すさまじい風雨と、暗闇を裂いて閃光が襲い来る。
「うおっ」
危うく避ける。間一髪だ。服の胸元が裂ける。冷や汗をかくより先に、怒号する。
「いい気になってんじゃねえぞ!」
しかし荒れ狂う風で声のほとんどは自分にさえ聞こえなかった。
大木がしなる程の力で幹を蹴り、その反発で宙を跳ぶ。次の瞬間、衝撃のアルベルトの片目に、自分めがけて突っ込んできた戴宗が映った。
ドォン!
顔の前に構えた互いの腕が悲鳴を上げる。お互い、随分前から肉弾戦が続いていて、正直、多少顎が出てきた。
素早く左右にとびしざりながら、優位に立てる場所を探す。ざ、と繁みを胸で掻き分けた戴宗の行く手、暴風雨の中の人里離れた深い森に、場違いにも唐突にも門扉が現れた。
門?
頭の片隅で疑問に思いながら、内側に開いている門の中に飛び込んだ。と…
思わず。この場合命取りとも言える行動を、戴宗は取っていた。すなわち、呆然と突っ立って辺りを見渡した、のだった。
しかし、大喜びで戴宗を屠るはずのアルベルトも、やはり、尋常ならぬその状況に声をのんだ。
門の中に入った、ということは庭と呼ばれる場所であろうそこに、辺り一面、小さな花が咲いている。水芭蕉のような白い、十字の形のガクの中に灯火をともしたように、ぽつっと咲いた黄色い花が、今いっせいに揺れて、こちらを見返したように見えたのだった。…まるで、二人が、何かの結界の中に入ってしまったようだ。
「なんだ?」
この嵐だ。小さな花くらい、いっせいに風に吹かれて向きを変えることもあるだろうが、
草の中に石の道が続いている。それをたどって目を上げると。…
もう少し先に、不吉な黄色い灯を灯す草たちに守られてひっそりと建っている、かなり古い洋館が見えた。辺りは暗く、シルエットだけが嵐の闇より黒くそこに浮かんでいる。左右対称の形は、なにやら人の顔を思わせる。その、片方の目にあたる位置の窓だけが、
花と同じ、黄色い灯がついている。まるで、片方の目でこっちを見つめているようだ。
その、言いようの無い重苦しい光の色に、なんとも言えずイヤな気持ちになった時、
「うわ!」
戴宗が声を上げた。何だ、といおうとしたアルベルトも、はっとして足元を見た。
草が、足に巻きついている。ぐいぐいとしめつけ、足にからみついて登って来ようとしている。
悪夢のような光景に目を疑い、
「えぇい!」
怒りと焦りの衝撃波を放った。辺りの土が掘り返され、幾多の草が千切れて宙を舞ったが、千切れた残りがなおもアルベルトの足を登ろうとしている。ぞっとする。
「なんだこの草は」
自分を励ますように大声で怒鳴った、と…
ううううう。
絡みついてくる草の中から、何やら低い唸り声が近づいてくる。
闇の中に灯る、黄色い光が増えてゆく。…一番近くにいるそれが、何なのかわかるくらいの距離まで来た。
狼だ。あるいは、野犬か。
ふんと鼻で笑う。犬ころなどに躊躇するような人間ではない、と片手を上げる。そこに飛び掛ってきた一匹を、触れもせずに弾き飛ばす。その狼は胴体を寸断されて吹っ飛んだ。
だが。
上半分と下半分に泣き分かれているというのに。もはや、生命を維持してゆくことなど不可能なはずなのに。
それぞれ半分ずつが、よろよろと起き上がり、再びじりじりと近づいてくる。上半身の方は腰を引きずり、下半身の方はよた、よたとヘタクソな二足歩行の練習をしているサーカスの犬みたいに歩いている。それぞれ、腸がびちゃびちゃと地面に黒く流れ出している。
「…どういう仕掛けだ、おっさん」
戴宗のひきつった笑い声が聞こえる。
「知るか」
「なんだよ。草も狼も、独りでも生きられるタイプだったんだな。初めて知ったぜ」
「何をバカなことを」
言い合っている間にも、狼たちは少しずつ、ゆっくりと前進してくる。
やおら、二人はだっと草を踏みつけ、洋館に向かって駆け出した。
後ろの位置のアルベルトが振り返りながら衝撃波を飛ばす。そしてすぐ後悔した。足が千切れても首がふっ飛んでも、分離したそれら全てが『気にしてないから』とでも言いたげに追撃に加わる。要するに追撃者の数がどんどん増えていくだけだ。
ごろごろと地面を転がってくる首を見ながら、
おかしい。こんなことが現実に起こるわけがない。
私は夢でも見ているのか?
しかし、立ち止まって自分のほっぺたをつねってみる気にはなれなかった。
数歩先を走っている戴宗が玄関のドアにたどりついた。ノブに飛びつく。
「畜生、開かねえっ!」
ぎこぎこ引っ張っているがびくともしない。アルベルトが駆け寄って、
「なにをしとるか、たわけ!さっさと開けろ!」
「開かねぇもんは開かねぇんだ!えばるなバカ野郎」
どどどどど。茶色い獣の波が膨れ上がって襲い掛かってくる。
「来たぞ!早くしろ!早く」
「畜生、この、クソったれ!わあああああ」
何かのはずみに押した途端に、ドアはばーんと内側に開き、二人はどっと中に転がり込んだ。すぐさま立ち上がり、
「早く閉めろ!」
戴宗は床に転んだ姿勢のままドアを内側から思い切り蹴った。ばん!としまった次の瞬間、あの狼の群れが押し寄せてドアがばらばらになり、どっと中に…と二人は身構えたが、
ドアの向こうはしんとしている。
数秒、更に数秒待ったが、何の音もしない。
身構えた姿勢を、そろそろとまっすぐにして、ドアに近づく。息を整え、そっと戴宗がドアを開けた。
何もなかったように、ただあの花が延々と咲いている庭が、広がっている。はるか向こうに門があり、ご丁寧にきちんと閉まっている。さっき自分たちを追ってきたものの、痕跡は何も残っていない。
「…夢、のわけがねえな」
そっと手を持ち上げて、無精ひげの伸びかけた顎をごりごりとこすった。
「幻覚の類かも知れんが」
呟きながら、こちらはきちんと手入れのされている顎鬚をちょっと撫でてみて、
「そうなら、標的はどちらだったのか。貴様か、私か」
「俺のわけがねえだろう。てめえだ。胸に手を当てて考えてみろ。思い当たることは1ダースを下るまい」
軽口を叩いているが、戴宗の全身はアルベルトの一挙一動に反応すべく、警戒を解いていない。それは逆も同じことで、二人の間には見えない高圧線が張ってあるようだ。
そんなものの存在など素知らぬ風で、あくまで軽く、
「おう、どうするんだ。出るのか外」
「そうだな。館の主が出てくる前に退散するか。これ以上余計な目撃者などつくりたくはない」
言いながら相手の顔と動きに油断無く注意を払いつつ、二人は目の前のドアから外へ出た。
草に埋もれた石の道を、門に向かって歩く。さっきと同じ場所まで来た時だった。
足首が痛い、と思った。見ると、草がからみついている。
「なんとなくよ」
「ああ」
「こうなるような、気はしてたんだが」
ぞろりと、草の中から、黄色い目の獣が頭を上げた。さっきより増えているように見える。こいつらの目を、と戴宗が呟いた。
「見てると、庭の草が犬ころになったような気がしてくるぜ」
少なくとも草と狼の意志は統一がとれているようだ。一旦この庭に足を踏み入れた者を、外へ出さない、という方向で。
「どうするよ。何がなんでも外に出るか」
「いちいち私に聞くな」
とは言っても、目の前で体が半分になりながら、だらだらと血と涎を垂らして自分たちを待っている、何匹とも知れない数の獣たちの中に入っていくのは、まあ、どうだろうと思われる。
「貴様、囮になれ。その隙に私が逃げる」
「真っ平だ」
「試しに、こいつらにかまれてみろ。幻覚なら醒める」
「御免だ」
そうしている間にも、低いうなり声が近づいてくるので、必然的に後ろへ下がってゆきながら、
「ならば道はひとつしかない」
「てめえがこいつらを引き付けて俺を逃がすのか?なんだよ、心温まるいい話…」
「何故私がそんなことをしなければならんのだ。あそこに戻るしかないだろうと言っているのだ」
獣たちを睨み付けながら背後に顎をしゃくる。
「まあ、そう、だな。こいつらは俺たちをあそこに戻したがってるようだしな。…てぇことは、逆に、あの中で、こいつらをなんとかする解決策が見つかるかも知れねえってこったな」
「止むを得ん。戻る」
先頭の一匹が飛び掛ってきた。ちょんぎるのはダメだと思ったのか、とっさに戴宗は鼻面をイヤというほど殴りつけた。ギャン、という悲鳴が引鉄になって、次々に襲ってきた。
「わかった、わかった!戻るって言ってんだろ!あっ」
驚いたような悲鳴が上がって、思わずアルベルトは戴宗を見た。二の腕に、一匹の狼の牙が突きたっているのを、見慣れないものでも見るような目つきで、半ば呆然と見ている戴宗の顔があった。
次の瞬間、下から蹴り上げる。体がくの字に曲がり、口が腕から離れた。かまれなかった方の腕で思い切りぶっ飛ばす。あっという間に吹っ飛んでいった。
だらだらと流れる血の上から布を押し当て、走り続ける。その走り方を見て、隣りの男は、傷はそう深くは無いと判断した。
二人は草を引きちぎり、狼の牙をかいくぐって、再び館の中に舞い戻った。
屋敷の中に入ってしまうと、外は、まるで何もなかったように、静まりかえってしまう。
「夢じゃねえってことを、確かめちまったぜ。ちきしょう、今に見てやがれ」
毒づきながら素早く傷口を縛り上げる戴宗の姿を視界におさめたまま、アルベルトは素早く館の中を見て取った。
さっきまでは、森の中の不気味なおうち、どこの世捨て人が遺産で建てた家だか、という程度にしか思っていなかったが、あの草と獣が守っているとなるとそれだけでは済まない。悪夢のワンウェイロードの吸い込み口にあるこの家は、果たしてどんな人物が棲んでいるのか。
ひろいひろい玄関ホールだった。ひっそりと静まり返っていて、その大きさゆえに二人が立てる音が、やたら反響する。真っ赤な絨毯をしきつめ、緩やかにカーブを描いて、階段が二階まで続いている。天井は体育館なみに遠く、そこの照明はついていないのだが、どこからかやってくる光に、ぼんやりと室内の様子が浮かんで見える。
それから、
こうやって屋敷の中を観察しているこちらを、何かが、どこからか、見ているような気がして、アルベルトは意識を集中した。
これは、さっきからの異常事態で、神経が多少おかしくなっているせいか。それとも本当に?
どちらなのか、わからないでいるうちに、戴宗が、
「またでけぇ水槽だな」
声が指す方を見ると、たしかに、家庭用の水槽というよりは水族館のものに近い大きさの、ガラスの箱が壁の一角に陣取っている。
水は濁っていて、中が見えない。何が飼われているのだろう。
そう思った途端、何かが中で蠢いて、銀色の残像が目に残った。
「ウロコ?魚か?」
水槽にはご丁寧にはしごがついていた。これにのぼってエサをやるのだろうが。
「…エサが見えんな。大概、水槽のそばにはエサがあるものだが」
「お前もこういうのにエサほうり込んでるクチか」
「私は魚は飼っていない」
「じゃあ何を飼ってるんだ。おねえちゃんか」
そう言ってげはげはと笑った戴宗に、下品な、と吐き捨てる。
ふと、上の方で音がした。二人の動きが止まる。
「そういやさっき、上階に灯りが見えたな」
戴宗が呟いた。
「誰かいるってことか?下でこれだけ大騒ぎしてるのに、出てこないのは何故だろうな」
知らん、と言いながら階段の上を見やる。
「その誰かに聞いてみればいい」
「珍しく意見が合ったな」
二人は横一列に並んで、階段を上りはじめた。たとえこんな状況下でも、この相手に背後に立たれるなど、絶対に御免だった。
二階の床を踏む。真っ直ぐに伸びた廊下の両面に扉が並んでいる。
「位置からいうと、あの部屋だ」
戴宗が呟く。二人はそのドアの前に立った。
「開けるぞ」
ノックもせずにいきなり開けた。室内の照明はついていなくて、窓際のベッドサイドテーブルにおいてあるスタンドが、一つぽつんと点っている。
…
最初は、それもテーブルかと思った。赤いチェックのテーブルクロスがかかった、低く小さなテーブル。
「おい」
アルベルトが低く言った。
銀色のスポークが回る。きりきり、というような音が聞こえて、テーブルと思ったものが動き出した。
「何の音かと思ったら、車椅子か。誰だ?」
二人の方へ近づいてくる。暗がりから、スタンドの灯の輪に入ったものは、
茶色くしなびた肌。ほつれて、頭皮にしがみついているような髪、落ち窪んだ目、むき出した歯、鼻はもうほとんどない。ミイラだ。
「わーっ」
戴宗がわめいて飛びのいた。しかし、アクションほど驚いている訳ではないのは、アルベルトにはわかっていた。慌てふためいてみせることで、こっちが我を失っていると判断した何者かが、それに乗じて襲ってくるのを、誘っているのだろう。
しかし、意に反してそれ以上の何事も起こらなかった。
アルベルトの予想通り、戴宗は拍子抜けしたふうで、騒ぐのをやめ、
「なーんでぇ終わりかよ。こいつも自力でここまで来て、で終わりか?何か動かすものでもついてんのか」
車椅子と、ミイラを調べるが、別に自走させる何の仕掛けがある訳でもなかった。勿論、ミイラはやっぱりミイラで、完璧にひからびている。
「うん、立派なミイラだ。いつからここにこうしてるんだかな?どうやら、女みてぇだけど」
そう言いながら、なんだか、骨格に見覚えがある気がした。
「戴宗」
「あん」
いつの間にか廊下に出ていたアルベルトに呼ばれて、行ってみる。アルベルトは隣りの部屋にいた。
開けっ放しのドアから、中をのぞく。
「なんだよ」
そう言いながら、戴宗の顔が疑問と不快といささかの恐怖に歪んだ。
暗い部屋の壁という壁に、わらでつくった人形が釘で留めてある。部屋の真ん中には棺桶があって、アルベルトはその前に立っていた。
「悪趣味な部屋だな」
「見ろ」
覗くと、棺桶の中には、あの庭に群生していた花がぎっしりつまっていた。その上に、二つの、人間の形に切り取った紙が入っていて、片方の紙の、片目が、切り裂かれている。
「…これはひょっとして」
「ふん、あるいは私を模ったものかも知れんな。するとこちらが貴様ということになるか」
「よせやい。そいつがひょうたんでも持ってるんなら別だがな。なにか?こんなところでお前と俺が棺桶に入るってぇ謎掛けだ、とでも言うのか」
「らしいぞ」
腕組みをしていた片方を解いて、そこ、というように指でしめす。
戴宗がなんだよと言いながら顔を近づけると、片目が切られていない方は、
腕がざっくりと切られていた。
思わず、さっき噛み裂かれた傷に手をやり、そこが熱くなっていることに指が気づき、びくりと離れる。
「真面目に…悪趣味だぜ。気分が悪ぃや」
低く呟いた声が力なく重たい。アルベルトが怪訝そうにその横顔を見た。
少し考え、それからきっぱりと、
「下へ行くぞ」
ちらとこちらを見た戴宗に、腕組みをしたままてきぱきと言う。
「この家の主は悪趣味で少々精神異常で、もしかすると隣室のミイラかも知れないし、ミイラは猟奇趣味の主の犠牲者かも知れん。そうなると主がどこにいるのか疑問だが、我々はとにかくなんとしてでもここの閉ざされた空間から外へ出る方法を手に入れ外に出る(それが押すだけで庭が焼け払われるスイッチなのか、単に草も獣もなぎ払って強行突破するだけの体力を取り戻すだけか、それは知らんが)。それだけだ」
「で、また殺し合うと」
「当然だ」
反り返って言われてげんなり笑う。
「いいねえシンプルで。でもま、こういう状況下ではお前みてぇにずばんずばん割り切っていった方が、精神衛生上良さそうだな。ダメだ、ナイーブで繊細な俺様はちっと毒されちまったようだ」
最後の方はぶつぶつという呟きになり、足元がふら、とする。なんだか、急に傷が悪化してきたようだ。顔色がひどく悪い。
「おい、勝手に死ぬな。貴様は」
「ワタシが殺すのだ、だろ。うるせえや聞き飽きたぜ」
一階に下り、多分あっちだろうと思われる方へアルベルトは廊下を進んだ。どうも、戴宗の歩みがのろい。後ろから襲われないように、さっきとは逆に十分に距離を取って歩きながら、ふと、ホールを横切る時に疑問が浮かんだ。
(あの壁に、何か…そうだ、西洋の鎧のようなものが立っていた気がするのだが)
そこはきれいさっぱり、ただの壁と床になっている。特に、何かあったのを動かした様でもない。
首をひねりながらドアをあけると、案の定厨房だった。昔のアメリカ産ホームドラマに出てくるような、巨大でまるみを帯びた冷蔵庫がでんと置いてある。
流し等の設備はきちんと手入れされてあるが、最近使った痕跡がない。ずっと昔にきれいに掃除して、それっきり、という感じが一番近い。
それなのに、冷蔵庫を開けると、どういうわけか新鮮な肉や魚や野菜が入っている。なんだか不自然だ。
「お、何だよ、食い物充実してんじゃねえか」
顔を向けると今入ってきた戴宗が嬉しそうな声を上げている。
「噛みつかれたお詫びにどうぞってなもんだな、食おうぜ食おうぜ」
「こんな得体の知れない肉を食う気か。何の肉かわかったものじゃないぞ。もしかすると二本足で立って歩く動物のものかも知れん」
わざと脅すようなことを言ったが、戴宗はぜーんぜん意に介さず、
「へっ、ついでにその動物とやらに黒いスーツ着せてハマキくわえさせろ。どうせお前だって食いもん探してここに来たんだろうが」
「水か酒でもあるかと思っただけだ」
「酒」
戴宗の目の色が変わった。
「酒あんのか。どこだ。出し惜しみすんな、さっさと出せ」
変なことを言わなければよかったと思いながら、
「知るか。その辺を探してみろ」
言葉で追い払い、不本意ながら棚からフライパンを探し出して、ガスコンロに近づいた。
しー、と音を立ててガスが出る。かちかちやったが火がつかない。アルベルトは指を近づけると、ぱちんと鳴らした。ぼん、と火が上がった。
材料も、油も、調味量類も、何でも揃っている。それなのに、ガス台にはくもの巣がかかっていて、今ちりちりと燃え上がっている。
「きっと、久々に来客があるってわかってたんだろうぜ」
向こうの方で声がした。気持ちを読まれたのかと思ったらイヤな気分になった。
「来客とは我々のことか」
「さあな。知らねえよ。俺もおっさんを見習って、シンプルにいくことにした。俺はただ、美味い酒と肉を食う、と」
あったあったと喜んでいる。振り返るとなにやら得体の知れないラベルが貼ってあるワインをこっちに向けて、得意そうだ。
眉をしかめ、再び憎まれ口をきく。
「毒入りじゃないのか」
「くもの巣はってるのにか?そんな昔から毒入りワインこさえて待ってんのかよ。俺ぁ酒の方のくもの巣なら歓迎だ」
へっへーと笑い飛ばし、次にグラスはどこだと言いながらうろうろする。酒と食い物の話になったら急に元気になった男に、アルベルトはふんと鼻で笑った。
やがて戴宗が探し出した食器類の上に、肉と魚と野菜とが調理されて乗っかった。ぶ厚いステーキと、ホイル蒸しの魚だ。やたらお手軽だが、
「うぉ、美味そうだな!ちきしょーおっさん、嬉しいじゃねえか。うひひひ」
よだれがだらだら垂れて料理の上にしたたっている。アルベルトが顔を引きつらせて、貴様の分は無い…と言おうとしたが、
「こんな場所でこんな美味そうなもんにありつけるとはなぁ。普段の行いがいいからなぁ。ほれ、持て」
一方的にまくし立ててから、アルベルトにグラスを無理矢理持たせる。一度落としそうになり慌てて掴み直したグラスの縁に、瓶の口がかちりと音を立ててあたり、とくとくとく…と非常に心地いい音がして、美しい赤が注がれていった。
自分のグラスを自分で満たすと、高々と掲げ、
「よし、食おうぜ!いっただっきます!」
ぐーっと干してから、続いて肉にかぶりついた。
「怪我している時に酒はまずいのではないのか」
別に心配している訳では全く無く、いわずもがな、の単なる難癖をつけたのだが、ああいいんだいいんだと手を振られる。
「俺にとっちゃ、酒は、もぐもぐ。薬代わりだから。もぐもぐもぐもぐ、ごっくん。かぁーうめぇー!おっさん、遠慮しねえでどんどん食えよ!俺って気前いいよなぁ」
「それは私が作っ…」
「もぐもぐもぐもぐごごごごご」
人間ディスポーザーになった相手に呆れ、それ以上言うのをやめた。もう一杯杯を傾けてから、自分も食事にとりかかる。
いざ食べてみると、思いのほか美味いと思う。自分も空腹だったようだ。食べて飲んで喋って食べて飲んで、とやっているうちに体が温まってきて、いい気分になってきた。
だんだん、戴宗の視線がとろんとしてくる。
「なぁ、おっさんよ」
「なんだ」
もう一杯ワインを飲んで、げふ、と言ってから、
「なんだか、お前がやたらハンサムに見えるな」
「食い物を作ったから格上げか。バカバカしい」
「いや真面目によ。本当にさ。なんかこう、ここんところが、ドキドキしてくる」
そう言って胸を押さえた手を伸ばして、アルベルトの手を掴んだ。びっくりして顔を上げると、やけに真剣な目でこちらを見つめてくる。その視線から、目を逸らそうとするが、できない。
呼吸を止めて一秒、そんな真剣な目をされると、そこから何も言えなくなる。胸に星屑が流れた。
こっちまで、胸がドキドキしてくる。ごくりと喉が鳴った音が部屋に響いた。
「…何故だ。貴様を見ていると」
きゅうんと切なくなる。つないだ手がやけに熱い。そっと指をからませあう。
「戴宗」
「おっさん」
「おっさんはやめろ」
「じゃあ、…アルベルト」
どちらからともなく立ち上がり、そっと寄り添いあいながら、頭の片隅で、ちょっと待て、と悲鳴を上げている自分がいる。
「…おい、おかしいぞ。何だこれは。戴宗、私は貴様が。やめろ。よせ」
「いいじゃねえかよ。気にすんない。ああ、たまらねえや、そのチョビヒゲもヘンな形の頭もぐっとくるぜ」
「大きなお世話だ。おいやめんか、離れろ。私には妻も子もあるんだ!戴宗、…キスしてもいいか…」
「妻なら俺にもあるしおねえちゃんもあちこちにわんさかいるけど、まあそれはそれとして、俺にはお前が最後の男、ってことでよ。勿論いいぜ。さあ」
戴宗がクチビルを突き出して顔を近づけてくる。
その唇を奪いたい気持ちと、この気違い沙汰から逃れたい気持ちとでアルベルトは生き地獄になりながら、
「助けてくれ!樊端!」
戴宗は薄目を開けてから、ひどく侘びしい顔になり、
「ひでえなあこういう場面で他の男の名を呼ぶのかよ。俺ぁ傷ついたぜ」
「す、すまん」
つい謝ってしまった。なんで謝らなければならないのだ。泣けてきそうだ。それなのに自分の体は戴宗を求めて、抱きすくめ床に押し倒そうとしている。
「積極的だなあおっさん。俺は台所で奪われることになるのか。人生てのはわからねえもんだ」
「やめんかぁ!」
絶叫し、拳でがんがんと自分の頭を殴った。しっかりしろ。しっかりしろ衝撃のアルベルト。こんなところで戴宗と、なんて絶対に御免だ。どんなところでだって御免だ。やつとは憎み合い殺し合う関係で、決してこんなことをする相手では…
だらだら頭から血を流し、なんとか自分を取り戻し、はあはあと荒い息を吐きながら目をあけると、戴宗はまだ床に寝たまま顔を赤らめ「さあ」と手を広げて、
「痛くないように、優しくしてくれ」
アルベルトは思い切り相手の股間を蹴り上げた。絶叫し、悶絶している相手を踏みつけながら、
「いい加減にしろ、全く冗談ではないぞ、どうして、どーして私と貴様が」
「…てめえだって、…結構その気になってたくせによぉ。…あいつつつ。折れたらどうするんだ」
「きき、貴様は快楽なら何でもいいのか。ナニを覚えた猿と一緒か。歯止めというものは持ってないのか」
「生憎、さっき肉といっしょに食っちまったな」
床に転がったまま笑っている。もう一発蹴りを入れてから、椅子に座りこんだ。どっと疲れが襲ってきて、うつむいた。
正気の沙汰ではない。催淫剤かなにか食べ物に入っていたのだろうか。しかし、もよおしたからって目の前の男に手を出すだろうか。そこに転がっている畜生はともかく私のリミッターはそんなに甘いのだろうか。
それとも徐々に、誰かの意思に操られるようになってきたのだろうか。自分でも気づかないうちに?…
きゃあああああ
どこかで悲鳴が上がった。床の戴宗が顔を上げ、続いて上体を上げる。
「外か?行ってみようぜ」
「面倒くさいが」
呟いて腰を上げる。このヘンな館に来て、初めての生きた第三者だ。何か事態が動くかも知れない。
二人はなんとなく腰を引いた姿勢で廊下へ出て、そのまま裏口へ続くと思われる方へ行ってみた。廊下の突き当たりのドアを開けると案の定裏口で、強い風雨がどっと押し寄せて来る。
「うわっ」
一回足が止まってから意を決して雨の中に飛び出していく。一回、きらと何かが光ったのが見えた。
「何だ?あれ」
「おそらく、ガラスばりの建物だ。温室か」
アルベルトが言った通り、回り込んだ木の向こうに、随分大きな温室があった。ガラスが雨に洗われて、どんどん下へ流れているように見える。真っ暗で、中に人がいるようには見えないのだが、
「確かにこっちから聞こえたよな?」
「うむ」
入口に近づいた時、
きゃあああああ
悲鳴が上がった。足が止まる。
入口の扉が、風に吹かれて開閉するたび、そのかん高い耳障りな音が上がる。
「なんだよ、これか正体は。くそ、またずぶ濡れになっただけ…」
戴宗の言葉が途絶えたので、アルベルトはどうしたのだろうと思い、愕然と立っている戴宗の視線の先を追って、自分も声をのんだ。
きぃきぃと揺れるガラスの戸には、赤黒い、まるで血で書いた様な字で、
たいそう
と書いてあった。
ゆらゆらと字が揺れる。ひときわ強い風が吹き、ばしゃぁん、と戸が閉まった。その字と正面から向き合って、戴宗は黙って突っ立っている。
アルベルトは何と言っていいのかわからず、その字を見つめ続けた。
字の向こう、温室のガラスの中にぎっしり咲いている、あの庭のものと同じ花が見えた。こちらを見ているようだった。
二人は館の裏口まで戻ってきた。
ごとりと戴宗の後ろで戸が閉まった。アルベルトがすぐ後ろにいる、ということなのだが、戴宗は心ここに在らずになっているようで、反応しない。
そんな姿を見せられるのは腹が立つ。なめられた気分になるからだ。
「さっきのあれをそんなに気にしているのか?馬鹿馬鹿しい。単なる偶然に決まっている」
なんだか、慰めているように思われたらイヤだが、戴宗がとにかく一言も口をきかないので、ついついそうやって話し掛けてしまう。
「でもよう」
ぼそりと、久々に返事がかえってきた。
「俺ぁ、こんなところに来たこともねえんだぜ。初めてだ、さっきお前とやりあってるうちに、半分迷い込むみたいにしてここに来たんだ。…なら、なんで、俺の名前が書いてあるんだ?」
ぽたぽたと滴が落ちる。
「なんか、気味悪いじゃねえか。ひょっとして、…ずっと前から、俺がここに来ることが決まってて…」
「くっだらんことを言うな」
アルベルトがかみついた。
「あれは貴様の名前ではない。たいそう。体操。そうだ。温室に入る前には体操をするとか。大層りっぱな牡丹が手に入った喜びだとか。そういう、事情を後から知ったらバカバカしくなるような事に過ぎん。あるいは」
大葬、と言おうとしてなんだか縁起が悪いのでやめた。
「とにかくその手のことに決まっている。いちいちぐだぐだと気にするな、貴様にも似合わんマネを」
ぺっと唾を吐く。
「酒と食い物を前にした時の図々しさはどこへ行ったのだ」
「なんだよ。てめえだって、あのガラス戸にアルベルトって書いてあったらどうだ。想像してみろ。有、鐘、糖とかよ。…なんか菓子みてえだな。あれは金平糖か」
「鐘?」
「ベルだ」
笑っている。下らないことをとあきれたが、多少気を取り直したようだと思う。だが、やはりどことなく目に光が無い。どんよりしていて、妙に瞼が厚ぼったい。熱でもあるようだ。
「とにかく、濡れた格好がいかんのだ。そうだな、…」
舌打ちをし、廊下を少し先に進むと、素早くその辺りの部屋を見て回り、
「ここだ。やはりこの辺だと思ったのだ…来い」
さっきと同じ場所に、水溜りをつくって立っている戴宗を呼んだ。戴宗は素直に、ぽたぽたと音を立てながら近づいてくる。どうも、今ひとつだ。
「入れ」
言いながら自分が先に入る。戸口に立って戴宗が中を見ると、洗面所だった。続きの間にバスルームがあるらしい。洗面所に立ったアルベルトが蛇口を捻る。
血が噴き出した。
「!」
ちょっとばかり驚くが、それは赤錆の色だったらしい。少したつと透き通った綺麗な水が出てきた。
手を洗ってから、入り口に立ってこっちを見ている戴宗に、
「顔を洗ってろ」
言い置いて隣りの部屋へ行ってみる。ガラス戸を引くと案の定バスルームだった。随分大きい。バスタブが、ちょっとしたプールのようだ。真っ白いタイルが清潔そうで、アルベルトは正直、生理的にほっとした。
こちらのシャワーを捻ってみると、やはり最初に赤茶色い水が出たが、すぐに透明になり、温度が上がってきた。
バスタブに湯をためながら戻ってくる。素直に顔を洗い終わった戴宗と目が合った。
「湯を使え。それまでにもう少し館の中を見てくる。それからその傷をなんとかする」
「おう」
戴宗はにっと笑った。いつもの顔だったのでアルベルトは不本意だが気を取り直した。そこに、
「おっさん」
「なんだ」
「なんか、さっきからマメに世話焼いてるなあ」
「ふざけるな。ここを出たらぶち殺す。本当にぶち殺す。何度でもぶち殺す」
アルベルトは顔中口にしてわめいたので顎がはずれそうになった。
「わかったわかった」
最後は辟易して、やれやれ、と服を脱ぐと風呂場に入っていった。腕に巻いた汚い布キレがなにやら嫌なふくれ方をしている、と思った目の前でガラス戸が閉まった。
バスタブに湯をためながら、頭から被る。熱い湯を浴びるとさすがに緊張がほぐれ、いい気分だ。と、湯が、腕の傷を打った。思わず痛みにびくりとなった瞬間、
「うわあああ!」
絶叫が響き渡った。廊下に出ていたアルベルトは仰天して戻ってきた。戸を引き開ける。と、中から戴宗が飛び出してきて激突した。
「あうっ!何だ。どうした」
「どうしたもこうしたもあるか。なんだこれ。茹でられるとこだったぞ、もう少しで!」
すっぱだかで激怒している。怒りで赤くなっているのかと思ったら、湯がかかったところが真っ赤になっているようだ。なるほど、戴宗の背後のバスルームは、湯気でもうもうになっている。
「湯が熱くなったのか」
「そうだ!突然熱湯だ!バカ野郎、殺す気か」
「殺す気は満々だが、今はとりあえず違う。ちっ」
面倒くさい、とフキダシを頭上に浮かばせながら、
「待ってろ」
廊下へ出て行った。はやくしろ、風邪ひいちまう、と後ろから声が追っかけてきた。頭に来て、
「馬鹿が。死ね」
なんだか訳のわからない返事というか買い言葉というかヤケクソというか、を言い返した。ぶりぶり怒りながら、再度さっきの裏口から外へ出て、風呂場の外の方へ行ってみた。
階段を下りてゆく先の半地下に、ボイラー室があった。ごんごんごんごんという唸り声を聞きながら、温度設定のところを見て驚く。
100℃に設定してある。
沸騰した湯につかって、「ビバノンノン」などと鼻歌をうたう人間は、果たしているだろうか。
目盛りを調節して、40℃まで下げる。しかし、なんだかボイラーの調子が悪い。不穏な雑音が混じっている。アルベルトは不機嫌な顔になった。いつもだが。…
「お、下がってきた。よしよし」
戴宗は満足げに言って、今度は腕にかけないように気を付けてシャワーを浴び、腕を浸けないように気をつけながらバスタブにそろそろと浸かった。だだーと湯が溢れ、ようやく体の芯からほっとする。
ちゃぷちゃぷという音を聞いていると、こんな異様な館の中にいることを、いっとき忘れそうになる。
眠い。ひどく眠い。
湯船で眠ると溺れそうになるんだよな。…でも、気持ちよくて、とてもとても…
ちゃぷ。
ちゃぷちゃぷ。
何だろう。…何の音だ?
重い重いまぶたを、必死で持ち上げる。この風呂場に、自分以外の何かが居る。
バスタブの向こう側が、やけに遠い。…こんなにでかかったっけか、バスタブ。これじゃ、
「電車の車輌なみだ」
声がわーんと反響した。と、真っ白い湯気の向こうから、誰かがやってくる。遠い遠い、バスタブの向こう端から、こっちに近づいてくる。
必死で目を凝らす。
その目が、ひんむかれた。
近づいてくるのは。
真っ白い風呂の中、真っ白い湯気の中、目の前までやってきて、戴宗を見下ろしているのは。
自分だ。
自分が目の前に立っている。
目の前の、自分の顔がニタリと笑った。次の瞬間、しゅうしゅうと音がして、その人物から水分が蒸発してどんどんひからびてゆく。
茶色くしなびた肌。ほつれて、頭皮にしがみついているような髪、落ち窪んだ目、むき出した歯、鼻はもうほとんどない。
そんな姿になりながら、だがそれは、笑い続けている。
なんだか、懐かしい気がした。
同時にぼとりと何かが上から降ってきて、戴宗の肩に落ちた。見ると片方の目玉だった。
![]() |
![]() |