ある夏の夜、花京院がバイトを終え、外に出るともう午前1時をまわっていた。
自転車で深夜の街を走る。荷台があってしっかり後輪を持ち上げるスタンドの付いたいわゆる実用車だが、花京院はちゃんとロードバイク用ヘルメットをかぶっている。せっかくキメた髪がぐじゃぐじゃになるからという理由でヘルメットをかぶらない連中もいるが、彼は見かけによらずそういうことは言わないタイプだった。そこそこスピードも出すのだから、ちゃんと被り、走り、降りて、脱ぐ。前髪はぺちゃんこだが、2・3回いじりまわすとちゃんと復帰する。以前、側で観ていた承太郎が軽く感心して、
「形状記憶ごうき」
「入っていない」
即座に否定した。
「じゃあ、特殊な方法でパーマでもあててるのか」
(パーマをあてるって…)
ホリィさんがそう言ってるのを聞いて育ったんだろうなと思うと可愛くてヘソのあたりがかゆくてたまらない。何か突っ込んでやりたいが、指摘したせいで二度と言わなくなるのは惜しいから我慢する。
「僕は天然パーマです」
「そういう毛の質か」
「なんだかどんどん養毛剤の話みたいになっていくが、とにかくこの花京院典明は、髪の乱れを気にしてヘルメットもかぶれないようなヤワな精神とは無縁と思っていただこう」
「何言ってやがる」
承太郎に呆れられながら花京院は毎日ヘルメットを被り愛車に乗って、大学、彼のアパート、バイト先、その他の場所とを走っているのだった。
自転車は区で時々やっている超特価での払い下げ時に、外国人留学生たちと並んで手に入れてきたもので、ヘルメットは大学の先輩に貰った。自転車とヘルメットの形状が合致していないのは承知の上だ。いくら、髪が乱れても気にしないと言っても、中学生みたいな白い半円ヘルメットを被るのはさすがに気が引ける。
坂の途中にあるアパートの少し手前から惰性ですーいと敷地内に入っていく。定位置に停めて、足音を忍ばせ鉄の外階段を上がった。花京院の部屋は一番向こう端だ。
ドアを開け中に入るとムォッとした空気があふれだしてきて、DIOに出会った時ほどではないが吐き気がこみ上げてくる。部屋は2階だがまさか窓を全開にして一日中出掛けるわけにはいかない。しかしこのアパートは結構古いつくりなので、窓の上部に小さい空気窓がついている。そこを開けて出られるだけマシだ。
エアコンもついていない。ガラガラと窓を開けてから風呂場に行きはだしになり、水で足を洗った。あー気持ちいい、と呟いてから顔も洗う。本当ならこのままシャワーを浴びたいところだが、なにぶん古いアパートだ。そんなしゃれたものはついていない。昨日風呂の水を落として洗ってそれきりなので湯舟もからっぽだ。
「いくら真夏とはいえ、水道水をそのまま浴びたら心臓が停まるだろうな」
呟いてそれはやめておき、外に出て汗でべたべたの服を脱いで洗濯機に入れ、台所へ行くと冷蔵庫を開けて、冷えた麦茶を出してごっごっごと飲んだ。
生き返ったと思ってから、
「一気に飲んでお腹が冷えた」
弱々しくつぶやいてパンツ一丁の腹部をさすり、6畳間に座って、さてテレビでもつけようかと思ったが、なんだか急に疲労感が押し寄せてきた。テレビを観る気力も、それ以前にテレビをつける気持ちすらわいてこない。
とにかく、面倒くさがっていないで寝る準備をしようと思い、重たい腰を上げてなんとか立ち上がった。しかし何から手をつければいいのだろう。
「早くしないと、朝になってしまうぞ」
自分を叱咤してから、何もかもぶん投げて寝てしまおうか、と乱暴な考えが頭をよぎった。
さっき風呂場に行った時とっとと水をはって沸かせばよかったが後悔先に立たずだ。もういい、今すぐ寝て、朝風呂に入ればいい。それが一番睡眠時間を確保できる道筋だ。一番涼しいのは台所の床だからな。台所にシーツを敷いてその上に裸で寝るのが一番涼しい。多少床が硬いなんてこの眠気の前にはどうでもいいことだ。よし、そうしよう。
3つに折った布団の上に畳んでおいてあるシーツを取り、台所へ行って広げた。電気を消し、その上に倒れる。寝てもよい、と許可が下りた快楽にうっとりしながら目を閉じる。
肩胛骨の下あたりがむずがゆい。しまった。蚊に食われたか。でももう、窓際に置いてある蚊取り器具を取り出してコンセントに挿して、とやる気力など全くない。
(そういえば、僕が蚊取り器具のことをベープと言ったら、承太郎は最初怪訝な顔をしていたな)
すぐに何のことかわかったようだが、花京院は訊いてみた。
『君の家は何だった。金鳥あたりか』
『そうだ』
『もしかして、蚊取り線香に火をつけて使ってないか』
『よくわかったな』
やっぱりな、と満足げにうなずいている花京院を変な目で見ていた。あの顔を思い出すと笑いが浮かび上がってくる。ひとり台所の床に倒れてクククと笑いながら、なんとも言えない感情が胸を満たす。
(承太郎っていうのは、全く)
その思いを噛みしめながら、法皇の触手で蚊に食われたところを掻いた時だった。
ガタン!
そう大きい音ではないのだが、シンと静まり返った深夜にはものすごい音量に聞こえた。心臓がでんぐり返る。
しばらくじっと身動きもしないでいたが、それきり何の音もしない。そうっと、音を立てないように気をつけて、上体を起こした。
あそこから音がしたと思われる箇所を透かし見る。やはりそうだ。玄関ドアに開いた郵便受けの穴から、何かが突っ込まれているようだ。
郵便受けとは言っても内側に郵便物を受け止めるものがないので、全部三和土にボトボトと落ちる。新聞や大判の封筒やチラシなどは半分突っ込まれた状態で止まっている。今のように。
しかし、こんな深夜に、一体どこのピザ屋がチラシを入れていくだろう?
花京院はゆっくりと立ち上がり、静かにドアの前まで行った。充分に時間が経ってから、差し込まれたものの隙間から法皇をほんの少しだけ外へ出してみたが、誰かが待ち構えたり潜んでいる様子はないようだ。
それでも、片手でフタを押さえ、もう片方の手でその何かを掴むと、そっと中へ引き入れ、それからフタを静かに戻した。
その何かを持ったままトイレまで行き、照明をつけた。
やはり、持った瞬間に、その重みや手触りや、かすかな匂いで、多分あれだろうと思ったものだった。新聞だ。この時刻にドアの郵便受けに突っ込まれるもので、一番妥当と言えば妥当なものだが、それにしても早過ぎる。いくら早起き自慢の新聞配達でも、少なくともあと3時間後だ。この時刻ではまだ輪転機が回っているだろう。
頭の中で「なにか変だ」「おかしい」と思いつつ、それが予想した通りの物であったことに納得もしながら第一面を見て、そして思わず息をのんだ。
白黒反転のでかい見出しに、
『花京院典明 空条承太郎への恋心発覚!!』
(なんだこれは)
頭の中が真っ白だ。顔は真っ赤になっているようだが、同時に真っ青にもなっているような気がする。トリコロールだ。
(一体何が起こってる。僕は今何を見ている?)
混乱の極み状態の中、必死で紙面に目を走らせた。
『このたび花京院典明が、友人とされていた空条承太郎に恋慕の情を抱いていることが判明した。空条承太郎はかつて花京院典明がDIOの手先として命を狙ったが、返り討ちに遭い、その上命を救われた相手である。それまで友人を一切持たなかった花京院典明にとって、生まれて初めて出来た友人であり、またスタンド使いの仲間のひとりでもある』
心臓が喉元まで上がって来てドンドン鳴っている。口から出て来ないように喉に力を込め、必死で飲み下しながら続きを読む。
『DIOを無事に倒し日本へ帰国した後、花京院典明と空条承太郎は共に同じ大学へ通っている。故郷を離れ独り暮らしをする日々の生活の中、ふと気づくと空条承太郎のことを考え、彼の思いがけない癖や生活習慣を知ってはそのたびに幸せな気持ちになっている。それはまさしく恋である』
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
小声で抗議する。
『空条承太郎の夢をみることも一度や二度ではない』
「友人の夢だって家族の夢だってみるだろう。夢にみたからってそんな」
要するにみたということである。
「いやだから待て。一体これは何だ。どうして僕の密かな恋心が新聞に載ってるんだ。いや違う。僕が承太郎に恋をしてるって決めつけるのは何なんだ」
憤慨してわめきながらも、顔がはっきりと赤くなっているのがわかる。
変な暗示にかかるものか、と強がりながらも、しかし、腹の底から否定しきれない気持ちもあった。
感謝だけではない。尊敬だけでもない。強い友情だけでもない。胸の奥底でいつも静かに燃えているこの気持ちに呼び名を付けるなら、それはやはり、
「違うッ。何だ恋って。僕は否定するぞ」
口走った後、
(否定しようが何をしようが、承太郎がそうなんだと思い込んだら)
もしもそんなことになったら、もはや承太郎の友人でもいられなくなる。いや顔の見えるところには居られないだろう。自分は承太郎の前から姿を消し、彼の記憶の中で「DIOを倒す旅に同行し、その後ホモ告白をしてから突然居なくなった変なスタンド使い」という立ち位置になるのだ。絶対にごめんだ。
そこまで考えてからこっくりとうなずき、知らず知らず噴き出してきた冷や汗か脂汗かを拭って、それから「わあ!」と大声を上げた。
自分が手にしているのは新聞である。新聞とは幾多の人々の郵便受けに差し込まれ、人々の目に触れるものである。
こんなニュースが第一面の新聞なんて聞いたことがないが、現に自分が今手にしている。これが隣近所や、大学関係者や、何より本人に見られたら。
終わりだ。
謎のホモスタンド使いは姿を消し、承太郎は首を傾げて日常に戻り、ああそうだそのうちジョースターさんに「花京院の姿が見えんがどうした」とか訊かれて、仕方なく「奴はな」と事情を説明して「なんじゃと」と驚かれて、ジョースター家の2人が困惑した顔を見合わせるのだろう。ポルナレフとアヴドゥルさんにも情報は行くだろうか。わざわざは教えないないだろうとは思うが。そんな事態になってからからではさすがに会えないから、早めに一度会いに行っておこうかな。「よお、どうした。フランス見物でもしにきたのか」「カイロを改めて見て回ってくれ」なんて歓迎されて、そう言えばイギーはどこに居るんだろう。ニューヨークの古巣か。SPW財団のどこかの支部か。
そこまで錯乱した頭で考えてから、
「考え込んでいる場合か」
シャツとズボンを素早く着て、外へ出た。両隣りの部屋の新聞受けをチェックする。何も入っていない。
そっと下へ下りた。1階にも入っていない。このアパートで配達されたのは自分の部屋だけのようだ。
道路へ出る。深夜の町には誰も居ない。街灯だけが真っ白く輝いている。その下を、花京院は自転車に乗って走った。目的地は決まっている。承太郎のアパートだ。
(確か、今日は明け方頃帰ってくる筈だ)
そうっと部屋の前まで行く。大丈夫だ。郵便受けには何もない。
それを見届けとりあえずはホッとして、そのまましばらく待ってみた。が、新聞を差し込みに来るやつはいないままだった。
それ以上どうしようもないので再び自転車に乗り、おめおめと自分の家に戻っていきながら、
(万一、この後承太郎の家に新聞が来た時のことを考えて、それらしい言い訳を考えておかなければ)
何かの間違いだと言い張ること。僕がそういう人間だと思われるのは不本意だと言い張ること。
君に変な意識を持たれてはこれから先やりにくいからやめてくれと言い張ること。
そんなことを必死で考えながら、何故か妙に切ない気持ちになった。
承太郎は明け方に戻り2時間ほど眠って起き、寝る前にしかけておいた3合ご飯とみそ汁と納豆とわかさぎの佃煮と紅鮭と小松菜の胡麻和えをもりもりと食った。最初の頃はご飯以外はホリィが送ってよこしたものばかりだったが、少しは自分でやたらとしょっぱいみそ汁や、黒焦げの魚や、あちこちチリチリになっている野菜炒めなども作るようになってきたところだった。
どうも自分は火力が強すぎるようだ、と意識してはいる。もう少し抑えるといいよ、と花京院にも言われた。
「あいつの方が料理はうまいな」
独り言を言う。正直に言うとあっちの方がずっとうまい。薄味で歯ごたえもちょうどよく、ソツのない味だ。ただ、時々花京院が驚きの目を見張って、「承太郎、これは本当にうまいな!」と本心から言って寄越すことがある。「そうか?」と軽く返すが、正直嬉しい。かなり得意な気分だ。しかし、「本当にうまいから、もう一度作ってくれないか」と言われても、二度と味が再生できないのだ。花京院はちょっと呆れてから、「一期一会だな」と言って、しみじみと味わうようになった。
今朝の鮭も焦げている。気をつけたのだがまだ火力が強かったらしい。マジシャンズプラチナだ。
「今夜は、花京院の料理を食いてーな。あの」
あの、ナントカというやつだ。おふくろも作っていた。一度料理の説明をしたらあいつがやたらウケていたが。ああそうだ、肉や魚に服を着せて焼くのだ。それも普通のカツや天ぷらではなく。
何だったかと思いながら食べ終わった時、ピンポンとチャイムが鳴った。
こんなに朝早く誰だ、と思いながら玄関まで行ってドアを開けた。
花京院が緊張した笑顔で立っていた。なにやらじっと承太郎の表情を窺っている。
「お前か。なんだ」
「実は君に貸していた本が朝イチで必要になって」
「そうか。入れ」
「お邪魔します」
「ちょっと待ってろ」
「はい」
承太郎が皿と茶碗類を持って台所へ立った。その背を見送ってからその辺りを必死で見回す。あの新聞は見当たらない。さっきからの承太郎の態度と考え合わせてみても、多分承太郎のところへは来なかったのだろう。
良かった、と心の底から安堵の吐息をついた花京院のところへ、承太郎が戻って来て、
「お前、今日は何時終わりだ」
「今日はバイトが無いから…6時には」
「そうか。じゃあ、今夜あれを作れ」
「えっ」
「あれだ。なんていうんだったか忘れたが、ピカソみてーなやつだ」
花京院が頭上に疑問符を浮かばせて、口の形で「ピカソ?」と言っている。
「肉に服着せて焼くやつだ」
「ああ」
疑問符が電球になって点いた。
「ピカタだね」
「それだ」
うなずいて、
「あれは何の服を着せるんだ?」
花京院は笑いながら卵だよと答えた。
「卵か。なるほどな。卵ならうちにあるし、鶏肉でいいか?」
「いいですよ。じゃあ夕方来ます」
「頼む」
承太郎が微笑して、
「ついさっき、お前の作るあれが食いたくなった」
その顔に花京院は胸がぎゅっと掴まれ、そして、
『花京院典明、空条承太郎への恋心発覚!!』
の見出しがバーンと脳内に広がり、ひとりでやたらと慌てた。
その夜花京院は承太郎のアパートに行き、2人分のピカタを作り、承太郎はみそ汁を作って、しょっぱくなったので水を足し、味がなくなったので味噌を足し、足し過ぎて水を足し、鍋いっぱいになった。
「いただきます」
「ああ。みそ汁なら何杯でも飲めるぜ」
「あははは」
お互い笑い合って夕飯をとった。「ああこれだ」と言いながらうまそうにムシャムシャ食う。たちまち皿が空になった。
「よかったら僕のを一枚あげるよ」「そうか」ムシャムシャごくり「代わりにこの粉をふいたイモをやるぜ」「いいよ」「そうか」だのと会話する。
一緒に洗い物をしながら、
「満足した。また作ってくれ」
「いいよ。他に食べたいものはないのかい。なんて訊けるほど料理上手なわけではないけど」
「お前の料理なら、なんでも美味い」
そんなことを言われると嬉しくて顔が熱くなる。照れくさくて口が拗ねたみたいにとんがる。誰に言われるよりも嬉しいと思う。
それはやはり、恋…
「違う違う違う」
取り乱してガシャガシャと食器を洗う。隣の男が「?なんだ」と訊いてくるが、いよいよその顔が見られないまま、なんでもないんだとごまかした。その時、
「そうだな。あれがいい」
「何です」
「ピーマンを真っ二つにしてひき肉を詰め込むやつだ」
「ああ」
赤い顔で笑いながら、
「いいですよ。なら明日はスタッフドピーマンを」
言いかけてから、別に明日すぐ食べたいなんて言ってなかったと気付き、慌てて何とか言葉を継ぎ直そうとしたが、その前に、
「よし。じゃあ明日は肉を買って帰る。豚でいいのか」
「いいけど、それより肝心のピーマンはあるのか」
「この前おふくろが送り付けてきた箱の中に入っていた」
「さすがは、過保護な不良だな」
「うるせえぞ」
食器を洗い、お茶を煎れ、テレビを観ながら一服して、
「じゃあ帰ります」
「ああ」
玄関口でにやり笑って、
「明日な」
「はい」
なんとか、まぶしくて目を細めたみたいな笑みを返して、自転車に跨ると自分のアパートへ帰った。
「ああ満腹だ」
今日はゆったりと風呂に入った。汗を流して風呂から上がり、扇風機の風に当たりながら、
(うまそうに食べていたな、承太郎)
あの食べっぷりを思い出すとヘソのあたりがムズムズして思わずフフフと笑ってしまう。
「よし、明日も美味い肉詰めピーマンを作るぞ」
張り切って腕を宙に突き出し、早めに寝ることにした。あちこちの電気を消し、鼻歌を歌いつつ腹の上にバスタオルを乗せて、横になる。そのまま墜落するようにすとーんと寝てしまった。
ふと、目を覚ましたのは何故だったのか。
一気に深く眠った反動か。もともと5時間も眠れば目が覚めるクセがついていたのか。何かの気配を、法皇のセンサーで感知したのか。わからないが、花京院は闇の中ぱっちりと目を開けた。
まだ深夜だということは、闇の気配全体から感じ取れる。夜明けまではまだ遠い。寝直すか、と思った時だった。
ガタン!
身体が硬直する。しばらくの間じっとして、それからそっと顔を動かす。
昨夜と同じ状況が、僅かに開いて見える玄関ドアのポストのあたりから窺い知れた。
(まさか)
花京院は闇の中静かに素早く起き上がって、窓の下へ寄った。それからそうっと窓の外をうかがった。
アパートの敷地内から外へ出てゆく人影はなかった。そのまま暫く観察を続けたが、全く動かない『真夏の深夜』というタイトルの一枚絵が、しらじらとした外灯の下に広がっているだけだった。
玄関へ行く。音を立てないようにして、ポストから突っ込まれているものを抜き取り、トイレまで行って電気を点けて、光の下でそれを見た。
それは昨夜と同じように新聞であった。見出しには、
『花京院典明 空条承太郎に請われ夕飯を作る』
恋心発覚ほどセンセーショナルではないと判断されたのか、白黒反転ではなかったし、あれほど大きな文字でもなかったが、だったらいいというものでもない。
呆然とするような、「ああやっぱりな」と納得するような頭で、花京院は文面に目を走らせた。
『是非、あの料理を作ってくれと要請を受け、花京院典明は即座に引き受けた。恋する相手からのたっての頼みであれば当然である。空条承太郎は非常に満足して食事を終え、別のものも食べたいと言った。特に日付の指定がなかったのをいいことに、花京院は明日も作りに来ることに仕立てたのである。なかなかの手管だ』
「手管って、そんなつもりはない。僕は本当にうっかりしたんだ」
うろたえ、否定するが、そうなのかじゃあ訂正しようとは誰も言ってくれない。
『こうやって毎日空条承太郎の夕飯を作り、いずれはそれが当然となるように仕向けていく作戦なのであろう。彼は【男をつかむなら胃袋をつかめ】を実践している真っ最中なのだ』
「いや、だから、違う…」
無力な呟きは暗い廊下に消えた。
昼間の自分の行動は客観的に見るとそういうことになるのか。そして果たして、自分の中にそういった意識が全くなかったと言い切れるだろうか。
満足した。また作ってくれ
お前の料理なら何でも美味い
そう言うあの微笑が、自分に向けられることに、僕は道ならぬ歓びを抱いていないのだろうか?
「だから、そうやって、自分を暗示にかけてどうしようっていうんだ」
怒りと焦りで裏返った怒鳴り声を上げ、それから黙った。
朝のチャイムに疑問を持ち、そしてまた「昨日に引き続いてか」と言いながらドアを開ける。予想通り、花京院が緊張した顔で立っていた。
「上がれ。なんだ?」
そう言う承太郎の表情を僅かな間見てとってから、
「いや、ひき肉は、出来れば合い挽きの方がいいなって言おうと思ってね」
そのくらいのこと電話で充分済むだろう。わざわざやってきて言うことではない。だが。
花京院はあの新聞が届いていないか、自分の目で確かめずにいられなかった。昨日の朝なかったから今日も届いていないとは限らない。もしも、あの文面を承太郎が見ていたら?
あの新聞を読んだ承太郎の部屋に、のこのこ肉詰めピーマンを作りになど来られるわけがない。
だが、承太郎の表情や口調を窺い見るに、どうやら今朝も届いてはいないようだ。承太郎は今世紀最強のポーカーフェイスだから、びっくり仰天の新聞を読んでからでも当の本人相手にしらっと応対できるのかも知れないが…
昨日のようにすばやく室内を見渡すがやはりあの新聞はない。もう一度承太郎の目つき、顔つきを見て取って、
(大丈夫だ。読んでいない)
判断し、心の底からほっとして、
「一時限目があるのなら、一緒に行こう」
そんな花京院をいっとき注視したが、何も触れず、ただ「ああ」と言ってから、
「そこで座って待ってろ」
言い残して食器を持ち流しへ行った。
良かった、と密かにため息をふかくついたところに戻ってきて、無言で花京院の前にコーヒーのカップを置いた。
「ありがとう」
返事はなく洗面所へ消えていく。また深くため息をついて、コーヒーを飲んだ。ネスカフェゴールドブレンドだった。
その夜も承太郎の部屋で肉詰めピーマンを作り、ふたりで食べた。明日は生憎と、花京院のバイトがあるから夕飯は作れない。そのことは承太郎もわかっているから、最初から「明日の夕飯は」とは言わなかった。残念だと思ってしまう。今までだって、花京院が承太郎の家で夕飯を作り、「明日はダメだよ、僕はバイトだ」「ああそうだったな」という会話をしたことがある。その時は何とも思わなかったのだが。今夜はやけに、寂しいと思ってしまう。数日、一緒に夕飯をとったからといって、それですっかり狎れてしまうなんてイヤだと口を引き締めた。
今日も美味しく出来たと思う。承太郎の食べっぷりを見るとそう判断できる。それとも承太郎はなんでもかんでも美味しそうに食べる、ヘソ出しTシャツの健康わんぱく大将なのだろうか。そうならあてにならないが。
いやでも、砂漠や海で「取り敢えず」のまずい食事をとるしかない時には、あんなふうには食べていなかったと思う。文句も言わなかったが、特に美味しそうでもなかった。
ひとりの部屋で横になり、部屋の天井を見上げながらかみしめるように思った。
(承太郎と砂漠や海の上で食事したんだなあ。50日あまり一緒に居て)
毎日毎晩、寝食を共にしたのだ。今ではもう望むべくもない。
いや、史上最悪の吸血鬼を倒しに行く旅など行きたくはない。そんなデカい山登りに出かけるのはもう御免だ。
でも、あの旅は自分にとってかけがえのない旅だった。それは確かだ。
ふと目を凝らす。天井を突き抜けて見えるのは満天の星空だった。半円のドームはどこも、建物や山で削られない。美しい藍色の半球だ。
その真下に、星のような目をした男が立っている。その顔を思い浮かべた時、身の内が震えるような感情がこみ上げてきた。慌てて手で口を覆った。
どんな強い敵と遭おうと決して慌てない。冷静そのものだ。傷を負ったくらいでどうということもない。そうだ、承太郎の強さとは、スタンドのパワーではない、精神そのものの強さだ。それこそ、白金色に輝く星のような精神だ。
胸の中がとどろいている。この熱はなんだろう。他のどんなことでももたらされない、この強く激しくつらいようなものはなんだろう?
わからない。でも、こんな気持ちになれる映像を身の内に持っているのは、自分にとって宝だ。煩悶を抱えて沈み込む夜、自分はこの映像を胸で再生し、「もう少し頑張ってみよう」と思えるだろう。いや、思える。今までそうだった。ああそうだ、今までずっと僕は―――
(承太郎)
ガタン!
目を剥く。ほんの一瞬固まっていたが、即座に飛び起きて、台所へ走った。ドアから突っ込んである新聞をひっつかむと引き抜く。紙面をわざわざ広げなかったが、『ついに自ら認』の文字が目の端を滑って読めた。
外へ飛び出て左右を見渡す。誰も居ない。そんな筈はない、ドアに差し込まれてからものの数秒しか経っていない筈なのだ。
キィ、という微かな音が聞こえた。はっとして、
「法皇の緑」
緑の蔦が闇の中輝きながら四方へ走った。その一本に、外の通りを移動していく何かの存在が感知された。
「もうあんなところに?どうやって」
疑問に思いつつも今夜は迷いはなかった。法皇をぐぅんと伸ばし、電柱の上まで舞い上がる。
遥か前方の外灯の下を何かが一瞬照らされて消えた。花京院は落下に転じる前に更に前方へ法皇を飛ばし、飛翔した。影が先の四つ角を右へ曲がった。
(この道って)
(まさか)
血の気が引いた。
承太郎のアパートへの道だ。
ついに、とうとう、承太郎の部屋に新聞を届けに行く気か。
懸命に走りながら、きっとそうだという気がした。それなら絶対に追いつかなければならない。そして阻止しなければならない。
深夜の道を必死で跳び続ける。どうしても追いつかない。なぜだ?今の自分は非常識な速度の筈だ。自転車ごとき、追いつけない筈はないのに。
なにかを反射した光が、今承太郎のアパートに入っていった。
ものすごい勢いで突っ込んでいく。法皇の力で自分を弾のように飛ばし、すんでのところで外階段から落ちそうになったが、なんとか踏みとどまり、承太郎の部屋へ走った。
ここからでも見える。承太郎の部屋のドアに、何かが差し込まれている!
(やっぱり)
必死で疾走する。手を伸ばす。あと2秒というところで、
新聞が、
中へ、
入っ
「!」
指先をかすめて新聞がドアの向こうに消えた。
あああああ、と悲鳴が口から洩れそうになる。懸命に奥歯を噛んでそれを堰き止め、飛びついてチャイムを鳴らした。まだだ。まだ読んでいない。読んでいないうちにドアを開けさせる。顔を出したらその瞬間に法皇でひったくる。読まれる前に細切れにする。大丈夫だ。まだ間に合う。
「開けてくれ、頼む」
ぴんぽんぴんぽんぴんぽんぴんぽん
「無視するなッ!承太郎!」
悲痛な叫びが更にボリュームアップしそうになった時、がちゃ、とドアが開いた。猛烈な勢いで飛びつき、引き開けた。そこには勿論承太郎が立っていたが、その手に新聞はない。血走った眼で周囲を見渡し、
「どこだ」
「何がだ」
「今取った新聞だ!」
「何の話だ」
「とぼけるな。たった今新聞を内側に入れただろうッ」
「何もしてねーぜ。お前に叩き起こされるまで、ぐっすり寝てたんだ」
見ればいかにも「今の今まで熟睡していた」顔をしている。花京院はちょっとひるんだが、そうか、と言って引き下がるわけにはいかない。あんなものを見られたらおしまいなのだ。
「ごまかさないでくれ。僕にとっては深刻な問題なんだ。今の今、新聞がドアポストにささっていたのを、内側から引き込まれたのを見たんだ。君がやったんだろう」
「おい」
低い声には腹立ちとうんざりが入り混じった響きがあった。手が伸び、花京院のパジャマ代わりのヨレヨレTシャツの襟首を掴むとぐいと引き寄せ、室内に引き込まれた。
がちゃんと音がしてドアが閉まる。承太郎の手が花京院の肩を掴み、ぐるんと後ろを向かせ、
「見ろ」
見せられたのは、ドアの内側についている、郵便物が下に落ちないようにしてくれる郵便受けの存在だった。花京院のところは貧乏アパートのためむき出しなので入れられたらボトボトコンクリに落ちるが、承太郎のアパートはそれよりは立派で、そういったカバーがついていた。
「完全に郵便受けに落ちればフタを開けて取れるんだが…取付位置が下過ぎてな。ただ差し込まれただけの位置だと、逆に内側から取れねえんだ。だから俺はピザ屋だの水道修理のチラシは、外から取ってる」
要するに、ドアポストに突っ込まれた状態のものを、内側から引き入れることは構造上出来ないらしい。
花京院はよろよろとその郵便受けに近寄り、フタを開けて手を突っ込んでみたが、なるほど角度的に無理だ。承太郎の部屋へは何度も来ているのに、今まで全然知らなかった。
うろたえ、首を振り、
「で、でも、確かに見たんだ。新聞が内側へ引き入れられていくのを」
「そうかよ。じゃあその新聞てのはどこにあるんだ」
「…いや、…ないようだが」
ふああ、とあくびをして、
「で?」
そう。
そうだろうな。そうとしか言いようがないだろう。熟睡していたら突如深夜にピンポン攻撃をされ、起きてきたら友人が理解不能なことをまくしたててくる。相手の主張があり得ないことだと双方理解したら、その次に来るのは、
「…すまない」
低い声で言い、頭を下げる。とりあえずは謝罪から入るしかない。しかし、
「謝るより先に、説明しろ」
そう。
そうだろうな。僕だってそう言うだろう。
でも、何と言えばいいのか?
相手はすぐ目の前に無言で突っ立っている。いつまでも黙っていたら殴られるだろう。彼は気の長い方ではないし。
「承太郎。あの」
口を開けた時、キィィ、という聞き覚えのある金属音が遠くでした。
はっとする。さっきも聞いた。僕の部屋に新聞を入れた後、自転車置き場の方からした音だ。そして夜の路上を遠ざかって行った音。
花京院はだっと外へ飛び出した。そのまま走り、外階段の下へ飛び降りた。
自転車が敷地を出て行こうとしている。
「待てっ」
絶叫し法皇を飛ばした。相手に絡みついて動きを止める、はずだが、手ごたえがない。
「なに?」
ない。何もない。文字通り影に絡みつこうとしたかのようだ。なぜ。そこに居るじゃないか。見えているのに。
影はゆっくりとこちらを振り返った。背筋が冷たくなったが、それどころではない、新聞の謎を解明しなければ、という思いの方が強く、花京院はその場に立ったまま相手の顔を凝視した。
見覚えのない顔だった。
そして、命のある存在ではないことがなぜかわかる目をしていて、花京院の胃がずんと重くなった。不意に、
驚いたよ 追いつくとはね
耳元で呟くような声がした。奥歯を噛みしめる。あわわわ、と言いそうなのを必死で抑えつけている。
そんな花京院の様子に、相手の黄色い目がふと微笑んだようだった。
怖がらなくてもいい、何もしないよ。ただの幽霊なんだから
「ゆっ」
オクターブ高い声が出かけて口を閉じた。
そんな相手に、もう少し笑いが大きくなった。幽霊はひとしきり笑ったあと、しみじみと、
生きている時は、僕は貧乏でね。借金もあったし。毎日、懸命に、働いていた。それはそれは必死だった
えらく実感のこもった声に、思わず引き込まれて、相槌を打ちそうになる。
居眠りトラックに撥ねられて死ぬ直前まで、新聞配達をしていたんだ
花京院の目が見開かれた。
新聞配達の仕事は、辛かったけど、性に合ってたよ。夜が明けたら、みんな起きてきて、僕の届けた新聞を読んでくれるんだなと思うと、わくわくした
(新聞配達員の幽霊なのか)
だから今も新聞を届けて回っているのだ。なるほど。気の毒なことだ。心からそう思うと、恐怖は大分消え去った。可哀想に、と同情しかけて、あっと思い出し、
「それはともかく、どうしてあんなでたらめな新聞を配るんだ」
あれは事実だ
容赦なくズバリ言われて「違う!」と慌てたが意にも介さず、
君が隠している本心だ。新聞には真実を載せなくてはならない
「なっ、なにを、変な、…言いがかりだ。ちょっと待ってくれ。いや、その前に」
すっかり惑乱している。ちょっと待てちょっと待てと片手を伸ばし、
「そもそも、どうして僕に関する新聞なんだ」
君が、僕の自転車に乗ってくれているからだ
絶句する。外国人や苦学生向けの安い自転車販売に、新聞配達員の幽霊の愛車も紛れ込んでいたらしい。自分はそれを買ってしまったらしい。なんということだ。
「き、君には悪いが、売らせてもらう」
そうか。残念だ。なかなか愉快な新聞だったのに
「だから違うって言ってるだろうッ」
はははは、と最後に笑い声が響いて、ふっと消えてしまった。
ちょっと待て、と言いかけて止めた。もう訴えても返事はこないからだ。
「なるほどな」
後ろから声がして飛び上がる。振り返ると承太郎が下駄に足を突っ込み、Tシャツの上から腹のあたりを掻きながら、
「お前の買った自転車に、仕事熱心な幽霊がとりついていたってわけか。数日前からお前についての新聞を刷って、配ってたと」
「聞いていたのか」
「聞こえたからな」
またあくびをしてから、
「で、お前があんなに必死で俺に読ませまいとした新聞てのは、どんな内容なんだ」
それはねと言えるくらいならあんなに必死になる訳がないだろう。わかって言ってるんだから本当に根性が悪い。
こっちの気持ちがわかったみたいに承太郎はニヤリと笑って、
「聞かせろ」
「絶対言えない」
「聞かせろ。ひとを深夜に叩き起こした罰だ」
ぐっと詰まる。が、
「…言ったら、僕はもう二度と君とは会えなくなる」
うつむいた。相手の顔が見られない。青ざめた額に、前髪がぐんにゃりと力なく掛かっている。
「僕は、そうなりたくない。頼む、許してくれ承太郎」
相手の精一杯の言葉に、承太郎はしばらく黙っていたが、
「しょうがねーな」
思わず顔を上げる。眠そうなハンサム顔がフンと言って、
「だが他のことで罪滅ぼしをさせる」
「な、なんだ」
「バイトのねえ日は夕飯作りに来い」
そっけなくそう言って、背を向けると、階段を上がっていった。呆然として見上げていると、一番上まで上がってから振り返って、
「明後日はギョーザだ」
そう言い渡して行ってしまった。
花京院はその後もしばらくそこに立っていた。
まだ夜だが、ごく僅かに闇が薄らいできた気がする。夏だから朝も早い。
気が違ったみたいにすっとんできた道を、帰りは歩いて帰る。はだしの足がぴたぴたという音を立てる。
虫の声がやかましい。
何かを必死で考えまいとしているような気がする。考えてしまったらおそらく自分は奇声を上げて夜のストリートを疾走し、電柱に激突するだろう。
そんなことにはなりたくないのでやはり、「眠いのは僕も同じだ。さっさと家に帰って寝ないと」だのといった思考を手繰り寄せながらひたすらに歩いている。
だが、どんなに抑えようとしても抑えがたく湧き出てくる喜びが、花京院の足を徐々に速めさせ、彼の気持ちを雄弁に物語る前髪を生き生きと、うねうねとうねらせていくのだった。
「恐怖新聞」という漫画の冗談です。
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