「問題の地点というのは、ここから先か」
中条が呟いた。行く手は昼尚暗い、幾多の樹木で陽が遮られている森林だが、ここまでの景色とどこがどう変わる訳でもない。部下がはいとうなずいて、
「この先の何処かで、得体の知れない事態が生じていて、先に進めません」
「先に進めないとは」
ごくりと、部下が恐怖をのみくだした。
「潜入した者が全員、精神が破壊された状態で発見されるのです。いつの間にかこの付近に戻って来ていて、気が…」
「磁気は狂っているようだな、ここから既に」
呟いた手にあるコンパスは、頼りなく赤い矢印をふらふらと彷徨わせ、最後にくるりと半回転して再びゆらゆらと揺れ始めた。
「火山の麓ですから、様々な『北』を内に持っている土地ではあるのでしょうが、しかし」
斜め後ろから控えめに申し出た呉の声に、中条はうん、と応え、
「磁気が狂うと、人も狂うというのは、極端に過ぎる」
「敵の仕業でしょうか」
「樊端あたりが悪戯をしているのかも知れないがな。いや、そんな暇はない筈だ。時間がないのはどちらも同じだ…やむを得ない。わたしが行こう」
部下たちの表情が微妙に揺れる。目的地はうっそうと広がるこの森の向こうだ、早くしないとその大規模な生物兵器研究所で、BF団の恐るべき作戦が発動するらしい。中条長官自ら出向いてでも、現状を打開しようというのは解る。長官に出向かせる、自分たちが情けないと言えば情けない限りだが、この先の脅威は一兵卒には手に余る。何も映らない目をして、真っ白い表情のまま時間を止めてしまった仲間たちを前にして、自分ならば大丈夫だとはとても言えない。
一歩、前に出た中条の背に、
「お供することをお許しください」
最初からその覚悟をしていたらしい、呉の声が投げかけられた。とりたてて大声ではないが、触れたら火を吹きそうな響きだった。
中条はちょっとうつむいたが、それは袖口のボタンがはずれたのを留めるためだけ、だったらしい。すぐに顔を上げ、振り返らずに、
「駄目だ」
あっさりと返す。相手の声がはらむ熱など、欠片も気づいていない風だった。一瞬息を呑んだが、この反応も覚悟していたらしく、特に取り乱すこともなく、
「何故です」
「万が一の場合には君に処してもらわなければならないからだ」
「万が一の場合とは、何でしょうか」
敢えて、重ねてそう尋ねる声に、
「わたしが戻らないか、わたしの精神状態がおかしくなって戻ってきた場合だ」
はっきりと答える。まるで、他人事だ。いや、他人のことであれば、ここまで淡々と口にはしないだろう。
もしも、長官がそんな状態で戻ってきたら。…
そう思ってみるだけで、胸が張り裂けそうになり、思わず絶句した呉に、
「そうなったら、本部と連絡を取って次善の策を考えてくれ。頼んだよ」
結局一度として振り返らず、中条は森の中へ、迷うことなく入っていった。
その背を睨みつけるように見つめながら、呉は胸で叫ぶ。
わかっている。わかっている。私はあなたの忠実な、有能な、信頼できる部下だ。いや、それを目指している者だ。
この状況下で、万一の時には君に頼むから残ってくれ、といわれることは、誇ってもいいくらいのことではある。そうだ、あなたは本当には他人になど頼らない方だ、他者の力などあてにはなさらない方だ。そのあなたに頼んだよと言われたなど、
威張れることなのだろう?胸を張れることなのだろう?
ほとんど憎しみに近い憤りを、かたく握り締めた拳と双眸に込めて、今ギリリと奥歯を噛んだ。
ついてきたところで君の力などいらないのだと、はっきり言えばいい。君にできることなど、ただそばで心配しているくらいのものだと。
しかしそれでも。
ほとんど、憎しみに近い。これほどまでに強く激しい感情は、憎しみくらいしかない筈だ。これほどまでに―――誰かの身を案じて張り裂けそうなこの胸の中身はただの、無駄で無意味な少女趣味だと、あの背が言っている。
けれど。それだけではないのだ、自分のこの不安は。だが、どんな言葉をもってくれば、それを証明できるだろう?そうだな、頼む、ついてきてくれと言ってもらえるのか?
「呉先生…」
部下の一人が、遠慮がちに声をかけたが、それ以上何といえばいいのかわからない。呉は振り返るほんの数秒で、心と表情をたてなおし、済まない、気を使わせて、長官なら勿論ご無事で戻られるから安心してお待ちしよう等々の言葉、心の入っていないそのいくつかを、用意した。だが、それらを言う前に、
「やっと追いついたところに、あんたのそんな顔を見せられては、がっくり疲れるな。どうしたい、先生よ」
全身傷だらけで、あちこちに申し訳程度の布キレを巻きつけた戴宗が、姿を見せた。お前ら、ちょっとあっち行ってろ、と部下たちを指先で追い払ってから、呉に向き直って、ニヤリと笑う。目が鈍く光った。激しい戦闘の後だろうに、精神状態は高揚するよりむしろ陰鬱に沈んでいるようだった。
「戴宗。ちゃんと手当てを」
「要らねぇって。ほっときゃ血なんて止まる。俺の怪我よりだな、何があった?どうなってる。この先で」
喋りながらつと指を伸ばして呉の鼻をブー、とブタにする。思いも寄らない素早い動きで、呉は慌ててのけぞって逃げてから、
「精神を破壊するなにものかがいて…いや、あって、森を抜けられないのです」
「なにものかねえ。なんだろうな。ハタ迷惑な話だな」
相変わらず呑気な調子だ。狭い通路を自転車が塞いでいる、話でもしているようだ。
「で、中条長官が奥に入って行かれた。お一人で」
「はぁ。相変わらずご苦労さんなこった」
その軽々しい口調と、最後にはぁんとすくめてみせた肩に、呉はぶちんといった。感情を押さえつけていたのが噴き出したせいで、珍しく、
「ここをなんとか通らなければいけないから、時間がないから、それで長官が自ら出向かれて、しかし危険なのですよ。極めて危険なのだ」
言葉がめろめろになった。
「そんなことは長官は、百も。二百も承知の上だろうが。落ち着けよ、先生」
相手が落ち着ける状態ではないのはわかっているくせに、そんなことを言う口ぶりは、いつもの軽い調子なのだが。
そう言いながら伸ばしてくる手を避けようとしたが、あえなく肩を掴まれる。思わず見返した相手の目が、尋常でない。暗がりの中から、こちらにとびかかるタイミングを計っている獣のような色に、呉は正直身がすくんだ。
冗談めかした、しかし奇妙に低く昏い声が、
「あんたはいつもそうだな。いつもはめそめそ泣きながら、泣き顔の裏で何だって計算してやがるくせに。あの人のこととなると、途端にただの、」
「やめて下さい」
低い声で遮る。ただの何と言われるのか、聞くのが嫌だったのだ。怖かったのかも知れない。
何か言葉を続けようとしながら続けられず、俯いた相手の顔を眺め回す戴宗の頬が、一回、僅かに引きつったが、
「ま、そーんなに心配なら、ムリムリついていくんだな」
突然、掌を返したように元気のいい建設的な調子になる。呉は驚いて、反射的に、
「でも、事後を頼むと長官に…私の持ち場が…」
「いいじゃねえか。持ち場が何だってんだ。どの道、一人残らずあぶねえ橋を渡るには違いねぇんだぞ。橋のどの辺を渡るかくらい勝手にさせろ、ってなぁ。
第一、長官でも太刀打ち出来ねえ化け物が相手じゃ、俺たちが雁首揃えて大人しく控えていたって、意味ねぇって。いいから追っかけな」
どういうつもりなのだ?いかにもつくった感のある、やる気まんまんの明るい、ひたすら明るい色で塗りたくった仮面のような顔を、呉は返す言葉もなく見た。
「ここは俺が見ててやるよ。安心しろい。ただし、あんたの気がふれて戻ってくるハメになっても、俺は知らねえよ」
ははは、と快活にそらぞらしく笑って、さあ行った行った、とずっと掴んでいた呉の肩をくるりと回して、森の方へ向けると、とーんと突いた。
ニ三歩、よろけて進んでから、困った顔で振り返る。
理性はやめろと言っている。心配でたまらなかったので、と女のようなことを言って後を追ってきたら、長官はどう思われるか。嬉しいなどと思われる筈がない。
『留守番すら頼めないのか、君は』
落胆をやれやれと言いたげな笑みに変えて、妙に明るい眉の端に見せるだろう。この上なくあっさりと、冷淡に、残酷に。長官のそんな表情を見たいのか?
けれど、
魂は、あの背を追おうとしている。この、息すらせわしくなるような不安が、決して単なる少女趣味でないのだと、言葉で証明できないなら、仕方がない。なんと侮辱されようと、君は何なのだと呆れられ罵られても、自分の命と体で降りかかる災厄をはらってみせよう。結果、あのかたを護れれば、それでいい、それで満足だ。労いはいらない。
こんな自己犠牲がそもそも、少女趣味なのかも知れないが。
二つの心が中でせめぎあい、ぶつかりあって、先に表面に浮かび上がって来た方が、呉の口を開かせた。
「戴宗、すみません、あとを頼みます」
無言で微笑し、しっしっと指で払う。一回、頭を下げ、後は振り返らず一心に、緩やかな坂になっている道を、森の奥へ駆けていった。
「羽のように丘を下り、愛しい彼のもとへ、か?」
戴宗の口から、昔の流行りうたが流れ、それから、馬鹿なことを言ってんじゃねえよ。自分に言う。ああやって走っていった先で、気が狂うかも知れないんだ。俺がまともなあの男の背を見るのは、これが最後かも知れないんだぞ?
なら何故行かせた。
危険なのだと聞かされるまでもなく危険だろう、行くなと止めるならいざ知らず、躊躇している細い肩を何故、森へ向かわせた?
あの男が想ってやまない上司のもとへ。
そのひとの身を案じて案じてあんな表情をしている白い顔を見た時、どす黒く苦いものが自分の腹の底からわいてきて、
ひどく不快で、でも、同時に、ひどく哀れで。
なんだか。
ひどく屈折しているけれど。
「恋のキューピットか?違うな。どっちかっていったら、…
心中をそそのかす死神の方かな」
馬鹿だなあ、呉先生よ。あの人がそんなに心配かよ。てめえのおつむの心配をした方がいいぜ。もう明日からなーんの心配もしない人間になるかも知れねえのに。そもそも、
「あんたが行ったところで、何の役に立つんだよ」
呉が聞いたら、『言われなくてもわかっている』と言い返しながらその実深く傷つくことを、戴宗は口に出して言った。もうここに居ないからだ。
緑に沈む木々がふと切れた。
見上げると、遠くに青いものが見えた。空だろうか。それからふと疑問になる。今は、空が見える時刻であったろうか?さっき時計の文字盤を見た時、そこにはどんな角度の針があったろうか?さっきとは、どのくらい前のことだったろう。何故そんなことがわからないのか?時間の感覚が麻痺するほど歩いてきたのか?
しぃん、と静寂の音がしている。こんなに巨大な森だというのに、鳥や獣の気配がないことに、勿論中条は気づいていたが、
それよりも注意を払うべきものがある。
森の中にふと出来た、円形劇場のようなその空間の真ん中に、膝を抱えて座っている人間がいた。汚れた布をすっぽり頭から被っている。性別も歳もわからない。ただ、あまり体格のいい人間ではないようだ。
中条はゆっくりと近づいてゆき、あと十歩という所で立ち止まった。
相手は顔を上げない。身動きもしない。何も言わない。
暫し、その姿を目でなぞってから、
「お前は誰だ?」
尋ねた。
『私はお前だ』
返事が返ってきた。
それは、自分の声のように聞こえた。自分がそこに座って喋っているのかと、一瞬何の意味も無い可能性さえ考えた。
バカなことを言う。ならここで考えている自分は誰だ。
『そうだ。私はお前だ。ならお前は誰だ?』
淡々と静かに、意地悪く聞こえるほど穏やかに呟く。中条が相手を弄っている姿そのままだ。
だが、中条は動揺することなくやはり相手と同じように淡々と、
「落語のような言葉遊びやいかにもな心理劇は結構だ。私が誰であろうとどうでもいい。私はしなければならないことに追われている者で、そのことの方が重要だ」
『お前はお前が誰かはどうでもよく、しなければならないことの方が重要なのか?』
しつこく言葉を繰り返して口にするのは、自滅のためのキーワードを無意識の下に植え付けるためか、と中条は思った。
部下たちが錯乱したのは、おそらくこの者との会話によるものだろう。敵だろうか。BF団の、催眠暗示の手錬といったところか?それとも…
中条がそう思いながら、気がついたらまた外れていた袖を留めようとした時だった。
『私は敵なのか。BF団の手の者か。催眠暗示に長けた者なのか。それとも、』
そう尋ねてきた相手の声が、にわかに別人のものになった。
なんだと?
『それとも。思ったな?あの者に似ていると。この声だろう。今ここにいるわけがないが、な?』
要するに、相手の考えていることが読める能力者ということだろう。
中条は特に慌てず、そう判断した。相当精度の高い読心能力のようだし、読んだ内容に同化してみせる力もあるようだが、化け物や妖怪の類ではない。いてもおかしくはない、現に昔、会ったことがある。私が自分で…
相手がするりと、身を包んでいた布をかきわけて、顔を僅かに覗かせた。
中条の、心と目の表情を遮断する黒いガラスは、勿論彼の何も映しはしなかったが、
そこには、
『思ったな?かつて自分が殺したあの者のことを』
そして微笑んだのは、大作があのまま成長したらこうだろうか、と思うような、茶色の柔らかな優しい目をした、青年だった。髪の質も似ている。ちょっと猫っ毛で、くせがあって、すぐに寝癖のつく髪。いつも、ある一部分をはねさせて、自分では気付かないでいた。まっすぐに、中条を見つめていた、どんな時でも。
この手の中で最後の呼吸を握り潰した瞬間でさえも。
その、時の全て、掌の感触、相手の表情、声、空気の色や温度、嗅ごうと思わなくてもたちのぼってくる鉄くさい臭気などが、中条の足元から全身を押し包んだ。その、時に自分が胸に抱えていたもの、もう一度蘇らせて思い起こすことは決してしないと封印していたものが、一気に、中条の中に充満した。
―――――
常人であればあるいは、精神が崩壊していたかも知れない。それ程の衝撃ではあった。しかし、血の気などなくなった顔ながら、我を失って叫び出したり気絶して倒れたりということはなく、変わらずその場に立っている相手に、
『違うのか。これではないのか。まだか』
茶色い髪と瞳の青年は、あてが外れた、という顔でちょっと笑ってから、ふうむと考え込んだ。
「もうやめろ」
無表情な声に、相手は目を上げる。
汗一つかかない額で、中条が言った。
「最も思い出したくない場面を再現して、相手の精神を破壊するという訳か?悪趣味だな。それに無駄だ」
『確かに、お前には随分効きが悪いな。悪すぎる程だ。もしかしたらお前はロボットなのか。…違うな。人間のようだ、取りあえずは』
相手の、真面目に考えているらしい口調に、中条は反射的に笑いそうになった。いいや、案外ロボットかも知れないぞ?
あんな光景を見ても、またかとしか思わないなど、普通、それは人間ではない。
そして、私が人間であるかないかも、どうでもいい。『しなければならないこと』の前では、私が何であるかは、さして重要ではない。そういう世界で生きている者だ。幾度も、幾度も、自分の血まみれの手を見ているうちに、いつしかそれが日常になっていく、世界で。
『血まみれなのは、いつもお前ではない筈だ。お前の一番近くにいる者だ。お前はそう思っている』
その言葉が耳にとどいた瞬間。
おまえのいちばんちかくにいるものという言葉が、制する間もなく、中条の内部をこじあけた。
『これだな。やっと見つけた』
相手は嬉しそうに笑った。呉がそこに座って、汚い布の中からにこにことこちらを見ている。
『これから面白いものが見られるぞ。見つけるのに時間がかかった分、たっぷり見せてやるから、楽しみにしていてください、長官』
途中から呉の声になった。呉の口調になり、呉の息遣いになった。と、認識するかしないかのうちに、
呉の絶叫が上がる。目の前の、呉が、背後から見えない刃物に切り裂かれた。血が噴き出す。たちまち、地面と呉自身が朱に染まった。
『長官』
直後、ゴボと口から血が溢れた。咳込む。地面に血が撒かれた。
中条は動かなかった。傍目には、何の感情も動いていないようだ。先刻と同じように、ちょっと手をぶつけて痛い程度なのか、慟哭しのたうちまわる程の苦痛なのか、判別がつかない。
『昔の記憶を読んで、再生する程度だと思ったのですか?』
目の前の呉が、あの青年の声と呉の口調で尋ねてくる。白い額からは血が流れている。
『違う。あなたの中にあるものなら、どんな形であれ取り出すことが出来るのです。
これは、あなたが思い描くものだ。あなたの望みです』
「私は」
自分を必死で制しているのか、面倒くさいが仕方なく付き合ってやっているのか、やはり解らない声で、
「彼が切り刻まれてゆく姿など、望んでいない」
『そうですね。彼はあなたの一番近くにいる人間ですからね。あなたの心が、自分の一番近くに置いている人間だ。しかし』
呉が、血に染まった顔で、にこりと笑った。中条の唇が、僅かに開いた。
それを見て、心から嬉しそうに、にっこりする。白い歯を見せる。その脇を、真っ赤な血が流れてゆく。
『人間は一番大事なものが出来ると、それが失われるところを、必ず考えるものなのですよ。どんな形で自分の側からいなくなるのか?命がなくなってか。心がなくなってか。
その中で、最も見たくない離別はどれだろうと思案するのです。どのネクタイにするか、迷うようにね。どこかで、それを願うのですよ。
先ほどは危ぶんだが、あなたもやはり人間だったようだ』
今度こそ、はっきり、中条は絶句した。
『あなたの中には、彼が彼で無くなる、あらゆる姿がとりそろえてあるのですよ。
これから、ひとつずつ、お見せしますよ、長官』
呉の声に戻った。
『どこまで、あなたはあなたでいられますか?どの私と、一緒にいってくださるのでしょうね?
その時の私が、あなたが最も見たくない私なのでしょうね』
はにかんだ笑顔を見せる。
『私も知りたい。それがどんな私か。
その時の、あなたの顔が見たい。その時こそ、私はやっと、』
頬が赤らんだ。
『あなたを、本当に心から愛するでしょう』
奇妙な程真摯に、呉は言った。
もはや。
これは、自分自身が考え出した悪趣味な、歪んだ願望を、呉先生に言わせているのだろうか?
この不気味な途方も無い力の敵が、呉先生の像を利用して、発狂の引鉄の暗示を、こちらに植え付けているのだろうか?
それを判断することが、出来なくなってくる。
迷うことこそ、敵の思うところだと、いくら自分に言っても、気づいたら沼地に差し掛かっていたように、足がもはや抜けなくなっている。
そして目の前で、今ゆっくりと始まった、悪夢のような光景から、目を、意識を、逸らすこともできなくなっていた。
長官。
長官。
ちょうかん。
逃げて下さい。私を置いて早く行って下さい。
布の裂ける音がした。
お願いです、見ないで下さい、私のこんな姿を。
辛い。あなたに見られていると思うだけで、死にたくなる。いっそ死んでしまいたい。生きていたくない。
あまりに無残な光景から、中条の精神が逃れようとする。終わりにしようとする。
「どんな形であろうと、結局私の前から引き剥がされて無残に踏みにじられるのなら」
そうです。
いっそあなたの手で殺して下さい。
それなら本望です。
他人に踏みにじられるくらいなら、あなたの手で、
「私の?」
絶望と悲しみの中にも、幾分か甘美な陶酔の匂いがする。
「これなのか?」
私が見たかったのは。
私に殺される君の姿なのか?
足が一歩前に出た。遠くで何かの音が聞こえる…
「長官!」
力強い、凛とした、と言えればいいのだが、実際には、余裕の全くない、あわをくった悲鳴混じりに裏返ったかすれ声が、中条の耳を打った。
続いて、誰かが後ろから走ってくる音、そしてその手が肩に届く寸前、つまづいたらしく、
「わあっ!」
中条の背中にもろに顔から突っ込んだ。頭突きをされた形の中条はのけぞって、更に一歩足を前に出し、踏みとどまり、振り返った。
全身汗みずくの呉が、青ざめた顔を上げた。額もびっしょり濡れていて、乱れた髪がはりついている。
その、男を見つめたまま、中条が苦しげに低く呟いた、
「君は、…本物の、呉先生か?」
しわがれた、十も歳をとったような相手に、息を呑み、
「そうです、本当の呉です!長官、しっかりなさって下さい」
全身で叫んだ。相変わらず、泣き出しそうに裏返った、情けない悲鳴のような声だ。
「どうなさいました。あそこにいる奴が何か見せているのですか?」
怒鳴りながら、鉄扇子を引き出し、身構える。
「あれは」
地面に倒れているのは。中条が蒼白の顔で、あの呉先生は…と呟き、ついに、耐えられなくなったように、片手で口をおさえて、ニ三歩後ろにさがり、がくりと膝をついた。
まるで、肉体にとてつもない負荷をかけられたように、身体が動かない。心臓が今にも止まりそうになっている。脈が飛ぶ。必死で立ち上がろうとしたが、膝についた手ががくがくと震えているだけで、とても無理だ。
それを見た時、呉の身体の中に灼熱の憤りが噴き上がった。
「おのれ!」
呉が怒鳴って、敵に向かって駆けようとした。と、
相手が、うめき声を上げてから、顔を上げた。呉の身体がびくんと震えて、動きを止める。
「そ、そんな」
『君は大変わかりやすいな。探すまでもない』
うめき声は、低い笑い声に変わっていた。
『目を逸らすなよ。今から君を、戻れないところへ行かせてやるからな』
呉が息を吸い込み、吐き出す音がかすれて聞こえる。
ダメだ、呉先生、あれは敵だ。
心でうめきながら、声は出ない。くちびるも身体も全て、見えない紐できつくかたく縛り上げられたようで、倒れないでいるのが精一杯だ。目も、閉じたきり開くことさえできない。
君が見ているのはおそらく、
白衣と白い髪の、温和な笑顔の博士なのだろうな、
そのひとをもう一度失ったら。いや、君はそのひとが死ぬところを見てはいない、だからこそ、
頭の中でどれだけ、様々に想像したか、わかる。
そのひとが…
苦しんで苦しんで絶望に顔を歪ませて、崩壊してゆく姿を。
夢にみては飛び起きただろう。今だってそうなのだろう。
それを実際に目の当たりにしたら、
おそらく呉先生の精神は。
ごせんせい、と懸命に口を開いたが、声にすらならない。呉の背がふらと動いた気配が伝わってきた。
『たすけてくれ、頼む』
倒れている相手が、誰かの声でそう言ったのが聞こえた。不思議だが、中条にはそれが、あの博士のものには聞こえなかった。心の中から誰かの像を引き出されている、本人だけが、そのひとのものとして受け取るのかも知れない。
私が。
あの青年や、呉先生の姿を、目前に見たように。
呉の気配が、ゆっくりと傍らを離れ、相手に近づいて行くのを、深い無力感と絶望感の中で感じとり、
呉先生。
何故来たのだ。
怒りと悲しみの叫びを、ただ自分の中だけで叫んだ中条は、一度も聞いたことのない男の絶叫が響き渡った時、歯をくいしばって目を開けた。
呉の背が見えた。
ただ、ぼんやりと立っているような背だ。どことなく頼りない。
そして、呉の向こうに、汚らしい布に包まった何者かが倒れているのが見えた。
「…、…呉先生」
その背が振り返った。呉が、白い顔でこちらを見ている。その目は、どことなくはっきりしないようだったが、今ゆっくりと中条に焦点が合った。
「長官」
それから、ひくひくと笑うような、泣くような痙攣が頬に走って、
「あなたは、…本物の、中条長官ですか」
先程の中条と、同じ内容のことを尋ねた。
それが、何を意味するのか、中条は気づかないまま、首をふって、
「今では、なんだか自信がないよ。さっきは、人間かどうか尋ねられて、自分でも危ぶんだし」
苦しげに言いながら、懸命に立ち上がって、ゆっくり、呉に近づいてゆく。実は、転ばないように、細心の注意を払っている。
呉の向こうに倒れている何者かの顔が、見える位置まできた。見たこともない男だった。ひどく驚いた顔をしている。見開いた目はもう何も見ていないようだ。その首が、鋭い刃物で切り裂かれている。まるで、関連付けをするように、中条の目は呉の手を見た。だらりと下げた鉄扇子から、今血が滴った。
驚愕の表情で絶命しているのは、こうしてみると、本当にさもない普通の平凡な男だった。
「君が倒したのか」
「はい」
誇らしげでもなく、なんだか困ったような、怒られるのを怖がっているような声の響きだ。
蒼白の顔が、まだ微かに震えている。とても、あの完璧といえる精神攻撃に耐えられた男とは思えない。
「この男は、相手の精神を読んで、その内容を好き勝手に作り直して見せることができるらしい」
「ああ…そうですか。…なるほど」
「日本にはサトリという妖怪がいるが、それの数段上だな」
フォーグラー博士が目の前で、『あの』呉先生のような姿になったのだろうに、よくも、相手を倒すことが出来たものだ…
喉にひっかかった声で、中条が苦笑まじりに、しかし真面目な声で言った。
「私は正直、ダメかと思った。…
君は、強いな」
「いいえ」
小さな声で返し、首を振り、それからほんの少し笑った。その笑顔は妙に皮肉げな色があって、呉には珍しいし似つかわしくもなかった。中条は眉間にしわを寄せて相手を見たが、その視線には気づかず、胸で呟いた。
そのひとが私に、たすけてくれなどと。
頼むなどと、私にそのひとが言う筈がないのですから。
言うとしたらそれは、私が勝手に、言われてみたいと願っているからでしょう。私のつくった幻だからでしょう。
それで、相手がニセモノだと気づいたというのは…
少々、寂しい話ですが。
二人は、なるべく急ぎながら、しかしあまりスピードも出せない状態で、もときた道を戻り始めた。
「あの男は、森の向こうの、生物兵器の研究所から来たのかも知れませんね」
「…生物兵器、としての力というわけか」
言いながら一回、ぐらりとなったが、無論中条は踏みとどまった。が、呉の手がほんの一瞬、支えようとし、すぐに戻っていった。自分が負けそうになったのに、呉が打ち勝ったという事実に、中条は何となく、言葉にできない何かを持ち続けていたのだが、
「大丈夫ですか?」
細い声で、遠慮がちにそっと、大丈夫なのは勿論存じておりますが、と但し書きがつくような口調で尋ねられた時に、ふっとその何かが言葉になって口から出た。
「昔、読心の力を持った男がいた。私の部下だった」
呉は何も言わなかったが、ほんのわずか、頷くような首をかしげるような仕草をした。
「真面目で、素直で、純粋で、本当に真っ直ぐに相手の目を見る男だった。多少、子供のような、何かを持たないまま成人したような男だった。…だからこその、あの能力だったのかも知れないな」
鏡のように、相手を映していた茶色の瞳。
「その真っ白な心ゆえの力は、その心ゆえにどんどん強くなっていって、彼の制御をはなれた。読みたくもない他人の内面、悪意や狂気やどす黒い念、それをそのままはねかえす能力さえ身に付けてしまい、味方にも疎まれ恐れられるようになって――――
彼は最後にはただ真っ黒い災厄だけを放出する狂人になった。
で、私が殺した」
中条長官、
あの声が聞こえた気がした。いや、ついさっき敵が彼の内側から引き出して見せた、幻だ。
いるわけがない。本物は私が殺したのだから。
軽く手を握った。それから、強く強く握った。
「長官」
かすれた声がした。これは幻ではない。隣りにいる男のものだ。私よりも、強い、自分が作り出した幻などに負けなかった男の声だ。
「うん」
返事をしたが、相手がそれ以上何も尋ねないので、そちらを見ると、呉は無言でばたばた泣き出していた。
なんと、寂しい、哀しい男だろう。可哀想すぎる。
きっと可愛がっていたに違いない。大作くんが青年になったようなその男を、長官は心から可愛がっていたのだろう。
そして、彼を自分の手で殺すしかなかった長官は、
どれほど辛かっただろうか。どれほど悲しかっただろう。
そう思ってしまうと、もう我慢の仕様もないらしい。必死で声を上げまいとしているが、ひっく、と甲高い声が喉から飛び出したのがきっかけで、えうえう〜というようなうめくような泣き声が上がった。
う、う、と肩を震わせている姿を、中条は拍子抜けした様子で、眺めた。…いつもの、呉先生だ。感情移入してはついつい泣いてしまう、困った男だ。
つい、くっと喉の奥で苦笑し、
「変な話を聞かせてしまって、済まない」
「いいえ、私こそ泣いてしまって」
すみません、は涙でなんだかわからなくなった。
続けて、ちょっと笑ってから、しかし何故、私はこの話を聞かせようと―――聞いてもらおうと、したのだろうなと思う。
話を聞かされて、こちらを励ますでもなく、もっともらしい助言(その男はきっと長官にコロされて本望だったでしょうといったもの)をしたり顔でやらかすでなく、ただこうやって泣いているだけの部下に。
それでもなお、今日この時までとどこか違う、頼もしさ『のようなもの』を感じさせる男を、眺めた。
なにしろ、君が来てくれたから、私は助かったのだから。文字通り命がね。
そう言おうとも思ったのだが、泣いている呉の顔があんまり情けなくて、中条は結局やめてしまった。
「あれあれ、戻ってきたよ。…なんだ、めそくそ泣いてやがる」
地面にねっころがっていた戴宗がそう言い、他の部下たちが喜びの声を上げた。
長官!呉先生!よくご無事で!お怪我は!
「どうやら、気はふれてないみたいだけどよ、頼りないのもそのまんまだな。ここらで一発、長官を助けるとか何かしてみせりゃ、もうちっとは株も上がるのにな。
実際、なんかの役にはたったのかね、先生よ」
笑う戴宗の目に、鼻を真っ赤にしてすすりあげる呉と、それを隣りから無言で見守る中条が映った。その、こちらには見えない視線を見透かして、
戴宗はおやと思った。
昨年10月に行われたジャイアントロボのイベントで、ミーシャ様が出された本に、寄稿させていただいた作品です。
その後ミーシャ様からサイトに上げたらば?というお話がありまして、お金を出して本を買った上で読まれる方がいるのだから、サイトに上げるのはルール違反かな?その辺どうなんだろう?と言っていたのですが、半年くらい間が開けばいいんではないか、という結論に達しました。で、気づくと一年経ってました。ので、載せます。
なんか、こうして改めて読んでみると、よよよくある話のようなききき気がします。恥ずかしい。
数箇所、誤字と、繰り返した表現を改めました。
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