疲労が、
狭く細い通路に流れ込む水銀や鉛のようにゆっくりと、しかし確実に、中条の四肢に溜まっていく。
無論、常人の許容量とは比較にはならない。どれほど体力と戦闘術に自信のある格闘家や、あるいは暗殺者でも、今の中条が置かれた状況下で、5分ともちこたえられないだろう。
しかし、どれだけ巨大なエンジンやモーターを搭載していようとも、一時も休まることなく使われ続ければいずれは負荷に耐えられなくなって故障し停まる。
今、何十体目かのからくり人形を破壊しその場を飛びのいた時、最初の一体の時よりも自分の力(破壊力にしても、敏捷性にしても)が落ちてきていることを実感する。
「さすがに疲れてきたか」
他人事のように淡々と呟いた。『淡々と』と言えば相手はそんな中条も比較にならないほど淡々としている。
仲間が目の前で何体破壊されようとも憤ることはない。怒りに任せて攻撃力が上がることもない。中条の強さに焦ったり、また協力し合って攻撃方法が変わったりもしない。
しかし、怯えて逃げ出したり、自分の方が攻撃力が下だから戦いを挑むのは無駄だと判断して攻撃を止めることも決してない。
『中条の存在を攻撃対象と認識し、殺すために近づいてくる』
その動作だけをひたすら、黙々と、延々と、自分が破壊されるまで続ける。何十体何百体もの集団が、ただひたすらに。
からくり人形でつくられた巨大な円は、中条を中心としてじりじりと集束し閉じようとしている。
拳をふるった。吹っ飛ばされ、他の一体にぶち当たり、しかし背後の兵隊まで共になぎ倒す筈のそれはぶつかったところで停まってしまった。
はっとする、同時に爆発した。
飛び退った肩口に破片が突き刺さった。右手で掴みぐいと抜き取る。鋭い痛みと共に血があふれた。破片を投げ捨て、
「…押し返す力が足りなかったか」
中条が最初に負傷したのはこの時だった。
そのことに関しても、人形たちは快哉を叫ぶでなく、勢い込んで攻めかかるでもない。ただ『負傷した。戦闘力ダウン何パーセント。だがまだ生きている』と認識し、中条に向かって進み続けるだけだ。
完全に殺すために。
懸命に工具を動かし続ける呉の指には血がにじんでいる。汗と血で滑る工具を、時々荒っぽく拭いてまた使う。
年月を重ねた部品類はどれもが脆く、急ぐあまりに乱暴に力を込めると壊れてしまい、今までの努力が水の泡になる。努力が無駄になるのは別にいい。結果として中条長官を助けられなくなることが最大の、唯一の問題だ。
細心の注意を払って出来得る限りの速さで作業を続ける。一度、糸が切れたらもう持ち直せないだろう。おそるべき緊張を強いられ続け、どれだけの時間が経っただろうか。
呉の顔はなまり色だった。噛み締めた口元からはやはり血が出ている。びっしりと浮いた汗でいく筋か乱れた髪が額にはりついている。
浅く速い呼吸をずっと繰り返している。咳き込んだり喘いだりしようとするもう一人の自分を騙し、宥めているかのようだ。
一度、「ごせんせい、いちど、やすんだほうが」と言いかけた陽だったが、迷ってからやめた。相手が聞き入れないだろうし、それ以前に、無駄な言葉を耳から入れて、その内容について判断させたり、受け答えの言葉を発したりさせる労力がもったいないからだ。
陽はそっと立ち上がり、外に出て行った。呉はそのことにも気付いていない。
遠くで爆発音が聞こえた気もするが、多分空耳だ。この場所で聞こえる筈もない。それに今駆けつけたところで何が出来るわけでもない。
このシステムを直す。
自分だけが出来ることだ
自分だけが
いつしか呉はその一連を、呪文のように繰り返していた。「必死」「一生懸命」とも少し違う、そこから一歩上がった忘我の状態で、ひたすらに手を動かし続けた。
そして時折、
長官。待っていてください
その言葉がさしはさまれる。
幾度繰り返された果てだろうか、
「終わった」
ほとんど口をきいていないのに、何故かかすれきった呉の声が、荒れたくちびるから零れた。
呉の手には、かつての世界で手にしたことのある、あのガラス管が握られていた。
立ち上がろうとしたが体が動かない。極限の緊張のもといっときも休まずに作業していたためだろう。だがそんなことを言っている場合ではない。
無理やりに机に手をついて、体を引き起こす。首や肩は鉛のようで、背骨や腰が折れそうに軋んだ。
「く、あ」
苦痛の声を上げ、ついで飲み込み、懸命に立ち上がった。全身が鎧でも着たように重く、グラリと周りが回って、倒れそうになる。そこに、
「ごせんせい、こちらへ」
陽が同じようにしわがれた声をかけた。歯を食いしばって振り返ると、陽が入り口の扉からこちらを見ていた。
よろめく足で懸命に戸口に向かい、取りすがるようにしてそこから外に出た。そして思わず口を開けた。
そこには一見、からくりの一台かと思うようなマシンがあった。
だが、微妙に違う。
無理やりくっつけたような按配だが、操縦席があり、そして、シズマ管を挿し込む接続部分がある。
「これの、受け皿か」
声を出すと、陽はかすかにうなずいて、
「これで、むらのそばまでいき、こうりょくのはんいないに、からくりをすべていれ、アンチシズマドライブをはつどうさせるのです」
「しかし、これでは遅すぎる。長官のところまで行くのにものすごく時間がかかってしまう」
「だいじょうぶです」
陽はゆっくりと首をふって、
「これは、とくべつせいです。ごせんせいが、がんばっておられたあいだに、わたしも、がんばりました」
そしてニコリと笑った。その笑顔に、呉はうなずいて、
「わかりました」
叫んで前に出る。途端、膝から力が抜けてその場に転んだ。
苦痛の声をのんで懸命に立ち上がる。その前に手がさしだされた。皺がよりシミだらけ傷だらけの老人の手だった。
「はやく」
「すみません」
引き上げられ、
「しっかりつかまっていてください」
ガラス管を厳重に懐にしまいこみ、振り落とされないようにつかまった。ズズズと音を立てて、一機のからくり機械が立ち上がり、そして、ギューンというような耳に痛い音が響き渡ったのち、脚部からドォと炎を噴いて、宙に飛び上がった。
「空を飛べるのか、これは」
呉が驚いて叫んだ。
「木で、出来ているのに」
「ちゃんと、きんぞくで、コーテイングしてあります。…そのこうりょくも、とぶちからも、ながくは、もちませんが、」
長くもつ必要はない。必要とされている場所までもてばいい。
その意味を呉も無論承知している。歯をくいしばって更に小さくかたまる。
森を見下ろす高さまで上昇し、一瞬静止して、ドン!という爆発音とともに平行に飛翔を開始した。
原始の森の上、ねっとりと濃い蒼空の中を、木と金属でツギハギしたおかしな戦闘機が飛んでゆく。
目がくらむ。息が詰まる。
しかし今の呉にはただ、一刻も早くたどりつかなければという思いだけがあった。
(もっと速く。もっと速く飛んでくれ)
祈る姿勢で胸のガラス管をだきしめる。
「ごせんせい、したをみてください」
陽がしわがれた声で言ったが呉の耳には入らなかった。しかし、眼下に見えてくるものには気がついて、思わず身を乗り出し、落ちそうになった。
今まで幾度も見てきたあの機体がバラバラになり、あるいは爆発した残骸が、数え切れないほど散らばっている。それを乗り越えて、これまた数え切れないほどのからくりが、どこかへ向かってぞろぞろぞろぞろと進んでゆく。
どこの時点で気付いたか、自分でもはっきりわからないが、行く手から、激しい戦闘の音が聞こえてくる。からくりたちは皆、その音へ向かってゆくのだ。
まるで砂糖に群がる蟻のように、じりじりと、休むことなく進んでゆく機械たちの姿に、血が冷えるような思いを味わう。
「こうどを、さげます」
またよく聞こえないが陽はそう言ったようだった。続いてマイナスGの感覚が襲ってくる。奥歯を噛み締める。
行く手に、村総出で作っていた塀が聳えているのが見えてきた。
塀は壊れていなかった。その手前に、
地獄があった。
その中心に、ひとつの影があった。全身朱に染まっている。戦っている相手は血を流す生き物ではない。それは全て自分の血だ。己の血潮に染まりながら戦い続ける悪鬼のようなその影の目が、薄暗い森の中ぎらりと光を反射した。
身体とは対照的に血の気の全くない顔は無表情だ。自分の状況などまるで興味がないか、気付いていないかのようだ。
今ゆっくりと拳を引き上げて、ファイティングポーズをとる。額から肘から血がしたたった。
しばし、声を失ってその姿を凝視していたが、
「!」
無言のまま陽の背後から手が伸びてきた。その傷だらけの手は、一本のガラス管をしっかりと抱え上げ、
二人の乗った機体が、その赤い鬼のすぐ傍まで来た瞬間、振り下ろすようにして接続した。
人間の可聴域の音ではない。何も聴こえはしない筈だが、なにかの波がすさまじい勢いで響き渡っていったのが体感された。
瞬間、
全てのからくりが、電源を抜かれたように、いっせいに動きを止めた。
そして、数秒のち、
真ん中の影が、やれやれというように、構えた拳を解いて、おろした。
その姿を見た時、今まで喉で堰き止められていた呉の声が、
「長官!」
喉から迸った。
自分自身も動力を失って地面に落ちた機体から、転がり落ちるようにして外に出て、駆け寄る。…駆け寄りたいのだが、足が動かない。
のめり、地面を這うようにして、中条のもとへいざりよる。必死で立ち上がると、手を伸ばし、相手の両肘のあたりを掴んだ。
中条の膝から力が抜け崩れ落ちる。それを懸命に抱きとめ、そして、
「長官!ちょうかん!」
「…間に合ったな」
低い、低い、ほとんど聞き取れないような声だったが、呉は聞き取って、咳き込みながら、懸命に、
「はい、長官」
「よく、やってくれた」
呉は目を上げた。目の前の、朱に染まった男が、黒いガラスの向こうの目が、呉を見つめている。
そして、
「さすがは呉先生だ」
そう言って確かに微笑んだ。それは、自分にはない能力をもった有能な部下に対する、誇りと賞賛と満足に満ちた笑顔だった。
いまだかつて一度も、見たことがない。
自分は無論だが、どこの誰に対してであっても、中条がこんな笑みを口もとに覗かせたことなど今までただの一度も見たことがなかった。
呉の四肢と、全身のすみずみまで、言葉ではあらわせないほどの喜びと誇らしさと、気の遠くなるような達成感とがみなぎりあふれた。
「ちょうかんっ」
叫びながら中条の身体を必死で支える。中条は今にも崩れ落ちてしまいそうだが、一度確かにしっかりと呉の身体を抱きしめ、それからガクと膝を折った。
「長官、しっかりしてください」
大丈夫だ、と答えたようだがはっきりしない。そのまま呉の腕の中で崩れる。
長官、と悲鳴を上げながらも地に横たわらせ、手当てを始めようとした呉の背後から、
「よくやってくれた」
重々しい声が投げられた。振り返ると村の連中が揃って、こちらを見ていた。その背後で、塀の上によじ登ってこちらを見ているネイが居て、
「ゴ!ゴたちのお陰で、わたしたち、命が助かったわ。
ありがとう」
叫んだ。
呉の頬がほんの少し弛み、よかった、と言い掛けたがすぐにまた引き締められ、
「お願いです。長官が瀕死の状態だ。どうか手当てを」
「瀕死か」
そう言った一人は特に心配そうでもなく、どちらかというと「それでいい」とでも言いたげにうなずいて、
「お前の具合はどうだ」
「わたし、は」
「ひどく疲れ果てているように見えるが」
「それは、そうですが、わたしは別にいいのです、長官を早く」
一堂はうなずき合い、
「さあ」
複数の人間が二人を取り囲み、呉を中条から引き離すと、中条の身体を担ぎ上げた。
「なにをするんです」
「治療してやるのだ。お前もくるがよい」
そう言いながら目がまったくの無表情だ。治療や看護を行おうという人間の眼には見えない。
そういえば、陽は、と思って見渡したがいつの間にか姿を消し、どこにも見えなかった。
治療をしてやると言いながらほとんど引っ立てるようにして連れて行かれた先は、あの黒く丸い石版の場所だった。
頼むから、いい加減に長官を降ろして、治療をしてくれと言おうとしながらも、あの石版の上には独特のパワーがあるとか、そういう考えかも知れないとかすかに思い、そしてあっと声を出した。
頭からすっぽりとケープを被ったレイが立っていた。顔が蒼白だ。
ひとりの男がレイと、呉たちを見比べ、
「さあ。今すぐここで子を作れ。この男は死にかけている。お前の中に子を残した後死ぬのが丁度良い」
「なんだって?」
呉の声が割れた。
レイは唇まで白くして、今石の上に寝かされた、血に染まった中条の姿を見つめた。
「お前はなにやら、よからぬ考えを口にしていたようだが」
最長老がゆっくりと、氷のような目で、
「この二人は、村を救うために呼び寄せたのだ。
最後はお前との間に子をもうけ、そこで命を終わらせる。お前は子を産み、そこで命を終わらせる。
そうやって力は受け継がれ、成り立ってゆくのだ。そのあり方に不平や疑問など、もつことは許さん」
ブツブツと呪いの言葉を綴った。
「さあ。早くしろ。お前が選んだのはこちらの男だったな。早くしないと死んでしまう。ほとんど意識がないのだから」
言いながら中条の顔を覗き込み、無造作に二三度顔を打った。呉は「やめろ!」と叫んだが、もはやがっちりと拘束されていて、逃げることも、戦って倒すことも出来ない。その拘束を打ち破る程の体力は残っていない。
「もうだめか?…よし、あの薬をもってこい」
「くすり?」
呉は思わず訊き返した。血を止めたり、気付けをしてくれるわけがない、なにかもっと別の目的だろうという恐れが声に現れている。
「これはな」
土の器に入った緑色のどろどろしたものを見せられる。
「たとえ足が一本落とされた直後だろうと、これを塗れば男根が石みたいに硬くなって、すぐに精を漏らす薬だ。〇×の根から作る」
平然とそう言われる。ことさら、無残な情景を見せ付けて嗤ってやろうという意識すらないらしい。その徹底ぶりに、呉は背が凍りつくような恐怖をおぼえ、一瞬のちそれが、腸が煮えるほどの怒りに変わった。
「やめろ!」
絶叫する。だが、ここの連中には呉の怒りなどまるで通じていない。
「…まだ体力が残っているようだな」
「レイ。この男の方が強いのではないか?本当にこっちでいいのか」
そうだとも違うとも何も言わず、レイはただケープの陰で死人のような顔をして突っ立っている。
「どうする」
「ならば、両方の精を混ぜればいいのではないか」
「それがいい。まず死に掛けているこっちの精を出させて、次にそいつと交わればよいのだ」
呉の唇が凍って、今度は声が出なかった。
「さあ、早くしろ。レイ」
言いながら中条の下の着衣を脱がせようとする。傍らの男の手にはあの緑色の薬がある。
これから、全身傷だらけで瀕死の中条の性器を無理やり勃たせ、レイが上に跨って性交を行うのか。村人たちに取り囲まれて、衆人環視のもとで。
それが当然のことであるから。
『そのあり方に不平や疑問など、もつことは許さん』
最長老の声がよみがえり、
この連中は狂っている。前からずっとずっと違和感と恐怖を抱えていたが、真実、まともではない。
この連中を助けるために、長官はあんな姿になったのかと思うと、胃の底が焦げ付きそうなほどの思いに駆られる。
手が、中条のベルトをはずしてゆく。
「やめろっ!」
再度、呉が出ない声で絶叫した時だった。
「ふゆかいなぎしきは、やめてもらおう」
感情のない声が一堂の背後からした。皆そっちを見る。
この呪術場の入り口に立って、銃のようなものを構えているのは陽だった。村の連中が来た時には、からくりの残骸の陰にでも隠れていたらしい。
土色の顔にしわがふかく、埋もれた目は憎悪で鉛色をしている。
「かわらんな、きさまらは」
吐き捨てる。呉を捕まえている男たちに、銃口で退けと指図する。
(あれはシズマドライブで動いている銃だろうか。だったらもう動かなくなっている筈だ。もちろん、そんなことをこの村の連中が知る筈もないから、はったりだろうが)
はったりだと気付かれたらおしまいだ。
呉は緊張しながら、男たちが自分から離れた時点で、出来る限り平然と、また急いで、中条のもとへ寄った。自分も、倒れてしまいそうなほどくたびれていたが、そんなことをしている場合ではない。気力をかき集めて、
「離れろ」
中条のベルトに手をかけていた男に言い放つ。男は無言で目を光らせながら、じりじりと後じさった。
中条はまるきり動かない。早くしないと出血多量で死んでしまう、ひどく気が急く。呉は死に物狂いで中条の身体を抱え上げ、背負った。
のろのろと進みながら、
(なんとか、さっきの乗り物のところまで戻って、アンチシズマドライブを解除する。あれには二人乗るのが精一杯だから、陽に長官を託すしかない)
残された自分のことはもはや考えていない。とにかく、あそこまで、なんとかたどり着くのだ。
「お前は、三十年前に召還した、来訪者か」
年老いたひとりが言った。
「殺す前に、逃げ出してしまったが」
「ころさないでおいて、まずかったな」
陽は低い低い声で言い、口元に歪んだ笑いを見せた。
呉が、もう少しで、陽のところにたどり着くというところだった。
「では、懐かしいものを見せてやる」
誰かが言って、レイのケープを剥ぎ取り、顔を陽に向かって晒した。
「あっ」
陽の動きが止まった。
全身がただ驚きに縛り上げられている。なにも耳には入っていないようだ。
両眼に、真っ青になって自分を見つめている女の顔だけが映っている。
それははじめて見る女だったが、しかしまさに、かつて亡くした妻だった。
落ち着いて考えれば、遠い昔この村に置いていった娘だ、妻にそっくりに育ったのだと判断できるところなのだが、そんな判断力は陽には無かった。
いや、似ているなどというものではない。生き写しだ。まるきり同一人物にしか見えない。
ただ驚愕を顔に貼り付けて呆然と立ち尽くす陽に、
「危ない」
呉が叫んだが遅かった。背後から近づいた一人が、手にした棒で思い切り打ちかかってきた。
「ウ」
後頭部をしたたかに打たれる。血が吹き出た。
しかし陽は銃を落とさず、銃口をその男にむけながらよろよろと彷徨い出た。皆、銃口から逃れながら、手に手に鈍器を持ち、陽の様子を伺う。
「陽、こっちへ来てください」
呉が叫ぶが、周囲の男たちが上げ始めた怒鳴り声にかき消された。
片手で頭の傷を抑えながら、懸命に体勢を立て直そうとするが、眩暈がしてまっすぐ立てない。ふらふらと足を運ぶ。その肩に再び棒が振り下ろされた。
自分たちを取り押さえようと近づいてくる男たちから必死で逃れつつ、呉は叫び続けたが、もう陽は人垣にのまれて見えない。
「もうあの武器も使えまい。とどめをさせ」
「よし」
石を尖らせた斧を構えた男が、駆け寄って、振りかぶると、
「死ね」
思い切り振り下ろした。
一瞬、歓声があがり、それから突然水をうったように静まり返り、呉は、
(陽がやられたのか)
愕然として立ち尽くした。と、
「うわああああああ」
斧を振り下ろした男が絶叫した。
ばらばらと人垣がくずれる。そこには、頭や肩やあちこちから血を流しながら、まだ銃を抱えている陽と、陽を庇って背に斧をつきたてたレイが、今地面に崩れおちたのが見えた。
「レイ!」
呉は絶叫した。
「ああ、あ、力が、力が、失われる」
「もう子を孕んで産む暇はない。これで終わりだ」
「なんてことを、ああ、なんてことを。終わりだ。おしまいだ」
皆今までの無表情がウソのようにうろたえ、怯え、狂っている。完全に人格が崩壊している。
全身の力を振り絞って、呉はずるずると中条をひきずりながら、レイのもとに這い寄った。
「しっかりしてください!」
しかし斧は深々と背を抉っていて、辺りは血の海だ。もはや助からないだろう。呉の顔が歪んだ。
レイは焦点の狂ってきた目を上げ、呆然と自分を見ている陽を見て、
「…わたしの、ちちおや、なのだな」
血が溢れてくる口でつぶやいた。
「…なぜか、すぐ、わかった。…だれかが、おしえて、くれたかのように…
たすけないで、いられ、なかった……」
目を閉じて微笑む。
「呉。…すまなかった。中条も、…そして、父も」
ゴボゴボと血の泡の混じった咳をしながら再び目を開いた。その目は涙で揺らいでいた。
「この力の、せいで、おまえたちを、こんな」
言いかけて咳き込みながら、すすり泣いた。
喋るなと呼びかけようとして、ふと、彼女の声が、いつもと微妙に違って聞こえることに気付き、そして愕然とした。
この声だ。
かつての世界で、幾度も夢に出てきた、つらくて悲しくてならない泣き声だ。
レイとそっくりで、…しかしどこかかすかに違うと思った。何を泣いているのかわからなかったが、
今はわかる。
すまない。
このちからのせいで、おまえたちをこんなさだめに引き込んでしまった。
この声は一体、と思いながら、レイがふたたび口を開いたのに身を乗り出した。
「すまない。…戻してやりたい。…お前たちの場所へ。…しかし…
叶わない。…わたしの、ちからでは。…
すまない、すまな…」
レイが血を吐いて顔を地につけた。
陽が、レイの傍らに膝をついて、その顔をそっと起こした。
紙のような顔色の、白茶けた女の頬に触れ、
「レイ、…それから、」
陽は誰かの名を呼んだ。妻の名なのだろう。
その瞬間、レイの姿が二重写しのようにぶれた。二人の女がそこにいて、血と涙を流し横たわり、むせび泣きながら陽を見つめている。
レイと、陽の顔が驚きに見開かれる。もうひとりの女だけが、僅かに微笑んだ。
「おまえか」
「…わたしの、ははか」
女は泣きながらも、なお微笑み、
わたしのちからをかそう。
さんにんを、もとのせかいへ、
レイの目が更に大きくなり、そして限りないよろこびと、そしてまた深い寂しさをたたえた笑みを湛えて輝いた。
レイの身体からあふれ出た血が、石盤に穿たれた溝に沿ってながれてゆく。それはひとつの文様を描き、石盤全体が赤く光った。
その光の中で、レイが、うなずきかけ、ほとんど聞こえない声で、
「ありがとう、
呉、…中条に、宜しく、伝えてくれ。
…父よ、」
レイの目から涙が溢れ続ける。
「ゆるしてくれ。
すまない。すまなかった」
文字通り血を吐く謝罪に、思わず陽が手を伸ばし、レイと、レイにだぶっている女の二人の頭を抱え、首を振って何かを叫ぼうとした。
しかし、何を言うよりも先に、石盤から放たれる光がドッと増し、そして何もわからなくなった。
はっとする。
たたらをふんで、足を止める。
顔をあげた。
目の前に、ワイシャツ姿の中条が立っていた。黙って、呉を見ている。
呆然とその姿を見つめ、それからゆっくりと背後を振り返った。
共に作業をしていた連中が、すみませんねえという顔でゾロリ並んでいる。
その中には、相変わらず明るく笑いながら、ほれ、ほれみたいに手でけしかけている、陽の姿もあった。
まだ若い。当然だ。陽は呉と大して違わない歳だ。
「戻ってきたのだ」
そう呟くと、発作的に絶叫し走り回りそうになったが、自分で自分の肘をぎゅうううと掴んで、なんとか堪えた。
つい「さっき」まで、死にそうにくたびれ果てていた身体は今は多少暑さにバテている程度の状態なのだが、あまりの精神の乱れ方に、心臓の拍動がおかしくなる。息が止まりそうだ。
「呉先生、どうしました」
陽が、若い声で、不思議そうに尋ねてくる。
「いや、…」
なんでもないとかすれた声で返す。
幾度か呼吸をし、自分を宥め、
「この、古代の遺跡の」
あの時言いかけていたことを言おうとして、はっとする。
足の下にあった黒い石盤がない。
見渡したが、発掘された古代のシズマ管も、今まで発掘されたオーパーツも、何ひとつない。
両手で顔を覆う。声が出ない。
これは。これは、…
「呉先生ってば。しっかりしてください。暑くてフラフラなんですか?」
後ろの陽が見ていられなくなったのか、近づいてきて、
「ここに建造予定の〇×基地の進捗状況について、長官に報告してたんですよ。わかってますか」
陽はエヘヘと中条を上目遣いに見て、
「あの、支部長。真面目にやってたんですけど、どうもこの土地は水が出まして。呉先生がもってきてくださったシズマも癇癪おこしてしまって、予定外の時間をくっちまって。どうもすみません」
頭を掻いて陽気に笑っている。
呉は必死で汗をぬぐい、息を整えながら、その声を聞いていたが、途中で目を閉じうなだれた。
「そうか」と答えた中条の声が、ひどく平静なのを聞き、更に深く目を閉じた。
深夜、呉は外に出た。ゆっくりと、足を進める。
満天の星空だった。そういえば、星座は、あの世界でも同じだったように思う。
人間にとってどれほどの長い時間の隔たりであろうと、天空の星たちにとってはごく矮小な経過でしかないのだろう。
しかし、自分にとっては、あまりにも大きな跳躍だった。
呉は蒼白の顔で空を見つめつづけた。
石盤も、シズマ管もない。
つまり、もはや、陽が呼び出されて、暗く辛い復讐の一念でシズマの代替品をつくった歴史がないのだ。
我々が呼び出された以前の地点に引き戻された。我々はそもそもあの場所に呼ばれなかった。
故にからくりによる戦闘も数十年にわたる復讐も無く、陽はあの女と出会うこともなく…
呉の顔がゆがむ。
レイは、存在しなくなったのだ。
一体どこからの時間の流れが変わったのだろう。レイの母をつくった男を呼んだ歴史もなくしたのだろうか。
わからない。今ここで考えたところで、「なくなった歴史」の内容など、わかるわけがない。神でもない自分に。
ただ、わかることは、
レイが、命の尽きるその時にやってきてくれた母の力を借りて、我々をこの地へ押し返したのだろうということだけだ。
両手で顔を覆う。
なぜ自分は覚えているのだろう?
陽はなにも覚えていなかった。そうだ。まだ起こっても居ないことなど。自分が経験もしていない暗く長い数十年の日々など、
「覚えている」筈が無い。
何故、自分は、覚えているのだろう。暑く、苦しく、いつも吐き気と戦い続けていたあの日々を、容赦ないまっすぐな目をした幼い娘を、
寂しい表情をした、自分の存在を消しながら我々を助けようとした女を。
気がおかしくなりそうだ。
身体が震えてとまらない。
後ろでかすかな音がして、呉は蒼白の顔で振り返った。
中条が立っていた。
昼と同じワイシャツ姿だ。さっき見たとおり、どこからも血は出ていないし、怪我もしていない。
そうだ、長官もこの場に送られたことで助かったのだ。あのままにしていたら、そう経たないうちに手遅れになっていただろう。
そうだ。長官が助かったのだ。それでいいではないか。
どうしても震えのとまらない自分の身体をもてあましながら、何か言わなくてはと懸命に考え、口を開いたが、何も出てこない。
中条はしばらく、呉のしろい顔を見ていたが、やがて、手首にはまった腕時計をはずし、差し出した。
「え」
呉は慌てて受け取った。…中条の、腕時計だ。前にも受け取って預かったことがあった。前にも。
はっとした時、
「返してくれるかね」
呆然とした顔のまま中条の顔を見上げた。
うなずいて、
「向こうでは、それどころではなかったからな」
静かな、落ち着き払ったその声の、意味を、自分の中で理解した瞬間、
「長官」
ぶるぶる震える手でその腕時計を差し出した。落としてしまいそうなほど震えているそれを再び受け取り、手首に戻した。
呉は、一回かぶりを振り、それから堪えきれなくなって、中条の胸にしがみついた。
喘ぎながら訴える。
「覚えておいでですか、長官も」
「覚えている。
最後も僅かに聞こえていた。…あの女が、最後の力を振り絞って、我々を救おうとしていたことも」
呉の目から涙が弾け出した。
「長官…」
「そして君のお陰で助かった。そのことも覚えている。
君が言ってくれたことも」
後から後から涙が止まらない。呉は全身で、中条にしがみつき、胸に顔をこすりつけ、なにごとか訴えようとしたが言葉にならず、ただ泣きながらひたすら中条を呼んだ。
中条の両腕が自分を抱いた。あの時のように強く強く抱きすくめる。
しかし今は自分からも、必死で中条の身体を掻き抱いていく。涙と急いた呼吸で息ができず、むせた。
指が、涙と汗と泥で汚れた頬を捕まえ、顎をとらえて上向かせると、くちびるを奪われる。
中条の鬚の感触を、自分の顔で感じながら、呉は意識が薄れていった。
その夜、中条の部屋で、呉は中条に抱かれた。
圧倒的な波にさらわれながら霞む眼を上げる。目の前の中条の顔は、やはり、今まで見た事のない顔をしていた。愛おしさと、情熱がこみ上げてきてとまらない、そんな自分に苦笑している顔だ。
手をのばし中条の目に触れる。目を細めた。笑ったらしい。
手をずらし、相手の頬に触れ、唇に、髭に、首に、鎖骨に、肩に、胸に、日に焼けた肌をすべってゆく。両腕をなぞり、そしてしっかりと手を組み合わせる。
相手が生きて、ここに在ることを、自分の手で確かめているみたいだった。
「長官」
呉が新たに涙を流した。
「お慕いしております」
中条は、うん、と答え、
「君を愛している」
静かに、穏やかにそう言い、それから、ふたたび嵐のように激しく、呉を抱いた。
途中からただ中条に翻弄され、追い上げられ、幾度となく果てて、そして眠った。
呉が次に目を覚ました時は、まだ窓の外が暗かった。夜明け頃らしい。
隣りの中条は寝台の上に上体を起こして、窓の方を見ていた。呉が目覚めたのに気付いて、顔を向け、
「気分はどうかね」
そう尋ねられ、呉は生真面目に自分の状態を点検してから、
「大丈夫です」
答えた。まるで、あの村でフラフラになっている自分を励ましてくださった時のようだと思った。
そうか、と呟いてから、二人は暫しお互いの顔を見合う。寝台の上長く流れる呉の黒髪を中条は見、中条の額に乱れる髪を呉は見た。
二人とも無言で、しばしそのまま佇んだ。
呉はゆっくりとあそこであったこと一つ一つを反芻し、思い返し、ふと、
長官も覚えておられた。
そのことは本当に嬉しい。こんな思いを、誰にもわかってもらえないまますごしていかなければならないなんて、あまりに荷がかちすぎる。
長官が全てをのみこんでうなずいてくれることが、自分にとっては筆舌に尽くしがたい助けであった。
しかし、なぜだろう。
答えが得られると思えない疑問を、ぼんやりと胸にともらせた時、
「ここに、来る数日前から」
中条がしずかに言った。呉は目を上げた。
薄明るくなってゆく部屋の中、静かなそのシルエットが、
「つらくてならない様子で泣いている、女の夢をみるようになった」
呉は思わず上体を起こした。全身に痛みが走って、顔が歪んだが、
「君もそうではないのか。あの女を見た時、」
呉を見て、
「この声の主だと、思ったのじゃないかね」
「はい」
そうです。そうです。私も、夢をみて、
なんとかしてやらなければならないと、夢の中でもがいていたのです。
でもレイの顔や声とはかすかに違和感があって、ほとんど同じだけれども、ほんの少しどこか違って感じられて、
でもそれが、最後には一致していたのです、
あのひとの母親がやってきて、彼女に力を貸してくれたその時に。
言葉はなにも口から出なかったが、思いはどんどんあふれてきて、たまらなくなり、歯をくいしばって堪えたが涙がこみあげてきた。
大きな手がその頬に触れ、ゆっくりと撫でる。
「彼女と、夢でつながっていたためかな。君と私が覚えているのは」
静かに言って、呉を引き寄せ、呉の頭を自分の胸元にかかえこんだ。
「我々二人だけは、彼女の思いを忘れまい」
頭上で呟く声に、はい、と叫んで、中条の胸に頭をあずけた。
よーし、よしよしと大声で叫んでいた陽が、「あ、呉先生」と言って手を振っている。日に焼けた顔が溌剌と笑っている。
「呉先生、俄然、機械の調子がよくなりましたよ。こいつらも支部長に怒られるのが怖いんですかね」
屈託なく笑いかけられ、呉は情けなく笑い返す。
陽が、ショベルカーに乗って作業している姿を見ていると、あのからくりの軍団と、心も身体も疲れ果てた老人の姿が悪夢のようにだぶり、そして消えてゆく。
いつ、完全に消えるだろう。
陽が、どこかの娘と恋をして結婚して、娘が生まれたら、そしてその娘がレイと…
まるで似ていなかったら。
寂しさなんかかけらも持っていない、陽によく似た明るい笑顔の娘に育ったら、
その顔を見たら完全に消えるだろうか?
そんなふうに思ってみながら、余計に「存在しなくなった女」の孤独を思って悲しくなるだろうかという気もしてくる。
「そういや、呉先生」
陽が身を乗り出して、
「呉先生はアンチシズマドライブって、いじったことありますか」
一瞬息が止まる。
それから、ゆっくりと息を吐きながら、苦笑し、
「あるけれど」
「へえ、あるんですか。いいなあ。すっごく興味あるんですけどね、でもいじらせてなんかもらえないからな。壊しちゃったらボンドでくっつけるわけにもいかないだろうしな」
微笑んだまま、その子供っぽい顔を見上げて、
「あれなら、どんな故障でも、半日で直す自信があります」
そんなことを言った。
「さすがは科学主任。呉先生がそんな自信満々で請け合うっていうの、新鮮ですね」
陽は目を丸くして口笛を吹いた。
終わった…なにもかも…
何年かかったのよ。いやでも、ちゃんと最後まで書けてよかったです。
お付き合いくださった方、ありがとうございました。
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