気がついてビクリとする。
 慌てて周囲を見回したが、カラスが一匹、ゴミバケツをあさっているだけだった。正直ほっとして、その場を後にした。

 その翌日、呉は空港に向かう車の中に居た。
 「大丈夫かな。時間がおしてるけど」
 「大丈夫ですよ必ず間に合うから」
 運転席の男は安請け合いしてがっはっはと笑っている。戴宗のようなタイプだ。
 本当に間に合うんだろうか、とやきもきしながらアタッシュケースを抱え直して、
 はっとする。
 今通り過ぎた場所に、あの女の子の姿があった。
 思わず窓ガラスに顔を押しつけて後方を見る。確かにあの子だ。こっちを見ている。
 「君、車を停めてくれ」
 「えっ。なんでですか」
 「いいから早く」
 急停止し、呉は外に飛び出した。
 「ちょっと呉先生!こんなところに車停めておけませんよ!呉先生!」
 運転手は悲鳴を上げた。早くもクラクションを鳴らされる。仕方なくのろのろと前進を始めた時、車の電話が鳴った。
 「ちょっといったい何なんだよ。もしもし!」
 その頃呉は、女の子の姿を見失わないように懸命に走っていた。女の子は今は、呉に背を向けて歩いている。
 その小さな背が近づいてくる。数メートルの距離で足を止め、
 「君」
 呼び止めたが反応はない。
 ためらったが、前に回り込んで、
 「ねえ、君、ちょっと」
 目の前の小さな顔がくっとあがって、バランスの悪い大きな目が呉を見た。目が合う。
 じいっと呉を見つめ、それからくくっと笑った。小さな、しかし確かな笑い声だった。
 追いかけていた子を前にして、一体何を尋ねればいいのか、呉は迷った。君に話しかけていたおじさんが事故死したけど、知ってる?と訊くのか。まさか。
 とにかく、何か話そうとして、
 「君の名前はなんて」
 「これ」
 女の子が口を開いた。
 呉が目を見開く。女の子が差し出しているものは、赤い糸でつながった、糸電話の片方だった。
 「あ…ああ。なつかしいな」
 言ってから、すぐ最近この言葉を聞いたことを思い出した。しかも、
 事故死した男の口から。
 凍り付いた呉の手に、女の子は片方の紙コップを押しつけた。
 紙コップ。
 (死んだ男の所持品にあった)
 じわじわと、自分の周囲の輪が閉じてくるような恐怖を感じて、呉は思わずあとじさりした。女の子はそれでいいというようにうなずきながら、自分も距離をとりはじめた。
 軽やかな足取りで呉から離れてゆきながら、
 「もっと離れて。そっちに」
 車道の方を声で指した。
 ダメだ、と思うのだが、足が後ろへ下がろうとする。自分で止められない。
 下がっていく力がどんどん強くなる。逆らえない。
 呉の見開いた目に、女の子の笑っている顔だけが映っている。大きな大きな目だ。
 その唇が開いて、
   これはしずまをつかっていないでんわよ
 しわがれた老人の声がした。
   あなたはしずまがきらいでしょう?
   これはよいでんわでしょう?
 「待って、くれ、」
 必死で訴える。しかし声はほとんど出なかった。
   さあ、おはなししましょうよ
 ずるっ。
 足がもつれながら下がってゆく。
   もっと下がって。
   もっと。
 背後を走る車の音が、激しい川の流れに聞こえる。
 もはやなすすべもなく、呉はその中に身を委ねようとした。

 ドン。
 衝撃があり、きつく目を閉じた。
 どのくらいかあってから、目をゆっくりと開けた。
 車に轢かれてはいないようだ。どこにも痛みはないし、怪我もしていない。
 それから、自分が誰かに抱きとめられていることに気がついた。ほぼ同時に、
 「呉先生」
 すぐ後ろで声がした。振り向く。
 自分を背後から抱きとめているのは中条だった。その後ろに車道が見え、びゅんびゅんと行きすぎる車の流れが見えた。
 「長官」
 血の気の失せた、真っ白い顔を見返し、
 「大丈夫か」
 そう尋ねられ、呉の中に『なぜ長官に後ろから抱きとめられているのだ』や『ちゃんと返事をしなければ』という気持ちが湧きあがってきて、慌てて向き直ろうとした。
 と、自分が何かを持っていることに気がつき、見た。
 手の中にあったのは紙コップだった。
 「!」
 思わず取り落とす。足元に転がった。飛びのく。
 事故で死んだ男の手にあった紙コップに血が飛んでいたのを思い出し、片手で口を押さえた。
 「用事があって運転手に電話をしたんだ」
 中条の声は相変わらず落ち着き払っていて、何事もなかったかのようだった。
 「そうしたら君が突然車から飛び出していったというのでね。先日のこともあったから、気になってね」
 ちょっと飛んできた、と言って低く笑う声に、
 「ありがとうございます」
 感謝の言葉を心の底から言う。
 正直、中条が来てくれなかったら、おそらく自分もあの男と同じ形で事故死していただろう。
 まだ体の震えを止められないでいる呉に、
 「ひとまず、空港に向かおう。向こうで運転手君が待っている」
 静かに声をかけ、背後を振り返りタクシーを目で探した。

 その夜、呉は中条の部屋に居た。
 仕事の時にはいつも簡潔で理路整然としたムダのない報告を心がけている。今回起こったことについてもそうしなければと思うのだが、話せば話すほど荒唐無稽になってゆく。
 「…行ってはいけないと思うのですがどうしても足が後ろへ下がろうとしてしまって」
 情けなくなる。実際、頭は大丈夫かね、といわれそうな内容だ。
 あの時自分に起こったこと、恐怖は本物だった。だが、それを人に説明しても信じてもらえるとは思えない。自分が聞かされる側だったら、おそらく「疲れているんだな」と同情するのがせいぜいだ。科学者として、そうそう受け入れられる話ではない。
 話すだけ話して引き上げようと思い、
 「とにかく、長官が来てわたしを止めてくださって、命拾いをしました。本当にありがとうございました」
 頭を下げた。
 中条は何も言わず考えていたが、
 「シズマを使わない電話か」
 静かに言った。
 「確かに、今の世界で、シズマを使わないものは、ごくまれだな。…そう、小さいものでは、ライターまで、シズマに頼っている」
 呉は黙ってその言葉を聞いていた。
   あなたはしずまがきらいでしょう
 女の子の姿をした死神は、わたしの心を読んだのだろうか、と呉はふと思った。誰にでも言うことではないからだ。いや多分、あんな揶揄を言われるのは、この世でわたしと銀鈴と、フォーグラー博士の息子くらいなものだ。他の獲物には…例えばわたしの前に事故死したあの男には、なんと言ったのだろう。
 呉の口元に沈んだ笑みがのぞいた。
 別に、シズマドライブを否定するつもりなどはない。あれはすばらしいものだ。それまで文明の灯りの届かなかった暗い小さな部屋にまで、あのガラス管は明るい温かい光をもたらしたのだから。
 それでも、
 (わたしの心の一番奥底が透けて見えたのだろうか、あの幼い死神には)
 すっと手が伸びてきて呉の頬に触れた。呉は驚いて、目を上げ、そこにいる中条の顔を見た。
 中条は何も言わずただ、ほんの僅か微笑して、頬に触れた手をぽんと呉の頭に置き、
 「君が無事で良かった」
 それから、ゆらりと呉の頭を抱き寄せると、自分の肩に抱き寄せ、きゅっと抱きしめてやった。

[UP:2012/04/19]

 私が一番好きなジャンルはホラー。にしてもよくあるタイプの話ですみません。

ジャイアントロボのページへ