「来るぞ!気を抜くな」
中条が低く叫んだ。
グレタガルボに2名の侵入者有り、という第一報の後、数えるほどの時間しか経っていないにもかかわらず、既にこの操舵室以外に、戦力として数えられる人間は残っていないらしい。
一清からも、楊志からも連絡はない。
最悪の事態を覚悟しなければならないな、と中条は極めて淡々と、思った。だが、アタッシュケースを渡すことだけは出来ない。矛盾しているようだが、自分たちが生き残るということについては奇妙に希薄な執着しかなく、なおかつケースは何があろうと敵に渡す気はないのだった。それらは対になっている事柄ではないのか?
ことり、と音がした。その場にいた鉄牛、大作、そして呉がはっと身構えた。
…これは、
「靴音だ」
「しっ」
ことり。…ことり。
暗い、ひとけのうせた通路の向こうから、黒々としたシルエットと、ゆっくりした靴音が、次第にこちらへ向かって近づいてくる。
大作の顔が、恐怖にそそけているのがわかった。まるでお守りのように、大きすぎる腕時計をもう片方の手で強く強くつかんでいるが、その手も時計も、震えている。
「大作くん」
呉は大作を呼んだ。大作ははい、と必死で応え、呉を見た。どんな状況であろうとも一人前のエキスパートであろうとする顔と、生理的な恐怖に怯える子供の顔が交互に表れる。
呉は自分が手に提げていたアタッシュケースを持ち替えた。これからどんなことになるかわからない。この中の誰が持っているより安全なのは、もしかしたら父の形見の巨人に守られた少年かも知れないと思ったのだった。
「これは大作くんが持っていてくれ」
大作は驚愕に目を見開いた。国際警察機構とBF団が互いに熾烈な争いの中で奪い合い、狙い合っているこのアタッシュケースを、自分に守れと言うのか?果たして自分にそれが可能なんだろうか?
驚いた顔をしたのは鉄牛も同じだったが、こちらはすぐに胃の腑におちたらしい。ぎゅっと顔を影の方へ向けて斧を構え直した。戦場でいつまでも驚いたりぽかんとしてはいないくらい鉄牛には解っていたし、誰が持っていても、それを守るだけのことだ。そして敵はアタッシュケースを持っていないからといって、大作だけ優しく保護して最寄りの街に下ろしてくれる奴等ではない。
「大作、大丈夫だ。アタッシュケースもお前も、俺が守ってやる」
(安心してくれ、兄貴、姐さん。俺ぁ、なにがあろうと、)
通路を睨み付けたまま、強く言った鉄牛を、大作は見て、それからぎゅっとくちびるを結び、
「わかりました、呉先生」
手を差し出す。うなずいて、呉は、ケースを少年の手に渡そうとした。
その時。
「渡す相手が違うぞ」
呉の肩が、腕が、がくりと振れた。大作は、通路の向こうから響いて来た男の声よりも、目の前にいる呉の動揺の方に驚いて、相手を見た。
はっきりと血の気の引いた顔はいつもにもまして白い。さきほどまでは緊張と重い覚悟にはりつめた顔ではあったが、決して恐怖はなかった。だが、今は、
呉はおびえていた。何にだろう?
呉の向こうの中条が、呉を見ているのが、大作からも見えた。
鉄牛だけは敵の方向をにらみつけている。
「まさか…そんな」
呉は細い声で首を振る。さっきの大作よりも激しく震える手で、きつくケースの取っ手を握り締める。でないと落としてしまいそうなのだ。
「いいや、わたしだよ」
知性の感じられる、初老の男の声だ。大作は聞いたことがなかった。鉄牛はどこかで聞いたことのある声だと思った。中条は最初から気づいているらしい。ただぎゅっと口を結んでいる。
「嘘だ!」
呉は激しく叫んだが、声のどこかに、もし、嘘でなかったら、という響きがあった。それを読み取ったのか、声は含み笑い、
「嘘ではない。…久し振りだな、呉くん」
呉があえぐように息を吸った。影が、入口のところまで来て、姿を一同に見せた。
白衣、白髪、白い髭、白い…皮肉げな笑みを浮かべた目、深いしわのきざまれたくちもとがゆっくりと笑い、声もなく自分を凝視している、呉を見据えた。
「フォー…」
鉄牛が喉の奥でうなった。中条は黙ったままだ。
「ご苦労だったね。…あれから、君がどれほど辛い想いをしたか、想像に難くない。本当に、すまないことをした」
「…、…、」
呉は返事をしない、しかし、『いいえ博士そのようなことはちっとも』に類する言葉を叫びたいと全身が言っている。懸命に自分に言い聞かせている言葉が、聞こえるようだ。こんなところに、今になって、あのかたがあらわれて、わたしののみこんできた痛みをねぎらってくれるなど、非現実的もいいところだ、かつて幾度も夢想した幻じゃあるまいし―――
「うそだ…あの時、確かに博士は…」
だが、声はさっきより力を失っていた。
「君はわたしにとってかけがえのない、本当に頼りになる助手だった。あの頃思うようにいかない現実や、シズマたちとの軋轢に苦しむわたしを、君は精一杯支えて助けてくれたね。心から感謝している」
呉は一歩下がった。脚は逆に、その人のもとへ駆けよりたいと言っている。
「呉先生」
呼んだのは大作だった。いつも冷静なこの人が、こんなに動揺している。それは決していいことではない、それだけはわかる。
「呉くん」
もう少しで、はい、と返事をするところだった。かろうじて唇でそれを止めた。そんな男に、優しく微笑みかけて、
「君なら、わたしの無念がわかるだろう?」
むねん?と大作が聞き返したが、相手は返事をしてくれなかった。お前にはわからなくても、呉くんならわかっているからいいんだよ、とでもいうように、完全に大作を無視して続けた。
「誰よりもわたしの近くにいて、わたしの苦悩を見つめていてくれた君ならばな。十年前のあの日だって、そうだった。…
君はあの時なにがあったか、誰よりもよくわかっている筈だ。
…君はわたしの第一助手だ。それは今も変わらない。そうだね?」
「そ…」
呉が何か言う前に、大作が激しく叫んだ。呉が何と言うのか怖かったのかも知れない。
「やめろ!何を言ってるんだ?助手って…呉先生は国際警察機構の科学主任だ!」
「さあ、サンプルをわたしに返してくれ」
男はすううと手を伸ばし、掌を開いて呉に突き出した。まるで腕がずうっと、呉の目の前まで伸びているように見えた。
「わたしがこれを発動させることを、誰よりも是認してくれる筈だよ、君は。
いや…返さなくていい。それを持って、わたしのもとへ来なさい」
アタッシュケースを握っている手が、ほとんど痙攣していると言っていいほど震えている。そして。
そして呉は、カタカタと鳴っているそれを、引っ張られているように、差し出しながらふらりと前に出た。
「呉先生」
今度は、中条が口を開いた。しかし、声は特に感情を持っていなかった。制止の意志さえあまり感じられない声だった。もしかしたら、声で呼んで止めようとしても、無駄だと思っているのかも知れない。
男はにやりと笑って、うなずき、手をさしのべながら、自分も前に出た。
と…
鋭い、真っ直ぐな攻撃が、男の真正面から顔を襲った。
きーん、と音が上がった。思わず叩き落としていた。床に落ちたものを、一同はそれぞれの目で、見つめる。
鉄の扇子に、無数の針が突き立っている。いや、針ではない、針のように鋭く尖った、
「…髪、?」
大作がかすれた声で言った。
男の目が、ちぃ、とでも言いたげに相手をにらみつける。
「やはり」
呉はかすれた声で、
「君か、エマニエル」
相手にその名を呼ばれて、くちもとに再び笑みを浮かべた。
「ふ…わかったか、呉学究」
呉も、その名で呼ばれ、するどく眉をしかめた。
「よもや、このような形で再会するとは思わなかった」
男は白衣のむなもとに手をやると、ひきむしるようにそれを払った。一瞬、男の姿が明滅したように見え、大作が目をしばたたかせる。次に注視した時は、男が纏っていた変化のわざが解かれて、見知らぬ長い黒髪の若者が立っていた。やはり、白い服を着ている。
何故だろう、この男の白い衣裳は、祝祭用の服ではなく喪服に見える。
「だが、今わたしが言ったことは、全て父の言葉だ。故に、あなたは従うしかない。あなたは」
顎を上げる。上から呉をねめつけ、言い放つ。
「何である前に、フランケン・フォン・フォーグラーの忠実なる助手なのだからな。―――違うとでも言うのか?」
言う筈がないと思い込んでいる口調だ。
「これは父の遺志、父の意志だ。さあ、サンプルを渡せ。さもなくばわたしと共に来い」
長い長い時が流れた。いや、実際には大して経ってはいないのだろう。だが、祈るような気持ちで呉の顔を見上げている大作と、果たしてうちの参謀先生は寝返ったりするんだろうか?そんなことぁ考えたくねえが…と歯をくいしばる鉄牛にとっては、数時間にも感じられた。その時の果てに、
呉は首を振った。
男はふんと鼻で笑って、いやな目の色をした。
「同じ内容でも、父上の口から聞かなければ、きく気はないということか?」
「君の父上は、素晴らしい科学者だった」
男の目がわずかに大きくなる。
「世界中の人々のため、全ての人たちの幸せのため、科学がその手助けが出来ればといつも全力を尽くしておられた。…誰も苦しまず、誰も悲しまない、温かい平和な世界をもたらそうと、そのためならどんな苦労も厭わずに」
「やめろ」
男が怒鳴った。青ざめ、憤り、
「そんなことはわざわざ教えられなくてもわたしが一番よく知っている」
「君の父上は、復讐に世界を巻き込んで破滅させようなどとはしない」
「あなたに何がわかる」
「わかる。…私は、君の父上の、第一助手だったのだから」
静かな声は、今では動揺していなかった。その顔をずっとずっと見続けていた大作には、それがわかった。
第一助手。君の父上。フランケン・フォン・フォーグラーの忠実なる助手。フォーグラー。…
呉先生は昔…
「偉そうに、したり顔で」
震える声で吐き捨てる。今度は、男の方が激昂している。
そして、少し離れた位置から、何も言わず呉と男のやりとりを見守っていた男をにらみつけて、
「要するに、新たな拠り所さえ出来ればそこに平気で根をおろせる、精神も主義も寄生虫のような男なのだな、あなたは。ならば」
男の殺気が無数の針となった。
「その新たな拠代を砕いてくれる」
疾風の速度で、黒い風が中条に襲い掛かった。
「長官!」
「くそっ」
大作が悲鳴をあげ、鉄牛が飛び出しながら間に合わない、と思った。
白い影が割って入る。
幾度も幾度も、歯に沁みるような音をたてて、硬質化した髪が弾かれ、床に落ち、
あとには、幾本かを自分の身に受けながら、中条を庇う位置で鉄扇子を構える呉の姿があった。
激痛と眩暈をこらえ、呉はぎゅっとくちびるを結んだまま、なおも来るなら迎え撃つ姿勢をくずさない。
「…呉、」
つぶやいたのは長い髪の男だった。中条は、やはり何も言わず、目の前の呉の後ろ姿を見つめている。
[UP:2001/10/3]
本気で似た様な話ばかり書いてます。いいかげんでこの『助手と息子』シリーズやめます。ところで呉くんはエマエマのヘンな得意技については知っていたんだろうか。昔から髪の毛飛ばして得意がったりしていたのか?
長官、恥マークの話で喋らせすぎたので今回はむっつり君でした。
次は明るい冗談の方に行きたいと思います。
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