山のような荷物を抱えて、自宅に帰り着いたのは、随分遅くなってからだった。さっそく箱を開けて、この服似合うかしらとやっている母親を後にして、承太郎は自室に引き上げた。
今夜は、四月とは思えない暖かさだ。心なしか、夜風が妖気をはらんでいるようにさえ思える。
窓を開けるとやけに官能的な匂いがしのびこんできた。何の匂いだろう?
桜の匂いではないなと思う。それからふと、
あいつが授業をさぼってでもなんて、珍しいことだ、そうまでしてどこへ連れて行こうというのだろう?
本当なら今日にでも行きたかったようだが。
なんとなく気になって、廊下へ出る。電話のところへ足を運ぶ。だがかける気はない、相手が出ても、何にも話すことはないのだし。
台所で、ホリィが、ほらほらイギーちゃん、ゴハンよ。こんなに遅くなってごめんなさいね、と言っている声が聞こえる。その後にお愛想のクンクンという鳴き声。やけに女にはしおらしい奴であった。
じじいめ、あのクソ犬さっさと連れて行け、と胸の中で毒づいた時、目の前の電話が鳴った。出ると花京院の母親だった。
―――典明がまだ帰っていないのだが、行き先に心当たりはないか。
そういった内容だった。探してみる、と答えて電話を切り、考え込む。
ああは言ったが、承太郎には、花京院がこの時間家に帰らず行っているかも知れない場所の心当たりなどなにもなかった。考えてみなくても、承太郎は花京院の何を知っている訳でもないのだ。生まれついてのスタンド使いであるということ、ちょっとヘンな奴であること、…さくらんぼが好きだということ。そんなものであろう。まさかこんな夜中にさくらんぼ狩りに行った訳はないだろう、季節でもないし…とバカらしい考えを途中まで推し進めて、
もしや、
俺を連れて行こうとした場所か?
唐突にそう思ったが、もしそうだとしても、もちろんそれがどこなのか承太郎は知らない。彼にわかるのは、最後に花京院と別れたのが教室だということだけだ。
遠隔探査をしようにもそれはあいつの能力だし…舌打ちしかけて、顔を上げた。台所に走る。
駆けてくる足音に、何事かと二人は、いや一人と一匹は顔を向けた。
そうしながら、一匹の方は、既にいやあな予感が脳裏をよぎった。この足音の主が全力で自分に向かってくる時はいつも、ろくなことがなかった。おそらく今回も…
どん、と音を立てて床を踏む素足が、きゅっと彼の方を向くと、次の瞬間には彼は宙に持ち上げられていた。
「悪いが、食事は後にして、つきあってもらうぜ、イギー」
ほらみろ。大当りだ。
うんざりした顔をして、犬はため息をつくと、名残惜しそうに食事の皿と、びっくりして見上げているホリィを見比べた。
夜の学校は、森閑と静まり返っている。
真っ暗な教室の、花京院の席の前に、イギーを立たせる。
「あいつの匂いを追ってくれ。朝、ここに来た時のものとの区別は、お前ならつくんだろう」
バカにするなというように唸ると、イギーは鼻をくんくんさせ、それから小走りに進み出した。廊下に出て、下駄箱まで来る。まっすぐ、校門を出た。
そこから、いつもとは反対の方向へ進みだした。
河の方へ、どんどん進んでゆく。藪の中に押し入っていかれた時は、間違ってるんじゃねえのか、と言いそうになったが、他に手がかりもない。いちいち星の白金であたりをハゲにする訳にもいかず、数時間前、花京院が心配したように、さんざん手こずってあちこち傷だらけになりながら進んでいった。
藪がきれ、ずぼっと空間に出た。あちこちにへばりついた葉や枝を払っている承太郎に、イギーが鋭く吼えた。声の指す方を見る。
そこには、見事としか言いようのない、一本の桜の木があった。夜を、柔らかにやわらかに包み込みながら、忍びやかに桜色の妖気を流している。魔物が、仮の宿を求めそうな雰囲気だ。
その幹の根元に、学生かばんが置いてある。落ちているのではなく、立てかけた、という風だ。
ゆっくり、それに近づいて、手にとり、花京院のものであろうと確認してから、視線を上にあげる。
中ほどの枝から、誰かの腕と足が、だらりと垂れている。手首までを包んでいるのが、学生服と金のボタンであること、靴が見覚えのあるもの、つい今朝方も見たものであることを確認した。したがって、あれは十中八九、花京院だ。だが。
イギーが低くうなった。
「わかってる。お前が言いたいことは、俺も感じてる」
言葉でそう言った時だった。
一筋の光が、一番低い枝の上に降った。それは人の姿になり、ゆっくりと降りてきた。
白い上衣、緋色の袴、髪は長く黒い。古風ないでたちだが、性別がわからない。非常に整ってはいるが、特徴のない顔だちだ。一番近いイメージで、お雛様の三人官女といった感じか。
一歩だけ下がって、すぐにあっと思う。
降りてきたその腕には、ぐったりと目を閉じている花京院の姿があった。
とっさに、さっき見た枝をもう一度見る。やはり、そこには変わらずに、力なく投げ出された腕と、足が見えた。
混乱しながらそれを表に表さない承太郎の顔を、相手は何の感情も見せずながめていたが、やがて唐突に、
おまえはだれだ
人の声ではないとすぐに思った。人間が発声器官を使って出した声ではない。
承太郎は低く言った。
「手前こそ何者だ。花京院をどうした」
かきょーいん
相手は数秒黙ってから、
のりあきのことか。おまえはのりあきをしっているのか
「どうした、と聞いているんだ。答えろ」
声にドスが加わった。
相手はそのドスを優雅に無視して、腕の中の花京院に視線を落とすと、
のりあきはわたしをあいしてくれた。わたしものりあきとはなれたくないとおもった。だからはなれないことにした。えいえんに
「なに?」
言葉の意味がわからなくて言うのが半分、バカなことを言うなという非難が半分の調子だった。
のりあきはわたしとひとつになる。はながちってもふゆがきてもひゃくねんたってもずっといっしょだ
こいつは桜の精だ、とイギーは察知した。
人には見えないものでも、犬や猫や赤ん坊には見えるものがある。イギーも、その年最初の北風に乗ってやってきた冬の精や、クリスマスに賛美歌を聖歌隊と共に歌う沢山の精霊を見たことがあった。
「どういう勘違い野郎だ?…ともかく、あそこに寝てるのは花京院なんだろうが…」
相手は承太郎を見もせず、
あれはのりあきがにんげんだったときのいれものだ
そして、にこりと笑った。口の端だけを上げた、一種異様な笑顔だった。
黙って相手の様子を見ていた承太郎は、木に近づくと、枝に手をかけた。
なにをする
感情のない問いに、
「あそこでぐーすか寝てやがる奴を起こす。俺には何がなんだかわからねえが、とにかくあいつをひっぱたいて起こして連れて行く。それでいい」
そんなことをさせないために
声に、ぐいと色がついた。意志が初めて、この時声に色をつけた。
わたしはすがたをみせたのだ
身構える暇もなく、疾風が承太郎の体をわしづかみにして、地面に叩きつけた。
ふらつく頭に手をやって、強く振る。
「畜生。手前は頼りない幽霊みたいな姿のくせに、やけに力がある」
だから、桜の精だよ、とイギーは吼えた。伝わりはしないし、伝わってもどうしようもないが。
あきらめてかえれ、げひんなにんげんのせかいへ
声が優しげで親切だ。嘲っているのだろう。
「花京院を返すならいつでも大人しく帰る」
それはできない
腕の中の花京院が小さくうめいたのを見て、承太郎はあっと思い、イギーは一瞬吼えるのをやめ、再び承太郎に向かって吼えた。
急げよ馬鹿。あれは花京院の魂みたいなもんだ。あれが目を覚ましたらもう体には戻れなくなる。つまり、
死んじまうってことなんだぞ。
そうやって桜に魅入られて死んだ人間は、イギーは見たことがなかったが、話には聞いたことがある。桜は、波長の合うキレイな寂しい魂が好きなんだ。そうやって、時々、自分の中に連れて行ってしまうらしいよ。
花京院がキレイかどうか俺は知らないが…
イギーの声に急かされたように、承太郎が前に出ようとした。と、疾風が再度襲い掛かってきたが、
ぃぃぃぃーーーーんという、特殊な能力者にしか聞こえない高い波長の音がして、ふと消えた瞬間、宙に出現した星の白金が、思い切り地面を蹴った。同時に承太郎の体が、何かに引き上げられたようにとーんと上へ移動した。
枝に足をかけ、花京院の寝ている側へ行こうとしたその時、何か鋭利な物質が、幹にかけた手に突き刺さって、激痛に顔をしかめる。反射的にもう片方の手で痛みの箇所をおさえようとしたところへ、同じ衝撃と痛みがはしった。
「あ、つ」
第三弾は星の白金が掴んだ。見ると桜の枝を細く鋭利に尖らせたものだった。
両手から鮮血が噴き出る。自分の血で服を汚しながら下を見ると、桜の精が無数の桜の矢を宙に浮かべ、その中でじっと承太郎を見つめている。目に陰々たる光が宿っている。
おまえのむくろは、わたしたちのあしもとにうめてやる
「わたしたちだと?」
わたしと、のりあきの、だ
風が相手の声を運んできた。それが側まできた時、承太郎は叫んだ。
「冗談じゃねえぞ」
怒りのあまりか、両手の傷から新たな血がふきだした。そのしずくが自分の方へ降って来るのを、避けて、
…つくづく、きたならしいいきものだ
目をすうと細める。宙に浮かんでいた矢がいっせいに承太郎めがけて切先を向けて、止まり、
一拍のち枝は嵐のように承太郎にむかって襲い掛かってきた。
星の白金は絶叫と共に、目にもとまらない速度で連打を打ち出す。枝はつぎつぎに撃ち落とされ、木の根元をうずめた。
しかしどんなに撃ち落としても、桜の矢は尽きることなく次々と生み出されてくる。そして、速度がどんどん増してくる。
こめかみに冷たい汗がにじんだ。と、一本を弾きそこない、それを頬に受ける。
「う」
痛みでタイミングがずれ、二本、上腕と腿に刺さる。ここで立て直さなければと思ったところに、大量の枝が一本によられて、槍のようになって襲い掛かってきた。
しね
その声とほぼ同時に、槍と承太郎の間に何かが割って入った。
何か、は槍の速度と威力を削ぎ、動きを止め、地面に落とし、風に乗ってばぁっと広がった。
なんだ、これは…すな?
目を動かす。白黒まだらの犬が四肢をふんばって吼えているのを見て、
おまえもきみょうなちからをもっていたのか?
ふと見ると承太郎は花京院の傍らにたどりついていた。
安らかな寝顔が、ほとんど呼吸をしていないのを見てから、承太郎は無言のまま思い切りビンタをくらわせた。
「…つ」
花京院がじわじわと眉を寄せる。それにつれて、桜の精の腕に抱かれていた花京院の方が、すぅと薄くなって消えてゆく。
それを、泣いたり悲しんだりといったふうでもなく見送っている桜の精を、イギーは油断なく見つめている。
腕の中の花京院が完全に消えた時、突然承太郎の方をふりあおいだ。
突然花京院が寝ていた枝が振動をはじめ、自ら火を吹いた。火は意志があるように花京院の服をなめた。
いれもののほうをやいてやる
その声が耳に入った時、承太郎は素早く自分の学ランを脱ぐと、それで火を消そうとしたが、消えない。と、
何する気だ?とイギーが目を丸くする中、学ランで花京院の体をくるむと、
「オラァ!」
星の白金が枝を渾身の力で蹴った。承太郎は花京院をかかえたまま、夜空に弧を描き、河までふっとんでいって、着水した。水柱が…上がるほど深くはないので、多分、痛かったろうな、とイギーは思った。
突然突風が吹いた。あまりに激しい風に目も開けていられない。イギーは小さくなって必死で地面にしがみつき、河の中で身を起こした承太郎は花京院をかばいながら水をのみ、咳き込み、懸命に顔をそむけた。
目も耳も役に立たない風の中で、誰かの、悲痛な叫びが聞こえたような気がしたが、確かめることも、何か言い返すこともできない。
やがて、ふと気づくと、風は去っていた。
承太郎は花京院をかかえて、ざばざばとマヌケな音を立てながら河から上がってきて、驚いた。
あたり一面、桜の花びらでうずまっている。その中で、イギーが顔を出したのが見えた。
さっき叩き落した枝が全部花びらになったのだろうか。これだけ花びらが落ちているのに、桜はなお満開だった。
よろよろと桜の根元まで来て、座り込んだ。濡れた体は桜の花びらだらけになった。ふかぶかと息をついて、やっと人心地つく。イギーも、へなへなと顔を下ろした。
…どうやら、あきらめてくれたみたいだな。
その時、腕の中の花京院が身じろぎして、目を開けた。
その気配に承太郎が気づいて顔を向けると、
「承太郎?何をしてるんです」
寝ぼけた声にがくんとなる。
「太平な野郎だ」
苦笑いする、端整な男らしい顔を見ながら、花京院は思った。
これは多分、夢だな。
なにしろ体に力が入らない。半分魂が抜けかかったせいかも知れないが、そんなことは花京院の知るところではなかった。
一面の花びらから、うっすらとした桜色の灯がたちのぼって、人工の灯りの全くないこの空間を、静かに浮かび上がらせる。
その、まさしく夢のような世界の中、承太郎の声がした。
「ここか?お前が俺を連れてこようとしたのは」
「ええ。綺麗な桜でしょう?この世で一番と言えるくらい」
この言葉を、桜は聞いているのかな、とイギーは思った。
「だからね、きみにも見せてあげようと思ったんです」
「そうか。堪能したぜ」
全くだ、と犬はぼやいた。イギーがぐったりうずまると、ほとんど見えなくなってしまう。
しばらくして、承太郎が尋ねた。
「お前、人間やめて桜になりたいと思うか」
返事が少しの間ないのは、どうしようと考えているわけではないらしい。息をついてから少しだけ笑って、
「前はそうだったこともありましたね。超然として、千年、ただ春を楽しむだけの存在にね。なれたらいいなと。…
でも今は違う」
「なぜだ」
腕の中で、うふふふと気味悪く笑って、
「桜色も綺麗ですがね。…きみの目の翠の方が綺麗だからなんて…ははは。あはははは。夢だから言ってみただけです。気にしないで」
夢じゃないって。
イギーはつっこんだが聞こえないらしい。しばらく、あははむにゃむにゃ、何言ってんだか。実際言ったら殴られる…むにむに。とか何とか言っていたが、やがて寝てしまった。
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