警報兼迎撃装置が肉につられて連れていかれた後の、誰もいなくなった門の前に、それから数分後承太郎が現れた。
門は閉まっているが鍵は開いていた。ゆっくりと、足を踏み入れる。後ろ手に閉め、辺りを見回してから、館の入口に向かう。
玄関ドアは開けっ放しだ。その前に立って、中を見た。
館はしぃんと静まり返っていて真っ暗だ。中に誰もいない、かのようだ。
「ここで待っていろと言ったが」
いずれあの女がすたすたやってきて、「こっちよ」などと言い、花京院とその妹とやらがいる部屋まで行き、四人そろってまたここに戻ってくる…
までの、どこで。
横やりが入るのだろう?
それはどんな横やりだろう?
考えたところでわからないので考えはしない。ただ、どんなものであれ退けてやる、という意志だけを、強く、強く胸の中にかため、ぎゅうっと圧力をかけて、結晶にした。
外の様子を見、もう一度館の中を見て、
そして承太郎は目を見開いた。
そこは、承太郎の家の、玄関だった。
見慣れた靴箱。上に、花瓶があって、ホリィがまめに季節の花を飾っていた。倒れてから、承太郎たちが旅立つまでの数日で、花瓶は任務を解かれていた。今そこにある花瓶も、からっぽのままだ。
たたきに並んでいる靴は、承太郎の靴、ホリィの靴、各々が慌てて足を入れる時のための履き物、の四足だ。承太郎は下駄だが、ホリィはサンダルだった。大概それをつっかけて、焼きイモ屋が通過するのを食い止めようと飛び出していった。
時代劇なら衝立があり、旅館なら女将と仲居が勢揃いして頭を下げているのであろう空間の左手が、縁側へと繋がっていて、角を三回曲がった、一番日当たりのいい部屋に、ホリィは横になっていた。最後に見た小さな寝姿が、今も目の奥に残っている。
…罠だろう。
こちらを動揺させ、惑わせるための大道具に決まっている。ボードゲームじゃあるまいし、あと一回サイコロを振ればあがりというところで、最初に戻る、という目が出る筈が…
しかし。
もしも、本当に、ここが承太郎の家だったら。
たった今DIOが、ホリィの枕元に立って、苦しんでいる様子を眺めていたら。
その手を、ホリィの喉元に伸ばしていたら。
そう思った時、反射的に承太郎の足が一歩、玄関の中に入っていた。
ふと、空気が動いた気がして振り返ると、さっきまで館の外が見えていたドアが、承太郎の自宅のものになって、閉まっている。
引き開けようとしたが、びくとも動かない。まるで壁に扉の絵が描いてあるだけ、のようだ。
承太郎は意を決して、家の中に上がった。靴を履いたまま、自分の家の中に上がるのは、実のところ抵抗があったが、承太郎は土足で縁側に向かった。
玄関の照明だけはついていたが、家の中は真っ暗だ。縁側のガラス戸の向こうも、黒一色で、何も見えない。奥の方の照明がついているのは、どうやらホリィの寝ている部屋のようだ。
そろそろ50日前になるあの日、必ず助けてやると誓って、その後ずっと顔を見ていない。SPW財団の所員たちから逐一報告は受けているが、どんどん悪化している、という当たり前すぎるレポートしか受け取っていない。それも、最後に聞いたのが数日前だ。
あの部屋の障子を開けた時、
自分が見るかも知れないものを想像すると、空条承太郎をしてこめかみに冷たい汗が浮かびそうになる。
しかしここで、恐怖に惑ったり逡巡して踏み出す足を止めるような人間であれば、もとよりここまで辿り着けなかっただろう。
奥歯を一回きつく噛みしめ、慣れ親しんだ久しぶりの我が家を土足で歩いてゆく。ホリィが見ていたらさぞやびっくりして、それからぷんぷん怒るだろうと思う。
角をひとつまがる。何の音もしない。まるで雪に降り込められているかのようだ。
角をもう一つ曲がる。
ぎし、と承太郎の靴の下で床が鳴った。
角をもうひとつ曲がる。
ぼう、と白く明るんでいる、障子の手前に立つ。手をかける。
引き開けた。
煌煌と蛍光燈のついた部屋の真ん中に、布団が敷いてあって、誰か寝ている。布団をすっぽりかぶっていて、顔が見えない。
承太郎は静かに、部屋に足を踏み入れた。同時に、ゆらり、と星の白金が、彼の肩のあたりから立ち上がった。後ろ手に障子を閉め、どこからか襲ってくる気配がないか、星の白金のセンサーの感度を最大限まで上げ、ゆっくり、寝ている存在に近づいて行く。
枕元に立つ。
「おい」
声をかけたが、返事はなかった。
星の白金が手を伸ばし、布団の隅を掴む。
そろそろと持ち上げて行く。
と、布団の中の人間が、不意にこちらにごろりと動いた。はっとする。
一瞬。
承太郎はそこに、骸骨の顔を見た。
次の瞬間。
承太郎の中に在る、超一級の自己防衛システムが、彼の命を救うべく、彼を仰け反らせた。
がぉん!
虚空の音がして、虚無が、承太郎の顔があった場所をなめていった。
咄嗟に声も出ない。上へ過ぎ去ったものを目で追い、そして学帽のつばの先端がなめらかな曲線で切り取られているのに気づいた。
あのスピードで下から上へ薙ぎあげられたら、帽子は吹っ飛ぶ筈だが、と思ってから、星の白金が手にした布団が、おかしな形に切り取られ、断面を見せているのに気づき、
多分あれは、自分に触れたものを「破壊してゆくエネルギー」ではないのだ。
ただの無だ。触れたものを…ただ飲み込んでゆく穴なのだ。
帽子のつばも、布団も、人間も関係なく。
「惜しかった。…やはり貴様は、強運に守られているようだ」
天井に丸くあいた穴から、ゆっくりとおりてきたものが、そう言った。
骸骨の顔をしている。ぱくり、と開けた口の中に、人の顔が見える。白い肌、長く美しい髪、そして死人の顔。
その目には負の感情しかない。故にもはや生きた人間ではないのだ。
「だが、何も知らずにこの世から切り取られていた方が、まだ幸せだったな。今から、少しずつ、お前をのみこんでゆく。逃げようとしても無駄だぞ」
主の口癖を口にできたのが嬉しいのか、一瞬男はひどく満足そうにうなずいてから、再び暗い穴のような顔に戻って、
「ここが本当にお前の家だと、今でも思っている訳ではあるまいな?」
承太郎は答えなかった。自分が罠だろうと思いながら踏み込んだのが、やはり罠だとわかったのだった。幻覚か。幻術か。何と呼ぶのか知らないが。
「ここには出口はないぞ。お前はここから外へ、逃げることはできないのだ」
そう言われたからといって、ならばと諦めるつもりはこれっぽっちもない。強く相手を見据えた承太郎に、ふと、
「驚いたぞ。女が鳥を連れて、厨房の方へ引っ込んでいくから、何だ?と思ってみれば貴様がカラの門から入ってきた。…あの女め、よくもあんな大胆な真似をしたものだ」
最後はぶつぶつと独り言になりながら、そう言えばいつも見る格好とは違っていたな、と思った。
「ひとつ聞いておこう。貴様、あの女をどうやっててなづけた?鳥が言うことを聞くのはあの女くらいなものだと、どこで知った」
「…何の話だ」
本気で言ったのだが、
「答える気はないということか」
顔が、口にのみこまれて隠れてゆく。
「どの道、貴様もあの女も皆この闇の中にのみこんでやる。…貴様の、仲間もだ。DIO様はお怒りになられるかも知れないが」
憎しみが男の目に赤く澱みをつくった。
「あんな、色だけ綺麗な緑色の虫を、生かしておくのは我慢がならない」
怒りと焦燥と、それから。まだ、花京院は生きているのだという、針の先のような喜びに、承太郎の頬が僅かに上気した。
「まずは貴様からだ」
男の全てが口の中に消えた。くるりと回った、直後、相手は完全に消えた。
来る、ということだけがわかっていて…どこからくるのかはわからない。ほとんど絶望的だ。
承太郎は縁側に飛び出した。自分の斜め後ろを、丸く切り抜いて、無が跳んできた。

真っ暗なのでここがどういう部屋なのかはわからない。その中で、かすかに水の音がしている。
洗っているのは雑巾だ。この館の主が血を吸ってぽいと捨てた女たちの、喉から流れ出して床を汚した血を拭いた、生臭い雑巾を洗っているのだ。
そんなものを見たくないので暗いままにしてあるのか、館の主が太陽のものでなくても明るさをもたらすもの全般を好いていないせいなのかは、わからない。
いや、主がというよりは執事長のような下僕の男が、というべきだろう。どんなものであれ、彼の主に反するもの、彼の主を脅かす意味を持つものは全て、その男によって抹消された。窓という窓に打ちつけられた板は、彼の主張であった。
外の世界、昼の世界、太陽の下の世界などというものは、存在を許されない。故に、ないものとする。
その男に先刻打たれた頬が、にぶくまだ痛んでいる。慌てて廊下に出たそこにやってきた男は、目の前まで近づくと、少女の襟首を掴んで、
誰に赦しを得てこの部屋に入った。その手にあるものは何だ。中にいる、汚ならしい虫のような人間に、ほんの少しでも施しをしてやろうなどという考えは、
男の片目がびく、びく、と動いた。続いて手ひどく殴られた。
この館の人間が持つものではない。
申し訳ございません、と口走った娘を見もせず、
次に同じことをしたら、お前の肘と膝から先を消してやる。
そう吐き捨てて部屋に入っていった。
恐怖と苦痛に震えながら、今ここで花京院の力になれないことを心で詫び、涙を流し頬を腫らしながらその場を後にした。
そして…
そして、今は、真っ暗なこの部屋で、血なまぐさいぼろきれを延々と洗っている。
いつから、やっているのだっけ、とぼんやり考える。思い出せない。殴られて、その場を後にして、それから…
この恐ろしい館に来てから、なんだか、記憶がとびがちになったと思う。それに、普通は、何も見えない暗闇の中の作業など、恐怖をおぼえるものだろうが。
しかしこの館には闇よりも遥かに恐ろしい主が棲んでいるのだった。
ふと、少女は顔を上げた。
なんだろう?胸ポケットに、何か入っている。紙切れのようだ。
自分の胸のポケットに何が入っているのかわからないということは普通ない。首を傾げ、部屋の隅に置いてあるランプに、火を灯し、その下で広げてみた。急いで書いたらしい殴り書きで、
『大至急 玄関前に行くこと ジョースターの人間が居る』
驚愕で声が出そうになる。
なんだこれは?どういうことだ?
この館の人間が、少女に伝えるはずのない情報だ。どうにかして感知できない移動方法の、『スタンド』(というのだと、教えられた)でも使って…私に知らせてよこしたのだろうか?外の人間が?
しかし、もしそれが本当なら、カキョーイン様をお救いできる。
少女の胸がドキドキと鳴り出した。
別に、ちょっと玄関の方へ行ってみるくらいなら、見咎められて殴られることもないだろう。
ちょっと考え、そのメモを燃やすと、ランプを吹き消し、そっと血なまぐさい洗い場から廊下へ出た。

言われた玄関前に立つ。誰もいない。
ちょっと慌てる。まだ来ていないのだろうか。
どうしたものかと迷う。どういう訳だか門番の鳥もいない。どうしたのだろう?と思いながら、一度門のところまで行ってみようかと思った時。
突如、上の階の部屋で、激しいものおとがした。
誰かが争っている。戦っている。
この館の中で、そんなことをする、存在はいない。
そう思った次の瞬間には、きっと、メモの言っていた男が襲われているのだと判断した。続いて、ぎゅぉぉぉおんというような、風を切るような何かを無理にえぐりこむような音が聞こえ、少女は蒼褪めた。少なくとも男が戦っている相手の一人は、少女を殴ったあの男だ。
どうしよう。
おろおろと意味なく辺りを見渡した少女だったが、はっと気付いた。
今なら、カキョーイン様を、無事にここまで連れてこられる。
あの男がいないのなら。
それに、ジョースターの人間が来たとなれば、DIOはカキョーイン様に肉の芽を植えようとするかも知れない。戦わせて、楽しむために。
むしろ、急がねばならない。
部屋の前でDIOとはちあわせする恐怖を懸命に押さえつけて、少女は廊下の闇をひたすら走った。
部屋の前まで来た。上の物音は不定期に続いている。慌しくノックをし、
「失礼します」
低く叫んで中に入った。入ってから、もしやもう既に先を越されていて、という真っ黒な予感がどっとこみあげてきたが、幸いにしてそれは裏切られた。
部屋には花京院だけしかいない。前と同じ格好で、ベッドに座って、こちらを見ていた。
「君は」
話し掛けた声に、明らかに、『敵とは、思っていない』響きがあることに、少女はひどく喜びを感じながら、
「カキョーイン様、今なら逃げられます。今しかないのです。今逃げないと最悪の事態になります」
手を組み、祈るような姿勢で、ひどく切羽詰った声で、
「お願いです。お逃げください。逃げて下さい、どうか」
花京院は三秒ほど、黙って相手のぱっとしない、しかし必死の形相を見据えていたが、やがてうなずいた。
「わかった」
はっと目を見開いた少女を見たまま、
「君を信じる」
その声を聞いて、少女は泣き出しそうになったが、ぐっと堪える。こちらへ、と言いながら先にたってドアから外を見る。誰もいない。
振り向くと、花京院はややおぼつかない足取りで懸命に急ぎながらやってくるところだった。それはそうだ。本当なら絶対安静にしていなければならないような状態だ。
「ごめんなさい、」
小さく謝って肩を貸す。花京院の髪が少女の頬に触れ、少女は真っ赤になった。
すぐ隣りに居る、背の高い男の体温がやたら高い。怪我のせいなのだが、少女の赤い赤い頬は違う理由だった。一回ぐらっとなって、少女の肩にどっと体重をかけられたのをしっかり支えながら、ひたすら赤面の一途をたどっている。
真っ暗な廊下がやたら長く感じられる。頑張れ、頑張れと自分に言い聞かせながら、歩を進める。
上で、今までになく激しい音がした。びくっとするが、それは同時に、あの死神のような男がまだ上にいるということでもある。今のうちだ。
「あれは何の音だ?」
花京院に尋ねられ、はい、あの、と言い掛け、
少女は口ごもった。
ジョースターの人間が、上で戦っているのです。だから、今のうちなら、逃げられるのです。
そんなことは言えない。
「あの…」
まるで、答えない少女をなじるように、ぉぉぉおおん!という音が、高らかに響き渡った。
「今のは、スタンドの音か?」
スタンド使いにしか聞こえない音は、やはりわかるらしい。
この館の中で、スタンドで戦っている人間がいるとするなら、それはすなわち。
花京院は少女を見た。少女は花京院を見ていない。赤らんだ頬のまま、必死でゆく手を見つめ、口元を動かしている。
「…もしや、承太郎か?」
「…お願いです。…このまま、外へ…」
怒られるだろうか。なじられるだろうか。君がそんなゲスなことをもちかけると知っていたら、君なんかに助けてもらうのではなかった。そう言って殴るだろうか。
隣りの男の足が止まった。引っ張られて、肩を貸している少女の足も止まる。思わず目を閉じて、項垂れた少女に、
「僕を。
そうまでしてでも生かしてくれようという、気持ちは、受け取った。…ありがとう」
ひどく穏やかな声だった。少女は反射的に顔を上げそうになり、しかし更に深くうなだれる。
「でも、ここで自分ひとり逃げて外へ出られて、朝を迎えられても、それはもう…僕ではなくなっている。
たとえ朝日を浴びて肉体が崩れ落ちなくても、魂は、死人だ」
少女の蒼白の頬に涙が伝った。
「僕は戻る。君はいいから逃げろ。階段はこっちか?」
「ご案内します」
「いや、いい。君は」
「貴方の役に立たせてください」
涙を拭いて、声と体が震えるのを必死でおさえつけ、
「…申し訳ありません。貴方ならそう仰るとわかっていました。でも。…
そうですね。肉体の命が永らえたところで、魂が死んでは、死人と一緒です。…わたくしはもう少しで」
貴方をわたくしの同類にするところでした。
それは言わず、お赦し下さい、とだけ言い、階段はこちらですと言って、もときた道を戻り始めた。
円形の階段を通って上階に上がる。ある一室の中で、どごん!だぁん!と音がしているのがわかった。ドアを開けて、中に入ろうとした花京院に、
「駄目です。中に入ったらその途端に貴方も幻覚に落ちます」
「幻覚?」
「部屋のスタンドというのでしょうか。幻の中に閉じ込めるのです。一旦入ってしまったら自力では出られません」
「本体はどこにいる」
「中にいますけれども…中に入ったら幻覚に落ちるのですから見つけることは出来ません」
「肉眼で探せば、ということだろう?」
花京院は床に膝をついた。目を閉じる。集中する。
彼の足の下に、緑の蔦が溢れだしたように見えた。それは広がりながらドアの下から室内へ入っていった。
こめかみからひたいから、汗が吹き出すのが見えた。
スタンドが使える体ではないのに。
少女は必死で花京院の上腕を支え、その厳しい横顔をじっと見つめた。
………家の中が穴だらけになっている。
時折、その穴に足を取られて転びかける。危うく身を伏せる。目の前の柱ががっぽり消滅した。
カンと、反射神経だけを頼りに逃げ続けている承太郎だったが、限界が近づいている。こちらももとから重傷を負っているのだ。体のあちこちをちぎりとられ、じくじくと出血している。
(しかし、どうやらわかった。こいつは移動している間は、こっちの姿も見えないらしい。見えているならもはやとっくに俺は飲み込まれているだろう)
相手が軌道上の全てを飲み込んでいることも、次の攻撃を避けるのに役立っている。これで、ランダムに飲み込んだり飲まなかったり出来るのなら、もはや軌道の予測も不可能だ。
かと言って、暴れ馬のようにつっこんでくる間は、どんな攻撃も受け付けない。この閉鎖空間から逃れることが先なのだが、どうしても、出口が、
「見つからないだろう。無駄だ。諦めろ」
星の白金の攻撃の射程範囲外に浮かんで、嬉しそうに笑っている。承太郎の背が、突き当たりの壁にどんとついた。
「行き止まりだな。では、これで終わりだ」
その声を、椅子に座って聞きながら、男は、床の上に腰をおとし、歯を食い縛って上方をにらみつけている承太郎を見た。
目の前にいる男は、承太郎の目には入っていない。承太郎は今別の世界を見ている。男が見せている、『想い出の我が家』という世界だ。
幾人がこの、空条承太郎という男に倒されただろう。そいつを、この俺が倒すのだ。無論、やつは得意げにDIO様に報告するのだろうが。空条承太郎はこのヴァニラ・アイスの手で葬り去りました、とでも。
しかし、こうまで簡単に料理できたのは、この俺様の結界に落としたからだ。それは厳然たる事実だ。
どうも、直接攻撃のハデさがないと、軽んじるバカが多くていけない。…不服げに唸った時、ふと、なんだかおかしな感触が、自分の足首のあたりでうごめいた。
「なんだ?」
男が疑問に思ってそこを見ると、緑色に光る蔓のようなものがからみつき、衣服の中まで入り込んでいる。えっと思って目で追うと、それは部屋のドアから入って来ている、無数の触手の中の一本だった。
これは、と男が目をむく。花京院の目が開かれた。
「捕らえた」
男が声を上げてもがいたが、十分に男の体にまきついていた触手は一気に引き絞り締め上げ、男の呼吸を止めた。
「…なに」
一瞬にして、まるでチャンネルを変えたように、目の前の風景が変わる。気づくと、何もない、正方形の部屋の中に、承太郎は腰をおとしていた。さっきまで背がついていた壁もなくなっている。
少し先の椅子から転げ落ちた姿勢で、男が倒れている。泡を吹いているようだ。そして、男をぐるぐるまきにしていた蔦がするりと外れたのを見て、あれは、と思う。それから、
幻が消えても、あれだけは消えなかったようだ。骸骨の中にいる顔が、承太郎と同じように気絶している男を見下ろし、
「役立たずめ。もういい。あとはひとりでやる」
そう吐き捨てた。ばん、とドアが開く。
そこに、ワイシャツを着た花京院と、それを必死で支えている少女の姿があった。
「承太郎!」
「花京院、来るな!」
言いざま横転する。案の定相手はまっすぐに承太郎のいた位置に突っ込んできた。
力を振り絞って走る。後ろで軌道を変えたのがわかった。途端、がく!と膝がくじけた。
ぉぉぉおん、という音と、気配が、承太郎の背に近づいてくる。
咄嗟に。
それは、あわよくば張れればいい弾幕という意味合いだったのか、それとも今の一回の攻撃を見て相手のスタンドの特性をなんとなく感じ取ったのか、わからないが、
花京院は全身の力を振り絞って絶叫した。
「エメラルド」
ホースの先を潰すと水が勢い良く迸る。…それと同じように、ぎりぎり極限まで矯めて矯めて押し潰した噴出の力を、一気に解放した。
「スプラッシュ!」
部屋は緑の光のシャワーに見舞われた。
そして三人は、淡く透き通る幾千もの緑の弾丸の雨の中を、丸く切り取りながら近づいてくる無の姿を見た。
間一髪で、その軌道の上から身を避けた承太郎が、そのまま廊下へ転がり出た。と、花京院が咳き込んでよろめいた。途端に、緑の力の全てが消える。
二人が左右から手を伸ばしたが、承太郎が先に花京院の二の腕を掴み、ぐいと支えた。
「すまない、ちょっと、燃料切れだ」
かろうじてそう言った声はかすれきって、土気色の顔色になっている。唇に色が無い。
「下へ行くぞ。狭い場所は不利だ」
それから少女を見て、おやと思う。メイド服、花京院を支えていた姿。あの女が言っていた妹だろう。しかし…
しかし、…それを考えている暇がない。
三人は懸命に、下へ降りた。背後から、どぉん!がぁおぁん!と音をたてて建物を飲み込みながら、追いかけてくる。
廊下を走る。走り続ける。承太郎も花京院も今にもぶっ倒れそうだが、倒れるのは後回しだということは何よりもよくわかっているので、残っている全てを脚に託して、走り続けた。
「この先をまっすぐ行けば玄関です。外へ出られます!」
少女の希望が灯った声が、もう少しです、頑張って、と言い掛け。…
今まで味わったどんな絶望よりも深い深い暗黒が、自分たちのゆく手に立っていることに、気づいた。
行く手はるか、玄関ドアの手前に、
DIOが立っていた。

「…DIO」
呟いたのがどちらだったか、どちらにしても、両者の心の声だっただろう。
DIOは、にやり、と笑った。今から殺される生き物が、頑張って何かを成し遂げて、ほっとしているのを見ている笑顔だ。
「承太郎。ルールは言ってあった筈だが?もう忘れたのか。…花京院、何を勝手にふらふらしている?お前は」
指をつきつける。指先がしなった。
「所詮、わたしの奴隷だ。それともわたしと出会った夜を、なかったことにしてくれとでも、頼むつもりか?」
「僕は」
鉛色の顔色で。今にも、床にくずれそうなその顔色で、花京院は懸命に言いかけた。しかし、
背後から、見えない殺意が襲い掛かってくる音に、その声はかきけされた。
「言いつけを守らない奴ばかりだな。…仕方ない。アイスは、あとで仕置くとしよう。…さて、どちらを選ぶ?」
手をひろげて、さあ、というようにつきつけた。
「あの虚無にのまれるのと、私に近づいてくるのと」
まだ、射程距離ではない。…DIOは、目を細めた。亜空の瘴気に追われて、あと…何歩か。こちらへ近づいたら―――
絶体絶命だ。
攻撃も出来ず、逃げるも引くもかなわない。
承太郎はDIOを見据え、花京院は多分すぐそこまできている亜空間の方を見た。
両者の目には、絶望はなかった。どんな苛烈な状況であろうと、何が何でも切り抜けて見せる、と両者の目が叫んでいる。
それを、少女はほんの短い時間の中で見遣ってから、
不意に走り出した。まっすぐに、ヴァニラ・アイスの来る方向へ。
「止まれ!やめ…」
花京院が叫んだが、遅かった。
少女はある地点で、突然、片腕と、体の三分の一程を、暗黒にちぎられ、飲み込まれた。
一瞬後、鮮血が宙に吹き出す。真っ赤な噴出の中を突き進んでくる丸い、白い、無の軌道を避けてから、
身構える。承太郎の拳と、星の白金の拳に、ぎゅうううううと力が乗った。
…今、私の門を通って、何かが通り過ぎていったと、自分が身を浸している虚無の中で感じた男は動きを止めた。
それは命と呼ばれるものの感触があった。…机や、椅子や壁と、それはどこか違う。喉を鳴らしてものを飲み込むように、命が通り過ぎる時は、何らかのパルスを感じるのだ。
どちらだろう。承太郎のものか。花京院か。どちらでもいい。どちらにしてもDIO様にとって、あってはならない存在だ。命令をきかなかった責めならいくらでも負う。
あのどちらかを屠れたことを、私は満足に思う。
そして、男はこの世界の空間に顔を出した。そこには、真正面から自分を、すさまじい形相でにらみつけている承太郎の顔があった。
男がこの世で最後に見たのはそれだった。
乱打、というにはあまりにも一撃に力が乗っている。巨人のハンマーのような一振りが、容赦なく叩き込まれる。頚椎が折れた音がした。頭蓋骨が砕け、どしゃ、と床に落ちた時には、男はすでに絶命していた。
花京院は少女の、残った片手を握り締めて耳元で叫んだ。
「しっかりしろ!」
少女は痙攣する瞼を懸命に押し上げ、そこに花京院の顔を認めると、唇を開いた。血と一緒に声がこぼれる。
「じょう、たろう、さまを、ここに」
「えっ」
「わたし、の、さいごの、ちから…」
ごぼごぼと血が溢れる。花京院が怒鳴った。
「承太郎、来てくれ。早く!」
承太郎はDIOを一回注視してから、駆け寄る。少女の手を掴む花京院の手を上から掴んだ。
DIOの顔に冷笑と苦笑が浮かんだ。
少女の体からあふれだした、透き通ったカーテンのようなものが、花京院と承太郎を掴むと、一瞬のち、三人の姿はそこから消えていた。
数秒のうちに、そこに生きて立っていた四人の人間が、死体になり、また消滅した空間をみやって、DIOはふと息をつき、
「非常口にでも、使う気でいたのだが、あの娘。予定外の事ばかり起こる。…まあそれも、退屈しのぎには、なるか。
次にまた還ってきた来た時には、どうするかな、花京院?…」
それだけ呟いて、ちらと外を見た。そろそろ、いまいましい彼の宿敵が東からやってくる時刻なのだ。

天地が回って、不意に床に投げ出される。ひどく膝を打って、歯をくいしばりながら、目を上げると、すぐ側に少女がぼろきれのようになって倒れていた。承太郎が今ゆっくり立ち上がって、室内を見渡している。
見慣れない、暗い一室だった。もう誰も使っていない、空家らしい。家具はあるが、手入れがされていず荒れているのがすぐに目につく。
「ここは」
「わたしの…いえです…」
細い、細い声がのぼってくる。花京院は膝をつき顔を寄せた。
「瞬間移動したのか?君の能力か」
「こころ、に、つよく…のこっ、ている、ばしょ…に、同じ、いろと、においと、かんしょくの、じょうけんが…そろうと…」
くちびるが歪んだ。
「ここ、で、りょうしん、と、あねが、DIOさま…DIOに、ころされ、たのです…」
承太郎が眉間を寄せる。しかし口は開かなかった。
少女の目から、涙が溢れた。
「ゆかじゅう、ちだらけでした。…まっかな、ちのにおいで、いっぱいのゆかに、かぞくが、たおれていて…」
自らの血と命で、その条件を揃えて、空間を跳んだ少女は、咳き込んで血を吐いたが、もうほとんど出なかった。
「よく、この、ちからで、かぞくで、でかけました。…ずっと、まえに、いちど、いった、ばしょ…きれいな、花のさいているばしょとか…みずうみの、ほとり、とか…
かぞくは、このちからを、ほめて、くれたんです。おまえが、いると、あちこち、いけて、べんりだって…」
それが、どれほど大きな喜びであるかは、花京院には真実よく、理解できた。それを表すために、幾度も、幾度もうなずいてやる。
「あねは…いつも…わたしを…しんぱいして…おせっかいやきで…でも…ほんとうに…やさしい」
苦痛が去り、代わりに虚無が、少女の顔を覆い始めた。花京院が怒鳴った。
「君!」
「DIOを…たおして…かぞくの…かたき…カキョーイン、さ、…」
ふっと、少女の顔が変わった。
造作がどうにかなったという訳ではない。どこがどう変わった訳でもないのだが、『別の人間』の顔になった。そして、それは、承太郎には見覚えのある顔だった。
「お前は」
「…結局、…心配したとおりに、なっちゃったわ。…ツイてない…」
苦笑する。
艶やかな化粧もなく、見た目はさえないメイドだが、確かにあの女の苦笑いだった。
「お前は、この娘の、姉か?…だが」
「妹が、心で、つくりだした、姉よ。…本物は、聞いたでしょ、親と一緒に、殺されたわ。…あたしは、この子を、守るために、生まれた人格…」
喉が鳴る。続いて血が口もとに上がってきたが、懸命におさえつけて、
「あいつに、ひどい仕打ちを、されたり、無理難題を、ふっかけられて、ぶたれる、時には、いつも、あたしが、代わってやったの。…でも、あたしが、いることは、この子は、知らない。…時々、あたしが、体を、支配することも」
女の目が笑った。
「この子を殴ってばかりいた、あいつを、倒してくれたのね。ありがとう」
女の手を、承太郎が強く掴んだ。
「済まん。…お前の頼みを、聞いてやれなかった」
低い低い声に込められた、心の底からの謝罪に、女は首を振ろうとしたが出来ず、
「この子が、あいつの前に、飛び出そうとした時、あたしは、やめさせようと、したの。でも、出られなかった。
この子の、あんたたちを、助けるんだって、気持ちが、あんまり強くて、ね。…だから、いいわ。…
この子は、最後に、DIOの、呪縛から、自力で、打ち勝ったの、よ。…あたしは、この子を、誇りに…」
女の目に幕がおりてくる。
「おい!」
意地にかけて、というように、女は微笑み続けながら、
「あんた…しゃくだけどね…ちょっと、………、ちょっとだけ………イカスわ………」
承太郎の手が更に強く、女の手を掴んだ。最後に、ほんの少し、握り返して、
「………」
何か言いかけたが言葉にならなかった。星の白金の聴力で、聴き取ろうとした時には、相手はもうこときれていた。

それから、どのくらいの間か、二人は、なきがらの両側に座って、じっとしていたが、やがて、承太郎が、ずっと掴んでいた手を、そっと体の脇に戻してやった。
今では、花京院の記憶とも、承太郎の記憶とも微妙に食い違う顔になって、娘は目を閉じていた。
ほんのすこし開いた唇から、血がこぼれている。
それを、指で拭ってやりながら、
「…傷の手当てをしてくれて、食べ物をくれたんだ。…逃げてくれと、言われた。…最初は敵の罠かと思って…」
花京院が低く擦れる声で呟いた。
「俺も、助けられた。妹を助けてくれと言われた。そのために助けたんだと、憎まれ口をきいた」
それぞれの表情を胸に蘇らせ、二人は更にまた黙った。
長い、沈黙の後、
「僕はこのひとに、いえなかった。最後まで言わなかったんだ。僕は」
引き絞るような声で、
「DIOに一度服従した人間だと。君が尊敬したり、自分のできないことをしていると感心したり、自分が身代りになって助けるような人間じゃないんだと」
両手で顔を覆う。
「僕は言えなかった。僕なんかよりも、このひとの方がはるかに、遥かに立派だ。このひとは命を投げ出してDIOに逆らったんだ。そんな、そんなことをするような相手では、僕は」
顔を覆ったままの手首を強く掴まれる。
「それ以上言うと、この娘を侮辱することになるぞ」
その声と、手の力は、花京院の口を止めた。
微かに震えているのは、激情を堪えているのか、あるいは泣いているのだろうか。
「この娘はお前を信じた。お前に託した。それを受けてやらなくて、どうする」
それからまた、長い長い時間が過ぎてから、花京院がうなずいたので、承太郎は手を放した。
「わかっている。…わかっているさ。僕は今度こそ、DIOの顔を真正面から見る。…」
手をはずした顔に涙はなかった。静かに、続けて、
「僕は今度こそ、DIOの輪からはずれて、DIOに対峙し、戦いを挑む者だと言える。このひとが態度で示してくれた」
窓はしめきっていたが、なんとなく、外で太陽が昇ったことが感じられた。今日という一日が始まったのだ。
花京院の頬に凄絶な、そして静かな影が射す。
「そのことを、今このひとに誓う」
今度は、承太郎がかすかにうなづいた。
なんとしてでも。
DIOは。
DIOは、倒す。その決意こそが、今ここでこときれた娘、自分たちの命をつなぐための橋になった娘への、何よりのいやたったひとつの弔いであることを、強く深く、胸に刻んでから。
ふと、このひとの名も知らなかった、と二人は思った。

[UP:2002/12/15]


完結です。
暗いですね。血だらけだし。
題は、身代わりになるものという意味です。つまりまあ、妹が花京院のそれとなって、自分の代わりに先を託す、という意味でした。姉にとっての妹もそうであったかな。

承太郎と花京院が弱くて悪いっす。でも今は最終決戦ではないということで。
ケニーGの能力ってこういうんじゃないだろう、というご意見の方ごみんなさい。ちょっと変えました。あと原作ではヴァニラ・アイスにぶったぎられた断面から血が出てなかった気もするけどそこんとこもひとつ許されて。

最初に考えた姉妹の話とは全く違う話になりました。その姉妹も出したいので別バージョンてことでそのうちやります。
あと、「なんかジョジョの時やたらと謝ってませんか」と言われたんですけど(笑)、ジョジョは他のジャンルに比べて原作と食い違うのは厳禁、という約束事があるのでした。いや、私がよくウソばっか書いてるのが悪いんですけど。


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