「呉先生、ちょっといいかね」
中条に呼び止められて、マシン室へ急ごうとしていた呉は、足を止めた。
「はい、なんでしょう長官」
「今度の定例なんだが」
各支部長が定期的に一同に会して行う会議のことだった。呉はうなずいて、
「はい。来週末、香港での」
「うん。それに君も同行してくれるか」
「わたくしも…あ、はい、勿論結構ですが、何故…」
今までそういったことは一度も無かったから、どうしても訝しげになる相手に、
「シズマドライブの組成・構造について、詳細かつ正確な知識が欲しいのだ。ならば、君に来てもらうのが一番手っ取り早いからね」
思わず片手で口をおさえる。でないと、そんな風に言ってもらえた喜びのあまりとんでもない笑顔になってしまうからだ。なんとか取り繕ってから、
「いえ、そのようなことはございませんが、喜んで、御伴させていただきます」
「うん。では宜しく頼む」
あっさりうなずいて、背を向けると、行ってしまった。
その背を、ほんの少し、―――誰かが一部始終を見ていても、『不自然』と思わない程度の間だけ、呉は見ていたが、自分も踵を返した。小走りに目的地に向かいながら、どうしても、頬が緩んでくる。
長官の出張にお供できる。
頼りにされて、ついてきてくれと言われて、一緒に。移動は何だろう。グレタは駄目だ、他で使う。ではなんだろう。
まるで子供ではないか。遠足が楽しみなのか?水筒に弁当におやつを持って、あまり乗らないノリモノに乗れるのが楽しみなのか?
自分をいくらそうやって揶揄しても、
『ならば、君に来てもらうのが一番手っ取り早いからね』
中条の声が、胸のところでリフレインすると、もう顔は上気し、胸の中はとろとろとチョコレートのようにとろけてしまう。
「呉学人、嬉しそうだな」
不意に声をかけられて仰天する。何か用でもあって来たのか、村雨が銀色のケースを二つ下げている。
「村雨。いつこちらへ」
「ついさっきさ。またすぐに発つがな。何かいいことでもあったのか?」
「い、いや別に」
「ほお」
村雨はくく、と笑ってから、
「これから中条長官に報告しにいくことがあるんだが、呉学人がとても嬉しそうでしたと伝えてやるよ」
「やめてくれ」
大慌てで、真っ赤になって怒鳴る。村雨は今度は声を上げて笑った。
「だっだ、誰に聞いた。私だって今さっき聞いたばかりなのに」
「オレは何も知らないぜ。ふうん、じゃ本当に何かいいことがあったんだな。加えて、中条長官とのことでな」
「………!!@〜&%$#」
村雨は笑いながら行ってしまった。地団太を踏むのを必死で堪えながら、大作くんの気持ちがちょっとわかるぞ、と呉は思っていた。
翌週末、二人は香港で行われる会議の卓上に居た。早朝から夜まで分刻みのスケジュールの上、『おえらいさん』からの容赦ない質疑応答に呉はかなり緊張したが、私がしくじったら長官の汚点にもなる、という気持ちで、なんとか乗り切った。
終わって、ぞろぞろ出てくる時にはかなり疲れていた。疲労困憊、に近い。それでも、呼び止められて、
「今日は本当にご苦労様だった。君のような右腕がいてくれれば、中条も楽だろう」
そう言ってもらえると、疲れも吹っ飛ぶ。
「有難うございます」
頬を輝かせ、そう答え、資料をまとめて足取りも軽く、先に下へ下りている筈の中条を追った。
1階のロビーで、珍しくタバコを吸っている中条を見つけ、駆け寄ろうとした。
「長官」
呼ばれて、中条は顔を上げる。そこに、赤い髪をした、学生服の少年の姿を見て、立ち上がると、
「君か!久し振りだな」
そう言って相手の肩に手をおき、もう片方の手で握手した。
思わず止まった足を、ゆっくり、ゆっくり、戻して行く。柱の陰まできて、呉はそっと顔を出した。
誰だろう。滑らかな頬と、学生服が示すまでもなく、まだ「子供」と言ってもいい歳の筈なのに、赤く輝く瞳は百戦錬磨の戦士のような、自信と威厳を備えていた。すぐそばに黒豹が、忠実なしもべのように仕えている。
背は、あまり高くない。中条の胸ほどだろうか。しかし中条は下にも置かない様子で、かがみこむようにして少年に話し掛けている。滅多に見ない親しげな態度に、呉の胸はどうしようもなく騒いだ。
何を話しているのかは聞こえない。それに長く話し込むでもなく、少年は間もなくお辞儀をすると、
「では、またいつか」
その口の形だけわかった。そう言って、黒豹を従えて、ロビーを横切り、エレベータの方へ歩み去った。
…この建物の中に用がある、というだけで、ただの子供ではない。そんなことは当然だ。だが…
まだ動揺している。しかし、『中条長官を不必要に待たせる』などということの出来ない男は、元に戻らない胸と顔のまま、今座り直した中条の前に歩み寄った。
「お待たせいたしました」
「いや、そうでもない。行こうか」
「はい」
声のこわばりを、『遅れてしまった懸念』を表すもののように演じながら、呉は中条の顔を見ずに、後について歩き出した。
なんとなく、会話が事務的である。不自然にとぎれそうになるのを回避しようとすると、どうしても感情の入らない事柄について話すしかないのだ。その努力も、徐々についえてきて、結局湿っぽく黙ってしまった。
冗談ではない、部下の分際で、拗ねた子供じゃあるまいし、と懸命に自分をもりたてながら、ふと自分たちが歩いている街並みに目をやった。
…なぜ、私たちはこんなところを歩いているのだろう?とっくに、移動用の乗り物に向かって、車を走らせている筈なのだが…
顔を向けると、中条がこちらを見ていて、
「ここだよ」
「はい?」
二人は、とあるホテルの前に立っていた。
「あの…」
「今夜はここで一泊しよう。夜も遅いしね。明日戻る。いいかね」
「は…」
我ながらまるであほうのようだと思うが、マヌケな合いの手を入れながら、ただふらふらと着いて行くしかない。フロントは満面の笑顔で中条を迎えた。
「ようこそお出で下さいました。いつものお部屋を」
「うん」
うなずいて、カギを二つ受け取る。その一つを手渡される。
「こっちが君の部屋だ。行こうか」
「はい」
エレベータに乗る。押したボタンは最上階だった。
Gを感じながら、呉は、逡巡したが、手の中のカギを見つめ、口を開いた。
「…長官、」
「何かね」
「先ほど、赤い髪の少年と、お話をしておいででしたが…」
中条がこちらを見た。
「いえあの、お話の内容は伺っておりません、ただその、遠くからちらとお見かけしただけで」
「彼は、私の古い友人だ。昔、とても世話になったのだよ」
「…はあ」
長官が、世話になったとおっしゃるとは。…見かけとは関係のない、恐るべき力を具えた少年なのだろう。
『君にきてもらうのが一番』
『君のような右腕がいてくれれば、中条も』
かつて胸を温めてくれた言葉が、今は力なくかすれて消えて行く。
口をぎゅっと結んだ時、足下が軽くなり、ポーンと軽い音がした。エレベータの扉が開く。中条について、廊下へ出て、自分のカギの番号を確かめ、ではここでと言おうとした時、
「ちょっと」
「は?」
「君の部屋へ行ってもいいかな」
「あ、はい」
すたすたと歩いていく。勝手知ったるといった様子だ。呉はなんだか、しょぼくれたような慌てているような訳の解らない状態で、ばたばたと後を追った。
途中で慌てて失礼しますといいながら追い越し、鍵穴にカギをさす。大急ぎで開いて、中に飛び込む。中は真っ暗だ。ドアをおさえて、
「どうぞ」
言いながら、照明のスイッチを探す。なかなか見つからない。
中条は中に入ると、ちょっと考えてから、
「灯りはつけなくていいから、まっすぐ進んで、あのドアをあけてみてくれ」
「はっ?」
なるほど、真っ暗な廊下の左右に洗面所やらフロやらの水回りが並んでいて、突き当たりは寝室に通じるドアらしい。
「ほら。頼む」
「はい」
なんだか腑に落ちないが、『中条長官に頼むと言われているのにぼさーっと突っ立っている』ことの出来ない男は、ダッシュでドアに向かった。
ドアに飛びついてレバーハンドルを回す。だぁっと開けて、中に転がり込む。そして、
「わあ…」
声が出た。
大きな曲面を描く、壁一面のガラス窓には、夜空の星を地上にまいたような、あまりに美しい夜景が広がっていた。赤と、蒼と、金と銀、七色に姿を変える宝石。数え切れない程のダイアモンドだ。
「気に入ってくれたかね」
後ろから声がかけられる。
「はい、綺麗です…とても。こんなにすごい夜景は、見たことがありません…」
「それはよかった。…
以前、ここを使った時に、綺麗だなと思ってね。君に」
ふ、と笑った気配がした。
「見せたい、と思ったのでね」
振り向けない。泣きそうだ。また泣いているのかね、といわれるのは恥ずかしい。でも、嬉しくて嬉しくて、泣いてしまいそうだ。
両方の肩に、両手が乗せられる。
「さっきのことなんだが…もしかしたら、妬いてくれたのかね?」
「いえ、」
反射的に、振り向いて、否定しようとしたが、
今言い訳をしようとしても、言葉が出てきそうにない。少し、もがいたが、やがて諦め、項垂れて、
「…はい…申し訳ございません」
「謝る必要はないよ」
肩に込められた力が強くなる。
「それを聞いて嬉しい。歪んだ喜びだな。すまない」
どん、と中条の胸に呉の体が当たった。耳元で低く、低く囁く声が、
「…カギは、一つ無駄だったかな」
ひたすら、静香さまに感謝です。
温かくてステキな絵を、本当に有難うございます。もし、楽しんで描いていただけたのなら、良いのですが…
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