セクメト


 ありがとうございましたまたどうぞと、流暢になってきた現地の言葉で叫び、それから出て行った客と入れ替わりに入って来た2人に顔を向け、いらっしゃいませと呼びかけた。
 それはここのところよく来ている20代後半の男女だった。2人とも白人で、もののいい服を着ている。ポルナレフ同様、ここでは「外人」だ。英語で話している。
 無論、この街で暮らしている訳ではないだろう。観光客だな、と思いながら、
 「何になさいますか」
 「そうね。今日のお勧めはなに?」
 「羊肉の串焼きです」
 一瞬、頭の中でイヤな笑い方をしているケバブ屋の姿がよみがえり、思わず顔をしかめてぶるぶると首を振って頭から追い出す。女が面白そうに、
 「なあに、どうしたの?」
 「いや。なんでもありません」
 そう言って、まだしつこくしがみついている鋼入りの男を追い出そうと、もう一度首を振る。女はその動作に声を立てて笑った。華やかな笑い声だった。声にふさわしく、艶やかな容姿とゴージャスな雰囲気、立ち居振る舞いは自信たっぷりだ。
 その笑い声の方に愛想よく笑顔を向け、それから連れの男の顔がひどく険しいのに気づいた。眉間に鋭いしわを刻んで、やや下からポルナレフをじっとり睨みつけている。
 (おいおい何睨んでんだよ。お門違いだぜ)
 しかし、同じ客同士であれば「誤解だぜ、にいさん。俺は連れのいる女に声をかける程無粋じゃねえよ」と言えばいいが、今はポルナレフは給仕だ。「どうやら勘違いをなさっておられるようですが」か?
 何バカなこと言ってんだ、と自分にツッコんだ時、女が笑いながら、
 「面白いウェイターさんね。この街で銀髪と碧い眼をした西洋風の給仕に会えるとは思わなかったわ。そこに座って。お話しましょうよ」
 男の表情がどんどん渋っていく。だから、俺のせいじゃなくて、お前の女の方から誘ってきてんだよ!という気持ちを必死で目に込めながら、
 「せっかくですが仕事がありますので」
 「あら、いいじゃないの。さあそこに座ってよ、はいグラス」
 自信たっぷりを通り越して強引なタイプだ。俺がフリーならそれはそれで相手をしてもいいが、現状あらゆる意味でフリーじゃない。この女も横でデーモンみたいな形相になっている相手に気が付かないんだろうか?曲がりなりにも自分の恋人なんだろうに。
 と、
 「失礼」
 背後から声をかけられた。振り返るとアヴドゥルが立っていた。自分の店の帰りに寄ったのだろう。
 助かった、という気持ちが一瞬素直に顔に表れ、それからコホンと咳をして、
 「いらっしゃいませ。おひとりさまですか」
 現地語のフレーズを口にした。相手はつきあいよく澄まして頷く。
 「ではこちらのお席に。お客様、失礼いたします」
 女にそう言ってから、アヴドゥルに「こちらへ」と言いながら奥の方へ連れていった。
 テーブルについて座ったところで、
 「いやあ、気に入られちまってよ、モテる男はつらい…」
 「まだこちらを見ているから低い声で話せ」
 「おっと」
 また一回咳をしてから、
 「今日のお勧めは?」
 「羊肉の串焼きです」
 またそう言うと、相手は「ん?」という顔になって、
 「おれはその時居なかったが、ケバブ売りの敵がいたそうだな」
 「そうなんだよ。とんでもなくゲスな野郎で」
 思わずボリュームが高くなりかけて慌てて口を閉ざし、メニューを指し示し、これとこれとこれで、かしこまりました、とやりとりして、
 「少々お待ちください」
 そう言ってチラリと相手を見る。アヴドゥルが相変わらず澄まして頷くのに、ウィンクを投げて、その場を立ち去った。


 食事を終え先に帰宅したアヴドゥルから数時間遅れて、
 「戻ったぜ」
 「おかえり」
 居間で読書をしていたアヴドゥルが顔を向けると、今入って来たポルナレフと目が合った。にやりと笑い、片目を細めた。相手も片頬で笑う。
 「お前のお茶を淹れるぞ」
 「頼む」
 廊下へ姿を消したのを見送って、ポルナレフのカップを温める。すぐにラフな部屋着に着替えて戻ってきた。
 「そこに座れ」
 言って、カップを置いてやる。ありがとよ、とカップを両手で包むように持ち、一口飲んで、
 「ああ美味い」
 「それはよかった」
 「このお茶に関しては、俺はお前に勝てねえな」
 「お茶だけか?」
 「当然だろ」
 生意気な口をきく、と呆れている顔に、
 「本日のおすすめ、うまかったろ?」
 「ああ。なかなかいけた」
 「今日はあれ結構出たぜ。好評だった。『今まで食べたうちで一番美味しいわ』って言ったのは誰…ああ、あの客だ」
 自分で喋りながら気づいて、なんとなく口元を手で拭う。
 「あの客?」
 「お前が店に来た時に、俺にモーションかけてた女が居ただろ」
 「モーションというか…同席して相手をしろと要請していたようだな」
 「それをモーションて言うんだろ。あの後も傍を通るたびに何やかや声かけてきたしよ」
 へっ、と肩を竦める相手に、
 「しかし、あの女性には連れがいなかったか」
 「いたぜ。だからその度ものすごい顔で俺を睨んでた」
 アヴドゥルの眉間に不快な表情がはしった。その表情に、自分もうなずいて、
 「連れがいるのに他の男に声をかけまくるってのはどうかと思うな。ま、悪趣味な奴は世界中どこにでも居るってことだ。というわけで、口直しに、もう一杯」
 ん、と呟いて注いでやりながら、
 「お前もあまり迂闊に愛想を振りまくな」
 「振りまいてねえよ。給仕として最低限のだな」
 唇を突き出して断固抗議してくる相手に辟易して、ああわかったと片手で押さえて、
 「お前にその気がなくても、目が合って微笑んだだけでその気を起こす相手もいるのだ。悪趣味なやつはどこにでもいると言ったのはお前だろう」
 「チェッ」
 不服そうに「俺は何もしてねぇーって言ってんのに」とぶつくさ言いながらカップを勢いよく傾け、あちちと叫んでいる。その姿を眺めながら、なんだかんだ言っても、その言葉に間違いはないだろう、とアヴドゥルは思っていた。
 カワイコちゃん相手に口も手も速い男ではあるが、恋人が居るとはっきりしている相手に粉をかけることはしない。そういった点での、マナーはきれいな男だった。
 眠くなってきたのか、片手で乱暴に目をこすっている姿は妙に子供っぽく、アヴドゥルは微笑んでから、
 「ところで、次の休みはいつだ」
 「ん、金曜だ」
 「予定は?」
 「特にねぇけど」
 「ではその日は、本の虫干しを手伝ってもらおう」
 「何でそういう流れになるんだよ」
 「3時になったらホリィさんから戴いた菓子とお茶で休む」
 「うぐ」
 「そうしたくないのか?」
 それはかなり魅惑的な提案であった。空条ホリィから先日送られて来たのはとてもきれいな菓子で、見た瞬間「食べるのがもったいねぇっ」と叫んでしまう程だった。丸くて、白くて、金色で、2人で半分に割りそっと食べてみたらふんわりと薄甘くとても上品な味だ。さすがはワビサビの国ジャポン、と感心し、
 「センベイっていうんだろ。ふわっとしてさくっとして」
 「これは何かのついでにボリボリ食べるもんじゃねえな」
 「そうだな。休日にゆっくりといただこう」
 そう言い合っていたのだ。
 よく考えてみるとあの菓子でお茶にすることと、アヴドゥルの本の虫干しを手伝うことには何の関係もないのだが、何故だかもうすっかり「菓子を楽しみたいなら、代わりに本の虫干しを手伝わなければ」の回路が出来てしまっている。
 うむむむと唸っているポルナレフに、笑い出しそうなのを堪え、上から、
 「さあどうする」
 「しょうがねえな!わかったぜ。背に腹は代えられねえ」
 もはや何を言っているのかわからない。咳き込んだ振りをして笑いをかろうじて堰き止め、
 「では決まったな。さあ早く休め」
 「おう」
 仕方ねえか、みたいに立ち上がる相手から、ついに笑い出してしまった顔をそむけた。


 ポルナレフは、あれ?と思って一瞬動きが止まった。
 いつものテーブルについたのは、やはりあの女だ。金のかかった派手な身なりによく合っている自信満々の目、特徴的に整えた眉、甘くハスキーで傲慢な声。もうすっかり覚えてしまった。
 だが、隣に座っているのは、あの男ではなかった。身なりはあの男と同じように金がかかっていて、同じように女の顔を縋るような目でうっとり見つめている。しかし、別人だ。ポルナレフをじっとりと睨みつけていた陰気な顔を、忘れようがない。
 なぜ、違う男になっているのだろう?
 (と、訊くのもヤボだよな)
 ポルナレフは口元を歪めた。要するに、相手が変わったということだ。ただそれだけだろう、女があんなに楽しそうに笑っているところを見ても。
 なんとも言えない気分でテーブルに近づく。
 「いらっしゃいませ。ご注文は」
 「ふふ。今日のお勧めは何かしら、銀髪の給仕さん」
 女は満面の笑顔でポルナレフを見つめる。片頬を引きつらせてそれに応じながら、ちらと男を見た。男はポルナレフのことなど意識にないようで、ただひたすら女の顔をデレデレと眺めている。それを見てほんの少しだけほっとするような気持ちになった。
 自分が他の男とさんざん来た店に、新しい男とあっさりやってきてボーイに色目を使っている。それは一言で言うなら、悪趣味というやつだが、
 (悪趣味な人間は、世界中どこにでも居るからな)
 渋い口元をなんとか笑いの形にしながらオーダーをとって、「少々お待ちください」と言ってその場を後にする。ちょうどその頃から夜の客が徐々に増えてきた。額に汗して忙しく動き回り、ふと見るとあの女とその連れが席を立つところだった。外まで送り出し、
 「またお出でください」
 「ありがと」
 女の目が紫に笑み崩れる。連れはポルナレフを見もしない。ふたりは夜の街へ出て行った。
 見送ってから店に戻ろうとして、ふと何かつめたいものが側にある時のような感覚をおぼえ、周囲を見渡したが、何もない。
 「そりゃそうだな。…いつだったか花京院のヤローが氷のかたまりを俺の背中に入れて大騒ぎになったことがあったな」
 それは自分が先にやってやろうとしたのだが、先を越されたのだった。誰かを蹴り上げたし物は壊すし散々だった。あの時のバカバカしさと、自分らを非難するのと呆れているのとつられて笑ってしまうのが入り混じった他のメンバーの顔を思い出すと、今でもついつい吹き出す。
 今も思い出し笑いをしながら今度こそ店に戻った。


 「ただいま」
 「おかえり」
 声を返した部屋のあるじはポルナレフの顔を見て、
 「何かあったか?」
 「いや別に…ああ、あったな」
 口元がまたあの時のような歪み方をしてから苦く笑って、
 「ちょっとな、いやなものを見た」
 「何だ?お化けか」
 アヴドゥルのそんな言葉に今度は明るく笑い声を立て、
 「ああそうだ。お化けみたいなものだな」
 「うん?」
 こっちを見ている相手に、気取って、わざとらしく哀しげに、
 「愛の骸を見た」
 フランス語の甘い発音で言った。
 アヴドゥルは思わずといったふうでポルナレフの顔をまじまじと見つめ、それからちょっと考えてから、
 「お前の、昔の恋人でも歩いていたのか?」
 「いい勘してるぜ。だが俺のじゃない」
 ノンノン、と指を振ってみせる。いちいち態度がキザだが、身に付いている。やはりお国柄というやつか、こいつの性格の故かどちらだろう、どちらもか、などと思いながら相手の仕草を眺めている。
 「俺がこの国に来たのはあの旅が初めてだ。上陸してからずっと戦い一辺倒でとてもとても良いムードになった相手なんて」
 そこまで澄まし顔でぺらぺらと喋りかけてから何か思い出したのかギクリという顔になって黙り、そのまま相手の顔をじーと見ていたが、
 「何か聞いたか」
 「何を」
 「聞いたんだろ」
 「誰に」
 承太郎に、と言いかけて慌てて口をつぐみ、
 「なんでもない。もういい」
 あの旅の間になにかございました、と言っているようなものだ。ニヤニヤしていくアヴドゥルの顔に、ポルナレフはもうぜーったい違うんだって!とわめきながら、
 「そういう、軽いノリのあれじゃねーんだ。もっとこう、きれいで、遠くから見守る感じの」
 「わかったわかった」
 「何がどうわかったんだよ」
 アヴドゥルは微笑して、
 「なにか、大事にしたい思い出があるのだろう」
 ポルナレフのわめき声が止まる。数秒立ち往生していたが、顎を引いていまいましげに苦笑いし、小声で何事か呟いた。どうやら「こんちくしょうめ」のような事らしい。
 その辺りで助け舟のようにアヴドゥルが言葉を継いで、
 「で、何を見たのだ」
 「ああ。お前も前に見ただろ、美人と取り巻きみたいなカップル。あれの取り巻きの首がすげ代わってた」
 「速いな」
 相手の驚きに全くだと同意する。
 「おそらく、前の前の奴からも素早く替わったんだと思うけどな」
 「そう推察せざるを得ない。この先も素早いことだろう」
 変に丁寧な言い方にポルナレフはちょっと笑った。自分の中で重く濁っていたものがあったが、アヴドゥルに話し、こんなふうに批評され片付けられると、なんだか楽になれた気がした。
 (ずっとひとりだったからな。こうやって誰かと、帰宅した後も一緒に居てあれこれ話せるってのは、気が休まるもんだな)
 さて、と気を取り直し、テーブルの新聞をとって眺めた。
 「読めるようになったか」
 「多少はな。あん?」
 「多少か。何だ」
 「事件か?これ。やたらと強調文字が並んでる」
 相手の前に紙面を見せる。
 「…ああ。死亡者が出ているな。獣に咬み殺されたらしい。まだ捕まっていないようだ。どこそこ地区の人間は夜間の外出を控えろとある」
 「獣?野犬か」
 「いや、どちらかというとネコ科だが」
 「じゃあジャガーとかトラか。エジプトに居るのか」
 「居ない。大きさや配列からいって、ライオンのようだが、それとも違うところがあるらしい」
 「なんだよ、謎の獣か。金持ちがこっそり庭で飼ってた希少動物でも逃げ出したのか」
 と、窓の外でなにかの遠吠えが聴こえ、ポルナレフはぎくりという顔になって目をやった。
 「まあ、いつまでも同じ場所に居るとも思えないし、お前も帰りは気をつけろ」
 「何言ってんだよ。俺にはチャリオッツがあるんだ、でかいニャンコロくらいどうってことねえ。ちょちょいとヒゲを切り飛ばしてやる」
 ヒュヒュン!と音を立てて室内に銀色の光が走り、ぴしりと構える。その姿の良さに胸のすくような思いをして、速さだけは折り紙付きだな、と呟いてから、
 「速さだけかよ、と文句を言われそうだな」
 「何か言ったか」
 「いや」


 相変わらず店にはあのカップル(正確には、あの女と、その取り巻き)がやって来る。女は相変わらずポルナレフを目や言葉や態度で誘うが、『お調子者に見えてきちんとしたマナー』がポルナレフの身上である。線を引くところはちゃんと引き、することはきちんとする。故に誘いには乗らなかった。
 この店で勝ち得た従業員としての信頼を失うことは、この街に居られなくなるのと同じ意味だ。現地語があやしい西洋人なんてそうそう使っては貰えないからだ。そうなったらアヴドゥルの家に居られなくなる。それは絶対に困る。そんな羽目に陥る気はない。
 故に、ポルナレフはこれまでの人生でなかったくらいに、今の職場を大切にしているのだった。本人に向かってそう指摘したら断固として否定するだろうが。
 客を送り出し、戻ろうとした時、店の裏へ通じる細い隙間でぼそぼそと話している男2人が居るのに気づいた。ポルナレフが気づいたのと同時に向こうも気づいたが、銀髪と青い目と白い肌を見遣り、
 「なんだ。外国人か」
 そう言ったのがわかった。ポルナレフは咄嗟に「言葉ワカリマセーン」なふうを装い、フランス語で「Bonsoir,Les maitresr」と話しかけた。片方の男がうるさそうに手を振ってから、
 「さっきの話に戻るぜ。俺はわかってるんだ。お前らなんだろう、あの事件を起こしてるのは」
 「あの事件って」
 「とぼけるなよ、謎の肉食獣に咬み殺されてるあれだ」
 ポルナレフはなにげないふうを装ってタバコを咥え、火を点けて、壁にもたれてふーっと煙を吐いた。疲れたので一服してるだけです。何を言ってるのか全くわかりません。という演出をしながら、必死で耳を澄ましている。
 (こんな時花京院やジョースターさんが居ればな)
 「お前らがやってるんだろう?聞いたことがあるんだ。謎の多い暗殺集団についての噂をな。お前のその」
 不意を突いて相手の手首を掴んで袖を引き上げた。相手は反射的に振り払おうとしたが袖口が肘まで上がった時点であきらめたように動きを止めた。
 男もすぐ手を離して、
 「その紋章を彫ってる連中が、密かに標的を血祭りにあげていくってな。なあ、どうやってるんだ?本当に仕込んだ獣に咬み殺させてるのか?」
 返事は無い。
 「別にお前らを警察に売るなんて言ってやしない。俺も一口かませてくれって言ってんのさ。随分なあがりになったんだろう?依頼主はどこの金持ちなんだ」
 卑しい笑い声を立て、
 「仲間に入れてくれよ。俺もちゃんと彫るからよ、その獅子の紋章を」
 少し間があった。
 「これは獅子ではない」
 無表情な声が、
 「****だ」
 (なんだって?)
 それまで必死で男たちの低い囁き声を聞き取り、頭の中で懸命に翻訳していたポルナレフだったが、その単語はわからなかった。
 とにかく、発音だけでも覚えたい。もう一度言ってくれないか。
 その願いが通じたのか、べらべら喋っていた方が、
 「何て言った」
 尋ねてくれた。それに対し、相手は相変わらず氷のような口調でもう一度その言葉を繰り返し、
 「わからないだろう。お前は知るまい。この名を言ってもまだ、我々が営利目的で人殺しをしているなどと思い、自分が仲間に入れると思っているようだからな」
 この時、声に相手を嘲っている表情が加わった。男はカッとなり、
 「金以外に何の目的で殺してるんだ。獅子じゃなくそのナントカだってのが、なんだっていうんだ?」
 「もういい。バカなやつめ」
 「なんだと」
 「それ以上騒ぐと、おまえもあの牙にかけるぞ」
 その脅し文句にはごねていた男も大人しくなった。くそったれめ、と吐き捨てて相手の肩を突き、立ち去った。
 その前にポルナレフはさりげなく店内に戻っていたが、頭の中は今の会話でいっぱいだった。仕事が終わるのがひどく待ち遠しい。足踏みをしそうなくらいだ。
 けたたましい音を立てて玄関ドアが開いた、と思ったらものすごい勢いで足音がこちらへ向かって走って来る。誰のものかは考えてみなくてもわかる。さて、あいつは一体何をしたのだ?
 「アヴドゥル」
 息せききって飛び込んできた男がそのままばたばたと傍まで来て、しきりと身振り手振りをしつつ、
 「この言葉はどういう意味だ?****っていうんだが」
 アヴドゥルの眉間が寄る。わからないのか?と更に焦って、
 「発音がわりぃか?なるべく聴いたまま言ってるつもりなんだがな。せ、せ…」
 「おそらく、sekhmetと言っているのだろう」
 「セクメト?」
 うなずく。
 「それはなんだ」
 「エジプトの神だ。頭が獅子の姿をしている女神だが」
 「獅子、」
 言葉が途切れ、動きが止まる。左手で自分の口を押さえ、そのあとゆっくり撫でさすりながら、
 「とりあえず、俺が今日見聞きしたことをお前に話していいか?お茶もなにもまだだが」
 「まずは話せ」
 「わかった」
 ポルナレフはアヴドゥルの向かいに座り、先刻の男たちの会話について話して聞かせた。
 「あの男の話が正しいとすりゃ、獣に咬み殺される事件を起こしてるのはその暗殺集団で、メンバーはこの辺に刺青入れてる」
 「ふむ」
 小さくつぶやいて腕組をする。
 「聞いただけでは三流サスペンス映画だって感じだけどよ、被害者の咬み痕ってネコ科の歯型なんだろ?それも、ライオンぽいけど微妙に違うっていう」
 「うむ」
 「でもって、そいつらの彫ってる刺青はその、頭がライオンの架空の神様なんだろ。やっぱちょっと気になるじゃねえか?」
 「そうだな。気になる」
 相手が同意してくれてほっとする。
 「その、仲間に入ろうとした奴の申し出を蹴った時に」
 考えながら、アヴドゥルは言葉を継いで、
 「言ったのだな。金目的ではない。この名を聞いてもまだそんなもののために人殺しを働いていると思っているのか、愚かな、と」
 「正直きっちり聞き取れてはいねえが、まあそういうニュアンスだったな。でもよ、実際、暗殺集団が暗殺する目的なんて、とどのつまりは営利目的になるだろ、他に何かあるか?」
 「ある」
 「え?なにがある」
 訊き返した相手の目を見ないで、直接は関係ないように聞こえることを話し出した。
 「セクメトは狂暴で凶悪で、数えきれないほどの人間を殺戮した女神だ。殺人集団が崇めてご本尊とするにはふさわしいと言える」
 「ひでえな。それでも神様なのかよ」
 「それでいいのだ。何故なら彼女は」
 この時アヴドゥルはポルナレフの目を見た。
 「復讐の神だからだ」
 その言葉を聞いたポルナレフの目の中に、わけのわからない恐怖がこみ上げてきた。


 テーブルの上を片付けながら、ポルナレフは目を上げた。いつもの女と連れの若い男が店を出るところだ。
 「ありがとうございました」
 声をかけたが返事がない。どんなに誘っても自分を相手にしないので、このところ女はポルナレフに対して冷たい態度をとるようになってきた。自分を袖にする相手は今まで居なかったと見える。こうやって目をつけた相手を、隣に据えて飾って連れまわしてきたのだろう。次のお気に入りが見つかるまで。
 フンとそっぽを向く。側にいる男がいい気味だという顔をしてポルナレフを見た。こちらは別にどうでもいいので礼儀正しい微笑をたたえた顔でお辞儀をした。正直、それどころではない。悪趣味な女の恋愛事情なんかにかまっている場合ではない。誰も知らない殺人事件の真実を、自分は知っているかも知れないのだ。しかし、だったら、何をどうすればいいのだろう。
 (こんな話、どこの国の警察に訴えても相手にされないよな。逆に、暗殺組織が警察内部まで手を回していて、知ってしまった俺を消そうとするかも知れねえ。って、どこのスパイ小説だよ)
 そう言って笑い飛ばしてしまう気にはなれない。
 「またどうぞ」
 外に出てそう言ったが女はこちらを見もしないで行ってしまう。男が一度だけこちらを振り返って、ちらりと嘲り笑うとすぐに女の後を追って行った。
 戻ろうとして、びくりとする。即座に身構える。
 闇の中どこかから強い悪意を感じる。いやそれ以上だ。すさまじい憎悪だ。
 肌で感じ、手に触れそうなほどにびりびりと伝わってくる。ポルナレフのうなじの毛が逆立った。鳥肌が立つ。
 「どこにいる」
 自分を励ますように怒鳴ったが返事はない。しかし、確かに居る。どこかに居る。どこだ。
 ポルナレフは耳と心を澄まして、どす黒い思念がどこにあるのか懸命に探った。
 「こっちか?」
 だっと道を駆け出す。どうやら間違っていなかったらしく、心臓を締め上げるような冷たい殺意が急激に強くなっていった。
 闇の向こうに、さっき送り出した女と男の背が見えてきた。
 (あの2人か)
 2人が立ち止まった。何かを見て驚いている。
 後ろからどんどん近づいていきながら、やがて彼女らが見ているものが自分にも見えてきた。
 2人の更に先に、男が立っている。
 暗い灰色をした顔の中に、暗鬱な目があった。その顔にポルナレフは見覚えがあった。
 あの男だ。女が最初に連れて歩いていた男、「この女と仲良くするんじゃない。この女は俺の相手だ」という敵意で満ち満ちた目つきでポルナレフを睨みつけていた男だ。
 「俺がどれだけ苦しんだか、お前にはわからないだろうな」
 ひび割れて干からびた声だった。どれほどかの苦痛の末に、自分の情感が干上がってしまって、その後の声だと思わせる響きがあった。
 女はまだ怯えて震えたりはしていない。今までずっと、必ず相手よりも自分が上位だった、それが当然になっている居丈高な顔の角度と、声で、
 「なによ。謝れとでも言うの。慰謝料を払えとでも?」
 「そんなものは要らない。謝罪も、金も、寄越すと言われてももう要らない」
 男は変な音を立てながら(どうやら、笑い声と悲鳴の混ざったような声らしい)自分の服の、袖口をずるずると上へ上げていった。
 「俺はただ、俺の心を切り裂いた相手を、同じように切り裂くだけだ」
 袖に隠れていたものが完全に表れた。
 そこには肉食獣の頭と、頸から下は赤く長い衣装を着た女の姿が彫られていた。その刺青から、赤黒い靄がたちのぼり、男の頭上で具現化し、大きく口を開けて吼えた。
 獣頭人体のそれが女めがけて飛びかかろうとした。女は何が起こっているのかわからない様子だ。
 「スタンドか?てめえ、スタンド使いか」
 次の呼吸で身構えて怒鳴る。
 「チャリオッツ!」
 銀色の騎士が闇に弾け出し、獅子の女に向かって切りつけた。避けたり、逆に襲ってくるかと思ったが、剣先は見事に相手の身体を切り裂いた。
 よし、と思ったが、それは一瞬だった。何の手ごたえも無く、まるで霧でも切ったようだと感じたが、その通りだった。銀の戦車の剣先できれぎれになった相手は、すぐにまたもとの姿に戻った。
 何故だ。こいつはスタンドではないのか?であれば、何だというんだ?
 獅子の女は再び女に向き直った。それを見て、動揺しながらも懸命に牽制しようと、
 「おい!やめろ!」
 もう一度切りつけたが全く同じ結果だった。
 「やめろって言ってんだろてめえ、何なんだ!」
 男はポルナレフを見ないまま、
 「俺は、すべきことをするだけだ」
 「何がすべきことだ。てめえがフラれた腹いせに女に仕返ししようとしてるだけだろうが」
 「こいつは、俺の心をずたずたに切り裂いた。その報いを受けさせるのは当然のことだ」
 「なっ」
 ポルナレフは言い返そうとした。ふざけるな。大威張りで、なに手前勝手なことを言ってやがる。てめえが苦しんだからって、他人に八つ当たりするんじゃねえや。
 しかし、言葉が出ない。なぜなら。
 相手が言ったのはまさしく、あの日自分が、妹の骸を前にして、雨に打たれながら闇に叫んだ言葉と、ほぼ同じ内容だった。
 地の底から聴こえてくるようだった男の声は、徐々に高くなっていった。
 「こいつは、そうされるだけの理由がある。それがどれほどの重さか、どれほどの深さか、他人が推し測って判定できることではない。俺がそうだとわかっている。それで充分だ」
 それはまさしく。
 「俺をあんなにも絶望させ、狂わせ、死にたいと思うほどの苦しみに突き落としたのだ。然るべき報いを与えてやる。それが当然だ。それだけのことをしたのだから。
 憎しみは憎しみを生むだけだと?負の連鎖は自分のところで止めるべきだと?
 他人のことだと思って言いたいことを言うな!そんなこと、知ったことか」
 もはや男は絶叫していた。
 「復讐してやる!それだけが俺の存在する理由だ!生きる目的だ!誰にも俺の気持ちなどわかるものか!
 俺はやる!誰にも止めさせない」
 それは全て、あの時の、自分の心の叫びだった。
 復讐の理由が、失恋では矮小で、妹を惨殺されたのならやむを得ないとされるものではない。そうだ。
 自分の心がずたずたに引き裂かれ、その報いを受けさせるという点では同じなのだ。何ゆえに心が引き裂かれたかは関係ない。
 少なくとも自分にはあの男の絶望がわかる。相手を自分の手で切り裂き、引き裂くまで、自分は止まらない。どんな言葉にも耳を貸さない。どんな真心、命すら懸けた、心底からの想いにも。
 ズギリと音を立てて心臓が軋んだ。
 「…そういう魂をもっている人間だけが、セクメトを呼び出すことを、許されるのだ」
 闇に咆哮が響き渡った。
 ポルナレフは棒立ちになった。自分の心が決まらない。故に体も動かない。
 しかし、獅子の女が女に向かっていくのを見て、咄嗟にチャリオッツを出したが、やはり駄目だ。剣先はむなしく空を切る。
 (どうしたらいい。俺は)
 混乱し、迷う。男は無駄だという顔で頷き、宙に腕を持ち上げ、女を指差し、
 「行け。そして殺せ」
 男の刺青からたちのぼる靄が更に濃くなった。それにつれて獅子の女が大きくなり、形もはっきりしてくる。
 それを見てはっとする。
 (もしかすると)
 あの刺青が、獅子に力を与えているのかも知れない。いや、多分それ以上だ。
 しかし、ポルナレフが男に向かっていく間に、獅子は女を切り裂くだろう。身動きが取れない。銀の戦車の射程距離では、この位置では男に届かない。
 瞬間。
 ボァという激しい音がして、紅蓮の炎が、女に飛びかかろうとした獅子の全身を包んだ。獅子は絶叫し一度消え去ったが、すぐに空中から粒子が集まって元の姿になった。
 対峙するのは赤い炎の羽をまとった、鳥頭人体の魔物だった。ポルナレフの背後から走って来たアヴドゥルが叫んだ。
 「獅子はおれが抑える」
 炎のような目がぎゅっとポルナレフを見据え、
 「お前はあの男を!」
 ポルナレフはどうしても、一瞬動揺した。しかし、自分が躊躇していられる場合ではないのは承知している。
 「わかった」
 覚悟を決める。
 ポルナレフは男めがけて駆け寄った。宙に銀の騎士が姿を形作る。
 男が声を上げた。
 「やめろ。俺の復讐を、お前が止める権利はない」
 その通りだ。あの時の自分もそう言っただろう。
 『俺の心を切り裂いたように、お前を切り裂いてやる』
 それはある時まで自分も叫んでいたことだった。そして自分はそれを実行した。俺を助けようとした仲間を死なせかけ、相手を切り裂いて終わらせたのだ。
 その自分が復讐を止めるのはお門違いだろう。多分、きっとそうだ。
 (俺は)
 宙に銀色の線が尾を引いた。
 男の絶叫が上がった。
 もう一閃。そしてもう一回。
 男の刺青は、銀の戦車の剣先で切り裂かれた。それで何かが断ち切られたように、男は地面に崩れおちた。
 そして、獅子の頭をした女は、刺青がそうされたように細切れになり、今度こそ空中に消え去った。
 荒い呼吸音がすると思ったら自分のものだった。ポルナレフはなんとか息をなだめて、銀の戦車を消し、
 「アヴドゥル、女は」
 「無事だ。気を失っているだけだ。ついでに、連れの男はどこかへ逃げた」
 「そうか」
 次に男に近づいた。ブチ切れて襲ってくるだろうか、と用心しながら傍まで行く。男はうつぶせに倒れたままだ。
 むき出しになっている腕の皮膚は剣先でずたずたに切られ、刺青は見る影もなくなっていた。それ以外に外傷はない。だが、男はぴくりとも動かない。
 嫌な予感がした。手を伸ばし、男を仰向けにする。男は目も口も開けたままだ。呼吸も、脈もない。死んでいる。
 「!何故…」
 「どうした」
 声をかけられ、なんとか振り返って、よろよろと首を振った。
 「だめだ」
 「そうか」
 息をついて、ややあってから、静かに言った。
 「おそらく、その刺青は、男の命を使って彫るのだろう」


 「そういやお前、どうして来たんだ?」
 「まあ単に、お前の働いてる店で夕飯をとろうかと思って寄ったんだが」
 ソファに座っているポルナレフの前に、お茶のカップを置いて、
 「あんな話になっていたから、お前が多少気になって見に行ったところもあるが」
 「なんだよ。面倒見のいいおにいさんか」
 「そうだ」
 何言ってやがる、と小さく笑って、それからぽつりと、
 「ありゃスタンドじゃないのか?いくら攻撃しても全く通じなくてよ」
 「スタンドはスタンドなんだが…一種、自動的に発動するスタンドなのだろうな。本体は別にいるのだ。おそらくは暗殺集団の団長だろう。団員が刺青を彫って、復讐したい相手に対した時、刺青から発現する。そして対象を殺す。
 そういうシステムなのだろう」
 「なるほどな。刺青を消さない限り、どんな攻撃をしても虚像に向かって剣を振り回すようなものだったのか」
 「そうだな」
 「あの刺青をぶった切ってスタンドを消して、暗殺集団の頭には何か影響があるのかな」
 「おそらくないだろう。昨夜発動したことすら気づいていないと思う。団員がひとり死んだことを周りから聞かされる程度だろうな」
 「自動で発動するってのはそういうことなのか」
 うなずいて、
 「どちらかというと暗殺集団と言うよりは宗教的な団体だな。人を殺して神に捧げる教団は昔からある。この団体も、自分が殺したい相手を、復讐の神の力を借りて殺す、という集団なのだろう」
 「そういう相手がいることが、入団する資格ってことだな」
 「そうだな。金目的で入れる団体ではない訳だ」
 なるほどな、とまた呟いてから、つくづく感心した顔で、
 「お前はなんでも知ってるなあ」
 アヴドゥルは苦笑いして、
 「長い間にいろいろあったからな。調べたし」
 「面倒見が良くて、物知りのおじさんだな」
 「おにいさんじゃなかったのか」
 「細かいところ覚えてんなあ」
 低く笑った声がした。
 俺は、
 俺は、あの男の望んだことを全てやった。
 憎んでも憎み切れない相手を探し出してこの手で殺した。
 どんどん自分の中に向かって言葉の刃が突きつけられていく。その緊迫した内面と関係なく、取り繕うように外側の自分は会話を続けて、
 「あの男も入ってたし、俺が見かけた男も団員なんだろうし、随分とすぐ側まで広がっている組織なんだな」
 そして俺はあの男の手を押さえつけ、復讐の手段を取り上げ、命まで奪った。
 「ああ」
 「でもよ、団員が増えて各々が復讐にスタンドを使ったからって、本体の団長に何かいいことがあるのか?」
 自分ではやっていることをあの男には禁じた。永遠にかなわない。
 「復讐に使われる毎に、スタンドの能力がアップしていく等の利点があるのかも知れない。なにしろ復讐の神だしな」
 「ありそうだな。最後には最強のスタンドになることを目指してか。ぞっとしねえな」
 俺は卑怯だ。
 俺は狡くて
 「勝手だ」
 うっかりそれだけ言葉をこぼしていた。ほんの一言だし、小さな声だったので聞きとがめられることもなかった。ホッとしてさりげなく言葉を継ごうとした。
 息を吸い込んだ瞬間、伸びてきた大きな手が、ポルナレフの額から生え際を覆って、下へ降り、目を塞いだ。
 暗闇の向こうから、
 「そうだ。
 人は皆、勝手だ」
 低く深い声がして、
 「だからな。…気にはなるだろうが、あまり気にしなくていい」
 静かに静かにそう言って指で額を柔らかく数度擦った。
 ポルナレフは何か言おうとしたが、大きな手に額を擦られる心地よさに、言葉が出ず黙っていた。
 相手の声が少し、明るくなって、
 「次の休みの日も、本の虫干しを手伝え。わかったな」
 「何でそうなるんだよ」
 「俺も勝手なんだ」
 そして笑い声がした。
 ポルナレフは「全くだ」と言ってから、うつむいて少しだけ涙をこぼした。

[UP:2015/09/28]


 エジプトにはこんなボーイの居る店は無いと思います。嘘ついてすみません。
 またもやエジプトの神様シリーズになってしまいました。いい加減離れたいとも思います。そうだわ、今度思い切ってタイトルを「ちくわ」とかにして、そこから話を作ろうか。
 あとやっぱり、もう少し、もうちょーっと、2人を接触させたいとも思う。あまりに生殺し。


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