意識が戻ったのは、多分じっとりとまとわりつく不快さのせいだろう。
そっと身を起こしてみる。手が、ごつごつした岩と、隙間から生えている草の感覚を捕らえていることにほっとする。手はあるようだ。足は、ちゃんとついているだろうか。血が出続けているような大きな怪我はしていないだろうか?
「気がついたか、呉学究」
背後から声をかけられ、仰天して振り返る。そこに幻夜が居て、どこか皮肉げな笑みを見せてこちらを見ていた。
「…エマニエル」
一瞬、その名を呼ぶのがためらわれたが、他にこの男の名を知らない。
果たして、男の顔が不愉快そうに、苦々しげに歪んだが、すぐにもとの冷たい笑顔に戻った。
幻夜の顔から目をはずさない呉に、
「やる気なら、あなたが気絶している間に殺している。どっち道私は動けない。安心しろ」
見ると、地面に座っている足首に、一応といった感じで布切れが巻きつけてある。
「折ったのか?」
「さあ」
投げやりに言って、うっとおしげに周りを見渡した。それを追うように、呉も周囲を見る。
真っ白な霧がたちこめて、数メートル先も見えない。時間の感覚がなくなっていて、今が朝なのか夕方なのかもわからない。服がじっとり濡れていて気持ちが悪い。
「どうやら、この周辺にいるのはあなたと私の二人だけだ。他の連中とははぐれたようだな、お互いに」
言われて、はたと思い出す。絶海の孤島で、われわれとBF団は死力を尽くして戦っていたのだった…
なにか大きな衝撃が地面で炸裂して、周囲が消滅したのは覚えている…死ぬのかと思ったことも覚えている。だが、どうやら死なずに済んだらしい。
呉は、ゆっくりと尋ねた。
「連絡は取ったのか?…BF団と」
皮肉っぽい笑みがいよいよ強くなって、くちもとを歪めながら、
「心配するな。通じない。この霧が何か影響しているようだな。疑うなら、あなたもやってみろ」
「それには及ばない」
あっさりした答えに、幻夜はちょっと怪訝そうな表情になったが、やがて疲れたように息をついた。そろそろと立ち上がった呉に、
「迂闊に動き回ると滑り落ちるぞ。どこに陥穽が口を開けているかわからない」
「しかし、いつまでもここにいると凍死、とまではいかなくても、体力が削られる。ただの霧じゃない」
幻夜は少し考えて、最後には仕方なさそうに、
「そうだな」
相手の言葉を認めた。
少し先へ行って、下の様子を伺ってみた呉が戻ってきて、
「岩棚が張り出して屋根になっている場所が少し下にある。そこまで行こう」
不承不承立ち上がった相手に、手を貸そうとすると、
「構うな」
払われた。しかし、足元が険しくなってくると、そうも言っていられなくなる。転びかけたのを素早く支えてやって、
「つかまれ」
屈託のある顔つきで、やむを得ず呉の肩を借りながら、幻夜は進んだ。
なんとか降り立った屋根の下は思いがけず深く広い洞穴になっていた。中に誰も潜んでいないこと(もしいたら、どちらかの味方で、同時にもう片方の敵なのだが)を注意深く確かめてから、二人は中に入った。
霧には濡れなくて済むようになったが、とにかく寒い。肌に触れている服まで既に濡れている。呉は携帯している一式を使って火を熾した。ここへ来る途中拾って来た木っ端や、草は勿論湿っていてなかなか火がつかないし、やたら煙が出て、呉はひどく咳込んだ。
なんとか『焚火』と呼べるくらいまでになったところで、二人は上衣を脱ぐと、紐に通して吊るした。
呉が幻夜を見ると、髪を後ろで束ね、ちょうど椅子のような大きさの岩に、黙って座っている。
「見せてみろ」
幻夜が目を上げた。呉が、自分の前にひざまづいて、足首をとると、呉の膝の上にのせる。
「うっ」
痛みで顔が歪むが、堪えられない程では無さそうだと見てとって、
「少し我慢してくれ」
持っていた包帯と、木切れの一つを取って、固定する。
自分の足の手当てをしている呉を、斜め上から眺めながら、幻夜はふと、
前にもこんなことがあった。
そう思った。
目の前の男が十数年前の姿に戻る。やはり怪我をして顔をしかめている自分の足を、同じようにして膝の上に乗せて、手当てしている。
毎日、毎日、研究所に詰めてばかりいる男だった。わたくしごとでの楽しみなど、ちっともない男だった。だから…
彼が誘ったのだった。そうだ。―――
今日は暑いし、父さんは街に所用があってお出かけだ。ちょっと水浴びにでも行こう、呉学究!
え、でも、博士が戻るまでにはこのデータを揃えておかないと…
ちょっとだけだよ。戻ったら手伝う。二人でやればすぐ終わるさ。
側で、幼い妹が目を輝かせて、期待を込めて自分と兄を見比べていることもあって、呉は情けなく笑い、
仕方ないなあ。
やった!兄さん、私も連れていってくれるんでしょう?
当たり前だろう。さ、早く行こう。
やったあ、と娘はもう一度喜んで飛び跳ねた。三人は釣り道具と、スコップと、バケツと、網とを持って、近くの河へ出かけた。
照り付ける太陽がじりじりと彼らを炙った。麦藁帽子の下から汗がこめかみを伝った。
幼い娘の前髪が汗ではりついている。
だが、河の水は驚くほど冷たく、心地よかった。娘ははしゃぎまわり、青年二人も久々に大声で笑った。
釣りをしたが、ちっとも釣れなくてお互いにからかい合い、どっちも下手クソよ、と娘に言われて苦笑いする。 小さい魚を手で捕まえようとし、きらきらする石を拾い、さてそろそろ帰ろうかと呉が言った。
えー、もう少しいいじゃないか。 あとちょっとだけ。ね。 聞き分けのない兄妹に、呉は肩をすくめ、
来ないなら一人で帰るよ。じゃあね。そう言って背を向けた。
待ってくれ、今行く、と言いながらぬらぬらする岩の上を、一応は裾を捲った格好で、エマニエルが戻ってきた時だった。
あっ!
足が滑った。悲鳴を上げ、水の中に落ちる。始めはけたけたと笑っていた妹も、兄の苦痛に歪んだ顔を見て、びっくり仰天する。
どうしたの?にいさま!
エマニエル、大丈夫か。
あつ…痛い…ちくしょう、参ったな。
恥ずかしいのを隠そうとしているが、痛みの強さの方が勝っている。
ほら、つかまれ。
自分もずぶ濡れになりながら河に入ってきて、エマニエルを助け起こし、川岸まで連れて行き、
今と同じ姿勢で、手当てをしてくれた。
痛むかい。泣くなよ。
小さい子供に言うような言い方に、ちぇっ、と口をとがらせる。呉がうつむきながら笑った。
その後、呉はエマニエルをおぶって、帰路についた。あの時の方が今よりひどくやったのだろう。確か、痛くて足を地面につけられなかった気がする。すぐ側で泣きそうな顔をしている娘に、時折、
心配しなくても大丈夫だよ。
そう言って、エマニエルを揺すり上げ、にこにこと笑いかけてやっていた。
研究所へ戻ってみると、すでにフォーグラー博士は戻ってきていて、雷がおちた。
こんな時間まで、どこで遊んでいたのだ!
申し訳ありません博士。 呉が言うのに被せるようにして、背中のエマニエルが首を伸ばして、
父さん、僕が無理に呉学究を誘ったのです。勝手に転んだのも僕ひとりで、
そんなことはわかっている。
博士はあっさり言って、苦笑し、
二人ともすぐに着替えて、実験室に来なさい。やることは山ほどあるのだから。その前に、ちゃんと手当てをしてからだ。
はい、わかりました!二人の絶叫がぴったり重なった。
小さな声で、娘が、怒られちゃったね。そう言って舌を出した。
すまない、呉学究。僕のせいで。
背中から謝る友に、首を振って、にっこり笑うと、
今日は久し振りに、本当に楽しかった。二人ともありがとう。また行こうか。
うん!
娘は思い切り叫び、まだ少しすまなそうな顔のエマニエルも、笑顔をつくって、うなずいた。
―――
幻夜は我知らず尋ねていた。
「覚えているか?」
呉は、相手の顔を見ないで、微笑した。その顔を見て、相手も同じようにあの時のことを思い出していたのだとわかった。
「あの時は正直、肝を冷した。君があんまり痛そうなものだから、てっきり折ったのかと思って。ファルメールがひどく心配しているのも手伝ってね。博士に、なんと言ってお詫びすればいいだろうと気をもんだよ、結局はひどい捻挫どまりだったけれど」
喋りながらふと見ると、
どこも見ていない幻夜の目から、涙がこぼれていた。呉が、あっと思うのと同時にはっと我に返って、慌てて拭う。
あの時と同じように、恥ずかしいのをかみ殺そうとしながら、
「…人前で泣いたのは久し振りだ」
取り繕うように、それでいて妙に素直に呟いた。
「わたしなどしょっちゅう人前で泣いている」
呉は少し笑って、
「あの頃の君は、博士や私のために随分、気をつかい心を配ってくれていたな。ファルメールにとっては本当に面倒見のいい兄だったし」
「いや」
疲れた声で遮る。本当に、ひどくくたびれた声だった。
「ただ居心地のいい場所で、手足を思い切り伸ばして息をしていただけだった」
喉にひっかかるような、深い息をついた。
手当てが終わって、そっと足を下ろしてやる。それから、ゆっくり立ち上がって、幻夜の隣りに腰をおろした。
ふっと、幻夜の髪の匂いがした。雨の匂いだった。
肩に寄りかかってきた。頬を、呉の鎖骨にのせる。
しわがれた低い声で、
「慰めてくれなどと言っている訳ではない。ただ、こうして、あなたのそばであたたまっていると…昔のエマニエルが、戻ってくるのだ、どうしようもなく」
呉は黙って、手を幻夜の肩に回して、ぽんぽんと叩いてやった。
「自分の選んだ道に後悔はない―――わたしがしていることを父は誉めてくれるだろう。あなたやファルメールが目を背けたことをわたしは見つめ続けている、どんな犠牲を払っても。その自負がある、その自信がある、その覚悟があるのだ」
必死で言い募る顔を、何故か、あまりに痛々しくて、呉は見ることができない。
そうだね、その通りだ、と言ってやりたくなる。自分の立場や、選択を覆しても。
途中で言葉を止めてしまった男が泣いていることが、手から伝わってくる。
「だが…一人で随分、遠くまで来てしまった。もう…
三人で河へ遊びには行けないな」
ばたばたと涙が落ちた。
「父上、」
呉の手にぐっと力がこめられた。
「ごがっきゅ…」
だが、と呉は歯を食いしばった。
私はこれ以上なにもしてやれない。
私がこの男のしようとしていることに賛同する気がない限り、
私がこの男の黒い球体に共に乗り込む気がない限り、
私がこの男にしてやれることは、
服が乾くまでの短い短い間、隣りに座って肩を抱いてやることくらいだ。
霧が晴れたら、どちらかの味方があの入り口に姿を見せたら、私たちはまた敵味方だ。今は温めてやっている肩を突き飛ばして、殺し合いをするのだ。
呉は泣かなかった。ただ黙って、ただ、泣いている幻夜のそばにいた。

[UP:2001/9/29]


書きながら、ちょっとこの幻夜は違うんじゃないか?と思いました。でも結局そのままいっちゃった。おセンチ幻夜。
なんか似たような設定、似たようなことばかり言ってます。
上衣を取った格好とはあの二人でいうとどんな格好なのか、実はわかりません。ほほほ


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