ボイラー室から戻って来たアルベルトがふと見ると、廊下のはるか向こうを、戴宗が走り去っていくところだった。
「えっ」
思わず声を上げた。全裸のままだったからだ。
「あんな格好でなにをやっているのだ?…もしや、誰かを追っているのか?戴宗!」
大声を上げ、後を追う。ずっと前方の戴宗が角を曲がった。角まで来て、続いて曲がろうとしながら、
今の戴宗は、腕にケガをしていなかった。
何十分の一秒か、何百分の一秒の間にそのことに気付き、全身でブレーキをかける。その、目と鼻の先を、斧がかすめ、顎鬚の先っぽがちょんぎられた。
上から振り下ろされた斧は、ずん!と床に食い込んだ。続いてこちらに身を乗り出して来た相手に、ものも言わず衝撃波を見舞う。
どぉん!という聞き慣れた音の後、がらんがらんがらんがらんと間抜けな音が続く。見ると、自分がふっとばしたのは、鎧だった。
「さっき、ホールから見えなくなったと思ったやつか」
各部位がバラバラになって転がっている。中身はからっぽだった。
からっぽの鎧が、動いて、襲ってくるということについてちょっと思うことはあったが、取りあえずコメントは後回しにした。ニセ戴宗が、今階段を駆け上がって、二階に消えたのが見えたからだ。
続いて階段を駆け上がる。二階の廊下に出て見渡すと、はるか向こうの一室に駆け込んでドアをしめたところだった。
その部屋の前に立って、ちょっと考えてから、ドアを開ける。
そこはどうやら、子供部屋だったらしい。古い玩具や、絵本があちこちにあるが、どれもホコリをかぶっている。そして、さっきの戴宗に見える人物は確かにここに入った筈なのだが、誰もいなかった。
そのことに関するコメントも避け、部屋の中を見てまわる。
机の上に、一枚の写真が乗っていた。それを見て、アルベルトは眉をひそめた。

遠くで、戴宗、と誰かが呼んだ気がした。しかし、その声はあまりに遠くか細いので、聞き違いかも知れない。
そうだな。多分、気の迷いだ。あんまりヘンな経験ばっかりするもんだから、幻聴まできたしてるんだろう。
それにしても暑い。むかむかする。気持ちが悪い。なんでこんなに暑いんだ。
「我慢しろ」
すぐ側で声がした。眉をしかめ、目を開けた。とてつもなく瞼が重い。無理矢理口を開く。
「我慢と説教は、昔からでぇきれぇなんだ」
弱々しく言い返すと、相手が呆れたように何か言葉を吐き捨てたのが聞こえた。
真っ白い視界に、少しずつものの形が戻ってくる。
「白いなぁ。なんでこんなに白いんだ」
「この館では寝具と水廻りは白と決めているらしい」
今度はちゃんと返事があった。そっちへ顔を向ける。
案の定、アルベルトが座っていた。戴宗と目が合うと、くそ面白くも無いという顔で、口元をゆがめた。
「俺ぁどうしたんだ」
「知らん。あんまり長湯だから行ってみたらバスタブに沈んでいた。放っといても良かったんだが」
「…俺にそっくりな奴が、出たんだよ。目の前に立ってやがった」
それを聞いて、アルベルトの脳裏に、さっき自分が追いかけた人物のことが浮かんだ。
「ミイラになりながら、へらへら笑ってやがった。何なんだ。痛っ!」
起き上がろうとしたはずみに、腕が動いて、思わず声を上げた。
「…く、いててて…」
うめきながらゆっくりと体を起こす。戴宗はベッドの上に横たわり、上に毛布を被っていた。猛烈に暑かったのは毛布と、自分自身の熱のせいらしい。めくってみると、一応、という感じで、下半身だけは穿いていた。これをアルベルトが穿かせたのかと思うと、つい笑ってしまい、
「このステテコ、どっから持って来たんだ」
「タンスを開けたらあった」
ここは、ハダカの戴宗を追いかけて入った部屋だった。子供部屋なのに、ステテコがタンスに入っているのも、おかしな話なのだが、
「どういうわけだかぴったりだ。貴様にあつらえたようだな」
ふーん、と言いながら、腕を見て、
「あ」
声を上げたのは、腕に巻かれた真っ白い包帯の隙間から、緑色の何かがにじみ出していたからだった。どうやら、すりつぶしてあるらしい。
覚えのある臭いに、顔をしかめ、
「これ、さっきの草じゃねえのか」
「そうだ」
「なんでこんなものを」
アルベルトの片眉が上がった。
「ドクダミは化膿止めになるのだ」
「…ドクダミ?」
「ドクダミを知らんのか、貴様」
「いや、知ってるけどよ」
呆然、とした風で呟く。
「抜こうとしてたら大作のやつが、『観察記録をつけるので一本残しておいて下さい』って言うもんだからよ、一本だけ残しといたらまあ増えるわ増えるわ、夏休みが終わるころには結局中庭ドクダミに占領されちまったよ。…ああそうか」
べらべらと抑揚無く呟いた最後に、
「ここの庭にぎっしり生えてたのは、ドクダミか」
「今気づいたのか」
まあな、と頭をかいてから、
「ここの人間もあれかね。横着して、増えちまったのか。それともわざわざ植えたのかな。観賞用に」
「あまりそういう人間はいないだろう」
「そうだな。鑑賞用には向かねぇか。…ドクダミの花束ってのは、聞いたことないもんな」
アルベルトは無言で戴宗の様子を眺めた。熱はあるようだ。なんだかおかしいのはそのせいだろうか。
「プレゼントですってドクダミの花束をよこされても、くせえばっかりで、今ひとつだな」
ぶつぶつ言って、へへと笑う。更に眉をしかめてから、
「これを見たら、余計に貴様が変になるようなものを見つけたが、見るか」
「なんでぇ」
差し出されたのはさっきの、ややセピアに変色した写真だった。元気の良さそうな、抜け目ない目つきの少年が、二人映っている。鏡に映ったようにそっくりだ。
どこかで見たような顔だと思いながら、なにげなく裏を見て、指に力が入った。
たいそう
だいそう
と書かれてある。
たいそう?…俺のことか?
もう一度写真を見ると、それは、自分が幼い頃の顔に、見えた。
「おれ、か?これは…でも」
首を振る。小さく震えている。
「覚えてねえ。こんな写真撮ったことなんて。第一、俺と同じ顔のやつがもう一人いるじゃねえか。誰だコイツ」
「さあな」
「だいそうて奴か?たいそうが俺で、もうひとりってのがその、…100円で何でも売ってる店みたいな」
「落ち着け。動揺するな。たかが写真ごときで」
「てめえが見せたんだろう、この写真!」
怒鳴りつけ、頭を抱える。
「いてぇ…畜生、頭が…俺は覚えてねえ!こんな写真を撮ったことも、同じ顔のやつがいるなんてことも。なのにここに写真があるってのはなんでだ。チキショウ」
わめき、ベッドから下りると、廊下へ走り出ようとした。
後ろから手をつかまれる。
「待て」
「触るな」
振りほどく。勢いがあまって、手がばーんと壁にぶつかった。いてぇ、と声を上げて、
「畜生、いてえぞ」
壁を怒鳴りつけてから、びくんと震える。
そこの壁には、下から二本の線がセットになって、大体定間隔に刻まれていた。よく見ると、二本の線の脇には、字が書いてある。
だいそう
たいそう
だいそう
たいそう

せいくらべのあとだ。
最初に息を吐き、それから、声が上ずって、だんだん甲高くなりながら、
「…だんだん思い出してきた。俺には、双子の兄弟がいたような気がする」
「写真と壁を見たからそう思うのだろう」
冷静この上ない声でつっこまれる。
「うるせえ。ずっとずっと今まで忘れていたんだ。…そいつはここに残って、ミイラになったのか…いや」
顔が青い。いや土気色だ。目がぎろぎろと輝いて、宙を彷徨っている。
「うん、思い出してきた。…どうしたらいいんだ、おっさん」
「何が。何を」
「俺は、俺はひょっとすると過去に、人を殺しているのかも知れない」
「いくらでも殺してるだろうが」
あっさり言われて一回あれ?という顔になったが、気を取り直して、わなわなと震える両手を差し出し、
「俺はここで、きっと、誰かを殺してるんだ!そんな気がする。きっとそうだ。多分そうだ。俺には人殺しの血が流れているんだ!」
「戴宗」
「ああ、呪われた血が見える!みえーる!みえええええる」
次の瞬間アルベルトに有無をいわさずぶん殴られてふっとび、ずざざざーと床を顔で滑った。
「やかましい。ぎゃあぎゃあわめくな」
「あのよう」
床と顔をけばだたせながらよろよろ戻ってくる。
「怪我の手当てをしてくれた人間が、することとも思えねえんだが…」
「貴様が人の話を聞かんからだ。いいか。貴様は過去にここに居たのかも知れん。貴様には双子の兄弟がいたのかも知れん。貴様がそいつを殺したのかも知れないし、何らかの原因で貴様がその全てを忘れ去り今日まで生きてきたのかも知れん。貴様の兄弟の亡霊が貴様をここに呼んだのかも知れないし、別に無関係で偶然この館に迷い込んだのかも知れん。だが」
ぐりぐりと戴宗の前に顔を突き出し、一語一語区切って、
「そんなことは、全て、どうでもいい」
言い放たれて、戴宗はちょっとのけぞった。
「どうでもいいって言い切られちまうかよ」
「実際どうでもいいからだ。これ以上暑苦しくわめいたりどこぞへ行ったりするな。ただでさえ面倒くさいというのに」
ええい全く、とイライラ唸り声を上げ、どんと戴宗をどついた。戴宗はあっけなくベッドの上に転がった。
「いいから寝ていろ。ここから一歩も出るな。出たら即座に殺す」
「ありがたいんだか、なんだか、よくわからねえな」
ぼやくような泣くような笑うような声で呟きながら、のそのそと毛布の下へ戻っていく。それを見届けてから、アルベルトはドアへ向かった。
「どこ行くんでぇ。人には部屋出たら殺すとか言っておいてよう」
「いいからもう口をきくな。あと一言でも何か言ったら殺す」
何がなんでも殺すんだな、と戴宗は思った。なんだかだんだん可笑しくなってきて、笑いそうになる。しかし、笑い出すなど、いの一番に殺される条件という気がしたので、我慢した。

アルベルトはもう一度、館の中を家捜しした。どうでもいいとは言ったが、謎があれば解きたくなるのも人情だ。
最初に入った、あのミイラルームに行ってみると、ミイラはいなくなっていた。今さら驚く気もない。この家では何でも出たりひっこんだりするらしい。
ふと、最初に庭から見た窓際の灯りの側に、何か置いてあるのに気付いた。側に行ってみると日記帳だった。
ぺら、とめくってみる。
最初の日付のページは紙もインクもすっかり変色している。

○月○日
きょうはぼくのたんじょうびだ。
きょねんとおなじようにおかあさんがおいわいしてくれた。
でもここにはおかあさんしかいない。
だれかいっしょにあそんでくれるあいてがほしい。
らいねんのプレゼントはいっしょにあそぶあいてがほしいといおう。

○月○日
きょうもひとりぼっちであそんだ。
おかあさんにはわるいけどさびしい。
だれかいっしょにあそぶあいてがほしい。

○月○日
おかあさんのぐあいがよくない。
おかあさんがしんだらほんとうにひとりぼっちになる。
ぼくはひとりぼっちになりたくない。
だからがんばってかんびょうした。
よくきくのだとおかあさんがいったからにわのくさをむしってきておかあさんにのませた。
ものすごくくさい。こんなものさわりたくない。

○月○日
おかあさんはなにかぼくにかくしているようだ。
なにをかくしているのだろう。
きいてもこたえてくれない。

「ワガママをぬかす、妄想癖のある子供か」
一片の同情もなく呟いて、ページを繰る。ある場所で止まった。

○月○日
とうとうおかあさんのかくしていることをつきとめた。
ぼくにはきょうだいがいたのだ。
なまえはたいそうというのだそうだ。

アルベルトが片目を細めた。

○月○日
たいそうはどうしたのかきいたがおかあさんはこたえてくれない。
まいにちないてばかりいる。
ぼくはだんだんはらがたってきた。

○月○日
きょうもおかあさんにたいそうのことをきいてみようとおもう。
おかあさんはないてばっかりいるけどぼくはこたえるまでききつづける。
だんだんおかあさんがやせてきた。ごはんをたべないからだろう。
そんなことをしてもぼくはきくのをやめないのに。

○月○日
きょうはおかあさんはひとこともくちをきかなかった。
そんなことをしてもぼくはきくのをやめないのに。

ぱらぱらとページをめくる。指が止まった。

○月○日
きょうもおかあさんはひとこともくちをきかなかった。
よくみたら、おかあさんはミイラになっていた。

「………」
少しの間黙ったが、やがてまたページをめくった。

○月○日
ぼくはひとりぼっちになってしまった。
でも、さびしくはない。ぼくにはきょうだいがいる。
そのうち、たいそうをここによんでやろう。
はやくたいそうにあいたい。
はやくたいそうにあいたい。
はやくたいそうにあいたい。

その繰り返しで、日記は終わっていた。
アルベルトは眉間によったしわを、人差し指で撫でながら、考え込んだ。
この日記が真実を書いたものだとするなら、最初に見たミイラというのは、その母親ということになる。
そして、これを書いた子供は、今はどうしているのか?
今何歳くらいになっているのだろう?日記は随分古い。…ふと、戴宗の年齢を思い浮かべてから、
ここが、戴宗の本当の故郷なのか、あるいはここで言われているたいそうが奴とは無関係で、偶然この狂った館に来てしまっただけなのか、それは判別できない。戴宗にも言ったが、どっちでも構わないことなのだ。
問題なのは、この建物の中にいる、おそらくこの子供が、戴宗をたいそうだと『いうことにしている』、点だ。
だからこそ、戴宗に瓜二つの姿を何度も見せているのだ。本当の、姿がどうであれ、今は…戴宗が、たいそうなのだから、
その、子供も、戴宗の姿なのだ。双子なのだから。
しかし、会いたいと言い、会って、そのあと、どうする気なのだろうか、この子供は。
なんだか、いやなものが胸の中に熾る。

気づかない間にとろとろと眠ったらしい。暑くて呼吸が苦しく、咳き込んで目が覚めた。
腕の傷はいまや、自己主張してやまない厄介なカタマリと化していた。
「気持ちがわりぃなあ。…水が飲みたいぜ…」
おっさん、水、と言おうとして目を動かすと。
頭の上の方から、誰かが自分を覗き込んでいるのとぶつかった。それは、あの自分の顔をした相手だった。
さっき、ミイラにならなかったか?
そんなことを最初に考えるのは、熱のせいで多少おかしくなっているからかも知れない。
相手はやはり、にたりと笑うと、
「さあ、一緒に行こう」
戴宗の声でそう言って、手を伸ばし、戴宗の肩に触れると、助け起こした。
なんだかひどくやわらかくて、つめたい手だ。背筋が泡立つ。
「ちょっと…待ってくれ。お前は…あの写真の、…俺の」
戴宗が低く尋ねた。声がひどく頼りないのを、自分でも感じた。
「兄貴か、弟なのか?」
「そうだよ」
相手は笑っている。
「ようやく帰ってきたんだね、たいそう」
俺は、帰ってきたのか?ここが俺の、ルーツなのか?
部屋全体が輪郭を失い、遠近感を失って、戴宗に向かって収縮してくるような感覚の中、相手が、口を開いた。
「さあ、今までの埋め合わせをしなくちゃ」
…そう、なのか?
戴宗はふとなんだか、どこか間違っているような気がして、迷った。しかし、アルベルトが帰ってきて、ドアを開ける前に、まあそうなんだろうなと思ってしまったので、相手と一緒に行ってしまった。
故に、アルベルトはからっぽのベッドの前に突っ立って、
「どこへ行った、あのバカ」
激昂し、再び廊下へ飛び出した。

どこだ。どこにいる。
玄関ホールで、呆然と立ち尽くす。
どこを探しても見つからない。アルベルトの中に恐慌がわきおこったが、強烈な自負と怒りでそれをねじ伏せる。
慌てている暇はない。
どこかには居る筈だ。絶対に。落ち着け。
あのクソバカ畜生を探し出して、ぎゅーという目に遭わせてやるのだ…
ふと、それが、ただよっていることに気づいた。この、強烈な、
臭い。一度嗅いだら忘れない臭い。いかにも、効き目のありそうな。
化膿止めになるこの臭い。
ドクダミの
アルベルトはそれのする方へと走り出した。
二階へ上がる。…棺桶のあった部屋だ。さっき調べた時は誰もいなかったのだが、今は中から、話し声が聞こえてくる。
「ずっとずっと、ぼくはひとりぼっちだったんだよ」
戴宗の声だと思ってから、違うと気づいた。もう一人の方だ。
「誰も来ないこの家で、おかあさんが死んでからずっと一人だったんだ。その間、おまえはいろんなところにいって、いろんな人と出会って、いろんな人を殺してきたんだろう?そうだろう?」
大分たってから、
「そう、だな」
嗄れ切った戴宗の声があった。
「いろんな人と戦って、いろんな人を傷つけて、沢山たくさん殺してきたんだ。僕はその間ずっと一人ぼっちだったんだ。
そうだろう?」
特に責める口調でもない一本調子なのだが、明らかに何かの意志を背後に帯びている。
やがて再び、疲れたため息のあと、
「そう、だな」
「だったら、ここで、交代だ。おまえはここに残る。僕は外へ出て行く。それで、おあいこだ。
これからはお前がこの家の中に。ここにずっといるんだ。そうだろう?」
「そ…」
返事をする前に、アルベルトは肩からドアに突っ込んだ。ドアは粉々に砕け、中に飛び込む。
壁中のわら人形、部屋の真ん中の棺桶の前に、二人の戴宗が立っている。
二人とも、落ち窪んだ目が、ミイラのようだ。光の無い二対の目がこちらを見る。
「何にでもほいほいと返事をするなぁ!たわけが」
怒鳴りつける。
「おまえは、たいそうを殺したい男だね。知っている。今度からは僕が相手だ」
片方の戴宗がそう言って、つくづくとアルベルトを見た。
「安心していいよ。僕は戦うのは大好きだ。腕がもげても足がもげても、胴体が半分になっても、僕は戦いをやめない」
アルベルトは庭の野犬を思い出した。
「僕はたいそうより強い。ずっとずっと永く戦える。たいそうよりお前を満足させてやれるよ。好きなだけ殺し合いの相手になれる。お前が死ぬまで戦ってやれるよ。
お前が死んだらここに入れてやるよ」
そういって、あの目を切られた紙の人形を見せた。
身内を震えが走った。
それは下からのぼってきて尿意を催し腹をしめつけて腹痛を起こし、心臓の拍動に異常をきたし呼吸が乱れ、最後にぶるぶるっと顎が上がって唇まで来て、

「ふざけるなァ!!」

怒号が館を震わせる。ガラスというガラスが砕け、地面が裂け、天空にゆがみが生じ、時間の軸がずれて数秒戻った。それほどの大音声だった。
片方の戴宗ががくぅん、とのけぞってから、かく、かくと膝を追って、床についた。
ぐいと指を突き出す。相手に突きつける。指先の空気が熱をもつ程に。
「今度からはボクが相手だと?好きなだけ殺し合いの相手になれるだと?私を血を見るのが好きなだけの変態と一緒にするな!いいか、私が戦って倒したいのは、この手で喉をひねりつぶしたいのは、この拳で心臓をぶちぬきたいのは」
アルベルトは胸いっぱいに息をすって、
「神行太保の戴宗という男だ。他の誰でもない。私が死んだらだと?誰が、貴様などに!」
強く強く言い放った。コダマが、室内に残るほどだった。
それが消え、静寂が訪れる。外の嵐の音さえ消え去っている、その空間の中で、
「全くもって、なんて内容の宣言だよ、張り切っちまってまぁ」
力の抜けた、ひょろひょろとした声が、アルベルトの耳に届いた。
床にへたっている方の戴宗が顔を上げてこちらを見ている。落ち窪んだ目が、とほほというように笑っている。
「しかしまた、えらいのに好かれちまったね、俺も」
「そっちが先に私の目を潰したんだろうが!勝手なことを言うな。第一、部屋を一歩でも出たら殺すと言った筈だぞ。なんだここは。ふらふらそんなのについていきおって。覚悟は出来ているだろうな。ここで殺す。今殺す」
「なんか、血を見るのが好きな変態って言っても、いいような気が」
「やかましい。バカ」
戴宗が笑い出した。がっくりと床にへたりこんだまま、腹の底から笑っている。
その姿をしばらく見やってから、つと視線を横に滑らせる。もう一人の戴宗は、じっとアルベルトを見ている。
その顔が、まるで内側から熔けるように、崩れていく。全身から熱を発している。熱い。ひどく熱い。
やがて体も崩れおちた。
熾火がくずれるように、がらがらと小山になった人間を暫し見つめていたが、
アルベルトははっとした。下の方から、いやな地響きが聞こえてきた。
「ボイラーが」
どどどど、と足の下に振動が伝わってくる。
「戴宗!」
駆け寄る。ステテコいっちょで床にへたって、笑い続けている男を無理やり引き起こした。まだ笑っている。
アルベルトは相手の肩を掴むと、もう片方の手で力一杯張り倒した。ばしん!びたん!ぼかん!どごん!
「やめろ、やめろ、わかった」
鼻血を流しながらようやく復帰したが、最後にもう一発殴って、あースッとした、と思いながら、腰を上げ、
「命の遣り取りは外へ出てからだ。脱出するぞ」
「もう十分、彼岸を見させてもらった、今のビンタで」
止まらない鼻血で変な声になりながら、戴宗も立ち上がった。いつの間にか、部屋も、屋敷のあちこちも、火が回っている。
すでにガラスの抜けた窓の枠を壊して、二人は遥か下方の庭に、飛び降りていった。

地獄の底のような炎は屋敷を押し包み、やがて限界を超えたボイラーが爆発した。
大音響が幾度も幾度も大地を震わせる。紅蓮の炎は庭も、裏庭の温室も飲み込み、なにもかも燃やし尽くした。
二人は、あの門扉を出たところに並んで突っ立って、その一部始終を眺めていた。
狼は、今度は出てこなかった。

東の果てがバラ色に染まる。
いつのまにか嵐が通り過ぎていたようだ。
ぼそりと戴宗が呟く。
「すっかり、焦げ臭くなったな」
「あの臭いよりはマシだろう」
「そうかあ?俺ぁ、あの臭いはそんなには、キライじゃねえけどな」
逆らわれて、アルベルトはむっとした。戴宗はあの傷の包帯を、そっと上から押さえながら、燃え落ちた館を見つめている。

あの男、俺と同じ顔をした男は、本当に俺の兄弟で、俺の故郷であるあの家で俺を待っていたんだろうか?
それとも、あの館に迷い込んだ人間のルーツと化して、そいつとタッチ交代して出て行って…代わりにそこに残った奴が、次の来訪者を待つとかいう、システムなんだろうか?
わからない。
わからないが。
「おっさん」
「何だ」
「…いや。なんでもねえ」
「なんだその言い方は。ふざけるな、人をなめおって。殺してくれと言っているのか。おお、殺してやる」
「怒んなよ」
げっそりした声で、
「それはわかってるよ。ああ、わかってる。いずれ、お前は俺が殺すから。はいはい」
はーやれやれ、みたいな調子でそういう事を言う相手に、アルベルトはきゅーとなって、
「それはこっちのセリフ…」
「わかったって。うるせえなあ」
ぼやきで相手の声を制し、素早く飛び下がると、ひゅ、ひゅと移動を開始した。後ろから、怒りと憎しみとヘンな嬉しさで乱調になっている男が追いかけてくるのを感じながら、
この場合、ありがとうよと言うべきかと思ったんだが、言うとただ腹を立てるだけみたいだな。
お前がそんなにも俺を殺したいから、俺は助かった。…なんだか、虚しい。
やっぱ、せめてものお礼って言ったら、
振り向きざま腰を入れて、一撃を見舞う。目の前まで来ていたアルベルトの拳が音速を超える。
てめえと本気で戦うってことなんだろうか?
目の前の、アルベルトの顔が嬉しそうに笑っているのを見て、どうやらそうらしいなと諦め、次の攻撃のための気を入れる。
樹海と呼べるほど深い森の中から衝撃音と閃光が噴き出した。

支部の中庭にしゃがんで、銀鈴と大作が何か話しながら雑草の手入れをしている。後ろから声をかけた。
「なぁ」
「なんですか?戴宗さん」
ふうと息をついて、銀鈴が、軍手をした手で汗を拭った。抜いても抜いても終わらないし、臭くなるし、茎はやけに丈夫だし、疲れてきた。
「そういや、ドクダミって、花言葉はあるのか?」
「そりゃありますよ」
「へえ」
ドクダミなんかにないですよ、と言われるとどこかで思っていたらしく、戴宗はちょっと驚いた。
「なんてのだ?」
「確か」
ちょっと考えてから、「白い記憶、とかいうのです」
「白い記憶ってどういう意味ですか?」
しゃがんで、必死でむしっていた大作が不思議そうに尋ねる。銀鈴も困惑した顔で笑って、
「ちょっと抽象的っていうか、暗示的で、よくわからないわね」
戴宗はその時、あの風呂場のことを思い出していた。
真っ白いバスルーム、湯気とタイルと、バスタブの琺瑯と。その中からこちらへやってきた、自分の顔。
それから、その次に気がついた時のことを思い出す。
純白のシーツ、真っ白い包帯。壁も天井も妙に白っちゃけて、現実味がなかった。その中で、
現実の代表選手みたいなツラで、俺を見ていた男。
ふと戴宗のくちもとに苦笑が浮かんだ。
これから、ドクダミを見るたびに、思い出すんだろうな、と思ったからだった。あの、二つの顔を。

[UP:2002/12/06]

SFとPSで出たゲーム『弟切草』の冗談です。ドクダミって本当はこの字ではないのですが、うちのパソにない字でした。ので、草の成り立ちになっている二文字で代用しました。一言お断り。
ヘンにあやしいところがありますけど、ゲーム中にホントにあるんだよ(笑)このくらいなら冗談で…済まないかな?まあ本当は男女のカップルだからね…
最初は長官と呉先生で考えたんですが、仲のいい二人では面白くないのでやめた(ムゴイ)でもなんかアルベルトがやたらと世話焼いてくれるんで可笑しかった。あと、ゲーム中の人物がものすごく怖がったり命からがら、ってなる所で、こちらの人たちは全然怖がらないだろうから、苦労しました。
あと、日記形式って、それだけで何らかの『恐怖への期待』てのがありますよね。バイオハザードもアルジャーノンも皆〜

よく言われる言い回しで「○○を知らない人でも楽しめるようにしました」ってのがあるけど、今回はそれを頭に置いて頑張ったんですが、やっぱり、知らないとなんだかよく飲み込めない話になっちまったなあ。いかん。何より、弟切草をやったことがある人の方が少ないだろうし。
ちなみにこのゲームの主人公の名前、アルベルトでやったのです。「奈美!」という叫び声を秋元さんで想像した私。

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