他にすることもなく、竜馬が道場で汗を流して、空手着姿で廊下を戻ってくると、向こうから隼人がやって来た。
「どこか行くのか?」
尋ねたのには、隼人の左手に車のキーがあることと、それから、こんな時にどこへ、という気持ちがあるからだった。
隼人はしぐさで外を示し、
「食料と雑貨の確保に行ってくる。ミチルさんに行かせるのは危ないからな」
「だろうな」
ちょっと考えてから、よし、俺も行くと言い、汗を首のタオルで拭って、
「俺が運ぶからお前エンジンかけて待ってろ」
「そうか?」
単にヒマなんだろうな、と隼人は思い、じゃあと言いかけた時、
「おぉーい」
廊下のかなたから、どすどすと武蔵が走ってきた。
「ミチルさんに聞いた。かっぱらいに行くんだろ?俺も連れてけ」
「人聞きの悪い事を言うな」
「だってそうだろうが」
意味も無く威張っている相手は、柔道着だ。
「要するに、ヒマなんだろう?」
「まあ、そうだな」
がはははと笑う。どいつも力が余ってるらしい。
なんでもいいから暴れる口実を探している二人に呆れたが、早乙女博士はもうずっと留守にしていて、怒る人間もいない。人数は多い方がいいかも知れないな、と譲歩して、
「わかった。じゃあ二人とも、行くぞ」
おうっし、と二人は並んで力こぶを作ってみせた。
ワゴンはがたぴし言いながら下界への山道をくだってゆく。あちこちでこぼこなのは前回、狂乱した連中に襲われた名残だ。
「でも今回は前ほど来ないと思うぜ」
竜馬がスニッカーズを食べて、甘いなこれとびっくりしてから、そう言った。
「えー、そうか?なんで」
スニッカーズを二つ、口の左右から入れつつ、武蔵が尋ねる。チョコレートの牙が生えたようだ。
お前も食えと後ろから無理むり回って来たスニッカーズをもてあましながら、隼人が、
「もう大したモノは残ってないだろうからな」
つぶやくと、それもあるけど、とむちゃむちゃヌガーの糸を引きながら、
「そういう段階も終わっただろ。怒ったり暴れたりっていう」
確かに、そうかも知れないと隼人も思った。そろそろ、諦観と受容の時期が訪れる筈だ。この前は、この道を気が違ったように車をふっ飛ばす連中がいたが、今日は一台も会わない。その辺の変化にも、下界の連中ひいては日本国民さらに人類の精神状態が、表れているのかも知れない。
「なんか、変な天気だな」
武蔵が窓から首を出して言う。確かに、季節外れの高い気温が続いているし、やけに天候不順だ。秋だというのに嵐だか台風だかが来ている。
「やっぱこれも、アレのせいなのかな?」
武蔵が首をひねった直後、ぶわと吹き付けて来た風でオールバックになっている。
「多分な。雨が降って来た…窓閉めろよ」
言って、隼人はハンドルを切った。がくんがくんとやたらバンピーな箇所を乗り越える。視界に下の街並みが入って来た。
二人ともスニッカーズを床に落としてしまって、慌てて拾い、ふうと息を吹きかけてから同時に食べる。竜馬が「ジャリが…」と言いながら結局飲み込んでしまった。
生温かい風とやたらでっかい水滴の雨粒が、フロントガラスに吹き付けてくる。あっという間に豪雨になった。
「変だよなあ。まだとぉーくにあるのにな」
「でも宇宙規模のハナシで言うと、目の前ってことになるんじゃねえの?」
「そうなのか。今どの辺なんだ?」
「さあなあ。横丁の角っこあたりって感じかな」
後ろの会話についにやにや笑ってしまう。なんだろうな、こいつらは。馬鹿なんだか呑気なんだか…
「なんだよ、変な笑い方しやがって」
「どうせ馬鹿だとか思ってんだろ」
ルームミラーを見ると、どんぐり目が四つ並んでこっちを睨んでいる。
つい、ククと笑ってしまってから、
「そろそろだ。…リョウの言う通り、閑散としてるな」
「だろう。皆あきらめたんだよ。やっとな」
言いながら、それにしても甘いなこれと付け加え、手を胴着で拭いて、
「ま、一応注意して行こうぜ。ムサシ」
「オッス」
武蔵は持って来た自分の『安全第一ヘルメット』をかぶり、もう一個を竜馬に手渡した。
「だっせえな」
文句を言いながら、一応、のようにアタマに乗せ、それでも顎紐をきゅっとひっぱってしめた。似たような格好の二人に、隼人はまたちょっと笑った。
ワゴンは大型スーパーマーケットの駐車場に入った。休日にはこの巨大な駐車場が満車になるのだが、今日はからっぽだ。ずっと向こうの方に数台、停まっているというよりは捨てられているような状態で数台点在しているくらいだ。
ここが再び車でいっぱいになる日は多分もうないんだろうな、と隼人は思いながら、車を停める。
入り口付近に、だらだらとたむろしていた若いのの幾人かが、だるそうに立ち上がって、こっちへ来た。
ほい、ほいと飛び降りた竜馬と武蔵をじろじろ眺めながら、
「なんだよ、てめえら」
「かっぱらいだ。お前らと同じだ」
優しげに馬鹿にした声音に、相手はあっさりキレた。
「殺すぞ、ああ?」
「要らねえ。邪魔だ」
いいざま、竜馬の拳が、先頭のチンピラがナイフを出すのと同時に相手をふっとばした。
他の面々は、襲い掛かってくる奴と、情勢を見てのろのろとどこかへ行ってしまう奴の、二種類に分かれた。『襲い掛かってくる組』を、大喜びで殴り、投げとばし、けたぐっているヘルメット二人組をちらりと見てから、隼人は運転席から、何の気力もなく豪雨のアスファルトの上を、だらだらとどこかへ去ってゆく若者の後ろ姿を、イヤそうに見送った。
「終わりだ。あっけねえな。じゃ行くか」
「おう」
二人のヘルメットから、雨が滝のように滴っている。すでに全身ずぶぬれだが、正面玄関までは走って行った。ガラスは割られまくり、店内は真っ暗でしーんとしている。電力の供給はコンピュータ制御でちゃんと続いているのだろうが、照明器具などが壊されてそれっきりになっているのだろう。
「邪魔するぜー」
言いながら、油断なく二人は中に入っていく。が、誰もいない。
「店の持ち主って、逃げちまったのかな」
「逃げるとこなんざねえのにな」
笑った相手に、
「それがよ、種子島が大人気らしいぜ。いち、いち、ええと、いちるののぞみってやつで殺到だとか」
「馬鹿だな。ジャンボジェットみてえな気軽さで飛べるかよ、ロケットが」
呆れながら、食料コーナーに来る。大分荒らされた後だが、まだ少し、カップ麺のダンボールや、缶詰などが残っていた。
「ここらへん、もらってくか」
「おう。すみませーん早乙女研究所ですけどー。もらっていきまーす」
一応、大声で宣言する。がらんとした、暗く天井の低い空間に、武蔵の声が空しく響き渡った。
二人それぞれダンボールやらを抱えて入口に着いた時、隼人が入って来た。
「いいのか、車」
「襲撃する奴ももういないようだからな。三人でとっとと運んで、戻ろう。あれが」
顎でしゃくると、ちょうど遠雷がひらめき、それから轟音が轟いた。
「遠くにいるうちに」
「よし。わかった」
三人はしずくをたらしながら荷物をワゴンに運び込んだ。何度か往復し、そろそろいいかということになった頃、
「あったあった」
武蔵が嬉しそうに戻って来たのを見ると、スニッカーズを山ほど抱えている。
「今お気に入りなんだよ、俺の」
「俺はいらねえぞ。苦いくらい甘い」
後ろで喋っているのに背を向け、ちょっとだけ考えてから、隼人はレジに近づくと、ちーんと音を立てて開けた。自分のサイフから金を出して、レジに入れると、閉めた。
「何やってんだよ。この期に及んで金なんぞ払ってどうなるんだ」
呆れている相手に肩をすくめ、
「それはそうだが、何もしなければお前ら言うところのかっぱらいになる。いずれ、こいつの価値が元に戻る日が来ないとも限らないし」
駐車場を見て思ったのとは正反対のことを言う。案の定二人は無遠慮に笑って、
「そんな日はこねえって、自分でも思ってるくせによ」
隼人は仕方なく苦笑し、
「ま、お店屋さんごっこみたいなもんだな」
サイフをしまい、じゃあ戻るかと言った時。
思いのほか雷は近くまで来ていたのだろう。一瞬昼間のように店内は明るくなり、ほぼ同時に耳を聾する大音響が轟いた。お互いの、各々の度合いで驚いている顔が浮かび上がり、続いて、光で焼かれた目には室内は真っ暗闇になったように見えた。
「あー、びっくりしたー」
「何か聞こえなかったか」
武蔵が大声を出し、隼人が呟いた。竜馬が、あん?という顔で、
「そりゃあ、すげーよく聞こえたけどな。がらがらどっしんて」
「雷の音じゃない」
眉間にシワを寄せながら、それでも、出入り口から一番近くに居た竜馬は、首を出して外の様子を見た。
篠突く雨がコンクリを叩く音。シーンと言っている室内のモーターの音。武蔵のスニッカーズが擦れてぶりぶり言っている音…
竜馬があっと顔を上げた。同時に、外へ駆け出していた。
「リョウ!雷落ちるぞっ」
一応というように、ヘルメットを投げ捨て首をすくめ身をかがめて走って行く竜馬が、何を目指しているのか、少し遅れて駆け出した隼人と武蔵もわかった。
スーパーマーケット前の国道をずっと南に行った方から、一人の娘が何か叫びながら走ってくる。懸命の形相で、髪が雨でぐしゃぐしゃだ。辺りはまったいらだから、娘の頭が一番高い位置にいることになる。ヒヤリとした。
が、幸いにして娘に落雷しないうちに竜馬の手が娘の頭を掴んで、かがませた。
「なんだ!どうした」
「助けて、あの子死んじゃう。ボコボコにされてるの。あっち」
娘の必死の指が、国道脇の民家の方向を指している。
「よし、お前はここで平たくなってろ」
言い捨てて竜馬は指の示した方に走り出した。追いついた隼人が娘の腕を掴んで、
「君に怪我はないのか」
「あたしはないけど、あの子が」
「わかった。ここで…といってもここも安全じゃないな。俺たちの後から来い」
「来られるかあ?」
それまでかなり興奮していた娘は、武蔵の呑気そうな問いかけを耳にして気持ちが落ち着いたらしい。うん、と言って、分け目がめちゃくちゃになった髪を分け直し、
「あのひとが走ってった方。あたしの家」
三人は竜馬の後を追った。
竜馬が走ってゆくと、はたして、がきん、ぼきんというような音と、「馬鹿にすんな」「コロしてやるぁ」「ざまあみろ」などのわめき声が、生垣の中から聞こえる家があった。
ばっと飛び込むと、庭で、さっきスーパーマーケットの前で見たようなでれりとした若者数人が手に手にバットやら鉄パイプやらを下げ、その向こうの縁側でおびえきっている老婆が震えながらこちらを見、それから若者たちの足元に倒れているのは、
人だ。子供だ。大きさから言って。
竜馬の頭がぶちんといった。
「てめーら、何やってやがるんだ!ぶっ殺す!」
烈火の怒りに若者らは後ろに下がったが、この状況にあって相手の戦意が喪失していようと消滅していようと許してあげるような人間ではない。やったことの報いは十分に受けてもらおうという訳で、二倍か三倍にして、返してやった。最後の一人の顎を、ぐしゃと音を立てて粉砕した時、
「あっ」
隼人と武蔵と、娘が飛び込んで来たのとは反対側の生け垣の陰にかくれて、こちらの様子を伺っていた二対の目が竜馬と合った。
「誰だ!」
わめいて、最後の一人を放り投げると、そいつらの方へ跳んだ。と…
ばしゅん、という擦過音がして、焼けるような感覚の後、竜馬の肩口から血が吹き出した。
一瞬身をかがめ、再び駆け出す。生け垣を乗り越えた。逃げようとしながら、振り返ってもう一度攻撃しようとした相手のうちの一人に肩からぶつかっていった。ぐらっとした所に骨をも砕く一撃を見舞う。ぐたり、と地面に倒れた。
もう片方の銃が目の前につきつけられる。刹那、躱した。こめかみに焼け焦げの道が出来る。野郎、と怒鳴って、回し蹴りをたたきこんだ。ふっ飛んで、電柱に激突し、ずるずるとくずおれる。
それを見てから、足元に倒れている相手に視線を落とした。…ハチュウ人類の兵士だった。
「…こいつらが?何故…」
首をかしげながら、来たルートを通って庭に戻る。
庭に勢揃いしていた連中が揃ってこちらを見た。竜馬は親指で後ろを示し、
「トカゲ野郎が覗き見してやがったぜ」
「こいつら、操られてたみたいだぞ」
武蔵が、首がぐらぐらになっている若者の頭から帽子をはいで、見せた。頭頂部から、ぽろり、と爬虫類のような生き物の死体が転がり落ちた。
「なんで…いや、それより、その子供は?…もう駄目か?」
竜馬がいたましそうに声を上げる。倒れている子供は、うつ伏せのためよくわからないが、黒のスーツというやけにフォーマルな服を着、妙にでかい海軍のキャプテンのような帽子を被っている。びくりとも動かない。少しだけ起こして、隼人が様子を見ていたが、なんだか煮え切らない口調で、
「いや、息は…というか、大丈夫だ。…」
「大丈夫ってことないだろう。ぼかすか殴られてたんだぞ」
「そうだよ。早く手当てしてやってよ」
娘も声を上げた。ん、と隼人は娘を見て、
「すぐに、治療できる場所に連れて行く。どういう状況だったのかだけ教えてくれ」
うん、と娘は早口で喋り出す。
「おやじもおかあさんも弟と妹連れて逃げてっちまって。あたしとばーちゃんだけ残ってたんだ。急に雨降って来たからさ、慌てて洗濯物いれようとしたら、そいつら」
にくにくしげに、泥塗れになって倒れているちんぴらを顎でしゃくって、
「急に入ってきて、暴れ出したんだ。ばーちゃんも引きずられたしあたしはやられそうになったし」
武蔵と竜馬は咳込んだ。
「そしたら、その子がどっからかやってきてさ、止めに入ってくれたんだよ。でもそいつら全然手加減もしないで思い切り殴りやがってさ。何なんだよ、頭にトカゲ乗っけて。きみわりぃ、こいつもじゃんか。うわ、こいつもだ。何でだよ?」
相手の訴えには答えてやらず、
「おばあさんに怪我はないのか」
「ないよ。すりむいただけ」
祖母が脛を撫でながらうなずくような、頭を下げるような動作をして、ありがとうございますと細い声で言った。
ともかく、早乙女研究所へ運ぶことにした。隼人が、ちょっと頼むと言って少年の体を武蔵の背に背負わせた。ぐたりと体重をかけられ、武蔵は正直驚いた。
―――なんだ。やけに重い―――
隼人はそのまま、一足先に、車の方へ走っていった。
庭から、道路へ出ながら、竜馬がふと、
「なんでお前は家族と逃げなかったんだ?」
娘は再び分け目がおかしくなった髪をなでつけながら、
「ばーちゃん足悪いんだよ」
「そうか」
どこに居たって助からないとは言っても、今居る場所から逃げたいと思うのが人情だろう。祖母のために残ってやった気持ちと、さっきの、あの子を助けてと訴えていた顔を思って、竜馬はにぃと笑った。
娘はふてくされたような顔で立っている。眉はないし鼻にはピアスの穴があいているけれど、
「お前、いいやつだな」
「いい女だって言えよお」
せっかく誉めたのに逆らわれてちぇっと舌打ちする。
そんなに進まないうちに、隼人の車が来た。
「助かった。何か知らねえけど、この子供やたら重くて参った」
「何言ってんだよ」
笑いながら、背から子供を抱え上げようとし、予想外の重さに思わず驚いて黙った。
「見たか」
武蔵がフンと笑い、それからはぁと息をつく。
「それにしても、ハチュウ人類がどうしてまた若いのを操って女のコとばぁさんを襲わせたんだろな?」
「ずうっと考えてんだけど、わかんねえな。あのコとばあさん襲って、トカゲが得すること…」
「ねえなあ」
喋りながら、後のドアを開け、二人で協力して座席に運び込み、少しでも安静な姿勢を取らせてやろうとした時、目深に被っていた船長帽が取れた。
その下から、
「………」
竜馬も武蔵も、肉だと思ってかぶりついたらゴムだった、みたいな顔になった。
別に目が三つあったとか、口が二つあった訳ではない。いや、むしろ、とても整った顔立ちをしていると言えた。色白の肌に、ちんまりした鼻、ふっくらした口元。どちらかというと女の子みたいな顔だ。睫毛が長い。目を開けたらもっとその印象は強くなるだろう。
しかし、この場合、この子の顔を形容するのには、もっとふさわしい言葉があった。<お人形みたい>という言い方だ。
「なんか、…どこか」
「ああ。メガネが合わなくなるってこういう感じなのかな。自分の目がちょっと変な感じっていうか」
自分は、この顔の何に、違和感を感じているのだろう?
それから、ハンドルに手を預けて、前を向いたままの隼人に、二人は同時に声をかけた。
「おい」
「本人が気づいたようだから、聞いてみるさ。いろいろと」
見ると、まさしく、その子が目を開けるところだった。ゆっくり、ゆっくり瞼があがってゆくのを見守りながら、竜馬は、何かみたいだな、と思った。何だろう?
全部、開ききった時、武蔵は気づいた。ガレージのシャッターみたいだと思ったんだ。
目を動かして、一番近くにいた竜馬を見る。
「あなたは誰ですか?」
きれいな声だ。テノールだろう。変声期前の高音だ。
「俺は流竜馬だ」
「俺は巴武蔵。お前、おねえちゃんとばあさんを助けてぶん殴られてたんだぜ。じっとしてろよ。すぐに治療…」
「あっ!あの女の人とお婆さんは大丈夫ですか?」
目を見張って、慌てて問い掛ける。ちょっと顔を引きながら、
「あの二人なら無事だ。ちんぴらなら俺たちが丸めたからよ」
「そうですか、よかった。お世話になったんですね。ありがとうございます。僕、怪我はしてません。心配しないで下さい」
ほっとして息をつき、ていねいに、お礼を言って頭を下げる。
どこを取っても、おかしなところはないのだが。昨今のガキどもに見習わせたいような礼儀正しさと分を弁えた腰の低さなのだが…
なんだかどこかが不自然だ。
「こちらから聞いてもいいか」
運転席から、顔を捻じ曲げて振り返り、
「俺は神隼人だ。君の名前は」
少年の顔に、迷いと、困惑とが生まれた。それは極めてわかりやすく、眉が下がり、悲しげな顔となって表れた。しばらく言葉に詰まっていたが、不意にきっぱりと、
「トビオです」
言った。表情はもとに戻った。が、
「トビオか。飛ぶ、に男か?オスの方か?」
武蔵に聞かれ、再び同じ顔になる。前回と同じくらいの時間をおいて、
「カタカナでしょう」
「でしょうって、お前の名だろ」
「はい、でも」
うつむきはじめた少年のこめかみに、汗が流れ出している。雨ではない。冷や汗までかいて、困っているのに、どこか、…『困っているフリをしている』ように見えるのは何故だろう。
「そういやお前、ひとりか?」
竜馬がふと尋ねた。少年ははいと答えた。
「どこにいくつもりだったんだ?」
「それは…」
「こんな時だぜ」
竜馬は手を広げた。
「あと何日後か知らねえが、でっけぇ星がやってきて地球をかすめてもぎとってくんだかど真ん中にぶち当たるんだか。まー駄目だろうな。一巻の終わりだ。逃げるったって、玉の上をどこまで行っても玉の上だし」
「玉の上で回ってるクマだな。三角の帽子かぶって」
武蔵が茶々を入れた。
「人類全員のっけて飛べるロケットはちょっと、まだねえしな。という訳で、無気力になってる奴は置いといて、こうなったら何をしてもいいんだと理屈つけてる馬鹿がいくらでもいるんだぜ。そんな状況の中を子供が独りで、徒歩か?夏休みの自立の一人旅でもねえだろう。現にお前、フクロにされてたじゃねえか」
だんだん、腹が立ってくる。少年の無防備さと迂闊さに。それから、どんどん疑問が深まる。行動も含めてこの子の存在が不自然だ。どうにも。
「喋らないと駄目ですか」
「バカ野郎」
竜馬が怒鳴った。
「怒るなよリョウ。あのなあ、こいつ、お前のこと心配してるんだよ。心配で腹が立ってんのさ。一応助けてやったんだから、説明してみろって。な」
にー、と笑っている男の後ろで、雨が少しずつ上がり始めている。
「…ごめんなさい」
俯いたまま、少年が口を開いた。
「でも、言えないんです。言っても、しょうがないことだし」
「なんだその言い回しは。そんなことはこっちが決めることだ」
「まあまあまあ」
わやになっている後部座席から、一旦視線を外へ投げ、もう一度振り返って、
「君は、天馬博士の」
少年が顔を上げた。その目、大きくて綺麗で、ガラス玉のような目を見つめて、
「息子の代わりとして」
少年が目を見開いた。驚いた顔、をしている。ごめんなさい、さようなら、と叫んで、少年は乗せられたのと反対側のドアを思い切り開くと、外へ飛び出した。
「あっ」
「おい、待てって」
後ろで騒いでいるのに背を向けて、少年はどんどん走ってゆく。民家の角を曲がった。と、
がしゃん!とものすごい音がした。
「なんだ?雷か?」
「もういっちまったろう。あいつが逃げてった方からしたぞ」
三人は車を降りて、あとを追った。角を曲がると、アスファルトの上に少年が倒れていた。慌てて起き上がろうとしている。
「噴射装置が壊れたのか」
隼人が尋ねると、少年は困りきった顔、最大限に眉が垂れた表情で、こっちを見た。竜馬と武蔵は顔を見合わせている。
「困らなくてもいい。俺たちは早乙女研究所の所員だ。…知っているか?」
少年の記憶にあった名前らしい。うなずいて、
「はい」
「君の故障も直してやれると思う。ただ…事情の説明はしてもらわなければならない。それはわかるだろう?」
「はい」
もう一度うなずき、
「早乙女研究所の人たちだったんですか。…ゲッター、ロボに、乗ってるんですか?」
「そうだ!おお、なんだ、ゲッターを知ってんのか。そりゃそうだよな。ゲッターは有名だもんな」
俄然機嫌が良くなった竜馬はしばらく満足げだったが、また疑問の方へ戻って来て、隼人に、
「お前なんか知ってんのか?」
「なあ、教えろよ。なんだ、テンマ博士って」
「公になっていない話だからな。研究所では、俺と早乙女博士しか知らないんだ…とにかく、研究所へ戻ろう。そこで説明するから」
手を貸して、少年を立たせる。足元から白い煙が昇っていて、焦げ臭い。
各々乗り込んで、今度こそ、車はスタートした。少年はちらっと、さっきのいざこざがあった家の方向をみやった。
あの娘と老婆を心配してるのかな、と竜馬は思った。
走る車の中で、少年は二人に向かって口を開いた。
「さっきはごめんなさい。心配してくれたのに」
「いや、別にいいけどよ。お前が可愛くないこと言うからちっと」
竜馬が口を尖らせる。
「やっぱり、どうしても、隠しておきたかったから…」
「いいんだってば。そうしょげるなって。…ところで何をだよ?」
武蔵がにこにこと尋ねる。
一度も、まばたきをしない目を二人に向けて、少年は言った。
「僕、人間じゃないんです」
二人がぽかんとしているのを、ルームミラーでちらと見て、隼人はぐいとアクセルを踏んだ。坂道の向こうに研究所が見えてきた。