泣くな呼延灼


その日は朝から、孔明は機嫌が悪かった。
実のところ虫歯が疼くのだった。抜くなり処置するなりすればいいのだが悪事のスケジュールが詰まっていてなかなかヒマがない。
なんとなく左右非対称、要するに片方のほっぺたがぷっくりと赤く腫れた顔で会議室に入ると、孔明に招集をかけられた十傑集がそこここで話をしていた。
それにしても右を向いても左を向いても無能な馬鹿者ばっかりだ。いや、自分よりも有能な人間がいたためしなどないのだが、それにしても今日はことさらどいつの顔も野菜か何かに見える。
「あの時はあやうく貴様がやられるのかと思ったぞ、樊端」
「本気で言っているのか?この混世魔王が、国警ごときのへなちょこにやられるとでも」
「いやいや、そんなことなどある筈がなかろう。冗談に決まっているではないか。落ち着け」
「むふーむふー」
ええ、うるさい。
心で舌打ちをして頭数を数える。ひーふーみーよー…一人足りない。まだ来ていないやつがいる。
「誰だ、時間を守れないバカは」
思わずかっとなって口走ってしまった。一番近くにいたマスク・ザ・レッドが驚いた顔で(といっても仮面でよくわからなかったが)振り返ると、
「今のは孔明が言ったのか?珍しいこともあるものだ、皮肉とイヤミと慇懃無礼がウリの男が」
「何だ?顔はうすら白くて腹が黒いパンダのような策士がどうかしたのか?」
「珍獣、腹黒大熊猫。笑止」
無遠慮で下品な笑い声がわいた。
こいつらやっぱり馬鹿だ、と孔明は思った。これ以上感情を露にするのは自分のすることではないと思ったのでムリヤリな無表情の仮面をかぶって視線を逸らしたが、ハラは煮えることおびただしい。
お前らいいから大人しくこちらの書いた筋書きの通りに踊るなり歌うなりしていればいいのだ。うるさい。うるさい。
それまでにこやかに談笑していたカワラザキがむっとした顔で近づいて来て、
「人を呼び出しておいていつまでも知らん顔というのはどうだろうかな孔明。我々とて暇で仕方ない身体でもない、用件をさっさと話したらどうだ」
黙れくそじじい、と思ったがぎりぎりと笑顔になって、
「大変失礼ですが十傑集の方々が全員お集まりになっておられませんので」
「なに?…全員おるぞ」
「そんな筈は」
言い返しかけてはっとなる。一体自分はどうしたというのだろう。今は九人しかいないのだ。そんなことは言われるまでもなく当たり前の事だというのに。
「…これは失敬を。あちこちに影の薄い方がいてよく見えませんでしたな。はっはっは。はっはっはっ」
せめて言い返してきびすを返した孔明の背に、
「数え間違ったんだぞ、あれは」
「優しいではないか。セルバンテスも数えてくれたのだろうさ。やつも嬉しいことだろう。なあアルベルト」
そういわれた男が、フン、と鼻で笑って、
「バカめ」
そう言い放ったのが耳に入った時、頭蓋の中でぶちんとキレた音がした。
振り返って手のふわふわ扇子を投げつけるか怒鳴りつけるか、とにかく孔明という男が越える筈のない一線を越えかけた時、足元からなにかがわ〜っと立ち上がって、視界を遮った。十傑集は一瞬なんだ?と思ったが、孔明にはもうわかっているらしく、叱咤した。
「何だというのだ。退け」
コ・エンシャクが目の前でおろおろと伸びたり縮んだりしている。下手クソなジェスチャーゲームか、空気を出し入れしているアドバルーンを見るようだが、どうやら宥めにかかっているらしい。
「退けといっているのが聞こえないか」
「コ・エンシャクは貴様の心配をしてくれているのだろう。ありがたい部下の深情けではないか。ねぎらってやれ」
嘲笑を含んだ声で言われ、虫歯が熱く燃え、こめかみが冷える。すっぱい味がするのは虫歯のせいだろうか。怒りは結局、目の前のアドバルーンに向いた。侮蔑的に丁寧な口調になって、
「十傑集とやりあったら私が怪我をするとでも心配してくれているのですかな。これは有難いことだ。いや全く不愉快です。分を弁えるという事を知らない者は本当に」
コ・エンシャクの上下運動が激しくなった。動揺しているらしい。
「勝手な心配は無用ですよ。私にはアキレス様がついていてくださいますから」
なるほど、見るとひときわ黒々とした孔明の足元の影が原油のようにどろりとうごめくと、ひゅっ、と黒いヒョウの姿になった。
「一人だけやけに黒いと思ったら」
「やつが腹黒いから影も黒いのかと思っていた」
後ろの方で勝手なことを言っている。
「逆に言えばアキレス様が居てくださるならそれ以外に護衛など要らないということです。無能な護衛は特に」
コ・エンシャクがびくっとして動かなくなった。
ズキズキ痛いところを敢えてえいと噛んだら、脳天に突き抜ける痛みで気が遠くなった。ムリヤリ逆に噛み締めてそこをいじめながら、痛む歯への憤怒を目の前の男にぶつけた。
「無用な者はどこぞへお行きなさい。なんなら国際警察機構で再就職してはどうか。ああ結構、貴殿が相手側につこうと大して痛痒を感じませんので」
痛痒はこの奥歯こそが感じさせるのだ。痛痒なんてものではありませんぞ。ええ、気が違いそうだ。
ふら、とアドバルーンが傾いだ、と思った時。
「わっ」
誰かが声を上げた。
コ・エンシャクがばたばたばたばた泣き出した。顔は無表情な…というよりお面のままで、目のところから涙がだくだくと溢れ出している。水芸をするからくり人形が壊れたようだ。
「気味が悪い」
誰かが思わず口走ったが、誰もが同じ気持ちだった。不気味なことこの上ない。
さすがの孔明も身を引きながら、目の前で自分を凝視しながら瞬きもせず(当たり前だが)滂沱と涙を流しているコ・エンシャクを無言で見つめている。
と、泣き出した時と同じに、不意にくたくたと床に崩れ落ちると、さーと戸の下から出て行った。流れ出ていったという感じだが。
しばらく沈黙があったが、誰かがげほりと咳をしたのをきっかけに、
「何だ今のは」
「何とは…その」
「要するに、コ・エンシャクが泣きながら出て行ったということだろうが」
一同の中から深々とした吐息があがって、
「あのように恐ろしいものを見せられるとは…長生きはするものではないのう」
「しかし、やはり奴はショックを受けて泣いたのだろうな」
皆が見た床には、涙の跡があった。
「それはそうだろう。身命を賭してお守りしている孔明サマにああまで言われてはな」
「国警についても構わんとまで言われては立つ瀬も無かろう。一応は最強キャラに属しているのに」
「不死キャラだろう。十常寺と一緒だ」
「我不快。不愉快」
「どうするのだ孔明。放っておくのか。お前の言葉に深く深く傷ついて泣きながら出て行ったのだぞ」
「そうだそうだ。哀れなものよ。身を粉にして尽くした挙句の果てにあんな言われ様を」
もうこの頃では皆半分面白がっていて、好き放題なことを言っていた。酒の肴のような扱いを受け、孔明の青白い顔が屈辱と怒りと歯痛で赤黒くなった。
「黙らっしゃい。人を座興にして笑うのはやめていただこう」
威厳をもって言い渡したつもりだったが、この時点で、さっきから噛み続けていたほっぺのふくらみは随分大きなものになっていた。皆は恐れ入る代わりに一様に眉間にシワを寄せながら口元をほころばせ、怒鬼以外の全員が、
「…こぶとり孔明」
どっとうけた。孔明のおでこに脂汗が浮かび、両目にはほとんど悔し涙と歯痛のあまりの涙が浮かびそうになり、
この私が斯様な恥辱を受けるとは。どうしてくれよう。コ・エンシャクなど二度と戻って来なくて宜しい。
がりりと奥歯を噛み、ちょっと角度が変わってそのため電撃のような痛みが走り、2メートルほど飛び上がって、再び笑われた。
「少し太った孔明がな、甘いものを食べ過ぎて」
「小太り孔明は歯が痛いと」
バッカバッカしいことを言っている奴の顔を確かめる余裕もない。

「平和だな〜。いつもこうだと有難いな」
「全くですぜ兄貴」
「ほら、二人ともくつろいでないで、始末書をちゃんと書いてくださいね」
腕組みした銀鈴にぱきぱきと言い渡されて、戴宗と鉄牛はちょっとひしゃげた。
「いいじゃねえかよ。ちょっと暴れてガラス割っちまっただけじゃねえか」
「そうだそうだ。ごめんなさいって謝ったろ、銀鈴」
「ちょっと暴れてじゃないでしょう。小学生じゃないんですよ戴宗さん。鉄牛もすぐに戴宗さんに同調しないで。施設内の公共物を破壊したんですからね。ほら、早く」
ちええええ、と二人並んででっかい顔を突き出す。呆れてため息をつく娘の後方で、楊志と一清と大作が顔を見合わせて笑っている。
今は休憩時間で、呉が詰めている以外は談話室でくつろいでいるところだった。
「休み時間くらい休ませろや、全くよう」
「勤務中に言うと、『今はシゴトがあってそれどころじゃない』とか言うじゃないですか」
「そらそうだろうがよ。こう見えても俺様は国際警察機構の一員だ」
「そんなことは言われなくても知ってます」
つんとそっぽを向かれる。
「戴宗さん、僕手伝ってあげます!」
明るく言ってやってくる大作に満面の笑みで、
「可愛いこと言うじゃねえか大作。じゃあ『僕がボールをぶつけて割りましたごめんなさい』って書いてくれ」
「え」
さすがに戸惑うが、戴宗はあっはっはと笑い大作の頭をくるくるもしゃもしゃと撫で回し、
「じょおだんだ」
大作の顔が焦りと安堵と怒りと恥ずかしさで紅くなったその瞬間、頭上でけたたましい警戒音が鳴り響いた。大作がビクリと上を見上げた時には全員が同時に廊下へ飛び出した後だった。慌てて後を追う。
一番最初に司令室に飛び込んだ楊志が、
「何だい先生」
「敵です!正面」
呉が叫ぶのと同時にメインの画面にばっと映ったのは。
隠れることも、何かに身をやつすことすらせずに立っている、見知った姿だった。血の色の甲冑、不吉を刻んで出来た面。
雪の舞う、北京支部の建物に続く一本道の上に立っている、死神の姿。
「コ・エンシャク」
上がった一同の声は死の色さえ帯びていた。
「やつが来たのか?畜生!」
「こんなにもあっけなく」
死闘の始まりが来たのか、終わりの始まりはこれほどまでにあっさりとやってくるものなのか、と銀鈴は我が目を疑い、一歩下がった。
「物事ってのははいつだってそういうもんだ。腹くくれ」
後ろに立っていた戴宗が低い低い声で呟いた。
「全所員に告ぐ、第一級戦闘…あっ?」
叫んでいた呉が驚きの声を上げた。どうしましたと聞きかえす者はいない。どういうことなのか、カメラに映っている人物は自分のマントの中からずるずると白いものを取り出し、それを頭上に掲げると、ぱたぱたと振り出したのだった。
長い木の枝に結び付けてある結構大き目のそれは、翩翻と翻る、
「…白旗?」
「ふざけるにも程がある。奴が振る白いハタなんぞ、『お前らの死体をこれで包んでやる』って意味しかねぇだろうに」
「でも、あたしらがそうとしか取らないってことは、奴だってとうに知ってるだろうさ。つまり、こっちを騙す作戦にすらならないんだよ。なんだってわざわざ」
「どういうつもりなのだろう」
「所詮我らは『降参』と言ってきているものに攻撃を仕掛けることの出来ない集団、と踏んでおるのではないのか」
「今更俺たちを正義の味方側に押しやろうったって、そうはいくかよ。こちとら、正義の仮面を被った」
なにかよからぬことを言いかけて、大作の手前口をつぐんだ。と、その大作が、
「白旗を振るって、降参しますって意味なんですよね?」
一同はしぶい顔になり、いやあな予感にいよいよシブイシブイ表情になっていく。誰も口をきかないので大作が首を傾げ、
「違いましたっけ」
しつこく尋ねる。しかたなく、いやいやながら、
「普通はそうね」
銀鈴が短く応えた。大作の目が輝く。
「そうですよね!良かった。呉先生、コ・エンシャクってすごく強い人なんでしょう?」
「…すごく強いというか、凶悪な程強いというか、一生会わないで暮らしたいというか…」
呉の声がひょろひょろと途切れていく。自分一人でいる時にあいつと出くわしたらと想像すると、ひょっとして自分、泣くかも、と思ってしまう。泣いて済むものでもないし、いや多分泣く余裕もないだろう。
「そうなんですか。そんな人が味方になってくれたら、すごく心強いですね!」
「あの、な、大作よ」
戴宗が声をしぼりだした。
「コ・エンシャクがな、俺たちの同僚になってる図ってのはな、あんまり考えない方がいいと思うんだ」
「どうしてですか?」
大作は目を見開いた。
「だってああやって降参してるんですから。僕たちの仲間になるために来たんですよ」
「まあ、そう、かも知れないけどな」
最初から説得は無駄だと思っていたらしく、それきり黙ってしまった。
大作は困惑して皆の顔を見渡したが、一様に同じ顔、同じ顔色、同じ眉の角度だ。
「皆さん、じゃあ、あのまま寒い外にほっておくんですか?知らん顔して」
画面の中ではコ・エンシャクがずぅっと旗を振り続けている。位置は移動していない。
「いや、でもねえ大作、あいつは『寒いだろうから』って入れてやるには、あんまり危険なんだよ」
「うむ。黒い頭巾をかぶって目だけ出しているオバQ連中とは、格が違いすぎる。むしろ奴が正面から一人で来たことに、何らかの作戦の存在すら推察できるものだ」
うん、と全員がうなずいた。
大作の目に怒りが閃いた。
「なんで勝手に決め付けるんですか!」
「だってよう、相手はあのコ・エンシャクなんだぞ」
鉄牛が、お前よりは俺の方がその辺の事情は知ってるんだ、何度も修羅場があったんだからな、と続けそうな、どこかちょっと優越感をただよわせた調子でそう言った。
とたん、大作が叫んだ。
「じゃあ、一旦敵になったら、何があっても一生敵のままなんですか?何を言ってきても、絶対許さないし認めないし敵だって決め付けて攻撃するんですか?それって、」
目にくやし涙が浮かんだ。
「正しいことなんですか?」
あああ、とため息とも無力感とも『そう言われちゃねえ』ともつかない吐息が漏れ、再び気まずい沈黙がその場を支配した。
突然、ぱっと大作が駆け出し、廊下へ出ていった。
一同は数秒、その背を見送っていたが、
「まさかコ・エンシャクのところへ行くのではあるまいな」
はっとした一清の言葉に全員飛び上がって後を追った。廊下へ出ると向こうの角を曲がる背が見えた。
「大作!待て!」
先頭の戴宗が怒鳴る。自分も角を曲がる。この先の階段を降りると外への通路だ。まじめにそうしようとしているらしい。
一息で下の踊り場まで飛び降り、手を伸ばす。戴宗の手が大作の肩にかかる、という時、
がらがらがら!ごごごごご。
巨大な手が踊り場の窓を引き開けて侵入してきた。ぎょっとする戴宗の目の前で、大作がその手に乗っかると、再び手はごごごごと窓から引き抜かれていった。しかし、窓枠は壁からはずれてぶらぶらになっているしガラスもわざわざそっと開けたのだろうが割れてしまっている。
「あいつも始末書だな…」
「何どうでもいいこと言ってるんですか!」
銀鈴が叫び、一同は再び外に向かって駆け出した。
「ロボかい?いつのまに呼んだんだい」
「でも姐さん、ロボごしに会うんならまだ安全じゃねえですかい」
ロボごしはよかった、と楊志が言おうとした時、
「わあ!大作くんがロボから降りている!」
呉が声を張り上げた。
ロボに乗っかって、コ・エンシャクから30mというところまで近づいたところで、ロボが腰をかがめ、大作はロボの手を降りていた。
全員絶叫する。
「大作!やめろ!」
「大作くん、駄目よ、戻って!」
「ロボ!なにやってんだ、大作をひっつかんで飛べ!」
しかしロボは『あんたの命令はきかないよ』とでもいうような無表情で(いつもだが)のったりと腰を戻すと、突っ立った。
「ええっこの、くそロボめ!大作が危険だろうが!」
その言葉で呉がはっとし、
「ということは」
「ロボが危険を感じていないということだな」
一清と顔を見合わせる。
「そんなのアテになるのかい?なにかあってからじゃ遅いんだよ?」
「畜生、助けに行くぞ鉄牛!」
「おうさ兄貴!」
「あんまり刺激すると返って危険だわ、静かにして二人とも」
もめている間にも、大作は一歩一歩、コ・エンシャクに向かって近づいていく。あっと思った時にはもう目の前まで行っていた。皆は慌てて、そろそろと近づいて行った。ロボの脚に隠れるようにして、二人を見守る。
闇の化身のような男をじっと見つめ、それから大作は男がずっと掲げ続けている白い旗を見てから、おそるおそる、
「僕たちの仲間になりたくて来たんでしょう?」
相手は表情のない顔で大作を見下ろしていたが、不意にがくん!とうなずいた。それから、ふるふると白旗を振った。
その動きにちょっと笑ってしまい、笑えたことで自分を励まし、
「白い旗を振って、油断させて、中に入りこんでから皆殺しなんてこと、しませんよね」
ものすごいことを言っているが、相手は生真面目に、がっくりとうなずいただけだった。それからまた、ふら、と旗を振った。
大作は嬉しそうに、えへと笑った。寒風のためほっぺが赤くなっている。それを見たコ・エンシャクの目にじんわりと涙が浮かんだ。何かを思い出したらしい。
「ど、どうしたんですか?ええと、コ・エンシャク、さ、ん…」
言いづらそうにそう言って、一歩近づく。相手は首を振って、ふところから大判のハンカチを出すと、涙を拭いた。そのハンカチをふと見ると、すみっこの方にマルの中にコ、と印が入っている。
「なんかあいつ涙拭いてますぜ」
「油断するな。何をしでかすかわかったもんじゃ…」
言いかけた時、どどどという勢いでコ・エンシャクがまた泣き出した。全くの無言、微動もせず、ただお面の目から涙をほとばしらせている。
「気味が悪い」
BF団同様、こちらの連中も思わず声を上げた。
大作もかつての孔明のように身を引いて、その光景を見ていたが、やがて気を取り直し、ポケットから自分のハンカチを取り出した。これはすみっこに「国際警察機構」と入っている。支給品らしい。
「泣かないで下さい。とにかく、中へ入りましょう。ね」
伸びをして、だくだくと流れる涙を必死で拭いてやった。ハンカチはたちまちぐっしょりになった。
すごいなあ、どこから出てるんだろう。どこかにしかけがあるのかな。
ぎゅーとハンカチを絞って、また拭いてやる少年を、コ・エンシャクは黙って見返している。

「報告は受けた。驚いたよ」
出張から戻ってみたらもんのすごい部下が一人増えていた中条が、平静な中にもどことなく途方に暮れたようなものをにおわせながらそう言う。
中条の机の前、彼の定位置に立った呉が、
「我々としても、そう簡単に受け入れることは出来ないのですが」
自分も困っておりますという顔でそう言った。
「いかなる事情で寝がえろうとしたのか、明かす気はあの男にはあるのだろうかな」
「それが、大作君がいろいろ聞いているようです」
中条の目が動いたのが僅かに黒いガラスの向こうにみえた。
「大作君が?」
「はい。敵であった人間(人間かどうかわかりませんが)が味方になってくれたということが、とにかく嬉しくてならないようで、ずっとくっついているのです」
「なるほど」
中条が苦笑とも、疲労とも見える表情をちらとはしらせてから、
「全ての障壁を乗り越えるのは素直で純粋な心という訳か。…で、何と言っているのだと?」
「はあ、それが」
呉の顔の困惑が色濃くなった。
「孔明に、ひどく叱られたから、ということです」
「………」
「………」
二人はしばらく黙って見つめあっていた。
やがて、中条が、
「…それで」
「あ、はい。おまえなど、国際警察機構へでも行ってしまえと言われたので、来たらしいですが」
ひどいですよねえ。
憤慨した口調で言う大作の隣りに、どうしてだかしょんぼりとして見えるコ・エンシャクが座っている。
あの後、とある会議室で、一同は通訳の大作をはさんで、コ・エンシャクと向き合った。誰もが、どうにも緊張してしょうがない。大作が一番リラックスしている。
そんな勝手なことばかり言って威張ってる人たちのところになんか、帰ることないですよって言ったんです。そうですよね皆さん。
そ、そう、だな。うん。
これからはここに居て僕たちと一緒に戦いましょうね。
コ・エンシャクががくりとうなずいた。皆は一瞬ビクリとしてから、顎を突き出すようにして『あ、ども』みたいにお辞儀をした。自分らでもバカみたいだと思うが、どうしてもそうなってしまう。
あ、あのよ、大作。
なんですか?
お前、コ・エンシャクと、どうやって意思の疎通をはかってんだ?
あ、すごーく低い声で囁いてるんですよ。ひそひそって。
そうなのか…
謎がひとつ解けたな。
そうですね。
「そういう問題でしょうか」
呉に呟かれて、中条はううむと呟いてから、
「まあ、何にしても、謎が解けるのは、いいことだろう」
「はあ」
でも、それにしても孔明ってイヤな人ですよね。コ・エンシャクさんが頑張って働いているのに、そんな意地悪だのイヤミだの。
他の同僚の人たちもずけずけ言いたいこと言って、無神経に笑ってるばっかりなんですって。どうしようもないですね。
大作がぷんすか怒って、ねえ、と皆とコ・エンシャクを見比べている。
まあ、同僚はともかく、部下の気持ちに無頓着な上司ってのは、どこにでもいるし、どうしようもねえってこったな。
皆一様にうなずいた。
「誰の事を言っているのかね」
「ええっ?さ、さあ…」
人の上にたつ人として失格ですよね。最低です。
「だから、誰の事を」
「少なくとも長官のことではありませんので」
そんな人のことは一日も早く忘れて、ここに馴染んでくださいね。
コ・エンシャクが肩の中に首を埋めるようにした。どういう感情を表しているのか、傍目にはわからない。
「で、結局そのまま居着いているというのか」
「大作くんが率先して、いろいろ教えてやっているようです。…こうなってしまっては、今更追い出すというのも…」
「怪しい動きはないんだろうな」
「その点は24時間監視していますが、今のところどこかと連絡を取るでもないようです」
「ふん」
中条は眉をしかめ、こめかみを親指でぐりぐりとやって、
「このままいくと、私がその、意地悪でイヤミな男の代わりに上司になるのか。本当に」
「はあ」
呉はため息をつき、
「私はずけずけした無神経な同僚にならなくてはいけないんでしょうか。とても自信がありません」

コ・エンシャクがいつまで経っても戻ってこないので、BF団は遅まきながら足取りを探してみた。すると、
「国際警察機構に行ったらしいぞ」
「真面目に行ったのか。なんということじゃ」
「我不可信其話」
「いや、きっとあてつけだろう。『行けと言ったから行ったんだ』というイヤミだろう」
「そんなにひねったイヤミをするのか、コ・エンシャクは」
呆れた口調のアルベルトに、樊端は自信たっぷりに、
「なにしろ、孔明の懐刀だからな。同じ角度に曲がっているのだ」
「なるほど」
全員が納得した。それから一斉に部屋の隅の男を見た。
本人が窓際でふわふわと白羽扇を動かしながら窓から外を見ている。
「迎えに行ってやらんのか、孔明」
返事をしない。
「今更やつの方から戻ってくることは出来んぞ」
やはり返事をしない。ただ、扇子だけがふわふわと動き続けている。
「本当は貴様も困っているのだろう。ヤツのように献身的かつ有能な右腕は、そうはいまいからな」
どこまで本気なのかわからないことを言っているのは誰だろう。
「一言、声をかけてやれ。『戻って来い』と」
その後も皆いろいろ、心のこもった、ゆえにどう聞いてもバカにしているようにしか聞こえない助言を繰り返したが、結局孔明は何も言わないままだった。
足元の黒ヒョウがでかいあくびをしている。

外では雪が舞っている、寒い寒い日だ。皆、談話室でストーブのまわりにたかっている。
「はい、コ・エンシャクさんの番ですよ」
大作がトランプを突き出した。コ・エンシャクは無表情のまま、どれにしようかな…と指をはしらせる。その様子に大作が眼を真ん丸くし息をつめて見守っている。
と、大作の顔が一瞬ひきつった、それを避けてすっと抜いていった。ちぇっと大作が声を上げる。
「もうちょっとだったのに」
「お前はわかりやすいからなあ。こいつから見たらモロバレなんだろ」
戴宗が笑って、自分に向けられたコ・エンシャクの手札をんーと眺めてから、一枚抜いた。
「お、合った合った。ほいよ」
「失礼します兄貴」
「おう、二枚も三枚も引くない」
銀鈴がくすくす笑った。
大作が不満そうに口を尖らせて、
「僕、ババ抜きで勝ったことないですよ。皆さんに必ずババひかされちゃうんだもの。あ、鉄牛さんには勝ったことあるけど」
「ウソつけ、あの時だって最後は俺が勝ったぞ」
「違いますよう」
「違わねえよ」
鼻息を荒くして突き出した札から銀鈴が一枚引いて、見比べてから、大作に差し出して、
「ビリとビリ2じゃ、大して違わないわよ鉄牛」
「大違いだ」
ぶるぶると首を振っている男を見て、次に大作を見ると、こっちもぶるぶると首を振る。大人たちは皆笑い出した。
ちらと見ると、コ・エンシャクは相変わらず無表情だし笑い声など立ててはいないのだが、なんとなく、どことなく、気のせいか、楽しげに見える。
本当に、このまま、仲間になるのかねえ。
本当にそうなら、それでも良いがな。
なにより大作があんなに喜んでいるのだし。
一同がほっとなごんだその時、いつぞや、コ・エンシャクが現れた時のように、警報が響き渡った。全員がばっと駆け出す。今度は大作もすぐに続く。コ・エンシャクはすべるようにその後ろに続いた。
今日もまた一番乗りの楊志が叫んだ。
「今度はなんだい、先生!」
「敵です」
再びメインの画面がばっと映る。そこには…
雪の降りしきる中、傘を差して立っている、アイボリーのスーツを着た男がいた。ちょびヒゲ、ぺったりとなでつけた髪、顔を隠した白い扇子、その上にちらと覗く雪よりも冷ややかな目。
「策士・諸葛亮孔明」
皆その名をフルで叫んだ。
「なんてこったい。今月はなんだ。サービス月間か。次から次へと大物が」
「しかし、奴が自ら肉体でもって闘うというのか?それは…」
「うん。バレエダンサーに四股を踏めと言ってるようなもんだな。専門が違いすぎる」
「いや、案外やるのかも知れないよ。得物はなんだろうね?」
「毒舌じゃねえか」
「いや、きっと本ですよ兄貴。本で相手を殴り殺すんです」
「すげえな」
戴宗が辟易した声を上げた時、大作の、コ・エンシャクさん!という声が響いて、皆振り返った。
コ・エンシャクが、ふーらふらふーらふら揺れながら、伸び縮みしている。
「な、なに?」
「動揺してるんじゃないのかい」
「何故…」
「かつての上司の下へ、戻ろうかどうしようかと迷っているのだろう」
声の方を見ると中条だった。大作はえっと声をあげて、
「戻る…?」
見上げるとコ・エンシャクは大作を見て、いよいよふらふらと揺れた。
否定しているようにも、実はそうなんですと言っているようにも見えるが、動揺していることだけは確かなようだ。
「違いますよね、コ・エンシャクさん!ここの一人になったんですもんね!」
ふらふらふらふら。
「あんなひどい人のところに帰るっていうんですか?コ・エンシャクさんがどんなに頑張ってもさっぱり労ってもくれないし理解してもくれないひっどい人のところに!」
大作が泣きそうな顔になってゆく。
「どうしてなんですか」

吹き荒れる雪と風の中、コ・エンシャクがすべるように外へ出ていくのを、皆建物の中から見守っている。
傘の上に大分雪が積もっている。…
象牙色のスーツの男から少し離れて、コ・エンシャクが止まった。
その顔を面白くなさそうに眺めまわしてから、すーと扇をはずした。
大分引いたようだが、片方の頬がまだちょっと赤らんで腫れている。
「その。…虫歯の苦痛というものは、いかなる理性をも凌駕するらしく」
げふん、と咳をしてから、
「みっともなく取り乱しましたな。それは認めましょう。…あー」
ちょっと躊躇したが、寒いせいか、結構とっとと意をかため、口を開いた。
「戻っておいでなさい。別に、どうしてもというわけではありませんが。…どうも、どいつもこいつも馬鹿ばっかりの上、自分は頭が良いと勘違いしている。その点、自覚のある者の方がまだマシ、という意味でなら」
空咳をもうひとつして、
「使ってやっても良いか、と思い返しましてね」
途端。コ・エンシャクの目から、どどどと涙が噴出した。
今までで一番の放出量だろう。勢いが違う。
孔明はイヤそうにちょっと後じさりしてから、ええもうわかったから止めなさいと言いながら、ふところからハンカチを出して相手におしやった。すみっこに、マルの中にコと書いてある印がある。孔明のコらしい。
「コ・エンシャクさん…」
ガラス窓に貼り付いて外を見ている大作の肩をぽんと叩き、
「がっかりすんな。たとえどんなにイヤミで意地悪で根性が悪くて尽くし甲斐のない上司でも、そいつにとってこの相手しか居ないってことが、あるんだよ」
「そうなのかね」
「どうして私に聞くのです」
後ろの方でもめている。
「…コ・エンシャクさんにとって、孔明って人が、そうなんですか…」
「みたいだな」
見ると、ようやく泣き止んだらしいコ・エンシャクの肩の雪を、孔明が扇で払ってやって、くるりと背を向けると、先にたって歩き出した。
コ・エンシャクはこちらを振り返ると、大作に向かって、詫びるように頭を下げ、すーと地に沈むと、孔明の影に溶けた。
それきり、孔明はこちらを見るでもなく、歩み去った。
ぐすん、とハナをすすって、大作は、
「そういえばコ・エンシャクさん、呉先生の扇子を見るといつも寂しそうだったんですよ。きっと孔明ってひとのこと思い出してたんですね」
そうだったかぁ?と巨大な疑問符が室内に充満し、呉はきまり悪げに自分の扇子をちょっと撫でた。

[UP:2003/4/24]


爛愁さまが「コ・エンシャクがぼろぼろ泣く」という相当なインパクトのネタをくださいまして、それをふくらませました。
爛愁さまはもっとおしゃれでひねってある「アキレス様が毛の抜け変わる時期で、コ・エンシャクはアレルギーだった」という受け皿とオチをお考えだったのですがそれをうかがう前に自分でぱーっと考えてしまったのでした〜
十常寺ってこんなパタリロみたいな喋り方をする訳ではないんですけどね(笑)イメージで。
大作くん、幻夜に続いてコ・エンシャクまでオトすとは…さすがエキスパート。得意技は『純粋な瞳』?
あっ、コ・エンシャクはひそひそ喋ってません。本気にしないでね。

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