初雪
今日はやけに冷える。
ここのところ別件で忙しく、ちょっと目を離した隙に、未整理の書類が山積みになっていた。呉学人は朝から自分の机にとりついて、一心不乱にデータ整理にいそしんでいる。
時折手を止め、無意識に手をこすりあわせる。
何度目かに、左手で冷たくなった右手を励ました後、息を吹きかけた。
わあ、と遠くで誰かが叫んだ声が聞こえた。
頭の大部分は、今まで済ませた分と、まだたっぷりある作業内容にもっていかれている。残った僅かな部分が、何だろう?と思った。
子供特有の、甲高い声が、はしゃいで続けた。
「見て下さい、綺麗ですね」
大作くんだな、とぼんやり考える。それに続いて何か答えたのは、多分銀鈴だろう。何を言ったのかは判別できないが、女性の声だということだけはわかった。
―――みてください、きれいですね。
ふと、聞いたことのある言葉だと思う。
ごくありふれたフレーズだ、言った本人が他者に対しへりくだっている点以外には、これといって言われた状況を特定する要素など何もない。
にもかかわらず、呉学人は、その言葉の連なりに懐かしさを覚えた。
何だろう。
冷たい右手で目をこすり、ふと窓の外を見て、あ、と声が出た。
地平のかなたまで、明るい灰色の空が続いている。
そして、冷たい純白の羽毛が、静かに舞い下りている。あとからあとから、柔らかく、息をひそめて、空からあふれんばかりに。
いつの間にか、窓の側に立って、今年初めての冬の饗宴を見つめていた。
そして、
眉間を、何かが貫いたような衝撃と共に、呉学人の中にある映像が蘇った。―――
やはり、寒い冬の日だった。
別棟の研究室に向かいながら、呉学人が何か一生懸命話している。
隣りを歩きながら、耳を傾け、うなずき、時に意見をさしはさむのは、白衣に身を包んだ、品格のある初老の男だ。思慮深い目に、知性が、穏やかに輝いている。
はい、しかし、と言いかけ、呉学人はふと気がついて空を振り仰ぐ。
曇天ながら、さえざえと明るい白い空から、更に明るい、光り輝くような白の欠片が、下りて来たのを見上げて、
博士、雪です。
そして、呉学人は、ああ、と息をついて、言った。
見て下さい、綺麗ですね。
それに対し、うなずいて、自分も目を細め、天空を見上げ、
うん。今年は早いな。長い冬になりそうだ。
そのまま、足を止め、しばらく雪を眺めてから、博士と呼ばれた男が静かに、
早く、この地上の隅々まで、美しく清浄な暖かい光で、満たそうじゃないか。全ての人々が、どんな厳しい冬も越えられるように。
ええ、博士。そうですね。
頬と、鼻の先を赤くして、幾度も肯く。
そのためにも、頼むぞ、呉くん。
はい!
力一杯張り切って応える助手に、優しく微笑みかける、温和な笑顔が、
白い幻に重なって、消えてゆく。―――
「…はかせ」
思わず、追うように、言葉がこぼれていた。強く目を閉じる。
瞼の裏の闇に、一瞬、その人の面影が残ったが、手に乗った雪が溶けるように消えてしまった。
しばらく、じっとそのままでいたが、やがて諦めたように、ひとつ息をつき、目を開け、顔を上げた。
そして、あっと思う。
目の前のガラスに映っている、自分の後ろに立っている影は、
振り返る。
中条が黙って呉学人を見ていた。
やや上の位置にある、こちらからは見えないサングラスの奥の目が、呉学人に当てられているのがわかる。うろたえ、言葉を探し、意味のない問いを投げる。
「い、いつ、お出でになられたのですか?」
「つい今しがただがね。急に古い資料が必要になってね」
淡々と話す口調、波風の一つも立っていない表情、味方からも敵からも畏怖をこめて呼ばれている通り名のままに、この男はいつも、内面を全くといっていいほどおもてには出さない。
そして今も。
緩やかに呉学人に背を向け、普段は使わないファイルがぎっしり並んでいる棚に向かい、灰色の背表紙から数冊を指で選び出していく。
今まで、あの男が呉学人にとってどんな存在だったか、どんな素晴らしい科学者だったかを、中条に話したことは幾度かあった。
しかし、誰もいないと思っていた部屋で、つい漏らした呟きを聞かれたことには、やはり羞恥と、戸惑いがあった。
何か言わなければ、と焦る。
早くしないと行ってしまう。呉学人は逡巡の末、低く叫んだ。
「申し訳ありません」
返事はない。
中条の広い背から視線を逸らした。
この後、きっと長官は笑われる。
何故謝る必要があるのかね?君は、謝るような、どんなことをしたのかね?そう言って、
ふっと、中条が笑った気配がした。
思わず、右手で左腕を掴んだ。右手が冷え切っているのが、左腕で感じられる。
「謝る必要はないよ」
瞬間、顔が強張る。
自分でも、そう予想していたのだろうに、耳で相手の言葉を聞くと、どうしようもなく、動揺する。
どういう意味でおっしゃるのだ。
単なる思い遣りか?
文字通り、私には関係のないことだという意思表示か?
短い間に、さまざまな感情が呉学人の中に吹き荒れて、どれもが外へ出ようとし、他の感情がそれを阻む。
錯乱の一歩手前でありながら、外見には呆然と突っ立っているようにしか見えない呉学人を、中条は振り返って少しの間見つめてから、
「初雪に重ねて見る人の幻は、君にとって大切なものだろう。…それは解るし」
低く咳払いする。
「今の君は他の何処でもなく、此処にこそ、居る。君の意志で。そうだろう?」
呉学人の蒼白な頬に、どっと血の気が戻ってきた。
「はい」
「それがあるからといって」
やや俯いて微笑している顔は、いつも側で見ている顔とは、どこか違っていて、まじまじと見てしまう。
「君が此処にいようと思う気持ちが嘘になるなどとは思わんよ」
半開きの唇のまま、棒立ちになっている呉学人に、中条はもう一度低く笑って、背を向け、出て行こうとする。その背に、
「長官」
駆け寄り、脇にはさんでいるファイルに手をかける。
「お持ちします、あの。半分、いえ、」
逆ならいざ知らず、中条が呉学人に荷物運びなど頼む必要は全くないのだが、
「お願いします、お手伝いさせて下さい」
「ん」
手伝うというよりは、ファイルにすがりつくようにして頼みこむ男に、
「じゃ、頼むよ」
二三冊、手渡す。
はい、と息を切らせてうなずき、少し後ろについて、歩き出した。
長い、寒い廊下を歩きながら、
そっと顔を上げ、中条を呼ぼうとした、その時、
「呉先生」
相手に呼ばれる。ちょうかん、と言いかけた口を、慌てて『はい』に変えた呉学人に、耳聡く、
「君も何か言おうとしたのかね?」
「ええ、でも、長官からどうぞ」
「そうか。…
いや、私と君が初めて会ったのも、初雪が降った日だったな。
それだけなんだが」
それから、君は何を言おうと、と言いかけて、傍らの男が、何とも不思議な…泣くような笑うような頼りない顔になり、胸にかかえた埃っぽいファイルに顔を伏せたのを見て、
「…どうしたのかね」
「いえ」
少しあって顔を上げ、慌てて顔をこする。
汚いファイルを抱えた手だったせいか、男にしては白い顔が薄黒く汚れている。
「私も、同じことを言おうとしたのです」
中条は、無言で、相手の泣き笑いを見ていたが、やがて片手を伸ばし、まるで子供にするように、頬の汚れをこすった。汚れは取れず、余計に広がったので、それ以上こするのはやめて、
「雪の降る頃には、何かと思い出が多い、ということだな」
それだけ言った。
「積もりますかね、銀鈴さん」
「さあ。初雪は積もるほど降らないんじゃないかしら」
狙った欠片を掴もうとして失敗したり、鼻の頭に下りてきた雪をなめようとしたり、やたらとはしゃいでいる大作を、微笑みながら銀鈴は見守っている。
「雪って本当に綺麗ですよね。僕大好きです」
「私も好きよ」
そう答えながら、
お父さまも、雪が好きだった。
清浄で美しい、汚れのない白い輝きが。
そして、それこそが、お父さまの魂そのものだったと、フォーグラーの娘は、ほんの僅か涙ぐんだ。
サイト開設以前に書いてたま吉さまに差し上げたものです。1717のカモリクでした。
初めて書いたジャイアントロボの話。いや〜初々しいというかへったくそというか(今だってそりゃ変わらんが)でも二人とも妙に若々しい気がするのは自分自身の気がはやってるせいでしょう。しかし。
…奇しくも今書いてる話とダブる部分が多いし。前身ってやつ?にしてもなんかホントに同じようなことばっか書いてるんだなぁ、と多少情けなくなりましたが…これはこれでまあいいか。
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