N.K


 これでもかとばかりにじょわじょわと蝉が鳴いている。今は夏の盛り、目下夏休みだ。花京院は承太郎の家に上がり込んで、並んで縁側に座り、スイカを食べていた。
 (隣にいる男みたいに、豪快に食いついて、種を後からぷっぷと出すのが、正解なんだろうけど)
 変な顔で自分を見ている花京院に、「なんだ」と訊く。
 「僕はスイカを食べるのが下手くそなんです」
 確かに妙に遅い。もたもたしている。
 「嫌いなのか」
 「いや、好きだよ。そういうことじゃないんだ。あまり、最初から種があるとわかっている場所に食いついて、口の中で種を選り分けて出したくないんだ」
 「チェリーならいくらでも口の中で転がしてるじゃねーか」
 「チェリーとスイカは違う」
 軽く眉間をしかめて断固として言い放つマヌケなハンサム顔に、承太郎も眉をしかめてから、
 「じゃあ何かで種をほじくればいい」
 「あらかじめ種を全部取るのは不可能に近い。そんなことをしていたらスイカがボロボロになるし、温まってしまう。それとついでに、奥歯で種を噛み砕く感触もイヤだ」
 「飲んじまえばいいだろう」
 「お腹の中で芽を出したらどうするんだ」
 キリキリッとした顔で『おばあちゃんに戒められたんだ』みたいな主張を滑らかにされて、
 「手詰まりだな」
 そう言うしかない。相手は納得してくれたかとうなずいて、
 「だから、精一杯努力してもたもた食べるしかないんです」
 さて、と気を取り直してスイカ作業に戻ろうとした時、突然後ろから何者かが襲撃してきた。
 「うわっ」
 後頭部に衝撃があり、花京院の手からスイカが飛んで、べしゃ、と地面に落ちてしまった。
 「あああ、僕のスイカが」
 うろたえる間もなく、何者かが花京院の頭を蹴って上を飛び越し、スイカの前にとんと降り立つと、かしゅかしゅと軽やかな音を立てて食べ始めた。
 「あ」
 目を丸くする。それは見覚えのありすぎるくらいある、白黒ブチの小型犬だった。小さいしっぽがピンと立って、リズミカルに左右に動いている。
 「イギーじゃないか」
 名を呼ばれた犬は顔半分だけ振り向いて、花京院を見ると、フンと鼻を鳴らし、再びスイカに戻った。花京院は承太郎を見て、
 「どうしてイギーがここに?」
 「じじいのやつが、少しばかり預かってくれと送ってよこした」
 こっちもフンと言い、自分の分のスイカを食べてしまうと、ぷぷぷと種を吹いた。そこへ、
 「そうなのよ。なんでも、イギーちゃんのおうちの辺りが、大掛かりな区画整理事業に引っ掛かるんですって」
 後ろからホリィがにこにこして麦茶を持ってきた。
 「ありがとうございます、…ああそうなのか」
 全く面倒くせえ話だぜ。おれの縄張りに足を踏み入れる連中と、全面戦争してやってもいいんだがな?
 イギーが唸り声をあげ、口の端を持ち上げ文字通り犬歯を剥き出してみせた。承太郎も花京院も、それぞれの表情で冷やかしとか、揶揄とか、やめておけといった辺りを口にしかけた。
 が、それより早く、
 「ダメよイギーちゃん!絶対ダメよ、危ないことをして、大怪我でもしたらどうするの!」
 めっ!という昔懐かしい印象のお叱りの言葉が最後に付いた。承太郎も花京院も、また叱られた当人のイギーも、びっくりして声の主を見た。空条ホリィが、エプロン姿で腰に手を当て、足をちょっと開いて踏ん張って、目を見開いてイギーを睨んでいる。
 しばしの沈黙の後、「あ、あの」と口を開いたのは花京院だった。
 「ホリィさんは、イギーが喋っていることがわかるんですか?」
 「え、あら?…なんとなく、ケンカなら受けて立つみたいな雰囲気を感じたのだけれど。違ったかしら」
 「いや、違ってないと思います」
 ホリィは傾げていたのと反対側に首を傾げ、
 「あなたや承太郎には、イギーちゃんが言っていることがわかるの?」
 「僕らにもわかりませんよ。ただ、今のホリィさんみたいに、なんとなくこういう事を言ってるんだろうなと感じ取れるんです。普通の犬の機嫌を読み取るのとは明らかに違っているんですが。内容の複雑さにおいても、『多分こう言ってるんだろう』という確実さにおいても」
 「こいつはスタンド使いだからな。完全に人語で伝えてくるわけじゃねーが、受け取る側がスタンド使いならやはり違うんだろうぜ」
 てことは、と花京院は呟き、ふと考えた。
 (やっぱり、ホリィさんも、ある種のスタンド使いではあるってことかな。DIOを倒したことでホリィさんの肉体を蝕んでいたモノは消滅したけど、一旦目覚めたスタンド能力はそう簡単に消えはしないだろう。現に承太郎もジョースターさんも、同じようにDIOの影響でスタンドが発現したけど、今も消えていないし)
 「たとえば自分のスタンドが操れなくても、人のスタンドが感知できるってことはあるかも知れないな」
 思わず口に出して言っていた。気が付いて、承太郎とホリィの顔をかわるがわる見た。
 承太郎は面白くもなさそうに、
 「そうだな」
 ホリィはニコニコして、
 「あら。そのうちに私にも操れるスタンドが出てくるかも知れないわよ。そうねえ、美味しいお料理が作れるスタンドとか」
 「それなら、すでに発現していますよ」
 花京院が微笑して言うと、ホリィは照れて赤くなりとても嬉しそうに「どうもありがとう花京院くん」と言った。「いいえ」と返してなおも微笑みかける花京院に、承太郎が「気持ちわりいからやめろ」と容赦ないことを言った。イギーはアホくさそうな顔でスイカに戻った。赤いところを全部かしかしと食べ、ゲフと水っぽいげっぷをする。
 「イギー、種は全部飲んじゃったのかい」
 当たり前だろう。あんなものわざわざ選り分けて出すなんて面倒なことしてられるかよ。
 「お腹の種から芽が出ても知らないぞ」
 本気で言ってるのか?お前のおつむはポルナレフの野郎以下だな。
 「なんだかものすごく馬鹿にされている気がするんだが」
 「多分その通りだろうぜ」
 ちぇっと口を鳴らした花京院の前で、イギーはこれみよがしに大きなあくびをしてみせた。


 カランカランカランとけたたましい音が鳴って、それまで「早くティッシュを貰って帰ろう」とぼんやり思っていた花京院は目をぱちぱちさせた。
 目の前の、法被を着た恰幅のいいオヤジが、満面の笑みで、
 「おめでとうございます!特賞です!」
 えっ?えっ?とうろたえる。周囲の人々がいっせいに花京院をじろじろ見るのが、気まり悪くて仕方ない。
 「あ、ありがとうございます」
 小さい声で言って頭を下げる。まるで悪いことをして謝っている犯人みたいだ。
 視線をさまよわせ、すぐ後ろから顔を覗き込んできたおばさんと目が合ってうろたえる。相手は「あらまあー、かっこいい人だこと」と大声で言い、笑い声が起こり、どこの出身なのか変な訛りのあるそのおばさんが更に大声で「本当だでば。見てみらい、ほれ」と言い張った。花京院はあまりの気まりの悪さに気が遠くなった。息も絶え絶えに、
 「あの、賞品を、下さい」
 「はいーはい、こちらでーす」
 ―――――
 「で、もらってきたのがこれか」
 承太郎に訊かれてうなずく。
 そろそろやつが来る頃だなと思いながら承太郎がひとり玄関先に水を撒いていて、ふと視界に銀色のなにかがちらちらすると思い目をやると、例のででーんという門の向こうに花京院が居て、自転車を引いていた。
 この自転車ごと門をくぐっていいのだろうかそれとも自転車は外にとめるのだろうか、という目でこっちを見ている。承太郎は自転車を指で示し、中へひょいと招いた。
 「失礼します」
 がたがたとあちこち引っ掛かりながら自転車で門を乗り越え、入ってきて、
 「良かったのかな。表にとめても別にいいですよ」
 「構やしねえ。ところで、」
 「うん。今から説明する」
 というわけで花京院は今までのいきさつを話して聞かせた。母親に商店街のくじ引き補助券を山ほど渡され、空条さんのお宅に行く途中でくじ引き会場を通るから引いてきてと言われたこと。面倒だなあと思いながらもくじ引きの列に並んで順番を待ってガラガラポンとやったら金色の玉が出てきたこと。声のでかいおばさんたちに好奇の目で見られて甚だしくつらかったこと。そして、賞品はなにかと思ったら自転車だったこと。
 前カゴが付いている、銀色の新品のママチャリだ。中古などでは絶対ない。
 「これからはこいつで来るよ。なかなか軽快で良いんです」
 サドルを撫でながらニコニコしている。
 「やけに気に入ったようだな」
 「久し振りに乗ったら結構面白くてね。子供の頃乗っていた自転車を親戚にあげてしまってからだから…何年ぶりだろう。君は?」
 「言われてみると俺も数年乗ってねえな」
 「ははあ。素直時代に乗っていたきりだな」
 「なんだと」
 「ハハハ。使いたい時には言って下さい。いつでも貸してあげるから」
 さっきもらったばかりのくせにすっかり偉そうにオーナー気分だ。承太郎は可笑しくなった。
 「名前でもつけたらどうだ」
 「ああ、ナニナニ号みたいに。そうだなあ…うーん、思いつかないな。承太郎、何かいい名前はないか?」
 「法皇号でいいんじゃないのか」
 「法皇号って、オウオウうるさいよ。言いにくいし」
 「だったらハイエロファントグリーンにしろ」
 「この自転車は緑色じゃありません」
 だんだん承太郎の顔が面倒くさくなってきて、
 「もうちっと考えてみてからつけろ。水を撒くから手伝え」
 「はいはい」
 ハイは一回でいい、とか言うかなと思ったが言わなかった。その代わりという訳なのかどうなのか、やたらと水をぶっかけられた気がする。仕返しとばかりに花京院も手が滑ったふりをして目の前の巨人にお見舞いしたので、終わった頃には2人共ずぶぬれになっていた。
 「あはははは!はっくしょんはっくしょん」
 「うるせーぞ。はぁっくしょ」
 「そっちこそ」
 あらあらあら、とホリィがバスタオルと衣類を持ってやってきた。
 「着替えてちょうだい、花京院くん、はいこれ」
 「承太郎の服ですか?僕には大きすぎますよ」
 「大丈夫よ、兄さんのを借りたって思えば。駄目よ、風邪ひくから」
 「はあ」
 とは言ってもやはりちょっと躊躇している、その背に、なにかがすごい勢いでアタックしてきた。
 「うわっ」
 声を上げ、振り返ると案の定イギーで、今スタッと地面に降り立った。
 「なんだい、何の攻撃…」
 言いながらふと、もしや、という気がして、花京院は自分の背中をガラスに映してみた。案の定、はっきりくっきり犬の足跡の形に泥のスタンプが捺されている。
 「やってくれたなイギー」
 苦々しい口調で言うと、白黒の小型犬はいつもの「ヘッ」という笑い方をして、
 これであきらめがついたろ。おれさまに感謝しろよ。
 なんてやつだ、と花京院が言うより先にホリィが吹き出し、声をあげて笑った。きらきら輝くような笑い声は、ちょうど、夏の日にホースからほとばしる水の飛沫のようだった。


 花京院は快調にペダルを踏んで進んでいく。今日も承太郎の家へ向かうところだ。
 帰宅して母に「これが当たった」と自転車を見せた。母親は息子の強運に驚きの声を上げ、その次にじゃあこれから空条さんのおうちへは自転車で行くのねと言った。話の順番としてあまりにも当然のごとく空条家来訪の件が出てくるのが、なんだか気恥ずかしく、「う。うん」と口ごもり気味にうなずいた。そんな息子に対して「カゴがあるからこれからは空条さんのところにお土産を持って行ける。ちょうどいい」という内容のことを熱心に主張する母親に、同意と感謝とを示しつつ、どんどん増していく照れくささに困惑し閉口する。自転車が当たっておばさま方にじろじろ見られた時といい勝負だ。その時の気持ちを思い出して身悶えしてから、サドルの位置を直し、「母さんは全く…」とぼやいた。
 しかし、長いこと孤独で周囲から浮いていた息子が高校になり転校先で仲のいい友人が出来て、その相手の家に夏休みは日参なんて、とても嬉しいのだろう。その気持ちはよくわかるし、否定する気なんかない。その相手を最初殺そうとして転校したとか、典明・謎の50日間家出事件中はその相手や仲間たちと共にエジプトで死闘を繰り広げていたとか、話していないことがややあるというだけのことだ。
 前に「空条さんは、どんな人なのか」と訊かれた。今までの友人知人とどのへんが違うのか、どんな力で息子の心のドアを開かせたのか気になるのだろう。
 自分の命の危険を顧みず僕の額から肉の芽を抜き取って救ってくれた男だ。
 とはまさか言えない。無論だ。それに、その理由だけを強調するのも少し違う気がする。
 花京院は考えて、「とても強い、男らしい人間だ」と答えた。嘘ではない。本当の事だ。でもなんとなく、アルミホイルを一枚咥えているような据わりの悪さがある。そういう顔を親もしていたが、そうか、それは素晴らしいことだ、とうなずいた。そう言うほかはないのだろう。
 軽快に坂道を降り、イテーヨーカドーの近くまで来た時だった。
 「あっ」
 花京院が声を上げ、キィと自転車を止めて、
 「ホリィさん」
 「あら」
 振り返ったホリィが笑顔になった。ワンピースにサンダルを履いて買い物袋を下げている。袋からはお約束の大根が見える。そして、足元にはイギーが居て、面倒くさそうにこっちを見ていた。
 「花京院くん。今からうちに来るところかしら?」
 「そうです。あの、良かったら、」
 素早く周囲を見渡し、警察関係者が居ないのを確かめてから、
 「後ろに乗っていきませんか」
 「あら、いいの?」
 ホリィは迷いも戸惑いもなく目を輝かせ、軽やかに近づいてきた。2人乗りに一片の躊躇なし。さすが承太郎のお母さんだ、と感心して、
 「あ、それ、下さい」
 「あらありがとう」
 花京院は買い物袋を受け取ると前カゴに入れた。ママチャリで良かった、かっこいいスポーツタイプのやつだったらカゴなんかついていない。
 次にホリィは手を広げて、
 「だっこしていってあげるから、おいで、イギーちゃん」
 イギーが「げぇっ」という顔になったように花京院には見えた。可笑しくて吹き出しそうになったがぐっとこらえる。
 「何してるの。ほら早く」
 勘弁してくれよ。仔犬じゃないんだぜ。
 プイっとしてトコトコ歩き出す。
 「あらイギーちゃんたら。意地っ張りねえ。家はこの先に坂の上にあるんだからくたびれるわよ。ほら、おいで」
 しかしイギーは尻を向けたまま歩いて行く。するとホリィはいきなり手を伸ばしイギーを抱え上げた。
 なっ。何しやがる。はなせ。
 じたばたしているのを抱え直し、次に荷台を見てちょっと考えてから、横ずわりの姿勢でよいしょと座った。多分、一瞬跨ろうかと思ったのだろうが、さすがにスカートではと思い返したのだろう。
 片手でイギーのおなかを抱え、もう片方の手を花京院の腹部に回してつかまり、
 「じゃあお願い!」
 「わかりました」
 足でとんと地面を突いて自転車を発車させ、こぎ始める。まだイギーはちょっと暴れていたようだが、あんまり暴れるとホリィが危険だと思ったのか、諦めて大人しくなった。
 新品の自転車はなめらかな路上をすいすいと快調に走っていく。
 「うふふ、楽しいわね」
 後ろから本当に楽しそうな声が聞こえて、花京院も笑ってから、
 「気持ちいいですね」
 「本当に気持ちいいわ。イギーちゃんもどう、楽しい?」
 俺は自力で走った方がいいんだけどな。
 鼻を鳴らすような音が聞こえたが、ホリィは敢えてにこにこして、
 「たまにはいいでしょう?風に吹かれながら、自転車に乗って。面白いわ」
 ゆったりしたカーブをすーいと回る。ホリィのはしゃぎ声を聴きながらぐいぐいとこいでいく。ここから上り坂なのだ。ちょっと後ろにご婦人を乗せたくらいでへたばっては、「やっぱり花京院くんてモヤシね」と思われてしまう。それはいやだ。「花京院くんてひ弱に見えるけど結構たくましいのね」と思われたい。この辺でひとつ、法皇の緑こと花京院典明の体力と運動神経を披露しようではないか。
 きこきこきこきこ
 「すごいわ花京院くん!やっぱり男の子ねえ」
 「ははは。それほどでも」
 頼もしく聞こえる笑い声を作りながら脚を全力で回す。思ったより坂が長く、また急で、実のところちょっと危ない感じだ。
 (頑張れ僕。ホリィさんにいいところを見せるんだ)
 こめかみに血管を盛り上げてグイグイこぐ。こぎまくる。車体が左右にぶれそうになって懸命に軌道修正する。あれ〜、おととと、でくるりと回ってしまうのは無しだ。
 (あと、あとちょっと)
 坂を、なんとか、かんとか、のぼり、きっ、
 た。
 「おう」
 坂をのぼり切ったところに承太郎がいた。手にはバケツを下げている。いつものように道に水を撒いていたらしい。
 承太郎の目には、激しくあえぐ呼吸を必死で宥めながら平気そうなふりをしている花京院、荷台に横ずわりで楽し気にニコニコしているホリィ、こんな状況からは逃げ出したいが仕方なく我慢しているイギーの三者三様が映っていた。
 「あら承太郎!偶然花京院くんに会って、乗せてきてくれたのよ。花京院くんって一見細いけど、頼もしいのね。この坂を楽々のぼってきちゃったのよ」
 滝のような汗をかいて口の端から荒い呼吸を逃がしている男の顔を見て、楽々ではないようだがな、と思ったが、まあ敢えて口には出さなかった。
 「イギーちゃんも最初は嫌がってたけど途中からとっても楽しそうだったわよ。ねえイギーちゃん」
 後ろから両方の前足を掴んで、「ぱぱんがぱん。ぱぱんがぱん」といいながらイギーに手拍子を打たせて可愛いわ〜と言っている。イギーはもう、つきあいきれない顔で、手拍子を打たされている。
 3秒ほどそれらを眺めてから、
 「なるほどな」
 とだけ言った。
 「花京院くんのお陰で早く帰って来られたわ。みんなでかき氷食べましょ。さあ早く家に入って」
 ホリィはぽんと荷台から飛び降り、抱えていたイギーを地面におろした。イギーは大急ぎで離れていった。
 カゴからエコバックを取り、
 「どうもありがとう花京院くん」
 「いえ、どういたしまして」
 なにげなく返そうとしたが声が裏返って咳き込んだ。慌てて抑えようとしたが更に咳が出た。抑えよう堪えようとするとよりひどくなり、えずいた。
 承太郎が無言でさりげなく背中をさすってくれた。


 それ以来、花京院が承太郎の家を目指して自転車でやってくると、たびたびイテーヨーカドーから出てくるホリィに出くわした。
 「ホリィさん、乗ってください」
 「あら。ありがとう」
 そのたび荷台にホリィを乗せた。彼女の膝にはいやそうなイギーが抱えられている。
 「最初からホリィさんが買い物に来る時間に来て待ってましょうか」と申し出たが、いいのいいの!と手を振られ、偶然会った時だけでいいのよ、と力強く言われてしまった。
 まあ、そういうものかもしれない、と思い、わかりましたとは言ったが、なるべくだったら送ってあげたいと思い、それから店の前に来た時はちょっと止まってホリィが出て来ないかと探した。店内にホリィが居る時は、イギーが外の駐車スペースあたりをうろついていたのですぐわかった。
 「やあイギー」
 よう。承太郎の母親は中だぜ。
 「首輪やリードはつけてないのか」
 あんなもの絶対拒否だ。冗談じゃねえ。
 「君は大型犬じゃないから、その辺をうろついていても警察は来ないだろうけど、」
 ちょっと見回す。少し先にいた小学校高学年くらいの女の子が、「飼いたい」みたいな顔でイギーを見つめている。
 「君の見せかけの可愛らしさや高価そうな外見に目のくらんだ犬さらいにさらわれてしまう可能性があるぞ」
 なんだその言いぐさは。ふん、どこの誰だろうとこの俺がさらわれるようなマヌケをやらかすもんか。
 「まあ君なら大丈夫かとは思うけど」
 などと言っていると中からホリィが出てきた。あら!と目を輝かせて、
 「待っていてくれたの?いいって言ったのに。でもありがとう」
 「遠慮せずタクシーの荷台に乗ってください」
 「ありがとう」
 微笑んで、荷台に横ずわりし、イギーちゃんと声をかけた。イギーはけっと肩をすくめ…たいが、自分の骨格では出来ないのでただため息をつき、前よりは早めに諦めてホリィの膝へぽんと飛び乗った。何をどう逆らおうと、この柔らかい栗色の髪と明るい笑顔を持った婦人はその屈託のなさでぐいぐい押し通してしまうことが、だんだんわかってきたのだった。
 わっせ、わっせと頑張って坂を上る。何日か上るうちにだんだんコツがつかめてきた。無論まだきついが、初日のような危うい感じはだんだん減ってきた。
 汗を垂らして上ってゆくと、坂の上でいつも承太郎が眺めているのが見えてくる。まるで部活の上級生か監督のようだ。「よーしあと10回」とでも言いそうだ。お互い、すっかりお馴染みの光景になってしまった。

 今日は出るのがいつもよりちょっと遅くなってしまい、花京院はちょっと焦って自転車をこいだ。「偶然会った時だけでいい」と言われはしたが、それはそれ、やはりちょっとは「今日も花京院くん来るかしら」と思っていることだろう。
 好きな人に期待されたらそれに精一杯応えたいと思う。花京院はもともとそういう人間だ。だがそんなふうに思う相手は17年間居なかった。それが今は何人も居る。本当に嬉しいと思う。
 角を曲がる。入り口が見えてきた。と、そこからちょうどホリィが出てきて、向こうへ歩いて行く姿が見えた。片手に袋を下げている。もう買い物を済ませたらしい。
 ホリィの足元にはイギーがとことこついていっている。顔をそっちに向けて、何か話しかけた。
 花京院が後ろから声をかけようとした時だった。
 ホリィは歩道を歩いていたのだが、その時後ろから車道をものすごい勢いで一台の原付が近づいてきた。そして、追い越しざま、ホリィの手から買い物袋をひったくった。
 「あっ」
 反射的に袋を捕まえようとしたホリィだが、フルフェイスのヘルメットをかぶった男は彼女の手を乱暴に振り払った。
 「きゃあっ」
 声を上げホリィが転倒した。
 「ホリィさん!」
 花京院が大声を上げた。瞬間、砂色の巨大な生き物が出現した。犬のように見えるそれは、ホリィを受け止め、地面に激突するのを防いだ。イギーだ。
 「大丈夫ですか」
 「あ、花京院くん、…大丈夫よ、どこも打ってないから」
 ブブブブという音の方を見ると、ホリィの買い物袋をひったくった男が原付で逃げていくところだった。
 「あいつっ」
 花京院の胸に怒りの炎が噴き上がり、次の瞬間たーんと地面を蹴って自転車を猛烈な勢いでこぎ出した。と、イギーもジャンプして花京院に飛びつき、前カゴまで移動して乗り込んだ。花京院くん!危ないわ!止まって!というホリィの声が後ろでした。しかし、花京院は止まらなかった。
 (ホリィさんにあんな真似をしたな!絶対に捕まえてやる!財布やネギを取り返して、謝らせてやる!)
 きこきこきこきこ!
 しかし相手は原付である。自転車を必死でこいでもなかなか追いつくものではない。怒りのエンジンで足を回転させているが、追いつけない。
 おい!
 前カゴのイギーが振り返った。
 次の角を右に入れ!
 思い切り首を伸ばして、こっちへ、こっち!と示している。
 「曲がれっていうのか?何故?」
 いいから曲がれ!あの野郎をとっつかまえてギュっという目に遭わせてやる!
 イギーの目に閃く決意と闘志を見て取って、
 「よし、わかった!」
 何を意図してかわからないが、花京院はぐぅんと右へ曲がった。
 細い道はやがて上り坂になっていく。
 「こ。これ上っていくのか?」
 いいからさっさと上れ。
 「くそー!」
 きこきこきこきこ。
 道はやがて高台の公園で終わりになっているようだった。
 「イギー、もう終点だ、どうするつもりだ」
 こうするんだよ。
 ぶぁあっと音がして、花京院の目の前に、翼を広げた砂の犬が出現した。
 (愚者)
 驚く間もない。自転車の先はもう、柵で終わりだ。その先は崖だ。
 そのまま真っ直ぐだ!
 「ちょっ、待、え、イギー!うわ」
 絶叫と共に花京院の乗った自転車は宙に飛び出した。眼下遥かに街並みが広がっている。
 「のほーーー」
 のような悲鳴を上げる。しかし花京院は落ちなかった。愚者が花京院を左右から挟み、空中に吊ってくれている。花京院が跨っている自転車、前カゴのイギー、皆一体となって、夏の夕暮れの空を滑空した。
 花京院は必死で自転車をこいでいる。今現在、彼のペダル踏みは飛翔能力に全く関係ないのだが、こがずにいられない。ハンドルをぎゅーっと握りしめ、歯をくいしばっている。イギーは前カゴから身を乗り出して下の様子をうかがっている。
 結構重いだろうが落とさないでくれている。愚者には自分で羽ばたいて飛翔する能力はない、というのは砂漠の戦いの後に聞かされたが、今は充分な高さがある。びゅんびゅんと風を受けながら飛ぶうちに、
 居たぞ!
 「あっ」
 模型のような街の中を必死で逃げている原付が見えた。さっきのひったくり犯だ。
 とっつかまえるぞ!
 「よし!」
 愚者が向きを変えた。
 下の方では皆大声を上げてこっちを見上げ、指差している。
 「空飛ぶ自転車だ」
 「男が乗ってるぞ」
 「犬もだ」
 「信じられない。どうやって飛んでるんだ」
 よし、逃げ切ったな。中のサイフと、高そうなものだけ物色しようと思いつつ、今では速度を落として普通に走っていた男は、ふとなんだか周り中が騒いでいる、なんだろう、と思った。皆自分の後ろの方を見て指差している。肩越しにちらっと振り返ってみた。そして仰天した。
 背後数メートル上空を、空飛ぶ自転車に乗った男が、自分目掛けて飛んでくるところだった。
 声を上げてスピードを上げる。
 「逃がすか」
 花京院が法皇を放つと、瞬時に男と原付に巻き付いて絞り上げた。突然ブレーキがかかるし身動きも出来なくなり、「え、何」と言っているところへ、前カゴに乗っていた犬が猛然と飛びかかった。
 「ぎゃああああ」
 もう容赦なしだ。あっという間に男は小さくて狂暴な犬にめためたのズダボロにされ、路上に転がってぴくぴくしている。
 ふん、チンピラめ。ざまあみろ。
 四肢を踏ん張り、歯を剥き出して笑う。その後ろでは花京院が自転車もろとも地面にひっくり返っていて、
 「愚者が消えた途端に落下した」
 なんとか立ち上がったがあちこちすりむいて鼻血を出し、肩で息をしている。髪も乱れてなんだかやつれている。
 「とにかく、戻ろう」
 と、周囲の人間が「君、どうやってたの」「今のなに。トリック?」だのと寄ってきた。何を勘違いしているのか「握手してください」だの言ってる奴もいる。
 (なんだかこの前から、目立ちたくもないのに目立ちまくってばかりいる。こういうのは苦手なのに)
 疲れと羞恥で眩暈がする。いえあの、ちょっと、すみません、あの、ともみくちゃにされていく。
 なんだよ。情けない野郎だな。さっさと動こうぜ。
 イギーは呆れた唸り声を出した。


 「で、こうなったのか」
 承太郎の手には新聞があった。テレビ欄から数えて2ページ目あたりに、小さな記事が載っている。
 『お手柄 高校生と愛犬 ひったくり犯を御用』
 どこぞの警察署で、ヨレヨレになって鼻血をなすったような花京院が、緊張とぐったりの入り混じった表情で賞状を受け取っている。足元にはそっぽを向いてあくびをしているイギーがいる。
 記事の後半には、「なお、少年と犬が空中を自転車に乗って飛んできたという証言が沢山あったが、本人に訊いてもよくわからないとの答えだった」とあった。
 「砂漠の時みてーに飛んだのか」
 承太郎に訊かれてイギーは新聞に載っているのと同じような顔をしてみせた。
 「自転車と僕をまとめて吊ったんだから、結構重かったと思うよ。君ひとりより重かっただろう」
 「だろうな」
 こいつと自転車よりも、お前ひとりの方が重かったぜ。
 「おい、てめえ」
 ブヒヒという笑い声と、「あはは」という笑い声が同時に上がった。
 「さあ、皆で食べましょ」
 ホリィが言いながらやってきた。手にはスイカの乗った皿だ。
 3人は縁側に座り、よく冷えたスイカにかぶりついた。
 「はい、イギーちゃん」
 ホリィの手からスイカをもらって、イギーもかしゅかしゅとスイカにかぶりついた。
 一心不乱にスイカを食べているイギーの姿を、ニコニコと眺め、それからもたもた食べている花京院を見て、
 「あら」
 「え、なんですか」
 「まだここの擦り傷が治ってないわね」
 指で、そこ、と頬骨の辺りを示されて、ああ、と照れ笑いし、
 「大丈夫ですよ。もう痛くないし。押さなければ」
 押してやろうかな、という気配が下の方からあって、花京院はホリィに笑顔を向けたまま自分の左手を防御するように下方へ構えた。
 ウフフと笑ってから、ホリィはしみじみと、
 「あの時は本当にふたりとも優しくて勇敢だったのよ承太郎」
 「ほう」
 「あ、いえ。もう気にしないで」
 花京院が赤くなって手を振りまくっている。
 「ふたりともものすごい勢いで犯人を追いかけていったし、なによりもね」
 にっこり笑って、
 「私がひったくりに突き飛ばされた時にね、イギーちゃんがとっさに私をかばってくれたの。地面に倒れて頭を打たないように」
 「そうか」
 「うん」
 今度は花京院も笑顔でうなずいた。イギーはうるさいうるさいといった風でひたすらスイカを食べている。
 「本当に嬉しかったわ。ありがとう、イギーちゃん」
 ホリィは手を伸ばして、イギーの小さな頭と背を撫でた。イギーは振り返って飛びついたりはふはふ言うようなことはしなかったが、ただしっぽだけが左右にぴこぴこと揺れた。

 スイカタイムの後、承太郎と花京院は図書館に行くことになった。
 自転車が来てからはずっと承太郎の家で勉強していたので、2人で出かけるのは初めてだが、
 「どうする。バスか電車で行くか?」
 「2ケツで行くに決まってるだろうが」
 当然のごとく言われた。そりゃそうだろう。相手は空条承太郎なのだから。
 「わかった。じゃあ頼む。なるべく警察の居ないところを走ってくれよ」
 「何言ってる。お前の自転車だろう。お前がこげ」
 「えっ」
 承太郎はにやりと笑うと、自転車の荷台にどっかりと座った。自転車がまるで三輪車のように見える、と花京院は思った。
 とかなんとか言いながら路上に出たら交代してくれるのかな、と思ったがそんなことは決してなかった。花京院は重い荷物を荷台に背負って、うんしょうんしょと走った。ふと花京院が、
 「承太郎」
 「なんだ」
 「この自転車の名前、やっぱり法皇号にします」
 「そうか」
 行くぞ、法皇号!と叫んでから、どうもオウオウがな…とぼやいて、
 「ゴを鼻濁音で言わない方がいいのかな。どう思います」
 「知らねえ」
 そっけなく言って、荷台に体重を掛けた。法皇号はちょっとウィリー状態になり、花京院が変な声を上げた。

[UP:2015/09/28]


 タイトルは「E.T」から。のりあき・かきょういんでN.Kです。あとクライマックスシーンで音楽も流したかった。御存じの方は脳内で流して下さい。お願いします。
 花京院は多分平気でスイカを食いまくって種を吹き出すと思います。冒頭部は嘘です。
 イギーの言葉をクルセイダースたちがどの程度理解していたのかは人によっていろいろだと思います。承太郎さんが花京院復活の時「イギーの声じゃなかった。人間の言葉で俺たちを呼んだんだぜ」と言ってましたし、イギーがある種の漫画みたいにべらべら人語を話すわけではないのは確かですが、私は、普通の犬よりもう半歩くらい具体的に理解できている感じで考えてます。違うーという方にはごめんなさい。
 で、ホリィさんが、愚者が見えて、その力でE.Tみたいなことになっているのを「わあ〜」と思いながら見ている、つまりホリィさんにもスタンドが見えるというふうにしていたのですが、そこまではっきり書くのもなあと思ってやめました。
 花京院のお母さんがどんな口調で話すのかは、例の花京院のモノローグ内で教師との会話でまあ普通の女の人、とわかってはいるのですが、なんか勝手に「典明。ナニナニしなさい」等とやるのがどうもやりづらく、いつも逃げ腰です。
 今回は承太郎と花京院がさっぱりくっついてなくてすみません。


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