数発、着弾したが、グレタは落ちることはなく、なんとか敵の攻撃の網から抜け出そうとしていた。
「よし、あと一息で脱出できるぞ」
「あったり前だ。そう簡単に落ちてたまるかよ。こっちには勝利の女神様が乗ってるんだしよ」
そんな鉄牛の励ますような軽口に、ごく僅か微笑を見せてから、ある公国の皇女は、ひどく辛そうに顔を歪め、うつむいた。
BF団の暗殺の手からわたくしを守るために。わたくしを無事に逃がすために。
あの方はひとり、あそこに残った。
皇女は、遥か後方になりつつある、闇の中に赤々と燃え上がる街を見ようとしたが、危険なので奥へ、と座らされた席からは、下界は見えなかった。
敵をひきつけて、他所へ行かせないようにするのは、そう簡単ではない、いや相当難しいことだ。それが可能な程の腕、そして敵に『ここで、こいつを殺すことは、ひょっとしなくてもBF団にとって相当重要であり、万一自分が倒せたらこれ以降、自分は名の代わりにこう呼ばれることだろう、
神行太保の戴宗を倒した男と』
そう思わせ、追う者を引き戻すほどの威力をもつ名の人間でなければ、無理だ。
そして彼はそれが可能であって、従って彼は残った。燃える街に。数え切れない程の敵をひきつれて、できるだけ、遠くへ行こうとしている、グレタが逃げ切るまで。
飄々とした顔に、今回はちっとばかり疲れそうだなという程度の苦笑を浮かべて、さてと。こきこき手首を捻っている男に、皇女は叫んだ、自分の代わりにあなたをそんな目に遭わせるわけにはいかない。わたくしこそが残ります。わたくしが残れば、全て解決します。
そいつぁ違う、あんたでないと出来ないことがまだまだ沢山ある。それを今ここで終わらせちゃならない。
そしてこれからやることぁ、俺でしかできないことなんだ。だからそれは、俺の分担だ。俺がやりますよ。
そう言って、男は、太い眉を上げ、でっかい口の端を引き上げ、目を細くして、にかっと笑った。どうして今、そんな笑顔をつくれるのだろう?と思うような、陽気で明るい、悲壮さのかけらもない顔だった。
涙があふれそうになっている皇女の鼻の頭をちょいとつついてやって、
泣かねぇでくださいや。しかしいい女だねぇ、おっと、女房に棒で殴られちまうな。ははは。
じゃあ…またな、姫さま。
白い犬歯をむきだして笑ってから、くるりと背を向け、颯爽と部屋を出て行った。
晴れ舞台に向かうように。これから万雷の拍手喝采で迎えられるかのように。しかし、これから彼を迎えるのは、血と爆炎と、数え切れない程の銃口と砥がれた刃だ、彼の首を落とすための。
更にうつむいた。涙が、ついにぱたりと膝の上に落ちた。
「泣かないで下さいよ、皇女さま」
隣りに立った影に顔を上げる。見上げる程の大女が、あちこち傷を負いながら、どっしり立っていた。
全身青い肌に、血だけは赤い。静かな強い目で、静かな強い口調で、励ますように、
「あの男も、そう言っていたでしょう?」
皇女の目が大きくなる。そして、
見る間に涙がもりあがり、溢れた。
謝って済むことではない…そして、これが彼らの仕事なのだから、などとは、決して言えない。
女は、大きな手で、皇女の肩をしっかりつかむと、行ってしまった。おらおら、気合いれていくよ、と怒鳴る声が、遠ざかって行きながら、鉄牛、手を貸しな!
「へい、姐さん」
大声で答え、後を追う。言葉もなく、泣き声もたてず泣いている皇女の隣りを行き過ぎながら、
「泣かねえで下さい」
大好きな兄貴と、姐さんの真似をしてそう言った。でも、ちっとも辛そうじゃない笑顔までは、真似しきれないらしく、口元と眉間がへしゃげ、目の前の皇女と同じ表情になってしまった。互いの目を見交わすことなく、鉄牛はその場を後にした。
かなり離れた地点の、高い塔の上で、無線機をいじりながら戦いの様子を見ている、暗い紅色のコートを着た男がいた。
「村雨」
下から上がってきた男に名を呼ばれる。顔を向ける。
呉が、額の汗を拭いながら姿を見せた。
「グレタは逃げられそうか?」
「なんとか。テキさんにめっきり混乱が起こったからな」
「そうか、良かった…とは言えないか。戴宗がひとり残ったから、なのだし」
顔を曇らせる呉に、村雨は淡々と、
「俺はな、逆のがっかりかなと思っていた」
「逆?」
どういう意味だ、と言いながら自分も手摺から身を乗り出し、彼方の、闇に光る攻防の様子を、なんとか伺い見た。
「戴宗が残ろうが何をしようが無視して、あの姫君を一直線に狙うのかなと思ったのさ。この状況において第一目標を見失うような奴らじゃないと思ったんだ。が、見事に乱れたな。予想が外れた」
非常にクールな、もう一歩で他人事のようなものの言い方に、呉は眉をしかめたが、これがこの男のものいいだということはもうわかっているし、今はそんなことで言い争っていられない。
「この作戦のアタマが、あの男なのかも知れないな。戴宗の宿敵」
「衝撃のアルベルトが?そうなのか?」
「なのかも知れないと言っただろう。BF団に絶対の忠誠を誓っているのは確かだろうが(そいつがぐらついたら、その日のうちに抹殺されるだろうしな)あの男はBF団の目的と戴宗の命をはかりにかけると、にわかにはどちらと言えない感触がある」
諜報活動に明け暮れてきた男の言うことだから、何かそう確信できるものがあるのだろう、と思いながら、重たくつぶやいた。
「戴宗はどうするつもりでいるのだろう」
「グレタとは反対の方に、できるだけ遠くまで。最後が爆発で終わるのなら、なるべく被害が少なく…いや逆か。出来る限りやつらを巻き込むような形で、終わらせようと思っているんじゃないか。俺たちに推察できるのはせいぜいそんなところだ」
呉は、その口調いい加減にしろと怒鳴りかけ、やはりやめた。
泣いて嘆いて騒いで、それで戴宗が『よぉ、お前のお陰で助かったぞ』と言って戻ってくるなら、いくらでもやっている。この男の、何もかも冷かかに見下ろすような口調は、自分こそがその対象だ。…
村雨は、何か言いかけてやめた呉を見もしない。無線機から目を離さないまま、考えるともなく考える。
自分は大きな機械の中の一つの歯車。
機械全体の目的のために。他の部品が壊れるのを防ぐために。
いつだってどの部品だって、全力で自分の出来ることをし、喜んで自らの命を差し出す…
土壇場で、『恐怖のため』『自分が大事なので』逃げ出す者はここにはいない。敵も、味方も。
そういう世界だ。自分が失われても、機械は壊れることなく、ずっと、動いてゆく、未来永劫。
そう思うことは、何か眩暈のするような、麻痺するような安らぎを、自分にもたらす。
自分は偉大で、かつ、取るに足らないちっぽけな存在だ。
何か、どこか、間違えているのではないかという思いと、いやこれでいいのだ、自分でこの道を選び取ったのだという思いと、どっちだっていいじゃないかと言い捨てて眠ってしまいたくなる気持ちとが、一人一人の中にあって、
その時その時で、自分はどれかの自分になる。時に満足げに死地に赴き、その誰かの背を、『やめてくれ、他人のために死なないでくれ』と思いながら、口に出さず見送っている。…その背は自分でもあるのに。いずれは自分が選ぶ道だから、せめて今は止めてくれと言う側に立ってみようということなのか。
村雨の顔が真っ黒く、これ以上黒いものはない笑みに塗りつぶされた。
俺はただ見送る側に立つだけなのだ。何度だって肩代わりしてやる、出来るのなら全員の死を代わりに死んでやろう、俺が行くのなら誰も『やめてくれ』などと騒ぐ必要は無い。俺に向かって『死ぬな』と言う、のは悪い冗談にしかならない。そう思っているのに、
俺はただ見送るだけだ。俺は決して壊れない、全ての終わりまで一人で回り続ける歯車だ。
「村雨」
呉が自分を呼んでいる。何だ?悲しいのか?泣き虫な男、ところかまわずばたばた泣き出して感情を垂れ流す男に、イライラして、つい、きついことを言ってしまった。
「慰めてくれというのならお門違いだ」
「バカなことを言ってるヒマはないぞ」
予想に反して、呉は更にきつく言い返した。
「どうするというんだ」
「決まっている」
呉の白い顔に決意が漲った。
「戴宗を助けにゆく」
その顔を、無表情に見つめた村雨が、左手だけ動かして、タバコを口にくわえ、しゅと火を点けてから、
「お前が一人行ったところで、それこそ無駄死にだと思うが」
冷静に、判断を下してそう言った。呉は怒らず、うなずいて、
「さっき、お前の言葉にカッとなったが、内容は私も予想したことだ。戴宗はきっと敵を巻き込めるだけ巻き込んで自爆するだろう。ならば、敵だけを爆破に巻き込んで、戴宗が逃げられればいいのだ」
「そんなことができるのか?」
呉は微笑した。
「なんだ」
聞き返した相手に、
「私がここに来て、お前の素直な言葉を初めて聞いた」
村雨の目がほんの少し大きくなり、それからまた元に戻って、
「大人の余裕か?呉学人」
相手の名を口にした。
「随分自信があるようだな」
「自信などはない。正直五分五分だ。だが放っておけば結果は一つだ。ならば賭けてみる」
「だが、放っておけば、お前は死ななくて済むぞ。悪くすると二人とも死ぬ」
「うまくすれば二人とも助かるだろう」
打てば響くように言われて、
「随分と、前向きだな?お前はそういう人間ではなかった気がするが」
「ひどいことをずけずけ言うものだ」
「だが事実だからな。何度も何度も、あの時ああしていればこうしていればとめそくそ泣いていられては、こいつは後ろばかり見る奴だと思っても仕方ないだろう」
赤い顔になって、咳をし、
「だからこそだ。これからは、後悔して泣くよりは、一か八かやってみて、後悔はそれからにする。そう決めた」
………戴宗、やっぱりダメだった。すまない。う、うう。
何なんだよあんたは。心中しに来たのか?突然やってきてよぅ。長官に怨まれるのぁ御免だ!
はっ。長官…長官、申し訳ありません!うううう。
バカ野郎!泣くんならこんなとこ来るな!
そんなことをやっている二人の姿を思い浮かべてみて、村雨は、思わず吹き出した。それから、笑った。久し振りに声を出して笑った気がした。笑い終えると、目の前の男は眉間にシワを寄せて自分を見ていた。
「何がおかしい?」
「いや。…わかった、やってみろ」
「ああ」
きっぱりうなずいて、行ってくると言い切ると、下へ勢い良く降りて行った。何の、決意表明もなく、村雨からの壮行も無かったことを、後から思い出した。
「確かにお前は変わったようだな。もうひとつ頑張って、うまくやって戻って来い。ファルメールに、どうして止めてくれなかったの、なんて泣かれるのは御免だからな」
闇に呟いてから、そういえば自分が、壮行以前に呉を止めようと一度も思わなかったことに、気づいた。
「こっちだ!ちゃんとついてきやがれ、能無し野郎どもが」
怒鳴り、崩れおちた陸橋の端から宙を飛ぶ。追いかけてきた連中を、ふりむきざまの一閃で、はるか下方の地上へ叩き落とす。
「どうした!BF団てのは世界征服ごっこやってる暇な奴らの集まりか?眠くなるぞ!もっと真面目にやれ」
喉一杯の怒号。
敵が、全員組み合わさって一体の化け物であるように、ぞわりと殺気でもってつながりあうのが、肌でわかる。
「生意気に怒ったって訳か?俺一人に手も足も出ねぇくせによ。笑わせやがる!」
地を蹴る。追いかけてくる、数え切れない殺意の影、
もっと遠くへ。もっと。
ついてこい。お前らはただ俺にひきずられて走ればいい。そしてもう二度とこの廃虚の街から出ることはない、
お前らが廃虚にしたこの街が、お前らの墓標だ。
凶悪な表情が、戴宗の荒んだ頬の下から浮かび上がった。が、すぐにするりと軽いふざけたような表情になって、
「まあ、俺の、ってことにもなるのか。つまんねえハナシだ、いくらあちこちの街の可愛い子ちゃんが俺の墓参りに来ようとしても、ガレキと灰色の地べたしかないんじゃあな」
色気がねえよ全く、といいながら、襲いかかって来た影の胴体を拳でぶち抜いた。腕を引き抜く。血が噴き出して、戴宗の体を朱に染めた。死体となった相手が地面に落ちる頃には、戴宗はすでにずっと向こうへ走り去っていた。
どん、と横手の壁が落ち、銃口がぞろり並んで、照準を合わせた。
銃弾と銃声を飛び越える。当たらない。更に行く手に築かれて行く銃の放列に向かって、
「死にてぇか、バカどもめ!」
男の拳から、桁外れのエネルギーが眩く光って迸った。居並ぶBF団の配下たちが、声も上げずに胴を斬り裂かれ、分断され、肉体の残骸となって当たりに散らばり、あるいは宙をとんだ。
敵の血と己の血が混ざり合って戴宗の体を塗りたくる。
ふと、遠くなってゆく自分の中の声が聞こえた。出来てしまうからなあ、俺は。
いとも平気で。平然と。
特にしたいとは思わない。相手の命を奪うなんて、面倒くさくてややこしいことは、基本的に好きではない、
自分の命だって、ほいほいくれてやろうとは思わない、一つしかないんだし。
でも、やるしかなければ、いくらでもやれる。やれてしまう。なんの、逡巡も、無く。
その面倒くさくて本当に血の匂いで鼻がまがりそうなコトを、幾度も幾度も繰り返して、たどりつくのがどかーんと大爆発ってのが、
「アメリカの三流映画みてぇだなあ」
安っぽくて、薄っぺらくて、なーんにも残らないって感じの筋書きだ。
映画なら、金の無駄使いだったと言いながら次に別のやつを観ればいいけれど。俺にとってはこれが最後の一本で。
俺にしかできないことだから、俺の分担だなんて言ったけど。いや、それはそうなんだが。
俺に殺されて転がってる奴等も俺も、なんだか、
「ひとかご幾らの、リンゴかね」
あるいは、大きな機械の中の、一個の歯車か。
「歯車とは、また随分とありふれた表現だな」
目に流れてくる血を手の甲で拭って、ぶんと振った。足が蹴った地面に、誰かと戴宗の血が舞った。
熾烈な攻防の果て、戴宗から流れる血のパーセンテージが、やや自分のものに、傾いて来た。敵の数は減っているものだか、さっぱり実感がない。
また一列、敵をなぎ倒した行く手に、副都心のビル群が見えて来た。
「よっしゃ、そろそろ終わりにすっか。俺もくたびれてきたぜ」
ふっと強く息をついて、それでもにやりと笑った。振り返る。ぼろぼろの大きな道路のはるか彼方から、闇より黒い敵の影が、見え隠れしながら近づいてくる。
ひきつけてから、あの林立してるビル群で一気に、いや出来れば誘爆してくれるような設備の方がいいんだが…等々忙しく考えながら、再び走り出そうとした、その肩に誰か手を伸ばす者が有って、戴宗は反射的に拳をふるおうとした。
「………」
「………」
もう少しで、拳という凶器で、相手の体と命をぶち抜くところだった。今まで数え切れない程やってきたように。
戴宗はひゅううう、と喉を鳴らした。自然に鳴っている。
目の前で、それでも鉄扇子を構えて立っている呉が、やはりはぁああと息をついて、
「殺されるところだった」
「突然現れるからだ。こういう状況で、もしもしって肩を叩くつもりだったのか。やめてくれ先生」
言いながら、どんどん、わああっという顔になってゆく。
「なんであんたがここにいるんだ。冗談じゃねえ、もうすぐどっかーんてなことになるんだぞ」
「うむ」
「うむじゃねえよ!なんだ、迷子か?方向音痴か?梁山泊へでも行こうとしてここに来たのか?」
「自分から来たのだ」
むんと胸を張られて、戴宗が『この馬鹿、本当に殴ってやろうか』という顔になった。が、すぐに、
「こんなことやってられねえ。敵が来る。畜生、来い呉先生」
「そのつもりだ」
相変わらず、ふんとそりかえってから、少し慌てて後を追った。
でっかいビルのひとつに、すばやく飛び込む。入口は破壊され尽くして、ガラスは割れテーブルも植栽も倒れている。広いロビーには死体がいくつも倒れ、闇に沈む廃虚に、非常照明だけが真っ赤に浮かんでいる。あちこちで叫んでいる非常警報で耳がおかしくなりそうだ。
「だが、いい隠れ蓑になってくれる…おい、どういうことなんだ。さっさと説明しろ」
「助けに来たのだ」
きっぱり言って、片手に下げて来たらしいアタッシュケースを見せ、にこりと笑った。本当なら、頼もしい…と思われる筈の笑顔を見せたつもりだったのだが、
ぼかん、とスナップをきかせたゲンコが、呉の形のいい頭蓋骨にヒットした。
「なァに寝言いってやがる!」
「痛い…なにをするんだ」
「こっちのセリフだ!おい、わかってるのか?俺はな、」
「BF団を巻き込んで自爆するつもりなのだろう。私は今貴方が思っているほどバカではないつもりだ」
「偉そうな口をきくな」
相手の細い顎をつかんでぶんと振る。振られた方に手も無く顔を向けてしまった相手の頬に、
「科学少年に毛が生えたような野郎がのこのこやってきて、何が出来るってんだ。爆弾でも追加で持ってきてくれたのか。要らねえ。いや、要る、俺に要るのはそっちだけだ。あんたは帰れ」
言葉の平手打ちを見舞う。呉はぐいとはねかえし、顔を戴宗に向けた。
「誰が死にに来たと?誰が!そんなことを!助かるためだ、二人で!」
激しく怒鳴りつける。その白い顔が、あちこち傷つき、煤けていることに、至近距離からにらみつけられて、やっと気づいた。
「科学少年に毛が生えたようなと言ったな?その私の力で、貴方を助けられると思えばこそ、来たのだ、ここへ!」
赤い非常灯に照らされ、これまで見たことの無い強さで、正面から言い放つ顔を、戴宗は、声をなくして見つめ返した。
「ただし、100%成功の保証は出来ない。だが、貴方と、私の力が有れば、きっとこの状況を打開できる。
貴方はどうだ、戴宗!」
「どうって?」
間抜けに尋ね返す自分が、さんざんやりこめられていることを、かすかに不満に思いながらも、やはり尋ねていた。
呉はぐいと身を乗り出した。
「貴方は、信じられるか?貴方自身と、私の力を?」
………
「偉そうに、まあ」
呆れた声、それから、くく、と喉にひっかかるような苦笑がもれて、
「どうだろうね、この先生は。すっかり…弁舌爽やかに、ほっぺたにケガこさえてよ」
「そんな冷やかしなど、ひとつも気にはかけないぞ。答えてもらおう」
握った拳をつきつける。なんだよ、ぐいぐいと。中に、わたしのちからとやらが入っておられるんでありましょうかね…
戴宗は笑い止み、真剣な―――国警の人間が、年に一度も見ない―――表情で、じっと呉の顔を見つめた。息がつまるほど強い視線は、相手の言葉と、相手の持つ全部を、目で量っている、ようだった。
『この男に、果たして、状況を打開することが、本当に出来るのか。この男は、それほどのものか』と。
呉は一瞬、肩から後ろに逃げそうになり、踏み止まる。できる、やってみせる。そのために来た。戴宗を、仲間を、
かけがえのない仲間を助けるために来たのだ。
血で汚れた顔の中、一回も瞬きしない目が、ニヤリと笑った。優しくはない、酷薄な感じのする笑みを見せて、
「信じよう、信じられる。俺自身と、あんたの力を」
しかし、その厳しい笑みを見た時、呉は、これまでにない誇らしさが、胸を熱くするのを感じ、ついで顔も赤くなった。きりりと眦を決して、うむとうなづく。
「よし!」
「よしだってよ。偉そうに」
茶化した時には、いつもの戴宗の顔に戻っていた。
「さあ、どうすればいいんだ?作戦を聞かせろ、参謀」
「うむ。ここから3kmほど南下すると、去年建ったばかりの複合ビルがある。わかるか?」
「ああ、確か建築士をコンペで選んで建てさせたやつだな。すげー奇抜な外観の」
うなずく。
「あそこが舞台だ」
「あんなところ?巨大な燃料庫だの、連爆してくれるモノでもあるてぇんならいざ知らず、ぺかぺかのアルミの」
「これを持って来た」
ケースを開けて見せたのは、時限装置と、何かの平面図と、なにやらシズマ管からチューブが伸び、黒く小さい箱とつながってワンセットになっている、何かの装置だった。
「なんだこれ?」
「誘爆するものがあるといいな、と思っただろう?これがそれだ。貴方が持っている爆弾の起爆を引鉄にして、威力を倍加させる装置だ。私がつくった」
科学青年はにこりと笑った。
「あのよ。ひとつだけ聞かせろ」
早口になる。なにをどうするにしても、あまり時間はない。
「あんたが、スイッチ入れてからバクハツまでに時間稼ぎしてくれるキカイと、バクハツをよりでっかいものにしてくれるキカイを手土産に持って来てくれたのはわかった。でもなあ、所詮、俺とあんたが逃げおおせるだけの時間を置いちまったら、敵はぜーんぶ俺たちにくっついてきて、でっかい爆発の意味がなくなるぞ」
「多分大丈夫だ」
「なんで」
「場所があの建物で、ここにいるのが貴方だからだ。―――神行太保の戴宗」
ふざけたような、どこか厳かな調子で、呉が言い渡す。その言葉を、怪訝そうに、戴宗は受け止めて、
「俺は、あんたの言う名前の者だ。それが?」
「お互いの力を信じると言った筈だ。行こう」
二人は、入ったのと逆側の出口を探し、そっと外へ出た。
敵はしばらく、二人を探しあぐねていたようだが、闇の中走る二人を、いつしか発見したらしい。追跡の気配が確かに感じられるのを、戴宗は背中で感じながら、速度を速めた。
やがて行く手に、『ワタシの作品が選ばれた!皆みてくれ、ワタシのデザインなのだ!』と自己主張してやまない建物が、見えてきた。緩やかに、下から上へ向かって太くなってゆく。構造計算がさぞや大変だったろうという造りだ。球形がのっかったような最上階からは、透明なチューブが、ド・ゴール空港のようにうねうねと中空に向かって、延びている。メデューサか、ダンボールの野菜箱の中で育っちゃったなにかの野菜、という感じだ。
見ていて、あまり落ち着くタイプの建物ではない。まあ、新進の才能を見つけて育てよう、という方向に、熱心な市長なのだろう。
すっと戴宗の横に並んで、
「貴方の持っている爆弾をくれ。私がセットする間、貴方は敵を食い止めてくれ」
「了解」
ぽいと、タバコでも投げるように、懐深く抱いて来た物騒な、弁当箱のようなものを、呉に放り、ここで、戴宗は足を止めた。呉は素早く受け止めると、更に速度を上げ、建物の方へ駆け去った。
やってくる者達を迎え撃つためにひくく、深い呼吸をしている戴宗のはりつめた五感に、数え切れないほどの敵の殺気が、レーダーに点在する機影のように、点滅しながら触れて来た。
「…本当なら、ここで、てめぇら全員と仲良く連れ立って、と思ってたんだがな。…おせっかいな泣き虫野郎が、どうしてもって言うんでな」
ぐうっと拳に力を込め、構え、腰を落とす。
「最後にちっとだけ、遊んでやる」
やがて第一弾の敵が襲いかかって来た、続いて二人目、そして三人目。
血しぶきが舞い、目にも留まらない戴宗の拳が、蹴りが、うなりを上げる、今六人目が喉を潰されてふっとんだ。
呉の手が、素早く図面を繰る。小さな灯りに照らされた一階平面図の上を指がすべり、下の図面を見る。基礎の伏図だ。
最も効果的に、この建物に足払いをかけられる場所。
「うん、」
呟いて、図面を掴むと、走り出した。真っ暗な一階の、柱が不定期にのびる空間の一点に立って、上を見上げる。
「うん」
もう一度呟いてから膝をつき、アタッシュケースを開けた。
受け取った爆弾は、戴宗の体温で温まっていて、なんだか生きているようだった。手早く、自作の装置とともに柱の下部にセットして、闇に光る液晶の残り時間を、
「………」
7分、にして、スイッチを入れた。ぴ、と小さな音がして、表示が6:59になり、その脇の二桁の欄が、見えないほどの速度で変化を始めた。
大急ぎでとって返し、入口から外をうかがう。
死体で山が築かれ、それを乗り越えて襲いかかってくる無数の影、その中で一人、魔神の如き力をふるっている男がいた。そんなに長身でもない背から、青白い炎が上がっている。腕も、体も顔も真っ赤で、本当に、鬼のように見える。誰も彼も、赤鬼と化した男も、何かにとり憑かれているかのようだ。おそらく、本当に、とり憑かれているのだろう。
地獄絵図を前にして一回声をのんでから、
「戴宗!」
怒鳴った。声がひっくり返った。
敵が、こちらへも意識を向けたのがわかった。
三人まとめて背骨を叩き折ってから、戴宗がふっと地を蹴った。と、一気に呉のすぐ側まで跳んでくる。
「上へ」
「おう」
物憂いように応えた額の髪が、血でかたまっている。それをほんの一瞬目に留めたが、男の背後から、黒い殺意がどんどんこちらへ向かって来るのが視界に割り込んで、
「急げ」
自分に向かって叫ぶ。ビルの中に戻り、全力で走り出した。そのすぐ後ろに戴宗が付く。
エレベータが口を開けている。中に飛び込むと、戴宗が上に向かって噴射拳を見舞った。天井が抜ける。二人は上に躍り上がるとワイヤーと壁を利用して、上へ上へ上がっていった。
下から、ありとあらゆる、殺傷のための兇器が襲いかかってくる。もちろん真っ暗なので、カンと、反射神経と、自分の得物でもって躱し、撥ね返し、ひたすら上を目指す。
「先に行ってろ!」
怒鳴り、戴宗はとん、とエレベータシャフトの内壁に足をつけた。もし灯りがあったら、一瞬、戴宗が宙に浮かんでいるように見えただろう。あるいは、壁に座って、休んでいるように。
次の瞬間、足が壁を蹴った。下から上がってくる、幾つもの影の上に、真っ逆さまに降って行く。
必死で、上に向かう呉の耳に、下方で起こった怒号や、激しく何かがぶつかり合う音、何かがちぎれるような不気味な音などが届いて来たが、やがて誰かが、闇の中ぐんぐんと自分を追ってのぼってきた。
「戴宗?」
どうしても、怯えた声で確認してしまう。相手は、すぐ側まで来てから、
「ぐずぐずしてると、追い越すぞ」
そう言ってから、声がにやりと笑った。ほっとする間もない、まだまだ、追手のストックには不足がないらしい。
時限装置とぴったり合わせた呉の手首の時計が、鋭い音を発した。あと1分だ。更に速度を上げる。
一回だけ、上方へ向けた灯が灰色の天井を浮かび上がらせた。もうすぐ終点だ。呉は腹に気力を込めて、一気に最上階のエレベータの扉に飛びつくと、鉄扇子を引き出した。
暗闇に幾筋かの光が走って、扉は分断され、向こう側へ倒れた。二人が飛び出したそこは最上階の広いロビーで、天井は丸いドーム型だ。地上からも見えた透明なチューブが、部屋の四方八方から外へ向かって伸びている。
チューブにはレールが通っていて、丁度リフトのように、各人が体を固定してその中を近隣のビルに向かって滑ってゆく、というのが売りであった。各チューブの入り口に、行き先のプレートがあり、シート乗り場がある。
呉は時計を見た。あと30秒だ。
エレベータシャフトの中に、その辺りにあったテーブルやイスをあらかたぶちこんでやってから、戴宗が駆け寄ってきて、
「そろそろ来るんだろどかんと。どうするんだ」
うむとうなずいて、
「どかんとくると、このビルはすぐに倒れる。そういう造りだし、そうなる場所に仕掛けてきた」
「それで」
「巻き込まれたらひとたまりもない」
「それで」
「そうなる前に、」
呉はチューブの一つを指差した。
「あれの中を走って、他のビルまで行くのだ」
「ちょっと待て」
「急がないとチューブも勿論、ビルにひっぱられて崩壊する。時間は無い。というか普通の人間が全力で走っても無理だろう。だが」
こんな時なのに呉は歯を見せて笑った。しかしこめかみには冷や汗が流れている。
「ここにいるのは貴方だからな、しんこう…」
「もうそれはいい!くそったれ、このビルぁどっちに倒れるんだ」
「え」
「たーおれーるぞーって、どっちに倒れるって聞いてるんだぁ!」
「あっち」
迷子が、どっちから来たの?と聞かれたように、思わず人差し指で一方を指差した。それと反対の方に走っていって、そこのチューブの入り口にだぁんと駆け上がり、安全用の制御バーを蹴って吹っ飛ばした。
その背に、
「それでー、ついでに、私も連れて行って欲しいのだが」
「畜生、置いていってやる。一人でかけっこして来やがれ」
罵りながら手を伸ばして呉の手首を掴むとぐいっとひっぱった。手も無く引っ張り上げられた呉の体を両腕に抱える。呉はちょっと狼狽した。
「あの、背負ってくれてもいいのだが」
「なに寝言言ってやがる。背負ってだと?あんたなんぞあっという間にどこぞへ置いてっちまうぞ。いいのか」
「それはちょっと遠慮する」
「おい」
目の前に顔を持ってくる。口をでっかく開いてわめく。
「ギューッとしがみつけ、手と足で!そんなんじゃ腕からこぼれるぁ!俺を中条長官だと思え」
「何を」
反抗しながら顔が赤くなる。それに、ちょっとだけ笑ってから、
「靴も髪留めも吹っ飛ぶぞ。後で長官に買ってもらえ。行くぞ!」
最後に強く怒鳴ってから身構える。と、すぅうぅうう、と空気が集まってくるような音がして、白っぽい渦が、次第に径を大きくしながら戴宗の足元に集束してくる。
それが、発光したと思うのと、エレベータシャフトから敵がどっと飛び出してくるのと、呉の腕時計が再びアラーム音を発するのが同時だった。
どん、
というショックで、反射的にしがみついた。その音は爆発のものなのか、戴宗が己を噴出させた音なのか、わからない。ものすごいGがかかって、身動きできない。
無理に動いたら、自分を前方から戴宗に押し付けている力の大きさで、たちまちどこぞへふっとばされるだろう。
理屈もなにも、正直恐怖で何も出来ない。歯をくいしばって、じっとじっと固まっている。戴宗、落とさないでくれ、頼むから私をこぼさないでくれ。
耳が全く聞こえない。マッハで飛ぶ戦闘機に乗って…いや、自分の体だけがむきだしでマッハな乗り物なんて有り得ない。強いて言えば、『戴宗の腕の中』という乗り物くらいだろう。
猿かコアラのように全身で相手にしがみついているのだが、手と足の感覚がない。余計に、はずれかけているのでは?という恐怖がつのる。ただ、相手のどこかにむにににと押し付けられた頬だけが、相手の体温を感じている。
「ち」
呉には聞こえなかったが、戴宗は舌打ちをした。ビルの倒壊が始まり、自分が走っているチューブも、緩やかに後方にひっぱられ始めた。周りの透明な壁に、びきびきと亀裂が走る。
上方の強化ガラスをぶち破り、上へ飛び出ると、目も眩むばかりの高さの上に伸びるチューブの上を、走った。
耐えられる限界点を越え、一番弱い一点で、ばきんとちぎれる。それは戴宗のいる所よりかなり前方だった。
戴宗は渾身の力でチューブを蹴った。
隣りのビルから突き出ている、チューブの残骸の先端に、あと、少しでとどく、あと、少し、
放物線の、頂点にいて、戴宗の脳裏に、『足りない』という言葉が浮かんだ。
誰かの腕が、伸びて、チューブの端に届いた。
腕の持ち主は、ぐいと腕を引く。その持ち主を両腕に抱えている戴宗は、ひっぱられて、そのままチューブの中にすべりこんだ。
背後ですさまじい音が続いている。
ふと気づくと、戴宗は呉を抱えたまま、その様子を、まるくちぎれて残った隣りのビルのチューブの中から眺めていた。
呉は、戴宗に抱えられたまま、まだどかどか鳴り続けている自分の心臓の音を聞きながら、ふと何か他の音も聞こえる、と思った。
自分が触れている戴宗の心臓の音だった。もはや、眠っているひとのもののようだった。
「奴らは…もう来ないだろうか」
「来ないんじゃねえのかあ。もういいや。疲れた。まだいたら、お前も休めって言ってやるよ」
そんなことを言って苦笑している。
「戴宗」
「何でぇ」
「下ろしてくれないだろうか」
呉はまだ戴宗の腕の中にいた。
「うぉ」
返事だか唸り声だかを上げ、下ろしてやろうとしたが、
「…おう、どうしたい。こっちは手を放してるぞ、先生」
呉の腕から力が抜けない。あんまり懸命にしがみついたので、かたまってしまったようだ。
「ちっ、力が。ちょっと。すまない。あれ?くそ」
「まあまあ、ゆっくりやんなよ。誰も見てねぇよ」
笑って、ひょいと片手で呉の腰をかかえると、下の様子を見、それから上を見て、
「見ろよ先生、ロマンチックだねえ。夜が明けるぜ」
言われて見上げると、確かに、暗黒の空は濃い藍から群青に変わり、東の果てに薔薇色の雲が集まりだしている。
それを見て、さっきの戴宗を思い出す。
あれが神行太保の術なのだろうか?それとも全力疾走する前の精神力が、あたりの気を呼び寄せただけだろうか。
ふと、目の前の戴宗が、自分を見ていることに気づいて、びっくりする。
「先生よ」
「ななな、何だ」
「んなびっくりすんなよ。あんたが来てくれたお陰で、俺は命が助かったよ。有難うよ」
瞬間、声をのんだ。
シンプル極まりない単なる、礼であろう。戴宗は、時と場合で相当な、随分な口を叩くが、こういうことをなんのこだわりもなく言える男でもあった。この場合、至極妥当な言葉と言えた。
けれど、呉は、なんだかひどくショックを受けたような様子で、戴宗を見つめている。当然、首をひねって、
「ちぇ。俺が礼を言うのは、西からおてんとさんがのぼるようなことなのかい」
「いえ、そうではありません」
いきなり丁寧語になっている。なんだ?といよいよ眉を寄せる戴宗の目に、
呉の頬をすべる涙が映った。仰天する。
「おうおうおうおう、何だよ!泣くかここで?普通」
「いや、気にしないでくれ、ただ」
慌てて手でこすりながら、苦笑し、それでもぼろぼろ泣けてくるらしい。自分で自分をもてあましながら、
「ああ、助けてあげられたのだと思ったら」
私が来たことで、助けてあげられた。…
自分が何のことを考えているのかは、はっきり言葉にはしないようにして、涙を拭い続ける。
自分が馬鹿で甘ちゃんなのはわかっている。目の前の男が血にまみれて敵と殺し合っている現実と、自分の『僕、ボク、今度はがんばったよ』的な感激が、まるでかみあっていないことも。
ならばいい、単に私は、戴宗の生還に手を貸せたことを、嬉しいと思っているのだ、泣くほど嬉しいと思っているのだ。それでいい。
無理にそう決めた白い顔に、とけてもつれる長い髪がかぶさってくる。
「なんだなんだ、可愛いな呉先生よ!あんた本当に俺より年上か?まるっきり坊やちゃんだな」
呉の、行きつ戻りつの心を知って言わないのか、全然知らないのか、戴宗は笑い出しながらそう言って、
「それにしてもあんた軽いな。楊志の棒くらいしかねえぞ。ちゃんと食ってるのか?」
余計なことだか気遣いだかを口にして、ようやく手と足が外れたらしい相手をそっと下ろしてやり、乱れまくっている呉の髪をあっちこっちに流してやったが、それは結果的にもっと乱すことになった。一部ひっからまって弁髪になっている。
「皆、どんなに喜ぶか知れないよ、戴宗」
自分の爆発ヘアーに気付かないまま、ハナをかみながら、呉は笑顔になった。
「楊志も、鉄牛も。それにあの、皇女さまも」
「おお。あの美人な。目にいっぱい涙ためて、俺のこと見てたっけなあ。ぐふ。ぐふふふ」
「………」
「生きて返ったと知ったら、抱きついてくるかね、先生」
「無理だろう。くるしゅうない、で終わりじゃないか」
可愛くなくなったぞこの野郎、と怒鳴る相手に、
「そうだ、もう一人いた」
「えっ、美人がか」
苦笑する。
「喜ぶ相手がだ。村雨」
「むらさめぇ?」
ちぇっなーーーんだぁ、と言わんばかりの口調と表情だ。
でもきっと、村雨は喜ぶだろう、態度に出すかどうかは疑問…いや多分出さないだろうけれど。
でも私は思い切り胸を張ってやろう。どうだ、と言ってやる。
うまくやったぞ。二人とも助かったぞ、村雨?私がいることで―――
戴宗を助けられたのだ。文句が有るか。…村雨にならこのくらい言ってもいいだろう。
それにしても、ものすごかった、とあの、時間にすれば多分十数秒かそこらの経験を思い起こした。
まるで風神にさらわれて連れ去られていくようだった。思い出すと、かくかくと腰と膝が震えてくる。座ってしまいそうだが、なんだ腰ぬかしたのかなどと笑われるのはイヤだったので、なんとか頑張って、立ち続けた。
やはり、戴宗は違う、と何故か言葉で、そう思い知った。九大天王だから当然だとか、そういうこととではなく、この男は別格だと思った。…
隣りの男を見ると裸足で、かすかに震えている。いよいよ幼い雰囲気の細い体をつらつら眺めて、
やれやれ、泣き虫で坊やちゃんで、でも…結構やりやがるんだな。驚いたぞ。
いくら俺が駆けっくらの大将でも、どうしようもなかったろう。なんだかんだ言って、今回はこの坊やちゃんの力で、俺は、命を拾ったんだからな。
歯車の回転が止まるのが、もう少し先になっただけだが、なんて、―――
そんなひねくれたことは、俺は言わないよ、呉先生。感謝するよ。見直したぜ。
靴と髪留めは、俺が買ってやろうかな、などと思いながら、固まった血を、戴宗の指先ががりがりとひっかいて落とした。爪の先が、赤茶色に、鉄錆色に、染まっている。
もうすぐ夜が明ける。
このケッタイなビルを写真で見たことがあり、その時「上を誰かに走らせたいな」と思ったのが最初です。(まあ、ここまでケッタイではありませんでしたが)
ところで、呉先生と、戴宗は、どんな風に話すのか?
私の中には何人かの呉先生がいて、『ですます調&戴宗どの』の呉先生もいます。戴宗さん側も、村雨みたいに『おい、呉学人』って呼んだり「〜じゃねえですか呉先生?」って話す戴宗さんもいるのですが、今回の二人はあのような口調でいってみました。
…最初はもっとムーディでアダルトな『長官、やばいっすよ!』的ハナシだったのですがだんだん走れコウタローになりました。はっしれはっしれはっしれはっしれはっしれ戴宗〜
期せずして、某企画のために書いた呉先生と、対をなしておりまする。キーワードはお姫様ダッコ。
タイトルは、俊足の、インドの神様の名前です(スカンダです)日本では普通『韋駄天』と呼びますね。
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