癖のある気障なノックの後、多分あの男だろうと思った相手が入ってきた。
テーブルについて紅茶を飲んでいる、朝からばっつり黒スーツ姿の男の側に、楽しそうにやってくると、
「お早うアルベルト。いい朝だね」
しかし、アラブの大富豪のような格好をしているその男の声は、あまり朝に相応しい雰囲気ではなかった。どちらかというと催眠導入に向いていそうだ。眠気を誘われたわけではないのだろうが、ちょっと左手で目をこすってから、
「そうか?」
素っ気無い相手に、嬉しそうにクククと笑うと、図々しく男の顔の前に身を乗り出してきて、
「一つ聞きたいんだがね。答えてもらえるかな」
「断る」
「君の先祖はえーと、インド、インド…」
断ると言っているのに勝手に質問に移行している。
しかし、またその質問かと思う。どこからどう伝わるのか知らないが、出身についての質問はこれで何度目かわからない。うんざりしてから、そういえばこの男にその話をしたことがなかったか?と不思議にも思う。いやむしろ何を今更といった感すらある。
相手はなんだっけな、んー、とわざとらしく考えている。イライラしてきて、だからインドの血を引くとかヨーロッバ貴族とかその辺のことだろう、と言葉を継いでやろうとした鼻先に、ああと大声を出して制した。
「わかった。思い出したよ」
それから、おもむろに、顔を覗き込んで、
「東インド会社で儲けたんだっけ?」
「違う!」
「おっと、そうだ。東はつかない。インドの」
「ああ」
「山奥で修行して、ダイバ・ダッタの教えを受けて」
「何故そういう話になるのだ」
勝手にレインボーマンの関係者にされた男は激昂した。相手は嬉しそうにあはははと笑って喜んでいる。手まで打っている。大喜びだ。
かんかんになって怒りながら、同時に馬鹿馬鹿しく、黒スーツ男はぎりぎりと歯をかみ合わせてからなんとかそれを治め、チッと舌打ちをし、横を向いて、
「バカが」
吐き捨てた。どういう訳だか、この短気な男がそれで済ませてしまう。いつものことなので慣れてしまったのだろうか。その顔をニコニコと満足げに眺めて、
「いやあ、君の罵声を聞かないと一日が始まらないからね」
「勝手に人をニワトリ代わりにするな」
「見たまえ。素晴らしい天気だ。純粋な青空だ。世界征服日和だ」
「人の話を聞け」
うーん、と窓際で顔を空に向け、気持ち良さそうに目を閉じる。それからちょっと微笑んで、唐突に、
「しかし、青空に衝撃波は似合わんな」
「なに?」
「この前君が見せてくれたが」
言いながら、男の隣りの椅子を引いて勝手に座る。その前に、からっぽのティーセットを左手で置いてやり、ティーポットを引き寄せながら、
「私が見せた?」
「嵐の夜にさ。国際警察機構の兵隊さんたち相手に、とびっきりの衝撃波をプレゼントしてやっていただろう?」
「ああ」
あれか、と言いながら、片手で無造作に紅茶を注いでやる。それこそ、とびきり上等の美しいなめらかな紅の色がうねりながらかさなりあってゆくのを楽しそうに眺めながら、
「見とれたよ。衝撃波は夜が似合う。いかづちよりもさらに白く輝いて…その一閃が君の顔を照らす。ん、いいね」
「何の寝言だ」
「とてもいい。推奨:夜間使用、加えて、悪天候の日に、だな」
そのどちらの条件にも微妙に合わない。辺りは薄暗いがまだ昼だし、風はあるが悪天候という程ではない。
そして何より、今のアルベルトの体には、とびきりのも、普通のも、やや出力不足のすらも、衝撃波をはなつエネルギーはもう残っていなかった。
脇腹から噴きだす血がとまらない。おさえてもおさえても、内側から溢れ流れ彼の服を汚し伝い、腰をおとしたその場所の雪を、真っ赤に染める。
同時に、彼の内側から、急速に力が漏れ出してゆく。
空は、明るい鉛色一色だ。正確な時刻がわからない。強い風が、雪原の表面の細かい粉雪を舞い上がらせる。息が苦しい。
くいしばった歯から急いた白い息がもれる。苦痛を堪え、何とか立とうとする。
喉がひゅ、と鳴るのを意地と誇りで押さえつける。この男の前で、喉をぴーぴー鳴らしたりするか、という鋼鉄の意志が、呼吸を宥め、もはや二度と体重を支えられるはずもない膝と脚とを、この決戦の地、極寒の雪山の上に立たせている…筈なのだが。
立てない。
どうしても立つことができない。
びゅおとひときわ大きな風が両者の間を吹き過ぎた。その後ほんのいっときだがふと気がついたというように風がやみ、狂ったように暴れていた相手の短い髪がおさまった。
太い眉、黒い肌、腕組みをして仁王立ちになっている。歪んだ口元、冷たく厳しい目に、鈍い光がともっている。不吉で凶悪な光だ。まるで、
弔問に訪れた人間の手の、提灯のように黄色く、か細く、しかし決して消えない光を目に宿らせているのは、神行太保の戴宗という名をもつ男だった。
相手も全身のあちこちに傷を負ってはいるが、両者のダメージの差は一目で明らかだ。
戴宗がふと腕組みを解いた。だらり、と体の両側に手を投げてから、相手の名を呼ぶ。
「衝撃のアルベルト」
「衝撃波というのは、どうやって出すのかな?コブシが音速を超えると出るのかい?」
「そんな訳があるか」
「何度も、側で見ているんだがねえ」
男は嬉しそうに首をかしげる。ぶん、とことさらわざとらしくへなちょこに拳を打ち出してみせて、
「こうかな?こう?」
ふんとそっぽを向く。
「やめておけ。たとえお前でも、そう簡単に出せるか。私の専売特許だ」
「ま、それはそうだ。餅は、餅屋だな。専売特許ならこっちも持っているぞ」
拳を解き、すーと指を一本、立てて、それをアルベルトに向かって突き出してくる。
「私は君と違って気前がいい。教えてやろう。力を抜いてこれを見たまえ」
アルベルトは顔をしかめた。
「やめろ」
「どうして。せっかく教えてやるといっているのだから素直に」
「よせ」
言葉で払った、直後、がくんと体が後ろに倒れ、椅子の背もたれに押し付けられる。
息がつまる。
正面に相手が立って、ただ、こちらを見ているだけなのだが。
影になった顔の中で、その目が、金色に揺らいでいる。口が微笑みの形を取っている。今、口を開けたらしい、歯をむきだして笑っている。
アルベルトは渾身の力で、何トンもありそうな重さに感じる右腕を持ち上げた。
「く、くく」
「衝撃波は撃たせないよ」
こちらへ指を突き出している、その掌をくるんと上に向け、指でついと上を指す。
途端、今度はアルベルトの全身をすさまじい勢いで、ある種の感情が包み込み、一気に縛り上げた。
「…!、………、………っ」
「うん、いい貌だ。すてきだよ」
心の底から嬉しくてたまらない笑い顔を見た時、アルベルトの中で、怒りが相手の拘束力を上回った。
ものも言わずに、全身全霊で相手の力を撥ね付ける。
「うわッ」
相手は、ぴんと張りきったゴムの向こう端がはずれてふっとんできたように、自分が後ろに仰け反った。その首をものすごい力で掴まれて、
「!」
今度はこっちが声を失う。
いつのまに側まで来たのか、アルベルトが左手で相手の喉を潰さんばかりの力でつかまえていた。右腕は拳をつくっている。
額から汗が流れて落ちた。
「ふざけるのも、いい加減にしろ」
かすれた声で、あえぐのを堪えながら怒鳴りつける。これ以上は無理というほど狂暴な目つき、あとほんの少しつついたら暴発しそうな目を、至近距離からじっと見つめて、男は不思議な程まじめな顔と平静な声で、
「さすがだね」
それから目を細める。
「あれを凌ぐとは。そうでなくては、我が友とは呼べないが」
「誰がだ」
荒く吐き散らして、左手で相手を突きのけるようにして放してやった。背をむけ、どすどすと椅子に戻る。全身を汗が濡らしている。足が震えそうなのだが、死んでも気取られるものかと無理に押さえつける。
相手は咳き込みながらうつむいて、喉をさすっていたが、やがて低い声で、
「ひどいことをするなあ。本当に君は乱暴だ。乱暴者。身勝手で短気で嫌われ者で、頭がイビツで」
「どさくさに紛れて好き勝手な事を言うな!第一貴様が先に馬鹿な事をしかけてきたんだろうが」
「ちょっとした親愛の表現じゃないか。頭がかたいんだからな、全く」
「殺すぞ」
相手がけたけたと笑ってからむせた。
暫く喉の調子を見ていたが、やがて「あー。あー」と言いながら再びアルベルトの隣りに戻って来て、
「でも、あれを撥ね返せたんだし、君にもこっちの才能があるんじゃないか。一緒にやらないか。ヒミツの特訓。手取り足取りじっくりと」
意味ありげに言って含み笑っている。
「結構だ。私は精神攻撃の類は性に合わん。ねちねちと念波を送ってるヒマがあったら、一発、拳を見舞った方が早い」
「単純だな」
「何だと」
いやいや、と降参するように両手を開いて見せてから、
「無理には勧めないがね。確かに、君にはあの衝撃波って最強の武器があるし、一番君に似合っている。あれがあれば、他のチャチなおもちゃなんか、要らないだろうが、ね」
あれがあれば。
アルベルトは歯を食い縛る。いい、立とうとするな。立とうとするエネルギーは、攻撃の方に使え。
しかし。
腹の奥から血が焼けるような嫌な味がこみ上げてくる。力が出ない。残っていない。
衝撃波を撃てない。
「アルベルトのおっさんよ」
戴宗がもう一度口を開いた。
「てめえとも長かったが、ここが最後だ」
得意げな口調ではなかった。なんだか、寂しそうにすら聞こえそうな声だったが、『ライバルをなくすのは寂しいから、見逃してやるぜ。次に会ったらこうは行かねぇぞ』といったセリフの準備は全くないことが、何故かわかる。
ここで終わらせる気でいる。
当然だ。戴宗は国際警察機構のエキスパートで、アルベルトはBF団のエージェントだ。敵だ。殺す、相手だ。
何年つきあいがあろうと、それは、互いが試合が終わった後は笑顔を交し合う好敵手の意味ではない。
最後は、どちらかの死を、もう片方がもたらす。
それだけが決まっていて、そこまではただひたすら、双方が死ぬ代わりに互いの味方が殺される、そのことが幾度も幾度も繰り返される。そういうつながりだ。
ただ、そのあまりに長くて遠い道のりが、ふと戴宗を寒いような顔にさせただけなのだろう。
その証拠に、一回目を閉じて、開いた時には、戴宗の顔が変わっていた。
全くの無表情だ。処刑人の顔だ。感情で、憎しみで、怒りで相手を殺すのでなく、職務で。任務で。義務で、相手の命を終わらせる人間の顔になっている。
左手を上げ、まるでビリヤードのキューの狙いを定めるように、掌で相手の心臓の位置をつかむように差し伸べる。
そのまま、右手を上げ、ぐっと握る。ぼぁ、と右手の周囲で空気が乱れた。更に強く強く握る。ぎゅうううう、と何かが捩れるような音がした。
最後に戴宗はアルベルトの目を見て呟いた。ひどくそっけない声だった。
「あばよ」
そのまま、戴宗の拳が、アルベルトの心臓を貫く、筈だった。
だが。
瞬間、戴宗の動きが止まった。
「なに」
それだけ言うのがやっとだった。
体が動かない。
驚愕する戴宗の目が見開かれた。
立つこともできず、雪の上にへたり込んでいるアルベルトの、片方しかない目が。
赤く揺らいでいる。
こいつ、何かやりやがった。
そう、はっきり自覚したのと同時に、すさまじい欲望が戴宗の体を突き破らんばかりに胸の奥から噴き上げてきた。
拳が震える。この拳で、
自分の心臓をえぐりたい。
「あ、あ、…」
それは、ほとんど手向かいも出来ないほど強い強い欲望だった。どれほどの飢餓状態における食欲も、禁欲生活の果ての性欲も、とても比較にならない程の、激しい圧倒的な衝動だった。
「!!」
声にならない悲鳴を上げた戴宗を、地面から見上げて、
「効いているようだな、戴宗?皮肉なものだ、どうしてもひとつくらいはとあまりにしつこいので根負けして、イヤイヤながら持たされたつまらん、ちゃちなおもちゃが」
片方しかない目が歪んだ。
「命綱になるとは。ヤツも大喜びだろう。業腹だ」
何を、ぶつぶつ、言ってやがる、と甲高く裏返った声で叫びながら、
えぐりたい。この掌で心臓を、俺の心臓を握りつぶしたい。
その感触を思い浮かべると、それだけで、どうにかなりそうだ。喉が何度も上下する。涙があふれそうになる。
…駄目だ、逆らえない。俺が馬鹿な自爆をやらかす前に、なんとか今、この男を倒さなければ。
気が狂いそうな葛藤と戦いながらその目でアルベルトの姿をもう一度とらえ、
戴宗は見た。
今そこで、力なく腰を落とし、ただ目だけで戴宗を発狂させかけている男、墨色に塗りつぶされたような顔の中そこだけ非常灯のように赤く一つ目を灯らせているアルベルトの後ろに。
誰かいる。
その誰かはアルベルトの両肩を左右から包み込むように手を添え、顔を上げて、こちらを見た。
笑っている。嬉しそうだ。本当に嬉しそうに、笑っている。
顔には見覚えがあった。死に顔だ。こいつの死に顔を俺は見ている。戴宗の顔が恐怖で青白く照らされた。
―――眩惑のセルバンテス!
気が遠くなる。俺は何を見ているんだ。俺は。
「ああぁぁああああああああああぁぁぁぁ!」
喉から血が吹き出る程絶叫し、戴宗は手刀のように指を伸ばし、それを、自分の左腕に突き立てた。鮮血が噴きだす。
こんなのじゃない。もっとちゃんとやれ。心臓だ。やらせろ。心臓…
しつこく愛をねだる女のように、自分の心がそれを欲しがるのを、戴宗は噛み切りそうなほど唇をかみしめて堪え、よろめきながら後ろへ下がった。と、
さぁー、という遠い音が遥か彼方から聞こえてきた。
戴宗は涙と汗と涎とでどろどろの顔、アルベルトはもう意志の力が切れかけた土気色の顔を上げて音の方向を見る。
はるかな上方の、雪原の表面を、一見靄のような霧のようなものが広がりながらこちらへ近づいてくる。
雪崩だ。戴宗があえぎながら怒鳴る。
「畜生、…こんな」
ところで死んでたまるか、のほとんどが聞き取れないまま、次第に大きくなってくる轟音でかき消された。
ぐったりと地面に座ったまま、アルベルトは胸で呟いた。
勿論だ。こんなところで死ぬ気はない。
少なくとも貴様をこの手で殺すまでは。我が右目と、
あの、いけ好かない気障な気取り屋の幻術使い、余計なことばかりわざわざ言っては私の顔を嬉しそうに見ていた、
あの馬鹿の仇を討つまでは。
ふと背後に何かの気配が動いた気がした。振り返る力も残っていない、その首筋のあたりで、
そんなふうに思ってくれているとは、嬉しいなあ。でも、素直に言ってくれてもいいじゃないか?盟友とか親友とか、最愛の相手とか。…
声がした気がしたが、アルベルトはそれは幻だとわかっていたので、胸に手を当てて遠くを見たり、天を仰いで慟哭したりは、しなかった。
今はあのくそったれの雪崩の中からなんとか生き延びることを考えなければならない。
「雪崩には、貴様が無理矢理押し付けたこのつまらんおもちゃは、効かないからな?」
そう呟いて、アルベルトはにやりと笑った。それは、今はもういない男のそれに似ていた。
アルベルト強化月間のようだこのところ(笑)
かっちんさんにも聞かれましたが「ある種の感情」とはエッチな気持ちでオッケーです。リビドーっすか?(笑)
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