ブラッド


雨が降り出した。ごく短い雨季の貴重な、文字どおり天の恵みだとはわかっているが、窓を開け顔を外につき出して、鉛色の空を見上げた青年の顔は、空の色そのままの暗鬱さだった。
「…アシュレー」
しかし、後ろから細い声がかけられると、持ち前の責任感で無理やり口元を引き上げて、振り返った。
「ん、何だい、リルカ」
そこにいたのは、栗色の髪を長く流し、クレストソーサレスの着る柔らかなマント風のワンピースの下に、ひざうえまでしなやかな足を出した、緑の目の少女だった。しかし、その目は、今はアシュレーとそっくり同じ、暗い雨の幕が降りていた。
「もう、行く?ウラルトゥ、ステーション」
「そうだな。リルカと、ティムの疲れが取れたら、そろそろ出ようかと思ってたけど」
「私は、もう大丈夫だよ。ティムはどうかな…聞いてみる?」
「僕が行くよ」
「私も行く」
声に出さず、そう、と呟いて、ほとんど無意味な微笑を、リルカに向けた。
意味のある笑顔を、心からの笑顔を、いつになったらつくれるだろうか?
ふとそう思ってから、それが馬鹿げた疑問だということをつくづく思った。誰のせいだと思っているのか。誰の。
「アシュレー」
「ん」
アシュレーの中にも、雨が降っている、とリルカは思った。そして、アシュレーが持った疑問を、彼女もまた持った。
アシュレーの中の雨は、いつ上がるのかな。
上がるわけないよ。ううん、少なくともいつか上がるなんていうふうには思えない。それじゃいけないって、わかってるけど。でも、
「雨降ってるね」
「そうだな。銃剣が湿気らないように気をつけないと。そう言えば、クレストグラフって濡れると効果が下がるのかい?」
「そんなことないよ。ペンで書くわけじゃないんだもん」
「そうか、そうだな」
意味の無い笑い声。わらっているこえ、という符号にすぎない。本当は、笑ってもいなければ、声を上げてもいない。黙りこくって自分の中の雨を見ている。
一室の前まで来た。ノックをしかけて、感電したように手を振り、慌てて2回だけ叩く。今のが何なのか私は知ってる、とリルカは口の中でつぶやいた。4回、たたたたと叩くのが、癖だった。いや、癖じゃなくて習慣か。軍隊に長くいた人間の。アシュレーは、それを真似ていた。そして今は、習慣になってたそれをやめようとしている。思い出すから。
「入るよ、ティム」
はいとか細い声がした。あの子はもう、とリルカは口を尖らせる。落ち込むと落ち込んでますと顔に書く。態度に出す。そんなことはわかってる、私もアシュレーも、これ以上ないって所まで落ち込んでますよ。あんたと同じに。全く、子供なんだから。
ドアを開けて中に入ると、金髪を後ろで束ね緑のリボンで結んだ、柔らかく優しい顔立ちの少年が、今ベッドから立ち上がった。今迄座り込んで、どうやら泣いていたらしい。蒼白の頬に、跡が残っている。
「どうだい、調子は」
我ながら馬鹿なことを聞いている、と思う。さっきから、いや。あの時からこっち、僕は馬鹿なことを言い馬鹿なことをしている。馬鹿なことっていうのはつまり、
本心から遠いところをうろうろしてるってことだ。
「大丈夫です。もう…行けます。出立するんですか」
かすれた声を、懸命に平静に保って、少年は早口で言った。握り締めた杖がかすかに震えている。肩の上に浮かんでいる、不思議な紫色の小動物が、人間の言葉で、妙に厳格な口調で言った。
「ティム、体温が高めダ。脈拍も安定していない。大丈夫ではないナ」
「大丈夫だよ、プーカ。休んでたって」
治る訳じゃないんだから、と言いかけて止める。代わりに、頬を手の甲で拭った。聞こえなかった振りをして、尋ねる。
「ホントの本当に、大丈夫ね?」
「はい」
「そっか。じゃ、出ようよアシュレー。あんまり遅れると、あの戦争好きなギのつく王様が、また変な気を回すよ」
「うん。じゃあ、用意して、下へ来てくれ。玄関で待ってる」
アシュレーはそれだけ言って出ていった。後を追おうとして、リルカはちらと振り返った。ティムが、自分の荷物の方へのろのろと歩き出すところだった。 この子の中も、大雨だ。
ああ。私たち雨曝しだよ。なにもかもカビが生える。キノコだって生えそうだ。
どうしたらいいのかな、お姉ちゃん。
辛い時にはいつも、彼女の支えとなってくれるその響きに、今度もつい話し掛ける。
どうしたらいいのかな。でも、お姉ちゃんだってわからないよね。
階段を下りる自分の靴音を聞きながら、
もし。もう一度、私が独りで、ミレニアムパズルを解いたら、そうしたら、
ああやって戻ってきてくれるなら。
私は、何度だってあの光の牢獄の中に入るのに。
リルカの目から涙がふきこぼれた。慌てて拭う。変だ。もっと、泣き出すにふさわしい(と言うのは変か。泣き出してもおかしくない)場面がいくらでもあったのに。なんで、自分で考えた仮定で、泣いてるんだろ。私って変なんだろうか。しっかりしてよ、今から新しい任務だっていうのに。泣くんなら夜ひとりのベッドにしなよ。
しかし、何故、気を使い気を張って頑張ってきたリルカをかくんと泣かせてしまったのかは、その光景そのものが雄弁に物語っていた。
逞しい体躯、見上げるような上背、長く無造作に流した黒髪、厚い胸板に広い背中。太い腕、太く長い足、引き絞られた胴、機械油の染みた指、傷痕のある脇腹、
右腕に軽々と装着されたアーム。アシュレーがひーひー言ってようやく持ち上がるようなキャノンを、軽い旅の鞄みたいに肩に乗せて、
日に焼けた、がっちりした顎、使い込んだ鉢金、その下の鋭い金褐色の瞳、 ひきしまった口元がほのかに微苦笑を見せ、目がかすかに細められる。
そうやって、あの男が、爆炎のむこうから戻ってくる姿は、かすめるように想ってみるだけで、充分すぎるほど、リルカにとって辛い渇望をわきおこさせるものだった。
その姿をなぞるように、つい、
ブ…
名を呼びかけて堪える。名前なんか呼んじゃ駄目だ。立ち上がれなくなる。
下唇を血の出るほど噛んで、下がってゆきそうな眉を懸命に寄せる。後から後から出てくる涙に、強く念じる。あとにして!今はそれどころじゃないよ。
両手でぱんぱんと顔を叩きながら、洗面所に駆け込む。壷に満たしてある清水を洗面器にとって、しぶきを上げながら何度も顔を洗った。顔を上げると、髪も服もびしょびしょになっていた。いい、どうせ雨の中に出て行くのだ。濡れたってどうってことない。
「御免、お待たせ」
叫びながら玄関まで来た。アシュレーとティムは既に準備を済ませて待っていて、彼女の格好を見たが、二人ともそのことについては何も言わなかった。
「リルカの荷物は、」
「もう最初に用意して、そこに置いておいたの」
出口の脇の棚に、タータンチェックの小さな鞄が置いてあった。勢い良く持ち上げ、斜めに背負うと、
「さあ、行こ!」
叫ぶと、外へ駆け出しながら、お気に入りの傘をばっと開いた。一瞬、雨の中に赤い花が咲いたようだった。北へ向かう大通りを歩きながら、リルカが、
「詳しい場所、アシュレー、聞いたの?」
「まだだ。今聞くよ」
町外れまで来たところで通信機のスイッチを入れ、周波数を合わせる。しばらくは耳の痛くなるような雑音が入ったが、不意にクリアになって、
『こちらヴァレリアシャトーのケイトです』
落ち着いた女性の声が流れた。
「こちらアシュレー。ウラルトゥステーションの詳細な場所を知りたいんだけど」
『はい。そこはクアトリーですね?それでしたら、あ。ちょっとお待ち下さい』
数秒の沈黙の後、低いが良く通る男の声が、
『ヴァレリアだ。ウラルトゥステーションは、クアトリーから遥か北の山脈沿いにある。…スレイハイム城を通過した更に北だ』
なんてものを比較に持ってくるんだろう、あのひと。他に何も無い荒野だからって。
そんなふうに思いながら、つい二人の顔を見てしまう。アシュレーは懸命に無表情を保っている。ティムは駄目だ。うつむいてしまった。泣き出さないだけマシか。
「了解した。北の山脈沿いだな?これから立つ」
『宜しく頼む。…
三人とも、ブラッドのことだが』
アシュレーが口を開き、遮ろうとしたらしいが、言葉にはならなかった。ティムは、うつむいたままびくっとした。リルカは通信機を睨み付けている。
『今は、胸におさめておいてくれ。…済まない』
それきりで、ぶつりと向こうから切れた。再度がーがーうるさくなった通信機を切って、アシュレーはそっと息をついた。無意識に止めていたらしい。
こんな形で言われたくない。思い出したら泣くから、思い出さないようにしていた名前なのに。リルカは絶対泣くもんかと胸で叫び、早くも北へ向けて歩き出した。
辛そうだったな、アーヴィング、とアシュレーはひそめるように呼吸を繰り返しながら思った。済まない、か。何が済まないんだろう。泣いていたいのを無理に次の任務へつかせたからだろうか。それとも、あんなとんでもない手段をとらせてしまったのは、アーヴィングがギアスを外さないままでおいたからだという後悔だろうか。だったら何もかもお門違いだ。
済まないなんて言葉を使うのなら、僕は千回使っても間に合わない。そして、 使ったところでなにひとつ変わらない。僕があの時取った態度の、どれひとつをキャンセルできるわけでもない。あの時僕を見たブラッドの目は、
よそう、と声に出して言っていた。ティムが見上げたのが視界の端に映って、見返そうかと思ったが、今見返しても笑顔はつくれそうもないのでやめた。
足が重い。持ち上げて前へ運ぶだけで一苦労だ。
いつだって僕はこうやって、皆の足手纏いになってきた。ここで置いていかれたら、今度こそ僕の居場所はなくなる、あの樹海にそそり立つ祭壇で人柱にならなかった、何の理由もなくなる。いつも口から泡を吹きそうになりながら、必死で足を動かし、突如襲ってくる奇異な姿の化け物たちに向かって、杖を振り、プーカに頼み、ミーディアムたちに呼びかけ…
移動の時も、戦闘の時も、僕の後ろのポジションに、あのひとはいた。どうしてそう決まったのかわからない。
どんなに疲れても、手は貸してくれなかったし、大丈夫かとも聞かなかった。でも、心がくじけそうになった時には、どうしてわかるのか、必ず、声をかけてくれた。
「お前の居場所はここだ。俺たち全員が、お前を必要としている」
静かで、低くて、温かく、力強く僕の背を押してくれた。
あの声。一生忘れない。
僕に、生き続け立ち上がって戦おうという意志をくれた、あのひとの、
ブラッドさんの。
声をたてないようにだけ、気をつけて、ティムは泣いた。数え切れないほどの傷を受け、それを表に出さず、ただ黙って仲間を支え続け、最後にたったひとり敵の工場の奥深くで自分の首の爆弾に手を掛けた男の心を思うと、ただ涙が流れてどうしようもなかった。
ぽん、と誰かの手が背を叩いてくれた気がした。ばっと振り向いたが、
勿論誰もいない。温かい雨が静かに降っているだけだ。
あの夜も、雨が降っていた、とティムは思った。汗と涙でぐしゃぐしゃになった僕の顔を掌でこすってくれて、それから、
ブラッドさんの胸は広くって、どこまでも広かった。僕と、リルカさんを楽々抱え込んで支えてくれるほど。
静かな雨は、懐かしく辛い思い出を、幾度も幾度もティムの胸に蘇らせ、崩して流れていった。声は殺していたが、鳴咽は時折堪えきれず跳ねて、喉から漏れた。
振り返って、いい加減にして、と言おうかと思った。でもやめておいた。そう言う側から、自分も泣き出すだろうと思ったからだった。
今の私は、泣かないでいるのが精一杯なんだから。それでも今朝みたいに、不意をつかれて泣かされてるのに。
僕には泣く権利もない、とアシュレーは、それぞれに涙を流し、涙をこらえている二人を見比べながら、思っていた。僕が泣くなんてお笑いだ。あの時、あんなことを言っておいて、今更何を言うつもりだ。僕はただ、前進するしかない。それだけが僕に許されたことだ。
三人の足はいつのまにか、砂地を踏んでいた。遠くから正体のわからないものの遠吠えが聞こえてきたが、誰も顔を上げはしなかった。うつむいて歩きながら、リルカは傘をさしていない方の手でクレストグラフを探り、数枚を摘み上げた。アシュレーは銃剣を無造作に構えた。ティムは肩で支えていた杖を前方へ持ち上げた。
幾度かの戦闘の後、無表情にそそり立つ赤い壁のような山々の裾野にひっそりと建つ、灰色の施設の前に、三人はたどりついた。

中はひんやりとしていて、ティムは身震いした。かび臭い。普段、あまり使われていない感じのする建造物だった。
「止まれ。名称と用件を述べ、ならびに許可証を見せろ」
二人ならんだ灰色の兵士が鋭く言って、銃で行く手を阻む。アシュレーは雫を払ってから、
「ARMSのアシュレー、リルカとティムだ。ギルドグラード王の要請によってノエル殿下の護衛に来た。これが許可証」
差し出した許可証と、一同を見比べ、兵はごくわずかに顎を引くと、
「承認した。階下へ向かえ」
二人は同時に左右に離れ、道をつくった。まるで自分たちが門のようだった。 私たちが通り過ぎたら、またくっつくのかな、と思いながら、リルカはちらと後ろを見た。予想通り、三人が階段を降り始めたところで、二人は同時に一歩ずつ中に入り、最初にここへ入った時に見たのと寸分違わない姿勢になり、それきり微動もしない。
よく訓練されてるって言うべきなんだろうけど、薄気味悪いな。メリアブールの柄の悪い、私たちを馬鹿にしながら嫉妬してる兵士も嫌いだけどね。シルヴァラントの兵士は結構いいひとが多かったな。やっぱり、あの女王様をみんな尊敬してるっていうのがいいのかも知れない。
アシュレーの濡れた靴がつける跡を追いながら、リルカはぼんやりと、クレストグラフをしまいながらそんなことを考えていた。
階段は思ったより長く続き、随分深く掘ったんだな、と思った頃に終わった。三人は、プラットホームの中頃に立っていた。
「ARMSの方々ですね」
甲高い、子供の声がした。見ると、体に合わないマントをひきずるようにして、一人の少年が近づいてくるところだった。すぐ後ろに初老の男が従っているところを見ると、どうやら彼がギルドグラードの偏屈王、の一人息子らしい。
「そうですが」
「本日はわたしのためにわざわざお越しいただき、まことに恐悦至極に存じます。ギルドグラード王子、ノエル・アナハイム・ギルドグラードと申します。はじめまして」
はきはきと口上を述べ、深々と頭を下げる。三人は慌てて、
「これは…丁寧なご挨拶を。僕がリーダーのアシュレー・ウィンチェスターです。えーと、このたびは、」
「あの、私リルカ・エレニアック。あの、えーと、よろしく」
「ぼ、僕ティム・ライムレスです。12です。ノ、ノエルさんは?」
王子は、にっこり笑って、
「先月、13になりました」
「あ、僕と、ひとつしが違わないんだ…」
へどもどとリルカを見る。リルカも困って、
「じゃあ私よか、ひとつ下だね。…そうだよね。…それにしちゃすごいね。私が幼いのかな?」
救いを求めるようにアシュレーを見た。うなずいて、
「さすが一国の王子だ。随分しっかりしてるんだなあ、立派だ」
「そのようなことはありません。わたしはただ王子として生まれただけです。皆さんの方が、ずっとずっと、比べ物にならないほど立派です。人々のために戦っていらっしゃるのですから」
「そんなことはないよ、ノエル王子」
力なく微苦笑を浮かべて、アシュレーが首を振った。
その表情を、ノエルはちょっと黙って見上げていたが、すぐに、
「とにかく、もうすぐ出立したいと思いますので、この列車に御乗車下さい。お話は車内で」
「うん、わかった。じゃ」
導かれて客間に乗り込みながら、ふと、首をめぐらせて、列車の後方を見た。巨大な貨物をひいている。
「なにか?」
すばやく、王子の後ろにいた男が問う。その目の鋭さに不審なものを感じながらも、首を振って、椅子に座りながら、
「いえ、貨物列車なんだなあと思って。なんとなく、一国の王子が乗る列車なら、こう、もう少しきらびやかなイメージがあったもので」
「今はこういう状況ですし。わたしひとりのためにそんな手間隙をかける必要はありませんしね。それにわたしはこの田伯光が大好きなんです」
王子はにこにこして言う。その言葉に嘘はないようだった。
「あんまり、お父さんに似てないね。おとっつぁんの方はあんなに偏屈な」
つい、リルカがつぶやいた。アシュレーが慌てて叱る。
「リルカ!」
「う、御免なさいっ」
「いいんですよ」
王子が屈託なく笑って、手を振る。
「父上はああいうお人ですから、あちこちで衝突して皆さんにご迷惑をおかけしています。申し訳ありません、わたしからも謝罪します」
「ノエル君に謝られると困るな。私こそゴメンなさい」
リルカが小さくなってぺこぺこ謝っている。いっしょになって頭を下げていると、車掌もこちらへ頭を下げて、
「発車いたします」
「あ、はい。宜しく」
がっとん、と大きくひとつ揺れて、列車は動き出した。
トンネルの中だから、窓の外は暗闇だ。見るものもない。
「それにしてもさ、これだけ警備のひとがいるんなら、私たち要らないんじゃない?」
リルカがささやく。それはアシュレーも感じていたことだった。
「そうだな…第一、オデッサがノエル王子を狙って、何か意味があるのか…ティムを襲った時とは状況が違う。さらって人質にするか?」
「ちょっと、身分とか立場とか、中途半端だよ。ノエル君を人質にして、誰になにを要求するの。せいぜい戦争好きのオヤジさんに龍の遺蹟からつくった武器を山積みにさせるくらいのもんだよ」
声が大きくなってきたリルカを制する。ちらと見ると、ノエルがにこにこして話しているのへ、ティムが熱心にあいずちをうっている。
「そうなんだ。でも、ギルドグラードの対応を見ると、単なる親としての心配を越えている。はっきり何か危惧を抱えている。それは何なのか…」
最後は呟きになって、それきり黙って考え込む。考えてもわからないことは、わかっていた。誰が何を考え画策し、その結果僕らがここにいることになったのか?
アシュレーの想像し得る範囲内のことではなかった。そして、そう思い知った次に、
あんたなら、どう考える、ブラッド…
どうしようもなく、そう問いかけていた。胸の闇に。
黒い夜の海に浮かぶ氷の上、立ち往生しているような現状では、どうしようもなく、
アシュレーはブラッドに縋ってしまう。
たとえもう居なくても。
ここにブラッドがいれば、考え、推測し、それは当たっているだろう。そして、次に自分たちが為さねばならないことを導き出し、アシュレーに告げるだろう。
だけど、もうその人はいない。
不意に、恐慌に近い不安がアシュレーの背をはいのぼった。これから先、ずっとブラッドを失って前進してゆかねばならないのだという現実が、今までになく強く胸に迫ってきて、恐怖のあまり叫び出しそうになった。
「アシュレー」
リルカの声が聞こえた。気がつくと目をぎゅっとつぶっていたらしい。そっとあけて、彼女を見る。他の人々に不審に思われないように気遣いながら、リルカの手がアシュレーを力づけるように、背を叩いていた。しかし、やはりアシュレーの様子は異様だったらしく、皆がこちらを見ている。
「御免。なんでもない…大丈夫だよ」
そうなのだ。
僕には、不安がる権利もない。
僕に許されているのは、ただこの子たちを守って、前進することだけなのだ。
額をそっと撫でて、にじんだ汗を拭ってから、息をつき、話を継ぐつもりで、
「…随分、長いトンネルですね」
王子がほっとした顔でうなずきながら、
「ええ。ウラルトゥ山脈を一気に縦断しますからね。それにしても」
最後の部分が、不審そうに淀む。
「変だな。こんなに長いかな…侍従長」
尋ねようとした時、傍目にも青ざめた顔の侍従が、必死で冷静になろうと努めながら走ってきた。
「大変です、王子、トンネルを抜けられません」
「原因は」
王子は思いの外落ち着いている。
「何者かに、時空軸を歪まされています。この先に大きなよどみがあって、そこへ強制的に運ばれています」
リルカの目が素早く、二人の間を走った。
「来たね」
ティムがこくりとうなずく。
「来ましたね」
ティムも、随分強くなったなと思いながら、アシュレーはまとめるように、
「よし、出番だ。王子、僕らで何とかしてみます」
「アシュレーさん」
王子がそういったとき、何の前触れもなく列車は停まっていた。慣性の法則が一同をふっとばしかけ、それぞれなんとか転倒を堪える。体勢を立て直しながら、
「まず、間違いなくオデッサだ。何が目的か知らないが、こちらから出向く。いいな、二人とも」
「任して」
「はいっ」
それぞれ力強くうなずく。兵たちや侍従はおろおろと三人を眺めている。
「わかりました…お願いします。実のところ」
ノエルの緊張した目に、わずかに悪戯っぽい光が煌いて、
「噂のARMSの活躍に、期待するところもあるので」
「はい」
恭しく礼をし、アシュレーは先頭にたって、列車の扉を引いた。


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