わー、と拍手が起こる。目をやると太鼓の兄弟と虎の着ぐるみがフィンガー5を歌ってウケたところだった。
二次会は誰が決めたものだかカラオケボックスになった。どいつもいい加減酔っていて、赤ら顔のオヤジが何人もどやどや
部屋に入り、歌ったり騒いだり寝たりしている。あまり、市民の平和を守る面々には見えない。
ウィスキーの水割りをちょっと飲んだがほとんど水になっている。今時どこで見つけた、という感じのトリスの瓶に手を伸ばしながら、ちらと見ると、二つほど向こうの方のテーブルで、
「なんだか痩せたんじゃないですかい呉先生。ちゃんと食ってますか」
「大丈夫だ、ちゃんと」
「あやしいな。絶対あやしい」
左右を鉄牛と花栄に挟まれてソファに埋まり、当惑顔を微笑ませた呉が、所在無げにその辺にあるおつまみを口に入れている。
…久し振りに見る、白い顔は、鉄牛ではないがいよいよ細く鋭角になったようだ。見慣れたあの服は、よもや今は着てはいないのだろうが、おそらく、久し振りの昔の同僚との再会のために、わざわざ着て来たものと見える。
あるいは、自分一人だけが今は別の場所に居ることを、周囲にことさら意識させたくなかったためか。
だが、久し振りに着てみた昔の服は、中身のカサがいささか減ったことを逆に主張する形になった。鎖骨から胸の辺りが妙に余っているし、ただでさえ鶴のようだった体型が、今では鶴がくわえる葦の方になってきている。
鉄牛の言葉は大分遠慮がちに言っているのだろう。まあ、『呉がいよいよ痩せた』ことは、本人を含めて誰もがわかっている。わざわざ大声で言うことでもない。
それに。
大分くたびれた、疲労と寝不足でくすんだ顔、前にも増してスリムになった体ではあるが、呉はとても、充足した横顔をしていた。疲れや、ちょっとピッチの早い痩せ方とは関係なく、今自分が全力を傾けている事に、とても満足しているのが、『久し振りだな』と言って近寄り呉といくつか言葉を交わすだけで、なんとなくわかるのだった。
ならばいい、と誰もがうなずく。この、静かで穏やかで、国際警察機構で知将とお題をつけて指を折れば必ず入る程の頭脳を持ちながらいつもどこか自信無げで、でもいつも一生懸命だった男が、
いつもどこかにまとっていた後ろめたい侘しい影を脱ぎ捨てて、今は持てる力の全てを発揮して己を打ち込めているのだ、真っ直ぐに…この男自身のように、真っ直ぐに。それは、良いことだ、良かったと言い切れることのあまりないあの戦いの残骸の中、数少ない良いことだ。
だから、敢えてそれ以上のことは言わない。
お前がいなくなったせいで何がどこにあるのかさっぱりわからないまま随分経ったけどやっぱりわからないままだどうしてくれるとか、時々『呉』って焼き印の入ったあの蒸しパンが食いたくなるよチャレンジしたけどやっぱりあんたでないとあの味は、とか…
早くシズマドライブを完成させて帰ってきてくれとか。
言っても仕方がない、言ってもキリがない、言っても呉を後戻りさせるだけのことは、誰も口に出して言わない。
胸の中で呟くだけだ。
かつて呉の上官だった中条という男も、もっと側でその懐かしい顔を見たいと思いながらも、結局少し離れた場所で、自分で酒をつくって飲んでいる。呉自身は、中条の隣りに行きたいと思っているようで、ちらちらこっちを見たり、なんとか立って人の波を漕いで近づこうという動きを見せたりしているのだが、まわり中がそれを許さない。たった今も、ごぉせんせぇ!おお、呉学人!おい、俺と話してるんだぞ!なにぃ。呉学人はワシと話したいさ。いや、俺とだ。僕です!最後に叫んだ声が、テーブルごしに呉の向かいから
「呉先生!」
茶色の大きな目がきらきら嬉しそうに輝いて、いっぱいに呉を映している。呉は思わずにっこり笑いかけ、
「大作君、元気だったかい」
「はい!僕も、ロボも、元気です!呉先生は?」
「うん。私も、シズマドライブもとても元気だ」
大作の真似をしてそんなふうに言う。大作はとても嬉しそうに、そうですか、良かった!と叫んだ。
「呉先生、乾杯しましょう!はい、呉先生のグラス」
差し出されたのは乾杯にはちょっと不向きな大ジョッキだったが、呉は笑いながらそれを受け取り、
「じゃあ…乾杯」
「カンパイ!」
大作のコーラのグラスとぶつけあった。両隣りの二人は不満げに、
「おいおい、なんだなんだ、ちょっと待ってくれ」
「大作ばっかりよう。そういうことなら俺ともやってもらわねぇと」
「そういうことってどういうことだ」
言いながら両隣りとも訳のわからないカンパイをし、それから大作を見て、
「少し見ない間に大きくなったな」
大作は照れくさそうに笑って、
「いやだなあ。本当に、ちょっとしか経ってないですよ」
「いや、成長というものは年月の長さとは関係ない。三日会わざれば更めて刮目しというだろう」
「僕は、そんなふうに変わってないと思います」
「そうだそうだ。こいつは相変わらずの石頭だ」
「いつまで半ズボンはいてるつもりなんだか」
黄信や鉄牛の横やりにちぇっという顔をしてみせる少年を見やって、
艱難が人間を珠にするというのなら、この少年はまさしくあの数日間という艱難に磨かれたのであろう。人と出逢い人と別れ、人の思いというものの強さと哀しさを、この小さな体と心で受け止めたあの経験は、学校に何年行っても教えられることではない。目の前で笑っている少年は、これシズマ博士から預かってきましたとアタッシュケースを差し出した少年とは、別人と言っていい。
こうやって、少年は成長してゆくのだ。…どんな経験をも糧にして、強く、逞しく、大人になってゆくのだ。
私も負けないように頑張ろうと気持ちをあらたにしている隣りで、
「ちぇっ、まだまだコドモじゃねえかよう。俺が大作のトシの頃は一人前の働きをしてみせてたけどな」
しつこく言い張る男に、「どちらがコドモだかわからない」と呉が言い、まわりがどっとウケた。
笑いながらちらと見ると、中条はトリスを足し増ししている。私がつくるのに、と思いながらもこの状況では側に行けない。考えてみなくても、この会合が始まってから、まだ一度もちゃんと話をしていない。
研究はまだまだ大変だろうけど、暑気払いも兼ねて一度元気な顔を見せて下さい、というお誘いが来た時、
どうしようかな、と口ごもった呉に、現在彼の下にいてシズマドライブの修正に携わっているスタッフは皆、口を揃えて、
どうぞいらっしゃって来て下さい。ずっと詰めてるんですしたまには息抜きをしてらして下さいよ。
懐かしい方々が沢山お待ちなんでしょう?皆さんきっと大喜びですよ。先生も久し振りにお会いになれれば嬉しい方ばかりじゃないですか。
そう言ってくれて、そうだな、と微笑んだ時、実は誰のものよりも先に、かつての上官の顔を思い浮かべた呉だった。
いやいや、支部側から誘われて行くのだから、会いたくて焦がれてガマンできなくなってやって来ちゃいましたというのでもないし、うん、恥ずかしいことではないぞ。等と体裁を考えてから、
長官とお会い出来る。…
長官とお会いしたら何を話そう。最初に何と言おう。でもお顔を見たら嬉しくて何も言えないかも知れないな。長官は何とおっしゃるだろう。でも、どんな言葉でも嬉しい。
目の前に長官がいらして、お声をかけて下さるだけで、充分だ。
自ら選んだ道のため、自ら手放したあの温かさを、もう一度感じられるのだと思うだけで、胸がじんとして鼻がつんとする。
そんなことを思い巡らして、一人涙ぐみそうにすらなっていたというのに、呉が姿を見せた途端四方八方から取り囲まれ、
歓声と握手攻めと質問攻めと「一緒に写真撮って下さいよ」「今写真べーって出てきますから、サイン入れて下さい。飾っときますから」「ずるいぞ。こっちが先だ」「なにを。こっちが先だ」「やかましい。黙って焼き鳥食ってろ」等々のもめごと攻めに遭い、ほとんど自分からは何もできない状態だ。
ちら、ちらと中条の方を窺うが、なかなか視線ですら逢えないでいる。一度、中条がこっちを見ているタイミングと合って、はっと息を吸って身を乗り出したところに、
「なんだ呉先生、これが食いたかったんですか。言ってくれれば取ってあげますよ」
「ほらほら。はいはい」
周り中から小皿に乗ったアタリメを差し出されて、ちがーう!中条長官と話がしたいんだー!とも叫べず、ありがとうとひょろひょろ呟いて山のようなアタリメ皿を自分の前に置き、ぼそぼそ食べた。
勿論、皆が私との再会をこんなにも喜んでくれているのは、本当に嬉しいのだけれども…
と。
「呉先生、はいこれ」
後ろからおでこに汗をかいた少二がにこにこ笑って、マイクを突き出した。え?といいながら思わずそれを受け取る。と、
ちゃらららら〜んとイントロがかかった。
「ちょっと待て、歌えというのか私に」
「大丈夫ですよこの歌ご存知ですから。さあさあ、イッパツお願いします。皆、呉先生が歌うぞー」
おおお〜とどよめき、拍手が起こる。いいぞう。やんややんや。科学の歌声だな。シズマシンガーだ。
待ってくれというのに、という声は皆の歓声に飲み込まれた。中条は苦笑して、グラスをテーブルに置き、引っ張られたり押されたりして小さなステージの上に上がった呉を、黙って見守った。
「呉先生ほら、曲かかっちゃいますから。そろそろ観念して」
「全くもう。皆で」
ぼやいて赤面しながら、仕方なくマイクを握り直し、歌う人間専用のモニターの字を目で追い、それから、一同にひょこと頭を下げ、長官はどんな顔で見ているか…と目で探した。
しかしもう歌い始めのところが来てしまって、慌てて戻る。
もしも、貴方と逢えずにいたら私は、何をしてたでしょうか?
見かけはひょろりとした優男だが、声は別に女みたいという訳ではない。オクターブ低くして歌っている。しかし、なにやらこの歌は、含むところのある歌詞も切なげなメロディも、妙に呉に合っていた。
皆で手拍子を打ちながら、しみじみと見入っている。その一番後ろで、中条も黙って眺めている。
君と逢えずにいたら、私は。…人の命も自分の命も同じくらい軽い、紙のように軽いものとする、心を持たない、人に心があることなど考えてすらみない、手足が生えて黒メガネをかけた、最後のその時まできちんと任務を遂行するだけ、の男だったのだろうな。
そのことは、会えなくなって少し経っただけで、そこに無い君の手や君の声を、無いと知りながら探している自分の胸の中に、はっきりと示されている。この痛みが多分、《心》というやつなのだ。
…君は私と会わなかったら、どんな男だったのだろう。
あまり変わっていないかも知れないな。やはり懸命で真っ直ぐで、時に折れそうに脆く見えても、奥底には柳のしなやかさと、はがねの強さを秘めた横顔で、シズマドライブの完成を目指していたのだろう。その姿は今の君と寸分違わないだろうと言える。…
ひょっとして私は、君にとって、単なる『あの頃の上司』なのだろうか。
会わなくても、会わないだけだった、という程度の?
時の流れに、身を任せ
「まーかせー」
あなたの色に、染められ
「そーめーられー」
皆が合唱で合いの手を入れているのを聞きながら。
君は私の色になど染まってはいないだろう、とふと思う。君は私の前で泣き、怒り、くやしがってみせた。多分、他の誰よりも、私は君のいろいろな顔を見ただろう。…それでも。
…もし君が、誰かの色に染まっているというのなら、それはやはり、
「呉君は歌が上手かったのだなあ」
「ご存じなかったのですか父上」
隣りで話している二人の声を聞き、そうだ、この老博士の色…と一瞬素直に思ってから、
「え?」
「なに?」
一番が終わったところで一斉に拍手をしながら、皆の顔がこちらを向いた。今のは。
いつからか、どうやってか、ちゃっかりと中条の隣りのソファに座って、ご丁寧にグラスを持ち、ん?と言う顔で、一同を見返しているのは。
なんでだかどうしてだか、フォーグラー博士と幻夜だった。
「ぎゃあああああ」
「わーっ出たーっ」
恐怖の絶叫を上げる物、ここぞとばかりに得意の念仏関係を唱えるもの、さまざまだ。
「迷わず成仏。ナンマミダブ。なむみょうほうれんげきょう。ぎゃーてぃぎゃーてぃはらぎゃーてい」
「りん!びょう!とう!しゃ!かい!ちん!」
「祓うな」
幻夜が怒鳴って立ち上がり、
「頭が高いぞ貴様ら。畏れ多くも偉大なる科学者、シズマドライブの生みの親、フランケン・フォン・フォーグラー博士だ!ひかえろ」
「ははっ」
半数が反射的にひざまづいてアタマを擦り付けた。やめなさいエマニエル、という声が耳に入った。残りは、我と我が目を疑って、呆然と見返している。
呉が、よろよろとステージを下りてこちらに向かってきた。
「…何故貴方がたが今ここに」
中条が呟くと、軽く頭を下げて、
「お盆ですからな」
「父上があの後の呉学究に謝りたいというのでおつれしたのだ」
ふんとそり返った幻夜に向かって、一同は一斉にわめきだした。
「兄貴、戴宗の兄貴はどうしたんだよう!兄貴は」
「お前はいいから妹を呼んでこい。銀鈴に会わせろ」
「楊志はどこにいる。出し惜しみするな」
と、ひときわ甲高い声で、
「父さんは死んでから一度も来てくれない!どうしてなんですか」
大作が叫んで幻夜に詰め寄った。幻夜はヘキエキして、
「今年から条例が変わって盆には帰れることになったのだ」
「条例?」
顔を見合わせている面々に、ごほんと咳をし、
「他の奴等は次の電車で来るのだろう。いちいち他の連中のことなど注意していない」
「電車…」
「父上は特例で一足先に来たのだ。何と言っても偉大な科学者だからな。そんじょそこらの一般市民とは扱いが違うのだ」
ふんと再びふんぞりかえった所に、
「父さんだって偉大な科学者だぞ!」
大作が泣きそうになりながらぽかすかぽかすか殴り掛かってくる。
「だぁっ、うるさい!あっちへ行け、このコドモが」
「エマニエル、その子は誰だね」
フォーグラーに聞かれて、はいといきなりしおらしくなり、
「草間博士の息子です」
「おお、そうか。これは、失礼した。お父上の御高名はかねがね伺っているよ」
「あっ、はい、あの…草間大作といいます、初めまして。お会いできて光栄です」
大作は顔を真っ赤にして、直立不動で叫び、120度のお辞儀をした。その姿を見て、幻夜はちょっといい気分になった様子で、
「うん。お前は取るべき態度というのがわかっているな。この中で一番マトモだ。大体こいつらはアタマが悪いくせに態度だけがでかい」
なんだと、という叫び声、やめなさいエマニエルという叱責。それから、
「博士」
歌う人のいない2番の伴奏をバックに、呉がよろよろと側まで来て、
「博士。私は」
それから、堪えきれなくなったようにうつむき、歯を喰いしばった。フォーグラーが立ち上がって、
「呉君」
穏やかで優しく、思い遣りのある深い声音だった。
「あの後、本当に苦労をかけた。済まなかった。そして、私の残した仕事を引き継いでくれて、有難う。心から感謝している」
「もったいない、私ごときにそのような」
そこまで言って、あとは言葉にならず、ばたばたと涙を流し、鳴咽を漏らした。
眺めている連中は皆もらい泣きをしている。あちこちから感動のすすり泣きが起こった。
「良かったなあ、呉先生よう」
「一人で、シズマ修理の仕事に戻った甲斐があったってもんだよ」
「でも本当はあの件は、息子に託したんだろう?博士は」
「だってよ。息子はほれ、誤解して突っ走ったから」
「うん。挙げ句、飛んでっちまたったし」
「宇宙へ」
「うるさいぞ、そこ」
幻夜が怒鳴りつけた。呉は泣きながら笑い出した。フォーグラー博士が何か呟いてハンカチを差し出してやり、また更に泣き出しながら、ありがたくそれを受け取って、おしいただくようにしてそっと顔に当てている呉を、座ったまま見上げ、
師弟の図、というのがあったら、これだな、と中条は思った。『側に控える』という彼の姿が、これほどしっくりくる相手は、世界に二人といまい。
なんだか、体から力が抜けて、立つ気にもなれない。…久し振りに彼に会える、と誰にも見せないところで一人密かに、心底喜んで、いざ会ったらなかなか話すこともできず、遠まきに眺めていたらなんだか知らないがひょっこりやってきた幽霊に油揚げをさらわれて…
頭痛がする。ふと苦笑したのはそうやっている自分の一連を外から眺めると、いかにも間抜けだからだ。
苦笑しながら顔を上げる。涙を拭っている呉が、本当に嬉しそうな顔をしている。よかったな、呉先生、と微笑んだ口の形のまま思う。何故だか、虚心に、良かったと思う自分が変だった。
「さあ、呉君、泣かないで、歌を聴かせてくれ。君が歌が上手いとは知らなかった。私はそこで聴いているから」
「えっ、はあ」
「そうだそうだ。もう一回頭から歌ってくれよ呉先生」
誰かがリモコンの『歌いなおし』を押した。一度曲が止まり、再びイントロが入った。皆拍手する。
なんで、この状況で歌を歌わねばならないんだろう、と思いながらも、素直にマイクを握ってステージに戻り、お辞儀をし、さっき途中まで歌った歌をもう一度歌いだした。
もしも、貴方と逢えずにいたら私は、何をしてたでしょうか?
さっきと、全然違う意味に聞こえるのは、ある特定の男に向かって歌っているように聞こえるのは。
仕方のないことだろうが。
「やっぱり空しいな」
思わず低く低く呟いていた。
「呉君の上官の方だそうですな」
フォーグラーに話し掛けられて、顔を向ける。叡智の瞳が、静かに、自分を映している。目礼し、
「昔の、ですがね。中条といいます。私の下にいる時、呉せん…呉君は、あなたのことを、一日たりとも忘れたことはありませんでしたよ」
「それは、嬉しいことですな」
にこりと笑う。不思議と、童子のようなところが、この老博士の笑顔にはあるのだった。無私の心で、幾年も幾年もひたすら努力を重ねた人だけがとどく高みに、この人はいるのであろう。
「呉先生が崇拝してやまない筈だ」
「何かおっしゃいましたか」
「別に」
がぶりとウィスキーを飲んだ。ほとんど水だ。手を伸ばして、トリスをがばがば注いだ。
一度の人生、それさえ、捨てることも構わない…
捨てることはなかった。捨てなくてよかったな呉先生。何度も捨てたいと思ったのだろうな。しかし、今ようやく『自分はこのために命を繋いできたのだ』と言えることが見つかり、それに熱心に取り組んでいるさなかだ。
十年、捨てないで頑張ってきたご褒美だな。
「呉君は、本当に辛かったろう。世界中が私を罵る中、なんとかファルメールを守らなければと…自分の身など、こればかりも考える余裕はなかったろう。あれからの十年を省みて、私が出来るのは謝ることだけだが」
静かに、中条に聞かせるような、独り言のような調子で呟いていたが、
「決して辛く悲しいだけの十年でなかったことは、今この場に来てみてよくわかりました」
フォーグラーの目が見回す光景を、中条も見た。
皆が、呉の涙に、共にうなずき、共に泣きながら、手拍子を打っている。
合いの手をいれ、「ごーせんせー」と掛け声をかけている。
「シズマの研究のために任を外れた呉君を、皆さん変わらずに温かく迎えてくれている。呉君は、ここにいる皆と、心をしっかり繋いできたのですね」
「はい」
中条はうなずいた。
「皆、呉君のことが大好きでした。そして今も、大切な仲間です」
たとえ会えなくなっても。
そんなことは、呉を自分にとって薄れさせる、何の力もなかった。いや、それどころか逆だ。
「これで安心しました。これからも体に気をつけて、頑張ってくれと…いや、これはおっしゃらなくて結構です。呉君は頑張るなと言っても頑張ってしまうから」
笑いながら腰を上げたフォーグラーに、
「どちらへ」
「もう行きます。あちこち回らねばならないので忙しいのですよ」
「父上は超有名人だからな」
すかさず威張る息子に、ちょっと恥ずかしそうに謝るような仕草をした父親を、追いかけるように腰を上げて、
「また来年もおいでくださるといい。彼が喜ぶ」
フォーグラーはにこりと笑って首を振った。
「もう来ません。これで最後にしますよ」
「何故です」
「一言、謝りたかったのです。労ってやりたかった。これでもう満足です」
「しかし」
「彼には彼の未来がある。自分で切り開いてゆく未来です。沢山の友人たち、心許す大切な人々と築いてゆく未来だ。私は、彼の思い出です。もう口を挟むことは何もありません」
黙ってフォーグラーを見ている中条に、右手を差し出す。
「呉君を宜しくお願いします。無理と我慢ばかりする彼を、支えてやって下さい」
体温が数度上がった気がする。中条が思わず口を開いたが、言葉は出なかった。何故それを私に言うのですか。もう今では彼は。私は単なる。
その躊躇が目で見えたみたいに、フォーグラーはかすかに首を振って、
「あなたに、お願いしていきます」
三回の呼吸の後、中条は右手を伸ばして、その手を握っていた。
「お任せ下さい」
フォーグラーは良かったというようにうなずいて、一度深くお辞儀をしてから、
「では失礼します。呉君によろしく」
せめてもう少し彼と話を、と言いかけた中条の前で、温和な目をした老博士は、カラオケボックスの薄暗い闇の中に溶けて消えた。
中条とフォーグラーは、一番ステージから遠い奥にいたから、彼が消えたことは誰もまだ気づいていないらしい。暗い室内は、明るいステージ上からは見にくいらしく、呉の歌声も、別段何も変わらず流れている。
フォーグラーの右手を握った手を、もう一度握り直して、ふと見ると、幻夜が自分の分のグラスを干して、チーズ盛り合わせとサラミとチョコレートとナッツ類を皿に取りながら、
「呉学究と話したかったが私ももう行く。宜しく言っておいてくれ。そのうちにファルメールたちも来るだろう」
「わかった」
「不本意だが」
ふん、と上体をそらして、中条を見下ろし、皿を片手に気取って、
「呉学究を頼んだぞ、静かなる中条」
返事を待たず、こっちも威張ったまま消えた。
見ると、随分つまみをかっぱらっていったようだ。道々のおやつに食べるつもりだろうか。それとも、
「あの世には、こういった食べ物はないのだろうか」
ぼんやりと呟いた。拍手が起こった。終わったのかと思ったら、リフレイン前の間奏らしい。
中条は、ゆっくりとソファに座り、ステージ上で歌う呉の姿を、見上げた。
他の連中のがなる、まーかせー。そーめーられー。という合いの手を、自分も、口の中で呟く。
だからお願い、そばに置いてね
今はあなたしか愛せない
「自分から出て行ったくせに、何を今更」
そんなことを言っている自分に、うつむいて笑った。
「そうですか。…お帰りになったのですか」
歌が終わって、今までの苦労が嘘のように、呉は中条の隣りに座っていた。ステージ上では、黄信が西城オデキの歌を入れようとして、間違え、
「なんだこれ。松田聖子だぞ」
「いいから歌え。入れた歌は全部歌うっこな。歌わんやつはわさび入り饅頭を食わせる」
なにーとわめいている黄信、大勢の笑い声をバックに、
「うん。君に宜しくと、二人とも念を押していった」
「はい」
寂しそうではあるが、予想したほど、がっかりしていない。そのことを、つい尋ねてみると、
「まさかお会い出来るとは思ってもみませんでしたし、今の私のしていることを励ましていただけて本当に嬉しゅうございました。…案外、それだけで十分なのかも知れません」
「そうかね」
言いながら、呉の飲み物をつくってやろうと目を動かすと、
「私がやります」
手早く、新しいグラスに氷を落とし、ウィスキーを注いで、ソーダ水を注いだ。マドラーを回してから、
「どうぞ」
「私にか」
「遠くから見ていて、ずっとイライラしておりました」
二人でちょっと笑ってから、一口のんで、美味しいよと言った。呉はぺこりと頭を下げる。
「充実しているようで、良かった」
「ありがとうございます」
そのことがわかってもらえて、呉はとても嬉しそうな笑顔になった。
野太い声が、ステージの上から聞こえてくる。
あれから半年の時が流れて、やっと笑えるのよ
毎日忙しくしているわ、新しい人生を、自分なりに歩いてる
「君の顔を見ると、いずれ…遠くない未来に、真の美しい光が、夜を照らす時が来るだろうな、という気がする。…ちょっと、フォーグラー博士風な表現だが」
「はい」
くすくすと笑う。それから、
呉が意を決したように、少し身を乗り出して、
「お元気なお顔を拝見できて、本当に、本当に嬉しいです、長官」
ウィスキーソーダを傾ける手が止まった。
「久し振りにあなたにお会いできるのが本当に…嬉しかったです」
呉の頬が赤くなっている。
あなたに会いたくて会いたくて、眠れぬ夜は
あなたの温もりを、その温もりを思い出し、そっと瞼閉じてみる
おえーきもちわりーという笑い声、拍手。「黄信ー」という黄色い掛け声。
「私もだ」
帰ってくる返事に、思わずうつむいて、
「私、頑張ります、これからもっともっと頑張ります、シズマドライブの完成のために」
中条はちょっと驚いて相手を見た。
だから、あんまり頑張るなと、君の大事な博士が言い残して…第一何故突然、再会の喜びがこれからも頑張ります、に繋がってしまうのだ。
「シズマが完成したら真っ先に…国際警察機構北京支部にお届けにあがります。一本もって私が自ら」
「可愛い宅配便だな」
赤い顔の口を真一文字に結び、躍起になって、
「でも本当に。私は」
愛してると呟いて。
「ひっこめ。悪酔いしそうだ」
「歌わないとワサビだと言ったのはそっちだろう」
殴り合いが始まった。
「私はいつまでも待っているから、慌てないでゆっくり、やってくれ。いつまででも、待っている」
「…はい」
なんとなく不満げに、寂しげに振り上げた拳を戻した呉に、
「これからは、会いたくて寝られない時は会いに行くから」
ぎょっとして顔を上げた呉に、
「図々しいかね」
「はっ。えっ?いやっ、でも…」
「君の事は博士じきじきに頼まれたのだ。名指しでね。だから、これはいわば、フォーグラー博士の御意志ということになる」
どこぞのいんちき策士みたいなことを偉そうに言って、おかわり、というようにカラのグラスを差し出した。
「おひま発言」の後を精一杯前向きに続けてみました。
でもやっぱりそれだけだと寂しいのでちょっとふざけてしまいました。根性ナシですまん。
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