「おのれ…国際警察…機構の…バカどもが…」
うめき声を上げながら懸命に地面をいざる黒マントの男を、皆それ以上の攻撃を加え、止めをさすでなく、ドアの入り口からただ見ている。彼らの、不快さと嫌悪とがこめられた眼差しの中には確かに恐怖があった。
単に武器の扱いに長けているとか、波動や電流など高エネルギーを発してこちらをなぎ倒すというのなら、こんな目では見ないだろう。この男は奇妙な、未だに全貌の掴めない精神攻撃の類を見舞ってきて、仲間が随分、自滅したり、同士討ちをする羽目になったのだ。
このとき、一人、室内にまで入ってきた男が、
「おまえの王国だか、帝国だかを作る野望はこれで諦めてもらう。迷惑だ」
静かだがきっぱりした口調で言う。呉だ。その顔は恐怖を凌駕する怒りで満ちていた。
男の顔が歪んで、呉を無理やりに見上げた。額から血が流れ、見開いた目に入った。
悪鬼の形相でにらみつけ、
「呉学究か。…これで、すべてが、終わったとおもって、いい気分か」
「いい気分なものか」
呉の白い顔が怒りで更に白くなった。
「おまえのせいでどれだけ死んだと思っている。せめて後悔のかけらでも胸に抱け」
しかし呉の怒りは男のどこにも届きはしないようだ。その証拠に侮蔑的にペッと血の混じった唾をはき、
「家畜の鳴き声など…意味のない…雑音だ」
かすれた笑い声をたてた。呉はかすかに首を振って、低く、
「ならば黙って逝け」
「生憎、…おとなしく、言うとおりには、…してやらん。…なにを、えらそうに」
家畜の分際でと言ったらしいが咳き込んで聞こえなくなった。咳こんでいる、と思っていたのだがいつしかそれは笑い声に変わっていった。その響きの不吉さと不気味さに、工作員たちは思わず引いて、更にドアからあとじさった。逃げ出した者も居る。
(この期に及んでまだ何か企んでいるのか?とどめをささなければ、危険だ)
呉はすらりと鉄扇子を引き出して歩を進めた。だが、
「まったく、…家畜の分際で…いい気になるなよ。…わたしはもうダメだが…最後に」
カッと目を見開いて呉を見据え、
「貴様に、最高の、恐怖と絶望を、贈らせてもらおう」
手をマントの中に入れた。咄嗟に相手の動きを止めようとしたが、それより早く、男はマントの中から一枚の紙を取り出し、呉に向かって突きつけた。
瞬間、紙面と、男の濁った目が金色に輝いた。相手から発せられるドス黒い禍々しさに、どうしようもなく背筋が凍りつく。
なにをした、というより先に目が紙面に釘付けになった。
紙に、画像が浮かび上がっている。写真だ。
背景は夜のようで暗い。山中や森といった場所ではなく、街中らしい。らしい、というのは暗いからわかりづらいというだけでなく、全体にピンぼけで、また部分によっては現像をミスしたかのように真っ黒になっているからだった。
しかし、何が写っているのかわかるところもあった。中条だ。画面左下に、バストショットくらいの範囲で入っている。
その中条のワイシャツの、腹から胸が、真っ赤に染まっている。
そして、ピンぼけの一枚絵の中で、ここだけははっきりピントの合っている部分が、中条の顔だった。どこかを見て、わずかに口をあけている。目はやはり黒眼鏡で隠れているが、わずかに透けて見えるその目が確かに、驚愕しているのがわかった。
あの中条が、周りから見て判る程に感情を表に出すことなど、まずない。そうだ。
思いもよらない場面で、致命傷を負った時くらいだろう
呉は何か言おうとしたが、言葉が出ない。代わりのように、男のかすれた笑い声がかぶさって、
「この写真の場面は、…とある未来において、実現する。…それは、覆せない。わたしが、死のうと、…絶対に、だ。なぜなら、
それがわたしの能力だからだ」
激しく咳き込む。血がとんだ。
「…濫発すると、…命にかかわる技だから…あまり…使えなかったが…
…おまえが死ぬ写真よりも、この方が、お前を苦しめる、だろう?
そうだろう、呉がっきゅ…」
最後は声にならず、顔を地面に落とし、動かなくなった。
呉の真っ白な顔は変わらない。しかし、さっきまでは真っ直ぐで激しい怒りのためだったが、今は足元から崩れ落ちてゆくような絶望のためだった。
それがわたしの能力だから?
一体、何の能力だ、テレポートでなく、念動力でなく、相手を…
呪い殺す能力だとでも?
呉の手から写真と、鉄扇子が滑り落ちそうになった。遠く背後から、
「呉先生、やつが何かしましたか」
問いがあり、咄嗟に写真を袖の中に隠すと、
「なんでもない」
かすれた声で答えた。
呉はこのことを誰にも明かさなかった。明かして、皆で対処すべきか、とも思ったが、この状況を説明したところで『中条の命が危険に晒されている』ということであって、改めて進言しなくてももう既にずっと変わらず当然の事だった。
変な能力の男が死の間際に力を振り絞って呪った、というのはその危険のパーセンテージを多少上げる事実だろうが、それを聞いて「では中条は夜間の出動はなしにする。何かあってもほかのメンバーで対応するように」というわけにはなるまい。何よりも中条が、「そうなのかね。ならば私は夜は部屋に閉じこもっていなくては」と言う筈がない。
呉の中にも、今この地上のどこかにいて中条を狙ってくる敵の方がずっと現実的な危険ではないのか、という思いがある。既に死んでもう居ない男が残した嫌がらせのような言葉にひっかかっておろおろするのは、科学者として、国際警察機構の一員として、中条の部下として、愚かしいことではないのか。
だがどうしても、あの場に居てあの男の断末魔をひとり聞いていた人間としては、一笑に付しあの紙を破り捨てゴミ箱に放ることは出来なかった。
(わたしがお守りするしかない)
意志をかため、呉は写真について徹底的に分析した。中条の背後に写りこんでいるものに何か手がかりになるものはないか。時間や場所を特定するものは。
それがわかれば、前もってその場所に行き、原因となりそうなものを排除したり、突発事故に対処できる。
「あ」
一枚のガラスに、反転した文字が見える。消える瞬間のネオン文字が写ったようなごくかすかな色だったが、確かに文字だ。呉は興奮したが、
「…Bar」
なるほど。酒場が近くにあるわけだ。これはこれは大変な情報が手に入ったものだ。
疲労感を押しやって、尚も調べたが、決定的なことはわからなかった。もはや、ありとあらゆる街であるような気がしてくる。
「誰かひとりでも人が居れば、随分限られるんだが。着ている服でかなり限定され…」
着ている服。
呉ははっと顔を上げた。
あの男は、この写真が実現すると言った。ならば、この服を決して着なければいいのではないか?
そうだ。そんな単純なことで解決する。
写真を再度見る。見づらいがなんとかわかる。大丈夫だ、見分けがつく。
呉はばっと廊下に飛び出し、中条の部屋へ走った。
「長官、いらっしゃいますか」
「いるよ。入りたまえ」
「失礼します」
ドアを開けて中に飛び込んだ。中条は自分の机について書類に目を通していた。こちらに顔を向けて、
「何だね、呉先生」
「はい、あの」
ここまできて、何と言って服を回収すればいいのか、はたと困惑した。
実はこういうことがあって、と話して「安全策をとらせてください」と言ったら、長官はなんと思うだろう。わずかに眉をしかめて「君は暇だね」と苦笑するか、無表情に「わかった。心に留めてこう」と言って廊下を示し、戻りたまえと促すか。
どっちにしても私の査定は大きく落ち込むことになるだろう。いや、そんなことはどうでもいい。呆れられてもバカな男だと思われても、服を貰えればそれでいいのだ。だが逆に言うと服がもらえないのではまったく意味がない。
間が空くと問題が深刻になる。なにげなく、さりげなくもらってしまった方がいい。
「ぶしつけなお願いで申し訳ないのですが、長官の服を一着、頂いてはいけませんか」
「?…何故だね」
としか言いようがないだろう。だが、言ってしまったからには前に踏み出すしかない。必死で考える。バザーに出したい。貧乏な親戚にあげたい。だめだ。突拍子がなさすぎる。
「わたしの部屋に置いておきたいのです」
「きみの」
「はい、お守りというか、その」
全身汗をかいて、必死だ。
「長官がご出張の際など眺めて安心したいというか、あ、服がしゃきっとしていれば長官もお元気な気がするのできちんと手入れをしておきますのでご安心ください」
もうなんだか自分でもわけがわからない。どういう理屈なのか説明しろといわれてもできないだろう。あまり深く考えないでまあいいかと思ってください。お願いです。
中条は普段どおり、つまりは能面のような無表情で呉の様子を見た。少しの時間だったのだろうが、呉にとってはとてつもなく長い時間に思われた。服が汗で色が変わる、と思った時、
「わかった」
「よ、宜しいのでしょうか」
「構わないが」
よかった。なにはともあれ貰ってさえしまえば。
「どれでもいいのかね」
「いえ」
強く言ってしまいはっとして、慌てて首を振り、
「もちろんどれでもいいのですが、よかったら選ばせていただけると、大変ありがたく」
「そうかね。そこのクロゼットに入っているから、選ぶなら」
「ありがとうございます」
深々とお辞儀をした。汗が床に落ちた。では、と言ってクロゼットの戸をあけた。
すぐに見つかるだろうか。いつまでも首をつっこんだままでは不自然になる。特定の何かを探している様子になってしまうからだ。
「ど。どれが、いいのか」
独り言を言いながら目は懸命に背広の中をサーチしてゆく。濃紺ではない、黒だ。微妙に違う、これでもない、これでも…
「!」
あった、と叫びそうになって奥歯で食い止めた。
続けて呉の目は端の方にぶら下がっているネクタイの数々を検索し出した。急げ。臙脂色の地に黒い線が入っているやつだ。
よし、あった。
「これ、よろしいでしょうか」
背広とネクタイを差し出して、異様に緊張している呉の顔を中条は見て、
「構わない」
「本当にありがとうございます、突然申し訳ありませんでした。では失礼します」
一礼すると逃げるように廊下へ急いだ。後ろから呼び止められて更に詰問されたらと思うと、ほとんど駆け足だが、それはなく、呉は無事に脱出した。
荒い息を押し殺して走り、自室へ引き上げ、借りてきた服と写真を見比べる。大丈夫だ。この色だ。
こんなに必死になっている時点で、あの男の呪いを信じているのだろう。何よりもそういう自分の気持ちこそが災いを手元に引き寄せているような気もしたが、それでもこれでひとまず安心だと安堵せずにいられない。
(長官はなんと思っただろうな)
あなたの服が欲しい、部屋に置いて手入れしたいとは。一昔前の、愛人のポジションに甘んじている日陰の女が訴えるようなことだ。
いつもめそめそ泣いてばかりいるが実際本当に女のような思考回路の男だったのだと思っただろうか。
「なんでもいい」
これで少しでも危険を回避できるのなら。
なによりも自分がこうしないでいられないのだから。
呉は中条の服を丁寧にたたみ、袋に入れ、鍵のかかる箱に入れた。鍵は呉だけが知っているナンバー式だ。間違っても誰かがあけることはない。
深く息をはいて、崩れるようにいすに座った。考えてみると随分長いこと休んでいなかった。
それからもやはり夜の間は、呉は中条の行動を見守り、夜道を歩くようなことになる場合には背後から尾行した。しかしその度に、無論だが中条はあの写真とは違う服を着ていて、その姿が呉を励まし力づけてくれた。
突然誰かに襲われることもなく半月ばかり経った頃だった。中条は出張でパリ支部へ発った。
見送りながら、どうしても、呉の胸に兆す不安が濃くなる。
神や悪魔の予言を回避しようと必死で策を弄するが、どうしても結局は予言に従って行動してしまう、という類の話はよくある。自分のやっていることはそれではないかという懸念はどうしても拭えない。
(あの男が神や悪魔なものか。大丈夫だ。あの服は私の部屋にあるのだから。それがひっぱり出されて長官が着るようなハプニングなど、起こりようがない)
自分に言い聞かせながらも幾度も鍵がちゃんとかかっているのを確かめ、その度うなずき、そして中条が戻ってくる日になった。
「今日は長官がお帰りですね」
スタッフに言われて笑顔ではいと答えた。
「お戻りになるのは夜になるかな」
夜、という単語が胸苦しくひっかかり、呉は強く咳をした。
それ以後仕事をしながら時折時計を見ると、針の進みが妙にゆっくりだったり、驚くほど速かったりしている。それを認識しながら、呉はひどく気がせいて仕方なかった。
何故だろう。胸騒ぎがして収まらない。
単に、長官が夜の街をひとりで歩くと知っているから、不安に思っているだけだろうか。
そうに決まっている。ほかに何があるというのだ。
不吉な方へ方へと流れていく自分が腹立たしく、ほとんど舌打ちしたいようだ。
日が落ちた頃だった。テレビ電話が入った。
「はい。北京支…あ、中条長官」
呉がはっとして声の方を見た。通信係はのんきそうに、
「お疲れ様です!…え、もう支部の近くまで来たんですか?ああ今メインの画面に出しますので」
カチと音がして、それまで何も映っていなかった大きな画面がぱっと切り替わった。
そこに映った中条を見て、呉は思わず立ち上がった。
あの背広。あのネクタイ。
違う。違う。色が微妙にちがっている、大丈夫だ。単なる見間違いだ。
懸命に自分をなだめようとするが、悲鳴が今にも喉から飛び出してきそうだ。それを必死で堪えている。なにか、自分は間違えている。それが何か気づいたら多分、絶叫するだろう。あるいは失神する。
落ち着け。あの写真の長官の格好と、とてもよく似た感触の服なのだが、そうではない。あれはわたしが回収して、しまってあるのだから。似ている、確かに。だが微妙に違う、今着ていらっしゃる背広は黒に近いが濃紺だし、ネクタイだってもっと薄い桃色に灰色のラインが入っている。ちょうど、写真の格好の明度と彩度をもっとあかるくしたような
今の格好を暗くすると
赤黒くすると
あの写真の
呉は今度こそ恐怖で身動きも出来なくなった。
あの写真の長官のワイシャツは腹から胸にかけて真っ赤だった。
背広だって、ネクタイだって同様だろう。あの写真の色になる前は、濃紺の背広ともっと明るい色のネクタイだったのだ。
ちょうど今長官が着ている。この後、血に染まって重く色が沈み、写真と同じ色になるのだ…
「冗談ではない」
呉は叫び、
「長官!今どこにいらっしゃるのですか」
『呉先生。どうし』
急に音声が乱れて電話が切れてしまった。
「長官!長官!」
叫んだが返事はない。
「あの、呉先生」
呉の様子に驚いた通信係が、遠慮がちに、
「長官から電話が来た時点で、位置は把握していますが、そ」
「どこだ」
間髪を入れず呉が叫んだ。
気がつくとすっかり日が暮れ、頭上には夜の帳がおりてきている。懸命にそれを払いのけながら、呉は車で疾走した。
先刻聞いた座標の位置まで来て飛び降りる。
「長官!」
怒鳴り、見回す。
おかしな形で通信が切れたことを、今どこにいるのですと叫んだ言葉を最後に途切れたことを、長官がもし気に留めていてくださったら。
もしかしたら、
あまり移動しないでいてくださるかも知れない。
流れ星に願うほどの確率かと思われたが、とある交差点でばっと周囲を見渡した時、
(あっ)
まさにその姿を、直線上に見出し、呉は全身で叫ぼうとしたが声が出ず、その代わりに走った。
中条の右側にあるガラス戸に、barという光が映っているのが見えた。ああ、そこだ。場所はそこなのだ。その瞬間まであとどれだけの時間が残されているのだろう。
走りながら、胸の奥底から、悪魔の声が聞こえてくる。
やはりあの呪いは成就するのだ。成就してこその呪いだ。
案の定自分は糸で操られて、中条長官の服を朱に染め、あの呪いを完成させるのだ。
長官があの姿になるのはおまえのせいだ。
(わたしのせい)
(わたしが、長官をあの姿に)
そこまで自己否定を繰り返していた呉が、電流に触れたようにビクリと震え、足を止めた。
あの写真は、とある未来において実現する。それは覆せない。
あの男はそう言った。
だが、逆に言えば、あの写真のとおりになるというだけだ。長官が死ぬとも、誰かに殺されるとも、言ってはいない。
そうだ。
わたしが、
長官をあの写真の姿にさせてしまえばいいのだ。
呉は咄嗟に周囲を見て、横にあったビストロに駆け込んだ。いらっしゃいませと言い掛けた店員、今出ようとしていた客をつきのけてカウンターを飛び越え、厨房へ突進した。
なにやら騒ぎが起こっているようだ、と中条は思い、ガラスの割れる音や悲鳴、怒号が聞こえてくる方を見やった。と、一件の店から、もつれる足で外に飛び出してきた男に、
「呉先生?」
思わず問いかけていた。確かに呉だ。間違いない。一体どうしたというのだ。酒場で騒ぎを起こすなど、戴宗ならともかく、呉からは最も遠いことだ。
両手で何か巨大な入れ物を抱えている呉が、顔を向けて中条を見、次の瞬間こちらへ向かって走ってきた。と、
「失礼いたします」
叫び声とともに何かが中条にむかってぶちまけられた。悲鳴が起こる。何だ、と思いながら自分を見ると、胸から下が真っ赤だ。まるで血まみれのようだ。どうやらこれは、トマトピューレらしい。
何の罰ゲームだろうと呟いた中条の耳に、
「長官!」
再び呉の叫び声が入って、そっちを見た。
―――長官が、僅かでも「驚いている」表情を、外に出してしまう程驚くこと。
咄嗟にこれしか思いつかない。呉はその場で一気に服を脱いでハダカになり、握りこぶしをつくって、腰を落として構え、
「ファイト、一発!」
絶叫した。
恥ずかしいとかいうレベルではない。このままはかなくなってしまいそうだ。だが、はかなくなる前に見届けなければならないものがある。…
呉の目に、中条が、ほんの少し口を開き、僅かに透けた黒眼鏡の奥の目が見開かれているのが映った。胸から腹は真っ赤で、服はすべて色が変わっている。
あの写真だ
その確信が、何のごまかしもなく、自分を言いくるめるでなく、心の奥底まで届く。
あの写真が、今、実現したのだ。
呉はへたへたとその場にしゃがみこみ、深く首を折って、うなだれた。服を直す気力もない。身動きもできないし言葉もない。これほど深く強い安堵は、ここしばらく覚えがなかった。
誰かの手が、一気に脱ぎ捨てた服を肩にかけてくれた。服はあちこち破れ、ソースやケチャップで汚れていた。さっきの店での一悶着のせいだろう。
疲れきった顔を上げる。
目の前に、ひどい有様の中条が立っている。表情は普段に戻っていた。
どこから説明すればいいだろう。その道のりの遥かさを思うとまたうなだれそうになるが、まずは謝罪からだ。
「長官、まことに…」
言いかけたが、途中でやめ、何故だか、
「驚かれましたか?」
尋ねていた。中条は普通にうなずき、
「驚いたよ」
そのまま返した。それが呉には嬉しかった。驚いてくださってよかった。本当に良かった。
再度その思いをかみしめ、しみじみと微笑した呉に、
「何事か、きみが取り組んでいたことは、無事に済んだようだが」
呉はびっくりして顔を向けた。
「そのことをご存知でしたか」
「なんとなくね」
「い、いつから、何故」
うろたえ、混乱している相手を助け起こし、服の前を直してやりながら、
「まあこのところ、きみがわたしを尾行しているから、妙だなと思ったが」
ぐぇっというような音が喉から出た。当たり前のようにバレていたらしい。そんな呉の顔を眺めながら、
「最初は、わたしの服を借りに来た時だね。
スーツの下は放っておいて、上衣とネクタイだけ持っていくというのはどうにも不自然だからね。
肝心なのは上半身に関する特定の服なのだと言わんばかりだ」
なるほど、と呟き、
「腰から下は、写真に写っていませんでしたから」
すべての説明を後回しにし、答えだけを呆けたように口にしてから、呉はぐしゃぐしゃと泣き笑いし始めた。その肩に手を置いて、
「そこの」
指で示された方を見るとホテルだった。
「着替えるにしても一休みするにしても、きみの説明をきくにしても。行こう」
「はい」
周囲がただあっけにとられて眺めている視線の中、片方はぎょっとするような全身朱に染まった格好、もう片方は裸に服をひっかけた格好で、歩を進める。
ホテルに先に入っていきながら、
「多分」
「はい」
「きみは、わたしの命を助けてくれたのだろうな」
そんな気がすると続けた相手の背が、涙で歪んだ。
呉先生のフシギ体験の話ばかり書いている気がしますが、今回は呉先生が長官を助けるために必死で頑張る話でした。
呉先生がこんなことをしても長官はまったく変化ナシの気もしますが、まあ…勘弁して驚いてください長官。
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