Cendrillon


 部屋のソファにひっくり返ってぐーぐー、いぎたなく眠っているところに、電話のベルが鳴る。
 「ん、」
 ヨダレをすすって手を伸ばし、受話器を取り、
 「アロー」
 寝起きのむにゃむにゃしたしゃがれ声が、
 『こんばんは、ポルナレフ』
 耳から入ってきた、低く笑いを含んだきれいなフランス語の発音を受け止めた後、
 「お前か、花京院」
 けたたましい大声に変わった。がばと上体を起こす。銀髪はぐしゃぐしゃだ。
 「久し振りだな!元気か。どうしてる」
 相手はあの、過酷にして、人生の中でそこだけ特別な色合いをたたえた五十日を、共に渡った仲間のひとりだった。あれから数年が過ぎ、今では各々の場所に散ったが、無論あの「何でも言い合える」同士としての気持ちは変わっていない。
 しかし年下の知性派な東洋人は、こっちの興奮と比べるといささかクールな口調で、
 『なんとかやってます。君は?』
 「もちろん、絶好調だぜ」
 それはよかったという型通りの慣用句の後、やはりそっけない口調のままで、
 『で、このたび、君のその絶好調の姿というのを、実際に見せてもらえるチャンスに恵まれまして』
 「なんだと?」
 一瞬きょとんとしてから、はっとして、
 「おめー、来るのか、ここに」
 『学会がフランスであるのですが』
 「ばかやろう!いつだ。それまでにがしがし仕事してトゥール・ダルジャンで御馳走くわせてやらなきゃならねーだろうが」
 口からツバを飛ばしてわめいた。受話器の向こうでは苦笑と、それはありがたいという言葉が聞こえた。
 『腐っても三ツ星ですか』
 「今はネームバリューばっかりだ、って悪口も聞こえるけどな。ま、鴨のテリンヌに舌平目だな」
 『楽しみにしています。来月中旬というところですが詳しい日程は決まり次第』
 ではよろしく、とまるで仕事の打ち合わせみたいな調子で切り上げ、電話は切れた。
 受話器をまじまじと眺め、
 「ったく、あのヤローは」
 そこまで呆れたような腹立ちのこもったような声で言ってから、はははと笑う。あれは、あの男の照れ隠しなのだ。
 花京院よりも精神年齢は下のように見受けられる男だが、そのへんのことはもちろん、見抜いている。もう一人の高校生も、精神年齢はポルナレフより随分年嵩だったし、嬉しさを嬉しさとして表わすような、素直なコドモでは、ふたりとも無かった。
 ここは、嬉しがっておくのが礼儀だ、大人のつきあいだ、たしなみだという場面であれば、花京院はいくらでもにこにこしてみせる。だが、本当に心から嬉しい時には、ああ嬉しい!とバンザイする性格ではない。
 バンザイしまくるタイプの男は、しばらく一人で笑っていたが、
 「さぁて、割のいい仕事をさがさねぇとな!」
 そう声に出して言い、口笛を吹きながら部屋を飛び出して行った。

 翌日朝、ポルナレフは集団の一員となって、とある豪邸の門の前に立っていた。仕事の差配がリストを見ながら一同を見渡し、
 「点呼をとるぞ」
 小汚い格好をした面々は、うぉい、うおっす、はい、と返事をしながら、彼の背後に聳える巨大な屋敷を、ただぼぇーっとして眺めている。
 「えーっと、ジャン」
 「はいよ」
 「いるぜ」
 「おう」
 同時に三人が返事をした。差配はリストの、『ジャン』という名の人間の数を数え、
 「三人居るな。よし」
 済ませてしまった。
 「おおざっぱだな」
 「とにかく、頭数がそろってりゃいいんだろうぜ」
 別のジャンがポルナレフに言った。ハンチング帽を被った金髪の、まだ若い男だ。
 「こんなでかい屋敷に入ったことねえよ、俺は」
 「俺もない。これ以後もないだろうさ。まるで城だな」
 ポルナレフも呆れ顔で頭を掻いた。
 「来月ここで舞踏会があるって?それでわざわざ人を雇ってお屋敷の大掃除なんだろ。別世界のハナシだな」
 「これだけでかい屋敷なら、貴重品もゴロゴロしてるんだろうなあ」
 もう一人のジャンは気弱そうな初老の男だった。鼻の頭が赤い。呑み助なのだろうか。おどおどと、
 「フランス国王から拝領したツボなんてのもあるんだろうな。もし、モップの柄でドンと突いて叩き壊したらどうなるんだ」
 「具体的だな」
 ポルナレフや他の面々が笑ってから、なんとなく静かになって、
 「まあ…うん」
 「やばいだろうな」
 「弁償させられるのかな」
 「弁償できる額じゃないだろう」
 「保険くらいかけてあるって。安心してどんどん叩き壊せ」
 ゲラゲラと誰かが笑った時、冗談じゃないぞと差配が真っ青な顔でこちらを睨みつけてきた。
 と、ギィと門扉が開いた。
 「皆さん、ご苦労様です。宜しく、お願いします」
 ややたどたどしいフランス語で言って、ぺこりと頭を下げたのはまだ若い娘だった。黒い肌に、メイドの真っ白いエプロンがはえる。
 「あんたはここの屋敷のメイドさんかい」
 誰かが尋ねるとハイと頭を下げ、
 「そうです。皆さんの、お世話を、するようにいいつか、いいつき、いいつ…」
 「いいつかったんだな。わかったよ」
 皆笑うが、「嘲笑う」というようなものではないのがわかったのか、メイドは頬を染めてぺこぺこ頭を下げ、
 「はい、いいつ…かっ…て、おります。宜しく、お願いします」
 「君、名前はなんていうんだい」
 ポルナレフが訊ねる。
 「セシリア、と、申します」
 「可愛い名前だな。俺はジャンピエール」
 ウィンクする。セシリアが赤くなった。途端に、
 「出し抜く気か。俺は…俺もジャンだな。くそ」
 「俺はアンリ」
 「お、俺もジャンだよお嬢ちゃん」
 わらわら騒ぐ。セシリアは戸惑いと喜びの笑顔で、また頭を下げてから、こちらへどうぞといって一同を中に通した。
 門扉から延々と、正面玄関への道が続く。ちょっとした公園だ。
 一同を幾人かの部隊に分け、めいめいに、メインのロビーを、ホールを、舞踏室を、と割り振っていく。最後に残った五人を振り返って、
 「皆さんには、こちらの、はなれの方を、お願いします」
 おーす、と全員腕を振り上げる。ポルナレフもその中の一人だ。
 おやじのジャンが、思案げに、
 「はなれなら、拝領ツボは置いてないよな」
 「まだそれ気にしてたのかよ」
 呆れてから、セシリアを振り返り、
 「あるかな?国王から拝領したツボ」
 笑って答えるかと思いきや、セシリアは真面目な深刻な顔をして、
 「『こくおうからはいりょうしたつぼ』とは、なんでしょうか」
 「つまり、金ぴかで、カネのかかったたっかいものが、ちんれつ…並べてあるかな?ってことさ」
 「ナイ、と思います。奥様は、お金のかかったものは、お客様の目のつくところに、並べる方ですので」
 一同がどっと笑ったが、その真っ直ぐな目と心で当家の女主人を痛烈に批判したなどという意識のない外国人のメイドは、当惑し、おろおろして、
 「わたしは、なにか、おかしなことを、いいましたか」
 皆一様に、言ってないよ、と手や首を振った。
 「セシリアちゃんは、どこから来たんだい」
 おやじのジャンが尋ねる。
 「このお屋敷の、メイド部屋から来ました」
 「あはは。そういう意味じゃないよ」
 「おくにはどこだいって聞いたのさ」
 あ、と顔を赤らめ、アメリカです、と言った。
 「親戚の、知り合いの、知り合いが、口をきいてくれて、ここに住み込みで、働かせていた、いた、いただだ、くことができました」
 「出稼ぎか。大変だなあ」
 「大丈夫です」
 ニコニコしている。
 「まあ、このお屋敷なら、いくらケチでもお給料はあんたの近所のパブで働くよか、出すだろうけどなあ」
 「なんでまた、海まで渡って。金が要るのかい」
 「おい、あんまり立ち入るなよ」
 「立ち入ってんじゃねえよ。別に言いたくないなら言わなくたっていいし」
 もめている面々に困って、
 「いいのです。父が、事業に、失敗したのです。それから、母が、体が弱いのです。それから、兄弟が、多いのです」
 「ああ」
 気が滅入る内容を一生懸命、たどたどしい言葉遣いで説明されて、一同は一様にうつむいた。いかにも聞いたことのあるプロフィールだが、自分の身に起こればそれは現実だ。
 やがて皆顔を上げて、
 「がんばれよ」
 「応援してるぞ」
 「困ったことがあったら何でも言ってくれ」
 口々にそう言い、セシリアは恥ずかしげに、また嬉しそうに、ありがとうございますと頭をさげた。

 母親が買ったり、デザイナーに作らせてよこすドレスは、どれもこれも自分に合わない。背丈や髪の色や目の色、肌の色のことなんか何も考えず、ただひたすら『このドレスに、金がかかっていることがわかるか否か』しか頭にないからだろう。
 下品だと思う。
 それなりの家柄の出だというが、とても信じられない。まるっきりナリキンの考え方なのだ。なぜあんな恥ずかしい女が自分の母親なのだろう。
 いや、姉たちも、母親のミニチュアみたいなもので、とても話は合わない。父は最近つくった愛人に夢中でここにはさっぱり帰ってこない。顔も声も忘れそうだ。
 「精神的、賎民だわね、この家の人間は。誰も彼も」
 冷たい口調で断定すると、自分には合わないゴテゴテしたピンクの服を翻して、はなれの、一番階上の部屋に向かう。下ではなにやら汚らしい格好の貧乏人連中が掃除に入るという。顔などあわせたくはない。あんな薄汚い連中は、相手がこの家の令嬢だとわかると、にわかに両手をすり合わせて「こんにちはお嬢さま」と言いながら臭い体で近づいてくるのだ。おぞましい。
 この部屋で本を読んでいる時が一番落ち着く。ここには家の連中は来ない。下品な肉親や、臭く汚い下賎な人間などと口をきくくらいなら、崇高で輝くような物語世界に浸っていた方がずっとましだ。
 いつものように窓際に行き、両開きの窓を外に向かって開ける。側の揺り椅子に座って、『ΟΔΥΣΣΕΙΑ』と書かれた分厚い本を、側にある小さな机の上に開こうとした。
 ぶーん!と羽音を立てて、金色の大きな蜂が窓から飛び込んできた。動転する。こういう時は暴れてはいけない、と自分に言い聞かせながらも、『スズメバチは向こうから攻撃してくる』と誰かがしたり顔で言った言葉も思い出される。
 こんなに巨大なのだもの、きっとスズメバチだ。襲われるのだ。
 じりじり後じさりするが、どぎついピンク色の服やコロンの匂いを花と思ったものか、蜂はうなりながらまとわりついてくる。
 「きゃあ!」
 パニックに陥って思い切り本を振り回した。
 本は大きくて重い。とても膝の上では読めないくらいには、だ。
 華奢な手と体が、本の重さに連れてゆかれる。
 蜂が迫る。夢中で飛びのく。
 窓の枠に腰がぶつかって浮いた。

 金ぴかなものは大広間や食事の部屋に並べて磨く主義なのであろうが、目につかない場所は手を抜く主義でもあるらしい。はなれは普段あまり使われていないのかやたら汚かった。
 「部屋の中にくもの巣がはってる豪邸って、恐怖映画でしか見ないよな」
 床を磨く準備をしている、若い方のジャンに言われて、いえてるなと返事する。ポルナレフは長身だったので脚立に乗って、上の方の埃を払っていた。
 「げほげほげほげほ」
 いつから払っていないのかという状態だ。せっかくのガラスの装飾が、逆にみすぼらしく見える。
 一通り払った後は、もうくしゃみが止まらなくなっていた。
 「たまんねーな」
 「ハウスダストってこういうのか?」
 「いやあ、普通はもう少し控えめだろう、ハウスダストも」
 「こいつは親玉だな」
 バカなことを言いながら、頭からタンクトップの上半身から、いや全身ホコリとくものすだらけの格好を、なんとかしたいと、窓から外へ出ようとした。このまま掃除をしたらかえって、掃除した箇所が汚くなる。
 ひょいと窓枠を乗り越えた時、上からなにやら激しい物音がした。暴れているような音だ。
 「ん?」
 なんだろうと上を見て仰天する。ピンクの何かが降ってくるところだった。
 咄嗟に手を伸ばす。ぼすっ!という衝撃に耐えて、ポルナレフはそのピンクのものを地面に落とさなかった。が、落ちたものもあった。
 「きゃっ」
 悲鳴が上がった。ポルナレフがはっとして見ると、今はなれから出て行くところだったセシリアの肩あたりに、落ちてきた何かがぶつかったらしい。かなり重量のあるかたいものであったようで、反対側の手でその箇所をおさえながら、今うずくまってしまった。
 「おい、大丈夫か!」
 ポルナレフが大声で叫んだのと同時に、他の連中が窓から外に出てきて、彼女に駆け寄った。
 「どこだい。どこを打ったの」
 返事が無い。苦痛を堪えるのが精一杯らしい。
 「何が当たったんだ。これか?なんだこれ」
 言いながら若いジャンが足元に落ちていた、大判の分厚い立派な装丁の本を持ち上げた。
 「こいつが当たったんじゃ大変だ。すぐ冷やさないと。外傷はないのか」
 「セシリアちゃん、血は出てるかい」
 懸命に、大丈夫です、と言おうとしているが、まだ痛くて声が出せないようだ。
 と、ポルナレフの手の中から、
 「それは私の本よ!」
 きつい声が飛んだ。皆びっくりしたが、ポルナレフが一番びっくりしただろう。何がなんだかわからないまま咄嗟に受け止めたものが、いきなり怒鳴り出したのだ。
 両腕の中には、栗色の髪を凝った髪形に結い、ゴタゴタしたピンクのドレスを着た、色白で鳶色の目の、十歳くらいの少女が居て、身を乗り出し、
 「私の本を地面に落としたの?なんてこと!ちゃんと受け止めなければダメじゃないの」
 「もうしわけ、ございません、おじょうさま」
 苦痛をこらえて謝罪する相手に、いらいらと、
 「気のきかないメイドね。もういいわ、クビよ」
 「お、おまちください、どうか、それは」
 「ダメよ。私の本を落としておいて、何の…」
 全部言えなかった。自分が落とされたからだ。
 シリから、地面にどすん!と落下し、痛みよりショックで、言葉が途切れた。何が起こったのだ。
 尾てい骨からのぼってくる痛みに耐えながら目を上げる。そこには、背の高い、埃まみれ汗まみれの汚い格好をした男が自分を見下ろしていた。銀髪をおっ立て、空のように青い目をしている。顔は特に怒っていない、むしろ平然と見えるのだが、なぜか、この男が腹を立てていることが、娘にはわかった。
 一瞬怯んだその時、
 「肩を見せろ、セシリア」
 メイドの方へ行ってしまった。ぽかんとして、その背を見送ってから、にわかに憤りがこみあげてくる。
 なんだというのだ。
 いきなり人を地面に放り出して、ああ!地面が濡れている、大慌てで後ろを見るとドレスはもう泥だらけだ。
 それに、自分を受け止めたらしいあの男は、あんなに汚い格好をしているではないか。まさか、と自分の服を見ると、あちこち埃で白く、くもの巣がひっかかり、灰をかぶったような有り様になっている。
 「何なの、これは」
 声を張り上げたが誰もこっちを見ない。それどころではないという様子で、メイドに群がっている。こっちなんかほったらかしだ。
 「ちょっとごめんな」
 襟をくつろげさせ鎖骨まで出し、その辺りをちょっと押したりさすったりしてみる。う、と苦痛の声が上がったが、
 「骨は折れてないみたいだな。良かったぜ」
 ほっとした声でいい、
 「でもすぐ冷やした方がいい。腫れるぞ。メイド部屋はどこだ。連れてってやる」
 「大丈夫、ですから。それより、おじょうさまが」
 「え」
 ここにきてようやく、皆ピンクの方を見た。豪華というより華美なドレスを泥まみれの埃だらけにして、怒りに震えている娘は、同情するよりはやはり滑稽で、笑いそうになったが、
 (メイドが、おじょうさまと呼ぶからには、この屋敷の令嬢なんだろう)
 なんだその格好、といって笑う行動は、あまりすべきでないことはわかる。まだ一日目の給料ももらわないうちから、クビをとばされたくはない。
 なんとなく泥人形みたいな様子で固まってる一同を眺め回し、そして先頭のポルナレフを睨みつけて、
 「私はこの屋敷の末娘よ。私をこんな格好にして、どういうつもりなの」
 「ひとつきくけど」
 ポルナレフが、あの本を片手で持ち上げた。
 この本は、君が落としたんだろ」
 「ええそうよ。そう言っているでしょう。下にいたくせにちゃんと受け取らないような気のきかない使用人は、クビに」
 片方の肩をそびやかして、ポルナレフは、
 「君はレディじゃないな」
 やはり、激昂して怒鳴ったりしていないのに、腹を立てているのがわかる声で言い放って、近づくと、
 「なにをす…」
 相手の手を取ってその手にぼんと本を乗せ、
 「君が気安く言う『クビ』て言葉は、あの子にとっては死活問題なんだぜ」
 娘の眉にしわがよる。何を言われているのかわからないという顔に、
 「自分で意味のわかっていない言葉をふりまわすのは、おばかさんだ」
 背を向けると、セシリアに手を貸して立たせ、手当てをしようと言い歩き出した。
 「痛むかい」
 「平気です、あの、それより、」
 「いいから」
 大丈夫かい大丈夫かいと言いながら皆ぞろぞろついていってしまい、誰も居なくなった。
 娘は呆然と突っ立っていた。
 腹は立つ、当たり前だ。ついさっきまでだって、耐えがたい屈辱に全身震えていた。
 今はどうだろう。
 怒りと、それから、それだけでないものがあった。衝撃であり、それを受けている自分に腹が立ち、しかしどうにも途方に暮れるような気持ちが、手の上に乗せられた本の重さの分、自分の中にあった。

 メイド室につれていくと、仕事をさぼって一息ついていたほかのメイドもびっくりして、湿布したり包帯を巻いたりした。こじらせないといいが、と思いながら翌日も掃除に来てみると、
 「おはよう、ございます!」
 気も声も張って、出迎えてくれた。無論、ムリはしているのだろうが、懸念したほどの悪化はしていないようだ。
 よかったよかったと皆で喜び、昨日の続きの掃除をし、昼休みになった。
 ぞろぞろと中庭に行く。セシリアはお茶の用意をして持ってきた。
 「ほんとにケガは大丈夫なの」
 「ムリしない方がいいよ。重いもの持っちゃダメだって」
 はい!いいえ!と元気よく答え、
 「すぐに、手当てして、もらったので、今日は、もうすっかり」
 人数分のカップにかいがいしくお茶を注いでいる。
 自分の所に来た時、ポルナレフはなるべくさりげなく、訊いてみた。
 「クビにはならなかったんだな?」
 「はい」
 「あのお嬢さん、母親に言いつけたりはしなかったようだな。ちっと意外な気もするがとりあえず良かったぜ」
 セシリアは困惑した眉で微笑んで、
 「末の、おじょうさまは、わざわざ、意地の悪い、ことをして、それを楽しむかたでは、ありません」
 「他の方々はそういう方々なんだな」
 他のやつがそう言って笑った。セシリアはいよいよ困惑している。よせよ、困らせるのは、と言ってから、
 「要するに、気位の高い、お嬢さんなんだな」
 「きぐらい、とは」
 「つんとしておたかくとまってるってことだよ」
 「なあ、昼休みだし、ちょっとやろうぜ」
 誰かが言い出してひっぱりだしたのを見るとギターだった。抱えて、一曲かきならし歌った。わざわざ、持ってきただけのことはあってなかなか上手い。一緒に歌ったり手拍子したりしながら、見るとセシリアも楽しそうに聴いている。
 「次、俺に貸せ」
 ポルナレフはギターを借りると、リズムが印象的な明るい曲をやりはじめた。

 あの新しく来たメイド、気がきかないからクビにしてと言わないまま、一日経ってしまった。
 言ってしまえばよかったのに、という気持ちもある。このままにしておくというのは、あの男のわけのわからない言葉を受け入れ認めたというのと、同じではないのか。
 冗談ではない、そんなつもりはない。
 しかし、ムキになって権力を行使し、とぼとぼ裏口から出て行くメイドを見送りながらいい気味だと思う姿は、まるきり姉たちそのもので、あんな下品な顔で喜ぶなんて真っ平だし。
 一体どうするのが、自分の矜持を保つことになるのかわからないまま、イライラと昨日の本を眺めているが、さっぱり頭に入らない。と、中庭の方からなにやら音楽が聞こえてきた。
 (なにかしら)
 笑ったり歌ったりしているようだ。昨日のあの男の声も聞こえる。
 気になって、こっそりと、中庭の見える窓に行って、見下ろした。
 あの男がギターを弾きながら歌っている。
    セシリア、君は俺の心をかきみだす
    セシリア、俺は君の前にひざまづいて頼むんだ、戻ってきておくれと。
 隣りに居るメイドが赤くなって、だがとても楽しそうに笑いながら、一緒に歌っている。
 英語の歌だ。だから一緒に歌えるのだし、だからこそポルナレフはこの歌を歌っているのだ。しかし、そのことに、娘は気付かなかった。
 ただ、何があんなに楽しいのだろうと、仏頂面で思っただけだった。
 それから、誰に対して認めることもできないが、こっそりと、ひっそりと、自分の中でだけ、
    あの男は歌がうまいのだ
 そのことを認めた。

 …ところで。
 娘は一人、廊下を歩きながら思った。
 何という歌なのだろう。
 クラシックではないのは確かだ。当たり前だ、半ば過ぎからあんなハレンチな歌詞になるとは。クラシックのはずがない。
 ふしだらな、とでも言いそうに、娘はきっと顔を上げた。
 セシリア、と繰り返し呼びかけている。繰り返しの部分が歌のタイトルになることは多い。ではセシリアという曲だろうか。
 調べてみようか。
 でもどうやって。クラシックの曲なら事典に載っているかも知れない。だが、俗曲はそうはいかない。
 誰かに聞くのか?誰に?こんなこと母親にも姉たちにも聞けないし、聞きたくもない。
 唇をとがらせた時、向かいから、
 「おじょうさま」
 声をかけられて、見ると、あのメイドだった。思わずひるんでから、なぜ私がひるまなければならないの、とムキになり、キッと肩をそびやかした、その前にひざまづいて、
 「リボンが、まがって、おいでです」
 ニコニコして言って、胸元のゴタゴタしたリボンを一回ほどいて、結び直してくれた。
 相手の仕草はごく自然で、丁寧だが手早く、召使いがお嬢様に『あ、おリボンが』といっていじりまわすというよりは、歳の離れた妹の面倒をみる、といった感じが強かった。
 よし、直った、という感じで満足げに立ち上がった相手に、まだどこかむすっとした様子で、
 「ねえ」
 「何で、ございましょう」
 「あのね。この曲、ちょっと前に、とある機会があって、知ったのだけれど」
 決してお前のためにあの男が歌っているのを聞いて知りたくなった訳ではないのだ、と予防線をはっている。が、今ひとつうまくはれなくて、相手はきょとんとしている。ただでさえフランス語はよくわからない。
 「お前は、曲名を知っているかしら。えーっと、こほん。セシリア、君は…」
 「はい。わたしが?」
 「え?」
 「いえ、今。わたしが、どうしたのかと」
 「お前のことなど言ってはいないわ」
 しばらくもめてから、
 「じゃあ、お前の名前はセシリアというの?」
 「そうです、おじょうさま」
 ニコニコしている。
 今の今まで、自分は、この新しいメイドがなんという名前か、知りもしなかったし、知ろうとも思わなかった。必要がないからだ。そこのお前、あれをして、これをしてと命じるだけなら、名前など知らなくてもいいからだ…
 この時に、娘は、ようやく、
    だから、あの男は、あの歌を歌ったのだ、相手の名前の入った、あの歌を

 そのことに気付いた。

 セシリアはあっと声を上げ、
 「おじょうさま、もしかしたら、先ほど、中庭で、歌っていたのを、お聞きになって」
 「違うわ!」
 真っ赤になって否定されてびっくりする。
 「そう、ですか?てっきり…」
 「私は別のところで聞いたのよ。さっきじゃないわ。た、ただ、なんて曲かわからなくて、それで」
 必死で言い張る。
 いつもつんとすまして、下品な人間とは口をきかないわ!という顔をしている末のお嬢様がなにやら真っ赤になって、
 「昨日…いいえ、一昨日よ!さっきじゃないわ。場所も、ええと、…とにかく中庭じゃないわ」
 懸命に否定している。
 そしてセシリアは、この娘とは違ってすぐに気付いた。
    やっぱり、さっき中庭で歌っているのを聴いて、知りたいと思いなさったのだ。
    そんなこと恥ずかしくて認められないのだ。
 にっこり笑って、
 「そうですか。わかりました」
 わかればいいのだ!という感じでほっとし、赤らめた顔の汗を拭っている。それから、だから、曲名は…と聞けないが聞きたい様子で立っている相手に、
 「あの曲は、『セシリア』と、いうのですよ。サイモンと、ガーファンクルという、二人組の、歌です」
 「あ、やっぱりセシリアというのね」
 小声で呟いている。
 「そうじゃないかと思ったわ。そこの繰り返しが多いから」
 「さようで、ございますか」
 ニコニコ見ていると、娘は口の中で、サイモンと、ガーファンクル、と繰り返している。
 「お忘れに、なったら、またお尋ねください」
 相手はぎょっとしてセシリアを見たが、他意もなにもないらしい、と見てとって、
 「え、ええ」
 まごつきながらもそう答えながら、その、曲はどうしたら手に入るだろうと考えた。
 自分一人でぶらっと買い物に出かける、という習慣はなかった。欲しいものがあったら言いつけて買いに行かせるのが普通だからだ。出かけようとしても必ず、誰かがついてくる。
 別に、監禁されているわけではないのだから、レコードショップを散策したいのと言えば、可能ではあろうが…
 とてもその勇気はない。末のお嬢様はなにやらハレンチ歌手のレコードをお求めになったなどと言いふらされる。
 どうしよう。
 「おじょうさま?どう、なさいましたか」
 不思議そうに訊ねる相手を見つめる娘の顔が、いよいよ赤くなってくる。やがて意を決し、
 「お。お前に、頼みがあります」
 「はい?はい、どうぞ、なんなりと」
 「その、セ、セシ…」
 「はい?」
 リア…と消えていく言葉をなんとか聞き取って、
 「はい、セシリア、サイモンとガーファンクルの」
 「そ。そう。その、ええと、レコード。CDかしら。どちらでもいいわ。どちらでも聴けるから。それを、…買っ、てきて欲しいの」
 末の娘は色が白いので、本当に、赤くなる。バラ色に染まった頬で、懸命に告げている。額には汗が浮かんでいる。
 セシリアは胸の中が明るく、温かく輝く気持ちになりながら、思い切り意気込んで、
 「かしこ、こ、こま、こまり、こまり、こまりました!」
 何も困ることはなかろうと言われそうな勢いで請け負った。娘は慌てて、
 「大声を出さないで!それと、このことは他言無用よ」
 「たごん、むよう、とは」
 「誰にも言っちゃダメ。知られてもダメよ」
 「ああ、はい、おじょうさま」
 任せて、くださいと張り切って言ってから、シッと言われ、慌てて声を低め、
 「明日の、午前の外出の、用事の時に、買って、まいります」
 娘も小声で、
 「じゃあ、明日の昼頃、メイド室に行くわ。頼んだわよ。お金は今渡します」
 「はい」
 スパイ活動さながらの緊張感だ。

 翌日、掃除に精を出している面々に、軽く頭を下げ、
 「ちょっと、かいものに、出て参ります」
 おう、気をつけて、と声をかける。ポルナレフが寄っていって、
 「重いもの持つなよ。大丈夫か?」
 「重いものは、持ちません。ありがとうございます。あ、ジャンさんだったら、同じ曲の、CDと、レコード、どちらを、買いますか」
 ニコニコしている顔に茶目ッ気があって楽しげだ。ポルナレフもなんだろう?と微笑んで、
 「あるんなら、レコードかな。音が柔らかいからな」
 「そうですか。わかりました!」
 ウフフと張り切って、出かけて行った。見送ったそこに、ぞろぞろ集団が来て、
 「はなれの掃除は終わったのか」
 「おう。そろそろだ」
 「じゃあ」
 大広間の方をやっていた連中が顔をしかめて、
 「国王から拝領したようなツボの数々を、一時避難させてくれ。掃除がしづらくてかなわん」
 こっちの連中もうへえという顔になりながらも、仕方なくゴテゴテしたツボだの、金ピカの皿だの、由来のわからないものをぞろぞろと運んだ。
 「悪い予感がするよ。絶対にさ、ガチャンとやっちまうんだ」
 じじいのジャンがうめいている。皿を抱えている手がわなわな震えていて、見るからにあぶなっかしい。若いジャンが呆れて、
 「自分で暗示かけてどうするんだよ。そんなに震えてたら本当に落とすぞ。いいからあっちいって休んでろ」
 「俺もそう思う」
 「そうしろ」
 「そ、そうしようかな」
 ほとんど運んでも居ないのに汗びっしょりになって、じじいのジャンがそろそろと一同の列から離れ、
 「じゃあ俺は一足先に、昼休みしてるから」
 デヘヘと頭を掻いて中庭の方へ向かった。
 「なんだあいつ、サボる口実じゃないのか」
 「まあいいって。本当に落とされたら目も当てられないぞ」
 言いながら作業を続け、さてそろそろ正規の昼休みだ、という時刻になった。

 その少し前。
 あのメイドは戻ってきているかしら、まだかしら。そろそろ行ってみてもいいかしら、と思いながら末の娘はメイド室を目指し始めた。
 中庭の見える場所からふと見下ろして、娘はなにかしらと思った。なにやら、真っ赤なゴテゴテしたものの前で、汚らしいドブ色のものが、必死でぺこぺこしている。
 下におりるにつれ、あの真っ赤なゴテゴテに見覚えがあることに気付いた。
 叫んでいる内容を聞いて事情はわかった。しかし、
 (どうしよう)
 自分が首を突っ込むことではない。何故こんなところに居る、何の用があってここに来ただのと、余計なことに気を回されるのは御免だ。そ知らぬ顔をしておくにこしたことはない。
 今までずっとそうしてきたし。
 (どうしよう)
 メイド室には後でいくなり、明日行くなりすればいい。今はあそこに近づかない方が無難だ。はっきりしている。それなのに、
 なぜさっきからこんなにしつこく、
 (どうしよう)
 胸が鳴るかというと、あのいまいましい男の声が、
    君はレディじゃないな。
 今も、耳元で聞こえるからだ。

 頼まれた曲はスタンダードナンバーだ、最初のレコードショップですぐに見つかったのだが他の買い物に手間取った。急がないと、メイド室のそばでお嬢様がおろおろして待つことになる。
 息を切らせながらセシリアは急いだ。肩が痛むが休んでいるヒマはない。
 大汗をかいて走ってきたセシリアに門番が、驚きながら、
 「誰かに追われてるのかい」
 「時間に追われています」
 彼女としては大まじめなのだが、ちょっととんちを利かせた返答のようになった。大急ぎで門をくぐり、走る。
 この通路の向こうに中庭があり、それを横目に見ながら進んだ先の陰に勝手口、メイド室がある。
 だが、メイド室に着く前に、中庭で何かもめごとが起きているのが、わかった。声高に叫ぶ女の声は早口で、セシリアには聞き取れない。時々、無礼者とか、クビという単語が、聞こえた。
 汗を拭って声のする方に急いだ。

 歳をとった方の、ジャンが、ぺこぺこ頭を下げて、必死で謝っている。そのすぐ前に真っ赤な服を着た娘が、反り返って、きゃーきゃー叫んでいる。あれは、ニ番目のお嬢様だ。服の前の部分になにやら、シミが出来ている。
 少し離れた位置に掃除夫の連中が突っ立って眺めている。彼らも今さっきここに来たらしい。
 「お許し下さいお嬢様、決してわざとじゃあないんで。ひょいと曲がったらお嬢様がおいでになって、ぶつかっちまっただけで、あの」
 「まだ昼にならないうちから、どうして中庭に居るのよ。汚い連中がまだ居ないと思ったから通ろうとしたのよ。どうしてくれるの、これを」
 ぐいぐいとシミの部分を突き出して寄越され、ぺこぺこと、
 「シミ抜き代はなんとかしますんで、どうぞ、お赦しください」
 「いやよ。お前みたいな汚らしい者にぶつかった服なんて二度と着たくないわ。どうせなら新調してもらおうかしら」
 「し、新調?」
 卒倒しそうな顔になる。いったい幾らかかるのだろう。国王拝領のツボを割って弁償するのと同じくらいかかりそうだ。
 「嫌だなんて言う権利は、お前には無いんですからね。さあ、どうしようかしら」
 カンカンに怒っていたはずなのに今はなんだか、嬉しげに見える。
 下品な女だ、とポルナレフはこめかみに血管が膨れた。どれだけ金持ちのお嬢様か知らないが、下の者の失敗を捕まえていたぶって喜んでいる。精神が下賎だ。
 そう言ってなじってやりたい。もともと気の長い方ではないし、深慮遠謀とはちょっと遠いタイプだ。それで失敗をしたことも多々あるが、あまり学習していない。
 今自分がそうやって二番目のお嬢様を罵ることが、いよいよ事態を悪化させる、少なくとも解決だけはしないということを忘れて、つい怒鳴りつけそうになった。
 その、カッカと熱くなった頭に水をかけるような冷たい声が、
 「およしなさい、お姉さま」
 一同の上に響いた。
 いっせいにそっちを見る。勝手口から出てきたのはあの末の娘だった。
 「悪気があってやった訳じゃないというのはお姉さまだってわかっておいででしょう。赦しておやりなさい」
 白い顔はいよいよ白く、目は歳に似合わない威厳の色をたたえている。皆思わず黙って、その姿を見守った。
 誰も彼も、彼女から発せられる意志の力に、のまれている。
 毒気を抜かれたふうの姉だったが、ふと眉をひそめ、
 「なぜお前がこんなところにいるの」
 妹は毅然として答えた。
 「メイドに買い物を頼んだからです。セシリア」
 はい、と叫んで飛び上がり、駆け寄った。
 「買って来てくれたわね?」
 「はい、おじょうさま」
 かすれた声で答え、そっと差し出す。LP盤のレコードジャケットに、ギターを抱えて歌っている男二人の写真が載っていた。
 あ、とポルナレフは思った。あれは、俺も持ってるやつだ、サイモンと…
 「ご苦労様だったわね」
 「いいえ、…ちっとも、」
 何かを言いたい、しかし何と言えばいいのかわからないでいる相手の顔を、見て、
 「そう言えば」
 「はい?」
 「本が、当たったケガは…?」
 歯切れ悪く言う。セシリアは首を振って、
 「大丈夫です」
 「そう。…あの」
 一回うつむいて、それから顔を上げると、
 「悪かったわ。ごめんなさい」
 小さな声だが、確かに謝ったのが聞こえた。
 セシリアは幾度も首を振って、とんでもないことです、おじょうさま、と言い、一同はゆっくりと笑顔になり、一人、なんだかわけがわからないという様子の次女が、首をひねりながらひきあげざまに、
 「おかしな子」
 そう決めつけていった。
 「わ。私も行くわ。それではね」
 LPレコードを抱えて、急いでこの場を去ろうとした娘に、
 「待ってくれ」
 あの歌を歌っていた声が呼び止めた。振り向くと、あの銀髪と空の青の目をした男が、
 「俺はジャンピエール。君はなんて名だ」
 「ぶ、ぶぶ、ぶしつけな」
 つい、そう言い返す。皆笑い出した。
 この前は、怒っている末娘を前にして、皆思わず無言でいたのだが。
 さっきまで蒼白だった顔が、今は真っ赤になっている。
 「教えてくれよ。何て名だ」
 繰り返し頼まれて、きっ!と顔を上げ、
 「ディアネイラよ」
 「こりゃまたごっついな」
 「女王さまみたいだぞ」
 口々に言う連中にまざって、ポルナレフが、
 「ヘラクレスの奥さんか。凝ってるな、ご両親のどっちが好きなんだい、こういうの」
 娘はあっと思った。この名がギリシャ神話に出てくるということを、知っているのだ。
 「…父ですわ」
    この子はヘラクレスの妻の名にしよう、貞淑で、他の男にも愛されるほど美しいのだ。
 そう言って悪趣味に笑っていたそうだが…
 「おしゃれなパパだな。だから君もギリシャ神話が好きなんだな」
 本人よりも、セシリアがきょとんとして、
 「なぜ、ごぞんじ、なのですか」
 「君のここを」
 まだ湿布でふくれている肩のあたりを、つん、つんと指で示して、
 「直撃した、あの立派な本のさ。表紙に書いてあった」
 「まあ」
 どういう意味なのかわからない感嘆を、口から漏らして、セシリアは感心したふうでうなずいている。
 「ディアネイラ」
 その声で呼びかけられて頬が熱くなる。
 空の青の目が、今日は、心から微笑みかけていることがわかる。この前の、怒りの無表情ではない。
 「ジャンのじいさんを助けてくれてありがとう」
 「私は、別に、」
 うろたえて、LPを落としそうになる。慌てて抱え直した、その手のところに、セシリアという綴りが見えた。大慌てで背を向けて、走り出す。
 「あっお嬢さん」
 「末のお嬢さん!どうもありがとう!」
 いろんな声に送られながら、懸命にその場を駆け去った。部屋まで戻って鏡を見ると、真っ赤になって大汗をかいている。目がきらきら輝いて、見たことのない、自分の顔が映っていた。

 それから、昼時になるとなんとなく、娘は中庭を見下ろす場所に来て、そっと下をうかがった。
 ただ笑って話をしているだけのこともあるし、歌を歌っていることもある。一度、またあの曲をやったこともあった。
 その時は一緒に口ずさんだ。もうすっかり覚えていたからだ。
 今日は「おでかけよ、急いで準備なさい」と言われて外出着と、帽子をかぶって廊下をわたわた走りながら、あの場所に来たので、そっと顔を出して下を覗き込んだ。と、急に風が吹き付け、
 「きゃっ」
 帽子が飛んだ。
 「あ、」
 手を伸ばしたがとどかなかった。帽子は下に落ちていったが、地面にまでは落ちず、木の途中の枝にひっかかってしまった。
 上からも下からも届かない。どうしよう、と思っている娘に気付いて、
 「お嬢さんだ。どうした」
 若いジャンが声をかけてきた。
 「あの、帽子が…」
 「おやおや。よし、俺がひとつとってやるよ!」
 先日助けてもらったお礼とばかりにはりきったおやじのジャンが、木に登ろうとしたが、やめろ!高すぎる、と皆に言われてしまった。
 「脚立に乗れば届くかな」
 「よし」
 ポルナレフが脚立にのぼって、あと少し、というところで、鋭い声が上がり、嘴が襲い掛かってきた。娘が悲鳴を上げる。
 「わっ」
 カラスの類だ。近くに巣があるらしい。
 「大丈夫か、ジャン」
 「なんとか、な」
 しかし目を庇った手を突付かれる。集中攻撃だ。血が出てきた。苦笑して、
 「ちょっとの、間、イテテ、あっちに、行ってくれないか」
 心を集中させる。鳥を殺す気はない、殺してしまうなら簡単だが、それは避けたいから…
 目の青が濃くなる。
 『チャリオッツ』
 常人に見えない、銀の鎧を纏った騎士が、鋭い切先を鳥の翼ぎりぎりに、すさまじい速度で突き出した。
 その威嚇に鳥は怯み、翼を必死で打ち振って空高く舞い上がった。
 掃除の連中も娘も驚いた。それまで、声高く叫びながらドスドスと攻撃していた鳥が、突然目に見えない力に圧されたみたいに、怯えて飛び上がったのだ。
 なにがあったのだろう?
 「よーし、よし」
 言いながら手を伸ばし、帽子を回収した。下まで降りると皆わらわらやってきて、
 「大丈夫か」
 「うわ、あちこちやられたな」
 そこに、娘が青い顔でやってきて、
 「大丈夫ですか」
 「平気平気。ほら、これ」
 言いながら頭に帽子をふわとかぶせてやり、ちょっと考えてから角度を変えてやる。途端に、ずっと小粋に見えるようになったのだが、娘は気付かなかった。
 「あの…ジャンピエールさん。どうも…ありがとう」
 まだ蒼褪めながら、ぎこちなく、そう言った。
 「どういたしまして」
 大袈裟に、胸に手を当てて言う、頭上に、やっと鳥が戻ってきた。「今のは、なんだったのだ」という様子で、まだ落ち着かない様子だ。

 舞踏会に、外国からいらっしゃるお客様のお出迎えに、空港までゆくことになった。
 例によって自分に合わない鎧のようなゴテゴテドレスを着て、末席にくっついていく。
 ……………
 いつのまにか舞踏会の日が来て、掃除人たちも仕事が終わり、解散した。あのメイドに皆で、世話になったな!とやっているのを、娘はいつもの場所から眺めていた。
 あの男の姿も見えた。
 なにか、一言、話をしたいと思ったが、用も無いのにこちらから出向いていって、何か話し掛けることは、やはり出来ない。
 今はどうしているのだろう。
 また似たようなお屋敷で働いているのだろうか。
 もう私のことなど忘れてしまっただろうか。
 確かめるすべもない。
 ふと、到着ロビーで再会を喜び合っている面々の中に、まさにその、横顔があって、はっとする。
 今、やってきた歳若い東洋人をぎゅーと抱擁し、ゲラゲラと笑いながら、
 「変わってねーな、△△!」
 相手の名なのだろうが聞き取れなかった。薄い色の髪、鳶色の目をして、つんと済ました白い顔に、確かに再会の喜びを紅い色にのぼらせ、今照れ隠しの笑いで、
 「君もね、ポルナレフ」
 明瞭な美しいフランス語で言って、手を伸ばし、握手をした。
 その相手の顔をまじまじと見て、うん?と首を捻ってから、
 「そうか。わかったぞ。ずーっと考えてたんだがわからなかったんだ、あのお嬢様、どこかで見たと思ったら、お前だ」
 そうだとうなずいて、
 「色白で茶色い髪と目でお高くとまってて。照れ屋でうまく笑えないとこなんざ、そっくりだ」
 「誉めてるんですか、けなしてるんですか」
 複雑な眉の形の相手にまた笑い出し、
 「さあ、行こうぜ!この一ヶ月、お前にご馳走を食わせるために、そのお嬢様のお屋敷で掃除に精を出した俺の努力をたっぷり味わわせてやる」
 「ありがとう。心から味わわせていただきます」
 半分、相手の荷物を持ってやり、はりきって案内して出てゆくその背を、娘は黙って、見送った。
 何か言いたいけれど何も出てこなかった。

[UP:2006/05/01]


 架空の、三部の未来ですね。ヨヨヨ(涙)
 よくあるパターンの話ですが、こういう話に一番キマるのがポルナレフだと思う。


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