本屋から外に出る。夕方も近いがまだまだ暑く、真夏の太陽はギラギラと輝いている。というわけで「ちょっと涼みに行こうぜ」と承太郎が言い、花京院も同意して、二人は市民プールに行った。
公営でも屋内プールが主流になっているが、ここは昭和ウン年に建てられたいい加減ぼろい屋外プールだ。幼児用の膝下20cmプールから公式競技用プールまでいろいろある。二人は大人用プールの一番端のコースでめったやたらに泳いでから、ちょっと休んだ。
プールサイドに水溜りをつくりながら、座って、
「ああ、さっぱりした」
「今年はやけに暑いね」
「異常気象ってやつか」
「異常気象が何年続くと『例年』になるのかな」
などと言い合いながら、ワイワイガヤガヤやっている市民をなんとなく眺めていた。ふと、
「どこを受けるか決まったのか」
「大学のことかい」
「そうだ」
「いろいろ考えたけどね」
花京院はそう言って、関西にある某国立大学の名を口にした。
「遠いは遠いけど、外国に行くよりは近いから。そんなの」
当たり前か、と言いながら相手の顔を見て、おやと思う。
驚いたような、戸惑ったような、承太郎がしているのはあまり見ない顔だ。
「どうしたんだ」
「その大学だがな」
「うん」
なんだろう。良くないことで有名になった校名だったっけ。口にするのもはばかられるような事件か何かで。
『お前あんな変態大学に行く気か』とか呆れられるのか。そこまで考えた時、
「偶然だな。俺も入る気でいる」
「へっ」
変な音を出して驚いてしまった。
「海洋生物学の方で、ちっと名の知れた教授が居てな」
「へえー」
まじまじと見つめ合ってから、花京院はまたちょっと考えて、
「うまくすれば、来春からもルームメイトだな」
言ってから、あっと気がついて、
「間違った。クラスメイトです。…いや、そこで、『クラスメイトって言葉はどうなんだ。死語だろう』ああ恥ずかしい、というオチになる筈だったんですが。さんざん説明して可笑しくもなんともないな」
情けない思いで長々と喋る花京院と、ぽたぽた雫のおちる前髪を、承太郎はあきれかえった顔で眺めていたが、翌年の春二人は同じ大学に在籍することとなり、ついでに、家賃光熱費を半額ずつ出して同居することにもなり、
「ルームメイトにもなったなあ」
新しい景色の広がる窓からそれを眺め、それから後ろを見て、自分のダンボールをあけている承太郎を一瞥してから、花京院はそう呟いた。
50日間の旅の間で、お互いの『私』の部分について既にわかったこともあるが、わからないままのことも随分ある。双方がどんなところに神経質で、どんなところにずぼらか。何にこだわり、何が譲れないか。譲れない部分とどうでもいい部分の比率はどうなっているのか。そういったことが、同じ屋根の下、ふたりだけで暮らすうちに、ひとつひとつわかっていった。
そういったすりあわせの作業は、花京院は本来好きではなかった。何でもすぐ譲歩するのは、スタンド使いが常人の中で暮らす上での処世術が身に染み付いたためで、本来は他人の無神経や、他人の神経過敏さにつきあうのが楽しいわけではない。
だが、
生活上での承太郎のマヌケさや、潔癖さや、図々しさを、具体的に体感してゆくのは、思いがけなく楽しいことだった。徹夜に強いこと。白いご飯はなるべくなら炊き立てで食べたいこと。部屋の時計の針は大体しか合わせないこと。汚れた足で平気で床を歩くこと。しかしその後、片手で何か見ながら膝をついてちゃんと拭いているでかい背を、後ろから見ているのは、花京院が今まで味わったことのない楽しさであった。
週末には一緒に見知らぬ街の中を見て廻った。花京院の誕生日はちょっと豪華な晩餐を楽しんだりもした。お互いの学部で出来た友人たちを紹介し合い、そして次第に各々忙しくなって、部屋に帰っても相手が居ることが少なくなっていった。
夏の夜、虫の声を聴きながら荷物を取りにアパートに戻り、窓が真っ暗なのを見上げなんだか沁みるように「寂しいな」と思ったが、仕方がない。お互いにすることがあって、そのためにこの街に来たのだ。
『どうしても顔が見たければ、生物学部まで行けば会える』を呪文のようにとなえて、花京院は帰り道をひとり歩いた。
燃えるような紅葉が降り、やがて白い雪が落ちてきた。この街の冬は底冷えがする。暑さもそうだが、東京以北とは別種の、独特の寒さだ。
「おはよう。うぉー寒い」
言いながら部屋に入ってきた3年生の肩には雪が積もり、鼻や頬が真っ赤で、くるまっているコートが緑だ。
「クリスマスカラーですね」
「なるほど」
笑いながら、もうすぐクリスマスだなあと気付く。
去年のクリスマスのことは覚えている。受験生二人が揃って図書館から出てきた時、一年で最も日の短い季節柄辺りはすっかり暗くなっていて、そこに雪が降ってきた。花京院は「狙ったのかな」と言ってから、
(承太郎には『ホワイトクリスマスにするためにわざわざ誰かが雪を降らせたかのようだ』の意が伝わらないかな)
「なんのことだ?」と訝しげにこちらを見る顔を想像しながらチラと隣りを見たら、横顔のまま空を見上げていて、
「そうだな」
白い息と共にそう言った。
今年は、お互いに忙しくて、クリスマスどころではなさそうだなと肩をすくめ、机に戻った時、
「皆さんに言っておきますがウチは24日は自由行動ですよー」
急に、クラス担任か委員長みたいな言い方で3年生が言い渡した。1年生は皆きょとんとして、
「なんでですか」
「教授の意向です。自分が遊びたいからだそうです。毎年そうなのです。わかりましたね」
はーい、と皆つられて良いお返事をしてから、いっせいに、
「今更言われたって何の予定も入れられないじゃないすか」
「なんで今頃言うんです。毎年そうならわかってたんでしょう」
先輩は穏やかに微笑んで、
「単なる意地悪です」
ギャースという騒ぎを眺めながら、花京院も、今更どうにもならないなあ、コンビニで一人用のケーキでも買うかとぼんやり考えた。
私物を買いに買い物に出かけ、とあるアクセサリー売り場の前で、花京院の足が止まった。
止まってから、何故止まったのか疑問に思い、それから気がついた。順番が変だろうと思いながら、ガラスのケースの中で輝いている白金のピアスを眺め、
クリスマスに、これを承太郎に贈ろう
慎ましく数歩控えて待っている売り子さんに、例の最強笑顔で微笑みかけ、「これを見せてください」と言った。売り子さんはホホを染めて「はいっ」とばかりに寄って来た。
帰り道、ワインカラーの、紙のいい匂いのする小さな包みの重みをポケットの中で楽しげに確かめつつ足取り軽く歩いていたのが、
「…ひょっとして引かれるだろうか」
ふと我に返った。
考えてみると、クリスマスにプレゼントをあげる行為というのは、少なくとも高校生より年嵩の男同士でやることではない。中学生でもやや怪しい。
外国ではやっていそうな気もするが、ここは日本だ。承太郎はハーフだが、ホリィさんの愛情表現を退ける様子を見ても、その辺りの感覚はしっかり日本人だと思われる。無論、自分も日本人だし。
感謝、の意味のことをつぶやきながら困惑顔になる承太郎を想像すると、尻込みする気持ちと、笑いそうになる気持ちの両方が湧いてくる。
立ち止まり、しばし箱をポケットの中でいじくっていたが、やがて、
「いいッ。引かれてもッ」
声に出して変なイントネーションかつ大声で言い切り、再び歩き出した。
見た瞬間、頭で考える前に足が停まるくらいに、「これだ!」なものだったのだ。ブルース・リー先生も言っているではないか。考えるな、感じろと。感じて選んだのだ。ガタガタ言うな。どうせこの頃はさっぱり会えやしないのだ。多少ひかれようとドン引きされようと大したことではない。次に顔を合わせる時までには忘れているさ。
いつもより歩幅を広くして花京院はずんずん歩き、帰宅した。
寒い台所で足踏みしながらうどんを煮て、ダイニングルームで『ニュースステーション』を観ながら食べる。
しかし、
「引かれるにしても何にしても、当日会って渡さないと」
自分は唐突にオフになってしまったが、承太郎はそうはいかないだろう。こちらから出向いていって…せめて5分でいいので体を空けてもらえるだろうか。事前に確認しておかないといけない。23日までに会えなかったら、電話で予約を取るしかない。
「まるで売れっ子スター並みだな」
呟いてから、なんだか僕は死語ばかり使う、感覚がじいさんなのだなと思った時、がちゃがちゃと玄関ドアが音を立て、承太郎が入ってきた。着ている革ジャンに覚えがない。秋以降、ひとりで買ったと見える。
「あれ」
「よう」
微笑されて嬉しくなる。こっちも笑ってしまいながら、
「久し振りですね」
「いい匂いだな」
「夕飯まだなのか。うどんでいいのならあるよ」
「いいなんてもんじゃねえ」
自分の部屋に引き上げ、着替えもせずに戻ってくると、ダイニングテーブルの上に鍋敷きを置き、その上にどすんと鍋をおいた。
わー、という顔で見ている花京院に、
「食いたい時は言え。分けてやる」
自分が作ったかのように言って鍋に箸を突っ込んだ。
余程、腹が減っていたのだろう。ゴゴゴゴゴという擬音を背後にたちのぼらせながら、うどんをかっこんでいる。
(承太郎が直ナベすると、鍋に見えないな。普通のどんぶりみたいだ)
呆れたような感心したような顔でその食べっぷりをしばし眺めてから、自分のうどんに戻り、あっそうだ、と思い出す。
「承太郎」
口からうどんを出した状態でチラと花京院を見、また目を戻してうどんを口の中におさめ、むぐむぐと咀嚼しのみこんでから、
「なんだ」
「食べてていい。うなずくか首を振るでいいから。あと、それ全部食べていい」
「そうか」
ゴゴゴゴゴ。再び擬音が再開される。
「今月の24日か。金曜日だな。5分でいいから、体を空けてもらえるか」
承太郎は再びチラと花京院を見て、ゴゴ、とうなずいた。
(良かった。売れっ子スターの予約が取れたぞ)
ほっとして、
「僕はオフなんだ。いつでも君の空けられる時間に合わせるから、言ってくれ。その時にこっちから行くから」
ゴゴ…と再び音が止まり、おやと思ったがまたすぐゴゴゴと続きを食べ、むぐむぐ。ごくん。と飲み込んでから、
「なんだか知らねーが、俺が言おうと思っていたことを全部言われた」
「えっ」
「うどんを食い終わったら、24日に5分でいいから時間をつくれ。俺は24日は空いてるから、お前が指定した時間に行く、と言うつもりだったんだが」
鍋を持ち上げて汁を飲んでいる承太郎に、
「全部飲んだら塩分の取り過ぎで体に悪いぞ。君も24日は空いてるって?まるまる?」
「お前のうどんは薄味だから大丈夫だ。教授が遊びたいからだそうだ。今日言われた。わざわざギリギリになってから言うのは毎年恒例の嫌がらせだそうだ」
からになった鍋を鍋敷きに戻して、はあと息をつき、
「やっと人心地ついたぜ」
「それはよかったな」
言ってやってから、
「どこでも同じようなことをやってるんだなあ」
呟いた。承太郎もうなずいて、
「世の中には、くだらねえことを考えるやつが多いって事だろうぜ」
「ふむ」
唸ってから、じゃあ…と視線を落とし、
(承太郎も空いていると自分から言ってきたんだし、どう考えても、この場合、誘っても変ではないだろう。しかし承太郎はどんな用事で僕に時間を作れと言ったんだろう。ものすごく事務的なことだったら結構恥ずかしいぞ)
さんざん考え込んでから、顔を上げ、腹を括って、
「24日なんだが」
「飯でも食いにいこう」
「わかった」
それで終わってしまった。
24日の朝、花京院が目覚め、ふわーとあくびをしながらダイニングに行ったが、承太郎は居なかった。昨夜は帰ってきたのだろうか。学校に泊まったのか。
「忙しいさなかに無理矢理会う約束をしたとか言うんなら、心配もするけど」
指導教官の意向なら心置きなく休めるというものだ。花京院はいつものようにトーストをかじりながらフジの大塚アナのイボをながめ、ホリィさんが送ってくれた紅茶を味わって、食器を洗い戸締りをし、部屋を出た。
駅への道を一人歩く。見上げた空は白く、空気は澄んで寒かった。
「今年も、降るかも知れないな」
そんなことを思いながら駅につき、電車に揺られた。
待ち合わせの時刻間際、正門前に向かって歩く背に、
「待て」
後ろから声がかけられ、振り返ると、黒衣の承太郎がやって来るところだった。相手の様子をちょっと眺め、
「ひょっとして君、一回うちに帰ったか」
「昨夜はここに泊まったからな。部屋に戻って着替えて来たぞ」
実のところ花京院も今日は黒が基調で、なんとなく、
「ペアルックだな」
例によって死語で表現する。承太郎は相手のそういった感覚を指摘はせず、ただ自分と花京院の格好を見比べて「そうだな」と言った。
並んで道を歩きながら、
「そういえばポルナレフに言われたっけな。お前ら、おそろいの服をあつらえて着てるのかって」
思い出し笑いをする。あの旅の間はまるで修学旅行のように、二人で学ランを着ていた。
「暑っ苦しいペアルックだな」
そう言われて笑い出した。
「砂漠を学ランで渡るって、今思えば変な話ですね」
「キチガイ沙汰だ」
容赦なく言われてまた笑った。
今日は寒い冬の日だし、場所は日本だし、黒一色のペアルックでも別におかしくはない。そう言おうと思ってふと気がついた。
雪が降ってきた。ひらひらと舞い降りてくるひとひらが髪に乗って溶ける。雪ですよ、と言おうとしたその前に、
「狙ったんだな」
承太郎がそう言い、花京院はなんだか照れくさくなって、口の端を持ち上げ、うつむいた。
それから、どこぞのホテルのスカイラウンジや豪華なレストランや老舗の割烹料亭に行く…わけでなく、普通にイタリアンの店に入って、夕飯を食べた。
それでも店内は無論のことクリスマスムードに包まれ、照明はぐっと落ちてテーブルにはキャンドル、両隣りはいい感じで見つめ合うカップルだ。居酒屋だったらまだ「クリスマスに一人で何が悪い」とヤケクソみたいにバカ騒ぎしている連中が居たのだろうが。店内には耳馴染みの「ホワイトクリスマス」が掛かっている。
「リング・クロスビーだっけ?」
「違う気がするな。…思い出せないが。誰だ。ロジャー・ムーアか」
最初から違うとわかっている名前を出してくる。笑いながら、本当に誰だっけ。ジョースターさんに電話して訊いてみましょうか、などと言っているところで曲はラスト・クリスマスになった。
「これは知ってるな。ワムだ」
「ワム!です」
最後にビックリマークをつけて言うと、承太郎は一瞬「なるほど」顔になってから、「バカか」という眉になった。それを見てまたクククと笑う。
右隣りのカップルの男が、さも今思い出したという様子で、プレゼントの紙袋を出してきた。女はキャアと言って喜ぶ。少々、周囲にアピール気味の音量だ。
左隣りのカップルの女がそれを見てから、「あんたも早く出せ」の意味のことを言った。男が慌てて出して寄越す。その紙袋には期せずして右のカップルがもらったのと同じブランド名がかかれてあった。
女ふたりが「引き分けか」みたいな表情になっているのを見ないようにして見ながら、
(ここで僕もおもむろにプレゼントを出す気にはならないな。店を出てからにしよう)
しかし、渡して気まずくなってもすぐに「じゃ、忙しいだろうけど頑張って」と言って立ち去れる筈が、何故か今夜はずっと家まで一緒である。あまり早めに気まずくなると後がつらいかも知れない。
いっそのこと家まで戻って寝る前にしようか、などと考えながら食後のコーヒーを味わい、満足し店を出た。
外に出たところで、承太郎が、
「つきあえ」
あっち、というように身振りで示す。はいと答え相手が行く方へ足を進めた。雪は音もなく、静かに柔らかく降り続けている。
歩道が狭い箇所にさしかかり、向こうから高校生のカップルが来たので花京院は承太郎の後ろについた。すれ違った時、少年は一目で手編みとわかるマフラーをしているのに気付いた。下の方に「T・T」とイニシャルが入っている。うわあー、今時居るんだ、と思いながらも、二人とも「幸せそのもの」みたいな顔をしているので、意地悪い難癖をつける必要もあるまいと思い直し、
(まあでも、僕のプレゼントが手編みのセーターなら、引かれるなんてもんじゃないだろうな。その時の承太郎の顔が見てみたい気もするけど)
承太郎だったら、なんだろう、と考え、
「J・Kか」
ついうっかり声に出して言ったが、承太郎は気付かなかったらしく、前を向いたままだ。その広い背を眺めて、
「ケネディみたいだな」
ついでのようにそう付け加えた。
(それにしてもどこに行くんだろう)
思いながら、前方に立っている鉄塔が段々近づいてくるのを見上げた。クリスマスのためだろう、きらびやかにイルミネーションで飾られている。「東京タワーみたいだな」と思うが、勿論ここは東京ではない。
あまり雑多な色を使わず、緑と青と白の光で彩られた鉄塔は、なかなか趣味がよく、きれいだった。
へえ、と思いあらためてその全体像を眺めた時、
「ちょっと、こっちに来い」
言ってからなにやら裏道というか、細い薄暗い方へ行く。はい、と言いながら後をついていく。人通りは全くない。こんな道、あったのかと思いつつ左右を見ていると、
「人目につくのは、やはりまずいからな」
「はあ」
空気の漏れたような返事をしながら、人目につくとまずいどんなことをするのだろうと首を傾げた時、
「この辺か」
承太郎が足を止めた。なにやら周囲を見渡し、それからここからでも見える鉄塔を見上げてから、疑問符を飛ばしつつ承太郎を眺めている花京院を見て、
「寄れ」
近寄ると、
「目を回すなよ」
とりあえずのように素っ気無く言った背から、ドン!と星の白金が出現する。ぎょっとしてその姿を見上げる花京院を、星の白金は鋼鉄のような両腕でむんずと左右から捕まえ、次の瞬間、
『オラァ!』
掛け声というかスタンド音というか、スタンド使いにしか聞こえない爆音と共に、星の白金は地を蹴った。
ものすごい勢いで上方に引っ張られる。花京院は悲鳴を上げることすら出来ず、身動きも出来ずかたまっている。耳は「ビュウ」という音に塞がれ、気が遠くなる。凍てつく空気との摩擦で頬が切り裂かれそうだと、頭の片隅で思った。
やがてロケットのような上昇が緩やかに終わったらしい。次いでやってくる落下の恐怖を予想し、うわわわのような声を上げながら目の前の黒いオーバーコートに必死で掴まると、
「終わりだ」
すぐ側で声がして、「トン」と足が何かの上に降り立った音を立てた。
承太郎の左手が、花京院の片肘をつかまえている。仰天して落ちないようにという心遣いであろう。というのは、
今二人は、さっきまで見上げていた鉄塔の、頂上付近に留まっているのだった。クリスマスに浮かれる下界の灯りが眼下はるかに広がっている。上空には、この夜の遊覧飛行を楽しむ飛行機の灯りが渡ってゆくのが見えた。
無論、鉄塔の先端付近に、人が景色を眺めるための場所などは無いが、とりあえずは落ちずに立っていられるくらいのスペースに、二人で立っているのだった。
「これはまた」
自分の置かれている状況を花京院がのみこんだらしいと判断したのか、承太郎が手を放した。
「夏に。花火の時」
「ああ、はい」
花火が上がり始まった頃に着いたので人の頭しか見えない。音だけの花火を聴きながら、あの鉄塔の上ならきれいに見えそうだな、と言ったのを思い出した。
「今日のぼってみようと思った。どうだ」
「絶景だ」
素直に言うと、承太郎がうなずいたのが見えた。
空気は冷たく透き通って、地上には星屑を撒いたような光がこぼれ、羽のような白い雪が舞い降りる。緑と青に輝く鉄塔はまるで、
「大きなクリスマスツリーだ」
花京院が言うと何のことかわかったらしい。「どんな金持ちの家にもないデカさだな」などと夢のないことを言ってチラと笑った。
その横顔を見て、
「こんな素敵なクリスマスプレゼントを貰ったら、お返しをせずにはいられない。というわけで」
ポケットから小さな箱を取り出し、
「はい。これ、君に」
言って、差し出した。
承太郎はいつもながらの無表情の中に、僅かに驚きを見せていたが、想像したような「引く」類の様子は見せず、
「俺に?」
受け取り、箱を開けた。中にはキラキラと輝くプラチナのピアスが入っていた。
あ、というようなものが承太郎の目に生まれ、それから花京院を見る。
深い緑の目に微笑が滲んだ。
「有難うよ」
そう言ってから、
「じゃあ俺もこれに返さねえとな」
自分もポケットに手をつっこみ、
「お前にやる」
ぼんと手渡され、見ると、自分が渡したのと似た印象のある箱だった。
「僕に?」
ああ、とそっけなく言われて、なんだか混乱しながら箱を開けると、そこには緑色の指輪が輝いていた。
(この色)
さっき承太郎が自分へのプレゼントを見た時と同じ感触のものが、花京院の目に浮かんだ。
自分が、意識せずして足を止め、
星の白金の色だ。これを彼への贈り物にしよう。
そう思ったのと同じ気持ちが、おそらくは、この指輪を見つけた時の、彼の胸にあったのだろう。
ああ、だからこれを彼は僕にくれたのだ―――
言葉でどんなに説明されても味わわない実感が、流れ星が墜ちて来たように胸のなかに降って、そこで光り輝く。
涙がこみあげる。こんな気持ちで涙ぐむことができるのは、本当に、本当に幸せだ。
両手で箱をぎゅっと包む。ぎゅっとぎゅっとかたく包み込む。涙声になりそうなのを懸命に抑えて、低い声で、
「承太郎、
ありがとう」
深く深く感謝を告げた。
「喜んだんなら、よかったぜ」
そんなことをぶっきらぼうに告げる。ああもうまったく、と泣き笑いしてしまう。この僕を、ものごころついた時から「嬉しくて嬉しくて泣く」なんてことをしないで来たこの僕を泣かせておいて、何を言ってるんだ君は?
「たまには何かお前にやるぜ。滅多に見られねーものが見られたからな」
声が微笑をふくんでいる。恥ずかしいのと悔しいのとで赤面しながら、
「僕からももうひとつ贈ろうか。エメラルドスプラッシュでも」
「やめとけ」
低く笑う声の響きを聞いていると、また泣きそうになるので、花京院は視線を中空に向けた。
柔らかく滲む風景は、きれいであたたかい光で満たされている。その後暫くの間、二人は非常識な場所から、誰も味わえないクリスマスを、並んで感じた。
家に戻り、部屋に引き上げる前に、ダイニングテーブルの上に箱を置いて中の指輪を取り出し、右手の薬指に嵌めてみた。
「どうだ」
「ちょっとだけ緩いけど、大丈夫」
その白く骨っぽく、あちこちに傷跡がうっすらと残るきれいな手に、承太郎しか見えない翠の幽波紋と同じ色の指輪が輝いているのを、承太郎は脇から眺めて、
「いいな」
満足げに、えらそうに呟いた。
ルームメイトの二人の話でした。
他にもあるのでそのうちまたやります。
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