「あれ、お客さんかな?」
呑気な声で言った時には、ソファの上にひっくり返っていたもうひとりの男が、のそりと立ち上がった。
そう広くもない部屋にはこの二人しかいない。ごくありふれた、窓にカーテン、ソファ、背の低いテーブル、というだけの部屋だ。だが、テーブルの上でさっきから男がいじっているものを見ると、どうやら時限爆弾のようだ。そこだけ、やたらとありふれていない。しかし。
立ち上がった男はソファの背にかけてあった自分のジャケットを取って、肩にひっかけた。その下のヒップホルスターに、やたらごっつい銃がささっている。どうやら、この手のものが日常の風景、コーヒーカップや車のキーの隣りに転がっている連中らしい。
見てくる、とも言わないでドアに向かう男に、
「美人だったらお通しして。野郎だったら殺していいから」
へらへらとした調子で言って、そっちを振り向きもしない。だが、
「ブスだったらどうするんだ」
そう尋ねられて、うーんとうなるが、相変わらず手は止めずに、
「そもそもお前と俺の審美眼には差があるからな」
「どういう意味だ」
「お前はマニアックだってこと。まあいいや、お前から見て美人だったら通して、それ以外は…追っ払ってくれ」
「俺がマニアックだって?お前の間口が広すぎるだけだろう」
低い、低い声でそう言って、出ていった。
捕まえに来たのか。
殺しに来たのか。
どちらだろう、と思いながら男は無造作ポケットに手を突っ込んだまま廊下を進んでいった。たった今、突き当たりに現れた誰かに銃を向けられても、その銃口が火を吹くより先に、腰の銃の弾を相手のどてっ腹にくらわせる自信があった。
自信じゃなくて、過去の実績だな。
胸で呟いた直後、口の端にくわえたPall Mallがちょっと跳ね上がった。廊下の突き当たりを右に折れた、その先にあるドアが、外からノックされたからだ。
「………」
捕まえに来たのか殺しに来たのか知らないが、ノックとは。
御在宅なら殺させていただきたいのですが、とでも言うのか?
新手の作戦なんだろうかと思いながら、男は廊下を折れ、ドアの前に立った。
スコープから外を見る、誰も居ないだろうと思う予想を裏切って、魚眼レンズで間抜けに引き伸ばされた顔がそこにあった。
まさか、本当にここがどこだか知らないで、宗教の勧誘にでも来たんだろうか?
男はどうしたもんだろうと思ったが、結局普通の人間がするように、ドアを開けて、
「なんだ」
そう尋ねた。右手は既に銃把にかかっていたが。
そこには、魚眼レンズでひきのばされていない顔の、女が立っていて、
「突然お邪魔します。ここはルパンさんの御宅でよろしいですか」
やたら落ち着いた声、きれいな発音。栗色の髪を後ろでひっつめ、色の褪せたサファリジャケットを着ている。白人。歳は25前後。目の色は深い鳶色。
その顔をまじまじと眺める、背の高い、顎鬚を生やした黒ずくめの男の目が、目深に被った帽子のつばの下に覗いているのを見返して、
「ルパンさんが御在宅なら、会って下さるようとりついでいただけませんか?」
「まあ、俺の審美眼がどうとか言ってたが」
男は口の端の煙草を再びちょっと上げた。
「はい?」
「お前さんなら、多分、追っ払わなくていい方の部類だろう」
入りな、と仕種で示され、女はほっとした顔になった。
「ありがとうございます。あの、私は決して危害を加えようとは…」
「中の奴に直接言いな」
どんな目的で、この女がここに来たのかは知らない。あるいはこんなやり方で入り込んで来て、中の男を殺そうと思っているのかも知れない。思い当たる理由は、あの男には星の数程あるだろう。
しかし、『もしかしたらこいつは自分を殺すつもりなのかも知れない』という事は、あの男にとってはほとんど、意味のないことだ。『私はアリゾナ州の出身です』と言っているのとほぼ似たような程度のことだ。
あの男にとっては…美人か、そうでないか。その事より重大な意味はない。敵意や殺意の有無さえも、単なる履歴書の一行なのだ。
この男から見ても、美人に入れていいと思える女を追い返したとあっては、多分後で大騒ぎするだろう。
ま、俺がせいぜい気を入れて、この女の動向を見ているしかねえだろうな。
いつものことなので、面倒なのは面倒なのだがややそれにも慣れてしまった調子で、帽子の男は胸で呟いた。
ドアを開ける。こちらを見ないで、
「お客さんは誰だった?」
「美人、かな」
どうだろう?というように相手を見る。相手は困惑した顔で見返す。
「え、なに?まさか、ホントに?」
笑いながら男はやっと振り返った。ドアの所に見知らぬ女が一人、その後ろに見慣れた相棒の姿。
ほおぉ、なかなか。何だお前もやっと見る目が出来たな、とヨタを言いながら立ち上がってこちらに寄って来た男に、はじめまして、お願いがあって参りましたと言って頭を下げた。
「こちらこそ。こりゃまた可愛らしいトレジャーハンターさんだ。さぁさぁ、こっちへ」
よく回る口だ。促され、示されたソファへ向かいながら、この男の笑顔は不思議だと、女は思った。
決して心の中全部など見せてはいない。しかし、『わざと気さくに陽気に見せかけている』というのでもない。
その後もなにやかにやと言いながら女の手を取り、気取った仕草でソファにかけさせ、楽にして、と言いながら向かいに座り、男に『キミ。この方にお茶を差し上げて』などと言い、『バカ』と言い返されたりとさんざんふざけた後で。
「さてと」
頭の後ろで組んでいた手をほどき、膝の上で組むと、黒いシャツと黒いズボン、そして明るい黄のネクタイといういでたちの男はちょっと首を傾げて、
「それにしても、よくここをつきとめたね、お嬢さん。まがりなりにも世界中の警察が探している場所だ。君ひとりでICPOさえも出し抜いたことになるんだけど、何かコメントは?」
「職業柄、ここがくさいと思う場所を探すのは、慣れているので」
相変わらず、ちょっと聞くと男性的と言えそうな、低くしっかりした声だ。しかし、男が使った三人称を聞くまでもなく、れっきとした女性だ。たとえ太ももにコンバットナイフが装着され、両腰に小型の拳銃が二丁下がっていても、Tシャツの胸は充分すぎるほど豊かに張り出している。
男はおかしそうに相手の顔を見ていたが、やがて机の上に置かれた、相手の提示した証明書等の入ったファイルを取って、中を眺めた。
「レイラ・クロフト、遺跡発掘のエキスパート。なるほど。
クロフォード家という、名門の旧家が、エジンバラにあるけど、あれとは?」
知っていたかという顔をしてから、
「もとはあの家に住んでいた人間です」
「今は?」
「もう縁は切れました。というか私が切ったのだけれど。あの家の財産は、私の意にはなりません。もしあてにしていたら、諦めて下さい」
「あてにはしていないけど、興味はあるな。どういう事情で、クロフォード家の元・次女が、単身泥棒のアジトへ乗り込んで頼み事をするのか。まずは、どんな頼み事かを、説明してくれるかな?」
よく光る、獣のような目で、にやにや自分を見ている年上の男、
その世界では知らない者のいない超一流の泥棒、本当かウソか知らないがルパン家の三代目と名乗る男、の顔をレイラはじっと見返していたが、やがてひとつ頷くと、口を開いた。
「私が頼みたいのは護衛です。目的地はマヤ文明後期の遺跡、チチェン・イツァという名前の。そこに無事私を到着させて欲しいの」
「何から護衛して欲しいのか、どうやら知っているみたいだけど?」
「知ってるわ。ナトラ・テクノロジーの雇う殺し屋連中からです」
「へえ。あの最新鋭の爆撃機から、前世紀の偉人のクローンまで手がけるって企業か」
今では彼女の座っているソファの背後に立っている、帽子の男が口をはさんだ。次元大介と名乗っていた(が、ルパン三世にはそういう名の相棒がいて、銃の名手だということは、彼女は知っていた)。そちらを振り返って、
「そうです。今は、莫大な力の源を手に入れたくて躍起になっているわ」
「莫大な?」
「力の源?」
二人が問う。
「正確には、力への鍵らしいけれど。これがそうです」
普段は背中に担いでいるのだろう。今は膝の上に乗せているバックパックから、腕輪くらいの大きさの緑色のものを出した。
「へえ。ちょっと見せてくれる?」
「どうぞ」
あっさり言って、無造作に手渡す。受け取ってしげしげと眺める三世の後ろに回って、肩越しに次元も覗き込んだ。
実際、輪だったが、見た目より結構重い。腕につけるアクセサリーには向かない。なんとなく勾玉を思わせる。あるいは赤ん坊のガラガラか。
よく見ると、所々で組み合わさっている。一度バラバラだったようだ。
三世の手つきでわかったのか、レイラは頷いて、
「数箇所の遺跡にばらばらになっていたのを、私が見つけ出して組み合わせたの。多分、それで完成だと思いますけど」
「勿論、あんたはそいつらに渡す気はないんだろ?」
「あったら、とっくに渡してます」
レイラの目が冷たく光った。三世は笑って、
「これを完成させるまでに、相当やり合ったみたいだな」
「ええ、まあ」
「その企業サンとのいきさつはあとで聞かせてもらう。で、あんたが莫大な力とやらを手に入れようとしてるのか?」
レイラはちょっと眉をしかめた。下品なことを、と言うような表情に、どことなく『それなりの家の出』の匂いが残っている。
「私はそんなものに興味はありません。ただ、それがあるべき場所に還したいだけです」
相手の使った単語に、ん?という顔になる。還す?
輪にはいくつかの文字が切れ切れに刻まれている。目を細めて、
「ナクシット…シュチュット氏とか仰る方の持ち物だったの?」
読めるのか、という顔をちらとしてから、頷く。
「十世紀に栄えたイツァ家の王よ。彼らがユカタン半島北部の低地に建造した街がチチェン・イツァの遺跡です。裏に、羽の生えた蛇が書いてあるでしょう?」
「ああこれ。ケツァルなんとか。だっけ。水の守り神だな」
レイラはそうですと声を弾ませた。相手が知っていたのが嬉しいらしい。
「イツァは特にその神を信仰していました。チチェン・イツァにはカスティーリョという建造物があるのですが、別名をククルカンのピラミッドというの。ククルカンとはその羽の生えた蛇のことを指すケツァルコアトルの別名です。そこに、我をおさめよって、」
「ははぁ、書いてあるね。そこに、還しに、いくってわけだ。なんか、隣の家のおねえちゃんから借りたアクセサリーを返すって感じなんだけどね」
茶々を入れてから、
「でもそぉすっと、結局、力とやらが手に入っちゃうんじゃないの?」
「とにかく私はそんなものは欲しくないので。還しにきただけだって、そう言います」
「言いますっていっても」
三世は笑い出した。レイラはキッとした顔で、
「少なくとも、ナトラがこれを使うのだけは阻止したいんです」
「まあ、あのカイシャは、力をくれるって言うんなら大喜びでもらうだろうからな」
喋りながら輪をいじり続けているが、
「これって、壊されたんじゃなくて最初ッから三つに分かれるように作られてるね。なんでだろう?やっぱ、安全のためかな?」
「そうですね。さっき私が言った、『莫大な力の源』を、そう簡単に手に入れられないように、という安全装置だとは思うのだけれど」
三世はふんふんと言って口の端で笑った。
「んなもったいつけてる力とやらって、どのくらいのモノなんだろうね」
「イツァの都が滅びた後、キチェという王国にこの輪は受け継がれたようです。征服のために来たスペインの軍に対して、使ったらしいという記録があるのですが」
声に暗い緊張が感じられて、三世と次元がレイラの顔を注視した。
「逆にそれが原因で、マヤ側は大半の民が滅亡したらしいんです。同時にスペイン軍も、随分な数の兵を失ったらしいけれど」
「なんだ、手前らの手先に使おうとした輪っかに、手前らが滅ぼされたってか?」
「両刃の剣ってやつだね。要するに制御が難しいんだろ。いったんレバーを握っちゃった消火器は、アワを出しきるまで止まらないからね」
くるりと指で輪をなぞってから、
「ところでそのナトラの連中は、制御方法は見つけたんだろうか。知ってる?」
「そこまではわかりません。制御できる確信があって輪を欲しがっているのか、そんなこと知りもしないで闇雲に欲しがっているのか」
「なんか、どっちかっていうと、後者のような気がするね」
三世が軽薄に笑った。
「手にさえ入れちまえばなんとかなると思ってんじゃないの。馬鹿だね。最初にコヤシにされるのが手前らかも知れないのに。…かと言って、コヤシ第二号になるのは俺たちも御免だけど」
ネクタイの端で輪を磨くと、それは美しい緑青の光を放つ。まるで深い山の中に湧く湖のような緑だ。
その碧色の輝きを静かに見つめているレイラの顔を、いつの間にか三世がしげしげと眺めていた。気づいて、レイラは何だというように見返す。
にこりとして、
「今までずうっと、君の話をまともに受け取ってる口調で喋って来たけどね。まあ、フツーに考えれば小説やおとぎばなしみたいだよね?翡翠の輪を遺跡の祭壇に収めると莫大な力が手に入る、それはスペイン軍をも滅ぼした程の、なんてさ?
そりゃ君も認めるだろ?」
「認めるわ」
カッとなって怒るかと思いきや、存外冷静にうなずいた相手に、
「何より、君はあんまり妖精さんとお話するタイプの人間には見えないし」
はははと笑って、
「その君がどうしてこの輪っかの力を信じてるのか、つまりはどうやってかかわりを持ったのか、教えてくれない?
あと、『還す』ってどういう意味なのかね」
息をつく。長い息だったが、ため息ではなかった。
「それは、始めの頃あなたが私に聞いたことと、関連してくるのだけれど」
ちょっと考えてから、
「なんでまたクロフォード家の次女がって、あれ?」
「ええ」
快晴だった。雲一つない、青空のサンプルとして使えそうな輝きを、その日の空は放っていた。さながら、来年のバレンタインデーで十八歳になる、クロフォード家の次女の前途を象徴しているかのように。
「社交界にデビューしてからでは、とてもこんな我儘は通らないわ。最後の気儘を、思う存分満喫していらっしゃい」
そう言って微笑んだ母に、不服げに娘は抗議する。
「考古学は、ずっと続けてゆくわ。一時的な興味とは違うのよ」
しかし、母親はごく上品に眉をひそめ、声を出さずに笑っただけだった。『鼻であしらう』という慣用句を、上流の家柄のやり方で表現してみせたらしい。
「本当だったら。私はねお母さま、」
「はいはい、わかりました。早くなさい、あなたの大切な古代のお友だちが待っているのでしょう?」
優しげに笑う。しかし本気では言っていない。奥深い所に厳として在る、レイラの夢への軽侮は、ずっと昔からレイラが見続けてきたものだ。
アンコールワットやボロブドゥールなどの古代遺蹟、ことさらマヤの遺跡群に降り立つのは、いつからかとっさには思い出せないほど昔からの、レイラの憧れだった。土と石と風でつみあげられた誇り高い姿の写真を、飽きることなく見つめ続けている娘のことを、しかし両親も兄弟も変わり者扱いして笑った。
レイラったら、オークションでハリウッドスターの宝石でも競り落としてくるのかと思ったら、石盤に土器ですって。おかしいわね。
ははは、レイラが競り落とす宝石なんていったら、墓からでも発見された呪いのかかった黄金の首飾りが責の山だろうよ。
マヤには金は出ないのよ。翡翠だけです。
杓子定規に訂正する娘に、父と姉は顔を見合わせて笑った。
そんな会話を側で聞いていた母は、やはり今と同じように穏やかで上品な中に、ごくごく僅かな(上品さを失わない程度の)侮蔑を込めたまなざしを投げて、
レイラ。あまり、ひとさまの噂に立つようなお買い物は、ひかえて頂戴ね。
下唇を突き出しそうになって、堪える。そんなことをしたら、余計に咎め立てされる材料が増える。
今、冷笑とも慈しみともつかない微笑をたたえた母親の顔を見返して、
結局、私はこの夢を明け渡すしかないのかも知れない。所詮世間知らずのお嬢様の、風変わりな趣味なんて、この社会で認められるためには、諦めざるを得ないのかも知れない。
なら、これは私の、最初で最後の旅になるんだわ。
そんなふうに感傷的に思ってみてから、
冗談じゃない。私は諦めないわ。いつか古代の人々の声が聞こえるようになるまで、決して諦めるものですか。
強く強く思ってみる。しかし、どちらの心の声に従うべきなのかは、その時のレイラにはわからなかった。
彼女を乗せた飛行機は、しかし、目的地の空港へは降りなかった。まるで悪魔の指が伸びて来て、飛行機の機関部をいじって遊んだかのように、突如エンジントラブルに陥った。
操縦士たちの懸命の努力もかなわず、雷に打たれた白い鳥のように、飛行機は落ちた。
目を開ける。自分が何かを見ていることに、ややあって気がついた。
私は生きている。
目の前の、ひんまがった何かの部品を見つめていた目は、一回閉じられて、それから右へ向けられた。
めちゃくちゃになった機内が、ちらと見えた。視界の大部分が、めちゃくちゃな機内と散乱する荷物で覆われている。
そっと手足を動かしてみた。突然切断されると、痛みすら感じず、ちゃんと動かしているような錯覚を覚えるというが、今動かしている(つもりの)手足は、本当に私の手足だろうか?
しかしそれは杞憂だった。あちこち傷つき、一ヶ所深く切ったらしく血が流れ続けている怪我もあったが、一応両手と両足があった。
そして、冗談のように、財布とハンカチとティッシュ、そして化粧品の入ったポーチが、文句があるかとでも言わんばかりに、膝の上にぽんと乗っていた。
中からハンカチを出し、傷口を押さえる。ふと、それまで視線を動かさなかった左側を見て、レイラは思わず声を呑んだ。ついさっきまで、なあにこの揺れ方は。恐いわねえ、と言いながらチョコレートケーキをほおばっていた中年婦人が、目も口も何もかも開けたままで、天井を見ていた。胸から下を、飛行機の構造物に潰されている。
ぎゅっと口を結ぶ。早鐘のような心臓を宥めて、ひとつ息をつくと、そろそろと移動を始めた。いたるところで、乗客やスチュワーデスが悲惨な姿を晒している。その度、体温が下がるような思いを懸命に堪えて、レイラは障害物を乗り越え、なんとか操縦室の前まで辿り着いた。ノックに答えない。鍵がかかっているか、と思ったがドアは開いた。
「…主操縦士さん」
声を掛けたが返事が無い。足を引き摺りながら席に廻り込み、口を手で押さえた。しかし、ここに来るまでに散々『人はいとも簡単に死ぬものである』という事実の実証を見てきた為か、ドアをノックして返事がなかった時点である程度予測していたのか、あまりショックはなかった。二人のパイロットは操縦席にうつ伏せて、こときれていた。レイラはのろのろと引き返した。
通路の途中で、コーヒーサーバーが割れてひっくり返っていたが、底に少し残っていたので、注ぐためのコップを探そうとし、ふと呟いた。
「わたしは馬鹿かしら」
こんな所でマナーを守って、何の役にたつのだろう。実際、今ここにいる私の為に、テーブルマナー以上に無駄なものがあるだろうか?
ふと笑った。自分が笑っていることを感じながら、レイラは口に当てて、傾けた。苦いコーヒーの味がレイラの胃に落ちて、気持ちをしゃんとさせた。ついでのように、割れたガラスがレイラの唇を切って、一筋血を流させた。
紺碧の空、ヒマラヤの純白の山々と大地。その中に飛行機が落ちて人が沢山死んでいるなんてことと、まるで無関係の顔をしている。レイラはしばし手を休めて、呆然と佇んでいた。その意識を引き戻すように、
「うう…」
「痛い。痛い」
さっきから、レイラが必死で手当てした、幾人かのうめき声が上がっている。非常に運の良い人間たちだが、その幸運も喜べないほどの、怪我の痛みに苦しんでいるのだった。大きな怪我もなく動き回れるのは、レイラしか残っていないようだ。
この飛行機が落ちたことを、誰かが知っているのかどうか、わからない。落ちるまでにSOSは打電しているだろうと思うが。ここはどこだろう?あと少しで空港というところまでは来ていた筈だ。すぐに救援が来ると思っていていいのだろうか。
「お願い…助けて…」
レイラの妹のような年齢の娘が、苦痛に蒼褪めながら必死で訴える。その手を握ってやりながら、
手当てといっても、私はちゃんとした血止めの方法なんか知らない。痛み止めもないし、せいぜい水をあげることしか出来ない。
このままじゃ皆死んでしまう。
レイラは決意した。立ち上がる。
「待って…どこにいくの…」
娘が声を上げた。それを見下ろし、
「助けを呼んでくるわ。待っていて。必ず戻ってくるから」
「いやよ…いかないで…ここにいて」
弱々しい手がレイラの足首を掴んだが、すぐに力を失って落ちた。一瞬ぎょっとしたが、娘は両眼から涙を流しながらレイラを見上げていた。
しゃがみ、手を握ってやって、
「大丈夫よ。少しの辛抱だから。待っていてね」
しかし娘はもう返事をしなかった。心が引き戻されるのを無理に振り切って、レイラは外へ出た。
天空に輝く太陽は、既に中天を越し、西へ傾きはじめている。太陽の位置と、山々の姿を考え合わせ、目的地の方向を確かめる。
無数に投げ出されたスーツケースのひとつが口を開けていた。中に入っていた毛皮を取り出すと、身につける。
誰かの持っていた菓子の袋を手にして、レイラはぐっと握り締め、
私は死なない。
目の前の人間に聞かせるように強く、言葉にして思ってから、足を行く手に向けた。
しかし、どんなに強い決意であろうとも、何も知らないレイラがしようとしている事は、丸太一本で太平洋を横断しようとすることに等しかった。雪に足を取られる。小さな丘が、今のレイラにはエベレストにも感じられた。何とか上り切った所で、今までと全く同じ光景が広がっていると、座り込みたくなる。
果たしてこっちの方向で正しいのだろうか。本当に?
せわしない呼吸が切迫して、胸にこみあげてくる。目眩がする。ものがぶれて二重に見える。目の下には隈が出来て、唇は紫に腫れ上がっていた。雪の照り返しは思ったより遥かにレイラの体力を奪い、精神力を削る。
時々休み、また歩く。次第に、立ち上がるのに莫大なエネルギーを要するようになってきた。このまま寝てしまいたいという麻薬的な願いと、それを叱咤する理性の戦いに、レイラが疲れきったところで、足がもつれた。音を立てて雪原に倒れる。
立てない。どんなに立とうとしても、手も足も言う事を聞かない。
こんなところで死ぬものか。あの子たちも共倒れだ。
呪いに近いような心の叫びを発しながら、レイラはずぶずぶと死の眠りに落ちていく。駄目なのか?私は、こんなところで、
こんなところで…
切れ切れになってきた意識の端が、何かに触れた。
閉じかけた目を開く。
数メートル先に、雪に半分埋もれて、何かが輝いている。白一色の中、緑色に輝くそれは、太陽の光を全身で反射させているように見える。
顔を上げて、そちらに向ける。何だろう?
ずる、ずると少しずつ、ほんの少しずつ這っていく。長い長い時間が過ぎた後、レイラはようやくそのものの側まで這い寄った。
手を伸ばす。それに触れ、握った。
同時に、温かく熱い力が、レイラの手を通して伝わってきた。心臓の動悸が後押しされるように速くなる。思わず声を上げて、上体を起こした。
手の中で躍動しているものは、翠色に輝く何かの欠片だった。
なんだろう、これは。
レイラは暫く、欠片を見つめ、その場に座っていたが、やがてそれを手にして立ち上がった。歩ける、と思った。しっかり握ったまま、レイラは足を踏み出した。
それから数刻の後、レイラの前に、小さな集落が姿を現した。
更に数日後、本国では皆大騒ぎしてレイラを迎えた。死んだものと思っていた両親が大喜びで待っているのを、レイラは何か遠くから見た。勿論、ぼろぼろになった服は着替えていたし、見かけは見慣れた姿のままだったが、瞳の奥底になにか決定的に変化が起こったのを、両親は見て、抱きしめようとした手を思わず止めた。
「レイラ、」
「…よく、無事で。本当に良かった」
軽く頭を下げて、ありがとう、と呟く。両親は顔を見合わせ、少しわざとらしく、
「ニュースを聞いた時は心臓が潰れそうだったわ。ええ、本当よ。失神してしまったわ」
「いや、めでたい。今夜は思い切り盛大なパーティを」
「私以外、全員死んだのよ。そういうことは言わないで」
今度は二人とも黙ってしまった。
主治医だった初老の男が、脇から口を出す。
「お嬢さんは極限状態の中、自力で脱出なさったのです。今はそっとしてさしあげて下さい」
「そうだったな。済まなかった」
「とにかく、レイラが戻ってきてくれたんですもの。それだけで充分だわ」
両親はひきつった笑顔を作った。最初から最後までフラッシュを焚く報道陣向けの顔のままだった。
しかし、両親が最初に気づいた通り、何かがレイラの中ではっきり変化していて、それはもはや元に戻ることはなかった。
間に合わなかった。―――
レイラの中では、その言葉が、長く長く尾を引いてこだましていた。
私が生き残るための術を何も知らなかったから。そうだ、今の自分は何も知らない。狭い井戸の底を泳ぐための、つまらない知識だけを詰め込まれた、単なる虫だ。
こんな虫みたいな私に命を託すしかなかったあの子たちは、そのために命を落としたのだ。…
そして。
人間はいつ、あんな風に死んでしまうかわからないのだ。本当に、ぐずぐず迷っているヒマなんかない。
そのことを、心の底から思い知ったのだ。
暗鬱な静かな目をして、何かを見つめている娘のために、両親は早めに社交界にデビューさせる計画をたて、それを実行に移そうとした。だが。―――
ふと、父は読んでいた新聞から顔を上げた。そばにいて爪の手入れをしていた母も、そちらを見た。
レイラが、ひどく静かな表情で立っていた。何の酔狂か、サファリジャケットとパンツを身につけている。叱ったものかどうか、母親は躊躇した。その間にレイラが口を開いた。
「お父様、お母様。お話があります」
「う、何だね、レイラ」
「話なら丁度私たちもあるのよ。あなたも喜んでくれると思うわ。あなたを正式に社交界に」
「悪いけど、それは無理だわ。私、この家を出ます」
「なんだって」
呆気に取られて、二人は馬鹿のようにぽかんとレイラを見つめた。
「私にはやりたいことがあるの。それはこの家にいる限り出来ない。だから、出て行くことにしました」
「いい、い、一体何をしようというんだ」
「まず自分の力で生きる力を身につけることです。それから遺跡の発掘や、秘境の探検よ。しっかり考古学の勉強もして、まだ発見されていない古代の街や、王の墓を見つけ出すの」
「冗談じゃないわ」
「冗談じゃないのよ。お母様」
この時ようやく、レイラは微笑した。
「私は本気だって、ずっと言ってきたけど、お母様は一度だって現実のこととは考えてくれなかったわね」
「クロフォード家の人間がやることではありません」
「だから、クロフォード家を捨てるわ。今まで育てて下さって感謝しています。お姉様やお兄様たちに宜しく伝えてください」
「レイラ、待ちなさい」
「誰かおるか。レイラを捕まえろ」
召し使いたちや、執事たちが慌てて走ってきたが、その時には脱兎のごとく走り出して、ホール上の階段の上まで来ていた。
「レイラ!」
「さようなら」
下まで駆け下りると、それきり振り返りもせずに正面玄関から外へ出ていった。車の咆哮が外で起こった。それから二日後、港で、クロフォード家のものですと描かれたメモが貼り付けられた車が見つかったが、それきり足取りは途絶えた。
「その時、君を助けてくれた輪ってのが、」
「ええ。この一部です」
レイラは肯いた。
「他の欠片は、どうやって見つけたんだ?」
「それが」
薄く笑う。
「ここで、ナトラが出てくるんです。一人で遺跡探索をしていた私のところに、あっちの方から探索を依頼してきたの」
三世の眉が上がった。数秒後、無言で促されて、
「聖フランシスの廃虚と呼ばれる古代遺跡の中に、こういう形の、翡翠のかけらがあるから見つけ出して欲しいって、私が持っていたものと瓜二つの写真を見せられたわ」
「勿論、君が同じ物をものを持ってるなんて言わなかったんだろうな?」
「言う訳がないでしょう」
愚問でした、と首をすくめる。それを見てレイラも自分の口を指で塞いで、失礼、と呟き、
「こっちとしては、これについて何の情報もなくて焦っていた矢先だったし、喜んで飛びついたんだけど」
「情報。…君はずっとこいつの出所を探してた訳か?」
「そうです」
文句があるか、と言わんばかりに言い返す。
「命を助けてくれたお礼に、故郷に『還して』あげようとした訳だ?」
「そう、なりますね」
三世はふふと笑った。
「君は義理堅いんだな」
とたんに、かみつくような返事がきた。
「あなたに誉めてもらうようなことではありません!私はただ」
「はいはい」
わかったわかった、と両手をあげて、宥める。このお嬢さん、照れると言い方が堅くなるようだ。
「で、そこにもあったんだね」
「ありました。二つになった欠片を組み合わせてみたら、不思議な映像が見えたの。こう…頭の中に浮かんでくる感じで。…どうやら、地形や何やら考え合わせてみると王家の谷らしいんで、調べに行ったわ。そうしたら、」
「そっちにもカケラがあったの?」
「ええ」
あっさりうなずくが、どれほど過酷な道程の後のことなのか、想像に難くない。
「もしかして出口で待ってなかった?ナトラが」
「いたわ。私を殺して完成した輪を取り上げようとしました。間一髪でなんとか逃げられたけれど」
三世はちょっと首を傾げて、レイラの肩の辺りを見つめながら、
「どうやらナトラは、君がひとつめの(便宜上、ナンバリングしたよ)欠片を持っていることを、知っていたみたいだな。だからこそ君に頼んだんだろうな」
「私もそう思います」
レイラは輪を見つめて黙った。冷たく美しく微笑んだ、ジャクリーヌ・ナトラの顔を思い出していたのだ。
『あなたは本物の冒険家よね、レイラさん?わたしの依頼も、あなたならきっときいてくれると信じているわ』
艶っぽく、喉にこもる感じの声音。少し、イントネーションにおかしな所があるのだが、それがまたいいのだと、部下の男どもは賤しい笑い方をして、言っていた。
『あんたもいい線いってるけどな、ねえちゃん。ナトラ様の足元にもおよばねえな。ぶるっと震えがくるんだ、あの声で呼ばれるとな』
『あの魅力の前では、女だって参るぜ。現にナトラ様の秘書は、男と女と両方いるしな』
『どっちも可愛がってもらってるっていうぜ。いろんな意味で』
『そいつは、羨ましいもんだな』
下品な笑い声。
レイラの顔に軽蔑が表れていたのか、一人の男が、
『あんたにはナトラ様の魅力がわからねえらしいな。見る目がねえんだな』
『それじゃ、男にもてねえぜ』
『だからこそ遺跡巡りばっかりしてんだろ』
『なるほど。現実の男じゃなく、ミイラや骸骨の方がいいって訳か』
再び笑い声。あんまり馬鹿ばかしいので、レイラは何も言わなかった。ただ、確かにあの女には、ある種の人間に言う事をきかせる力が備わっていることは認めた。
しかし。
私が、翡翠の輪の欠片を持っていることを、どうして知ったのだろう?欠片のお陰で助かったことを、誰にも、一言も話さなかった。誰にも見せてもいない。誰かに気取られることなど、有り得ない。
『可愛いお守りでしょう?でもこれは、莫大な力への鍵になるのよ。それを手にした者には、誰もがひれ伏さずにいられないわ。うふふ、信じられないかしら?』
翡翠の欠片の写真を見せ、にっこり笑った、艶惑的な口元。
色素の薄い瞳が、冷たく、冷たく輝いているのを、レイラはただ無言で見返していた。
「ナトラ・テクノロジーか」
次元が低く呟いた。
「ここ一年で、すさまじい勢いで頭角をあらわしてきた企業だが…女社長のジャクリーヌ・ナトラが、それまで何をやってきたのか誰も知らない。ゴシップ屋がとんでもない額を提示したが、会社設立前のジャクリーヌについて、マッチの頭ほどの情報すら持ってきた奴はいないそうだ」
「いいね。正体不明の謎の女社長か。どこからか現れてマヤの秘宝を手に入れて…最終目的が何なのかね。世界の滅亡かナトラ帝国の建設か、興味のあるところだけど」
三世はレイラの顔に眼を向けた。
「もうひとついいかな」
「どうぞ」
「君は家を捨て、結果として身分と財産の両方を捨てた。その代わりに体を鍛え、知識を蓄え知力を磨き、あらゆる困難を自分独りの力で乗り越えてきたようだ」
突然それまでと話の内容が変わった。ちょっと眉をひそめて、
「そうね」
「ひとの力をあてにするって文章は、君の日記には出てきたためしがないだろう。少なくとも、独立してからはね。それが今回に限って、助っ人を頼んだのは、どうしてかな」
「それは考えました」
肩をすくめる。
「でも、ここまできて、あいつらに輪を奪われることだけは絶対に御免だったんです。なんとしてでも確実に、この輪があるべき所に辿り着かなければならない。私のプライドは二の次です。
だから、依頼の護衛も、神殿の前までいいわ。後は、私に構わず、自分の命を自分で守って、脱出して下さい」
次元の眼がつばの下にちらと覗き、三世は笑い出した。
「わかりやすくて結構だ」
「話はそれで全部ですか?」
「そんなところかな」
「で、私の依頼を受けてくれますか?」
三世の笑いが、にやにやしたものになった。
「報酬の話といこうか」
「金というのなら、私の全財産をあげます」
こともなげに言う。
「美術品がいいのならどこにも届け出ていない黄金の杯や錫や杖がいくつかあるし、未発表の金鉱の入り口もこの前見つけたから、その情報を上げてもいいです。
その全部でも結構」
三世はよどみなく躊躇なく言葉を並べるレイラの瞳を黙って見ていたが、
「君が私有するものなら何でもくれようという気持ちはわかったけどね。生憎、俺はカネってものを貰うために仕事をする、その感覚が理解できないんだ。それってサラリーマンていうんだろ?俺はソレになったことはないし、これからもないだろうからな」
ぬけと言われても、レイラは別段怒った様子でもなかった。そういうものかと素直に思ったらしい。
「じゃあ、何がいいんですか?人を殺してこいとでも?」
「そう言われたらどうする」
レイラは少し考えた。考えている顔を、三世は面白そうに見ている。
「どうしてその人が殺されようとしているのか調べてみて、その結果によりますが」
大声で笑う。
「私は人殺しなんかしないわと言うのかと思ったよ。やれやれ」
「悪趣味だな、お前は」
「このお嬢さんのホンキが見たかったんだよ」
「だから悪趣味だって言ってんだ」
次元が吐き捨てる。
「御免ごめん。人殺しは頼まないよ。君の専門外だからね。そうだな。君の夜を一晩、俺にくれるてのはどうだい?」
え?という顔になる。その顔のまま三秒考えて、
「修辞法がよくわからないのだけど、あなたの仕事を手伝えということですか。一晩、穴掘りでもするとか?」
「あっははははは」
顔を片手で覆って笑う。次元は双方に呆れたという風で、背を向けてしまった。
「それもいいけどね。ちょっと違うなあ…
俺のベッドに朝までおいで、と言ってるんだよ」
今度は、三世の意図を理解したらしい。しかし、レイラは呆気に取られて、ぽかんと三世の顔を見たきりだ。こんな顔は、多分一年に数度もしないのだろうと三世は思った。やがて、その顔のまま、
「あなたは、私に、性的な関係を要求しているのですか?」
「身も蓋もない言い方をするなよ、萎えるぞ」
「すみません」
素直に謝って、
「でも驚いたわ。想像もしなかったから」
「誘われたことくらいあるだろう?応じたかどうかは別として。どうやらあまり応じてもいなかったようだけど」
「一度もありません」
あっさり言う。
「誘われたことが?応じたことが?」
「応じたことが」
「そうかい」
ふうん、と軽くつぶやいて、
「じゃあ、今度は応じてくれるかな。そうしたら、君の依頼を引き受けようじゃないか」
レイラは赤くもならず、しごく真面目に、
「今言ったように、私は人殺し同様こちらの道も専門外だから、あなたを驚嘆させるようなたぐいのスキル技術は持っていませんが」
「結構。俺は君にマタ・ハリ並みの芸当を期待してる訳じゃない」
「じゃあ何を?」
「そうだな。君が初めて到達した遺跡の入り口に降り立つ気持ちと同じかな」
わかったようなわからないような顔をしていたが、やがて、思いきり良くうなずいた。次元がちょっと顔を上げた、そこに、
「あなたの出した条件をのみましょう」
きっぱりと返事があった。
「そうこなくちゃ。OK、君をばっちり輪っかの故郷まで連れてってやる」
三世は陽気に言って、ウィンクを投げた。げんなりする、とでも言いたげに、次元が左肩を落として、
「ほとんど病気だな」
「ほっとけ」
レイラが、そのダークスーツの男に眼をやったので、二人は『ン』という顔になった。そこに、
「私は、あなたのベッドにも、行かなければならないのですか?」
次元は仰天して振り返った。生真面目なきっとした眼に、首を振る。
「俺はいい」
「じゃあ、あなたには何もないということになってしまいますが」
側でげらげら笑っている男の頭を思い切り小突いてから、
「いい。こいつの条件を、あんたが承諾したんなら、それで依頼は完了だ。俺のことは気にしなくてもいい」
「そうなのですか?」
三世と次元の両方に尋ねる。
「こいつはつきあいのいいヤツなんだよ。俺がやると言えばやる。だから君はさっきの条件さえ満たしてくれればそれでいいよ」
図々しい言い草に片頬を歪め、それでも仕方なさそうにうなずく。
「そう。じゃ、お願いすることにします」
すらり、と右手を差し出す。
「宜しく、ルパンさん、次元さん」
「こちらこそ、レイラ」
うやうやしく握り返す。次元は手を伸ばして、無言のまま、こちらへ差し出されたレイラの手を握った。いかに、銃器類の扱いの訓練を必死でやったか、次元にはわかる手をしていた。
「たった今から、このプログラムが終わるまで、君は俺たちと一緒に行動する。いいかな」
「いいわ」
必要なものは既に全部持って来ているらしい。あっさり肯いて、次にバックパックから地図を取り出した。机に広げる。
「周辺の地図です」
喋っていると、ふと人の気配がした。レイラは顔を上げた。男二人は顔を向けず、どうしたもんかな、やっぱり襲ってくるだろうか?しかしな、などと会話している。
「邪魔する」
低く、そっけなく言って入って来たのは、黒の着流しに仕込み刀を携えた若い男だった。レイラと目が合う。蓬髪の間から短刀のような目が覗いて、
「貴殿は?」
「ルパンさんに依頼があって来た者です」
「五右衛門。このひとの頼みで、ちょっとお出かけするから」
相変わらず顔も見ないで、ぽんと言う。
「どこへ」
「遺跡探検」
今ここでちゃんと説明する気はないらしい。それきり、次元との会話に戻ってしまった。どこかでは必ず襲ってくるだろう。ナトラには、新開発のVTOLを始め剣呑な玩具なら事欠かないぜ。やれやれ。周囲は樹海だろ。ははは、地下にトンネル掘ってもぐっていくか?銀行強盗でもやるみてえに。
「ナトラ」
尋ねた訳でもなく、ただ口にしたのだろう。五右衛門、と呼ばれた男は少し考えてから、レイラに目を戻した。しかし何も問わない。
「しかし、どうしてお目当ての一つ目が彼女のもとにあると知れたんだろうな」
三世は情けなく笑って、首を傾げながら輪をレイラの手に戻した。
「それにわざわざレイラに捜索をさせたってのもな。考えてみりゃヘンだろ。
場所はわかってんだ。自分とこの手下を使って二つ目と三つ目を手に入れ…ああ三つ目は二つ手に入れないとわからねえんだっけ?二つ目を手に入れ、レイラのやつをふんだくって三つ目の所に行くと。それでいいじゃねえか?
そうしなかったてのがな」
ふふん、と笑って、レイラを見てから、
「ちっとひっかかる」
付け加えた。
「しかし、けったいな話だな」
次元が煙草をくわえたまま、発音の悪い声で言う。二人は車の点検をしている。車の下に頭を突っ込んだ、三世の声が聞こえてきた。
「まだまだ、異時代の奇跡ってのはあるもんだよ。マヤの皆さんなんざ宇宙に行ったらしいって言われてんだよ」
「違う。あの娘のことだ」
「レイラの?何が」
「お前、ちっと知ってたな。彼女の前身を」
まあな、と言って、レイラがいるはずの頭上の部屋を透かし見た。
「有名ってほどでもなかったけどな。俺は聞いたことがあったよ。上流階級の娘らしくない、変わり者の次女ってな。バイキングの村からもらわれてきた子じゃないのかなんて、馬鹿げた噂すらあったっけ。実際、あの夫婦からの遺伝は何一つ感じられないな。ああそうだ。
本名はな、ローレライ・クロフォードていうんだ」
「ローレライ…」
次元は口の中で呟いてから、
「随分とまた、ロマンチックな本名だな」
「だな。それにあまり英国的じゃないな。英国の上流家庭なら、エリザベスとかヴィクトリアとかレヴェッカとか、そういった名前になるだろう」
「ちょいと洒落っ気のあるばあさんでもいて、そいつがつけたんじゃねえのか」
「かもな。ついでに、探検家のじいさんもいたりして。本人に聞いてみっか」
「歳は」
「25か。ヴァレンタインディが誕生日だ。これまたロマンチックだな。本人には興味のない話だろうけど」
次元は何とはなしに、レイラの顔を思い返していた。強い眼光、強い眉、きっぱりした口元、一度もないわ。応じた事が。
男に媚びる、金に媚びる、家柄に媚びる、そしてそれらを競い合う世界に生まれて、あの娘は一種の奇跡だ。黄金の装飾品なら、男に貢がせるものだ。自分で黄金を見つけるところから始める娘が、どこにいるだろう?いや、見つけるプロセスそのものが、あの娘にとっては黄金の価値なのだ。見つかれば、それは国際的に1オンス幾らで取り引きされている鉱物に過ぎない。
そういう娘なのだと実感が湧いてくるに従って、一つの疑問が、口の中にあまりよくない味を広げる。
「わかってるのかね」
「なにが」
「お前の要求した報酬の意味が」
「さあね」
三世は鼻で笑った。
「お前が心配しそうなことだよ。お前ならあの子が無事幸せな結婚をするところまで見守ってやりそうだな。生憎、俺にはそんな父親のような思い遣りはないね。他人が見つけるより先に、未知の遺跡を探検をしようってだけだな。言い方が下品だね俺も」
次元は返事をしなかった。別に、三世に腹を立てたのではなかったが、三世は次元の顔を眺めてから、
「お前が気に病んでやるほど、あの子にとって重大な意味はないよ。へえ、こういうものなのか、また一つ新しい知識が得られた、って程度だと思うけどね。いつか巡り合う白馬の王子のために後生大事に取ってある訳じゃない。こんな下らない男にくれてやる気はない、って思うような相手にしか、今まで会ったことがないってだけだろ」
「お前は、違うのかね」
「さあね」
今度はげらげら笑って、
「何だ。俺が人間的に尊敬できる立派な男なら、あの子をベッドに引っ張り込んでもOKってことか?やめようぜ。お互いにもっているものを提供して、それでいいって話だろ。俺は完璧に仕事をするだけのことだ。違うか?」
ほんの僅かな間の後、特に何の感情も含まない声で、次元は言った。
「そうだな」
「説明をしてもらおうか」
部屋に戻ると、床に座っていた五右衛門がそう言った。ん、と言って三世は顔を向けた。
「そういや、まだだっけ。依頼内容は、あのお嬢さんが持ってる翡翠の輪を、メキシコはユカタン半島の古代遺跡の中に置きにいく間、ナトラの連中から彼女を護ること。…これで全部か?言うことは」
「装飾品一つを狙って襲ってくるのか。一企業が」
「単なるアクセサリーじゃなく、不思議な力を持ってるんだと。古代の力だとかなんとか…莫大な力の源って呼んでたかな。昔スペインとマヤの両方を滅ぼしかけた程の力らしいぜ」
本気で言っているのか、嘘だと思って言っているのか、いつものことながらわからない。
「あの娘の目的は何だ」
「だからあ、輪っかを古代遺跡の中に置きに行くって言っただろ」
「置くと、どうなるから、置きに行くのだ」
「知らない」
「おい」
声に殺気がこもった。手を振って、
「俺がじゃないよ。あの子も知らないんだろ。ま、なにか起こりそうな気配はぷんぷんしてるけどな。
とにかく、あの子は力が欲しいわけじゃないんだそうだよ。昔遭難しかかってた自分を助けてくれたから、その御礼に故郷へ戻してあげるんだそうだ。お前が好きそうな話じゃねえか」
なあ、と次元に同意を求める。地図から目を上げて、
「そうだな。お前に似たところがあるかもな、あの娘。律義で杓子定規で」
「そうそう。多分、怒ると手がつけられなくなるところも似てるだろうよ」
いひひ、と笑っているのをちらと見て、
「ナトラは、どうやってその輪の力を知ったのだ」
「それもわからない。話を聞いていると彼女よりもずっと、いろいろと、ご存知のように思われるけどね」
「はずみや思いつきでたどりつく情報とは違うからな。あの娘が死にかけるほどの艱難に堪えて輪に巡り会うのを許されたように、何か因縁のようなものを感じるな。女社長からも」
三世は苦笑して、相棒の顔を眺めた。
「お前も、レイラの本名みたいに、ロマンチックになってきたな」
「レイラというのか」
首を巡らせる。髪を無造作に流して立っているのが、後からやってきた日本人だと見て取って、レイラは向かっていた机から向き直ると、立ち上がってうなずいた。
「レイラ・クロフトよ。さっきは失礼しました。あなたは?」
「石川五右衛門と申す」
「ルパンさんの仲間ですね。悪いけど、あなたのことは知らなかったわ」
「謝るまでもない。仲間というよりは、必要な時請われて雇われる間柄だ」
五右衛門はレイラの無表情な顔を眺めて、
「貴殿、輪と関わる前に、ナトラと会ったことがあったか?」
「いいえ」
「マヤの遺跡に、謎の輪で以って発動する力が存在すると、以前から聞いたことがあったか?」
「いいえ」
簡潔に、NOを二度繰り返してから、
「ナトラと輪をつなぐものは、私にも思い付かないの。私と輪を結び付けた存在があれば、それはナトラかとも思うけれど…私が輪に救われたことが最初から計画されていたというのは、ちょっと無理があるわ。
あそこで飛行機が落ちない限り、私は決して輪には巡り合わなかった訳だもの。それにあの時私が生き残ったのは、本当に偶然です。それは確かです」
五右衛門は何か言いかけた。しかし、それきり考え込んで、最後には首を振り、
「想像に頼り過ぎるとろくなことがない」
独り言を呟き、レイラを見て、
「おれはこれを使う」
差し出した仕込みを、左手の親指で軽く弾き出してみせて、収めた。
片眉が上がって、鳶色の目が輝いた。
「そう、流れ星という意味の名の剣を持っていたのは、あなただったのね」
五右衛門の目が大きくなる。
「…これを知っているのか」
「古代の隕石から打ち出されたと言われる夫婦剣の、一振でしょう」
「恐れ入った」
「商売柄よ。写真を見たことがあったんです」
五右衛門は一歩下がると、剣を抜き、レイラにみねを向け、差し出した。
「いいの?」
無言でうなずく。
受け取って、レイラは両手で支え、暫くの間刃の紋様が光を返すのを斜めに眇めていたが、やがて軽く息をついて、五右衛門がしたように、みねを向けて返し、
「有難う。やっぱり、本物は違いますね。どんな宝石よりもずっと綺麗だわ」
に、と口元を引き上げて笑った顔を見て、五右衛門はレイラがしたように、ほんの僅か笑みを見せて、刀を受け取った。
うわぁい2時間スペシャル(笑)レイラさんについてはTomb Raiderというゲーム(映画にもなった。アンジェリーナ・ジョリーさん抜群に合ってた!)から舞台背景と過去を拝借しました。本当はインカの遺跡で黄金の輪を探すのですが勝手に変えました。家族構成などはウソです。名前は本当はララですが1作目が日本で紹介された時はレイラとなっていて、こちらの方が個人的に馴染みがあるので使いました。性格もかなり変えてあります。
斬鉄剣は、虎鉄、村正、正宗を打ち直したってのが一般的ですが、こっちの原作の設定もスキスキ。夫婦剣てのは双葉社から出てたルパンの小説の設定で、これもスキスキ。もう一振りを持っている兄弟子と五右衛門が戦う話は、自分でもやってみたいです。そのうちにね。
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