空が、柔らかな色になってきた。冬が去ってゆく時、空の青の一色を剥がしていったらしい。
甘く薄いヴェールを纏った四月の空を見上げてから、花京院はうっとり目を閉じた。暖かい陽射しが、閉じた瞼を透かして見える。
花の薫りがする。
そう思った時、彼の目が開かれた。
…今年も、彼は僕を待っていてくれるだろうか?
胸の中で言葉を綴ってから、少し先の電柱の前でこちらを見ている、抜きん出て背の高い姿に気づいて、花京院はにこりと笑った。
「おはよう、承太郎」
「なにを一人で、悦に入ってる」
低く男性的な声が微笑を含んでいる。赤くなりそうなのを慌ててごまかし、
「イヤだな、見ていたんですか?春になって気持ちがいいなあというだけです」
つい本当のことを言いそびれた。これ以上乙女チックなヤツだと思われるのはごめんだ。
本当は、承太郎に言うつもりだったのだ。今まで、誰にも言ったことはなかったし、言いたいと思った相手もいなかった。
承太郎は、初めて、あれを見せてもいいかなと思った相手だった。
「今日は午前だけだったな」
「そうだね」
さりげなく答えながら、言ってしまおうと思う。しかし、言葉を探しているうちに、
「全く、俺を荷物持ちに使う気ではりきってやがる。くそ」
「あ、ああ、ホリィさんのお買い物につきあうんでしたね、午後から」
承太郎ははっと思い出したふうの相手に、ふと怪訝そうに、
「何かあったのか」
「いいえ。何も」
あっさりかつきっぱりと答えられ、そうかと呟いて承太郎は視線を前に戻した。
そうだった。そう言っていたのだった。仕方ない、僕一人で行こう。それに、いくら盛りが短いとは言っても、一週間くらいはもつだろう。明日でも、明後日でも、承太郎をあれにひきあわせる機会はある。
なんなら、平日の昼間授業をさぼって行ってもいい、と彼には珍しいことをふと思いついた。そういうことは、彼なら慣れていそうだから、平気でうんと言ってくれるのではないか。
「承太郎」
「何だ」
「僕が、授業をフケましょうと言ったら、何て答えます」
ちょっと黙って、花京院の白いすました顔を一回見て、それからニヤリと笑い、
「フケましょうじゃなくて、フケようぜと言うもんだ、と言うんじゃねえか」
「で、フケるんですか?」
「なんだ。授業フケてどうかするのか」
「きみの返事次第です」
「そうか」
承太郎は首をかしげてから、あっさり、
「いいぜ」
それから、どうも、と微笑んだ相手に、
「で?どこに行って何をするんだ」
「その時に言います」
つーんとそっぽを向く。それを、驚いたような腹が立ったような顔で一瞬見てから、無言でごんと殴った。
「痛い。なにするんです」
「人をからかうな」
とは言っても、目の奥は苦笑している。…花京院がとても好きな、輝きのある、…翠色だ。
きれいだなとは思うが、やはり口に出して言う気はない。言ったら「あぶねーヤツ」と思われるだろうし。乙女チックもあぶねーのもイヤなのだ。では、何ならいいのかというと。
それは決まっている、天気屋でなく冷静沈着でいざという時頼りになる存在でありたいのだ。だが、そう努めているのだとは思われたくないのだ。あるがままの姿でそういう男なのだと思われたい訳で、全くもって大変だ。
ちぇっという顔で頭をさすりながら、目の前を行過ぎる何かの花びらを目で追って、改めてもう春だと思い、それから急に、
「あれからまだ、半年経っていないんだなあ」
エジプトの旅と、そこであった死闘のことを言っているのだろう。口にして、懐かしむような思い出はひとつもないが、それでいて不思議に懐かしい旅でもあった。
「何年経っても、あの旅のことを考える時は、同じかも知れないな」
何が、と尋ねると、
「『もう何年経ったのか』と『まだ何年しか経ってないのか』の両方ってことです」
「あの五十日だけが、日常の時間の流れから切り離されて独立してるんだろうぜ。ちょうど、あいつの能力みたいにな」
「きみは、時間を止められるんですか?今でも」
不意に問われて、相手の顔を見、ニ三秒たってから、
「多分な」
「ふうん」
奇妙な笑顔になった。
「時間を止めるのって、どんな感じです」
言ってから自分で首を振って、
「答えようのないことを聞いているな。時間を止めている間、何を考えているんですか」
「目の前にいるお前のズボンを下ろしてやろうとか、額に油性のペンで」
「ふざけないでくれないか」
「案外本気で言っている」
くく、と低く笑ってから、目つきがふと変わって、
「居心地は良くねえな。生物の居ていい場所じゃねえってことだけは確かだ」
一回息をついた相手の横顔をちらと見遣る。
きみの言うことは正しいのだろう。きみほどの強靭な精神と確固たる自己がなければ、時を止めるなどという大技には、そもそも人は堪えきれるものではないのだろう。
全ての人間が、人形劇のセットの中で人形のように止まっている風景を思い描いてみる。それだけで、背中を、夜のはじまりのような孤独がはいのぼってくる気分になる。
不意に、早く彼にあの風景を見せたいと思った。僕は弱い。とても、時など止める側にはなれない。それで結構だ。
「予約を入れたいんだが」
「何のだ」
不思議そうな相手に焦れる。それから焦れた自分を笑いながら、
「明日のきみ」
まだ疑問が残りながらも、ああ、と頷いた。相手の懸命さが伝わったのだろう。
よかった。では、よろしくと言って先に立って歩き出した背を少し、見てから、気がついた。そうか。本当だったら、今日なにかに誘う気だったのだ。だが俺に予定があったという訳だ。
ははあんという顔で黙っている相手をちらと見上げて、
「なんです」
「いや。…そろそろ桜が咲くな」
ごまかすつもりで何の気なしに言ったのだが、何故か花京院はひどく驚いた顔になった。
「なんだ?」
「いえ、別に」
そう言いながら、探るような目つきでこっちを見ている。同じような顔になって、相手の顔を見返す。並んで立ち止まった。
目つきが声になったような口調で、そろそろと、花京院が尋ねる。
「…なにか知ってるんですか」
「なにかって何だ。お前の秘密か」
その単語につい笑い出す。
「まあいいや。いいです。行こう」
「あんまり良くはねーな。気味の悪い野郎だ」
気味の悪いのはそっちだ、と花京院は胸の中で言った。
びっくりするじゃないか。今日は駄目でも明日…なんて思っていた矢先、そのものずばりだ。
そうだな。僕以外誰も知らないんだから、僕の秘密ということになる。きみに教えてあげようじゃないか。光栄に思って欲しいな。あんなに綺麗な秘密なら、きみだって守りたくなるだろう。誰にも教える気はないだろうし。明日になれば僕の気持ちが…
「花京院」
呼び止められて、足を止める。
え、と振り返ると、承太郎が校門の前に立っていて、笑いをこらえながら、
「学校通り越して、どこへ行くんだ」
「………」
顔がぼーと赤くなる。片手で顔を押さえて、無言で引き返し、そのまま、にやにやしてこっちを見下ろしている男の脇を通り、下駄箱の方へ歩いてゆく。
くそ。笑われてしまった。悔しい。
「おはよう、花京院君」
「おはよう、典明くん」
同じクラスの女子がいっせいに声をかけてくる。にこ、と必殺スマイルで応じて、
「おはよう」
さわやかに返しているのを、承太郎はまだにやにやしながら見ている。その視線はもちろん感じているのだが、花京院は無理やり無視した。
放課後の鐘が鳴る中、まだ椅子に座ったままの花京院の後ろを通りながら、
「じゃあな。明日」
あした、ではなくあす、と言った。意味もなく、それがいいなと思いながら、
「はい。ではまた」
なんだかおかしなご挨拶になった。相手は苦笑して教室を出て行った。
さて、どうしよう、と一回思ったが、すぐに心は決まった。やはり行こう。
明日、自信を持って彼を招待するためにも。彼の感嘆を、優越感をもってながめるためにも。
かばんを手に、ゆっくりと歩く。四月の、少し冷たく、柔らかくあたたかい温度の風を受けて、家とは反対方向へ向かう。途中から道路脇の土手を上がっていった。そこから草ぼーぼー状態の叢なのだが…素早く左右を見渡すと、それを掻き分け、分け入った。覆い被さってくる枝葉をおさえつけ、隙間をつくり、自分の体を通す。中腰なのは、顔の位置にやけにくもの巣がはってあるからだ。
…彼は果たして明日、ここを通れるだろうか、とふと不安になる。今まで一度も考えてみなかったが。中腰の姿勢で首をひねり、まあなんとかしてもらうしかない、と結論付けて先へ進む。
突然藪が切れた。
そして、ゆっくりと腰を伸ばした彼の前に、ヒミツの空間があった。単に河原の一部に出るというだけなのだが、藪に囲まれ道がないため人が来ない場所なのだった。そこに、一本の桜の巨木が立っていた。
思わずにっこり笑う。風が吹いて、彼の前髪を流した。
幻のようだ。桜いろの雲のようだ。桜色の幻灯だ。どこまでも優雅で艶やかで…泣けるくらい潔く清廉だ。
去年と寸分違わない姿だ。今盛りの花を腕いっぱいに抱えて、花京院を迎えてくれている。ひとつの花びらさえも散っていない、と確信できる。ひとつの花さえも咲き残していないとわかる。この桜は、僕を待っていてくれたのだ、とはっきりわかった。
「ありがとう」
思わずつぶやき、それからため息をつく。
「一年ぶりだ。相変わらずなんて綺麗なんだろう?この世で一番だと言えるくらいだ」
しみじみと感嘆し、暫く、立ち尽くしてその美しさのただなかに浸る。
それから、木の根元にかばんをたてかけると、中ほどの枝までのぼり、背を幹にもたせかけ、見上げる。桜色の屋根の隙間から、やわらかな空色が見える。
はじめてこの木に出会ったのはいつだったか。…いつであったにしろ、その時にはもう花京院には法皇がいたし、自分が周りとは違う人間なのだとわかっていた。
この木は、花京院が何者であるかとは無関係に、ただ美しかった。花京院が一人ぼっちだろうと、誰にも心を明かさないで生きていようと、そんなことは気にもとめず、惜しげもなく咲き誇るその姿を彼にだけ見せてくれた。一年に一週間だけ。
―――この木と出逢ったのは偶然であった筈だが…まさか、生まれて初めて出会ったスタンド使いの仲間の通う高校がすぐ側にあったというのは、偶然なのだろうか?
ふと、そんなことを思っている自分に気づく。
それこそ乙女チックだ。なんだ?桜がめぐり合わせてくれた運命とでも言う気か。笑わせる。
僕を彼にめぐり合わせてくれたのは、あのおぞましい最強最悪の吸血鬼じゃないか。
…それに、最強じゃないだろう。どこが最強だ。
自分で言ったことに自分でつっこみをいれたり補正をかけたりしている。馬鹿馬鹿しい。
苦笑いして、目を閉じる。静かな甘い風に揺らされているうち、いつしか、まどろんでいた。
ふと、
彼の感覚のどこか、スタンドと呼ばれる才能を持つ人間の、危険に対するひときわ鋭敏なレーダーが異変を告げ、はっと目を開けた。しかし、
数秒も経たずに、ぶっつりと意識が断ち切られた。桜色の嵐に巻かれたというのが最後の記憶だった。
[UP:2002/2/27]
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