「入ってろ」
太く荒々しい声と、実際に太い腕に突き飛ばされて、アルベルトは踏み止まろうとしたが、足首を鎖で縛られているため、それも出来ず、ドウと地面に倒れた。
顔で地面を擦る。歯を食い縛ったところで、背後の戸がばしゃんと、変に安っぽい音を立てて閉まった。
顔も体もあちこちズキズキと痛む。かなり痛めつけられたが、彼にとって民間人の拷問など、どうということはない。しかし、後ろ手に縛られた綱がやけにかたくきつく、手首に食い込んでいる。動かすと骨のきしむ音がした。
ざりざりと音を立てて、寝ていた状態からなんとか体を持ち上げ、地べたに座った。黒衣が土埃で白っぽく煤け、あちこち裂けて泥と血で汚れている。顔を背けてぺっと唾を吐く。血が混じった。
その時、この牢獄に先客がいたことに気づき、顔を向け、
「…!」
片方しかない目をむいた。
相手は先に気づいていたらしい。へ、とでも言いたげな顔の口元を、アルベルトが見慣れている角度にゆがめて、
「なんでぇ。おかしなとこで遭うじゃねぇか、おっさん」
かすれきった声を無理に絞り出し、咳込んだ。
随分と容赦無く殴られたり蹴られたらしく、人相も随分変わっているが、戴宗だ。
岩肌が剥き出しの壁際に、もたれて座っている体勢だ。足は投げ出している。バンザイしたくまのぬいぐるみみたいだが、そこからは動けないようだ。別に疲れているからとか、ひどく痛めつけられたためというのでなく、捕虜をつなぐための鎖が壁の上部から降りてきて、掲げている手首の鉄の輪につながっている。
アルベルトを見ている目も青黒くふさがり気味だ。その目がへっと冷笑して、
「ひどい御面相じゃねえかよ」
お前がそれを言うか、みたいな軽口を叩いてくる相手に、アルベルトは一瞬激昂し、それから馬鹿馬鹿しくなり、
「大分前から鏡を見ていないようだな」
「生意気に言い返す気か。ドジ踏んで捕まったくせしやがってよ」
「誰がドジを踏んだだと。わざとに決まって…」
言いかけてちィッと舌打ちをする。うかうかと乗っかって口を割ってしまった。相手が天を仰いでははは、と笑ったが、すぐに咳込んでうつむいた。咳をし続ける。
ろくにまともに喋れない状態のくせに、本当に口が減らない、と呆れる。こいつは多分、命の途切れるその瞬間まで、へらへら喋り続けていることだろう。
その顔はこの俺が見てやるがな、と物騒な誓いを新たにしたアルベルトに、ようやく呼吸を落ち着かせた戴宗が、
「まあそんなこったろうと思ったがな。狙いはなんだ」
ふん、と顔をそむける。もう喋るもんかという相手に、
「しらばくれんなよ。どうせ、ここのやつらが掘り出して、てめえらの教祖だか皇帝だかに祀り上げようってぇアレなんだろうが」
一人でずーっとべらべら喋っている。違うと否定するのも空々しく(またそれは『当たりだ』と言っているようなものだし)、実はそうなのだなどと言ってやる気はない。アルベルトは不愉快な顔で黙り続けている。
「御苦労なこったな、タマゴを探してこんな牢屋くんだりまで。特別ボーナスくらい出るのか?」
「偉そうに言うな!」
我慢できずつい、怒鳴り返してしまった。怒鳴ってからあーまたこいつに構ってしまった、という顔になる。戴宗は可笑しそうに笑って、再び咳込んだ。
大分呼吸が苦しそうだ。思えば声もガラガラだし、喉や胸を強打されたのだろう。今度はなかなか咳が止まらない。呼吸困難を引き起こしかけ、えずいて、口から唾液と苦痛を吐き出してやっと咳をくいとめ、浅い呼吸でなんとか胸を宥める。
「いい子だ、大人しくしてろや。あとで、好きなもん買ってやるからよ。…そうだそうだ、いいぞ」
嗄れた細い声でずぅっと喋っている。アルベルトは呆れ、また腹が立ち、つい、
「苦しいのならわざわざ喋るな。聞いていて不愉快だ」
戴宗の片方の眉が上がり、血と涎の伝う口元が歪んだ。笑っている。
細く浅い呼吸をいくらか繰り返しながら、
「いやいや、国際警察機構に兄貴を殺されたとかいう…奴がいてな…ここぞとばかりに意趣返しと来たもんだ。…全くもって、…迷惑な話だぜ。…はぁ、やっと落ち着いたか」
ぴゅーぴゅー鳴る喉で二重奏を終える。
はっきりと、今の苦闘で、体力を更に削ったらしい。顔色が鉛色になっている。
「まぁ、…俺の目的は、おめえとは、無関係だ。…その時が来たら、出ていくから、…それまでほっとけ」
「偉そうな口をきくな」
先刻と同じ意味の言葉を口にしたが、今度はヒステリックにはねあがった声ではない。低く冷たくねじりこむような声だ、本気で怒っている。戴宗の片目がぴくりと動いた。
おっと。こいつのプライドを傷付けたらしいな、と腹の中で口笛を吹く。
この男にとって、『お前の存在は目下二の次だ、お前なんぞと戦ってるヒマはない、お前なんぞと戦うのは暇つぶしなのだ』に類することを言われるのは、
そしてやっかいなことに、この俺様に言われるのは他の誰に言われるよりも、
こいつを激昂させる。
いつなんどきであろうとも、「衝撃のアルベルトと出くわしている」というのに、それ以上に重要なことがあるからお前の存在になんか構ってられないんだよと言うようなアホウが…
二人といない宿敵などと。
断じて、首を縦に振れることではないのだ。
わかってる。たとえ今互いが別の目的の遂行のため、逃げ場のない牢獄の中、お互い拘束されていようとも。
片方が、ちょっと蹴れば下手すると、というところまで衰弱していようとも。
そんなことは何一つ、「黙ってたって一時休戦てことになるだろうが」なんて、意味はもたない。
殺るとなれば相手が指一本動かせない瀕死の重病の床にあろうと殺る。そういう相手なのだ。お互いにだ。
その絶対の覚悟と極限の緊張感でもってつくられた鎖で、俺とこいつは繋がれている。
この鎖を切れるのは、どちらかの、あるいは両者の死という斧だけだ。
「そんなこたぁ、わかってら」
呟いた。
馬鹿馬鹿しい。てめえがその拳に本気の殺意を乗せて今俺に向かうってんなら、俺は今俺を繋いでいる鎖を引きちぎってでも、迎え撃つ。
そのくらいの覚悟は出来ている。
「その上での」
命懸けの減らず口だ。そんな、片目をひん剥いて怒って見せなくてもわかってるに決まってるだろうが。バカ野郎が。
息が苦しいためか、そもそもきちんと全部伝える気がないのか、思考内容を切れ切れに少しだけ吐き捨て、続けて咳込む戴宗を見据える、アルベルトの一つ目は、未だジリジリという音が聞こえそうに、青白く冷え切った焔をあげている。
今にも後ろ手の綱をちぎって、背骨まで砕けるほどの衝撃波を見舞いそうだ。
余程、腹に据えかねたらしい。
だが。
その手のことを言えば、こいつがこうやって悪鬼みてぇに怒るってのは、承知の上で…
俺はどうして、時々そういうことを言うかな、と戴宗は思った。
いつも意識して言っている訳ではない。こいつをわざと怒らせてその顔を見て喜んでいる訳ではない。自分はそれほど自信過剰ではない(ウソだ、と言うヤツの顔が途端に何人も浮かんでくるが)。下手に怒らせれば始末はこのうえなく悪く、下手をするとその場の状況が最悪なものに変わりかねないというのに。
それこそ任務の遂行に決定的で重大な支障を来たすことになるかも知れないというのに。
今などは一歩間違えばこの場で自分の首が胴と泣き分かれても不思議はないのに。
それでもなお自分が、こいつの導火線に火をつけようと、マッチを擦るようなマネをするのは…
どこかで、
ぶちきれたこいつと一戦交えたいと、思ってるってことか?
おいおい。
「冗談じゃねえや」
それこそ、俺は趣味や道楽で世界征服をたくらんでる連中とは違うのだ。
おうし、かかってこい!よっしゃ!なんて、子供の相撲とは違う。飽きるまでやったら「やーめた」で終わる遊戯とは違う。
だが…
俺の中にもあるんだろうな。
なにもかもぶんなげて。
任務も使命もてめえの命さえも。明日も未来も。
なにもかも投げ捨ててただ、全力をあげて戦い、相手の胸板をぶち抜く快感だけに酔いたいという…
歪んだ真っ黒い欲望が。
紙っぺら一枚の辞令ひとつで、死地にでも地獄にでも向かうことを、
不服に思ったことなんぞありゃしねえが
その快感を手にしてみたくて、
俺は、もうすぐ落ちるとわかっている橋の上で、こいつが来るのを待っているようなところもある。
多分な。
一瞬、意識を失ったらしい。がくんとなって顎が上がった。
「いけねえな。…あんまりヒマなんで、…寝ちまった」
尚も虚勢を張りながら、ちらと見遣ると、アルベルトはさっきまで座っていた位置から、壁に寄りかかって、座りなおしていた。手は相変わらず背にあり、座りづらそうだ。
「律儀な野郎だな。…そんなヒモ、ぶっちぎれば…」
「その時になればそうする。貴様の知ったことか」
「あぁそうかよ」
御同業様って訳だ。…俺もなんとか、『その時』とやら来たら立ち上がってこの鎖をぶっちぎれるように、体力を戻しておかねぇと…
こいつに本気でかかってこられりゃちぎれる鎖でも、眠たい警戒音なんぞじゃ無理かも知れねぇからな。
小声で、ぶつぶつ言っている相手をちらと見た時、差し入れだといって容器に入った水が格子の隙間から入れられた。
どちらも、動かない。戴宗は動きようもないが。
「這ってって飲まねぇのかよ」
返事のわかっていることをわざと聞く、とアルベルトは思ったので、返事をしなかった。
「あと3分で射程距離に入ります」
よし、と答えて、幻夜は足を組み直した。
「わたしの前に立ちはだかるとは、どこの現地ゲリラか知らんが、身の程知らずめ」
整った白い顔に、どす黒い笑みが浮かぶ。
「容赦無く叩き潰せ。一掃しろ」
よく通る明快な声が楽しげに言い放つ。
その後ろに立って、葉巻を燻らせながら、アルベルトはちらとそのきれいなラインの横顔を見た。
実際楽しそうだ。嬉しげだ。コドモが、もうすぐ敵の陣地を奪い取れそうでわくわくしている顔だ。
どこまで本当に理解しているのだろうな、と思う。勿論、この男とてもうすぐ三十だ。もう大人だとかなんだとか表現するのすらおかしい。
しかし、どこかこの男は偏っている。大人になりきっていない、などと解りやすく納得しやすい言葉には、実は当てはまらない。最も近い言葉で言えば、それかも知れないが。
自ら背負った荷物が重すぎて、無理矢理背負えるように体だけ大きくした、といえばまさにその『大人になりきっていない』になるのだろうが、それとも少し、とアルベルトが胸で呟いた、
その時だった。
「進行方向、巨大ロボット出現しました」
部下の怒鳴り声が響き渡る。
「メインに出します」
頭上の12分割パネルがぱっと切り替わる。燃え上がる紅蓮の焔の中、巨大な暗黒のシルエットは、誰もが知りすぎる程良く知っている形だ。
「GR1!」
全員の声、それから一拍置きざられて、
「大作くんが何故ここに」
幻夜の呆然とした、かすれた声が部屋の空気を打った。アルベルトの頬が歪む。
「GR1、我々の進路上をこちらへ向ってきます!」
「GR1の推定射程距離まであと僅かですがいかがいたしますか?」
「幻夜さま!」
怒鳴られ、幻夜の顎が上がる。顔は真っ青で、くちびるは震えながら開かれたまま、言葉が出てこない。
「幻夜さま、御指示を!」
再度要請されるが、応えることすら出来なくなっている。
後ろにいたアルベルトが鋭く叫んだ。
「攻撃準備」
はじかれたように幻夜が座席から飛び上がり、待て、と叫んだ。
「いい。構わん。攻撃用意」
尚も言い続ける相手の胸倉を掴んで、白いスーツの男はわめいた。
「待ってくれ、アルベルト殿、待っ…」
途端に突き飛ばされた。すさまじい一撃だった。衝撃波を乗せていたのかも知れない。幻夜は足を床につくことなく、壁まですっ飛んで激突し、床に落ちてくずれた。咳込む。
「こうなることは始めからわかっていた筈だ」
冷徹極まりない声が、長い黒髪を揺らして今も咳込み続けている男の上におちかかる。
「今、ここで、うろたえて懇願しあの子供の命乞いをするのなら、最初からBF団を去っているべきだったな、幻夜」
相手の声に怒りの感情がないことが、更に、幻夜の屈辱と絶望を増す。
しかし、ここで恥辱と痛みに震えている場合ではないと、懸命に叫ぶ己の声がする。
わたしが。
今のわたしがここ、この場所にいて、やることは。やれることは。
「待ってくれ。頼む」
床に手をついた。頭を下げる。
「わたしがなんとかする。猶予をくれ」
血が、こめかみを伝ってしたたり、床と白い服を汚した。その有様に、その無様さに、アルベルトはくちびるをゆがめ、眉をひそめ顔を背け、
「見られたものではないな」
唾を吐きそうに、
「恥を知れ、いやしくもBF団のエージェントが。己が惨めにならないのか」
「惨めだ」
そのくちびるもまた、伝う血で汚れた。
「多分耐え難いだろう、とても堪えられまい、…かつてのわたしであれば。だが」
「あの子供が強くしてくれたなどとほざいたら、殺すぞ」
アルベルトは絶叫し、幻夜は黙した。ギリギリと音がする。
幻夜が、奥歯を噛みしめる音だ。
数秒の、全くの沈黙が空間を支配した。ただ、無機的な機械音だけが、あちこちの端末から響く。
アルベルトが口を開いた。
「ローザ」
「は」
即座に現れた女に、
「大作を拉致し捕虜にしろ。面倒だ、最初に腕時計を奪え」
「かしこまりました」
応えて、下がろうとした。突然、追いすがった幻夜が彼女の手首を掴んで、
「草間大作を傷つけるな。いや…傷つけてくれるな」
部下というか手下というか、幻夜の立場からすれば下も下の相手にそんな言い方をする相手に、ローザは複雑な、ちょっと嫌な気分になって、
「殺せという御指示がありませんでしたので、殺しはしません」
そんな言い方をして、一礼すると、やんわりとだが、相手の手を振り切って、出ていった。
扉の前で佇む幻夜を、アルベルトはもはや見もしない。
吸いかけの葉巻を左手の指で折って、思う。
通路を、ヒールの音を響かせ走り抜けながら、ローザもまた、思った。
まるで、BF団の中にひとり、もはや国際警察機構の捕虜となっている男がいるようなものだと。
冒頭のアルベルトと戴宗は、共通のお題の『水面』の前の部分、という雰囲気です。
時々、あの二人の宿敵という関係について思いを馳せる。同じようなところを走り回って終わるんですけれどもね(笑)
そして後半の話最大の謎。BF団の皆は一体どんなものの室内にいるんでしょうか。目玉じゃないだろうし…すみません。映像は頭にあるんですが。うまく説明できませんでした。
![]() |