自分の部屋に戻って、詰襟の一番上を外した。ぱしん、と音がした。
制服がまだ間に合わないので、以前の学校のものを着ている。形としては、そう違わない。いや、そもそも学生服など、どこの学校でも大して違いはない。その点は彼は好きだった。個性のない服、誰が誰でも同じ格好。せいぜい、大体の年齢、15歳から18歳の辺りの、日本国籍を所有する男子だという記号でしかない格好だ。
その中に埋没して、誰にも、個人としての認識をされることなく、ただ『その歳ごろの少年』として存在している。
彼は、そういう日常を送ってきた。
彼の部屋は実に綺麗だ。そもそも、ものが少ないし、手際よく整理整頓がなされている。主張のない部屋、とも言えた。ホテルの一室のようだ。勿論、趣味のCDや雑誌などもあるのだが、どことなく、
高校二年生の部屋はこんなもんでしょうか。
そう言って揃えた、アイテムのように見えてくるのだった。
学生服をハンガーにつるす。中にきているワイシャツのボタンに指をかけながら、眼鏡をはずして、机の上に置いた。ことりと音がした。
彼の顔が少しだけ変わった。その変化はまるで、眼鏡といっしょになにかも外したから、のようだった。
背はやや高い方の部類だ。今のクラスでも後ろの方だろう。見た目は痩せ気味だが、華奢というイメージは無い。
成績はかなり良い方だ。かといってウンチ君な訳ではなく、平均以上の運動能力は持っている。
顔は整っている。端整と言ってもいい。間違っても「ワイルドな」「男くさい」という形容は、されない。髪型のせいもあって、やや女っぽい印象を受ける。記憶に残るほど整った顔立ちなのに、妙に、人の記憶からは抜ける。彼について、これといって特筆するような、箇条にして残せるようなことがないからだ。
それを助長させるためのように、彼はある頃から眼鏡をかけるようになった。『やや長身』や『女顔』そして『眼鏡』といった、彼を表すための符号を増やし、彼自身を隠すためのように。
話してみると性格は穏やかで、落ち着いた低い声で筋道だった話し方をする。頭の回転は早く、一度聞いた事を二度聞きかえすようなことはしない。やや理屈が勝つ。しかし常に相手の立場や感情を計算に入れて話しているのが、わかる人間にはわかる。その場が剣呑な雰囲気になると、まず自分が折れて、話し合いにもってゆこうと努力する。そのため、彼を「事なかれ主義」「八方美人」と評した人間もあったが、彼自身が薄笑いでそれを認めるため、そこで終わってしまう。
結局、どの場合でも、実は本当には相手のことを思っている訳ではない。もめごとになるのが面倒臭いだけだ。
また、誰かに頼りにされることもない。何にせよ、『彼なら』と思われることがなにもない。彼はどこまでいっても、『その場にいたその他大勢のひとり』なのだ。
そして、彼は無口だ。喋ることは喋るのだが、彼自身のことを彼自身の言葉で喋ったことがないのだ。単に、「来月の努力目標は以上に決まりました」「提出物を忘れた人は明日持ってくるようにとのことです」等々の、誰が言っても同じこと、それを言う役割の人間が言うだけのことしか、彼は言わない。
彼が転校するという時、前の学校の同じクラスの連中は、一応は「残念だ」「なんでこんな急に」と言ったが、もしも、彼がいなくなっても何一つ変わらない自分たちの生活に気づいたら、多分驚く程だろう。そして今頃は実際驚くまでもなく、彼が同じクラスにいたことも、半ば忘れているだろう。
今彼がやってきたクラスでは転校生という、あまり他者が持たないプロフィールによって注目を集めているが、じきに、1クラス40数名の中に紛れ込んで、見えなくなるだろう。彼の、少しだけ違う学生服が、この学校のものに変わる頃には、完全にただの『うちのクラスの、一人』に納まって、彼自身は消滅するだろう。
それは彼の望むことだった。
彼は彼自身のことを、第三者に向かって話さない。
話してもわかってもらえないことがわかっているからだ。
今までずっとこうしてきたし、これからもこうだろうと思っている。
本心からそうしたいと思っている訳ではない。以前、もっと子供だった頃は、この長い人生を一人で歩いていくのは寂しいと思ったが、この頃はそれでも仕方がないと思うようになっていた。
この世には、そういう人間もいて、そして自分はそういう人間なのだろうと。
彼の名は花京院典明といった。
実際、彼の持っているものの中で、たった一つ、人と違う個性を主張しているものといったら、その名前だけだ。
だから彼は、この名が嫌いだった。
ここの学校でも、きちんと受け答えはしながらその実相手に対して興味のない花京院の耳にも、何度も入ってくる単語があった。
「昨日JOJOを駅前で見たわ」
「えーっ。いいなー」
「へっへー。いいでしょう。あー得した気分」
最初は、芸能人か何かかと思った。この町在住の有名人なんていただろうか。でも、彼は自分に興味のないことは知ろうと思わないので、居るのかも知れない。しかし、
「今日はJOJO、来るかなぁ」
「どうかなー。今日は天気がいいからなあ。来ないんじゃねぇの?」
「保健室になら来るかもな」
「そんな、古典的な」
笑っている人間もいる。
この学校に来る人間なのか?人気のあるはみだし教師だろうか?
「ところでJOJOって、出席日数大丈夫なのかね」
「いくらアタマが良くてもなぁ」
「JOJOなら別に関係ないわよ」
…ということは多分、自分と同じこの学校の生徒なのだろうが。
花京院はぼんやりと首をかしげた。周囲の人間たちの、JOJOなる人物への感情が、不思議に思えたのだった。多分、カリスマ的な力を持っている、アウトロー、なのだろう。どこの学校にもいるものだ。自分の偉力を対象に貼り付けること、犬が小便をひっかけるようにして自分の領土を拡大していくことに、意欲を燃やすバカ。
しかし、自分の礼賛者を増やしたい種類の人間の割には、あまり学校にも来ないようだ。意志と行動が矛盾しているように思える。なおも不思議なのは成績がいいという。…あまり見ないタイプだ。
そんな彼の疑問が更に増したのは、ある朝、数人がどかどかと教室に入ってくるなり、
「おい、昨日のJOJOのあれ、見ちゃったよ俺ら」
えーっきゃーっと女子から歓声が上がった。どやどやと皆が集まっていく。
「すげーよな、一対六だぞ。しかも全員角材とかバットとか持ってるしよ」
「なによそれ、そんな人数でJOJOを待ち伏せしてたの?卑怯じゃんよー」
「それがさ、全然ヘでもないって感じでさ。眠いくらいの顔でかたしちゃったんだね、これが」
きゃーっと再び女子から歓声が上がった。
「駅裏って話だけどあそこ?ロッカーの脇?」
「そうそう、高速バスが出るとこ」
「稲華高のパーだって?」
「そう。二年ばっかで。上から言われたみたいだけど。無理に決まってんのに。JOJOに勝とうなんて」
全員の声が揃った。
「百年早いって」
その途端、がらがらと教室の前の扉が開いて、教師が入ってきた。皆慌ててそれぞれの席に散る。
中年の教師はむっつりとした顔で教卓につく。全員を眺め回して、
「朝のHRに入る前に、ひとつ聞いておく。昨日、くうじょうが駅で稲華高校の生徒相手に喧嘩を吹っかけたという話が入ってきている。本当のことであれば大問題だ」
くうじょう?
花京院が胸で問い返したが、誰も答えてはくれなかった。教師はひとつ咳をして、
「誰かそれを目撃した者、そういうことがあったと聞いたことのある者はいないか」
このクラスの人間でもないのに、学年もクラスも抜きで「くうじょう」と言うだけで、それが誰のことなのか説明する必要もないらしい。そのことに花京院がおやと思った時。
え〜、しらな〜い。なにそれ〜。
たとえーしっててもー、ゆうわけないじゃーん。
そう言うしかないような気分、オーラが、全員から発せられたのを感じて、花京院は驚いた。
何だこれは?
教師は一同を数秒見ていたが、やがて諦めたように、
「だろうな。もういい。HRを始める」
何が、だろうな、なんですか先生。
くうじょうでありおそらくさっきまで話題の中心だったJOJOである人間が、昨日起こした事件のことがクラス全員既に周知で、その上で何も言わない、ということがですか?
そしてそれが先生にも半ば諦めとともに受け入れられているということでしょうか。
そんな人間がいるのだろうか。
言うのも恥ずかしいが、家が大金持ちで、学校に多額の寄付でもしていて、したい放題が黙認されている立場の人間なのだろうか。あるいは理事長だとか会長の子供だとか。そんなマンガやTVドラマにしか出てこないような設定が許されるのだろうか。
そうとしか思えない。しかし。
連絡事項もなく短いHRが終わって、担任教師が出て行った。と、皆わぁっと騒ぎ出す。
「なんだよ、喧嘩を吹っかけたって」
「話変わってんじゃないのー」
「どうせ相手が落とし穴掘って待ってようと、JOJOから喧嘩吹っかけたことにするんだろ学校側は」
「喧嘩吹っかけるなんて、JOJOはそんなメンドーくさいことしないよ」
「イメージ違いすぎだって。いい加減でわかれっての、先公」
げらげら。きゃははは。笑い声が起こった。
寄付金だとか理事長だとか、そういう立地条件の人間が、生徒にこれほど熱狂的に受け入れられているというのは、ドラマの脚本ならボツだろう。
自分たちが言えない学校への不満、できない反逆を、代行してやってみせてくれる人物に喝采を叫ぶ、という訳だろうか。
大衆に愛される革命軍というところなのかな。
花京院は取りあえずそう結論づけた。それでもその人物は、今一つ掴みきれないまま、宙ぶらりんになった。
掴めないのなら、直接隣りで盛り上っている連中に尋ねればいいのだ、そのJOJOというのは一体どんな人間なのかと。何故、君たちはそんなにもJOJOを支持するのかと。JOJOなる人物にそんなにも入れあげると、どんな良いことがあるのかと。
しかし花京院はそうしなかった。そうする、理由が見つからなかったからだ。今の花京院は、聞いておかないと今後の学校生活に支障を来たす、と判断できるくらいの事情でもなければ、人にわざわざ話し掛ける気にならないのだった。
そのことに改めて気付かされ、花京院はぼんやりと不機嫌になった。
一日が終わり、教科書やノートをカバンに入れる。それを持って、がやがやと話したり笑ったり、部活に向かったり、掃除を始めたりしているクラスメートたちの中を、影のように縫って外へ出た。誰にも何も言わないし、誰からも呼び止められない。
その日の授業内容を、半ば自動的に復習しながら帰路につく。
少し細いが、一応は車道と歩道が別れている道にさしかかった時、行く手で何事かもめているらしい一団が目に入った。
三人ほどが同じ学校だろう。よってたかって、平均よりも背が低いだろうと思われる一人を、吊るすようにして、こづきまわしている。こづかれているのは花京院が今通っている学校の制服らしいのが、徐々に近づいていくうちにわかった。
柄の悪い町だな。この手の話ばかり耳や目に入ってくる。
花京院はその程度のことを考えた。それとも、中途半端な地方都市はどこでもこんなものだろうか。
三人と一人の周囲は、やや迂回しながら、見て見ぬふりの大人や同年齢の連中がなんとなく、流れていた。ということは、いきなり刃物を出して刺す、まではいかないだろうと判断し、さて自分はどうしたもんだろう、とぼんやり考える。花京院にとって、あんな連中の三人や四人、どうということはなかった。それどころか、
彼は、今この場にいたまま、あの三人を殺すことさえ出来るのだから。
………しかし、普通のやり方で、撃退したように見せるのは、結構面倒くさい。殴り合いはあまりしたことがない(実は一回もしたことがない。する必要がないからだ)し、何より目立つのはいやだ。
何より、自分がそんなことをする『理由がない』。
ごねて、金を巻き上げる程度なら、やらせておいてもいいのかな。
気のない調子で心の中呟いて、花京院は、いつものように『その他大勢』となるべく、見て見ぬ振り集団の一員に加わって通り過ぎようとした。
その時、それまで難癖をつけられ、小突き回されていた、やたらふっといツルの眼鏡をかけたちんちくりんの少年が、おどおどした顔に懸命の勇気を見せて、
「ぼぼぼぼ僕は、ジョ、ジョ、JOJOと同じ学校なんだぞ!」
大声で怒鳴った。自分に向かって怒鳴っているようだった。
花京院の足が止まり、三人の動きが止まった。
「なにぃ?もう一度言ってみろ」
「ぼぼぼ、ぼぼぼ、僕は」
「おい、本当だ。こいつの制服」
「あ」
三人は正直に絶句した。ちんちくりんは必死で自分を励まし、更に怒鳴った。
「僕にはJOJOがついてるんだぞっ!」
「へっ、だからどうした」
とは言ったものの、続きが出なくなった。三人はその劇的な効果を発揮した名前の前に、居心地が悪そうに尻から下がっていって、
「今日は勘弁してやらあ」
吉本新喜劇のような捨てぜりふを吐いて、その場を立ち去った。
見るともなしに見ていた連中も、まあよかったという感じで散っていく。一人、顔見知りなのだろう生徒が、慌てて駆け寄って、
「何やってんだよお前」
「僕は何もしてないよう、あっちから急に」
そこまで言って泣き出した。
余程怖かったのだろう、おいおいと泣き続ける。たちまち、涙とハナとで顔がぐじゃぐじゃになった。うわーという顔でそれをただ見ていた知り合いが、
「それにしても、『JOJOがついてる』かあ。まあ、何を言うより一番威力があるだろうけど」
「ていうかそれしかないじゃないかあああ」
しゃくりあげながらそう言う相手に、
「そうだけどさ」
ハンカチねえのかよ、と言ってから、自分のを探し、
「JOJOは別に、同じガッコの奴が今殴られそうになってるって聞いても、駆け付けてこないぞ。仇討ちにも行かないだろうし」
相手も自分もハンカチがみつからない。仕方なくさっきもらったサラ金ティッシュをまとめて取り出し、相手の顔に押し付ける。
「そんなことわかってるよ」
眼鏡を外し、ぬらぬらするもので覆われている自分の顔をそのティッシュで拭き、まだ泣き出しそうな、コウサギかコリスのような情けない顔で、
「でも、JOJOの名前を言うと、勇気が出るじゃないか」
ひっく、と最後にしゃくりあげる。相手はうなずいて、
「そうだな」
同意した。それから少しして落ち着いたのか、二人は念の為さっきの不良が去った道とは違う道を選んで、歩いて行った。
自分がぼんやりと、いや呆然と立ち尽くしているのがわかった。
―――その名を口にすると、勇気が出る。
それを、あのタイプの少年に言わしめるのには。
何回、虐められているところに飛んでいって助けてやったところで、『僕にはJOJOがついてるぞ』を本気で言うようになる、というだけのことだろう。
彼は。彼らは。JOJOを知る者は。
JOJOが彼らに対して、何をしてくれると期待している訳でもないのだ。自分をイヤなことから守ってくれる訳でも、自分が晴らせないウサを晴らしてくれる訳でもない。それでいて、
その名は、
口にする者自身の、勇気を呼び起こす。
どんなに小さな…かたすみの人間にさえ、自身を奮い立たせ、危難に立ち向かわせる、力を与える。
自分とは、まるで別の世界の…
ふと、自分が蒼褪めているのを感じた。
次の日から、花京院は、何となく周囲の会話に耳を傾けるようになった。「今日」「JOJOは」等が聞こえてくると、無意識に耳をすましている。
「JOJO来てるの?ホントに?」
「え、やっぱり休み?なぁんだ」
それを聞くと、ほっとするような、がっかりするような、奇妙な気持ちになる。もし、今日は来てるんだって!と言ったら、見に行くつもりか?わざわざ、彼女らに話し掛けて、JOJOの学年とクラスを聞いて、そこまで出かけていって。
で。実物を見て。なるほどと思うのか。がっかりするのか。
そのどちらかの後、僕もJOJO信奉者になるか、やめておくか決めるとでも言うのか?
そんな風に迷っていること自体、おかしな話だ。自分が、誰かのことが気になるのが非常に珍しい事態なので、なんだか浮き足立っているのだろう。それでいて、妙に沈んだ気持ちにもなる。別に、今更自分が、伝記を書いてもらえるような立派な人間ではないことを恥ずかしく思うわけではないし、自分という人間を、誰かに引き比べてどうこう自己批判するような気はないのだが。
それにしても。
もしかすると、誰かのことが気になるのは、生まれて初めてかも知れない。
そんな花京院のことを、どこかの誰かが足を引っ張っているのかどうか、JOJOという人間には、次の日も、次の日も会えないままだった。
ただ、わかってきたこともいくつかある。ひとつは、
JOJOは男であること。
…さまざまな話からいって、男に決まってると思われるが、世の中はわからない。教師や男子や隣りの学校の不良にも恐れられ、女子からはキャーキャー言われる、相当ワイルドなタイプの女子だっているかも知れない。その辺りのことは花京院は証明されるまでは勝手に決め付けないことにしている。
男だとはっきりしたのは、ある女子らが、この学校が共学で良かった。男子校ならJOJOに毎日会えないもの、あら私なら毎日だってJOJOに会いに来る、あたしだってと言い争っているのを聞いたからだった。
本人が毎日どころかさっぱり学校に来ないのに、と思っている耳に、
そういえばミスどこそこ高の女がわざわざJOJOに会いに来たんだって。
どうせばしっとやられたんでしょ。
決まってるじゃない。でキーキー怒って帰ったんだって。
バカねー、JOJOにばしっとやられて怒るなんて。シロウトね。
そうよそうよ。
…この手の話はこれで何度聞いたかわからない。どうも、人心を掌握して己の覇権を拡大し、と思っている人間ではないようだ。いやむしろ、おそろしく無愛想な人間のようだ。人間嫌いに近いような気さえする。
その点だけは、僕と同じだと一瞬無防備に考え、眉をしかめた。大違いじゃないか。その男は、つっぱねても知らん顔をしても、こんなにも熱狂的に追いかけられ続けているのだ。
吐息を噛み殺したところに、もう一つ、聞こえてきた。
中の一人が、体育館の肋木の、上から何段目からぶら下がるのがあたしの趣味なのだという話をして、
だって、その一段下がJOJOの身長でしょ?てことは、顔が…
きゃーいやだ、あたしもやる。
あたしも。あたしも。ぶひぶひ。
ちょっと驚く。随分と背が高い。いや、とんでもなく背が高いぞ。本当の話か?
しかし、彼女らは、その『上から何段目が、JOJOの身長』ということに、何の疑いもはさまないし、修正も訂正もしない。どうやら、誰がJOJOの顔の前にぶらさがるのにふさわしいかはともかく、その点については信じるしかないようだ。
ヘタすると2mくらいあるぞ。高校生はのびざかりと言っても、伸びすぎだ。それだけ背が高ければ、不良に睨みをきかせることもできるだろうが。
しかし、今では、そのJOJOが、単なる押し出しの立派さで売ってる男ではないことは、わかっていた。その考えは、やはり、花京院を妙に、憂鬱にさせた。
休日が来た。
これといって、することがない。
今の学校の中に、呼び出して一緒に何かするような相手は居ない。正確にいえば、そんな相手はこの世のどこにも居ない。
家にいてそんな現状を噛み締めていてもしょうがないので、外出した。少し考えてから図書館に向かった。
花京院は図書館が好きだった。ただ黙ってそこに居ることが許可される。いや、むしろ要求される。うるさい自己主張などする必要はなく、むしろ禁止される。自分が誰であろうと誰でなかろうと関係なく、ずらりと並んだ知識の回廊の中を漂う魚のような存在でいられるそこは、彼にとって非常にくつろげるところだった。
この町の図書館はそう大きくはないが、『静かに利用する』という規律はちゃんといきとどいているのでほっとする。彼はいつものように、機械工学やら宇宙工学やらの本を取り、机について読み始めた。
眠っているような空気の海の中、心地良くセコンドの音が響いている。数時間、久し振りにのびのびできた。
彼にとって『くつろぐ』とは、大勢の中の一人に紛れ込んで、そのことを何とも言われないことだった。
いい気分で、今まで読んでいた本を棚に戻し、何か借りて帰ろうと思う。読みきれなかったロボット工学の本を手に取り、貸し出しカウンターへ向かう途中、ふと目をやる。
そこは写真関係の棚だった。風景写真が多いようだ。花京院はあまり自然物にも興味はなかったが、
非常に美しい青色をした背表紙が、目をとらえた。
普通『青空』と呼ばれるような、晴れがましく誇らしげな色ではない。なんだろう、もっとものがなしく、胸に迫るような青だ。花京院は手を伸ばして、その一冊を引き抜いた。
表紙は、どこかの白い石造りの町が、その青い空の底に沈んでいる写真だった。白が冴え冴えと、目に沁みる程だ。それも全て青の色の持つ雰囲気のためだ。裏表紙を見て、その謎が解けた。
表紙と続いている町並みの、その上に、三日月が昇っていた。これは、日が暮れたばかりの、東の空なのだ。どこか遠い異国の町に、月がのぼっている、その場面なのだ。
その写真を見るうち、花京院の胸に、何ともいえない寂寥感と、一度も見たことのない故郷を見るような思いが、湧きあがってくる。
ここが、僕の故郷なのかも知れないな。
一日が終わる、そのひととき、白い町から白い月を見上げるのだ。
涙が出てくるような、深く深く寂しい青の空の下で。
少しの間考えて、借りてゆこうと思った。貸し出しカードに名を書かなければならない。裏表紙をぱたりと開き、そこに貼り付けてあるカード入れから、貸し出しカードを引き抜いた。
何故だか、声をのんだ。
空欄の、すぐ上の行、つまり一番最近借りた人間の名が、
空条承太郎
力強い、きれいな字で、そう書かれていた。
くうじょう。
担任教師が言っていたのは、この字なのだ。
「くうじょう…じょうたろう。くうじょうじょうたろう…で、もしかして…」
JOJO、か?
数秒後、花京院の胸がどかどかと鳴り出した。
何故こんなに動悸が早くなるのだ。
自分が、借りたい、借りようとあんなに短時間に、心から思ったその本を、
直前に
日付を見る。今日だった。ついさっき、返したばかりなのだろう。ほんの、数時間か、数分前。
JOJOだかくうじょうだかという、その人間が、借りていたというだけのことじゃないか…
暫く、その場で突っ立ってどかどか心臓を鳴らしていたが、気を取り直してカウンターに向かった。
「借りたいんですが」
「その欄の一番下に名前を書いて下さい」
事務的に言われ、他の本のカード同様、花京院はその名の下に、自分の名を書き込んだ。必要以上に緊張し、きちんと書こうとしているなと自分で思った。
何冊かの本と、その写真集を借りて、花京院は家路についた。
自分の部屋の、小さなスタンドの灯で、写真集をゆっくりと見る。
いろいろな空の表情を撮った写真集らしい。夜明けのもえるような空、K2ででも撮ったのかこれ以上青い空はないと言えるような青空、明日の晴れを約束する嬉しそうな夕焼けの空。
どれも、それぞれに美しいと思った。しかし、やはり、裏表紙の、今夜がはじまるその一瞬の三日月を写した空が、一番花京院には印象に残った。いや、一番か二番かというのとは違う、別のところに格納されたような気がする。
『彼』もこれを見たのか。
これを見て何と思ったのだろう。
この本を、借りるような男なのだ、
「空条承太郎は」
あんなにも、僕とは違う、僕とは…
違う生き方をしている男が。
僕が、辛いように好きだと思うものを、やっぱり好きだと思ったのだ。
花京院は明け方に夢をみた。
男が自分に背を向けて、前方を歩いている。
見たこともないのに、それが空条承太郎だとわかった。
驚くほど高く、まるで城壁のようにそびえている背は、すっきりと伸び、広く、力強く、逞しく、何故かひどく孤独だった。
けれど、孤独を寂しいとは思っていない。それが背の表情でわかる。
その上に、短い髪の頭があった。向こうを向いていて顔は見えない。けれど、
何かを、しっかりと信じている後ろ姿だった。
朝が来て、目を覚ました花京院は、自分が泣いていることに気づいた。
泣きながら眠るような、どんな理由があるのか全くわからないまま、その後もしばらく、天井を見上げた目から、涙を流した。
何かを引きずるような気持ちで、朝の道を、学校へと向かう。
自分の胸の中が、透き通った、重苦しく、物悲しい、ちょうどあの空の色で満たされているような気分だ。
重苦しく物悲しいだけではないのだが、かといって、何がどう晴れ晴れと決着した訳でもない。
これから僕はどうしたものだろう。
空条承太郎という男に近づいてみるのか?本物をこの目で見てみるか?以前、そうするのかと自分に尋ねたことをもう一度尋ねる。
別に僕は、彼を目指して生きていくつもりなんかない。それは変わらない。はっきりしている。
でも、
長い長い、石の階段が目の前に来ていた。この上には由緒のあるでかい神社があり、その中を突っ切っていくのが彼のいつものコースだ。
一段登り、ふと顔を上げる。
階段のかなり上の方を、男が登っていた。
驚く程背が高い。でかい。外人レスラーのようにでかいのに、その男が着ているのは学生服のようだった。
花京院の目が大きくなる。
もしや、
あれは。
反射的に急ぎかけて、慌ててやめる。今追いついて肩を叩くつもりか。何と言って話し掛ける気だ。
しかし、初めて見る実物だ、多分あれはきっと。せめて、顔くらい。
数段急いで登って、次に慌てて止まる。それからやっぱり登る。自分でも何をやっているのかと思う。
上を行く人間は特に急がず、ゆっくりでもなく、一定の速度で階段を上り続ける。と、上から幼稚園児くらいの女の子がちょこちょこと下りてきた。上には親がいるらしいが、一人で先にやってきたのだろう。
すれ違う瞬間、男はちらと子供を見た。その横顔に花京院が意識を集中した。その、二秒後。
子供がつまづいて転んだ。
今最上段までやってきた親が金きり声を上げたが、それは花京院にはすでに聞こえなくなった。
花京院の目には、上にいた男が振り向きざま腕を伸ばして、子供の襟首を引っつかんだ姿が飛び込んできた。が、男はほんの僅かの躊躇もなく全力で体重を移動させ腕を伸ばしたので、踏みとどまることが出来なかった。そう、しなければ、子供の襟に手が届かないからなのだが。…
男は子供をぐいと引き寄せて自分のふところに入れると、抱きすくめた。次の瞬間、男は頭から階段を落下した。
その一連のどの時点からか、自分でもわからないが、花京院は彼の持つ力、常人は持たない力、遠くまで遠くまで延びてそこにあるものを自在に動かす緑の力を放った。蔓のように網のようにそれは一瞬で階段の途中に絡みつき広がり、男の体をしっかりと受け止めた。
同時に頭の中で花火が散る。心臓ががくんとなり、脈がいくつか飛んだ。息がつまる。こんなに瞬間的に、爆発的に力を発揮したのは初めてだったので、体に影響が出たらしい。が、彼が放った緑の網は消滅することなく、落下の勢いを打ち消した後、男の体を階段に下ろした。
親が狂ったような勢いで降りてくる。男は上下逆さになって石段の上に寝たまま、ゆっくり顔を上げた。懐の中の子供は、びっくり仰天で涙も出ないようだ。男は体を起こして、子供を放してやった。その時点でようやく、子供が泣き出した。
親は半狂乱になって子供を抱きすくめたり、頭を叩いて叱ったり、撫でさすったりした。勿論、男に対しても頭をさげまくり、子供の頭も下げさせているが、男はうるさそうに手を振った。
花京院はまだせわしい呼吸をなんとかなだめながら、階段を上り始めた。
親と子供がよれよれになりながら自分とすれ違って下へ下りていく。ふと、男が何かの気配に気づいたように、顔をあげ、めぐらせ、こちらを見た。まだ石段の上に座ったままだ。どこかで、左足を打ったらしい。膝のあたりに手をやっている。
花京院は男の顔を見た。
その顔をもっとよく見たいと思ったので、
右手を持ち上げ、度の入っていない眼鏡を外した。
その眼鏡をポケットにつっこんだ時、そこに入っていたものが指に触れ、
「君…左足を切ったようだけど」
差し出した。
「このハンカチで応急手当をするといい」
相手は、何も言わず、自分を見つめている。
濃い眉、陽に焼けた肌、はっきりした骨格、意志の強い口元から顎。男らしい、という言い方がぴったり来る顔立ちだ。
そして力強い目は深い深い翠色をしていた。ハーフなのかも知れない、この背の高さからいっても。
相手の目は、『自分だけを』見つめている。
花京院の隣りに立っている、緑の影、さっき彼が石段に叩き付けられるのを防いだものが寄り集まって人の形になったものの方は、ちらりとも見ない。見ないフリをしているのではなく、見えないのだということは、花京院にはわかった。
彼にも、
僕の持つこの影は見えないのだ。
そう思ってみても、不思議なほど、落胆はなかった。どこかで彼には見えるかもしれないと期待していたのではなかったのかと自問してみても、別に、どうでもいい、と返事がかえってくる。
ただ、突然やってきたこの男は何者だという顔で自分を凝視している相手に、もう一言、声をかけた。
「大丈夫かい」
相手は口を開いた。
「ああ、かすり傷だ」
低く深い。強い。特に優しげでもないのに、聞くだけで、
花京院は微笑んだ。勇気がわいてくるような声だった。
ただ一瞬の躊躇もなく。
自分とは何の関係もないどこかの、子供のために、
誰に何と言われるためでも、どんな褒賞のためでもなく、この男はそうしていた。当たり前のように。
花京院の胸が不定期に鳴った。まだ、脈が安定しない。
そして、その時気がついた。僕が、
前後も何も考えず、咄嗟に、この力を最大に振るったなんて、生まれて初めてだ。そうしないでいられなかった。
気がついたら、そうしていた。当たり前のように。
また脈がとんだ。よろめきそうになり、慌てて背を向け、段を下りようとした。
「待て」
声がかけられる。迷ってから、ちらと振り返った。
相手はまだこっちを見続けていた。花京院のハンカチを指し示しながら、
「ありがとうよ」
律義だな、と思ってから。
相手が、なんだか、ひっかかるような、もどかしいような顔をしているのがわかった。
ハンカチに対する礼と、
それから何か。何かはわからないのだが、何かを感じるらしく、言葉を継ごうとする。しかし、
今お前、おっこちた俺に何かしたのか、と尋ねるのが馬鹿馬鹿しいのはさすがにわかる。何の仕様がある。こいつはほとんど一番下の位置にいたのだ。あんなに遠く離れた位置から俺が落下するのを、止める方法なんかある訳がない。
しかし、よく止まった。運が良かったのか、何だか…
なんだか、物理の法則に逆らって止まった気がするが。
心の中でいきつ戻りつしながら、花京院のハンカチで血の流れる位置を手早く縛って、それきり、もやもやしている頭の中にけりをつけるように、ぐいと力を入れて立ち上がった。上段にいるせいもあって、真実、見上げるような大男だった。
一段、降りてきて、
「みない顔だが…うちの学校か?」
うなずく。
「花京院典明といいます」
名乗った。
「先月末、転校してきたばかりです。よろしく」
ふうん、という顔で、花京院と同じ位置の段まで降りた。
まだ、しばらく、花京院の顔を見てから、
「俺は空条承太郎だ。…借りとくぜ」
左足のハンカチをちらと示してから、先に立って登り始めた。その背を、花京院は無言で見上げた。見上げ続けた。
夢でみたのと同じ。
逞しく、すっきりした、広い広い背だった。
それが一度かがんだので、どうしたのかと思ったら、さっき落ちる時にぶんなげたカバンを拾ったのだった。もう一度背を伸ばし、ぱんぱんと埃を払い、再び歩き出す。
花京院はその後を追って歩き出した。顔を上げて空を見る。
久しぶりに空を仰いだ気がする。
あの写真集の話を、することが出来るかな。そのうちに。
彼はあの三日月の写真をなんと言って表現するのだろう。聞いてみたい。
聞いてみよう。
それから、これからはもう眼鏡はやめようかな、と思った。
もともと、必要なかったのだから。
同名の曲がありまして聴いた瞬間「花京院の歌だ」とか乙女チックなことを思いました。思ったの自体は大分前なんですが。発作的に話を書きたくなって書きました。この頃寒いから甘だるく温まろうということか。トホホ
まただよ、「ボクは一人ぼっちなんだ」我ながらしつこい(笑)私は、たとえスタンド使いでなかろうと魂がひかれ合って欲しいんでしょう。あと、たとえ花京院が「他にスタンド使いの仲間がいる」と知らなくても、元気で生きていって欲しいというかね。
しかし、ぐだぐだ書いた割には、中身を要約すると、単に花京院に「キミは一人じゃない」と言ってるだけ。ほんッとしつこい(笑)
ああ、あと前に書いた話の仗助君と同じことしてるし。まあ、階段落ちは原作から取ったのですが。頭から落下ばかりしているジョースター一族。
石段を降りてガッコウへ向かうんだろう等々、文句はあると思いますけどご勘弁ください。
私はあまりパラレルもの(異世界の舞台設定にキャラクターだけ入れた話)はやろうと思わないですが、こういう仮定はよく考えます。違和感を感じたらごめんなさい。しつこいのもごめん。
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