「しまった、あいつの」
スタンドか、と言おうとしたがもはや声が出ない。
ガクと膝をつき、懸命に顔を上げたが、仗助はもはや再度立ち上がることすら出来なくなっていた。意識が急激に薄れてゆく。
(なんてこった…いい匂いがすると思ったら…敵スタンドの射程範囲内だったってことかよ。くそっ)
「そこにいるのは東方仗助かな?」
こちらを見て得意そうに笑ったのは、同じ高校の学ランを着た生徒だった。貧相で、薄い毛が長い。なんとなく間田を思わせる感じだ。眉をしかめた仗助に、
「知らない奴だって顔だね。俺は目立たないその他大勢だからな。有名人のおまえと違ってね」
顔をゆがめてせせら笑う。貧相な顔がいよいよ貧相になった。汚い歯を剥いて、
「有名人だろうと学校一の不良だろうと今は俺に逆らえないよ。そこで大人しくしてなよ」
「てめえ、なにをしやがる」
怒鳴ったつもりだったが腹に力が入らず、弱々しい声がかろうじて出た。
「知りたい?」
せせら笑う。絶対に負けない自信があるのだろう、満足そうに仗助の顔を上から眺め、しばらくニヤニヤしていたが、やがて、
「うん。そうだな。教えてやるか。これを見な」
得意げに突きつけたのをかすむ目でにらみつける。それは複雑な装飾の施された矢だった。ずいぶん古いものに見える。仗助の目が驚きで大きくなった。
(あの矢だ)
「知ってるの。でもお前が知ってるものとは違うよ。これは逆だ」
「逆?」
ぐっと矢を突きつけながら、
「こいつを相手の体にぶすっと刺すと、ね。
相手の持っているスタンドを、吸い上げることが出来るんだよ」
今度こそ仗助の目が、驚愕と疑問とでいっぱいに見開かれた。
「わかった?俺の『眠り姫』でぐーすか眠っている間に、この矢でそいつの力を吸い取れば、それで終わり。ついでに教えてやるけど」
三日月のように目を細め、
「吸われた奴は、自分が吸い取られたことも、自分がそんな力を持っていたことすら全て忘れてる。俺を返り討ちに来ることもないというわけ。さあ、そろそろ寝ろよ東方。お前が寝ている間に全て終わってる」
匂いが強くなった。甘い、菓子のような、バニラのような匂いだ。こんな時でなければうまそうな匂いだと思ったことだろう。現に最初はそう思っていた、シュークリーム屋かワッフル屋でもあるのかな、こんな細い路地裏に、とか。
(とんでもねーワッフル屋だったぜ)
懸命に手で鼻と口を覆い、どんどん閉じていく目を無理矢理開く。
相手の足下には広瀬康一がひっくり返っていて、そして電柱の脇で壁に空条承太郎がもたれかかっている。
(やべえ…あそこの二人も俺も…このままだと)
全員、スタンドを引っこ抜かれる。
しかし、「眠い」という状態に逆らうことは、痛みをこらえることよりある意味難しい。
(あそこで倒れかけてるのは東方仗助だな)
一同の少し上方、とある住宅の庭に建つ物置の屋根に乗って様子を窺っているのは岸辺露伴だった。
何もされていない仗助が見る間にへなへなになっていくところを見ると、おそらく能力としては単純に気絶させる程度のスタンドなのだろう。だがそのショボさの代わりに、射程範囲がかなり広く、入ったことに気づきにくい長所をもっているというわけだ。
(さてどうしたものか。どう見てもヘヴンヅ・ドアより遠くまで届くようだし)
仗助に『一直線につっこんでいって体当たりする』と書き込めればな、と思うが、仗助のところまで行けば自分も同じ状態になるのは目に見えている。
焦る仗助、手だてを思いつかない露伴の前で、学生は矢を手に、どちらにしようかな、と言いながら康一と承太郎を交互に見ていたが、最後に承太郎に顔が向いた。
(てめえっ、承太郎さんに近づくな!)
心で絶叫するがもはや声にならない。全力を振り絞って立とうとし、失敗しその場に昏倒した。
腕を振りかぶる。矢が鈍く光った。
とりあえずというわけか露伴がそばの木に生っていた柿をもいでぶつけようとこちらも降りかぶった時だった。
突然。
うつむいている空条承太郎の体から、ふぁ、と透明な影のようなものが立ち上がった。まるでスタンドを発現させた時のようだった。目の前にいた学生はもちろん、地面にはいつくばっている仗助、物置の上の露伴も仰天した。
立ち上がった影は、ゆらりと揺らいでから、やがて静止した。
普通、スタンドというと、宇宙人や異次元人などを思わせる異形の姿をした存在が多い。しかし、そこに現れたのは、ごく普通の日本人の少年であった。
詰襟をきちんと留めている。すらりとした肢体を、やや長めの学生服に包んでいる。身長は仗助と同じくらいだが、痩せているせいか、実際以上に背が高く見える。
色の薄い茶の髪が柔らかくうねり、白い額にかかっている。その下には女のように整った顔立ちと、怜悧な淡い色の瞳、真一文字に閉じられた口、それから耳には赤く輝く石のピアスがあった。
(何者だ、あいつ)
(空条さんから出てきたように見えたが)
しかし承太郎のスタンドは星の白金だ。二人とも幾度か見たことがある。学生服を来た少年の姿でないことは知っている。
一番驚いているのは矢を持った学生だ。目を剥いて一歩下がり、逃げそうになるのをかろうじて押しとどめ、その場で震えながら、
「何だお前」
影の少年が口を開いた。
『スタンドとは、おのれの戦闘意欲の具現化したもの。おのれの意識で動かす、力を持ったヴィジョンだ』
少し気取った、冷たい、しかしすっきりした明瞭な声だった。
『承太郎が自分の意識で動かすスタンドは星の白金だ。彼の意識がない時は』
少年がフと笑った。声と同じ、クールな、どこか甘いきれいな笑みを見せて、
『僕の出番というわけだ。
僕は彼の無意識下のスタンドだからね』
学生は驚愕した表情のままわめいた。
「嘘だ。そんなもの持ってる奴は今までいなかったぞ。消えろ幽霊め」
わめきながら矢を承太郎に突き立てようとした。
あっ、と二人が身を乗り出した時、
『君が信じなかろうが』
少年は両腕を体の前に構え、
『事実だ。
エメラルド・スプラッシュ』
滑らかな口調でその言葉を告げた。彼にとってそれは朝の挨拶よりも言い慣れた言葉だったのだろう。
きらきらと輝く無数の緑の弾丸が彼の手から放たれ、学生は聞き苦しい悲鳴を上げて吹っ飛び、地面に落ちた。白目をむいて痙攣している。
少年は相手に背を向け、承太郎のそばに来ると、首を傾げるようにして気を失っている顔を眺め、
『幽霊と言われればその通りだな。…なにがあったかは、夜に説明するよ。朝には忘れてるだろうけど』
ちょっとおかしそうな、寂しそうな声音でつぶやいた。
ふと、あの匂いがしなくなったことに仗助が気付いた時、康一が「う、うん」と呻いた。そして承太郎の肩がわずかに動いた。
(あっ)
仗助と露伴が心で叫んだ。あの少年の姿がスゥと薄くなっていく。
寂しそうな、しかしきっぱりとした横顔を見せたまま、風で流れる花火のように消え失せた。ものの数秒とかからなかった。
「い、痛た…何が」
康一がうめきながら起き上がる。承太郎も目を開け、首を振って、顔を上げた。
「承太郎さん!康一」
仗助が駆けつける。その後ろから露伴もやってきて、
「大丈夫かい」
「なんだ、てめーもいたのかよ」
「まあね」
言いながらさっきもいだ柿を空中に放り投げて受け止めた。
「僕らどうしちゃったんですか?不審者を追いかけてこの路地に入ってきたのは覚えてるんだけど」
「この辺にワッフル屋でもあるのか?って思った覚えはねーか、康一」
「え?あ!うん」
いい匂いがして、と言いかけて承太郎を見る。相手もうなずいて、今立ち上がった。
「こいつが不愉快なワッフル屋だ」
言いながら仗助が、倒れている学生に近づき、自分のベルトで後ろ手に縛り上げた。
「対象を眠らせるスタンド使いか」
「そうっす。しかもこの矢で、相手のスタンドを吸い取れるって言ってましたぜ。得意そうに」
自分に刺さないように注意して相手のふところから取り出した。
「そんなものがあったんだ。そいつ、仗助君が倒してくれたの?」
「あ…いや」
言いよどんでから、少し躊躇し、
「あの、承太郎さん」
「なんだ」
自分を見る相手に、何と訊けばいいのかわからず戸惑う。と、
「あなたは、星の白金以外にスタンドを持ってるんですか?」
露伴が言った。仗助は(こいつも見てやがったのか)という顔を一瞬してから、承太郎を見た。
承太郎はいつも通り水のように静かな顔で、
「俺のスタンドは星の白金だけだ」
落ち着き払った声でそう言った。
承太郎がそう言う以上、それが覆ることはないのをよく知っている男二人は、そうですかと呟いたが、
(でも、あれはどう考えてもスタンドだろ。なんかワザ出してたしよ。エ、エメラルドなんとかって)
(何にしてもこの人は謎が多すぎる。一度空条さんを手帳にして中を見てみたいんだが)
無口になって自分をじろじろ見ている、不良の親戚と漫画家を承太郎は無言で見返した。
露伴が彼を手帳にしてみたところで無駄だったろう。空条承太郎には、自分の意識の届かない部分に、昔の友人がスタンドとして存在しているなどという認識はないからだ。
(それとも、自分で言ってたけど、ユーレイかな)
古めかしいスタイルの学ランを着ていた。戦時中の幽霊が、承太郎にとりついてるのか、と仗助は真面目に首をかしげた。
承太郎のスタンドになった花京院の話。
…なんか寂しい(笑)ごめんよ花京院。
あと、私は露伴には「空条さん」と呼んで欲しいのである。しつこく。
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