目を開けた。
自分が目を開けている、と思った時にはポルナレフは飛び起きていた。すばやく身構え、意識を研ぐ。自分に対して襲い掛かってくる者の気配を補足しようとしたが、
誰もいないようだ。
それから、きょとんとして、周りを見回す。
円形の部屋だ。ぐるり、見回すと全てが視界に入る。何の家具もない。プラネタリウムの上映室の内側のようにドーム型の天井には、ひとつだけ窓が開いていて、やわらかな青空が見えた。
ここはどこだ?
そもそも、俺は何故こんなところにいるんだろう?ついさっきまで…堪えがたい傷の痛みと、こいつだけは絶対に倒してやるという闘志と、殺されるという恐怖とで、体も心も極限状態だった。あれからどうなったのだろう。
承太郎は。そしてDIOは。
野郎に、チャリオッツの剣先がぶちこまれたと思った、タイミング的に完璧のはずだった、しかし気がついたら俺がぶちのめされ、…俺に向かってDIOが向き直っていた。…
しかし、考えてみると、青空ってことは、今は昼か?
あれから、どのくらい経っているのだろう。俺は別の敵スタンドにでも、ここに送り込まれたのだろうか?
そろそろと力をいれ、立ち上がった。足と手の指を幾本か失った痛みは、勿論数時間経とうと数十時間経とうと軽減されるものではない。『それどころではない』という呪文が、彼の全てを支えているのだ。
部屋に、数箇所、別の場所へ通じているらしい通路が、口をあけている。他にできることもなく、ポルナレフはその通路の一つを選び、中に入った。
暗く狭いトンネルのずっと向こうが、明るく白いアーチの形に切り取られているのが見える。別の部屋に通じているらしい。
どこからか、乾いた温かい風が吹いてくる。足音をしのばせて歩きながら、油断なく身構えてはいるが、妙に安らいだ気持ちになってくるのも確かだった。
油断するなってば。幻覚の迷路を見せるスタンド使いと、ちっと前に戦ったばかりじゃねえか。
自分を叱りつけるうちに、ずっと向こうに見えていた次の間の入り口が、すぐそこまで来ている。
息をひそめ、壁に体を押し付け、そうっと顔を出して、室内をうかがい、
「………!」
驚愕で息をのんだ。
こちらの部屋もまた円形で、もっと大きく、窓とソファとテーブルがあったが、それは一応どうでもいい。
ソファにかけて、足元のなにかに話し掛けている男と、はなしかけられている何かが、一歩中に入ったポルナレフを見返した。
アヴドゥルとイギーだった。
ポルナレフは白紙の表情だった。それはそうだろう。アヴドゥルの方は眉をよせ、しばらく睨みつけていたが、やがて仕方がないというような笑顔になり、
「ひどい有様だな」
仕草で、相手の怪我を示した。
「ちょっとやられちまっただけだ。大したことは…おい、そうじゃねえだろ、なんだお前、なん…だ、ヴァニラ・アイスのくそ野郎にふっとばされてこんなところにいたのか?なんだ、そうだったのか?ちくしょう、てっきり」
歓喜の方向へなだれてゆこうとするポルナレフを手で制する。
そして、もう片方の手をしめした。
無い。黒く、断面がブラックホールのように、光を吸い込んで真っ黒だ。
…そうだな、こいつの片手は、野郎が、『アヴドゥルは粉みじんになって死んだ』とかふざけたことをぬかして、ぼとんと床に落っこちているのを拾って…食ってた。…
だからこいつには片手は無いだろうが。…
なんだか、今の自分は、気がついたら悲鳴を上げそうなことのすぐ側にいて、必死でそれに気づかないで居ようとしているみたいだと、ポルナレフは思った。思いたくなかったが。
それから、アヴドゥルは、足元のイギーを、ちょっと戸惑ってから、示した。
つまらなそうな、くだらねえ、みたいな顔でポルナレフを見返しているボストンテリアは、
よく見ると体のあちこちが折れて、歪になっている。
痛くないのか?と馬鹿なことを言おうとした唇が、今度こそとまった。
ポルナレフが気づいたことに、アヴドゥルはうなずいて、困ったような顔で、
「どうもな、覚えているようなんだ。というより、忘れられないでいるらしい。…最後に、生きている世界から、引き剥がされる時の、感覚をな。…そのうち忘れるだろう」
そして、何故か、すまなそうに苦笑した。
やっぱり、
と思ったら、涙が出てきそうになる。こいつらは、
こいつらは、もう。
どうして、今ここでこうして喋っていられるのか、俺にはわからない、でも、言ってやりたいことなら、いくらでもある。
口をひらいたら声はふるえていた。
「てめえから言い出したんじゃねえか。相手の命が危なくなっても助けねえって」
アヴドゥルはのこっている方の手で、バツが悪そうにこめかみを掻いた。
「てめーもだ、知らん顔してんな!いつもいつも、オレには関係ねーってな顔してやがるくせに、あんな時に限って、俺を助けやがって!」
あーうるさいうるさい、という様子で、そっぽを向く犬の、いびつな後ろ姿が痛々しい。
「おめーらは…ちくしょう、くそったれ」
うめいて、うつむく。下を向いた顔から、ばたばたと涙が落ちて、床ではねた。
「まあ、そう泣くな」
マヌケな慰めに逆上する。
「ひとを励ましてんじゃねえよ!死んだくせによ!」
「それは、まあ、そうなんだが」
イギーが、あほらしい、というようにため息をついた。
その時、背後から誰か入ってきた気配があって、ポルナレフは振り返った。
そこには、
花京院典明が立っていて、やはり、困惑したような、妙に照れくさいような顔で、ポルナレフを見ていた。
なにを言うより先に、ポルナレフの目は、相手の胸にくぎづけになった。なにか、太いもので貫かれたらしく、大きく穴が空いている。向こうの景色が見えそうだ。学生服はずたずたになり、血だらけだ。
そんな、とんでもない姿で、しらっとして自分を見ている相手に、ポルナレフの顔が歪んだ。
「まさか」
花京院が仕方なさそうに、ええ、と肩を落とす。どうも、本人はどこか真剣さが足りないように見えるのだが、見ている方はたまらない。
「お前も…やられたのか」
「はい」
恥ずかしげに答えて、ちょっと、手首をいじった。
「駄目なのか。もう、間に合わないのかよ?」
「無理でしょう。心臓がこれですから」
あっさり言う。この旅の間ずっと聞かされて来た、シャクに触わる、小憎らしい、人を小馬鹿にしたような丁寧で冷ややかなものいいで、
この男は自分の死まで、見てわからないのか、みたいな言い方で告げる。
年下のくせに、偉そうな言い方すんな、とかなんとか言おうとしたが、堪えきれなくて涙が溢れた。それを、花京院は、弱ったな、と言いながら眺めている。
「何なんだ。どういうことなんだ、これは」
しゃくりあげながら三人を見まわして叫ぶ。
「なんとか言え!」
アヴドゥルが少し、考えてから、口を開いた。
「俺たちだって知らない。だが、多分、ちょっとした待合室なんだろうと思う。ここは」
「ま、ちあいしつ?」
一回、涙をのんでから、聞き返す。相手はうなずいて、
「そんな気がな、するんだ。…あっちへ行くまでの、短い時間だけ、ここで待てということじゃないかという気が」
「僕もそう思います」
「て、ことは」
自分では、全然実感はないのだが、
「俺も、死んだってことか?」
言ってしまうと、そうかも知れないな、とするする納得してしまう。どう考えたって、あの状況で、DIOが俺を殺さないでいるというのは有り得ない。自分で気づいてないだけで、俺はもうとっくにあの野郎に殺されて、地面にぶんながっているのかも知れない。そして、魂だけが、ここにいるわけだ。
「そうか…そうなのか。なんだ…」
息を吐こうとしたが喉につっかえた。
「せっかくお前らが、」
自分の命まで差し出して助けてくれたのに、結局俺も一緒にあの世へ行くって訳か。そう言おうとして、あまりにひどいセリフだと思って、やめた。全く俺は、なんのために助けてもらったんだろう?
妹の仇だけは討てたから、その点、俺は満足しているけれど…
どこかぼんやりと、自分の命の終焉がこういう形であることに思いをめぐらせている男の顔を、アヴドゥルは見つめて、
迷う。
言わない方がいいのか?
今傷だらけで突っ立っているこの男を、連れて行ってやることは、多分『優しい、思い遣り』だろう。
もういい、お前はもう充分に戦い、苦しみ、傷ついた。この辺でゆっくり休むがいい。妹も両親もお前を温かく迎えてくれるだろう。…
けれど。
俺たちはいつだって、本当ならそこで終わるはずだったかも知れない運命をねじまげて、あの魔王のような男すら倒したのだ。
運命の車輪は自分で回す。そう決意し、そうしおおせてきた仲間だ。
そのことを信じよう、と吐く息で決意し、口を開いた。
「お前はまだ死んでいない」
ポルナレフが顔を上げた。こちらを見ている顔は、まだ理解半分だ。
「DIOは、承太郎が倒した。お前は全身に大怪我を負い、出血多量で、意識不明になってはいるが、まだ死んでいない。スピードワゴン財団のスタッフがお前に治療を施している。
だからお前はここから先へは、俺たちと一緒には行けない」
「なん…ちょっと、待て。なんだって?死にかけてるってのか?で、生き残ると?は、は、」
首を振る。最初はゆっくり、それからどんどん激しく。
「もういい。俺はもう満足した。野郎は承太郎が倒したてんなら、心残りもねえ。頼む、」
もう一度泣き出しそうな顔で首を振り続けながら、
「俺も連れていってくれ。お前らと一緒に」
「ポルナレフ」
名前を呼び、アヴドゥルはしばし注視すると、
「お前は、ここでは死なないんだ。―――そしてこの先、遠い遥か未来、筆舌に尽くしがたい苦痛を味わうことになる」
ポルナレフの肩の向こうに、花京院の蒼白の顔が見える。
足元のイギーが、ちらとこっちに一瞥をくれたのがわかった。
「その、人が背負えるかどうか疑問なほどの艱難を背負ったお前の存在が在ることで、『希望が未来に繋がる』。…
具体的に、何がどうなるとは、言えない、だがそれだけは真実だ」
麻痺したように、微動もせず、ポルナレフは泣くことも忘れて、ただ立っている。青い青い目に、アヴドゥルの言葉だけを映して、ただひたすらに立ち尽くしている。
「その、お前の行く手に待ち受けている未来が、どうしても背負えないというのなら、今ここで俺たちと一緒に、乗ればいい」
「…乗る?」
かすれた声で尋ねられて、首をかしげてから、
「どうやらあの世へは、船でいくらしいから」
ポルナレフは目を、窓へうつした。…窓の外は真っ白い港で、今おおきなおおきな船が、入港するところだった。
「どうしろとは、俺には言えない、お前が決めろ」
誰も何も言わない時間が過ぎてゆく。
柔らかな風が、ゆっくりと部屋の中を動き、各々の服や、髪を撫でていった。
その昔。
承太郎の、ジョセフの、さらに先祖の、やはりジョジョと呼ばれた男に、未来へ羽ばたく力を授けるために。
己の、遥かな道の上に待ち受ける、あまりに苛烈で残酷なさだめを、自分で選び取った男がいたという。
名も知らない。どんな顔、どんな声だったのかもわからない。けれど、
きっと、今のこいつみたいな顔で、心を決めたのだろうとアヴドゥルは思った。
大仰なポーズも、自分の不運を嘆き壮烈な覚悟をたたえるセリフもなく、たった独り、夜の海に船出する人のような、
「俺は残る」
静かで深い決意だけを胸に秘めて。
アヴドゥルはしばらく、相手の顔を見据えてから、ゆっくり、うなずいて、
「そうか」
とだけ言った。
三人が、正確には二人と一匹が、船に乗り込むのを、ポルナレフは見上げている。
海は凪いで、空の青を映し、広がっている。あの水平線の向こうに、どんな景色があるのだろう、とふと思ったが、
俺がそいつを見るのは、まだ暫く、…当分、相当先のことらしいからな。
気がつくと、出航のドラも汽笛もなく、船は港を滑り出していた。
アヴドゥルは残っている方の手をちょっと上げた。花京院は、静かに目礼する。イギーは、アヴドゥルのふところから、ちょっと、ほんのちょっとだけ、面倒くさそうにシッポを振ってみせた。
ポルナレフはなにもしないで、今生の別れの仲間たちの姿を、黙って見送りながら、
「…おもしれぇ、五十日だったぜ、…ありがとうよ」
低く、フランス語で、つぶやいた。
船が消えて見えなくなってから、背を向け、ただ一人、もとの部屋へ戻ってゆく。
希望を、未来へ繋ぐために。
「気がつきました!」
誰かの歓喜の声が聞こえる。今見ている天井は病院だろうか。搬送中の乗り物か。
「ジョースターさん、ポルナレフさんが意識を取り戻しました!」
通信機か、電話の向こうで、かすかに興奮した老人の声がしているのが聞こえる。
「はい、…ええ。はい。もう大丈夫だと…ポルナレフさん、わかりますか?」
尋ねられて、ああ、と返事をした。
「良かった、本当に良かった。もうこれで全てが終わりですよ!」
「いや」
これから始まるのだ。長く、遥かな…
暫くの間、天井を見つめていたポルナレフは、いつの間にか再び眠りに落ちた。
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