金曜日はヒトデのカレー


 承太郎と花京院は同じ大学に受かり共同生活をすることになった。
 一緒にアパートを探して坂の上に建つ見晴らしのいい築5年の1室に決め、それぞれの家から荷物を運び入れた日の昼過ぎ、2人はダンボールに埋もれて床の上に新聞紙を敷き、その上にコンビニから買って来たのり弁を置き食べていた。
 コンビニはこの地方にだけある地域密着コンビニらしく、ふたりとも名前を知らなかった。これからはたびたびお世話になることだろう。
 「一緒に生活してゆく上で、決めなければいけないことが沢山あります」
 「そうだな」
 烏龍茶を飲んで、
 「一番最初に決めることは、」
 何と言うのだろうなと承太郎は思った。こいつのことだからゴミ出しに関することか。あるいは掃除。あるいは…
 「食事当番についてだ」
 「そのことか」
 思わずつぶやいた。
 花京院はちくわの天ぷらを飲み込んでから、
 「君は料理は得意なのかい」
 「大してやったことはねえな」
 それはそうだろうなと思った。素直時代の承太郎に「ありがとう母さん」「おいしいよ母さん」と言われる喜びに打ち震えてせっせと世話をやいていたホリィさんの存在がある。不良時代になっても彼女の慈愛にはひとかけらの翳りもなかっただろう。承太郎が調理に興味でも持たないかぎり、台所に立つ必要性はなかったと思われる。
 「お前はどうなんだ」
 「君と似たようなものだと思う。まあ、ごくたまには何か作ったりもしたかな」
 「だったら俺よりはやってるだろうぜ」
 「あの。それは、食事を作るのはお前に任せたぜ!と言っているんですか?」
 「そんなことは言ってねえ」
 きんぴらごぼうを飲み込んでから、
 「交代制でいいだろう。一日交代だ」
 「うん」
 「月水金は俺がやる。火木土はお前が作れ。日曜日は」
 「日曜日は決めないでおこう。休みの日だ。たまには外食してもいいし」
 「ああ」
 そんなことを話していると、これからふたりで料理を作ってふたりで食べるのが当たり前の、毎日普通にやってくる日常になっていくのだ、という実感がわいてきて、花京院はなんだか照れくさくなって何やら聞こえない独り言を言った。


 承太郎の言った「大してやったことはない」というのは謙遜ではなく、牽制でもなく、本当の話だったらしい。承太郎の番だと何が出てくるかわからないドキドキな食卓になった。
 承太郎の名誉のために言っておくと、おいしい時には本当においしいのだ。彼のセンスがまさにビッグバン、料理のスタンドとシンクロしたのであろうと思われる絶妙さ、ど真ん中ストライクなこともあるのだ。しかし、それだけに、暴投した時の落差もかなり強烈だった。
 「ちっと焦げたぜ。すまねーな」
 「いや。大丈夫だ、焦げた部分を食べるとガンになるというのは、あれは誤りだったらしいし」
 「そうか。心強い情報だ。これで安心して食える」
 「じゃりじゃり」
 そんな承太郎でも大きな失敗なく作れるものがある。どんな人間でも子供のころから必ずキャンプファイヤーに行くと作らされるし、基本は材料を切って、煮て、最後に強い味をつけるだけだから、失敗しようとしてもあまり失敗する箇所がない。承太郎の心強い味方、カレーであった。
 それまで調理と縁遠い生活をしていた人間が、一週間に三回料理をしなければならないというのは正直なかなか過酷である。しかし一回は必ずカレーと決めてしまえばかなり楽になる。というわけで、なんとなく金曜日の夜はカレーの日になった。
 承太郎が金曜日にカレーを作るとわかっているのに、他の曜日にまでカレーを作るわけにもいかず、花京院は、まあカレー権は承太郎に譲ろうと思った。なんなら多めにつくってもらって、次の日にカレーうどんにしてしまう、カレースパゲティにしてしまうという荒業も使えるし。
 別に、なんだっていいのだ。自分の料理だってプロ並みというわけじゃない。美味しくなくたってまずくたって、承太郎と驚いたり苦笑いしたり咳き込んだり無言になったりしながら、一緒に食べるのなら、炭化したサンマでもなんでもいい。
 今日は金曜日だ。てことはカレーだな、と思いながら坂をのぼってアパートに帰り、階段を上り始めるともうカレーの匂いがしてきて、花京院はうつむいてちょっと笑う。ドアの前まで来て、開ける。三和土の右側にはすぐキッチンがあって、承太郎がTシャツ姿で鍋をかきまわしていた。
 「ただいま。いい匂いだね」
 「もうすぐ出来る」
 「着替えてくるよ」
 自分の部屋に入って着替えながら窓を見ると胸が痛くなるような夕焼けだった。窓を開けて風を入れ、台所に向かって、
 「承太郎」
 「なんだ」
 「見てください。きれいだ」
 カチャと音がした。スイッチを切ったのだろう。その後のっそりとやってきて、
 「なんだ」
 「あれ」
 「ああ」
 本当にあまり見ないくらいの、空を染め上げる燃えるような色だった。
 「あれを見ながら食いたいところだが」
 「夕焼けはすぐ終わってしまうからね」
 そのまま黙ったまま並んで空の演舞を眺める。初夏のすがすがしい空気を胸いっぱいに吸い込んで、夕焼けが終わるまでその場に立っていた。
 空がすっかり藍色に塗り替えられ、その中に白金の輝きが散らばり出した頃、
 「じゃあ食べましょうか。君の力作を」
 「よし」
 ふたりはダイニングキッチンへ戻った。花京院がグラスに冷えた麦茶を注いでいる背中に、
 「どのくらい食うんだ」
 「おなかぺこぺこなんだ。いっぱいよそってくれ」
 「ああわかった」
 大皿にどーんとてんこ盛りになったのが二皿並ぶ。それを眺めて、
 「ん?この具材はなんだい」
 尋ねた。なんだかわからないものが入っている。ジャガイモはこれ、人参はこれ、玉ねぎでもない。肉でもない。
 まあ何でも入れて煮てカレー味をつければカレーであるが、いったいこれは。
 承太郎はニヤと笑って、
 「食ってみろ」
 なんだろう、と思いながらいただきまーす…と語尾の消えるような発音で言って、その何かを掬って口に入れた。
 「うぐ」
 アクが強い。ジャガイモが逝っちゃったような味だ。逝っちゃったジャガイモはそうそう食べないが、そんな感じだ。確かに食べ物だろうという気はする、多分植物だろう。食べられないものではない、闇鍋で煮えているタワシとは違う。胃で消化するだろう。
 しかし、消化できればいいというものでもない。
 「なんだいこれ」
 「大丈夫だ。食いものだ。安心しろ」
 「質問の答えになっていませんが」
 承太郎がうつむいて笑い出した。
 「承太郎ってば」
 「いや。郷里で取れたやつを大量に送ってきたんだそうだ」
 「同じ教室の人か?」
 「そうだ。食い物だから安心しろ」
 「さっきからそればかり言ってるな。全然安心できません」
 「そんなにまずいか」
 「まずいっていうか…食べたことのない味だ。君はあるのか」
 承太郎はその何かをスプーンですくうと口に入れ、咀嚼した。その顔を凝視している花京院の顔をチラッと見る。碧の目が戸惑ってから苦笑したのを観察して、花京院はほんのちょっとだけ溜飲を下げた。
 「ないな。いや、あるが」
 「あるのか」
 「その時は、カレーの具材にはなっていなかった」
 「じゃあ、今回は、なぜ、したんだ」
 「今夜は俺の登板で、金曜はカレーの日だからだぜ」
 当然のごとく、といった口ぶりに花京院はグッタリとうつむいた。少しばかりイヤミな口調で、
 「ひょっとして、木曜にチェリーを大量にもらったら、翌日カレーの具材にするのか、君は」
 「何言ってやがる」
 承太郎は呆れた様子で、
 「そんなもんカレーに入れるか。チェリー好きな奴は何にでも入れたがるな。だがカレーにチェリーってのはねーだろう。お前、ちっと考えた方がいいぞ」
 常識を教え諭す口調で言われ、ぶつんと何かが切れた音がした。
 そのあとしばらく、マシンガンのような音や、物の割れる音が、アパートの一番端の部屋から聴こえてきた。
 まあ時々そんな調子で得体の知れない具材のカレーを食べさせられたりはしたが、承太郎はもともと呑み込みの早い男だ。バットを数回振っただけでホームランが打てる男だ。花京院と胃袋が揃ってビックリする料理はそんなには作らなくなっていった。




 2年になり、夏を過ぎた頃から、ふたりとも段々忙しくなってきた。
 火曜の夜、花京院は重い荷物を持って帰宅した。時刻はもう7時を回っている。
 今日は疲れた。正直もうくたくただ。もう何もしたくない。しかし、今日は自分が夕飯当番の日だ。
 「疲れたから今日は夕飯を作らなかったよ。ストックのカップラーメンでいいだろ?」と―――
 言ってもいいのだろう。言ってはいけないと、花京院が勝手に決めているだけのことだ。わかっている。
 承太郎なら至極当然にすらっと言うだろう。承太郎にそう言われたら、花京院は怒るのか?といえば、別に怒らない。皮肉もあてこすりも言わない。ああわかった、と答えるだろうし、お湯を沸かしながら「しょうゆ味とみそ味どっちにする?」と普通に尋ねるだろう。内心の怒りを隠しているわけでもなく。それなのに、自分からは言えない。
 (なんだろう。向こうが言うのを許してやるのなら良くて、こっちが先に言うのは負けだとか思ってるんだろうか。つまらない意地だな)
 疲れた頬に苦笑を刻んで、階段を上がる。ゆすり上げるレジ袋からは長ねぎがはみ出ている。わざわざ今夜の料理のために買ってきた食材だ。
 承太郎はまだ帰ってきていなかった。法皇で鍵を開ける。むぁっと熱気が溢れ出してきて、ちょっと吐き気がこみあげた。ムカムカしながら台所に上がり、どさどさと荷物を食卓テーブルに置き、自分の部屋に入って窓を開けた。服を脱いで洗濯機前の籠に入れ、部屋用のTシャツに着替えて、
 「さて」
 台所へ戻ってきて、包丁を掴む。そしてため息をつき、
 (もっと簡単なメニューにすればよかった)
 そんなことを考えるのなら堂々とカップラーメンにすればいい。カップラーメンが恥ずかしいのであればレトルト食品にでもすればいい。玄関を開けたら5分で食べられるという、サトウさんが提供してくれるご飯もある。ご飯を温めた手間は自分が負ったのだ。上にかける中華丼や親子丼を、ハウスさんやS&Bさんに手伝ってもらったのだと思えばいい。それなら別にいいんだろう?
 暑くて疲れてイライラしながらチクチク詰っている。そうやっている自分は本当にバカだと思う。
 冷たいパスタとスープが出来上がったのはもう9時をまわっていた。そして、
 夕飯が出来上がるまでに承太郎が帰ってきて、「なんだ、まだメシ作ってなかったのか」と言ってきたら、なんと返そう、と煮える腹の中であれこれ考えていたのだが、結局出来上がるまで帰って来なかった。
 良かった、きっちり威張れる、と思ったのはわずかな間だった。
 その後もいつまで経っても帰ってこない。
 時計の針が9時半を指す。
 時計の針が10時を指す。
 「夕飯より、そろそろ、風呂の時間だな」
 声に出して言うのはイヤミのつもりだが、生憎それを聞いてムッとしてくれる相手はいなかった。
 食欲なんかまったく無いが、今食べないで寝るとそれはそれで夜更けに空腹で目が覚めたりする。仕方なしに一人で食べることにした。
 自分が作ったパスタを噛みしめる。美味しく出来たと思う。アルデンテよりもう少しだけ茹でるのだ。前に「アルデンテはちょっと硬いと思う。もう少し茹でた方が好みだ」と言ったら承太郎が我が意を得たりという顔でうなずき、俺もそう思うと言った。少数派の考え方だと思っていたのに、承太郎が自分と同じ意見だったと知って、あの時はなんだかやけに嬉しかった。
 なんだか随分昔のことのようだ。
 不意に侘しさがこみあげてきて、それを無理やり噛み潰し、自分の分を食べてしまった。それでも承太郎は帰ってこない。相手の分をラップして冷蔵庫に入れ、扉を閉めた。
 食器を洗って伏せ、洗面所でひとり歯を磨く。鏡に映った自分の顔を見ると、なんだかひどく疲れた顔をしていた。
 翌朝、目覚まし時計で起きて、ダイニングルームへ行くと、食卓に承太郎がいた。いつ帰ってきたのだろう。テレビを観ながら食パンを口に突っ込んでいる。花京院を見て目でうなずいた。
 怒るべきだろうか。
 しかし何に対して。
 何も言わずいつまで待っても帰って来なかった。ひとが疲れてるのを我慢してキチンと当番の夕飯を作ったのに食べもしないで朝帰りした。挙句平気な顔でパンを食っている。
 どこを取っても怒りでしかないが、しかし、それを表す言葉を探すと、何故だか出てこない。ただ花京院の内側で、じりじりというような、錆びた歯車が回るような音が響いた。
 パンを飲み込んだ承太郎が口を開いた、
 「花京院」
 しかし花京院は顔をそむけ、玄関ドアに向かって口を開いた。
 「僕はもう出なくちゃいけない」
 事務的にすぱっと切り捨てて外に出ようとしたのに、その時になって今日は燃えるごみの日だったと気づいた。舌打ちを口の中でとどめ、ゴミの袋に手を伸ばす。後ろから、
 「ゴミは俺が出すから、早く行け」
 「そうかい。じゃあ頼む」
 罪滅ぼしのつもりか、とあてこすりを言いたいが言わない。そんな、小出しにイヤミを言うなんて恥ずかしい。許容量のミニマムな奴だ。そう思ったから、外に出てドアを閉める直前「君の夕飯が冷蔵庫に入ってるぞ」と言いかけたがそれもやめた。
 学校に行き、授業を受ける。なんだか頭が重い。昨夜、暑い中汗をぶったらして歩いてそれを拭かなかったから夏風邪でも引いたのだろうか。
 時間がたつにつれどんどん具合が悪くなる。とにかく腹立たしい。なかなか終わらない授業にも、あの程度で具合が悪くなるひ弱な自分にも、湿度も気温もとにかく高くて全く動いてないように思われる空調にも、
 なによりも空条承太郎に。
 長い長い一日が終わり、今ではガンガン痛む頭をかかえて外に出た。今日はとにかく家に帰って寝よう。
 「でも、こう頭が痛くては寝られない。そういえば常備薬というものはなかったな。頭痛薬と風邪薬くらい揃えておいた方がいい」
 駅前の薬屋であれこれ買い込んで電車に乗った。今夜の夕食のあとこれを飲んで早めに寝よう。フロは熱めにしてなるべく短い時間で済まそう。
 今夜の夕食、という言葉で再び花京院の頬が微かにゆがむ。
 今日は承太郎の当番だ。果たして何を作るのだろうか。今日は体調が悪いから、あまり奇抜なものは作らないで欲しいものだ。
 意地悪くそんな言葉を胸の中でひねくりながら、満員電車に揺られてなんとか帰宅した。
 電車を降りた時点で雨が降ってきた。夕立だ。容赦ない勢いだ。傘は持っていない。踏んだり蹴ったりというのはこういうことを言うのだろう。出来ることといったらこれだけとばかりに必死で走った。アパート前の最後の坂が異様に長く、また息が苦しい。
 ドアの前までたどり着いた時には、もう肩で息をしていた。承太郎が戻っているだろうかと思ったが、ドアには鍵がかかっていた。
 自分の鍵でドアを開けたところで、ベランダに何枚か洗濯物を干していたのを思い出した。もう走っていく気力も湧かない。
 「洗い直しか」
 呟きながら中に入る。
 「えっ」
 台所の床に、口までいっぱいになった燃えるごみの袋が置いてあった。
 (今朝、承太郎が捨てていくと言っていた筈だ)
 黙って燃えるごみの袋を見ていると、腹の底から怒りが湧いてくる。腹筋が怒りで波打った。
 頭が痛い。ガンガンする。
 すごく腹が減っている。それなのに、何か食べ物を具体的に想像すると吐き気がする。
 ドン、と音がして玄関ドアが開いた。承太郎が入ってきた。手に傘はないが、全然濡れていない。承太郎の背後を見ると、もう雨は上がっていた。
 濡れないで済んだのか。君は。
 無言で自分を見ている花京院に、承太郎は、
 「遅くなった。面倒くせーから今夜はストックの」
 あっさりとそう言いかけた。それを聞いた瞬間限界だった。思わず怒鳴っていた。
 「なんでゴミの袋がまだここにあるんだ」
 承太郎は相手の激昂に一瞬黙ったが、すぐに、
 「持って出ようとした時、部屋に忘れ物を取りに戻って、それで忘れた」
 あっさりと平然とさも当たり前のことのように言われてしまった。
 「なんだそれは」
 君はバカか?と嘲笑しようとしたが失敗した。怒りすぎていてとても笑うことができない。
 「第一、昨夜は一体どうしたんだ」
 「アクシデントが起こって帰れなくなった」
 これまたあっさり返される。それがどうした、と言わんばかりだ。
 そのことを何とも思っていない相手に、これ以上責める言葉を吐きつけようとしたら、
 「だったら、一言連絡をよこすのが同居のマナーだろう」
 そんな、泣き言みたいな言葉になってしまう。口調を変えたらそのまま、彼氏に一晩ほっとかれた女の子の不満だ。それが悔しい。こっちの我儘みたいな形になってしまう。そんなのはおかしい。あっちが間違っていて、僕は正しいのだ、それなのに何故、僕が駄々をこねて怒ってるみたいなことになってしまうんだ!
 「僕は自分の番だと思って、遅くなったがちゃんと夕飯をつくって君を待っていたんだ。それなのに、君はこんな」
 突然なにかを奥歯で噛みしめて止める。いやだ。こんなことを言いたくない。
 背を向けて自室に入り、バンとドアを閉めた。その行動もキレた自己中野郎みたいで悔しいのだが、どうしても、今は駄目だ。自分が正しいということを、きっちり言葉で証明し相手に思い知らせることがどうしても出来ない。
 きっと風邪を引きかけているからだろう。頭も舌も回らない。
 自分の部屋に入ってドアにもたれて立つと、なんだか自分がひどくマヌケに思えて、涙が出そうになった。目をぎゅっと瞑る。眼球が熱い。
 悔しい。悔しい悔しい悔しい。悔しくて目が眩む。
 低く息を吐いてから、
 つくづく、僕は誰かと一緒に暮らすのなんて向いてないんだな。同居を解除した方がいいのかも知れない。
 そんなことまで考え出した。
 汗はかいているし雨には降られたし、ものすごく風呂に入りたかったが、今夜はもうあっちの共有スペースに行って承太郎と顔を合わせたくない。このまま寝てしまおう。
 明日の朝ひどい風邪を引いている、というマヌケのとどめみたいなことにだけは、絶対に、何があってもなるものか、と鬼のように念じて、その晩は寝た。
 風邪はひかないぞ。承太郎があの平然とした顔で「風邪ひいたのか、お前」と言うのを聞くのはいやだ。絶対に嫌だ。
 夢の中までその決意だか呪いだかを延々繰り返し、目が覚める。はっとして身を起こした。朝になっていた。
 「あ、あー」
 恐る恐る声を出してみる。唾をのんでみる。喉は痛いか。鼻声ではないか。
 「なにぬねの。なーなーなー。はながなにげなくにおう」
 鼻水は出ていないか。頭はまだ痛いか。
 どうやら、大丈夫のようだ、と確認し、はぁぁぁと安堵のため息をはいた。
 そっと起き出して、ドアを開けた。承太郎は居なかった。今朝早く出ていったのか、昨夜のうちに居なくなったのかわからない。「どうでもいいけど」と捨て鉢なコメントをわざわざつけて、洗面所で顔を洗った。
 昨夜はあんなことになったので腹が減ってしょうがない。何か食べようと思って冷蔵庫を開け、卵やら牛乳やらハムやら取り出してから、ふと気づいた。
 一昨日の夜ここに怒りと共に突っ込んでおいた承太郎の分の夕飯がない。
 ちらりと目をやると、洗い物を伏せておく籠にあの皿があった。
 昨夜、ひとりであれを食べたのか。その後洗ってお皿を伏せて。
 …なんだか居心地が悪い。胃の下側をマッチでちろちろ炙られているような気分だ。
 そしてそんな気分になることにも腹が立ってくる。別に僕はなにも悪くない、とまたやり始めた自分にブレーキをかけ、無理やり今日の予定など考えながらハムエッグをつくり、パンを焼き、コーヒーを淹れた。


 さて、今日は自分が夕食当番の日である。どうしたものだろうか。
 昨夜あんな爆発の仕方をして、それでその夜にきちんと食事を用意しているというのも悔しいが、『僕はまだ怒ってるんだ。今夜は何も作らない、勝手に食えば?』みたいなのも子供っぽくていやだと思う。そして、
 (ああ、そうだ)
 承太郎が今夜も帰ってこないというパターンがある。あんな変なもめ方をしたアパートに戻るのが面倒だから、一人でどこぞで食べる、という、帰宅拒否の形だ。
 そうなったら、もう当番もへったくれもない。おしまいだ。
 そう言ってしまうと、本当に心がぞっとそそけ立った。昨夜は、自分は同居には向かない、なんて言っていたが、実際にここから崩壊が始まって、ある日「俺たちは別々に暮らした方がいい」なんて言われて、それぞれの荷物を運び出す場面を想像すると、悲しくて恐ろしくてたまらない。
 やっぱり腹は立つが、そんな終焉を迎える気はない。もういい。折れてやろう。あの旅でも随分自分が折れて丸く収めたし。しょうがない。おとなな方が割を食うのが世の常なのだ。
 しょうがないしょうがないと言いながら何にでも使える野菜をいくらかと肉を買って、帰宅した。
 階段を上がりながらはっとする。漂ってくる、この匂いは。
 換気扇が回っている。ドアを開けると、台所には承太郎が居て、鍋をかき回していた。カレーの匂いがむぁーと溢れてきた。
 目が合う。
 承太郎はふんという顔で、「もう出来る。食うか」とそっけなく言って来た。
 「あ、ああ」
 こっちもぼそりと返して目をそらし、自室に一度入った。頭は混乱しまくっている。
 承太郎が?カレーを煮ている?
 今日は金曜日だっけ?
 違う違う、火曜の夜に僕で昨日は水曜。今日は木曜だ。承太郎の番ではない。間違ったのか?勘違いしてカレーを作ったのか?
 指摘すべきだろうか、どうしよう、と思いながらもTシャツに着替えてダイニングに行った。承太郎はもう2人分のカレーを皿に盛っていて、今席についた花京院の前にどすんと置いた。
 気まずい顔でスプーンを取る。そして「へっ?」と思う。
 人参が、星の形をしているのだ。
 五芒星というのだろう。多少歪みはあるが絶対にこれは「お星さまの人参」だ。初めて会った時のポルナレフが「知り合いがこんな形のアザを持っていたなあ」とかカマしてきたあれだ。
 一個だけではない。全部だ。どの人参もすべて星だ。
 わざわざ細工したのだ。結婚ホヤホヤの新妻のようなことを、なぜ承太郎が?
 呆然とオレンジ色の星々を眺めていたが、やがて目を上げて承太郎の顔を見た。スルーすることはどうしても出来そうにない。
 「…これ、一体」
 承太郎はぶすっとした顔で自分の皿の人参を眺め、
 「なかなかうまくいった」
 「うん、…上手だ」
 「ふん」
 それ以上訊くことが出来ず、いただきます…と呟いてから食べる。ちょっと辛めで、イモは煮えているが煮崩れておらず、肉は硬くなく、そして星の人参もとてもおいしい。
 承太郎も随分カレーが上手になったな、と目下のごたごたをふと忘れ虚心に感心した時だった。
 「花京院」
 呼ばれ、目を上げる。
 承太郎が真正面から花京院を見つめて、
 「悪かった」
 どすっ、と謝ってきた。
 あまりにもシンプルで端的でそのままずばりな謝罪に、花京院は思わずちょっとのけぞった。
 何なんだこの男は。
 僕がぐるぐる迷っていた迷宮を、いともあっさり正面突破で出てしまった。
 承太郎はただの一度も、顔も視線も動かさず、花京院に向かって、
 「これからはちゃんと連絡を入れる。
 このカレーで勘弁しろ」
 (どうにも)
 つくづく思い知る。
 (僕はこの男に勝てない)
 のけぞった顔を俯かせ、ゆっくり微笑み、
 「色からいって、星というよりむしろヒトデだな」
 正面突破のできない男は、そんなひねくれたことを言い、それから目を上げて相手を見た。承太郎はこの時ようやくニヤリと笑った。その顔に、
 「これからも金曜日には、ヒトデのカレーを作ってくれますか」
 「ああ。いいぜ」
 ふたりはそれからカレーを食べながらいろいろ話をした。お互いに、話すのは随分久し振りの気がした。




 3年になり、ふたりともどんどん忙しくなっていった。
 あんなにして乗り越えたごたごたであり、結び合った約束であったが、正直、今では夕飯当番制度そのものがあまり意味のないものになっている。それはもはやはっきりしていたが、敢えて「意味がないから、やめよう。それぞれ勝手に食べるってことで」と正面切って言うことは、花京院はしなかった。
 それを言ったら、同居していること自体の意味がなくなるような気がする。「じゃあ、解散だ」という言葉がその次に来るようで、言いたくなかった。
 そしてまた、そんな話をしようにも、全然相手と会えないのだ。このテレビを一緒に視ながら夕飯を食べたのはいつが最後だろう。
 「言ったら解散だから言いたくないっていっても、もう解散してるようなものかな」
 つぶやきながら自分ひとりの食事をとっている。メニューは麻婆豆腐だ。麻婆豆腐にはつきものの白身魚のフライもちゃんとある。それからわかめときゅうりの酢の物。今日は火曜日だから、花京院の当番の日だ。だからちゃんと作ったのだ。こんな形になってしまっても、ストックのカップラーメンにしてしまうことは花京院には出来ないのだった。
 ちゃんと作ったところで、目の前で食べてくれる訳でもないが、冷蔵庫に入れておくと、いつの間にかなくなっていて、食器が洗って伏せてある。以前初めて承太郎が夕飯をすっぽかした時に見かけた光景だが、今ではそれを見るとちょっとなごむ。
 自分のいないところで、承太郎が「何か食うものねえか」なんて言いながら冷蔵庫を開け、「なんだこれは。花京院のやつがつくったのか」とか言ってレンジで温め、この椅子に座ってむしゃむしゃ食べて、多分、「うまかった」と言ってくれているのだろう。
 それだけでいいよ、と声にして言って、食べ終わった。立ち上がって、承太郎の分の皿にラップをして、冷蔵庫に入れ、扉を閉めた。その途端だった。
 玄関ドアが開く。びっくりして見ると、承太郎が入ってきた。
 「承太郎」
 思わず声を上げ、それから懐かしくて嬉しくて笑ってしまった。
 「久し振りだな。元気そうだね」
 承太郎は三和土に立ったまま花京院の笑顔を見返し、ほんの少しの間黙っていた。が、やがて口の端を持ち上げ、微笑し、
 「お前もな」
 「ははは。それってネット用語みたいですよ」
 花京院が声を上げて笑った。はしゃいでいるのが伝わってくる。
 「夕飯は?食べたのか」
 「いや、まだだ」
 「そうか。まだ冷えてないから食べられるよ。食べるかい」
 「ああ。頼む」
 「わかった」
 にこにこしながら今入れたばかりの皿を取り出す。
 「冷えてはいないけど、熱い方が美味しいからね。やっぱりちょっと温めるよ」
 言いながら何気なく後ろを見ると、承太郎はまだ自室に入っておらず、すぐそこに立って花京院を見ていたのでびっくりする。
 「え、」
 しかし何も言わない。数秒見つめ合う。
 (な、なんだろう)
 どぎまぎしてきたところで承太郎が視線を外し、自室へ入っていった。その姿を見送って、まだ赤面しながら首を傾げて皿をレンジに入れ温めた。
 ご飯とみそ汁をよそったところで承太郎が戻ってきた。部屋着に着替えている。
 食卓についた承太郎の前に一式を並べ、
 「召し上がれ」
 ふざけた口調でそう言ってから気が付いて立ち上がり、急須にお茶っ葉を入れて、ポットの湯をそそいだ。
 麻婆豆腐を食べ、白身魚を食べてから、
 「うまい」
 それを聞いた瞬間身の内から嬉しさがじんわりとこみ上げてきて、しかしまた照れくさくて変な笑い方になってしまいながら、
 「それは、よかった」
 無理やり澄ました口調で言って、ふたり分のお茶を湯呑に注いだ。
 承太郎はそれきり何も言わずぱくぱくとおかずを食べ、ご飯を食べ、みそ汁を飲んだ。見ていて心地よい。おなかが空いていたのだろうし、また夕飯が美味しいのだろう。それが伝わってくる食べっぷりだった。
 (僕も単純だな。久し振りに会った承太郎が僕の料理をうまそうに食べている光景を見てこんなに嬉しくなってるなんて)
 「飯はまだあるのか」
 「あるよ。お代わり?」
 「頼む」
 むんと茶碗を突き出されて、受け取り、2杯目をよそってやる。うまそうにまた続きを食べ、もう一度突き出された。
 「よく食べるなあ」
 「腹が減ってる」
 「それはよくわかるよ」
 むしゃむしゃぱくぱくぽりぽり、ずー。ごっくん。
 ふー、と息をつく。承太郎は湯呑を持って、目を閉じたまま、
 「うまかった。満足した」
 「それは、本当によかった」
 嬉しそうに言う花京院の顔を、承太郎はこの時目を開けて見ると、やがて口を開いた。
 「花京院」
 「何です」
 「話がある」
 声も目も相変わらず静かだが、その奥に確かに改まったものを感じる。花京院はそれまで流しに寄りかかって立っていたが、手を拭いて、承太郎の向かいに座った。
 どうぞ、というように手を向けると、うなずいて、少しの間無言で花京院を見てから、
 「今度俺は、アメリカに行くことになった」
 え、
 口の形だけがそう変わった。声は出なかった。
 どうして、と訊こうとしたが、その前に、脳の中に
    どうしてってそりゃあ実習とかなんとかその辺だろう まさかジョースターさんかスージーQさんに何かあったのか だが訊くまでもなく教えてくれるだろう
    そもそも理由なんて関係ない
 なんだか、濃厚なムース状の中を息が出来なくてもがきながら先へ進もうとしているようだ。必死で腕を、身体を動かしているのに、足が前に出ない。前へ進めない。
 「じじいがどうしたとかいう話じゃない。実習だ」
    ああほらやっぱり そりゃそうだろう、そろそろそういうことがあってもおかしくはないんだ もう3年生だし
    それにどの道、決まってたことだ
 ………そうなんだ。
 息が出来ない濃度の中でその言葉がチカチカする光を放って、花京院に突き刺さってくる。
 僕らは大学生だ
 一緒に暮らすっていったってどの道4年経ったら終わりになる
 そんなの最初からわかっていたことじゃないか
 もう夕飯当番の意味がないからやめようと言いたくないって?
 それを言ったら、同居していること自体の意味がなくなるような気がするって?
 「じゃあ、解散だ」という言葉がその次に来るようで、言いたくなかった?
 「言ったら解散だから言いたくないっていっても、もう解散してるようなものかな」
    バカじゃないか?
 そんなに必死になって回避しようとしても、所詮は
    終点に向かって突っ走る電車に乗ってるようなものじゃないか
 (息ができない)
 背中が冷たい。氷のようだ。どこからか出血でもしているかのように、どんどん体力を消耗してゆく。
 「期間は半年だ」
 半年。
 それって永遠の別名か?
 冬が夏になって春が秋になる。今、半年前のことなんか覚えていない。何もかも過ぎ去った昔だ。
 そんな期間承太郎はここに居なくなるのだ。もはや居なくなるという言い方では合わない。
 ここを離れて別の場所へ行くというべきだ。
 (息が、できない)
 背中が氷のようだ。
 「それでな」
 来た、
 承太郎が言うのだ、
 『俺はここを引き払うから、お前は1Kの部屋を探せ』
 いやだなあそんなケチくさいことは言わないでくれよ、僕はひとりだって優雅に2DKに住むよ。家賃が大変だって?今からばんばんバイトして稼いでやるさ。そんな心配しなくていいですよ、大丈夫。頑張って新種のヒトデを見つけてくださいね。行ってらっしゃい。
 そう言う準備をしろ。頑張って平気そうにそう言え。
 言うために息を吸おうと思うのだが空気が肺に入ってこない。駄目だ。息が吸えない。
 窒息する。
 (助けてくれ)
 (承太郎!)
 無言のまま自分をただ見ているだけのように見える花京院を、承太郎は見つめて、口を開いた。
 「俺の半年間の家賃はアメリカから送る。お前はここに住んでろ」
 花京院は、最初にアメリカに行くと言われた時と同じリアクションを取っていた。つまり、『え』という形の口をして、それきり止まっている。
 微動だにしない相手を承太郎はしばらく見ていたが、
 「電池が切れたのか」
 そう言った。
 そんなことあるわけないでしょう、とか、何バカなこと言ってるんですとか、何か返そうと思うが声が出ない。何しろ息が出来ないのだから声なんか出やしない。
 しかし、もうとっくに窒息してるはずだ。自分で気づかないでいるうちに白目を剥いて失神しているんじゃないだろうか?
 いつまでも返答のない相手に、承太郎はわずかに首をかしげると、
 「とにかく、それを言っておこうと思ってな。今日は無理やり早く帰った」
 そしてひとりでうなずいてみせた。その仕草を見た時、どういうわけだか花京院の喉に酸素がドッと入ってきて、空気に溺れかける。
 喉をおさえてもがく相手に再び眉をひそめ、
 「何やってんだお前。電池切れの次は水没か」
 しかし真面目に苦しそうなので承太郎は立ち上がり、テーブルを回り込んで花京院の傍らに行くと、右手を肩にあて、左手で背中を強く擦った。中に入った多すぎる空気を外に押し出しているみたいな手つきだった。
 ピューみたいな音を立てて息を吸い、むせて咳き込んで嘔吐しかけて、しばらくの間ひたすら苦しみ、両眼に涙をにじませて喘いだ。
 「しっかりしろ」
 「じょ、じょう、た、ろ」
 「大丈夫か」
 そう言って承太郎は、しばらくの間花京院の背をさすり続けてやった。
 背中が熱い。摩擦で燃えそうだ。
 けれど、さっきまで凍り付いていた背中の氷は溶け、肺の中に空気が入ってきている。
 はあーはあーはあーと息をして、ゴクリと喉を鳴らし、それからまたちょっと咳き込んで、ようやく落ち着いた。
 その間ずっと背を擦っていた承太郎が、ゆっくりと手を離して、
 「お前、呼吸系の発作を持ってたのか?」
 「…今まで、…一度もないよ。…ああ、」
 長く息を吐いて、
 「本当に、死ぬかと思った」
 「変なことを言うな」
 眉をしかめながらも口もとは柔らかく苦笑している。その顔をぼうっとして見上げ、手の甲で口元を拭って、手を戻し、それからまた承太郎の顔を見上げた。
 なんだかさっきから電池切れだの、空気に溺れたりだの、調子っぱずれな同居人の顔を、承太郎は見返した。
 少しあってから、花京院がヨロヨロと、
 「今、きみ、何て言った」
 「おい」
 承太郎が険悪な目つきになり、唸り声をあげる。
 「聞いてなかったのか」
 「聞いていた。言い直そう。もう一度言ってくれないか」
 「何なんだてめえは」
 また眉をしかめてから、仕方ないと思ったのか、息を吸って、ややゆっくりと、
 「俺の半年間の家賃はアメリカから送るから、お前は今のまま、ここに住んでろ」
 その言葉を改めて自分の中で聞き返し、意味を理解して、少し迷ってから、
 「それは、要するに、つまり、」
 言いかけて声が途切れ、ためらい、それからまた勇気を出して、
 「君がいずれ、ここに、帰ってくるからという…意味でいいのかな」
 「それ以外に何がある」
 あっさりと言われて、突き飛ばされたみたいな顔になる。机に突っ伏しそうになって、なんとかそれを押しとどめ、
 「そ、そうか。わかった。ああ…そうか。ここに。帰ってくるから。…でも、君、いいのか」
 「なにがだ」
 「住んでも居ない部屋の家賃を、払うなんて」
 そう言ってしまってから、今度こそ自分を呪ってぶっ倒れそうになった。
 僕は何を言ってるんだーーーーー!
 承太郎が、ああ言ってるのに、なんでわざわざそんなことを訊くんだ?
 バカだ!バカ!大バカだ!
 無言でパニックに陥る。だが承太郎はごくわずかに怪訝そうな表情になり、
 「お前、俺の分まで払ってくれようってのか?随分と余裕だな。バイトに打ち込み過ぎると留年するぞ」
 いや、そういうことを言ってるんじゃない。何故、金の捻出方法に話が進むんだ。
 錯乱する頭の片隅で、
    そもそも承太郎は、この部屋を引き払うという可能性について全く考えていない
 そのことに気が付いた。
 「い、いや、勿論、バイトのし過ぎはリスクが高い。わかってる。僕のまわりにもバイトの罠で中途リタイヤした人間が居る」
 「だろう」
 したり顔でうなずく相手に、思わずうなずき返し、だからそういうことではない、と首を横に振って、
 「そうじゃなくて、…承太郎。ここまで来たら、勇気を振り絞って訊くことにするよ。でないと先に進まないというか、変な方向に進むばかりの気がするから」
 「そうか。じゃあそうしろ」
 相変わらずの平然ぶりにちょっと眩暈をおぼえ、ちょっと俯いて気持ちを立て直してから、
 「君は、自分が居ない部屋の半額を支払うことを、無駄だとは思わないのか?」
 平静な声で訊いたつもりだったがどうしても語尾が震えたように思う。
 相変わらず、花京院の傍らに立ったままの承太郎は、
 「思わねーな」
 あまりにも平然と答えた。
 「…何故。半年、居ないんだぞ?いくら半額といったって、半年分だ。それに、…もしかしたら期間が延びるかも知れないじゃないか。そうしたら、もう、下手すると卒業間近だ」
 怖い。本当は怖くて、こんなことは喋りたくない。喋っているそばから恐怖で悲鳴をあげそうなのだ。まるで坂道を駆け下りながらどんどんスピードが上がっていくような恐怖で、こめかみに冷や汗が浮く。このままではまた何か発作を起こしそうだ。その前に、決着をつけなければ。
 「卒業したら、もう、ここで同居すること自体、終わるじゃないか。
 なら、半年も居なくなる時点で、同居を解除しようと思わないのか?」
 全力を挙げてそこまで言って、顔を上げた。背水の陣とはこういうことを言うのだろう。もう後がない。踵の先は崖っぷちだ。落ちる覚悟は出来ている。本当に出来ているのか?
 知るもんか!
 もはや何がなんだかわからないが、両眼にただ恐怖と、それを乗り越えなければという意志を湛えて、花京院はじっと承太郎を見つめた。
 緊張のあまり顔色は真っ白で、口元がわずかに痙攣している。その顔を、傍らに立つ巨人は静かに見返して、
 「卒業したら同居すること自体終わるてのは何だ」
 「えっ?」
 碧の目が、どこまでも真っ直ぐに、平然と、
 「誰が決めた。お前か?」
 「い、いや、そういう訳じゃ」
 「俺は、そんなことは考えたこともねえ」
 ドン、と衝撃を受けた。その大きさで椅子ごと後ろに倒れて、後頭部を床で強打しそうなほどの威力だった。
 愕然とし口を半開きにしてただ相手の顔を見上げた。その顔を見降ろしたまま、

 「これから先、卒業しようと、地球の裏側に就職しようと、俺はお前と半額ずつ出して住んでる部屋に帰ってくるつもりでいる」

 しばし沈黙があった。
 花京院の口元の痙攣が止まっている。その口がゆっくり開いて、
 「……………、
 承太郎、それは」
 「そこまでいくと、ちっとまずいか?」
 そう言って承太郎はニヤリと笑った。ほの暗く、少し凶悪なものさえ含む、あまりにも魅力的な黒い笑みに、花京院は体の奥底が燃えるように熱くなるのをおぼえた。その熱はあっという間に全身にまわり、蒼白だった頬が上気して、耳まで赤くなったのが自分でわかった。
 その顔を晒して、承太郎を見つめたまま、
 「まずいのかも知れないが」
 口を一文字に引き結び、それから、
 「僕もそうしたい」
 かすれた声で言った。それを聞いて、
 「なら決まったな」
 承太郎がゆっくりと、大きく微笑した。
 その笑顔を見上げながら顔がますます赤くなっていく。承太郎の笑みがちょっと懸念するような苦笑に変わり、
 「今度はなんだお前。温度設定が変なのか」
 「サーモスタットが壊れたらしい」
 「ちゃんと修理しろ」
 馬鹿なやり取りをしている。痙攣は止まったがまだ周囲がぐらぐらして見える。花京院は一回、目を閉じ、それからまたなんとか目を開け、相手を見て、
 「ひとつ、いいですか」
 「なんだ」
 「例えば卒業後、君と僕がふたりとも東京で勤務することになったら、それでも毎日この部屋に帰ってくるんだろうか。新幹線を使っても片道数時間かかると思うんだが」
 承太郎はあきれ返った顔になり、
 「その時は東京に部屋を探すに決まってるだろうが」
 「ああ、そうか、このアパートのこの部屋に固執しているって訳じゃないんだな」
 「当たり前だ。俺とお前が住んでるってところが肝心なんだぜ」
 その言葉に、花京院の顔がいよいよ朱に染まって、口をつぐんだ。
 (卒業後にも一緒に住む部屋の話を、君と出来るなんて、思ってもみなかった)
 絶対に逃れられない未来から、目を背けて、目の前のまな板だけ見ることにしていた。すべて終わった後ひとりぼっちになった時、あの時僕は精一杯やっていたと言うために。
 いや、そこまでもいっていない。ただおろおろと、涙目で、必死でふたり分の夕飯を作っていただけだ、他にどうすることも出来ないから。承太郎の分の皿が空っぽになって伏せられているのを見ると、それでいいのだと言ってもらえている気がしていた。
 自分の行動をこうやって分析していられるのが、本当に、嘘みたいだ。
 目が静かに潤んでくる。
 口元が静かに微笑んでいる。
 そして目を上げて承太郎をもう一度見た。承太郎はずっと同じ表情で、花京院を見ていた。まるで自分を待っていてくれたようだと思う。
 だから口を開いて告げた。
 「君との同居が終わる日がずっと怖かった」
 承太郎の目がわずかに細められた。馬鹿なやつ、みたいな表情がもうひとつ乗り、口の形だけでなにごとかつぶやいて、手を伸ばしてきた。
 人差し指が、花京院の額をかるく小突き、それから大きな手が、花京院の頬を包み込むと、ぽんと軽く叩いて離れた。


 承太郎がアメリカに発つという日、花京院はどうしても抜けられない予定があり、見送りに行けなかった。
 だから、最後に承太郎の顔を見たのは、承太郎が旅立つ日の朝、自宅の台所でだった。バタバタと支度をして、ダイニングルームに来ると、昨夜遅く帰宅した承太郎がテーブルについてトーストをかじっていた。
 「承太郎、」
 何か改まって言おうと思うのだが、うまい言葉が出て来ない。それに自分は今時間がなくて焦っている。ギリギリ間に合う電車は今すぐ外に出て走らないと乗れないだろう。
 ぐっと喉の奥に気持ちを溜めて、一度顎を引いてから、
 「行ってらっしゃい」
 静かに笑って、顔を上げ、明るく、
 「気をつけて!」
 承太郎もフッと笑い、
 「行ってくる」
 ふたりはうなずき合い、花京院は背を向けてドアを開け、出て行った。バタン、とドアが閉まった。
 駅までの道を懸命に駆けながら、今自分はこみ上げる寂しさやショックを懸命に堪えているのだろうか、と自問する。
 自分の心を覗き込み、点検し、
 そうでもないみたいだ。よし、落ち着いてる。今度は強がりじゃない。必死で他のこととすり替えようとしている訳でもない。
 そりゃあ、半年も顔が見られないのは寂しいけれど。
 ふっと眉が下がる。口元もへの字になる。寂しさの方へなだれそうになる。待て、と自分を押しとどめる。
 今の僕には魔法の言葉がある。契約書と言えるくらいの威力のある言葉なんだ。
    たとえ地球の裏側に―――
    俺はお前と半額ずつ―――
 大丈夫。大丈夫だ。
    帰ってくる。
 涙が出そうになるのを無理に微笑ませた口の形で押しとどめ、一気に階段を駆け上がると、けたたましく鳴り響くベルの中、電車の乗車口に突っ込んでいった。




 到着してすぐ『無事に着いた』と言ってよこしたのを最後に、承太郎はそれっきり何も言って来なくなった。
 ホリィさんの嘆きが今ならわかる、と呟いてから、
 「まあ、電話にしてもメールにしても、まめな男じゃないのはわかってるからな」
 苦笑いしながらひとりぶんの夕飯をとっている。
 「それに承太郎が5分に1回みたいな勢いでメールをよこしたら返って違和感があるし」
 承太郎がそうやってる状況を想像してみて、思わず声を出して笑ってしまった。
 食べ終わって立ち上がり流しに立つ。
 「そう言えばしばらくカレーを食べてないな」
 金曜のカレー自体も作られなくなって久しい。最後に食べたのはいつだか覚えていないくらいだ。
 自分で作って食べてもいいのだが、
 「でも、『うちで食べるカレー』は、承太郎がつくるって決まってるからな。食べたくなったら学食で食べよう」
 うん、と微笑んで皿を洗い終わり、伏せた。


 今日もひとりアパートに帰ってきた。時間は遅いしくたびれ果てている。
 「はぁー」
 ため息をつき、ダイニングルームまでたどりついて、へたへたと座り込む。とても夕飯を作る気力がない。途中で食材を買うことも出来ずに帰って来たし。
 花京院はしばらく、自分ひとりの空間を眺めていたが、やがて、妙にわざとらしい口調で、
 「今夜は面倒くさいから、ストックしているカップラーメンにしよう」
 そう言って、腰をメリメリ言わせながら立ち上がると、カップラーメン置き場に行き、『明星一平ちゃんしょうゆ味』を取って、戻って来た。ポットのお湯をさし、3分間だけ待とうと思ったがふと気づくと20分ほど気絶していたらしい。
 すっかりのびてしまった一平ちゃんをすすり、おツユは体に悪いので飲まないでおこうと思ったが美味しいのでつい飲んでしまった。
 「ふー」
 ため息をつき、それからテレビをつけた。
 深夜のニュース番組の女性が『次はアメリカからの最新情報です』と告げ、次に現地特派員からにこやかに『今日は大変珍しい虹が出たので、その画像を見ていただこうと思います』とのコメントを耳にした時、メールの着信音がした。
 研究室の連絡網かなと思いながら画面を見てはっとする。承太郎からだった。
 慌てふためいて開くと、

    件名:『無題』
    本文:『お前にも見せてやる』

 そして、二重にかかっている虹の写真が添付されていた。
 ゆっくり微笑む。テレビからは『ご覧ください。きれいですねえ』とはしゃいだ声が続いている。
 「うん、とてもきれいだ」
 テレビに合いの手を入れ、目は自分に来たメールの添付画像を、いつまでも観ていた。
 ニュース番組が終わった頃、ゆっくりと画面を閉じ、それからカップラーメンの空どんぶりを見て、
 「明日からはちゃんと作ろう」
 誰に何を言われた訳でもないのにそんなことを言った。


 年末の飲み会の後、ぐでんぐでんになった同じ研究室のOBをかついで、アパートに帰ってきた。
 「大丈夫ですか」
 「らいじょーぶ。うぷっ」
 「あ、リバースはちょっと我慢してください」
 大慌てで階段を上り、先輩が見ていないのを確かめてから玄関ドアを法皇で開け、バタバタと上がり込む。先輩の靴を法皇が脱がせ、トイレのドアを法皇が開け、ついでに便座も法皇が上げて、便器に突っ伏させ、
 「いいですよ!心置きなくどうぞ」
 「ごめん。オエーーーー」
 おざなりに背中を数度さすってから、ごゆっくりと言って立ち、水を用意した。
 (そう言えば、僕が酔っぱらって帰ってきて、承太郎が同じことをしてくれたことがあったな)
 ふと思い出した。
 まだ一年生の頃だ。帰宅するちょっと前から、なんかこれはやばいと思う熱いものが胃の底からせりあがってくるのを感じていた。
 ただいま…と細い声で言いながら玄関に入ってきた顔を見て、承太郎があーあーという顔になり、
 『いいから便所に直行しろ』
 『そんなに顔色悪いかい?』
 『紙みたいな顔色って言い回しの実物を、俺は初めて見たぜ』
 言いながら承太郎は寄ってきて上衣をすばやく剥ぎ取り、今の法皇のようにすばやくトイレのドアを開け、便座を上げて、
 『入っとけ』
 中に押し込み、膝をついた時点で背を数回押してから、ドアを閉めた。
 しばらく経っても出てこないので不審に思ったのかドアが外から開かれ、中で便器を抱いて気絶している花京院を引きはがし、部屋までぶら下げて連れてきて、ベッドに転がし、もそもそ起きたところに、
 『水だ。飲め』
 『ありがとう…』
 細い細い声に苦笑いし、コップを手渡した。受け取って、よろよろと飲み、
 『吐いたのは久し振りだ。もしかするとDIOに会った時以来かも知れない』
 『変な思い出話はしなくていい』
 そう言う声がやはり笑っていた。なぜかやけにそのことをはっきり覚えている。
 その後承太郎は一回台所へ行って、何か持ってきた。なんだろうと思ったらレジ袋の中に新聞が敷いてあった。
 『ああ、』
 ゲロ袋かと言いかけてやめた。相手はうなずいて、
 『こいつが枕元にあれば安心だろう。もう一杯水を飲んでから寝ろ』
 『ありがとうございます』
 丁寧語で礼を言い、言われた通りにして、承太郎の作った嘔吐袋を心強く思いながら寝た。
 翌朝、ふらふらで台所に行くと承太郎はひとりで朝食を取りながらラジオを聴いていた。ものすごいことになっている髪を眺めてから、
 『具合はどうだ』
 『ぼやぁーっとしている。頭はあまり痛くない』
 『あれから吐いたのか』
 『いや。君が作ってくれた袋は使わなくて済んだ』
 『それはよかったな』
 『迷惑をかけたな。すまない』
 『別段、かけられたほどの迷惑は無かった』
 あっさり言い、
 『食うか?』
 味噌汁を示され、うぇぇぇという顔で首を振ると、承太郎はちょっと声を出して笑った。
 今度君がこういうことになったら、僕が介抱しますよ、と言ったが、
 「承太郎は酒に強いからな。結局、承太郎が便所で吐く手伝いなんか、一回もしなかった」
 低い声で呟き、それから結構経ったなと思いトイレのドアを開けると、OBはあの時の自分のように便器を抱えて寝落ちしていた。
 「しっかりしてください」
 「ごめん。もう一回、波がきた」
 「はい」
 またドアを閉めてやる。今のうちに製作しておこうと思い、大き目のレジ袋の底に新聞を敷き込んで、ゲロ袋をつくった。
 そこでもう一度ドアを開けると、OBはオッケーサインを作って床に座っていた。
 「もう全部出た」
 「そうですか。念のためこれを作ったから大丈夫ですよ」
 「おお、ありがたいお守りだ」
 花京院は自分の部屋にOBをつれていき、ここで寝てくださいと言って水とゲロ袋を渡した。
 「でも、お前は」
 「僕は同居人の部屋で寝ますから」
 「ああ、聞いた。今アメリカに行ってる生物学部の奴か」
 「そうです」
 「そうか。お土産をいっぱい持って帰ってくるといいな」
 OBは多分、少し変な方向に酔ったのだろう。地方に単身赴任の父親とか、都会に出稼ぎに出た息子とか、その辺の設定と混ざったのかも知れない。花京院の脳裏で、承太郎が大きなつづらを担ぎ、更に風呂敷包みを持って帰ってくる姿が想像され、思わず笑い出してしまった。
 (雀のお宿みたいだな。承太郎はきっと雀に優しくしてやって、お礼をいっぱいもらったんだろうな)
 OBは水を飲んでふにゃふにゃと寝てしまい、花京院はまだなんとなく微笑みながら承太郎の部屋に行った。
 出かけた日のまま放ってある。いや、時々は掃除機くらいかけてやっているが。
 承太郎のベッドに入って、「寒いなあ」と呟いて、天井を見上げ、小さな小さな声で、
 「お土産はいいから、元気で帰ってきて下さい」
 呟いて、目を閉じた。


 年末年始は実家に帰った。といっても孤独な子供時代を過ごしたためかわざわざ会う旧友がいる訳でもなく、ただ家で寝倒した。
 こたつでうだうだとテレビのお笑い番組を山ほど観て、餅を食べ、寝て、起きてまた芸能人のスポーツ大賞を観て、餅を食べ、寝て、なんとなくふっくら典明になってきた頃にまたアパートに戻って来た。
 年賀状がポストに輪ゴムでとめて入っている。
 「あ」
 承太郎から来ていた。無論、日本の年賀ハガキではないが、これはどう見ても年賀状だろう。ハガキ大に切った白い厚紙に、でかく賀正と書いてあり、それからただ一行、

    春には帰る

 花京院の頬にぱぁーと、桜の色が刷かれた。
 ハガキを持ってその辺をちょっとうろうろし、もう一度ハガキを見て、「えへへ」などと笑い、ハガキを持ったままトイレに行って出てきて、自室に引き上げ、ハガキを見て、机の上に飾った。
 それからまたハガキを持って窓のところへ行き、ベランダへ出た。三が日の、ちょっと弛緩したような、でも晴れたすがすがしい冬の空気を吸い、ハガキを見て、ふんふ~んと鼻歌を歌う。
 「恋人よ 君を忘れて 変わってゆく僕を許して
  毎日愉快に過ごす街角 僕は 僕は帰れない」
 曲が変わる。
 「あのひとを変えた都会 すべて憎みたいわ
  灯り消して 壁にもたれ 木枯らしは愛を枯らす」
 だんだん声がでかくなって、鼻歌でなくなった。
 「遠く離れたことが いけなかったの?
  それとも 夢が私を捨てたの?」
  恋人が遠くに行って、それきり帰って来なくなったシチュエーションの失恋ソングをいくつか歌ってから、優越感に満ちた声で、
 「でも承太郎は、ちゃあんと帰ってくるんだ」
 威張ってそう言い、ハガキを見て、それから天にかざした。
 抜けるような青を背景に、『春には帰る』の文字が輝いて見える。




 承太郎が帰ってくる日は、花京院はやはりどうしても抜けられない都合があり空港に迎えに行けなかった。
 夕方、どたばたと電車を降りて、駅を出、ひたすら走る。もうとっくに部屋に着いているはずだ。
 必死で長い坂を駆け上がる。アパートが見えてきた。見上げた目に、承太郎の部屋の窓が開いているのが映った。
 あんまり急いでいるため、法皇が出てしまって、自分の先を碧の影が明滅しながら跳んでいる。実際、法皇を使って一っ跳びで帰りたいところだが、さすがに人の目がある。
 階段を、陸上部員の勢いで駆け上がりながら、ふとある匂いに気づいた。
 漂ってくる、この匂いは、
 換気扇が回っている。ドアの前まで来て法皇がドアを開ける。
 そこには承太郎が居て、鍋をかき回していた。室内からカレーの匂いが一気に溢れてきた。
 目が合う。
 数秒、無言で見つめ合ったあと、承太郎がニヤリと笑って、
 「よう」
 「承太郎」
 「今日は金曜だからな。カレーの日だ」
 花京院は、笑うのと泣くのと叫ぶのとどれにしたらいいのかわからなくなり、両手で顔を覆って俯いた。その肩に手を置いた男が、暗闇の向こうから静かに、
 「戻ったぜ」
 うん、とうなずいて、
 「お帰り、承太郎」
 声を絞り出した。
 ああ、ともう一度返事をして、それからふっと笑ったのが聞こえた。
 泣くより何より承太郎の顔が見たいと思ったので、顔を洗う時みたいにごしごしと擦って、なんとか顔を上げて相手を見た。目の前に承太郎が居て、自分を見て、微笑んでいる。この構図を、自分はどれほど待ち望んだだろう。一体どのくらい与えられていなかったのだろうか。考え出すと気が遠くなる。
 「ああもう、気絶しそうだよ」
 「そんなに腹が減ったのか」
 そんなことを言ってくる相手に苦笑し、口をイーと横に開いて、
 「飢え死にしそうだ!」
 「そうか」
 それから、ちょっと花京院を見て、
 「俺もだ」
 少し妙な間を置いてからそう言って、
 「よくもまあ、耐えられたものだと思うぜ」
 そしてただ黙ってこちらを見ている。
 花京院はどうしたって顔が赤くなるしかなく、一回うつむいたが、目を上げて、
 「もう腹ぺこだ」
 しつこく主張した。承太郎はわかった、と言って、皿にご飯とカレーを山のように盛って、花京院の席に置いてやった。
 テーブルに置かれた皿には、五芒星の人参がきらきらと輝いていた。それを見て花京院は声を上げて笑った。

[UP:2014/11/18]

 ちょっと、まずいところまで行ってますが、ご勘弁ください。
 それにしても花京院はもうちょっと淡々としていると思います。ごめんね花京院。
 あと、時代が、1990年代なのか現在なのかごっちゃになっていてどうもすみません。
 ラストはもっといちゃいちゃさせたり「てめえの夢を何度もみたぜ」「これからはずっと一緒だよ」的なことを言わせたりもしたのですが(笑)直しに直してこのくらいにしました。



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