敗北を認めない

 叫んだのはジョセフだけだった。ジョセフの背後で見ていた承太郎、コントローラーを握っている花京院は、声もなかった。
 トンネルを出た瞬間、花京院の車がダービーの車を吹っ飛ばした。誰もが、勝ったと思った。しかし。
 飛ばされたダービーの車が、隣のコースに着地したのだ。リタイヤさせるどころか、ショートカットさせてしまった。これから必死で努力して追いつける距離ではない。
 そのことは、テレビゲームの素人の二人にもよくよくわかった。
 追い打ちをかけるように、
 「さて、勝負を再開するかな、花京院?」
 ダービーが優越感に満ちた冷たい笑みを見せてそう言った。勝者の目だ。花京院が、その相手を見た。
 血走った両眼に、混乱と動揺が一杯に漲っている。この後、自分の勝ちが絶対にないことをよくよく思い知り、この目には絶望が膜をはる。そして、
 【魂が負けを認める】
 あと数秒だ。
 ダービーの口角がもう少し上がった。
 瞬間、承太郎が怒鳴った。
 「敗北を認めるんじゃあない、花京院!」
 遅い、とダービーは腹の底であざ笑った。無理だ。無駄だ。これほどのゲームの達人だ、今の時点でこれだけの差が開いてしまったのを挽回することが、その後「頑張って」可能なことかどうか、わからないわけがない。わかるだけの腕を持っているからこそ、まだレースが終わらない時点で、もはや負けを認めるほかないのだ―――――
 「認めない」
 低いが、確かな声に、承太郎ははっとし、ジョセフは目を輝かせ、ダービーは思わず目を見開いた。
 花京院が、真っ青な、いやなまり色の顔色になりながらも、コントローラーを握って操作し続けている。それを見てダービーは慌てて自機の操作に戻った。
 嘘だ。もうこれ以上ゲームをやっても無駄だと、もう勝てないと花京院が認めて、そして我がスタンドの手であの肉体から魂を引きずり出す、その手順以外のことが起こるなど、あり得ない。
 混乱しながらチラと花京院の顔を見る。顔は絶望しきっている、万が一にも勝てるとは思っていないようだ。だが、ならば、何故?
 「僕が試合放棄しないのが不思議か」
 死んだ人間が出すならこんな声か、と思うような陰気な声に問われ、片頬がひきつった。
 暗鬱な目がギラリとダービーを見て、
 「過去の僕ならこの時点でお前に魂を明け渡していただろう。でも、僕は承太郎によって命を救われ、ジョースターさんたちと共に旅をしてきた。その中で僕も変わったんだ。
 勝手に一人でリタイヤなどはしない。最後までやる。たとえ無駄な努力でもだ」
 「花京院…」
 ジョセフが声を詰まらせ、承太郎はなにも言わなかったがぐっと拳を握った。
 「これは、これは」
 大仰に肩をすくめ、ダービーはせせら笑った。
 「花京院。あなたがそんな、非合理的な人間とは知りませんでした。たとえ無駄な努力でも、とは。恥をさらし続けて最後にやっぱり負けて、それで満足するのですか。ボクは最後までガンバッタのだからそれでイイのだと。やれやれ、なんとまた恥ずかしいことを」
 「余計な口をきくな」
 そう言ったのは承太郎だった。それに対し今度は哀れむような笑みを見せ、口を閉じた。
 ダービーの車はもうあとカーブ2回でゴールだ。当然のことながら花京院はまだずっと後ろだ。地道に、もくもくと走っている。
 本当だろうか?さっき言ったたわごとを、真剣に実行しているのだろうか。あんなにゲームに精通し、裏技だって知っていた男が。
 (待て)
 ダービーの脳内に、危険信号がともった。
 もしやこいつ、土壇場で逆転可能な裏技を知っているのではないだろうか。
 切り札を持っているからこそ最後まで走るなどと言い出し、無駄に見える勝負をまだ続けているのではないのか。
 しかし、このゲームについて隅から隅まで知っていると自負できるダービーも、この場面から逆転できる裏技なんかは知らなかった。
 (日本のゲーム雑誌にだけは載っていてわたしが知らないままだったテクニックがあるのかも知れない)
 焦るが、もう自分自身のゴールが近い。急がなければ。
 ダービーは花京院の魂に向かって問いかけた。
    《きさまは、今の段階から挽回できる裏技を聞いたことがあるのか?》
 この声は耳には聞こえない。問われていることすらわからない。だが、どれほど意志の強い人間だろうと、嘘をついて世渡りしている詭弁者だろうと、絶対に本当のことを答えてしまう。それがダービーのスタンド能力であった。
 花京院の魂はゆらりと色を変え、それから、
    《NO》
 そう答えた。
 拍子抜けする。なんだ。そうなのか。
 どうやら本当に最後まで甲斐のないレースをやりきる、ただそれだけのつもりらしい。
 (花京院。お前にはガッカリさせられたぞ。カスが)
 喉の奥でケッというような音を立て、ぐいとコントローラーを入れカーブする。あとは最後の直線だ。道のかなたにゴールと書かれたアーチが見えてきた。
 「ああ…」
 ジョセフが小さくうめき声を上げた。ゴールの文字がどんどん近づいてくる。あれが頭上を通り越したら、この勝負は終わる。
 文字を見ながら、さあ、わたしの勝利だ、と小さく、宣言するように呟いた、そこに、
 「違う」
 耳障りな声がした。もはや画面を見て操作する必要もないので、ダービーは目を上げて花京院を見た。
 花京院は画面を凝視したまま、続けて、
 「勝つのはお前じゃない。僕だ」
 静かに言い、そして、自分がダービーの車を吹っ飛ばして着地させたその地点に到達した瞬間、コントローラーのキーを目にもとまらない速さで操作した。なんとなく上上下下右左右左ABのレトロコマンドのような、いやもっと長い、とダービーが頭の片隅で思った時。
 「あっ」
 ジョセフが大声を上げ、承太郎がそれまでかみしめていた唇を開いた。花京院だけは無表情のまま、三人は花京院の前のモニタ画面を凝視している。
 あんな後ろを走っている奴の画面に、なにが見えるというのだ?
 苛立ちながら自分の画面を見て、
 「えっ」
 風景が変わっている。ついさっきまでぐんぐんと近づいてきていたゴールがどこにもない。あるのは、随分前に見た覚えのある、いくつかのカーブだ。
 一体、何、え?と言いながらもカーブからはみ出さないように右キーを押した時、
 ゴォォォーーール!YOU WIN!という絶叫が、花京院のモニターから聞こえてきた。同時にダービーの方の画面の右下にワイプ画面が割り込み、金銀の紙吹雪の中華々しくゴールしている花京院の28番カーが映った。
 なんだって?なに?花京院が?ゴール?
 ガタと立ち上がって回り込み相手の画面を見る。万雷の拍手の中、花京院の車がゆったりと進んでいく。画面いっぱいに、さっき叫んでいた言葉が回りながら、あるいは右から左へ、幾度も出ては消えまた出てくる。
 「やった、やったぞ、花京院!勝ったッ」
 ジョセフの歓喜の叫び声が、ゲームのSEと共にダービーの耳から、意味のわからない言葉となって入ってくる。
 なぜ。
 なぜ、
 「何故おまえが先にゴールしているんだ!」
 張り上げた声は悲鳴になっていた。何が起こったのか全く理解できない。
 混乱しきっているダービーの脳裏に、先刻花京院が何やらコントローラーのキーを操作していた映像が甦った。
 (何か、やったのか…あの時)
 承太郎の低い声が空間を打った。
 「相手の車の位置と、自分の位置を、取り換えたのか」
 「なんとまあ、そんなことが出来るものなのか。ほお」
 こめかみを冷たい汗が流れ落ちる。それまでずっと無表情のまま、黙って画面を見ていた花京院が、この時一回目を閉じて、それから開くと、ダービーを見た。そして、薄く笑った。酷薄な、勝者の笑みだった。それを見た瞬間、ダービーの中の自信や、プライドや、そういった自我を支えているものにピシリと甲高い音を立ててヒビが入り、絶叫し腕を伸ばすと花京院の胸倉を掴んで引き寄せ、
 「あぁ?ナニをした!薄汚いコスい、コスずるい卑怯な手を使ったクセに、なにをすましてる!この、イカサマ野郎が」
 ガクガクと揺さぶられる。その手を承太郎が掴んで引き離そうとしたが、花京院はゆるくそれを制し、自分で相手の手首をつかむと、
 「知らないんですか?バレなきゃ、イカサマじゃないんですよ」
 そしてククと短く笑い、
 「お前はそれを見抜けなかった。ならば、こうやって責められるのは、お門違いだ」
 言い切って、手首をぐいと振りほどき、強く突っ放した。逆らう力もなく、敢え無くよろよろと後ろに下がりながら、
 (しかし何故。さっき、花京院の魂に尋ねた時は、確かにNOと言った。魂は嘘をつけない、それは絶対だ。ならばどうして)
 ダービーはゆらゆらと左右に揺れながら、必死で花京院に向かって歩を進め、懸命に声をしぼりだした。
 「あの、ワザ、を、きさまは、何かで見聞きした筈だっ!…でなければ、おかしい、変だッ」
 顔が歪んで、声が裏返っている。ついさっきまでの落ち着き払った倣岸な態度は、すっかりどこかへ行ってしまった。口の端から涎が垂れている。
 (なにやら、別人のようじゃな)
 ジョセフは腹の中であざ笑いながら、その様子を眺めている。
 「言え。どこ、で、どうやっ、て、だれ、から、あのイカサマを知った。どうして」
 どうして、きさまの魂はそれを隠しておけるのだ?
 張り裂けんばかりに見開いた目を、花京院は一歩出て見据え、
 「どこからも聞いてはいない。
 僕が自分で見つけたんだ」
 な、んだっ、て?
 ダービーの口がそう動いたが声は出なかった。
 花京院はその口の動きを目で追って、そう、というようにうなずいて、
 「あのカーブの地点でだけ発生する。言わばバグを利用した技だな。双方のアドレスを交換し書き換えるんだろう。知ってる人間はいないと思う。雑誌やなにかでは見たことがないからね。
 誰かに教えてもらったものが裏技の全てじゃないだろう?そんなことは言うまい、いやしくもゲーマーなら」
 ガクリと片方の肩が落ち、それからくたくたと地面に座り込んだ。敗北を認めた貌がそこにあった。
 承太郎が何かを感じて袖をまくると、がっちり掴んでいたスタンドの手が消えてきた。
 三人はその腕を眺めていたが、ふと承太郎が花京院を見て、
 「おい」
 「なんです」
 「さっきお前の言っていた、無駄とわかっても投げ出さないで最後までやるとかいう決意表明なんだが」
 「あれはダービーを騙すためのウソです」
 あっさり言われて、やっぱりか、と呆れる。しかし、こいつが意味の無い努力をして、自己満足するようなヤツではないことは、俺も知っている。
 「でも、ある部分は、本気でしたよ」
 決して自分から試合放棄なんかしない。自分から負けを認めたりしない。何があっても最後までやりぬき、
 そして勝ってみせる。
 旅の中でその意志と覚悟を手に入れた男は、昂然と顔を上げて、微笑してみせた。



 誰も知らない

 まだ少し桜が枝に残っているのが、教室の窓からちらと見えた。
 承太郎と花京院は同じ大学に入ったが、学部は勿論違う。それでも最初の頃は同じ教室で隣り合って座る機会も多い。
 今朝も階段教室の後方で端の方の席に座り、まだ時間前なので、今度ゴミ箱やふとん叩きを買いに行こう、というような話をしていた。
 何の気なしに顔を向け、承太郎と反対側の隣りに座っていた相手と目が合い、
 「あ」
 花京院の口から小さな声が漏れた。
 花京院が気づいたのと同時に相手も気づいたのだろう、ああ、というような声を出してから、
 「久しぶり」
 短くそう言ったのは、セミロングの髪をしたごく平凡な容姿の女だった。花京院はなんだかぎこちなくうなずいて、
 「カヤマさんもこの大学に来てたのか」
 相手はうん、そう、とだけ言って、曖昧に会釈し、それきり向こうを向いた。誰かと話すでもなく、ノートや本を取りだして開くでもない。ただ黙って座っている。
 その態度と、それから今顔を戻して、ことさら事務的に自分のかばんの中をかきまわしている花京院に、承太郎は妙なものを感じた。
 察するに昔の知り合いだろう。久々に再会したのが地元を離れた大学であれば、もう少し驚きや喜びの反応を示し合うのではないか。
 他に喋る相手がいるでもなく、授業開始前に急いでしておくことがあるでもないのに、ああ、うん、でそれきり会話を続ける気もない。
 いや、喜びの反応どころか、相手の白い顔には社交辞令の笑みすらなかった。目の前にいるのが昔の知人の花京院典明だと気づいて、その次に笑いかけようという気はないらしい。
 控えめに言っても、あまり、再会が楽しい相手ではないということだろう。おそらくお互いに。
 おいおいどうした、隣のコと昔なにがあったんだ、教えろよと肩を抱き込んで顔をのぞきこむ性格ではないので、承太郎はただ黙って座っていた。入り口のドアが開き、この時間の担当者が入ってきた時、花京院がぐっと奥歯を噛んでいる横顔が、視界の端に映った。
 それで以後なにもなければ、そんなことがあったことも承太郎の短期記憶のスタックから抜け落ちて消えていたのだろうが、どういう訳なのか、記憶をROMに焼くようなはめになった。

 数日後の昼時、生徒でごったがえす食堂で、花京院と承太郎は自分らの昼食の乗ったトレイを掲げ、座る場所を探していた。
 「席が見つからねーな」
 「時間もないし、一つ空いてる席があったらいいからきみ、食べてくれ。僕は別の場所を探す」
 そう言った時、目の前に一つ空席を発見した。
 「あった。ほら、座って」
 「面倒くせーからお前食え」
 「え、」
 そうかい?か、悪いからいいよ、か、言いかけて言葉が消える。空席の隣に座って食事していたのは、あのセミロングの髪の女だった。
 目が合う。
 途端に、女がガタと立ち上がって、まだ少し残っている皿を持ち、立ち去ろうとした。
 「承太郎!ここを使ってくれ」
 花京院はそう言うと、再び人波の中へ突っ込んでいった。女は花京院を見もせず、下膳用の棚の方へ行ってしまった。
 結局二つ空いた席に、承太郎はひとりで座り、うろうろと席を探してさまよっている花京院の背を、黙って見つめた。

 まだ帰宅時刻はそれほど遅くないし、バイトもまだしていないので、夕食は二人とも自宅アパートでとる。今日の夕飯担当は花京院だった。
 花京院は手際がよく、きっちり分量を量って作る。レパートリーもそれなりにある。今まで何度か、お互いの料理を食べたが、承太郎の料理がうなるほどうまいこともあればびっくりして黙ってしまうこともあるのとは対照的に、花京院のそれはセオリーを決して踏み外さない、信頼と実績の品質を約束するものだった。
 今日も、ごはん味噌汁焼き魚に煮物におひたしという、病人でも大丈夫な食事を提供している。
 一口食べ、もう一口食べて、
 「うまい」
 ぼそりと承太郎が言う。花京院はうれしそうに「それはよかった」と言った。
 その顔を見て、承太郎はちょっと動きを止め、それからもう一口食べた、そこに、
 「うん。わかってる。すまない」
 「なに一方的に納得して謝ってる」
 「あの人のことだろう?このくらいの髪の」
 手で自分の肩を示した。
 「君が変に思ってることはわかってるんだ。…説明するよ」
 沈んだ、暗い、そしてどこか緊張した顔をしている。その事情と向き合うことは、花京院にとって神経を使うことらしい。
 そんな相手の様子を眺めてから、
 「俺はただ、『お前はじいさんかばあさんと同居してたのか』と訊こうとしただけだったんだが」
 「え」
 「やけに薄味だからな」
 料理の皿を示し、
 「だがお前が話したいことがあるというんなら聞くぜ」
 平然としている相手を、花京院はくそっという顔で睨み、それから苦笑いし、
 「じゃあ聞いてくれ。
 ちなみに、僕は祖父母とは暮らしていない。薄味なのは僕が小さい頃脳溢血で死んだ親戚がいて、あのひとしょっぱいものが好きだったからねと聞かされた幼少期の体験のためだと思う」
 「そうか」
 しょうもない丁寧な説明のあと、花京院は息を吸って吐き、
 「あの人はカヤマヒロコさんという。僕とは、小学校と中学校が同じだった」
 箸を置いて、話し始めた。
 「君も知っているように、僕は生まれつきのスタンド使いだ」
 ここでスタンドの話が出て、承太郎はちょっと花京院を注視したが、何も言わなかった。
 「最初に発現したのがいつだったのか覚えていない。多分、自我とか自意識ってものが出来た時に一緒に出来たのだと思う。ただ、この隣にいる緑の影が、誰でも持ってるものではないこと、それどころか」
 かすかに首を振る。
 「どうやら僕以外は誰も持っていないことに気付くのには、多少時間がかかった。そして」
 少し黙ってから、ゆっくり、
 「人間は、目や耳を使って情報を収集し、手や体や声を使って周囲に関わっていく。それと同じ感覚で、僕は緑の影を使ってずっと遠くの様々なことを詳細に精密に知ることが出来るし、この場に居ながらにして遠くの物事に関わり、自在に操ることが出来る。
 その感覚は、僕にしかわからないことだ。わからない人間の中で生きていくのなら、僕もそのように振る舞わなければならないってことだ。
 でも、そのことは、気付いてもそう簡単に実践できることじゃない」
 花京院は承太郎を見て、
 「きみ、手を使うなよ」
 そう言った。何?と訊き返そうとした瞬間、花京院は承太郎の顔面目掛けて何かを投げつけた。思わず受け止め、見ると生卵だった。
 「何しやがる」
 「普段当たり前に使っているものは、咄嗟に使ってしまうって話です。すみません。悪趣味でした」
 承太郎は相手の顔を暫し眺めてから、片手で生卵を茶碗の縁にガンとぶつけ、ご飯の上に割った。
 「で、僕も、今言ったことをしてしまった。彼女に対して」
 生きがいいのだろう、ほとんどオレンジ色に近く見える黄身を見つめながら、花京院は話を続けた。

 「小学五年の時、僕とカヤマさんは同じ図書委員でした。結構、一緒になって本の管理をしたり、先生に相談に行ったりしました。最初に図書委員になったのは僕で、後から彼女が立候補していたのを思い出してみると、彼女は僕のことが好きだったのかも知れません」
 普通なら、「何ヤニさがってる」とか「そんなこと訊いてない」とかつっこみを入れるようなことを言っている。だが、全然そんなものを入れる気にはならない。今口元に浮かべた微笑は、あまりにも苦く、嬉しさなどはこれっぽっちもないからだ。
 「ある日、二人で、ダンボールの中の新しい本を出して書棚に移していました。その時地震が来たんです。結構大きい規模でした。
 彼女はどうしたか、と思いながら見ると、少し離れた場所に座り込んで頭を抱えていました。名前を呼ぶと顔を上げて僕を見ました。
 その時、彼女のすぐ側の書棚が倒れそうになったんです」
 承太郎は頭の中でその光景を想像した。
 「普通なら、危ないと叫んで駆け寄るだろう。でも僕にとって、そういう場合に咄嗟にすることは、緑の影を飛ばすことだった」
 駆け寄るより、手を伸ばすより早く側に行ける。あまりに重たいものは無理だが、倒れる書棚くらいならなんとか出来るし、彼女を連れ出すことだって出来る。
 その時の花京院もそうした。それ以上倒れて来ないように書棚を支え、同時に彼女を危険な場所から引っ張り出し、上から落ちてきた本は緑の弾丸で撃ち、弾き飛ばした。
 無事に彼女を助けられてほっとした時、目に入って来たのは、ひどく険しい目で自分を見ている彼女の顔だった。
 「カヤマさんに言われました。
 花京院くんは一歩も動かないでただ私を見ていた。
 助けようとすらしてくれなかったって」
 承太郎は眉をしかめ、何事か言おうとしたが、その状況について助言を口にしようとしても、そう簡単なものではない。もう少しあってから、
 「自分が不思議な助かり方をしたとか、降ってきた本が吹っ飛んだとか、その辺については何もなかったのか」
 「なかったね。それどころじゃなかったんだろう。地震の恐怖と、自分の危難をただぼーっと見ていた僕への怒りで」
 口の端に苦い苦い微笑を浮かべる。
 「僕の行動は、普通の人間から見ればそういうことになる。言い訳の仕様もない。そうだ。スタンドの説明をして、これこれこうやって君を助けたんだから、文句を言うなと…言えるはずもない。仕方のないことだ。
 責められたくないなら、普通の人間のように、咄嗟に体が動くようにしなければならない。たとえスタンドを使って相手を助けるのだとしてもだ。それが出来なかった自分が悪いのだ。
 その時の僕はそうやって納得した。でも」
 でも、と言ってから暫し黙っている花京院を、承太郎は無言で見つめている。
 今、こいつの中にひたひたと降りて来る暗く重苦しいものは何だろう?
 花京院がゆっくりと俯いた。顔の陰が濃くなった。
 「僕はスタンド使いで、普通の人が咄嗟に手を出したり、駆け出したりするように、スタンドを飛ばす。だからあの時僕は自分が駆け寄るより速く、そして確実なスタンドを出してしまった。そう思っていた。
 でも、いつからか思うようになった。本当にそうなのかって」
 「なに?」
 暗い目が闇の中で何も見ずにただ開かれている。
 「僕は、危険なところへは足を踏み込まず、自分だけは安全なところにいて、そこで出来ることならしてやろうかという…
 それが実のところ習い性になっていて、その上でスタンド使いの癖だの生まれついての習慣だのと言い訳してるんじゃないか」
 何も映していなかった目が閉じられる。
 「大人になるにつれ、他人の目があるところでは顰蹙を買わない程度に演技をするようになって、そうなるといよいよその気持ちが強くなった。
 僕は決して本気で相手を心配して駆け寄ったりなんかしていない。
 大丈夫かい、なんて手を出しながら、その手が無駄になることは最初からわかっているんだ。
 自分の前をとっくに法皇が跳んでいて、相手が落ちそうになっている穴の中から支えてやっているんだから。
 そうなんだ。彼女の怒りはそう的外れでもないのかも知れない」
 暫し後、閉じていた目を開き、まばたきして、
 「密かに好きだった相手にこんなことをされてショックだったろう。それ以後、花京院くんはひどい人だと皆に訴えたりはしないし、廊下ですれちがったり偶然隣になったりしても、あの無表情でただ一瞥して向こうを向くだけだった。でも、決して僕を許さないのがわかった」
 仕方のないことですがと静かに付け加えて、
 「高校は男子校で、彼女とは物理的に別れました。数年が経って新しい街で新しい生活を始めたところでどういう巡り合わせか、彼女に再会して、そういったいろいろともう一度向き合っているわけです。
 きみには関係のないことなのに、暗くなってすみません」
 実際、承太郎には関係のないことだ、と花京院は思った。単に、この話は承太郎と知り合う前のことだから承太郎は関わりのないことだ、という意味でも勿論だし、それに、
 (承太郎は、こんなことで悩むやつようなやつじゃない。離れた位置で危険が迫っているクラスメートの女の子のもとへ、どんな手段を使ってでも駆けつけて救うだろう。たとえスタンドが出現していない彼でもだ。それが当然な男だ)
 そう思ってみるといよいよ、自分という人間について重苦しく湿った考察が降り積もってくる。
 目を上げると、承太郎が不機嫌そうに自分を睨みつけていた。
 (不愉快になったのだろうな。こんな、卑怯で腹の据わっていないやつの過去のしくじりなんて聞かされても、嫌な気分になるだけだ)
 「以上だ。悪かった」
 早口で言って切り上げると、残りのご飯を無理矢理口に詰め込み、流しに立って食器を洗い始めた。
 その背を、やはり承太郎は無言で睨みつけていた。花京院が勝手に想像したような理由でではない。
 俺には関係のないことだと?
 勝手に決めつけるな、と怒鳴りつけたい。だが、
 『僕は生まれついてのスタンド使いだ』
 それに伴う苦しみや絶望は、結局承太郎にはわからないことだった。先程も花京院の味わった苦さについて、なにかコメントしてやりたいと思ったが、どこまでいっても想像や単なる慰めしか無い。
 きみには、生まれた時からスタンドが発現する人間の感情はわからない。
 そういう意味で、きみには関係のないことだと言われたら、そんなことはないとは言えない。それをおして花京院を説得する言葉は、今の承太郎には無かった。
 故に不機嫌に黙るほか出来ることはないのだった。
 気に食わねえ。
 眉が更にしかめられる。
 あのしょぼくれた肩を掴んで振り向かせてバカ野郎がと怒鳴りたい。その後が続かないのだが。
 その部分だけでもやってしまおうかとチラリ思ってから、諦め、ひとりの食卓で続きを食べ始めた。

 数日後のある夜だった。
 時刻はもう大分遅い。花京院は一人で電車を待っていた。
 あれからなんとなく承太郎とも妙な距離感になってしまっている。今朝もおはよう、ああ、の後で「今夜は学部の関係で遅くなる。夕飯の担当は僕だったけど」と言いかけたら、わかった。いい、と言い切られてそのまま承太郎は出ていった。
 寂しい。でも、承太郎に対して自分が「すまなかった。許してくれ」と言って解決する仲違いならいくらでも謝罪するが、そうではない。
 過去の所行にうんざりさせてしまって悪かった、と謝られても、余計にうんざりするだけだろう。ほかに、自分が出来ることはなにもない。黙っておとなしく待っているほかには。………
 いよいよ暗くなって、花京院はうつむくとため息をついた。
 暗い花京院をよそに、周囲は一杯ひっかけていい気分の老若男女ばかりだ。皆赤ら顔をして大声で騒いでいる。
 なんだか、世界にひとりぼっちの気分だ。
 ふん、何を今更、と自嘲的に笑った。誰一人この緑の影が見えない。見えない人間と真の友になどなれやしないとさんざん言い張っていた少年時代はどうしたのだ。ひとりぼっちなんて慣れっこだろう。
 と、背後の騒ぎが急に大きくなった。なんだ、と思って振り返る前に、誰かがドン!とぶつかってきた。
 何をするんだ、と言おうとしたがそれより先に、
 「やりやがったな、この」
 「おうやったぞそれがどうした」
 のような言い争いの声がかぶさってきた。どうやら酔っ払い同士のもめごとのとばっちりを食ったらしい。学生かと思いきや、二人とも中年のオヤジだ。
 「なんだとこの」
 「うるせえぞこの」
 どうやら花京院にぶつかった方が分が悪いらしい。再び突き飛ばされてくる。それを避けようとしたところで足を容赦なく踏まれ、痛みで息を吸い込んだ。
 「ちょっ、と」
 「うわあ」
 熱っぽい巨体がどーっとのしかかってくる。支えようにも押しのけようにも、足を踏まれていてどうにも身動きが出来ない。そこにもう一撃が来て、花京院は男もろとも押し出された。
 「危ない」
 「わっわわわわ」
 足の下が無くなる。天地が逆さになった、と思う間もなく強い衝撃がきて、今度こそ痛みで目が回った。
 「………」
 声も出ない。わき腹と向こう脛を打ったらしい。少し先にあの人騒がせな中年が倒れているようだが、よくわからない。ついでに頭も打ったらしく、脳震盪を起こしていて、思うように動けない。
 痛みを逃がす呼吸をしながら辺りを見渡す。線路の上にへたりこんでいるようだ。どうやらホームから落ちたらしい。
 恥ずかしいのと痛いのとで混乱する。だが、そんなものが吹っ飛ぶような音と光が、左手の方向から近づいてきた。
 「電車が」
 音と光はあっという間に近づいてきた。女の悲鳴や怒号が聞こえた気がするが、電車の轟音にかき消されてすぐにわからなくなった。

 「おい」
 呼ばれていると意識し、続いて目を開ける。目の前に承太郎の顔があった。
 しばらくぽかんとして相手の顔を眺めていたが、相手の顔の背後が天井であることに気付き、自分が床に寝ていることに思いが至って、はっとした。
 「僕は一体」
 「あと少しで列車の下敷きになるところだったぞ」
 えっ、と息をつめてから、
 「あの中年の酔っ払いは」
 「無事だ」
 そっけなく言って、あれをというような仕草をした。まだふらふらする頭を抱えて、示された方を見ると、確かにあの中年男が、駅員数名によってホーム下から抱え上げられ、介抱されているところだった。
 まだ呆然としている花京院の耳に、
 「あのホームに落ちた学生、ものすごい跳躍力だったな」
 「本当に。もう絶対に間に合わないと思ったら、なんか非常識な姿勢でぽーんと飛び上がってきて。その後ヘナヘナ気絶して」
 「やっぱ、火事場の馬鹿力ってやつだな」
 そんな会話がもれ聞こえてくる。
 僕が、非常識な姿勢で飛び上がってきたって?
 それは多分、隣りの男の仕業だろうと思いながら、起き上がる努力を開始した。まだ頭がクラクラしていて、どうかするとまた床に寝そうだが、もういい加減衆人環視の中から逃れたい。懸命に立ち上がろうとして膝がくじける。素早く承太郎の腕が花京院の腕の下に滑り込んでくると、ぐいと支えてくれた。

 自宅アパートのダイニングテーブルについて座れたのは、もう0時を回っていた。
 「君が助けてくれたのか」
 目の前の男に尋ねると、まあなと言って、
 「偶然俺も同じ電車に乗ろうとしていた。お前が酔っ払いのごたごたに巻き込まれてホームに落ちたのが見えたんでな。
 星の白金で届く距離で良かったぜ」
 「…そうか。どうもありがとう。…僕は君に助けられてばかりいるな」
 自嘲的に呟く。なにいってやがる、と低い声が、
 「あのオヤジを助けたのは誰だと思ってるんだ?」
 「え」
 ぽかんとして、数秒考え込み、
 「いや、わからない」
 「お前だ」
 目が大きくなる。そんな花京院を、ごくわずかに眉をしかめた顔でつくづくと眺めて、
 「お前はあのオヤジもろともホームに落ちて、すぐ電車が来た。覚えてるか」
 「そこまでは、なんとか」
 呆然と呟く花京院に、
 「俺はなんとかお前らを引っ張り上げようとした。だがな、あのオヤジは射程距離外だった。まずいと思った瞬間、お前が」
 僕が、
 「法皇であのオヤジをひっつかんで、ホーム下の待避所に押し込んだんだ」
 僕が?
 轟音と光が迫り来る、あの数秒の間に?
 まるきり思い出せないでいる花京院の表情を見て取って、この時承太郎は僅かに笑い、
 「で、俺がお前を掴んで引きずり上げ、電車が来た。そういう流れだったんだ。覚えてないのか」
 首を振る。
 「やれやれだな」
 そう言って、もう少し笑った。
 花京院はまだぽかんとした空白状態で、承太郎の微笑を眺めていた。承太郎が笑っている。久し振りに見る気がするが、どうしてだったか。
 背後のテレビが深夜のニュースショーを流しているが、まるで外国語のようで意味がとれない。
 「花京院」
 承太郎がすぐそこで僕の名を呼んでいる。
 「お前がしたことは誰も知らない。誰も気付かない。あのオヤジは、てめーの命の危険をかえりみずに助けてくれたのが、酔っ払ってホームに叩き落したヤツだってことを知らない。
 この先ずっと、一生」
 何故なのだろう。
 承太郎の声を、言葉を聞いていると、僕はなんだか…
 泣きそうになってくる。何故だ?イヤだ、冗談ではない。そんなこと。
 「だが、お前がそうしたってことは事実で―――
 そのことを、俺が知ってる。
 それも事実だ」
 やめてくれ。限界だ。なぜ僕は泣くんだ。褒められて嬉しいのか?まるで女の子じゃないか、恥ずかしい。やめろ。
 しかし涙は出てきて、どうしても止められなかった。
 いつも、朝食や夕食をいっしょにとっているテーブルについて、花京院はうつむくと、滂沱と涙を流した。声だけは、全力を挙げてのみこんだ。
 「それでな」
 そう言ってから、突然ゴキンと殴ってきた。頭が振られて、涙を飛ばしながら、びっくり仰天して相手を見た。
 なにをするんだ、突然!という顔で、泣いて真っ赤な目で自分をにらみつけている相手に、
 「あれからいろいろ考えたが、俺はどうしたって生まれつきのスタンド使いじゃあない。そこんところはどうしようもない。
 だが、それでも」
 指を相手の鼻先につきつけ、ぐいぐい押して来ながら、
 「てめーのゴタゴタは俺にも関係のあることなんだ。もう二度と、きみには関係ないことだとかぬかすんじゃねー!わかったか」
 横柄に厚かましくずうずうしくそう言い渡した。
 「ちょっと、鼻が曲がる」
 「やかましい」
 もうちょっと抗議の言葉を言いかけてから、花京院は思わず笑い出し、それから泣き出して、自分でもわけがわからなくなった。
 承太郎が突如立ち上がり、花京院の頭をがっと掴むと、自分の上胸あたりにドフと押し付け、それきり黙っている。
 承太郎の心臓の音を聞きながら、花京院は低く笑い、そしてまた涙を流して、なにかに深く感謝した。

[UP:2013/06/10]


 『敗北を認めない』
 承太郎が認めるなと叫ぶあのシーンで私も「いいから、しらっとぼけて、すべった振りしてリセットボタンうっかり押しちゃえ花京院!」と思ったものでした←外道
 というわけでダービー弟に勝ってもらっちゃった。裏技って便利だな。ごめんなさい。ははは。

 『誰も知らない』
 花京院はこんなふうに悩む人ではないかも知れないが…
 承太郎が、どれだけ、どんなふうに独りきりでいても、孤独というふうには感じないのと対照的に、花京院はどこかに孤独の翳がある。
 空条承太郎という男が、それを取り去るとか無くすとかでなく、理解し傍に居てくれるといいなと思いました。


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