ミン


 目の前でじぃっと自分を見つめてくる、トルコ石みたいに滑らかで艶やかな青い瞳を、アヴドゥルは困惑した表情で見返している。
 瞬きを忘れてしまったような目はひどく思いつめているようで、逆に放心しているようでもあった。柔らかい性質の銀髪がほつれて、あちこちの方向に乱れている。
 いつまで経っても何も言わないで自分を見つめている相手に、アヴドゥルは少し迷ってから、口を開き、何か言いかけたが言葉を探して結局止まってしまった。
 その様子を、少し離れたテーブルについて、頬杖を突きあきれ顔で眺めているのは、ポルナレフだ。彼からは、アヴドゥルの当惑顔と、アヴドゥルを見つめている人物の後ろ姿が見えている。
 アヴドゥルが今度こそ口を開いて、
 「マダム。お話を進めて宜しいですか」
 ややあって、
 「はい」
 細い声で返事があった。折れそうな白く細い首と、期せずしてポルナレフと同じ銀髪と碧眼をもった人間は、やはりフランス語を話す、まだうら若い、少女と言ってもいいような女性だった。
 ポルナレフは別に、既婚者には冷たい主義ではない。若くて美しい女性であれば丁寧で親切な男だ。いや、若くなくて美しくなくても女性にはそれなりにちゃんとした態度をとる男だ。そこに座っている女は十分に、彼に親切にされる権限を持っていそうな容姿なのだが、なんだか、そっち方面の情熱は、今の彼にはないらしい。眉間にしわがよる寸前みたいな顔で、その後ろ姿を眺めている。
 そんな同居人の様子にも、また目の前の依頼者の雰囲気にも困惑しているが、とにかく相手がouiと言ってくれたし、前に進むことにして、
 「それで、あなたのご主人の」
 そこまで言った時女は泣き出した。わっと泣き崩れたというのではなく、なんだか袋の底が抜けて中身がだーっと下に落ちたみたいな、唐突な泣き方だった。泣きながらもアヴドゥルのことをハンカチの陰から見ている。その様子にまた口を閉ざす。
 ―――――
 このフランス女性は先刻突然やってきて、「占って欲しいんです」と訴えた。白い繊手にはここの住所が書かれた紙を握りしめている。
 「こちらの占い師さんはとても腕がいい上にフランス語がわかると聞いたので」
 耳をくすぐる心地よい巻き舌にアヴドゥルは微笑して、ええわかりますと答え、そのままフランス語で、
 「どうぞ、お掛けください」
 そう言った途端、女はいきなり「ああ…」と安堵のため息をついて、アヴドゥルの胸にひしと寄り添ってきた。びっくりしながらも肩に手を置いて、どうしました、と言いかけた時に、
 「よぉ、休憩時間だからちょっと寄った…」
 言いながら店に入って来たポルナレフの目が飛び出しそうになった。
 女は突然の闖入者にも全く意識を払わず、いよいよ親しげにすり寄ってくる。アヴドゥルはそこで慌てて女を引きはがしたり、ポルナレフにむかって手を振って「誤解だ!」と叫ぶようなことはせず、びっくりした顔をポルナレフに向けて、それから胸の中の女性に、
 「すみません。マダム。離れていただけますか」
 女はその言葉に反応を見せた。顔を上げ、自分の手を見る。リングはしていない。
 「なぜおわかりになりますの」
 「いや、ただそう感じたからです。違いましたか?」
 「そうですけど」
 なんだか、いたずらを仕掛けている現場を見つかった子供のように、唇を少しだけ尖らせて、ややぎこちなく後ろへ下がった。そんな相手に、あくまで丁寧に、かつきっぱりと、
 「お掛け下さい。今お茶を差し上げます」
 そう言って、もう一度ポルナレフを見た。そこで女もふと後ろを見て、そこに立っている男に気づき、曖昧に会釈した。
 「わたしの同居人です。こちらは…お客様だ。まだ名前もきいていない」
 ポルナレフは唇の形をおかしな形にゆがめて苦笑いし、首をかしげつつ、
 「こんにちは、美しい方」
 相手の言葉に女の目がはっとして、
 「この方もフランス語を話すんですのね」
 「ええ。あなたと同じ国の人間ですね」
 「そうですの」
 女はしげしげとポルナレフを見つめた。そのまままた「ああ…」とため息をついて、ポルナレフの胸にしなだれかかってゆくのだろうか、と思いながら見守ったが、首を傾げて少し考えてから、くるりとアヴドゥルの方へ向き直って、微笑みかけてきた。
 俺じゃなくてやっぱりそいつってことかよ。
 ポルナレフの目が半眼になった。アヴドゥルは可笑しいのとなんだか厄介なのとが入り混じった表情で、女を椅子に掛けさせ、部屋を出ながら、さりげなくポルナレフを指で招いた。それに従ってついてきた男は、台所まできたところで、
 「何なんだ、あの美人は。お前の愛人か?」
 「バカなことを言ってないで、お茶を煎れてくれ」
 「へいへい」
 湯を沸かし、カップを3つ用意している背に、アヴドゥルは、
 「そんな目で見られても本当に何もしていないぞ」
 「別にてめーを疑ってる訳じゃねえよ」
 と言いながらも青い目が斜にアヴドゥルを見てから、
 「本当に飛び込みの客なのか?」
 「疑ってるじゃないか。ああそうだ、突然やってきて占ってくれと言ってきた。あなたはフランス語が話せるそうだが、と言って」
 「フランス語なぁ」
 ポルナレフはなんだかしょっぱい顔になった。自分がDIOに操られてジョースター一行を襲った時に、最初に戦いを挑んだアヴドゥルがフランス語で返答をした時、正直ちょっと、いやもう少し、実はかなり嬉しかったのを思い出したのだった。
 「まあ外国に来てフランス語のわかる相手ってのは貴重だからな。その気持ちはわかるけどな…でもフランス語がわかる外人だってだけでウットリものよ〜ッてしがみついてくるものかァ?」
 「普通はしないだろうな」
 「それで不埒な占い師がこれ幸いとよからぬ行いに走ったら、そのまま最後まで行っちまうのか?接客用のテーブルの上でよ」
 「おれに訊かれても知らん」
 アヴドゥルはひどく渋い顔になった。自分の店でどこぞの誰かが破廉恥な行為に及んでいるような錯覚を起こしたらしい。
 「とにかく客として、きちんと応対し、終わったら帰っていただく。それだけだ。他の客と全く同じだ」
 「言い張るなよ。疑ってるわけじゃねーって言ってるだろ」
 ったくよ、と唇を尖らせた時、砂時計が落ち切って、ポルナレフはポットを持ち上げた。
 熱いお茶と甘い菓子は女の口に合ったらしく、とても美味しい、を連発している。その姿を、同じテーブルについて座ったポルナレフは眺めて、
 (こうやっていると、ただの子供っぽいカワイコちゃんって感じなんだけどな)
 しかし、女は見かけによらないという事は、それなりにナンパの場数を踏んできたポルナレフも知っていた。女に声をかけた相当数のうち何割か、つらい打撃の夜も越えてきている故なのだろう。
 その後「それでは本題に入って」ということになり、ポルナレフは席を立ったが、外へ出ては行かず、部屋の隅のテーブルに移動してまた座った。
 おい、という顔で自分を見ているアヴドゥルに、『まだ昼休み終わってねーし』と口の動きで言い、イーという顔をしてみせ、そのまま頬杖をついてこちらの様子を見ている。
 やりづらい。しかし、「いいからさっさと仕事に行け」「なんだよ、俺の勝手だろ」などと客の前で繰り広げる訳にもいかないし、正直確かにポルナレフの昼休みの時間程度で終わらせてしまいたい気持ちもある。
 ポルナレフが同じ部屋に居ることについて了解を得なくてはと思ったアヴドゥルだったが、女は既にそんなことは頭から飛んでいる様子で、じっと自分の顔を見つめてくる。そのずっと後ろからは同居人が胡乱な目つきでこれまた自分を見ている。はなはだやりにくい。
 えほん、と咳をしてから、座りなおして、
 「お名前を伺って宜しいですか」
 「マリーと申します。マリー・ヴェルレ」
 隣りの隣りの家の娘と同じ名前だな、とポルナレフは思った。まあでもマリーはどこにでもいる。夜の店にも、旅の上で出会った中にもマリーがいた。
 「では、あなたは何について占って欲しいのですか?」
 相手の顔を見ると、黙ったままこっちをじーっと見ている。あの、と言いかけた時、
 「夫の」
 不意に相手がまた口を開いた。
 「気持ちがどこにあるのか、それを知りたいんです」
 「ご主人の?」
 「はい」
 それきりまた黙ってしまった。
 しかしこの人の目は、綺麗な青をしている、とアヴドゥルは思った。トルコ石みたいに滑らかで艶やかだ。しかしこの人自身の意識や意思というものがどうにもつかめなくて、目も顔もきれいはきれいなのだが、つくりものみたいに見える。
 (あいつの目も、色合いは違うが、きれいな青だ。だが)
 意識や意思なら、感じすぎるほど感じるから、あいつが人形みたいに思えることなんか決してない、と思いながら女の後方へ視線を投げた。トムとジェリーに出てくる不機嫌な時のキャラクターみたいな形相と姿勢をしていた当人は、アヴドゥルの視線にすぐに気づいて、下唇を突き出してから「なんだよ」と口の動きで言って、そのきれいな青い目で睨みつけてきた。


 その後突然泣き出され、泣き止むまでどれほどかかるだろう、と思ったが、女は泣き始めた時同様、唐突に泣き止んだ。実際、どこかにスイッチがあって入ったり切れたりしているかのようだ。
 泣き出したり黙り込んだり紆余曲折の末、たどり着いたのは、
 「夫が浮気をしているようなんです」
 というものだった。
 とどのつまりがそれかよ、という顔でポルナレフが首を変な形に曲げている。気持ちはわかるが、占ってくれと言ってくる人間の半分以上は恋愛問題で、そのうちの半分はパートナーの浮気についてだ。別に、今に始まった話ではない。占い師なんかやっていればもう慣れっこだ。
 「それで、」
 アヴドゥルが言葉を継ぐと、女の目が吸い寄せられるように上がって、また見つめてくる。
 「占いで、何を知りたいのですか?ご主人が本当に浮気をしているのかどうか?それともご主人が浮気なのか本気なのか?」
 女はきょとんとした様子で、小首を傾げ、黙っている。相変わらず他人事のような態度に、腹の底に苛立ちが焦げ臭いにおいを立てはじめる。本当は決して気の長い方ではない男は、なんとか苦笑にとどめて、
 「わたしの顔を見ていても、答えは現れて来ませんよ」
 厭味の一歩手前のようなことを言った。しかし相手ははっとするでもなく、恥じ入るでもなく、腹を立てるでもなく、反対側に首を傾げて、
 「そうですわね。じゃあ、夫が本当に浮気しているのか、占って下さい」
 とりあえず、みたいに言われて仕方なく、夫の名と生年月日を訊くと、カードをシャッフルした。
 いまいましいが、
 (何度見ても見惚れちまう)
 舌打ちしながらポルナレフはカードを操るアヴドゥルの指の動きと横顔と、その姿全体を眺め、それからふと女を見た。女はただもううっとりとして、両手を胸の前で組んでいる。僅かに見える角度の頬はバラ色に染まり、首筋まで薄っすらと赤い。
 (旦那の浮気問題で泣いてたんだけどなあ、ついさっきまで。今は、エキゾチックでステキな占い師さんの手つきに夢中でそれどころではないって感じだ)
 アヴドゥルの手がカードをテーブルの上に7枚、非対称のとある形を描いて置いてゆく。あれが恋愛沙汰を占う時の形なのは、ポルナレフも今ではわかるようになっていた。
 相手を表す位置のカードに女帝が出て、アヴドゥルの眉間に影が差す。
 「残念ですが、御主人に別のお相手が居るのは、確かなようです」
 「そうなんですか」
 柔らかい巻き舌で、ぽかんとした声で言い、それからまた唐突に泣き出した。『夫に浮気された妻は泣かなくちゃいけない』事を思い出したみたいな泣き出し方だった。銀色のほつれ髪を、男ふたりは途方に暮れた顔で眺めている。


 もりもりと夕飯を口に入れ、飲み込んでから、フンと鼻を鳴らし、
 「しかし、変な女だったな」
 「お客の悪口を言うな」
 ぷっと膨れて、どうもすみませんねと言って続きをがつがつ食べた。
 結局あの後アヴドゥルが「占いというものは、よりよいその後の生活に活かしていくための」とかなんとか繋げているのを、聴いているのかいないのかわからない女は最後に涙を拭いて、にっこり微笑みかけ、
 『またお伺いして宜しいかしら』
 『………』
 今度は何を占いにくる気ですか、と余程訊きたくなったが、それこそお客に言うことではない。
 「随分おめーのこと気に入ってたみたいだしなあ。また来るんじゃねーの」
 「来られても困る」
 思わず正直なことを言ってしまった。ポルナレフはにやりと笑ったがつっこまず音を立てて夕飯を咀嚼した。
 「うるさいぞ」
 「pardon」
 ヘッ、と最後につけてゴックンと飲み込んでから、
 「お前のファンの女たちは何人かいるけどな。金曜になるとやってくる娘っ子だの、どこぞの金持ちマダム2人組だの」
 ポルナレフがたまにこの店に寄ると、見覚えのある女たちがなんのかんの言いながら入り浸っているのと出くわすことがある。
 それは別に、何とも思わなかった。おー、いっちょまえにモテやがんだなこいつも、とか、まあ確かにこいつが精神統一してカードを繰ってるのを見るのは気分のいいもんだからな、とか、そんなことを思い、「それが終わったら俺とお茶にしようぜ、お嬢さん方」なんて声を掛けた。「アヴドゥルさん、この方どなた?」と訊かれて、渋い顔で「同居人だ」と答えていた。その顔を見て女たちとギャハハ笑いをしたものだ。
 しかし、今日来た女に関しては、もう一度あの女がやってきたとして、そういった事柄を一緒にやらかしたり、顔を見合わせて笑ったりすることはないだろう。話す言葉は同じフランス語なのだが。
 「でも、今までにも居たんだろ」
 「誰が」
 「お前を気に入った変なヤツ」
 バカなことを、という顔をしてから、眉を上げて、
 「ああ一人居たな。やたらと図々しくてやたらと人のことに口出しして来て、しまいには一緒に暮らすと言って押しかけてきたやつが」
 「な、なんだと?」
 ポルナレフがびっくりした声を上げ、目を剥いて、
 「それでお前どうしたんだよ」
 「どうとは」
 「一緒に暮らすって押しかけてきて、それでどうしたんだって訊いてんだよ」
 「さて?」
 「とぼけてんじゃねえよ。今そう言っただろうが。今は居ねえようだが(キョロキョロ)ここに居たことあったのか?おい、どんな奴だよ」
 「知りたいか」
 「そ、そりゃあ、まあ。いや、別に、でも」
 複雑怪奇な顔の相手に、すました顔で、
 「バスルームに行って、洗面台の前に立ってみろ。そいつの顔が映ってるぞ」
 「へ」
 ぽかん、とした状態からまだ復帰しないうちに、アヴドゥルは立ち上がって食器を持ち流しへ立った。


 翌日の、やはり昼食の頃だった。今日は客が来ず、多少ヒマがあって奥の部屋で書類整理などしているところに、
 「よぉ」
 戸口からした声の方を見ると、またもやポルナレフがやってきた。紙袋をいくつも抱えている。
 「噂の店で昼飯買って来たからよ、一緒に食おうぜ」
 なんとなく照れ気味で視線が合わない。アヴドゥルは苦笑して、
 「ああ。湯を沸かす」
 言って立ち上がった。その時、来客を告げる音が聴こえた。
 「ああいいぜ、俺が出る」
 言い置いてポルナレフが玄関へ向かい、
 「いらっしゃい」
 言いながら微妙に顔が引きつった。
 そこには、あの奇妙な人妻が立っていた。
 (もう来たのかよ。また来るかもなんて冗談で言ってたのに)
 正直、頬がゆがんだ角度になりながらもなんとか笑顔をつくり、
 「こんにちは。マダム・ヴェルレ」
 しかし返事がない。相手はただぼんやりと突っ立っている。青い目には意思が感じられず、何を考えているのかわからない。
 それは実はかなり奇異なことなのだが、昨日ここに来た時からずっとその様子を見せられたポルナレフは、そのことについてはなんとなく受け入れてしまい「またかよ。素なのか演技なのか知らねーが、いい加減やめにしてほしいもんだぜ」と思いながら、
 「また占ってもらいに来たのかい?昨日の今日だからそうそう違う卦は出ないと思うけどな」
 ちょっとイヤミなことを言ってしまった。しかし相手は何の変化もない顔で、ぽかんと立っている。聞こえないふりをしているのか、本当に何も感じていないのか。
 「通したらあいつにイヤな顔されそうだな、でも、俺が追い返すってのも筋違いだよな。まあいいや、あんたちょっとここで待っててくれよ。あいつに訊いてくるから」
 彼女の大好きなフランス語で話しかけているのだが、そのことを意識しているようにも思えない無表情で立っている。ポルナレフは仕方なさげにきびすを返すと、もとの部屋に戻った。アヴドゥルがこちらを見て、
 「お客か?」
 「お客はお客なんだがな、予想外のというか、予想してたというか」
 その言い方にアヴドゥルの目が少し大きくなり、
 「本当に来たのか。冗談半分で話していたのに」
 「同じことを俺も思ったぜ。まあそのままズバリになっちまった。待たせてあるけど、どうする?」
 「うん」
 どうしたものかな、と呟きながら腕組みして考え込んでいるのを眺め、いいから追い返したら?か、その後旦那と進展でもあったのか訊いたら?か、何か言いかけた時、アヴドゥルが目を上げ、そして「えっ」という顔になった。目はポルナレフの背後を見ている。
 振り向くとそこにはあの女が立っていた。勝手に入って来たらしい。
 「おいおい、待っていてくれと言ったろう。駄目だぜ」
 しかしやはり反応はない。ポルナレフの目に苛立ちと怒りとが掠めた。
 「ポルナレフ」
 アヴドゥルが手を上げて制し、後ろへ、というジェスチャーをしながら、女に近づいていく。ポルナレフは肩をすくめ、仕方なく後ろに下がった。
 女の目の前に立ち、静かに声をかける。
 「あなたにはきちんとお話をしなければならないようだ。いいですか、」
 その先に何とつなげようとしたのかわからないが、そこで突然アヴドゥルの言葉が途切れた。
 なんだ?と思ったポルナレフがアヴドゥルの顔を見た。見開かれた黒い両眼に驚愕が漲っている。
 うぐ、というような音を立てて息を吸い、左手で口をおさえる。アクセサリーの揺れる音がした。見る間に顔が上気し、次に眉がしかめられ、喉が鳴る。
 「おい、アヴドゥル」
 言いながら近づいて顔を覗き込もうとした時、アヴドゥルがものすごい勢いでポルナレフを突き退け、
 「来るな」
 怒鳴った。
 何すんだよてめー、と言おうとしたが、その声がひどく取り乱していて、聴いたことのない掠れ方をしているのに気づいて、黙った。
 必死で自分を抑えているが、口元を抑えている手が震えている。こめかみや額に、はっきりと汗が滲んでいる。喉がごぐりと音を立てて上下した。
 その目がギラギラと光って、今もなおぼうっと突っ立っている女を凝視しているのを、少し離れたところから見ているポルナレフは、眉をしかめて眺め、
 「一体何なんだよ!説明しろよ」
 「残念だがそれは無理だな」
 カンに障るスカし声が女の背後から聴こえた。ハッとして身構える。
 女の肩を左右から掴んだ手が見えた。指がピアノでも弾くようにいやらしく動いている。
 「誰だ」
 女の顔の後ろから、浅黒い肌と黒い髪をした優男が身を起こし、顔を見せてニタリと笑った。いでたちは現地の人間のもので、顔立ちはなかなか整っているのだが、垂れた目つきとめくれ上がった口元、それに気取った声がどうにも淫猥で下品だ。
 「お初にお目にかかる。君は戦車だったな」
 その言葉に目を見開いた。自分のことを、タロットカードの暗示で呼ぶ相手は、自分と同じ様に力あるヴィジョンを持っている存在だけだ。すなわち、
 「手前、スタンド使いか」
 「ご明察。私はミンの神の暗示を持つ」
 「ミン?エジプトの神か?」
 かつての旅を思い起こす。エジプトに上陸した時から襲って来たさまざまな敵は、皆エジプトに君臨した神々の力と名をもっていた。ポルナレフ自身も、アヌビス神やセト神といった相手と戦った。
 「そうだ。同じ街に、火をあやつる魔術師が居て占いの店を出しているということは知っていた。なんとか手下にしたいと思っていたのだが、生憎と、魔術師の放つ炎は相当の威力があるらしくてな」
 「あったりめーだ」
 ポルナレフの、割れた声が遮った。
 「手下にしたいだと?笑わせんな、手前がどんな能力か知らねえが、こいつの火焔に勝てる訳がねえぜ!」
 せせら笑うのと憤怒で怒鳴るのが混ざった声に、相手は一向に怒ることなくうなずきながら、
 「ああ、ああ、わかっている。その通りだ。私の能力は本当に大したことのない、平和的なものだ。戦闘には全く向いていない。向かい合って戦ったら魔術師の一撃で消し炭にされるだろう」
 クックッ、と笑う。喉に引っ掛かったような声にイライラがつのる。相手がいかにも自己卑下した言い方をしながら、その実全くそんなふうに思っていないのが伝わってくるからだ。どこかで聞いたと思い、すぐに「ああ、あいつだ」と思い出した。『恋人』のスタンド使いだ。
 史上最弱が最も最も最も最も恐ろしい、と大威張りしていた、スカした優男。似ている。スタンドのスタイルが似ていると、性格や容貌も似てくるのかも知れない。いや逆か。
 どちらにしろ、自称・大したことのない、戦闘には向かない、が実は曲者で、素直に舐めてかかるとひとい目に遭うのは十分に経験済みだ。果たしてこいつのニヤニヤ笑いの根拠はどこにあるのか。
 「そう怖い顔で私を睨まないでくれ、戦車の男」
 ふっふっふと笑いながら目を細め、ポルナレフの容姿をながめまわし、
 「ふん。結構ハンサムだな。いい体をしているし。相手には事欠かないかな?君はどんなタイプが好きなんだ」
 「何の話だ」
 「私のスタンドの話だよ」
 眉間にしわが寄る。何を言っているのかさっぱりわからない。
 「人間の三大欲求というのを聞いたことがあるかね?私のスタンドはその中のひとつを操作する。結果が、君のお友達の魔術師だ」
 はっとしてアヴドゥルを見た。汗をダラダラかいて喘いでいる。懸命に自分を抑えているが、もう堪えられなくなりそうな様子だ。さっきから様子がおかしいと思っていたのだが、これは敵スタンドのせいだったのか?
 「こいつに何をした」
 「この女にAmourを抱くようにしたよ」
 「なんだと?」
 「まあ、直接的に言うと、やりたくてたまらない状態にした」
 細めた目とゆがんだ口元に下卑た笑いを浮かべた相手の顔を、ポルナレフは逆に目を見開いて凝視した。
 「この女は昨日この店に来ただろう?その後私のやっているバーにも来た。酒を飲みながらいろいろ話してくれたよ、不実な夫のこと。不毛な毎日のこと。そして、目下憧れている、ステキな占い師のことを」
 低く不愉快な笑い声をたて、
 「これは使わない手はない。この女を植木鉢として、スタンドの種を植えた。再びこの店を訪れ、占い師と対峙した時に、この女の恋心を養分として開花する」
 男は女の背後から出てきて、脇に立つと抱き寄せ、抜け殻のような無表情の女の髪を指で掻き分ける。こめかみのあたりに、血のように鮮やかな赤い花が咲いている。
 「この花の芳香を嗅いでいたら、君も同じ状態だったのだがな。そうしたら…3Pだな、そこのソファの上で。あるいは、食卓のテーブルの上でか?」
 胸が悪くなる。不愉快で、どうにも胸糞悪い。かつて自分が似たような冗談をアヴドゥルに言い、相手が嫌そうに頬を歪めていたのを見た記憶があるが、あの時の相手の気持ちがありありと、今喉元にこみあげてくる。
 「気色の悪いことを言ってる暇があったらさっさとこいつを元に戻せ」
 銀色の剣が宙に閃いて突きつけられた。
 しかし相手は全く動揺していない。相変わらず嫌らしい笑い方をしたまま、
 「君の相手は私ではないよ」
 男の指がアヴドゥルに向く。くい、と指を立て、
 「戦車を殺せ、魔術師。そうしたら、この女を犯らせてやる」
 アヴドゥルの顎ががくりと上がった。
 人形のようにぎくしゃくした動きでこちらに向き直る。徐々に理性も失われているようだ。
 「そうだ。殺せ。お前の炎で仲間を焼き殺せ」
 あひゃひゃひゃひゃ、と聞こえる笑い声が心底不愉快だ。串刺しにしてやりたい。だが、今ポルナレフの前にいて、向かってくるのはアヴドゥルなのだ。
 よろめきながら足が前に出る。持ち上げた右手にボァと炎が上がった。
 「アヴドゥル、目ぇ覚ませッ」
 「無駄だ。お前の声なんか耳に届かない。今こいつの頭にあるのは、早く突っ込みたいということだけだ」
 「黙れ!」
 絶叫する。胸に怒りの炎が噴き上がる。
 「アヴドゥル、何やってんだよ!こんなクソ野郎に操られて、女とやりたい一念で俺を殺そうとするって、何だよ?
 そんなの、お前のやることじゃねえだろうが」
 怒鳴りながら、情けなくて悔しくて涙が出てきた。全くだ。俺ならいざ知らず、こいつがそんな姿をさらすなんて、絶対にあってたまるものか。冗談じゃない!
 頬に涙を伝わせながら、なおも、
 「しっかりしてくれよ!魔術師の赤のスタンド使いは、この俺を倒すくらい強い男なんだぞ?そいつを、貶めるようなことしないでくれ、
 頼むから」
 そこまで言った時、アヴドゥルの唇が痙攣した。震えながら炎を掲げている右手が、少しずつ移動してゆく。
 ポルナレフの目が見開かれた。背を向けているから、敵からはアヴドゥルのしていることが見えない。
 アヴドゥルは、右手の炎で、自分の左手を炙っていた。
 炎をあやつれるからと言って炎が熱くないわけではない。相手が恐ろしい苦痛に耐えているのは見ればわかる。ただひたすらにポルナレフの顔を凝視したまま、歯を食いしばり、眉をしかめ、己を支配している欲望から、己の精神を苦痛でもって引き抜こうとしている。
 その顔をポルナレフは真正面から見つめ返し、何も言わず棒立ちになっている。
 アヴドゥルの、奥歯の砕けんばかりに噛みしめた口が、確かにニヤリと笑った。そして、唇が動いた。
 その後ろから、
 「何故止まっている?さっさとやりたいんならいい加減そいつを」
 殺して、と言いかけた男の目が驚愕を映し、声はそれきり途切れた。
 こちらに背を向けているアヴドゥルの、ゆったりした服の脇の下から、長く鋭い銀色の剣が突き出されてきて、男の頸を貫通していた。
 その場に昏倒した男に向かって、ポルナレフが冷たく低くつぶやく。
 「二度と下品な口をきくなよ」
 「きけやしないだろう。喉を貫かれてはな」
 そう言った声は静かで、いつものアヴドゥルの声だった。それを、心底ほっとする思いで聞き、目を向けると、相手は汗びっしょりの顔で苦笑してみせた。


 女は、男が死んだ時点で地面に崩れ落ち、次に気がついた時には自分がなぜここに居るのかも、昨夜行ったバーの店主のことも、何も覚えていなかった。自分を操っていた男が死んだことでスタンドの呪縛も解けた筈だが、本当に解けたのかよくわからない様子でぽやぽやとアヴドゥルを見上げ笑いかけてきた女を、穏やかにかつきっぱりと追い返した。
 「こいつの死体はどうする」
 「不本意だが、SPW財団に協力を求めるしかないだろう」
 「まあ、そうだな」
 確かに、いくらなんでも家の中で人ひとり焼いたり細切れにして消すことは出来ない。
 財団とジョセフ・ジョースターに連絡を入れ、死体を秘密裏に運び出してもらう手筈を整えた後、
 「さあ」
 言いながらポルナレフが用意したのは救急箱と氷水だった。
 「出せよ。左手」
 「大丈夫だ」
 「なわけないだろ。いいから出せって」
 強引に左腕をひっぱり、テーブルの上で上向きにする。案の定ひどいことになっていた。
 ポルナレフが「チッ」みたいに顔を歪め、舌打ちし、手当を始めた。アヴドゥルも途中であきらめたのか何も言わず手当されている。
 自分の手を無言で消毒してる男の頭を眺めながら、アヴドゥルはさっきのポルナレフを思い出していた。
 泣きながら、怒りまくって怒鳴りつけていたこいつの顔を見た時、四肢を捕えられて抜け出せないでいた淫猥な澱みから、なんとか抜け出さなければと思ったのだ。でなければ、こいつが怒る。魔術師の赤を操るスタンド使いを侮辱するなと。
 (そんなことを言われては、抜け出さないわけにいかない)
 …しかしだ。
 しばらく無言のまま作業が続いていたが、ポルナレフがチラと目を上げると、手の持ち主はすぐそこでムッとした顔をしてこっちを見ていた。
 「何睨んでんだよ」
 「じゃあお前は何を笑ってる」
 「笑ってねえだろ」
 「笑ってる」
 「笑ってねえって」
 言い張った直後、口元がにやりとしてしまって、ほら見ろやっぱり笑っていると相手が騒ぎ立てた。
 「これは違う、お前が笑ってる笑ってるしつこいからついつられて笑っちまったんだ」
 「嘘をつけ。どうせあの時のおれの」
 まで言いかけていまいましげに黙った。
 何を言いかけたのかはすぐわかった。誰だってすぐわかるだろう。無理やり性欲をかきたてられた「ヤリたい顔」を見られた、と思えば恥ずかしくて悔しくて「忘れろ忘れろ忘れろ忘れろ」と叫びながら実際忘れるまでぶん殴りたいところだろう。
 しかしそれを実行するわけにもいかないのは、分別あるおとなの男であるアヴドゥルにはちゃんとわかっている。ので、実行には移さないが、ぶん殴りたいことには変わりない。
 羞恥でいよいよ赤銅色の顔色になりながらそっぽを向いている顔を眺めて、
 そりゃあ確かに、こいつのアレな顔を見てしまった、と思えば思わず変な声を上げて笑ってしまうような、思わず相手の顔をじぃーと見たくなるような、腹の底がむずがゆい気分になる。
 こいつが助平なことをする時はあんな顔をするのだ、と意識してしまいうと、もういけない。こっちが照れてしまう。でも、これから先こいつの顔を見るたびに思い出していてはまともに話もできない、気を取り直さないと、とは思いながらも、
 実のところ、リビドーを操作された時のムラムラ顔よりも、自分の手を自分で焼きながら、目の前の男に襲い掛かるのを自制している顔の方が、思い出すと腹に来る。
 炎のような目でこちらを睨み据えながら、ニヤリと笑った唇が、
    言わせておけば
 そう動いたのを見た。
 思い出した途端顔から火を吹きそうになる。手で口を覆った。
 そんな相手を見て、ムッとした声が、
 「なんだ。また何か言いたいことがあるのか」
 しかし反応できない。駄目だ。
 思い出すともう、なんというか、顔も胸も腹も熱くて、肺の中の空気まで熱くて、呼吸すら苦しい。むせる。咳き込む。
 「何なんだと言っている」
 「違う」
 何が違うのか説明できないまま、ポルナレフは自分の中で蠢く衝動を必死で宥めようと努力し続けた。

[UP:2015/03/07]

 別にシリーズ化を考えているわけではないんですが、またもやエジプトの神様です。

 この2人はバランスが絶妙ですね。単なる動と静でなくてどっちも情熱派で行動的で、なんというか…相手の足りないところを補うっていうんでもなく、一緒に、かつそれぞれ、敵に向かって駆け出す感じだろうか。そして、お互いを、スタンド使いとして尊敬し信頼しているってところがすごく好きだ。
 この2人で、もっといろんな場面を考えたいなあと思います。



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