静かな午後だった。
季節は夏のはじめ、空にはやや雲が多く、少年が居る湖の畔は陰っている。しかし水平線近くの彼方では雲の切れ目から、陽光が淡いカーテンのように降り、湖のおもてが明るんでいるのが見えた。
半ズボンを穿いた少年は裸足を水に浸していた。海なら、波が寄せて返すたびに足の下の砂が削られて流され、足下が不安定になっていく奇妙な感触を楽めるのにと思いながら、透明な水の中を眺めている。片手にはバケツ、バケツには熊手と自分の靴が入っている。
小さな魚が、少年の足のまわりを当て所なくさまよい、一匹が少年の足にぶつかった。慌てた動きで離れ、戸惑ったようにうろうろしている。
「ふ。あはは」
明るい声で一人笑う。歳は十を越えた頃だろうか。茶色い目は素直で明るく真っ直ぐだが、やや幼い。
ふと視線を動かした。
水際の線にそってずっと行った先に突き出している崖があり、その上に時計塔が建っている。随分大きく立派なものだが、かなり古いようだ。
その白い尖塔をしばらく見つめていたが、やがて少年は水際を歩き始めた。時折波に白い足を洗われ、また時折きれいな石を見つけて足を止め、拾いながら、歩き続ける。
ふと顔を上げて、あれっと思う。
自分の行く手に、ひとりの男が立って、湖の彼方を見ながら、何か話していた。周囲には誰もいないから電話らしい。こちらから見えない側の耳に当てて話しているのだろう。かなり近づいてから相手もこちらに気づいて、目を見開いた。どうやら驚いたようだ。短く切り上げる言葉を告げ、電話らしい何かを内ポケットに落とした。
それからこちらに向き直った。
純白のスーツを着ているが、それに負けないくらい肌が白い。黒髪は長く、風に吹かれて乱れるのを片手で押さえている。顔はひどく端整で、細面の白面に男らしい眉と、深々と黒い瞳があった。その唇には苦笑とも自嘲ともつかない表情が湛えられている。一体何に対する苦笑なのだろう。
少年は、言葉もなく相手の姿を見ていた。
その容姿、その表情に心が奪われる。目が離せない。少しだけ口を開いて、ただひたすら相手を見つめた。
相手の目の笑みがもう少し濃くなる。それを見てはっと我に返り、
「こんにちは」
つんのめるように言って、ぺこりと頭を下げた。
「こんにちは」
穏やかで、低く、男性的な声が微笑を含んで返ってきた。少年の頬が熱くなる。
顔を上げた時にははっきり、赤面しているのが自分でもわかったが、どうすることもできない。そんな相手の顔を、男は少し面白そうな表情になって眺めた。
と、ちょうど頭上の雲が切れ、陽光が2人の上に降り注いできた。
2人は眩しげに目を細め、空を見上げた。途中で少年はまたそっと男へ目を移した。陽光に白い肌が透けるようだ。
再び陽が翳った。
「じゃ」
男はそう言って、片手を上げ、少年に背を向けて歩き出した。
(あ…)
少年は思わず数歩、後を追った。
が、呼び止める用事がない。ちょっと待ってください、と言い、振り返った男に、何を訊くのか。頼むのか。初めて出会った相手に言っても不自然でない頼み事とは。
なにも思いつかないでいる間に、広い背はどんどん遠ざかっていく。少年はぽつんとその場に突っ立って、男を見送った。
翌日も、その翌日も、少年はまた同じ場所に来ていた。
このところ、少年の遊び場所はずっとこの湖畔だった。パシャパシャと水音を立てて、砂を踏んで走る。透き通った水の中に白い自分の足が見える。
白い。
白い男
一瞬、少年の脳裏を白い服と長い黒髪、そして白い顔と黒い瞳が行き過ぎた。
あの人は誰だったのだろう。
何の用があってここに居たのだろう。
考えてもわかるはずがない。しかし、少年は考えずにいられなかった。
純白のスーツは、地元の人間の恰好ではない。避暑地に遊びに来た紳士、といった服装だ。
この湖のどこかに別荘でも持っていて、やってきたのかも知れない。
何歳くらいだったろうか。
考えてみるのだがはっきりしない。まだ十代のようにも、三十過ぎのようにも思える。いや、三十を超しているということはないだろう。でも、あの穏やかな、静かな目には、若者が決して見せないような翳りがあった。
そんなことは少年にはわからない。ただ、何歳なのか考えてみても、よくわからない、という結論に至った。
足が止まった。
少年が立っているところからずっと先、こちらに背を向けて、あの崖の上の時計台を、下から見上げているのは。
目が見開かれる。あの男だ。間違いない。あの時のスーツを着ている。ただ上衣は脱いで、腕まくりをした左手に持っていた。
胸がやけにドキドキと鳴っているのを感じる。声をかけていいだろうか。
少年は暫しその場に立ったまま迷っていたが、やがて意を決し、波音を立てながら歩いていった。
側に行く前に男がこちらを振り返り、少年に気づいた。その目に驚きがあり、また嫌悪や戸惑いではなくて微笑や可笑しさがあることを、少年は必死で見て取ると、全身から力が抜けるほど安堵した。
相手は少年に向き直り、
「また会ったね」
そう話しかけてきた。少年ははい、と答えた。頬が赤い。
相手は視線を湖へ投げ、
「きれいなところだね」
「そうですね」
話を繋げたいのに、うまい言葉が出てこない。相手の顔を見ているだけで胸がいっぱいになって、心臓の動悸は速くて息が苦しく、金魚のようにあえぐばかりだ。
男は次にさっき見ていたものを見上げて、
「時計塔があるんだな」
独り言のように言った。
「でも、鳴っている音を聴いていない」
「音は、鳴らない…みたいです」
少年が慌てて言った。男が少年を見て、
「そうなのか」
「はい」
「それは残念だ。聴いてみたかったな。あんなに綺麗な塔だから、さぞや美しい音色だろうと思ったのに」
男に時計塔をそう描写されて、少年は嬉しくなった。とても誇らしくなった。
「僕も」
「うん」
「あの時計塔がとても好きで、いつも見てるんです」
「そうか」
男は楽しそうに笑った。その笑顔に、少年の胸が熱くなった。
キャー、アハハハという歓声が少年の背後から聞こえた。見ると、少年がさっきまで居た場所に、父親とその子供と思われる二人が居て、父親が子供を遊ばせていた。
何の屈託もない、純粋に楽しいだけの、心の底からの笑い声であり、笑顔だった。
それをぼんやりと眺めてから、ふと少年は男を見た。男はやはり微笑していたが、なんだか、古い古い写真でも見ているような顔をしていた。侘しさが男の頬に、午後遅い陽射しのように射していた。
ふと男の視線が少年に向いた。少年はビクリとし、それきり身動きもせず相手の視線を受け止めていた。
しばらく、男は少年の顔を見ていたが、やがて、
「じゃあ、また」
そう言い置いて背を向け、あゆみ出した。
少年はこの前のように呼び止めたいと思ったが、やはり呼び止める理由が見つからず、数歩進んで足を止めた。が、
(またって言った)
また会えると思ってくれているのだ。
それは単なる社交辞令だろうか?こういった偶然の巡り会いの後の、儀礼的な言い回しだろうか?ニ度あることは三度あるって言うからね、程度の。
違うと少年は思った。会えるかも知れないねでも、会えるだろうでもない。
きっとまた会おう、と言ってくれたんだ。
見知らぬ他人に、自分がそこまで望んでいるのが、奇異なことだと、少年は気づいていない。
夜、たった一人のベッドから、夜空の見える窓を見る。
今まで少年は夜が好きではなかった。このまま二度と陽がのぼらないのではないかと思う。闇の中から異形のものが身をもたげ、こちらに向き直りそうで怖い。
そんなことを訴える相手もいないから、黙って我慢してきた。少年の年齢であれば、暗闇に怯える頭を撫でる優しい手や、眠りにつくまで側にいてくれる温かさをもった存在が側にいて然るべきだろうが、彼には父も母もそれ以外の誰も居なかった。
けれど、今は闇が嫌いではない。むしろ慕わしいものになっていた。しかし何故なのかはわからなかった。
ただ、眠りにつく間際、夜の闇にあの男の黒髪や、あの男の目を重ね合わせ、少年は薄っすらと微笑んでいた。
水に足を浸して歩きながら、少年は周囲を見渡す。
今でははっきり、あの男が居ないか、少年は探すようになっていた。
少し歩いては行く手を見、そして背後を振り返る。居ない。
最後に会ってから数日が経っていた。まさか、このまま二度と会えないのではとふと思い、その考えにぞっとする。そんなことはない。またって言っていたじゃないか。
強く首を振り、それから顔を上げた。見上げる先には時計塔があった。
(あの時計塔が好きだと言っていた)
あの時計塔の鳴る音が聴いてみたいと。鳴らないみたいだと言ったらとても残念そうな、寂しそうな顔で笑っていた。
あの時計塔が鳴ったら、
あのひとにもう一度会えるだろうか?
その考えに足元がぐらりと揺れた。波が寄せて足の下の砂を抉り取られていった時のようだ。
何故そんなことが言える?あの男は単に、この時計塔の音が聴いてみたいと言っただけだ。鳴ったから少年の前に現れるなど、どうして言えるのか。
それは正論だ。しかし、正論を少年に向かって解く人間が、彼には居ない。
少年は時計塔を見つめ続けた。
あの時計塔が鳴ったら。
あのひとにもう一度会えるかも知れない。
陽射しが雲の切れ間から落ちてくる。長い黒髪が翻る。白い手がそれを押さえる。あの白い男が、あの黒い目が、こっちを見る。
あの時計塔が鳴ったら。
鍵を取り出して入口の鍵穴に挿す。回した。
ギィィィと錆びた鉄の音がして扉が開いた。カビの匂いがした。
中に入るとすぐに上へ伸びる螺旋階段になる。段は、石なのか金属なのかよくわからない。ところどころ、途中にある窓からは、黄昏た光を受けて輝く湖が、徐々に眼下におちてゆくのが見える。
長い長い螺旋階段をのぼってゆくと、徐々に時間の経過がわからなくなってゆく。一体いつからのぼっていたのだろうか。最初に上り始めたのがもう何時間も前のことのように思える。しかし、窓の外の湖は変わらずに黄金色に、あるいは朽葉色に輝いている。
永遠にこのまま上り続けるのかと思った時、唐突に階段が終わった。
階段の終わりにはまた扉が待っていた。黒い扉だ。
鍵を取り出して鍵穴に挿す。回した。
今度は音も立てないで扉が開いた。
中は巨大なカムや歯車がぎっしり並んでいる。まるで自分が小人になって時計の中に迷い込んだような気分だ。
そして中は暗かった。外に開く窓はなく、天井は闇にのまれている。あるのかないのか、照明も見えない。
持ってきたランプに灯を入れて翳し、機械の中にやっと人ひとり通れる細い道を進んでゆく。床は金属の板が等間隔に並んでつくられていて、隙間から下をのぞくと目もくらむ高さの陥穽が暗闇を湛えて広がっていた。
恐怖をこらえながら歩を進める。細い道はやがて機械で作られた三叉路になった。一番右の道をゆく。
少し下り坂になり、やがてT字路になる。そこを左へ行く。すぐに四つ角になる。直進する。
数えきれないほどの選択肢を迷いなく選び取って、最後に、小さな空間にたどり着いた。
三畳ほどの大きさだ。突き当たりの壁にはレバーが突き出ていた。
それに手を掛ける。
その時、
「よせ」
低い声がして振り返った。
突きつけたランプの灯りに照らされ、あの男が立っていた。
声が出ない。
なぜあなたがここにいるんですか?
そう訊くのが妥当なのだろうが、そんな言葉は出てこない。ただ自分の中にあるのは、抑えようもない喜びだった。
まごうことなきその喜びにあふれる両眼をただ黙って見つめている男は、不意に近づいてくると、少年の手からランプを取り、床に置いた。
下からの光に揺らめく黒い目を、少年はただひたすら見上げる。
男は手を伸ばし、少年の顎を捉え、緩やかにかがむと、くちづけをした。
身体が硬直し、次いで火のように熱くなる。
何も出来ずただ立ち尽くしていたが、男の舌が口の中にすべりこんできた時、ビクリと震えて反射的に逃げようとした。が、男の両腕がしっかりと抱きすくめてそれを許さない。抱きしめたまま壁に押し付ける。その姿勢で、男は少年の唇を思うさま貪った。
気が遠くなる。
熱くて、熔けそうだ。そして信じられないほど快い。一方的に奪われ食いつくされながら、もっと、と望まないでいられない。
どれほど時が経ってからか、男の唇が少年のそれからつと離れ、真っ赤になった頬へ、そして首筋へとおりてゆく。指先で少年のネクタイを解き、襟をくつろげると、鎖骨へ顔を埋めた。
長い黒髪が唇を追って頬を首筋を肩を胸を撫でてゆく。
甘く甘く濃密な愛撫に、少年は立っていることが出来ず男の手に墜ちていった。
かすむ視界に、ものいわぬ機械の迷宮が映っている。
この場所は誰も知らない。歯車で出来た牢獄の最深部だ。誰も来ない。誰も。ここで何をしようと、どんなことをしようと、
誰にも知られない。
秘密だ。
少年の口から小さい歓喜の息が漏れた。それを恥じて唇を噛みしめたが、その唇を吸い上げられて無力にまた呻いた。
どのくらいか意識を失っていたらしい。
目を開けると、男の腕の中だった。
男は壁にもたれて座った姿勢で、少年を腕の中に抱いている。顔は、少年を見ていなかった。機械の中の闇を見ている。
少年が目を覚ましたことに気づいて、視線を落とす。目が合った。
男は少年を見つめたまま、指を動かし、少年の素肌の上、首から下げている紐を手繰って、くい、と少年に示した。
紐の先には鍵が2つ付いている。この塔の入り口と、機械室に入るための鍵だ。
男は口を開いた。
ひどくくたびれた声だった。
「この塔を守ることが、お父上の遺言じゃなかったのか?」
少年は黙って男の顔を見ている。その顔には表情がなかった。
あまりの驚きで声がないのか。どこかの時点でこうなることがわかって、ただ黙ってそれを受け入れているのか。今はただ男の顔を見ていたいというだけなのか。
「この時計塔の最深部のレバーを引くことが、どういうことか」
わかっているのかと問うことはしなかった。わかっているから、そうしないでいられないようにしむけたのだ。少年が自分に惹かれていると一目でわかった時、少年があの時計塔を鳴らそうと思うように、自分は少年を誘導したのだ。
少年しか開けない扉の向こう、少年しか行き方のわからない迷路の果てにあるレバーを引けば、時計塔が鳴り、その音で、草間博士が作り出し封印した強大な力を持ったロボットが目を覚ます。逆に言えばその音でなければロボットは決して目覚めない。それこそ、男が属する組織が手に入れたくて躍起になっていたものだ。
博士が組織に抹殺される時、まだ幼い一人息子に鍵と「あの時計塔を守れ」という遺言を託したのだ。
鍵を開けさせ、ここまで道案内をさせた。ここまで来たらもう少年は用済みだ。
少年を殺し、レバーを下ろす。それ以外に自分に許された行動は無い。
それなのに。
自分は、
この少年を愛してしまった。
男は不意に、再び少年の体を抱きしめ、夢中で唇を奪った。
それから顔を離し、目の前の茶色の瞳を見つめた。
相手も、黒い闇のようなその瞳を見つめ返す。
もはや自分たちに行くところはない。この世にただ、この小さな迷宮の果てだけが自分たちに許された世界だ。
男が静かに微笑んだ。
「この世の終わりまで、2人でここに居ようか。
…草間大作」
名乗ってもいないその名を呼ばれ、少年はちょっとくすぐったい顔になって笑ってから、胸元の鍵をぎゅっと握り、
「父さんには、本当に、」
わるいと、おもったけれど、と声にならない声でささやく。
笑っている目に涙の膜が張る。
「どうしても、あなたに会いたかったんです」
頬を伝って涙が零れ落ちる前に、男はもう一度少年を力の限り抱きしめた。
ダンジョンは江戸川乱歩の「幽霊塔」のイメージで。
「世界に2人ぼっち」な感じを出したかったのですが、大作がちょっとただの無責任な子供になってしまった。すまん。
あっ全然名前出てませんが少年は大作で男は幻夜です。
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