廊下の彼方から何者かが走ってくる。館内のインターフォンを使うことも忘れるほど慌てているらしい。
アルベルトかと思ってから、違うなと思う。あの男は憎たらしいほど冷静だ。頭上に月が落ちてきても、ふんと言って見上げるだろう。
ばぁんとドアが開かれて、イワンが飛び込んできた。
「あれは、草間大作が呼んだのか!?」
幻夜は振り返りもしなかった。ただうるさいと思った。
「無礼ですぞイワンどの。ノックもせずに」
「そんなことを言っている場合か!」
「お静かに」
きつく言い放つ。それから、さっきから自分がじっと見ていたものへ視線を戻して、
「騒がないで下さい。目が覚めてしまう」
怪訝そうにイワンは幻夜の向こうにあるものを見た。大きなベッドの中で、シーツにくるまってすうすう眠っている、大作の姿だった。
―――するとあれは、幻夜が呼んだのか?
夜明けもそう遠くない空に、国警の、昔の女優の名を冠した飛空艇が迫ってきていると知らせを受けたのはわずか五分前のことだった。
もうすっかり草間大作は幻夜のトリコだから、あとはGR1を手に入れるだけだということになっていたのに、何故今更…という思いで飛んで来たイワンだったが、
どういうつもりなのだ、この男。
イワンの疑惑に満ちた視線を無視したまま、幻夜は指先で、大作の額の髪を撫で、分けた。車に乗って、眠ってしまった時、初めて大作の寝顔を見たけれど、あれから、そう経っている訳でもないのに、随分昔のことのように思える。
幻夜に動く気が無さそうなので、イワンは舌打ちをしてとって返した。おそらく幻夜の同僚のもとへ駆け付けるのだろう。
このまま君だけを奪って、誰一人わからない遠い世界へ連れて行ってしまいたい、そこでならわたしはわたしの全てでもって君を守るだろうに、
と強く思った。なんだか、そんな歌詞の歌を聴いたことがあったが、
今のわたしにとって、それはもし実現するならどんなものでも差し出せる願いだ、
それから、自分がそんなことを考えているのを、どこか不思議に思った。
―――草間博士の息子か。健気で素直で無邪気で。ほっぺたはぷりぷりだし茶色の目は愛くるしいし、赤いネクタイが生意気で半ズボンの下の足がすべすべで、グーだ。ちょいとつまみ食いしてみようかな。うまくすればGR1が手に入って私の株も上がるし同僚たちに威張れるし…
そう思った薄暗い映写室から、わたしはいったいどこまで来てしまったのだろう。
むにゃむにゃと言って寝返りを打つ大作の手を、上から包む。
離したくない。
暗闇に閃く光のように、胸を切り裂いてその思いが過ぎったが、
ぐっと、歯をくいしばり、大作の腕時計の、発信装置を切った。もう、用は果たした。
「ううん…」
小さく声を上げ、それから、大作がゆっくりと目を開け、ぼんやりと目の前の男を見てから、
「あれ?おはようございます、幻夜さん」
にこにこっと笑った。
君が笑顔でわたしを見るのは、
「おはよう」
表情を殺して、幻夜は平淡に返した。
これが最後だ。
「どうしたんですか?ずうっとそこにいてくれたんですか?」
「起きて、服を着替えたまえ」
尋ねたことへ応えない。そして声が硬く冷たい。大作が不審そうに顔をのぞきこんでくる。うるさげに顔を背ける。見ないでくれ、
「幻夜さん?」
「お迎えが来た、草間大作」
なにもかも終わる、その始まりにいて、ほとんど泣き出しそうなんだ。
驚愕と疑惑で、大作の目から光が消えた。そこに、
『ひとさらい野郎め!出てきやがれ!』
懐かしく、頼もしく、そして今の大作が聞きたくない声が、響いてきた。
外の様子がカメラのモニターに映っている、その下で、いつものように葉巻をくゆらして、足を組み替えた時、ドアが開いて、騒ぎの張本人の二人が入って来た。
大作は真っ青になっている。寝癖がとれていなくて、髪がちょっとあっぱっぱだし、ネクタイが曲がっているが、それどころではないと顔に書いてある。その斜め後ろにいる白いスーツの男は、スーツが顔に照り映えているかのような蒼白な顔をしているが、同時にひどく落ち着き払っている。その二人の対比を考えてみても、この事態が幻夜ひとりで引き起こしたものだろうと、幻夜の同僚は思った。
「あの、…おはようございます。今の声は…」
こんな場合なのに、ちゃんと朝の挨拶をしてから尋ねる。
「お前の方が良く知っている声だろう」
不愉快そうにイワンが言った。大作はびくりとした。そこへ、
『出てこいって言ってんだ。出てこねえなら攻撃するぞ!』
「ふん。出来もしないことを」
同僚が鼻で笑って、
「この建物の中に草間大作がいるとわかってやってきたくせに、攻撃など出来るものか。だが、」
指を伸ばし、組み合せ、こきこきと調子をみてから、やおら立ち上がり、
「奴が私と戦うというなら、出ていくに吝かではない。…幻夜」
指を一本立てて、ぐいと相手の鼻先につきつけ、
「いつだったか、貴様に下品な冗談をさんざん聞かされたがな、私は奴と顔を合わせるのは嬉しいぞ。私と奴は敵同士で、奴の命を自分こそが奪ってやると思っているからな。明解で、悩む必要もない。戦って、倒す、それだけだ。
貴様がどういうつもりでこの場面を作ったのか…どうやって決着をつける気なのか私は知らん。だが、奴と戦える機会をつくってくれたというその一点のみ、感謝するぞ」
返事のない相手に、にやりと笑って、肩をそびやかし出て行った。
一見するとこのアジトは海の上の崖っぷちに建つ、相当に豪勢な洋館と言うことが出来る。屋敷の玄関から外門まで、一直線で石畳が敷かれてあるが、金持ちならこうでないと、というくらいの距離がある。
ばぁんと玄関の両開きの扉を開け放ち、靴音を響かせて降りてゆく。国警の飛空艇は外門の向こうに降り立ち、一同がぞろりと外に出ている。そして、一人、先頭に立って、こちらを睨みつけている男がいた。
腕組みをし、足を少し開き、正面から今出てきた衝撃のアルベルトを凝視している。
その顔にいつものようなへらへらした軽い笑いがない事に、非常な満足をおぼえる。そうだ。我々は本気で殺し合わなければならない。私がそれを望んでいるのだから。
わざとゆっくり歩いているのかと思うような速度で近づいてくる、スーツに葉巻、モノクルの男を、戴宗はかっと目をむいて、ものすごい目つきでにらみつけ、
「てめえか。大作は無事だろうな」
「知らんな」
葉巻を口から外して、ぺっと唾を吐く。戴宗の顔がさらに凶悪になる。それでいい。貴様に嬉しそうな顔など、させる必要はない。
「子供をさらうほど堕ちたかよ。いいからここに連れて来い!てめえのマヌケヅラなんぞの前に大作の無事な姿を見せろ!」
「知らんと言っている。私に勝ったら勝手に探せ」
「そんなに死にてぇか」
次の瞬間、戴宗の拳が外門を粉砕した。金属のフレームには高圧電流が流れているのだが、戴宗はヘとも思わないらしい。鉄屑と化した門を思い切りけたぐった。門はうなりを上げて吹っ飛んでいき、数秒後、けたたましい音を立てて地面に落ちた。
ばし、ばしと髪や肩口、袖から放電しながら、歩を進める。相手との間に何の障害物もなくなった空間に、また一歩。
怒りと、電流のために青く照らされた戴宗の顔は、悪鬼のようだ。その顔で、一歩一歩近づいてくる。
我知らず、衝撃のアルベルトは笑っていた。身内から悦びの笑いがこみあげてきて止められない。
「そうだ」
葉巻をふたたび口から外し、ぽとりと落とす。ぎゅっと踏む。踏みにじる。相手の死体のように。
「それでいい」
手を持ち上げ、見えない何かを掴むように、構える。その掌で白く眩い発光体が身を捩る。
「ゆくぞ、戴宗」
「うるせえ!」
二体の流星が激突した。火花が散り、地が割れ、夜明け前の青い空気が裂ける。
モニターもバーストしそうな戦いを、各々の表情でじっと見つめていたが、真っ青になっている大作に、幻夜が、
「草間大作」
「は、はい」
「来い」
引っ立てるようにして腕を掴むと、部屋を出て行った。イワンは腹立たしげに舌打ちし、我儘で尊大な男に何か言ってやりたいと思ったが、それどころではないのですぐにモニター監視の方へ戻った。
幻夜は、アルベルトが出て行った正面玄関ではなく、上階への階段を昇りだした。引かれるままに素直についていく大作だったが、不審そうな不安げな表情で、
「幻夜さん、どこへいくんですか」
「すぐにわかる」
そっけない言い方だったが、言い方よりも、『幻夜が、これからどうするのか既に腹で決めている』と、はっきり態度に出していることの方が、重要だった。しかし、どうするんですかとは大作は聞かなかった。怖くて聞きたくないのか、幻夜が自分を放したりしないと思い込んでいるのか、どちらなのだろうと幻夜は思ったが、これまた聞かなかった。聞きたくないからだ。
最上階まで上がって、廊下に出ると、ある一室に入った。そこは南面のバルコニーに出る掃き出し窓のある部屋だった。天井まであるカーテンをさあっと引いて、これまた巨大な一枚ガラスを使った窓を開けた。あっと声を上げて、大作は思わずバルコニーに出ていた。
眼下の空間で、二人の男が死闘を演じている。ずぅっと行って、壊れた門の向こうに、大きな、見覚えのある優美な機体、そして今では壊れた門を越え中庭に入って来て、各々屋敷の様子をうかがっている、懐かしい人たちの顔。
大作が気づいたのと同時に、皆も大作に気づいた。
「大作くん!」
銀鈴が無事でよかったと続けて、ほとんど涙ぐみそうになっている。今片手で目をこすった。
「怪我はねえか、大作!」
拳をつくって鉄牛が吼える。心配したよ、全くもう!と言って手を突き上げる楊志、うむ、まずは上乗、と片手で拝む一清、それから一同のやや後ろの方に居て、胸を撫で下ろし後ろを振り返る呉学人と、うなずいてからこちらを仰ぎ見た、中条長官。
そして、地面に這わされた状態から一気に起き上がり構えなおし、ちらとこっちを見て、その瞬間に襲い掛かってきた相手の拳をかわして、見え見えの攻撃してくんな、とののしってから、
「安心したぜ、大作よう!」
怒鳴ってから、にやりと笑った戴宗。
どの顔も、心痛と疲労と寝不足でへとへとになっているのがはっきり見てとれる。八方手をつくして捜せるところは全て捜したのだろう。大作がいなくなってからこっち、まともに休んだ時間は五分とあるまい。自分がいかにこの人々に大切に思われているか、これほどわかりやすくはっきりと見せられて、大作の胸はすまなさで苛まれた。
でも。
「待ってろ、今迎えに行ってやる!そこを動くなよ!」
鉄牛が怒鳴り、アルベルト以外の敵が出てくる前にまずは大作を取り返そう…と建物の外から大作のいるバルコニーまで行けるルートを目で探った。
待ってください、と大作が叫ぶより早く、背後から、思いっきりのヤケクソ気味な高笑いが響き渡った。
一同があっと身構える。大作の後ろからいつもより余計に胸を張り、いつもより余計にいばりくさって幻夜が登場した。
「ようこそ、無能な国際警察機構の諸君」
「幻夜さ…」
大作が言いかけたのをぐいと引く、首に手を回して締め上げる。声を出させないために。
大作が苦しそうにもがいたのを見て、一同から声が上がった。
「やめろ!」
「大作を放せ!どういうつもりだ」
「どういうつもり?決まっている」
鼻で笑う。
「草間大作を拉致して手なずけ、GR1を手に入れる。そのためにさらったのだ!当たり前だろう」
もがいていた大作がびくぅんと震えて、動かなくなったのを腕で感じる。
ああ。今、
大作くんは、どんな思いでいるだろう。…
何もかもが、演技だったと、思うだろうか。猫なで声で近づき、気がついたところで正体を明かした相手。その男のために、
大怪球を掃除してあげて、
話をして、襲われそうになって、
その男に近づきたくてバシュタールの真実を調べ、目の前で泣き出した背をたたいて慰め、
一瞬でも心が通じ合ったと思った、あれらの全てがウソだったのだと、思っているのだろうか。
引き返しそうになる自分を突き飛ばす。今更泣き言を言うな。自分で決めたはずだ。
更に大声を出す。どうしても、少しかすれた。
「いざさらってみたら小生意気だしうるさいし小賢しいガキだった。もう顔を見るのも飽きた。当初の目的に戻る。草間大作、GR1を呼べ。あいつらを踏み潰すように命令しろ」
喉を押さえつけたまま、手首の腕時計をむりむりと口元に持って行く。
大作!大作くん!やめろ人でなし、と皆が叫んでいる。幻夜は大作を締め上げるのに夢中になっているフリをしながら、ちらと国警の連中を見た。
銀鈴がすばやく、こちらの視界から外れて、隙を伺いながらす、すと近づいてきているのがわかった。
よし、襲ってこい。わたしの背後から。
そうしたら、やりあった後でさりげなく大作を奪わせてやる、つもりでいた。…そして。
くそーう、こうなったらそうこうげきだあ!とか何とか言ってわたしが引っ込めば、国警の連中は引き上げるだろう、大作を連れて。戴宗と同僚がしつこくドンパチやり続けるかも知れないが、知ったことじゃない。
大作くんは、わたしのことを憎むだろうな、とかすめるように思った。それだけで、おろおろと泣けてきそうになる自分の心を必死でたて直す。
これからは敵同士に戻る。どこかの戦場で君に会えることを、わたしはせめて楽しみにしているけれど…君はわたしの姿を見たら、GR1に奴を踏み潰せと命じるのだろうか。それとも見たくもないという顔でぷいと背を向けるのだろうか。
どちらかといったら、…
どちらも辛いな、と幻夜は胸の中で呟いて、
「早くしろ!痛い目を見たいのか」
せいぜい、ひどいセリフを、声を張り上げてわめいた、その背に、銀鈴が迫り、よしと思った。
その時、突然自分を締め付けていた腕を、力の限りふりほどいて、大作が床に降り立って逃れた。
あっと思って引き寄せようとしたが、同時に、
「動かないで」
銀鈴の手の拳銃が、幻夜の頭に押し付けられていた。
「手を上げて。ゆっくりと、頭の上まで」
厳しい、りんとした声に促され、大作に向かって伸ばしかけた手を、仕方なくそろそろと上げる。
その姿勢を取らされながら、目の前にいる大作と、正面から向き合った。
真っ青な顔。大きく見開かれた目に映っているわたしは、醜く歪んでいる。
どんなに悔しく、どんなに腹立たしく、どんなに傷ついたろう。
そう思った幻夜も、また真っ青な顔をしている。
「いいぞ銀鈴!おさえてろ、今行く!」
鉄牛が怒鳴った。
視線を動かさず、戴宗が呟いた。
「おめえの仲間がヘマをやったようだぜ」
「仲間にするな。あんな脆弱なヒヨワなお稚児趣味のファザコンなど仲間でもなんでも」
思わずまくしたて、そのせいで呼吸が乱れた。その一瞬を突かれ、手ひどい一撃をくらって吹っ飛ぶ。
拳を撫でながら、戴宗が笑った。
「ふん、馬鹿め。てめえがいつもやりそうなことをやられてハマってりゃ世話はねえ」
はき捨て、今度は顔を大作の方へ向けた。
最上階のバルコニーの手摺にもたれるようにして大作が立っている。数歩離れた位置に白いスーツの男、その頭に銃をつきつけて銀鈴。
鉄牛が大作を連れて、戻ってきたら、手早く撤収だな…生憎この場で全面戦争と行けないのは、情けないがコッチの方だ。
そう、戴宗が胸でそろばんを弾いた時だった。
「幻夜さん」
大作の声が空間を打った。
「ほんとう、ですか?あなたが、今、言ったこと…」
違うと叫びたい。けれど、
自分で決めたことだ。
幻夜は、ひきつる頬を、精一杯憎々しげな笑みにしてみせた。その顔を、信じられないように見て、
「僕の気持ちがわかるって…同じように父の遺言を守ってるから…同じ苦しみを知っているからって、…いろいろあったけど、でも、…途中からはホントの気持ちで、僕を…
あれも全部?」
「貴様をうまいこと操って、GR1を手に入れようとしただけだ。お前はGR1のコントローラーだからな」
あっ、はっ、はっ、と笑う。笑いたくも無いのに高笑いは、なかなか難しい。
「ひどい…大作くんにそんな言葉で近づいたなんて、…それがどれだけ残酷なことか、誰よりわかっている筈なのに」
背後の銀鈴の声が、怒りと情けなさで震えている。
「見損なったわ、兄さん」
「勝手に見損なっていろ。わたしはわたしの思う通りに行動するだけだ。誰にも指図は受けん」
大作の顔がゆらりと、かしいだ。
いっそ、
今、君に殺されるのなら、どんなにかわたしは嬉しい。
父さんの遺言は果たせないけれど、それよりも。
「そうですか」
大作がぽつりと言った。深い深い悲しみと寂しさが、長く余韻をひいて、ゆっくりと消えた。幻夜は動揺を隠しきれず、思わず口を開けた。
「あなたにとって、僕は、結局ロボのおまけでしかないんですね」
違う!違う!違う!内側で嵐のように繰り返される否定で、幻夜は爆発しそうだ。けれど、それを懸命に押さえつけている。傍目には、白い顔で黙りこくっているだけに見える。
「でも、僕は、本気でした」
そうかすれた声で言って、大作はぱち、ぱち、とまばたきをして、幻夜に改めて焦点を当てた。
国警一同の上には、沈黙と、困惑と、「えっ?なに?」が満ちる。
そして、大作は、幻夜を見つめたまま、ゆっくりと手首を口元へもってくる。そして、スイッチを入れ、
「ロボ、来い」
彼にだけ下せる命令を下した。
相手が、いいように遊ばれた(意味が違うが)はらいせに、この屋敷も白いスーツの詐欺師も何もかもぺちゃんこにしてやろう、と思っているのではないと、どういうわけか幻夜にはわかった。そうならいっそ、まだ、彼にとっては理解できるし、受け入れたいとすら思うことだった。けれど。
大作は何かを決意している、だがそれが何なのか、幻夜にはわからなかった。
思わず口を開いていた。
「何を考えている」
大作は答えず、黙って、幻夜の顔を見ている。まるで、二度と会えなくなる相手の顔を覚えておこうとしているようで、幻夜はさらにうろたえた。
「なんとか言え」
しかし、大作は、GR1が空の彼方からやって来て、着地し、ゆっくりと彼のすぐ側に来るまで、何も言わずにただ幻夜を見つめていた。
「くそう!不覚を取った、行くぞ戴宗」
「ちっと待て」
リターンマッチに大張り切りの男は、戴宗の顔が向いている方にGR1の姿を見て、
くそ!またあのめそめそ二人組のごたごたか。よそへ行ってやれ!
またもや戦いに水を注されて、腹立たしいったらない。あのガキ二人ここに連れてきて、いてまうか、とアルベルトは唸り声を上げた。
さすがに、訝しげに見上げる人々の視線の中、
「ロボ、僕を乗せてくれ」
巨大な掌が、開かれ、大作の脇に添えられる。
大作は手摺に足をかけ、一気に飛んだ。ぽん、GR1の掌に乗っかる。
「大作くん…」
銀鈴が、問いとも訴えともつかない声を上げる。
「どうしたの?なにをするつもり?」
「ごめんなさい」
声はかすれていて、あんまり低くて、よく聞き取れなかった。
「僕…国際警察機構のエキスパートとして、失格です。…だってもう、幻夜さんのことを、攻撃できませんから」
思わず幻夜は一歩前に出ていた。
大作はかぶさった前髪の下で、泣いていた。
「BF団と戦えない僕とロボは、国際警察機構にいたって仕方ないです。ごめんなさい。ごめんなさい、銀鈴さん、鉄牛さん、戴宗さん、楊志さん、一清さん、呉先生、中条長官」
声がどんどん涙で崩れてゆくのを、懸命に堪えて、全員の名を言い切り、最後に泣き出した。
泣きじゃくりながら続ける。
「あんなに僕のこと心配してくれたのに。僕のためにあんなに一生懸命になってくれたのに。でも、僕、もう国際警察機構に居られません。許して下さい。ロボは僕の言うことしか聞かないから、連れて行きます」
しゃくり上げてから、ロボ、行け、と怒鳴った。GR1は命令に応じて、さてどこへ行けばいいのやら、とりあえずここからどこかへ行くかというわけか、方向転換を始めた。
ロボを連れて。…
どこにいくというのだろう。保護者もいない大作にとって、国警を出るということは、戸籍も捨てて流浪の旅に出るのと同じことだ。ひたすら巨大な忠犬は一匹いるが、…
「待て!」
幻夜が身を乗り出し、手摺を掴んで絶叫した。
「わたしが憎くないのか?貴様の気持ちを弄んだ極悪人だろうが!わたしと戦えばいいだろう、国警に留まって!」
ここにきて、何を言い出すんだろうという顔の人間と、もしやあの男、実は本気で大作のことを…と感づき始めた顔の人間とに、だんだん分かれ始めた。まあ、前者の方は鉄牛くらいだったが。
「BF団をGR1で攻撃しろ!それが貴様の父の願いだろう!わたしが父の遺言に従うように、貴様も従えばいい!それで解決だ」
大作は振り向いた。
「父さんの遺言と、幻夜さんを比べることなんか出来ません」
涙に濡れた、毅然とした目に圧倒され、幻夜は手も足も出なくなる。
「ロボを作った父さんには、なんべん謝っても足りません。でも、たとえ、幻夜さんがそうでなかったとしても、僕は。僕は本当に幻夜さんのことが好きです。
それは、どうすることもできません」
涙が、頬を伝う。
ごごごごご、と音を立ててGR1はでっかいでっかいきびすを返し、ずしんずしんと歩き始めた。ここで飛び立つとみんな焼け死ぬからだろう。
国警の連中は、待て、大作!早まるな!と、げげげ、げげげ、幻夜が好きって。幻夜ってアレだろ?幻夜ってアレだな。なんでまた。いくらなんでも。との間で、なんとも言えず、行動に移れないでいる。それにGR1を止めるなんて、戦車に三輪車で突っ込んでくようなものだし…
幻夜は。
なんでこうなるのだ?
わたしが悪者になって、大作くんに怨まれて、でも大作くんは国警に戻って、わたしは一人ヤケ酒を呑んで、それでいいと思っていたのに。その苦い味を自分一人が堪えればいいと思っていたのに。
あんなことを言われて、それでも、大作くんがわたしを選ぶなんて…
わたしは。…
一体なにを我慢してるのだったか。もう、よくわからない。
手摺を掴んだ手が、ぶるぶるぶるぶる震えている。今ではもう、拳銃を下ろしていた銀鈴が、その姿を、眉をひそめて見つめている。
皆から十分に離れた位置で、GR1の足が止まった。我知らず、幻夜は絶叫していた。
「草間大作」
「こうしたらどうでしょう」
幻夜の絶叫を聞いていたのか?というくらい、あっさりっとした声がした。呉学人だった。
「大作くん、聞こえるか?ちょっと、行くのは待ちなさい」
聞こえたらしい。GR1は動きを止めてから、ごご?とこっちを振り返った。
「ギリシャ神話に、ヒントを得たのですけれども」
えっへんと胸を張る。隣りに居た中条が、ん…と首を傾げてから、
「もしかすると、大作君は、豊饒の女神の娘というわけかね。…この場合息子か」
「そうです」
わが意を得たり、という様子でうなずく。
「何言ってんだ?さっぱりだ…説明してくださいや、呉先生」
鉄牛が困っている。それを見下ろしながら、銀鈴は、昔読んだ『世界の神話』を思い出していた。
たしか、冥府の神様が、豊饒の女神の娘をさらってゆくのじゃなかったかしら?豊饒の女神はデメテルで、冥府の神は…
「幻夜は、この場合、ハデスという訳だな」
呉学人はにこりと笑った。
「一旦は娘は冥府にさらわれたが、話し合った結果、一年のどのくらいかを母親のもとで過ごし、残りをもう片方のもとで過ごすことになった」
「…それがヒントになったってことは、どういうこってす?」
「一年のどのくらいかずつ、期間限定で、国警と、幻夜のもとに属すればいい」
呉学人はきっぱりと、晴れ晴れと言ったが、大作と幻夜以外の連中は(アルベルトも含めて)ずこずことずっこけた。
「期間限定って、ビールじゃないんだから」
「ちょ、ちょっと呉先生、こっちの期間中はロボでBF団を攻撃して、あっちの期間中は国際警察機構を攻撃するっていうんですか?」
「やむを得なければ」
呉学人は涼しい顔で答える。
「さすがは智多星。…と言いたいところだが、大作がそんなに器用になれると思うか」
一清が呆れた声を上げる。
「どちらにも顔をそむけて、ああやって逃げ出したって、結局はまた同じ椅子の上に戻って来て悩むだけです」
自分に言え、というようなことをすらすら答える。
「大作くんが今、答えを出せないことは、彼にだけ押し付けるのでなく我々もまた同じように考えてみるしかない。誰よりも、エマニエル、君が」
いきなり昔の名で呼ばれ、息をのむ。
「君が最初にどういうつもりで大作くんをさらったのかは知らない。しかし、ひとたび結びついてしまった心と心は、理屈やいいわけでは引き離せないものだ。そのことを君が今一番痛感しているだろう」
幻夜が呆然とつぶやいた。
「呉学究」
「その真実の前では、君の小ざかしい思いやりなど無力だ。君に出来ることは」
幻夜は顔を、GR1の方へ向けた。
GR1の肩の上から、大作がまっすぐにこちらを見つめている。遠い。遠いけれど、
今のわたしに出来ることは。
この距離を、自ら縮めることなのだろう。
ばっと、バルコニーの手摺を越えた。随分な距離を落下し、鮮やかに着地すると、ぼえーと自分を見ている連中をかき分けて、どどどどどとGR1に駆け寄る。その時には、大作はGR1の掌まで降りてきていた。必死こいて登ってくる幻夜を、何とも言いがたい眼で見つめている。
大作のいるところまで辿り着いて、スーツの汚れや髪のよちゃくれもそのままに、立ち尽くす。
目の前にいる、自分の胸ほどの背丈の少年、そして気がついたらかけがえのない存在になっていた相手を、幻夜はただひたすらに見つめていたが。
今朝大作が目を覚ました時から、いや、随分前から、ずっとずっとずぅーっと我慢していた部分が、ぐらりと傾いた。それが顔にあらわれて、大作は目を見張った。
「許してくれ。出来もしないことをしようとして、君を傷つけた」
大作は息を呑む。
「君を…苦しめたくないのなら、迂闊にさらったりするのではなかった。でももう遅い」
大作は体が震えてくるのを感じた。
「どんな…刃よりも、君の涙は、わたしの心を裂く。切り裂いて、わたしを、裸にしてしまった。…
…君を愛している」
途端、大作の目から、涙があふれた。
歯をくいしばって、何故だか声を上げるのをこらえながら、幻夜の胸にとびこむ。その体を、幻夜は、力いっぱい抱きしめた。
腕の中に有る、互いの温かさが嬉しく、いとおしく、更に力をこめて抱きしめ合う。今、東の果てに日輪が顔を出し、その光を受けて、GR1の掌の上で一つになった影を、皆は見上げて、良かった良かった…というような、なんだか釈然としないような、この先どうなることやらというような複雑な表情を見合わせた。呉学人だけはうんうんと満足げだし、幻夜の同僚はうんざりしきっている。
そんな宿敵の表情など無視して、戴宗は感心してうなずき、
「うん、いいお裁きだぜ、呉先生。やっぱり、愛だよな、愛。なあ、衝撃の」
「殺すぞぉぉぁあああ!」
怒りの絶叫を放った。それから、心から安堵している二人の姿を見て、変態が、と吐き捨てた。
要するに、と国際警察機構の連中は考えた。呉先生の作戦なんだろうな。これを機会に、BF団の一角に穴をあけるというか。
ロボを使おうと思えば使えるけれども、でも大作に『大作くん、ロボで飛行場を破壊しておくれ』なんてことを、幻夜はもはや言えない。大作が幻夜に向けている以上の気持ちを、幻夜は既に持ってしまっているからだ。
う〜ん、ずるがしこい。幻夜の恋心を逆手に取るわけだな。黒いぞ呉先生。
呉学人としてはそう黒いばっかりではなく、エマニエルが誰かを、たとえば似た様な境遇の健気な少年を心から愛してくれたことは、とてもほっとする事だった。
人を愛する心は、その人間を優しく、強くしてくれる。大作自身と、大作を愛する気持ちに後押しされて、BF団なんて抜けてくれればいいし(抜けるついでに本部を破壊なんかしてくれたらもっと嬉しいし)、このことがきっかけになって、復讐に身を焦がすような毎日を止めてくれるといい、と願っていた。息子があんな暗く執拗な気持ちに囚われ続けることを、あの方は願ってはいらっしゃらない筈だ…
「それはともかく」
「は?」
呉学人の隣りにいた中条がなにごとか考えながら、
「ひとたび結びついた心は、理屈などでは引き離せないか。なるほど」
「はあ」
我ながらこっぱずかしいことを言ったなと、呉学人は照れて赤くなりながら、頭をかいた。
中条は全くの無表情で続けた。
「君の心も誰かと結びついているから、引き離されないのかね。例えば以前の上司とか」
おいおいおいおい、と部下たちが口を開けて見る。
「ちょ、長官」
「大人げない、静かなる中条ともあろう方が」
「………」
呉学人は泣きそうな顔になって中条を見たが、ふんと向こうを向かれてしまって、めそりと泣き出した。
「…、………」
「まあまあまあ呉先生、あんたの涙は長官の心を切り裂いてすっぱだかにしちまうんだからさ、大丈夫だよ」
楊志がばんばんと背中を叩いてやる。げほりめそりと咳をしたり泣いたりしている。
「姐さん、なんか言葉が違ってますぜ」
「そうかい?」
「すみませんけど」
一人、離れた場所にいる銀鈴が、身を乗り出して叫んだ。
「いつまでもここで、くつろいでるのはどうかと…」
「そ、そうだな」
呉学人が涙を拭いて、気を取り直し、
「大作くん、取りあえず我々は戻る。君はどうする?」
それまでずっとしがみついていた幻夜の胸から、そっと顔を離して、真っ赤な頬と真っ赤な目で、幻夜を見上げた。
幻夜も、ちょっと赤ら顔になっていたが、にこりと笑って、大作を見返した。その視線が、なんだか、大作の思っていることをちゃんとわかっていると言っているような気がして、大作はとても嬉しくなり、もう一度ぎゅっとしがみついてから、すぐに離れて、
「一度帰ります。…皆さんに、迷惑かけたし、急に出てきちゃったから」
それは全部幻夜のせいでは?と皆思った。
「ちゃんと、落ち着いて、皆さんに説明します。それから…それから、」
ほっぺたをきゅっと赤くして、
「改めて、来ます」
幻夜は大作の肩に手を置き、
「待っている。…大作くん」
大作は嬉しそうに、くすぐったそうに笑い声を上げて笑ってから、
「草間大作でいいです。…あのう、幻夜さんを、エマニエルさん、て…呼んだ方がいいですか?」
「幻夜でいい」
「はい」
なぁ〜にをいちゃいちゃしてんだかぁ〜という感じで、全員コンブのようにのたくった。と、正面玄関の戸が開いて、イワンが、あのうと言いながら首を出し、
「アルベルトさま…攻撃だとか拿捕だとか、何かした方がよろしいので?」
「おっと、では戻ろう。全員撤退」
一応、のように中条が言い、全員わたわたと屋敷を後にする。戴宗はこき、と首を鳴らしてから、
「…のようだから、俺も戻るわ。じゃあな」
「何気なく言うな!そういう、そーゆう、慣れっこさが、私は、私は、身の毛がよだつ程」
逆上するアルベルトをほったらかして、ほい、ほいと皆の後を追い、戴宗は行ってしまった。地団太を踏みながら、
マジで、草間大作でも誘拐してやるか、そうしたらまた本気出して闘うんだろうし…と思った。それから、不意に惨めになって、俯いた。
「では」
幻夜は一度、GR1の手からおりようとし、戻ってきて、
「君が大好きだ」
中坊のように、そう言って真っ赤になると、大急ぎで下りていった。上から、僕もですと声が降ってきて、幻夜はどうしても泣きそうになり、笑いそうになりながら、全力で駆けた。今なら月まででも走っていけそうだ。
国警の飛空挺と、GR1が朝日に照らされて去って行く姿を、各々の表情で、幻夜と同僚は、見送った。
なにやらGR1を巡ってとんでもない事態が生じているらしいというので、世界地図をバックに円柱が何本もつったっている部屋に、十傑集がわらわらと集まってきた。
「わたしが聞いた話では、半年GR1が使い放題だとかいうことだが」
「俺は三ヶ月と聞いた」
「それにしたって馬鹿げた設定じゃのう。何なのだ、その…おためし期間のような限定は?」
「知らん。どういうことなのだ、アルベルト」
「喋りたくもない」
アルベルトは一人、やさぐれた様子で、円柱に座って一同に背を向けている。
「知りたいなら幻夜に聞け。いや、全員でつるしあげろ。十傑集裁判でも十傑集リンチでも十傑集ロウソク責めでもなんでも」
その時、にぎにぎしいことですなご一同、と言いながら剃り残したようなヒゲの男が、円柱の一つにのっかって降りてきた。
「孔明。説明できるというのか。この異常事態を」
「無論のこと」
ふふふと笑って、全員を見渡すと、
「これもまた、GR計画の一部なのですから」
え?と皆一様に声を上げた。
「何もかもわたしの思いのまま。ふっふっふ。ふっふっふ」
言いながら向けた背に、
「ウソだな」
「GR計画って言えば済むと思ってないか」
「どこまで思い通りなんだか言ってみろ」
敵球団に投げつけられるような野次が飛んだが、孔明はがんとしてこちらを向かず、ふっふっふと笑い続けていた。こめかみに汗が光っていたかどうかは、さだかではない。
一人、月を見る。
美しい満月を、一人、バルコニーに立って見上げる。
今まで、こんな気持ちで、夜を美しいと思ったことはなかった気がする、
あの日から。
ふと、父にすまないと思った。わたしは…父さんのこと以外に、心をもっていかれてしまった。それもすみからすみまで全部、完璧に。そして、あの子とまた会える日のことを思うと、
父さんとの約束を忘れそうになる。
いや、忘れたりはしない、わたしにとって何よりも大事なことだ。なによりも。
…なによりも大事な少年の笑顔を、月に重ね合わせ、闇の王のような黒髪の男は、フゥと幸せなため息をついた。
完結でございます。例によって最後のファイルだけでかくなりました。つくづく計算がヘタですナ。
こういうフザケ方について、不愉快だと思われる方はいらっしゃるだろうなと思いますが、私としては、
幻夜という男、あの人一倍愛情深く、個人的な喜びなどひとつも味わわず寂しく厳しく短い一生を送った男を、なにかこう…バカバカしい苦悩の仕方をさせてやりたいというか、手放しで誰かを想って身をよじらせてやりたいというか、
そう!愛でこそ、ひどい目に遭わせてやりたかったの!(爆笑)
仲の悪い同僚との呼吸とか、父さん思いの息子同士の宝塚みたいないちゃつきとか、脇の方でイライラしている長官とか(笑)実は結構気に入ってます。この世界での続きの話はあるんで、そのうち、整理して、書けたら書きたいと思ってます。…イヤ?
長々とおつきあい下さった方、ありがとうございました。
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