しんしんと冷える夜だ。音もなく雪が降る。
足音さえ吸い込んで消してゆく雪の上を、仗助は、自分の靴だけ見ながら歩いていた。
仗助が見ないようにしている、数歩前を行く靴は、海を見下ろす位置の手摺の手前で止まった。
止むを得ずそれに追いつき、隣りに立ち、視線を靴から引き上げ、夜の海へと向けた。
海に降る雪は、蛍のように光を返しながら、一心に身を投げている。
それを見ながら、仗助は言った。
「億泰と組んで、リフォームのカイシャでもつくろうかって言ってんスけど、どう思います?」
なぜ俺は、こんなことをしているんだろう。自分と、この人の肩に雪を積もらせて、わざわざこの人を追い詰めようとしている。そして、なんだか全然関係のない話をしているし。
「コワレてる部分は俺が直して、捨てるしかねーでっかいもんは億泰が消しちまうってことで。元手はいらねーしけっこーはやると思うんですけど」
ふっと、何も聞かずに、済みませんでしたと頭を下げて終わりにしてしまおうかという気持ちになった。しかし、それで納得してしまえるかというと、無理だ。
「いいアイディアだな」
相手が呟いた。
とめどなく落下し続ける純白の蛍から目を離さずに、
「承太郎さん」
それから、隣りに立って夜の海を見ている、年上の甥を見上げた。
「なんだ」
夜の海のように深く静かな声だった。
冷えきった手を拳にして握りしめ、
「別に、だからどうだっていうんじゃないんです。あんたは俺より十以上も年上で立派な大人だし、あんたにとっては俺が知らないでいる期間が大部分なんだから、その間のことを俺がとやかく言うのは変だし、第一そんなつもりはないんス」
どうしても言い訳になってしまう自分を叱りつけるような調子でまくしたてた。
雪が目に入って、目をつぶる。
瞼の裏に、あの男の顔が蘇った。
緩く束ねた鮮やかな金髪、すっきりと通った鼻、妙に肉感的なくちびるで、微笑む更に一歩手前の表情をつくって、
ぼくの、もうひとつの名を知っている、あなたは誰です?
皮肉っぽく鋭利な、美しい金色の瞳に、このひとの顔を映していた少年。
その顔を払いのけるように目をあけ、まばたきし、彼への苛立ちに背を押させて仗助はもう一歩前へ出た。
「ただ、気になるから、教えて欲しいだけなんス。教えて下さい。あいつは、」
承太郎の目がほんの少し大きくなった。
目の前の端整な、男らしい顔。あいつが金髪になる前の写真。
やっぱり、似ていると思う。ふたつの顔の間に、何の関係もないとするのは不自然だと言えるくらいに。
承太郎さんは俺の父親と、ぱっと見た面差しがそっくりだし、俺はもっとジョセフのじじいに似ていると言われる。血の繋がりが、結構顔にでる血統なのだ。
では。
あいつは、
俺の父親とも、俺とも多少似ている、程度だが、何故か承太郎さんとはひどく似かよったものを感じる顔のあいつは、
「…あいつは、承太郎さんの子供なんですか?」
尋ねた後、息を止める。わざとではない。息ができないのだ。
承太郎は、はりつめた仗助の顔を見ていたが、ふっと視線が和んだ。笑顔の、ほんの少し前の表情は、やはりあいつによく似ている。
「仗助」
「非難とかいうんじゃないって言いましたよね。ただ知りたいだけだって」
戒めてもいないのにやっぱり言い訳をしている相手に、
「いろいろと気をまわしたようだな」
「だってね、承太郎さん、あいつ」
音をたてて息を吸う。吐き出して、その最後の部分で、
「あんたに似てるんス」
つけ加えるように言った。
苦笑の中に、もう一滴苦さを落としたような表情になって、承太郎はややあってから、ようやく、
「なるほどな」
とだけ言った。
証拠を突きつけたような形になったのだろうか、と一瞬ひるんだ。そんなつもりではないのだ、ただ自分がこんなにむきになっている理由を言っただけなのだが。しかし、ここで遠慮してやめておくなら、最初から言い出したりしない。
「わかった。別に隠しておくことでもない。いずれお前には言うつもりだった」
やっぱり、子供なんだ、と仗助は思った。目のさめるような金髪の、美人のイタリア女と恋をして、それで、
だが、何かがおかしい。
今まで一度もひっかかってこなかった異物が、急に胸の底から浮かんでくる。
何がおかしいんだ?
思わず首をひねった仗助の心を読んだように、承太郎は今度ははっきり苦笑して、そそっかしい叔父を見おろしながら、
「しかしな。あいつは今十五才だぞ。俺が何歳の時の子供だと思ってるんだ」
「あ」
そうだ。それだ。俺より一回り年上の承太郎さんがあいつの父親になろうとしたら、中坊で子供をつくらなきゃならない。
なってなれないものじゃないだろうが…
「す、すみません、ちょっと無理がありますね」
言いながらへらへら笑った。あいつは承太郎さんの子供ではないのだ。なんだ、そうか。安心したと同時に妙にハイになり、仗助は無意味に笑い続けた。
承太郎は仗助が笑い終わるのを待って、一回息をつくと、
「あいつは俺の子供ではない。だが、ある意味で遠い親戚に当たる。つまり、お前も、お前の父親もだ」
「俺の親戚?」
「お前から見ると、曾祖父の子供ということになる」
何がなんだか全然わからない。
眉を寄せて黙っている仗助に、承太郎はなにかしら暗欝な表情になって、
「お前にも話したことがあるだろう。忘れたか?
あいつの父親は、俺が殺した。名は、ディオ」
仗助の表情が止まった。DIO。二年前、杜王町を覆いつくした恐怖の根元である男。億泰の父を破滅させ、形兆を狂わせ、そして吉良を生み出した原因。
右手を、自分の胸に当てて、承太郎は言った。
「だが、あいつから見れば俺は、血のつながり以前に父親を殺した男ということになるな」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。変な言い方はしないで下さい。だってそいつは、とんでもねえ化け物なんすよ?山ほど人を殺して、人を食い物としか思ってない野郎なんですぜ?承太郎さんの仲間だって…殺されたんじゃないすか。まさか、後悔してる訳じゃないでしょう」
仗助の慌て方に薄く笑った。その笑みは寒さのためかすぐに凍った。
「後悔はしていない。奴を殺さなければ世界が破滅した。ただ、事実はそうだと言っているだけだ」
「だからって承太郎さん、あいつに殺されてやろうなんていうんじゃないでしょうね。承太郎さん変にサービス精神があっからな。その手のこと考えてんなら、俺が断固阻止しますよ」
「そんなことは言ってない」
言ってないが、と続けかけて、承太郎は振り向いた。どうしたんだと思いながら視線を追った仗助は、
「お前は」
そこに、太陽という名と、太陽のような金髪と瞳と、太陽からは最も遠い素性の男を父に持つ少年が、立っていた。
「聞いていたのか」
表情のない声で承太郎が呟いた。
少年は、特にショックを受けたわけでもない様子で、ちょっと顎をしゃくってみせた。
肩につもった雪の量で、話は始めから聞いていたらしいことがわかる。
少年が無表情なことに、仗助は苛立ちと警戒心を抱いた。突然、承太郎さんに襲いかかったりするかも知れない。俺は父親を殺した男だ、という言葉を聞いているのだから。
しかし、どうしてこうタイミングがいいんだ、と思ってから、すぐに気づいた。
「お前、後をつけてきたのかよ」
「そうです。僕が何者なのか、僕自身が知っている以上のことを知っているらしいから、教えてもらおうと思って」
悪びれず、すらりと答える。
突っ込みようがなく、仗助はぐっとつまった。
少年は視線を承太郎へ移した。金色の目に、怒りや憎しみの感情はないように見えるが、わからない。なにしろこの子は、DIOの息子だ。怒りや憎しみの感情で相手を殺す人間ではなかった。興味がないとか、面白半分程度で殺す人間だ。それ以前に人間ですらなかった。
「僕は、正直あなたを憎んだりはしていない」
不意に少年が言った。
不思議な輝きの目が、彼のスタンドのように、生き生きとした命を宿して、
「僕の父親が生きていても、僕を可愛がる前につまらなそうに殺す男だったということは、なんとなくわかる。納得できる。信じられる」
まるで歌うように言って、
「母も、僕を顧みなかった。僕にとっては父と同じくらい希薄なひとだ。母は父のことを全然教えてくれなかったし、自分が愛を交わした相手との間に出来たのが僕だということも忘れているようだった。
僕は両親を愛そうとしても、その対象そのものがない。感謝しようとしても、せいぜい、父には母を妊娠させてくれてありがとう、母には堕胎しないでくれてありがとうと言うくらいなんです」
凄絶な告白を、薄く微笑んでくちに乗せる相手を、仗助は凍り付いたようになって見つめた。
「でも僕は、なぜか、そんな父の写真を身につけてる。無意味なお守りですね。母がくれた唯一の品だ」
胸元のポケットから、白いしなやかな指で、パスケースの中に挟んである一枚の写真を取り出すと、承太郎の目の前に示した。まるで身分証明書を見せているみたいだった。
抜けるように白い肌、あでやかな黄金の髪、冷酷無比なくちもと。人を、己の食料としか思っていない、冷たく美しい金色の目。優雅で、華麗で、どこか下品な貌をしている、夜の国の王が写っていた。下に、誰の手に寄るものなのか、乱雑な筆跡で、DIOと書かれていた。
承太郎の表情が凍っている。
何年経とうと、過去にあった事にしてしまいきれない。今も、どうかすると彼の最も深い内側の部分から、呪いのようにあの男の声が聞こえてくるのだ。彼を見つめ、あざ笑い、指を伸ばして、
そこにいろ、ジョータロー。今お前の側へ行く。そして、お前をゆっくり殺してやる。嬉しいか?
表情のない、ややもすると平凡な男の声は、十数年たった今も、承太郎に己の手が血塗れになっている夢をみさせる。だが、
かけがえのない仲間たちの命を贄って、やっとの思いで闇に戻したのだ。
彼らの命が、あいつを地獄に封じて二度と蘇らせはしない。
失った男たちのことを思い出した時、ようやく承太郎の頬に感情が戻った。一度小さく開いた唇をかたく結び、目を閉じてから開く。
それを、少年と仗助は黙って見ていた。
この人が、恐怖を顔に出したのはこれが初めてだ、と仗助は思った。どんな苦難や絶望の前でも、やれやれといった面倒くさそうな顔、多少の焦燥と苛立ち程度の感情しか見せたことはなかった。
この人に、こんな顔をさせるような体験だったのだ。写真の男との戦いは。
そして、と振り返り、相手が自分と同じように承太郎の表情の変化を見守っているのに気づいて、かっとなった。
しかし、仗助が何か言う前に、少年は承太郎に向かって、
「僕は、父を殺したあなたを怨んではいません」
もう一度、そのことを口にした。
「ただ、教えて欲しいんです。僕のことを。僕の父の事を。それから、あなたのことをね」
にこりと笑った。その笑い方はDIOのものとは違ったので、承太郎は無意識によかった、と思った。
「いいだろう」
低く言った承太郎を、仗助は少々不満げに見上げた。こんな野郎の願いを聞いてやるんスか、といったところだ。
少年は反対に満足げにうなずいた。つもっていた雪が舞って、金髪を縁どった。
「場所を移しましょう。ここではユキダルマになる」
どうぞこちらへ、と優雅な身のこなしで、道を示す。やることなすこと仗助には気にくわない。そうか、とその時気がついた。
こいつ、気取ったところが露伴にも似てやがる。
そう思ったらいよいよ気にいらない顔の仗助に、少年は、
「君も来るんですか?」
決定的に怒らせるようなことを言った。案の定、仗助はぷつっといった。
「何様のつもりだ手前は。言っとくがな、俺は手前にそんな口をきかれる筋合いはねえぞ」
「仗助。やめろ」
例によって緩やかに制止される。全く腹が立つ。承太郎にこう言われてやめないわけにはいかないのだ。
「わかりましたよ。でも俺も行きますからね。俺にも関係のある話なんだから。お前は知らねーだろうけどよ」
「知りませんね。君が僕とどういう関係かなんて」
切れた鼻緒が、派手な音をたてて炸裂した。思わず、であった。仗助の、精神の中にあるもう一本の腕が、うなりを上げて少年の顔面にヒットした。
少年はふっとんで、鉄製の手すりにたたきつけられる。だが同時に、仗助の体も、反対側にふっとんでいた。
「仗助!」
「う…なんだ?今のは」
頭を強く振って立ち上がる。そして、はっと目を見開いた。
「あなたが殴って来る寸前、丁度降ってきた雪に命を与えたんですよ。自分のパンチで殴られる気分はどうですか」
手すりによりかかりながら、顎をさすっている。仗助がだっとかけだした。
「まだやろうっていうんですか?本当に無駄な」
言いかけた時だった。少年がもたれていた手すりが、ぼきりと音を立てて折れた。少年の体が海へ落下する。
「クレイジー・D!」
仗助は絶叫し、地面を蹴って飛びつき、海へ落ちてゆく手すりを打った。手すりは瞬くうちに修復され、それにすがっていた少年もろとも地上へ戻って来る。しかし、無論自分は踏みとどまれず、それとすれ違うようにして、仗助の体は海へ飛び込んでいく。
「…スタープラチナ、ザ・ワールド」
呟くのと同時に、全てが静止した。雪も水しぶきも、何もかもがその場で止まっている。それらを蹴散らして崖っぷちまで走ると、左手で仗助がなおした手すりを握り、同時に右手で仗助の手首を掴んだ。それがぎりぎりだった。
「わあーっ、と、とぉ」
仗助の悲鳴が間抜けに止まる。水面はすぐ足の下に広がっている。落ちたら心臓が止まっただろうな、とぞっとする。
「仗助。俺の手首を掴め。滑る」
「はい。すいません」
慌てて、自分を捕まえている承太郎の手首を握った。仗助が縁に足をかけると、手首に力がこめられて、軽がると引っ張り上げられた。
見ると、少年が手すりにつかまった姿勢でへたっている。
目には、惨めさや屈辱感は微塵もなかった。不思議そうな、初めて見るものに出会った悦びの輝きが、次第に増して来る。
「今のが、あなたたちの力なのですね?僕と同じような力を、あなたたちも持っているのですね」
承太郎は無言でうなずいた。仗助は、助けてもらった手前威張るわけにもいかず、困った顔でやはりうなずく。
…僕がつかまっていた手すりが折れて、落下した。仗助という人が手すりを打つと、手すりは直った。もとのように、寸分違わず。
この人が海へ落ちた時、承太郎という人はあんなに遠くにいた。でも次の瞬間にはここまで来ていて、この人を捕まえていた。
僕にはない、僕に似た、不思議な力―――
少年は立ち上がると、仗助の前へ来て、に、と笑った。
「何だよ」
「君は、いい人ですね」
美しく見慣れない金色の瞳でじっと見つめられると、どうにも落ち着かなくなって、仗助はあさっての方を見た。
「気にいらない僕が海に落ちようと構わないでいればいいのに、自分が海に落ちる危険を冒して僕を助けてくれた。それも一瞬の迷いもなく、即座にその道を選んでいた。君が一瞬でもためらったら、間に合わなかっただろう」
カンツォーネでも歌うように切々と感謝の弁を述べられ、仗助はいよいよ困ってしまった。
「別によー、なりゆきっていうか、仕方なく助けたんだよ。だからそんな、…もういいから行きましょう、承太郎さん」
承太郎は、そうやっている二人を、微笑して眺めていた。
DIOの息子。
その呼び名には、明るく前向きな色合いは、とても求められるものではなかったが、
この少年には、DIOには決してなかったものがある。人の思いやりに気づき、受けとめ、感謝する心だ。
仗助の行動の意味を、きちんと理解し把握し、相手の人間性までも認めている。生半可な道徳や、こけおどしの法律などで縛れる少年ではないようだが、それは仗助も同じことだし、じじいも俺もそうだ。
少年の中に、信じられる光があることに、承太郎は深く感謝した。こいつが、DIOの精神を受け継いでいるだけだったら、もう一度あの戦いを始めなければならないところだった。
気がつくと、少年が、DIOに似た、あるいは承太郎に似た目で、承太郎を見ている。
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