極彩色の世界が広がっていた。辛うじて天地は定まっているようだが、地平は見えない。どこまでも、油膜のような虹色が、一同の視覚を狂わせるような変化を見せながら、延々と続いている。
「具合悪い」
ぶつぶつ言いながら、リルカがぽんと飛ぶ。彼女のピンク色の靴が、透き通った正方形のブロックの上に降り立つと、一瞬そこだけふうっと色が濃くなる。
「何でできてるんだろ。なんだか、ミレニアムパズルにあった魔法力の結晶に、似てるけど」
「同じような成分だと思う。ここは何者かの強大な魔法力によってつくられた亜空間だろうからな」
音がしない。自分たちの靴音も、まるで宙に吸われるような消え方をする。
突然、目の前に異形のものがあらわれた。空中に分散していた原子が急に結束して形をつくったように見えた。
「ようし、まずは私が燃やしてみる!」
言うが早いか、リルカの左手が胸ポケットのクレストグラフを確かめもせず選び出し、掲げ、ぐっと傘の柄を握る。魔法力が急速に凝縮され、次の瞬間傘がくるっと回った。
「フレイム!」
彼女の声に寄って意味を与えられた力が、クレストグラフから宙に飛び出すと、朱色の炎となって、魔物に襲いかかった。相手は驚くほど大きな音を立てて燃え上がった。その、ボウッという音がこだまを打って、空間全体が明るむ。魔物は暫しの間もがいていたが、不意に動きを止め、次の瞬間再び宙に解けた。
「効いてるみたい」
「よし。ティムは防御しててくれ」
叫んで、アシュレーは銃剣を構えると続けざまに通常弾を放った。残った一匹も、あと少しでリルカに襲いかかるという所で、今度は白く輝く雷に打たれて地に落ち、消えた。
「そう強い敵じゃなさそうだな。よかった…長居は出来ないからな」
「うん。この調子でどんどん行こう」
男の子のように言って、くるくると傘を回すと、先頭をきって歩き出した。おい、気をつけて、と言おうとしたが、結局アシュレーは黙ったまま足を速めた。
ブラッドがいなくなって、何に一番影響しているかと言ったら、考えるまでもない。戦闘だ。今までならば、特に属性防御の強い敵でもない限り、リルカが二発も魔法を使うということはなかったのだ。
僕がしっかりしなければならない。リーダーは僕なんだから。
私がちゃんとしないとね。もっとスムーズに魔法を唱えられないと、次は食いつかれちゃうよ。
二人が肝にめいじている、その何倍の大きさかで、ティムは唇をかみしめていた。僕が、魔法をつかえたら。僕が武器をつかえたら。僕が強力なミーディアムを即座に呼べたら。二人はもっと楽なのに。
そして、その苦い苦い思いは、どうかすると悔いにすりかわりそうになる。
もし、僕が最初からもっと戦えていたら、あの事態も変わっていたのではないか?
ブラッドさんは、
死ななくて済んだのではないか?
考えても意味がない、いくらそう言い聞かせても、ティムの心はその険しく危うい梯子を登りたがる。横木が折れることを知りながら。横木が折れることをどこかで期待しながら。
「ティム、いけないな」
プーカが耳元で言った。この空間に入ってから、プーカの声はやけに響いて聞こえる。
「ここはティムの居た世界と違う。不安定な心は直に空間を不安定にするトコロだ。そういう心構えは命取りになるゾ」
「わかってる、プーカ。ごめん」
「プーカに謝る必要はないのダ」
表情のない口調で言って、プーカは定位置、ティムの右肩の上に戻っていった。
「それにしても、誰がこんな巨大な迷宮をつくったんだろう?」
「よっぽどひねくれた奴じゃないの。こんな意地の悪い堂々巡りを、いくつもいくつも…」
言いながら、リルカの手は早くもクレストグラフに動いていた。それから、リルカははっとした。自意識よりも、本能が先に反応したのだった。
大きな、水晶の門の前に、一人の少年が立っていた。
顔立ちはかなり整っている。柔らかに顔にかかる長い髪や、陶器のような白い肌と赤い唇はちょっと見ると少女のようだったが、こちらを見つめている目は、何をしでかせばこんな目つきで見られる羽目になるだろう、というような冷ややかさだった。
侮蔑と嘲笑、憎しみにも値しないと全身で言っている。憎むなどとはプライドが許さない、と。
「…君は誰だ」
「貴様らに、君などと言われる筋合いはない」
気取ったかん高い声の少年が着ているのは、ちょっと大時代に思われるような、やや装飾華美な感のある軍服だった。襟や袖の返しがやけに大きく、モールとレースと勲章とで飾りたてられている。そう背の高い方でなく、骨格もどちらかというと華奢な部類に属する少年がそういう格好をしているのは、軍人ごっこをしていた年齢から変わらずに大きくなってしまった滑稽さを感じさせるが、決して『自称元帥』のおばかさんではないことを物語っているものが、彼の頭上にあった。
人の大きさくらいある鍵だ。ゆっくりゆっくり回っている。
何かの装置の一部なのか?それとも幻なのか?
「…なに、あれ」
そっとリルカが囁いた。即座に、叩き付けるような声で、
「愚鈍な貴様らに理解できてたまるか、馬鹿め」
一瞬びくりとしてから、むらむらと腹が立ってくる。何なのだ、この『戦争大好き』みたいな馬鹿ヤロウは。むやみやたらと威張りくさって、大体、
「大体こんなところにいるんだから、オデッサの気違いに決まってるじゃん。でしょ、アシュレー」
「気違いだと?」
「気違いじゃなければ単なる人殺しが大好きなテロリストでしょ。なにを一人でえばって…」
「リルカ。興奮するな」
「興奮するよ。こいつらの…こいつらのせいでブラッドは…」
リルカが喘ぎ、唾を飲んだのを見て、少年の目に残忍な光が揺らいで灯った。
「そうか。先日、こちらに大した損害も与えずに一人で自爆した愚か者がいたと報告を受けたが、あれは貴様らの仲間か。ふん」
鼻で笑う。
「虫ケラの仲間はやはり虫ケラだな」
止める間もなく、リルカの絶叫が響き渡った。
「フレイム!!」
炎は今までにない速度と激しさで少年目掛けて一直線に飛んだが、少年がつまらなそうに指を一本立て、振ると、頭上の巨大な鍵がぐらりと傾いで、少年と炎の間に割って入り、炎ははしぃんと悲鳴のような音をたてて掻き消えた。
「無駄なことをする。全く、馬鹿どものすることは」
鍵の向こうで、吐き出すように少年が呟いた。
「だが、ここで貴様らを屠ることは、ヴィンスフェルト様の御意志である。ならば、たとえどんな下らないことでもしなければならない…では、これから虫ケラを三匹叩き潰すことにする」
少年が、ぐ、と拳を握る。途端に辺りの空間が相手の意識によって歪みだしたのを感じ、アシュレーは緊張した。この力、相当なものだ。
「こいつ、単なる雑魚ではない。二人とも、気を」
「雑魚だと?」
少年の、怒りに青ざめた顔が、鍵の向こうから見えて来た。鍵はゆっくりと頭上へ上がってゆく。
「その口をきいたことを地獄で後悔しろ。
我が名はカイーナ。コキュートス第一界円部隊長だ。ランドルフ、地獄の扉を開けよ」
鍵がふっと回転した。途端、空間が裂け、中から巨大な魔物たちが雄叫びを上げながら次々と現れ、襲いかかって来た。
ものも言わずアシュレーが銃剣の引き金をひく。全弾発射しても半数が残っている程の数だ。
「フリーズ!」
リルカの魔法詠唱は悲鳴に聞こえた。それを嘲笑する少年の声が高く、空間を打った。
「踊れ、虫ケラめ。虫ケラの分際で…大人しく魔物に魂を食われて殺し合っていれば、それで済んだというのに…なまじっか生命力だけ強いゴキブリが一匹混ざっていたせいで、ヴィンスフェルト様の計画が滞ってしまった…糞野郎が」
「なんだと?」
魔物を銃剣で打ち倒した直後、アシュレーは一瞬棒立ちになった。
「お前が言っているのは、もしや剣の大聖堂の」
「気安く人を呼ぶなと言っている」
冷たく言い捨てて、少年はペッと唾を吐いた。
「あの降魔実験で、新しい力を手に入れたはいいが…放射能を浴びたゴキブリが妙に強くなって、手を焼いているという訳だ。所詮はゴキブリだがな」
そしてにやりと笑った。美しい顔が下品に歪んだ。
ついさっきまで、共に頑張ろうと言い合っていた仲間達。
この街を、この大地を、大切な人々を守りあおうと誓いあっていた、会ったばかりの友。
栄えある新設の精鋭部隊に選ばれた誇らしさと連帯感で、どの顔も輝いていた。
全ての、その命を、僕が、殺した。
身の内に、暗黒の力を宿した、僕が殺したのだ。
―――こいつのせいで―――
「許さない」
アシュレーは我知らず叫んでいた。内側から絶叫が吹き出して来た。
「許さないぞオデッサ!絶対に許すものか!」
「許してくれなど誰が頼んだ。思い上がるなッ!」
間髪入れず、少年のヒステリックな絶叫が返った。少年の激昂に呼応して、魔物たちが耳を聾する叫び声を上げた。
誰にしよう、誰でもいい、ミーディアムを呼ばなくちゃ。うろたえて取り落とした地の守りを掲げようとした時、リルカが悲鳴を上げて吹っ飛ばされた。
「リルカさん!」
オードリュークにしようか。守りを固める前に倒されては意味がない、
「あたしは…大丈夫だから、どーんてやつ、誰か呼んで」
左手でヒールのクレストグラフを掴み、尚も右手のクレストグラフから青い氷を出し続けながらリルカが叫ぶ。
「早く、こいつらをなんとかする方が、先」
「わかりました」
必死で、胸の前でミーディアムの石版を抱きしめ、祈る。自分の内部に貯まってゆく戦闘力を、異世界の幻獣を呼び出す声に還元する。
頼む。僕らに力を貸しておくれ、ガーディアン…
ぐうぅっと、強い重力に似た圧迫感がティムの華奢な肩にのしかかった。眉間の苦悩が深く刻まれる。同時に、プーカの紫の体が、灼熱の紅に染め上がり、小型犬ほどの大きさの体が、巨大な翼をはばたかせ伸びあがった。魔物たちが一瞬動きを止め、ざわめいた。火のガーディアン、ムア・ガルトの姿を借りたプーカが、大きく嘴を開いた。
猛禽類の雄叫びを思わせる絶叫に続いて、紅蓮の炎がどぉっと、辺り一帯をなめた。数秒の後、魔法を解かれたかのようにプーカは元の姿に戻り、ふっとティムの肩の上に浮かんだ。まだ残る灼熱感が、リルカの髪やマントの裾を激しくはためかせている。無意識に左手で裾をおさえながら、リルカが素早く辺りを見渡す。
魔物は一掃されていた。
「やった!すごい、ティ…」
言い終わらないうちに、上げられた少年の手が捻られる。と、先刻と同数かそれ以上の魔物が裂け目から再度吹き出してきた。
「何度来ても同じ!ティム、頼むよ!」
自分を励ますために強く叫んで、リルカは手早くクレストグラフを手繰る。アシュレーは既に弾の補充をし終わり、やや前に出て攻撃を始めている。
「はい、リルカさん」
応えて、再度意識を集中させようとするが、既に疲労がティムの手から増幅器である杖を落とした。慌てて拾いあげた時、頭上から何か巨大なものが自分に迫ってきていることに気付いて、はっと顔を上げた。
銀色の、人ほどもある、鍵…
ずん、と音を立てて、鍵はティムをふっ飛ばした。
「ティム!」
リルカが絶叫した。指は既にヒールのクレストグラフにかかっている。が、アシュレーの叱咤がとんだ。
「リルカ!こいつらを倒す方が先だ!急げ」
さっき自分が言ったのと同じことを言われ、でも、と言い返しかけて、あっと思う。ティムを憎々しげに睨み付けている少年の背に向かって駆け出したアシュレーを、援護すると同時に、少年の意識をこちらへ向けるのだ…
その思考が一回りするより先に、リルカは素早く叫んだ。
「フレイム!…フレイム!…フレイム」
「やかましい、このクズが。貴様も黙らせてやる」
少年が手を挙げ、リルカを指した。鍵はゆらりと宙に浮かび、身を翻すと、一直線にリルカに向かって突っ込んで来た。思わず悲鳴を上げそうになった時だった。
「ぐ、…あ、…」
アシュレーの銃剣が、深々と少年の脇腹に突き立っていた。反射的に身をそらしたのだろう。だが、鍵を操る精神力は切れたと見えて、うなりを上げて飛んでいた鍵は、途中から飛翔力を失い、普通にただ投げられた石のように放物線を描いて、すくみ上がったリルカの足元まで少しという場所に落ちた。ものすごい音がした。
あえぎそうな呼吸を懸命に整えて、リルカは炎の魔法を再び連発した。鍵が力を失ったことで明らかに衰えを見せていた魔物たちは、瞬くうちに餌食となって消え失せた。
「貴様ら、貴様ら…よくも」
少年の真っ白になった唇から、呪詛の言葉が吐かれた。
そのまま倒れるか、と二人が思った時、少年の手が引き上げられた。続いて鍵が宙に浮かび、少年の元へ戻ってゆく。
「アシュレー、危ない!」
咄嗟に銃剣を引き抜いて転がった。アシュレーのいた場所に降って来た鍵に、すがるようにして、少年は体を立て直した。が、脇腹からは血が溢れて、軍服と長靴を汚している。
「この…借り、いずれ…千倍にして…返してやる、…貴様らの…汚らしい血で…貴様らの骸を…濡らしてやる、…」
まだまだ続くはずだったのだろう呪いの言葉を途中にして、少年はゆるく手を振った。鍵が半回転してできた空間の裂け目に、自分の体を押し込んで、初めて見た時より更に白くなった顔の少年は、消え失せた。同時に鍵も消滅した。
ほんの数秒、二人は棒立ちになっていたが、同時に踵を返して、駆け寄った。
ティムはぐったりと横になったきり、身動きもしていない。
「ティム!しっかりしろ!」
「ヒール!ヒール!ヒー…もう出ないか…ティム、目を開けて」
口元が血で汚れているのを見て、内臓をやられたのかとアシュレーはぞっとした。しかしそれは鍵になぎ倒された時に出来た擦り傷だったらしく、一回目の回復魔法で治癒し消滅した。
二人にとってひどく長い時間の後、ティムが眉をしかめ、それからゆっくり目を開けた。
「よかった!大丈夫?まって、今ベリーあげる。あんまり美味しくないけどガマンして食べて」
「その前にちょっと水をのませよう。ティム、起こすよ、」
アシュレーがティムの肩の下に手を挿しいれ、力を込めた。上体を持ち上げられた時、一瞬鋭く眉をしかめたが、やがてまばたきをし、二人の顔を見比べた。
「あいつは…?」
「逃げた。致命傷じゃなかったんだ。…恐るべき精神力だな、ああなってまで鍵を操るなんて」
「誉めないでよ、アシュレー」
どんな表現でもあの少年を良くは言いたくないリルカに、大人しく頷いてやって、
「さあ、飲んで。ちょっとずつ」
「すみません」
細い声で言って、水を少し飲み、リルカに手渡された、果実というよりは薬に近い深紫の実を、口に入れた。彼女の言う通りそれはひどく酸っぱく、ちょっと涙が出た。その顔を見てリルカがほっとしたように笑った。
少し休んでから、腰を上げた。ほんの少しふらついたが、あまりのんびりもしていられないのはわかっている。
「どうやら、あの男の力で発生していた亜空間という訳じゃないみたいだ。どこかに、この場を作り出している装置…ええと、ジェネレイターというのかな?が、存在しているんだろう。それを止めないとこの空間は消えないみたいだな」
二人はうなずいた。
「早いとこ、それを見つけてもとの世界に戻らないとね。この空間に閉じ込められたままどっかへ飛ばされちゃったりすると、コトだから」
それがゆうに出来るだけの力を、あの少年は持っていた。…最初から、我々を倒そうなどとせずに、この空間ごと封印してしまおうとすれば、できたはずだ。
「ま、ラッキーだったと思うことにしようよ、アシュレー」
何を考えていたのか読まれて、アシュレーは苦笑した。
「じゃ、行こう。さっきの戦闘で訳がわからなくなったけど、こっちへ行こうとしてたんだよな」
指差した方を見て、リルカがうんざりと、
「違うよ。あっちだよ」
「え、そうか?…違うだろう。こっちだよ」
「やだね、方向音痴のリーダーは。絶対あっちだって」
もめる二人に、おずおずと、
「あのう、お二人とも違うと思います…」
二人はぽかんとした顔をティムに向けて、異口同音に、
「へ」
「これから行こうとしてたのは…そっちではないですか」
違うともそうだとも言えず、もぐもぐ口を動かしている二人に、
「ティムの言う通りなのダ。アシュレーの言った方へ行くと、入口に戻ってしまうし、リルカの言った方へ行くと、もう開けた扉のスィッチの前に出るのダ。まだ行ってないのは、ティムの指した門だけなのダ」
意地悪くもない調子で、プーカが助言してくれる。
「…あ、そう…」
アシュレーはぼそぼそ言い、リルカは、入口に戻るよりはスィッチの方がましじゃん、と負け惜しみを小さな声で言った。
「じゃ、張り切って行こうか」
空元気を出す。二人は、気を取り直して、こっくりとうなずいた。
幾度か現れた敵を倒しながら進むうち、スィッチを踏むと床が上下するフロアに来た。かなり込み入ったつくりになっていて、行ったり来たりしているうちに、
「…どうやって来たっけ」
「忘れたよ。覚えてられないよ」
二人はちろっとティムを見た。こちらも気弱く微笑んで、
「すみません、僕ももう…プーカは?」
プーカは珍しく困った声を出した。
「こう何度も間違われては、プーカのメモリーにも限界があるのダ」
「しまったなあ。メモを取りながら歩くんだった」
「今更遅いよ」

うめくと、傷口の痛みが増す。
「畜生…」
それでも、憤怒は言葉にして口にしないと、とてもこらえきれない。あのカスどもが…ゴキブリどもが、この僕に、怪我を負わせた。
いや、そんなことじゃない。僕が今このベッドの上で承諾できない怒りに身を焼いているのは、あのカスどもを始末することが出来なかったからだ。ヴィンスフェルト様の作戦を、僕が全うできなかったためだ!この僕が、ヴィンスフェルト様の足を引っ張るなどということが、あっていい筈がない。
「虫けらめ…畜生!僕の手で捻り潰してやるつもりだったのに、ちくしょぉお!」
絶叫する。血が包帯を染めてゆく。
「おやおや、ご機嫌斜めだね、坊や」
せせら笑う声が、天蓋を覗き込む。眼鏡が反射して、にやにやと笑った口元だけが冷たく少年の目に入った。
「何の用だ。笑いに来たのか?帰れ!」
「女みたいな悲鳴を上げるなよ。君の敬愛してやまないヴィンスフェルト様に軽蔑されたいのか?作戦が失敗に終わったことをキンキン声で叫び続ける部下は、何と言って褒めていただけるかねえ?」
ぐっとつまる。きつく奥歯をかむ。歪んだ目元には屈辱の涙が浮かんできた。
く、く、と笑い声が漏れた。
「可愛いねえ…実にそそられるよ。君のその頂上の見えないプライドたるや…ウラルトゥ山脈よりより高いんじゃないか?」
「ふざけるな。出て行け!貴様のしたり顔など見たくもない!」
「やれやれ、嫌われちゃったな。もともと好かれてもいなかったかな…僕は君の悔し涙に暮れる顔をもう少し見ていたいんだけどね」
「出て行けと言ってるんだ…僕に追い出されたいのか?」
眼鏡の青年が肩をすくめて部屋を出ようとした時、ドアが向こうから開いた。
「これはこれは。御大みづから、失敗した部下を叱責にいらしたんですか」
皮肉っぽい声に、少年はがばと顔を向けた。
そこには、灰色の髪を総髪にし、上背のあるがっしりした肩から足元までマントを長く翻した偉丈夫が立っていた。
少年の、血のにじんだ唇が震え、すぐにベッドから滑り降りると、床にひざまづいた。
「申し訳ありません、ヴィンスフェルト様、どのような罰でもお受けいたします。いえ、どうか罰をお与え下さい。この不甲斐ない部下に」
「怪我をしているではないか、カイーナ」
よく通る、深みのある、力強い声。威圧的で、同時に人の心を掴んで離さない目。
テロリストの一方的な宣戦布告だというのに、聴いている人間に、『この男は支配する側だ』と納得させるものが、声にも、相手を見つめる目の光にも満ちていた。今もその声とその目つきで、雨に打たれた草のようになっている少年を捉え、あおむかせた。
「お前程の男が不覚を取ったのだ。誰が行っても同じであったろう。今はその時ではないというだけだ。恥じることはない。それに、本来の目的の方はちゃんと果たせるのであろう?」
男の手が、血の滲む包帯の上をそっとおさえる。少年が思わず目を閉じた。
「勿論で…ございます」
「お前に血を流させた輩の罪、私は決して忘れまい。いずれ骨の髄までわからせてやろう」
「わたくしごときに…もったいない…お言葉を」
目を閉じたままの少年をほとんど抱くようにして、男は立たせてやった。男の腕の中でうっとりと目を開けた少年のまぶたは薔薇色に息づいて、瞳は熱っぽく潤んでいる。小柄な少年は、男に支えられると胸のあたりまでしかない。花びらのようなくちびるにつと触れてから、
「私にされたことのため以外に、お前が血を流すなど、許さぬ」
低くつぶやいて、少年の顎を引くと、くちづけをした。少年はほとんど垂直に天を向きながら、甘く苦しい責苦に、身悶えした。顔が離れる時、男は少年の唇ににじんだ血を、舌でなめとった。
声にならない喘ぎ声で、少年が、ヴィンスフェルト様と呟いたのを聴いてから、青年は今度こそ肩をすくめ、部屋を出ようとした。その背に、
「することはわかっているな、ジュデッカ」
「勿論ですよ。そろそろ行きます…見ていた方が興奮するというのなら見ていますが?」
「いやなことを言うものだな」
肩越しに男の顔が歪んだのが見えた。苦笑したらしい。
「ヴィンスフェルト様の御意志であれば、カイーナはどんな格好を見られても平気だと思いますがね。それでは興奮しませんか。では、もうおひとりとの時にしますか」
瞬間、少年の顔が蒼白になった。その顔が青年をにらみつけるのを、やんわりと自分に向けさせ、
「もういい。早く行け。お前は口が過ぎる」
「大変失礼しました」
その両者とも、声に笑いが含まれていることを、少年は絶望的な思いで噛み締めた。すぐに、何を思い上がっているのだ、と自分を叱責した。お前の感情などどうでもいいことではないか。全て、全てはヴィンスフェルト様の御為にのみ存在しているのだ。僕も、あの女もだ。そのことに不服でもあるというのか?
「そんな顔をするな、カイーナ」
「申し訳ございません。思い上がったことを」
「可愛いな、お前は。ただ私だけを信じておればいい…私の腕の中で」
男の指が少年の顎にかかった。くすぐるように慰撫されて、少年はあえぐような息をついて、再び目を閉じた。
これからしばらくは御稚児さんごっこか、と青年は思いながら、長い廊下を歩いた。気に入っている靴が、乾いた高い音を立てる。
さっき口にしたのと同じような状況があったことを、ふと思い出したが、別段楽しくなるようなことでもないので、ちょっと肩を上げただけで、記憶の中に仕舞い直した。
あんなことで、気絶しそうに興奮している少年が、理解できない。性欲なんて夜の浜辺に寄せる波みたいなものだ。寄せて、返したらそれで終わりじゃないか。あんなことより、ずっとずっと興奮するのは、
青年は目を細めた。一見華奢な青年の腕から、驚くほど力強い一閃が生み出され、まだ子供と言えるような少女の手から、七色の炎がうなりを上げて迸る、女の子みたいな顔立ちの少年の背後から、失われた守護者の絶大な力がこちら目掛けて降ってくる。それらを捻り上げるのには相当な力が要る。今回だってカイーナが惨敗して戻ってくるほどだ。前回、会った時より更に力をつけたということだろう。
あいつらを一人ずつなぶり殺すのは、どんなに気持ちがいいだろう。
青年の喉から、低くかすれた笑い声が漏れた。
性欲なんて―――この衝動、この欲望に比べたら、色のない一枚画みたいなものだ。真っ赤な血、真っ赤な臓物をぶちまけて…もげる腕、絶叫の迸る喉、涙をまきちらして転がる体、ああ、あのでかい奴をじっくり殺すことができなくて、本当に残念だった。
あんなに丈夫な奴ならなかなか死なないだろう。長く、長く、長く楽しめただろうに。
ずり落ちた眼鏡を直しながら、まだしばらく笑っていたが、二度目に眼鏡を直した後、
「さて、それでは飼い犬の首から縄を解くか」
ジュデッカという名を、ヴィンスフェルトから与えられた男は、独り闇に呟いた。

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