椅子を下ろしたばかりのテーブルの、一番奥を選んで、二人は座った。まだ他の客は一人もいない。
「何にするかね、アシュレー、美人さん」
「ええと…僕はビールで」
「ジン」
アシュレーがつっかかりながら、カノンがあっさりとそう言い、酒瓶とよく磨かれたコップを二つ置いて、マスターはさっさとひっこんでいった。上品でない冗談を長々と言っていくタイプの男でなくて助かったと思う。
カノンは軽くコップを持ち上げてみせて、口にもっていった。アシュレーもつられるようにコップを掲げ、はずみで泡がこぼれた。コップを置いて手の泡を舐めている間に、カノンのコップは空になった。
「強いな」
驚いた声に、ちらと目を上げたきり、二杯目を注ぐ。僕が真似したら、たちまちひっくり返るだろうと思う。というより、心から美味しいと思う酒に巡り会えるほどには、呑んだ経験はなかった。
こと、と音がした。その音で現実に引き戻され、アシュレーは顔を上げた。二杯目のジンを干したコップをテーブルに置いたカノンが、アシュレーの目を見て、
「では聞こうか。もう、ずっと前から尋ねられることをお前は覚悟していたようだが…
お前らがブラッド、と読んでいた背の高い男はどうしたのだ?」
苦渋が胃の底から涌いてくる。まるで胃液そのもののような苦さだ。
だが、不思議なことに、アシュレーのどこかに、爽快感に似たものもあった。爽快感ではない、断じてない。しかし、化膿して熱を発しつづける動かない足にメスを入れる時には、こんな気分かも知れないという程度の、であれば、まだ『すっきりする』部類の痛みと言えそうだ。
「まず、さっきのアーム屋でのことには、感謝するよ。僕ら三人とも、棒立ちだった。あなたが対処してくれて助かった」
そんなことを聞きたい訳ではないから、カノンは合いの手は入れず、続きを待っている。
数秒の沈黙の後、アシュレーが勢いよくビールを飲んで、息を継ぎ、
「…アルケミックプラントという、オデッサの基地が、破壊されたことは知ってるか?」
突拍子もない言葉だったが、どうやら前進を始めたらしいことは感じたのか、今度はあいづちをうって、
「クアトリーの南だったな。詳しくは知らないが、たしかコキュートスにひとりだけいる女の管轄下だったと思う」
後半の部分を聞いた時、アシュレーの顔が鋭く歪んだ。コキュートスの女という言葉がパスワードとなって、記憶の蓋に掛けられたロックが外され、普段無理矢理押し込めてあるあの情景が、込み上げる胃液のようにあふれてくる。
しかし、今夜はもう蓋をすまい、と決意していた。新しい仲間、彼のことを見知り、共に戦ったことのあるこのひとに、伝えておかなければならない、
彼のことを、僕の罪を。これは懺悔だ、彼には決して出来ないことを、彼と似た目をした女戦士にしようという―――
「それで?続きは」
感情のない声に頬を叩かれる。顔を振って、
「あれは、僕らが…違う。ブラッドがやったんだ」
「なに?」
聞き返そうとし、即座に相手の意図を察知した。
「まさか」
「そうだ。ひとり残って、ギアスを外したんだ。自分の首から」
「ギアスだと?あれは解除コード以外の方法で外そうとすれば」
「だからこそだ」
眉をひそめ、相手の口元を見つめる。
その唇を一回きつく噛み、奥歯をかんでから、ようやく口を開き、
「持っていた爆弾は…バイツァダストは…使ってしまった。他に爆破させる方法はない…その時、言ったんだ、ブラッドが、
爆弾なら、ここにもあるだろうって」
震える指で、おそらく、その時男がしたのだろう仕種を、なんとかやってみせる。だが、自分の首を指すか、指さないかのところで、アシュレーはがっくりと突っ伏してしまった。
カノンは、目の前の男を見つめ続けていた。そうしていると、彼女の記憶の中に在る、あの屈強で優秀な戦士が、はがねのような冷たく強い目をして、自分の首にくいこんだ死刑執行の道具を、皮肉っぽい笑い方をしながら示している姿が、見えてくるような気がした。
握り締めた拳が、白っぽく痙攣している。その手に更に力を加え、必死で顔を上げる。言わなければならないことがまだあるのだ。
「その寸前まで、僕は、僕は、ブラッドを。それまで、やけにこっちの行動がオデッサに筒抜けで…ヴィンスフェルトが昔、ブラッドの上官だったって知って…夜、ブラッドが得体の知れない男と連絡を取っているのを見て…
コキュートスの女が、側に、ブラッドを従えて、『よくやったわね』って言ったのを、見て―――
僕はブラッドをスパイだと思ったんだ」
カノンの表情に変化はない。非難してくれ、たったそれだけのことで仲間を疑ったのかと、僕を罵ってくれ。ブラッドの代わりに。
「僕は叫んだ、裏切り者って、ブラッドをにらみつけて。力づけてくれて、何を聞いても答えてくれて先頭きって戦ってくれて…あの仲間面は何だったんだって。お前を信頼してる人間たちを毎晩ひとりで笑ってたのかって、
我を忘れて悲鳴を上げていた。みっともなく、…みっともなく。もう、泣く寸前だった」
「違ったのだな」
びくんと震えたアシュレーに、
「あの男はスパイではなかった。そうなのだろう?」
「そうだ!」
あくまでも静かな相手のあまりな問いに、激昂し怒鳴り返した。
「わめいている僕の、斜め横から、本物のブラッドが、出て来た。ブラッドがしてると思ってたことは、何のことはない、」
「ドッペルゲンガーとかいったな。記憶も身体的特徴も全てを複製した人造人間か。…ヴィンスフェルトが持っていた技術だった。部下として登録されていた頃に、細胞を採取されていたのだろう」
肩で息をし、相手を罵ろうかと一瞬思った。何を淡々と分析してるんだ、あなたは?僕が落ち込んだ穴の全景図でも描こうというのか?
しかし、それはすぐに止めた。結局、僕はまだ自分を守りたがっている。責めて欲しいと言いながら、どこかで。
「コキュートスの女にも嘲笑された。お前らの信頼ごっこなどその程度だと。
それを否定することは出来なかった。今も出来ない。僕はブラッドを疑った。裏切り者と呼んだんだ。その直後、ブラッドは僕に言った、早く逃げろって。俺に任せろって…
さっきまで、自分を、あんな言葉で罵ってた僕に」
声が震えた。
もう、ずっとずっと堪えて来たものが、酒の力で箍がゆるんだのだろう。アシュレーの両眼から涙が、一筋伝い、あとは止めど無くあふれた。
「あんなことばで…ずっとたすけて、くれたブラッドをぼくは…それなのに…
ぼくはブラッドをしんじなかった…一番、信じなければならない時に!
裏切ったのは僕の方だ、僕はブラッドをあんなところにたった独りぼっちにしたんだ、
あの言葉と態度で!
それなのに」
最後はぐじゃぐじゃになって聞き取れない。アシュレーは再度、テーブルに突っ伏して、声を上げて泣いた。もう、堪えることは出来なかった。
男の嘆きが、どんなに熱く深く痛いかは、カノンの血の通わない手さえ、熱を帯びそうな相手の告白が伝えて来た。誰もいない、まだ早い酒場の中に、アシュレーの鳴咽が、ひっかかりひきずられながら流れた。マスターの姿は、少し前から見えなくなっていたし、表のドアに、いつのまにか『本日貸切』という看板がかけられていたが、そのことには二人とも気付いていなかった。
カノンは、黙ったまま、相手の上下する肩を見つめ続けていたが、本当に、随分あってから、静かに、
「奴は、己の意志で、己の行動を決断したのだ。
今ここで己がやらねばならぬこと、己にしかできぬこと―――他の全ての者のために。
それがあって、それを全うできた武人は、幸せだ」
アシュレーは、しあわせ、という言葉に、過剰すぎるほどの反応を示した。きっと顔を上げる。涙で泣き腫らした目で、カノンをにらみつけると、
「幸せだって?あんな目に遭って死ぬのが、そんなにいい事か?賞賛され、感謝されて?自分を愚弄した馬鹿者のための贄になることが、そんなに…」
怒鳴りながら、違う、と思った。思ったから、声は途中で消えた。
「違うだろう?」
静かに、カノンは尋ねた。違うと、アシュレーが気付いたことに、気付いたからだった。
こくりと、小さい子供のようにうなずいて、
「わかってる。ブラッドは…感謝されたり悪がったりされるために、コントロールセンターにひとり入っていったんじゃない。
ただ…他の、全ての…ひとたちのために」
先刻の、カノンの言葉をなぞっていることに気付いた途端、新たな涙がどっとあふれてきて、鋭く眉をしかめると、顔を伏せた。涙が、ばたばたとテーブルに落ちていく。
涙が、とめどなく、落ち続けて、アシュレーは首を緩く振った。
「駄目だ」
涙が、
「いくら、そう思っても、僕は」
とめどなく、
「あの時の僕のことを思い出すと、何もかも吹っ飛んでしまう」
視界の端に映る、アシュレーの泣き顔を見るともなしに見ながら、ふと、以前自分がアシュレーに向かって投げた言葉を思い出した。
「スレイハイムの英雄は」
左利きらしいぞ。寝首をかかれないように気をつけることだな。
それは、事実だった。あの大戦の生き残りで、はっきりとそう証言する者はいないが、証言者の位置関係を頭に入れて聞いていれば最後には到達する事実だった。
あの男は―――
今まで、見たこともないほど巨大なアームを軽々と担いでいたのは、それをふりむきざまカノンの足元へ着弾させていたのは、右側の腕だった。
故に、あたしは、ロードブレイザーを内包した男に、スレイハイムの英雄が参謀としてついていると聞いた、そのことと重ね合わせ、
アシュレーより先に、そして当たり前のように躊躇なく、当然のこととして、
アシュレーが泣いた顔のまま、カノンを見つめていた。
「…なんだ?」
「あたしも、あの背の高い男を、スパイか、そうでなければ」
「でなければ?」
「…それに、類する者だと思っていた」
だが、そうではなかった、ということだ。それを、あの男は命を賭けて証明した。
ならば、あの男は一体なんだったのか?
スレイハイムの英雄を名乗りながらそうではなく、スパイでなく、裏切り者でなく。もう、尋ねることはできない、いくらこうして考えてみてもわかることではない。
「ブラッドは」
一回、うつむき、喉を鳴らしてから、上げた。
「僕を支え、僕を助け、共に戦ってくれた仲間だった。それで充分だったのに。
そのことだけ信じられれば、どんな過去も関係なかったのに。
昔なんて呼ばれてたかなんて―――」
どうでもよかったのに、と口の形だけが言った。
今、どんなにそう思っても、千回そう口にしても、とりかえしがつかない。そのことを、カノンが思うまでもなく、アシュレーはあの時から、ずっとずっと思い続けているのだと、カノンは気付いた。
彼女はゆっくりと目を伏せ、相手の姿から初めて、視線を外した。酒場の、薄暗い明かりを見上げた彼女の耳に、またずいぶんあってから、
「ロードブレイザーの影に脅えて、ずっと眠れなかったんだ。眠ろうとすると瞼の裏に黒い炎みたいな影がゆらゆら、笑って、もうすぐお前は俺になるって…
次に目を覚ました時にはロードブレイザーになってしまっているかも知れないと思うと、眠れなかった。ある夜―――
ブラッドが、言ったんだ、誰にでも、
…誰にでも勝てない悪夢のひとつくらいあるから、心配するなって」
カノンは、アシュレーに視線を戻そうとしなかった。
「ブラッドの手が僕の肩を掴んだ。僕はそれでも震えていたけど…
俺がついててやるって。ずっと、ついててやるから眠れって―――」
カノンは黙ったまま、ゆっくりとコップを持ち上げ、傾けて、空なのに気づいた。
あの手に、
もう一度、
アシュレーは深く深く目を閉じた。のほほんと思い出してしまうには、あまりにも辛い記憶であったから。 強く閉じた瞼の下から、涙は流れ続けて、どうにも止まらなかった。

二つの影が、酒場から出て来たのは、日付が変わって大分経ってからだった。
二つの、とは言っても、片方は一人で歩けない程酔っていたので、もう片方が肩を貸し、一塊の影となって動き始めた。
どちらも、何も言わない。
酔っている方が、大きい石を踏んで、ぐらりと傾いだ。倒れそうになるのを、もう片方がしっかり捕まえて、引き寄せる。担ぎ直し、再び歩き始める。
マリナは、二階の寝室の窓から、一晩中ついている街灯に照らされ、ふらふらと街の外を目指してゆく二人の姿を見ていた。
でれでれいちゃいちゃしている訳ではない。側に寄り沿っていると言っても、そうしないと片方がうずくまってしまうからで、それを補佐するという目的以上のものは、どこにもない。極めて事務的な横顔を、その美しいシルエットの女は見せていた。しかし、
そっと、額を窓枠につける。
胸の奥で黒い炎が燃えているのは、アシュレーだけではない。
不安と、羨望で、マリナの華奢な体は、炉心と化していた。

真っ暗な荒野を照らすのは、満天の星と、徐々に近づいてくるヴァレリア・シャトーの灯りだった。それらの下を、二人は、ゆっくり進んでいった。
夜が魔物の時刻だということは、この世界では、昼が明るく夜が暗いというのと同じレベルの常識だったから、こんな時間に荒野を渡る人間はいない。案の定、ぎぃぃぃという耳障りな泣き声が四方八方から聞こえてきて、幾度か茶色い球体や、巨大な甲虫に襲撃された。
しかし、自分より大柄な男をかついだままの女にとって、それは蚊の襲来ほどにも感じないらしく、片手で全てを片づけると、ヴァレリアシャトーの、東脇に口を開けた出入口にたどりついた。おそらく、男に肩を貸すことなく、かつ魔物が一匹もでなかった場合と、数秒と違わない速度であった。
「ご苦労様です」
入口に立っている男が、眠そうな目で恭しく言い、それからアシュレーの姿を不審そうに見て、
「具合が悪いのですか」
「いや、単に呑み過ぎただけだ」
カノンがそう言うと、うなずいてから、
「アシュレーさんが酒で潰れてるところ、初めて見ました」
「今オデッサが来たら、叩き起こすまでだ」
薄く笑ってそう言い、幾度目かに担ぎ直し、中央エレベータのボタンを押した。
たしか、ARMSが宿泊に使っているのは3Fだったなと思う。降りると、また男が立っていて、やはり眠そうにお帰りなさいと言った。
「アシュレーの部屋はどこだ?」
「…一番西側の部屋ですけどね」
「そうか」
どこがリルカとティムの部屋かわからないが、とにかくぐっすり眠っていることだろう。響き易い自分の靴音を、心持ち控えめにしながら、カノンはアシュレーのものらしい部屋の前に立ち、ノブを回した。
狭く、殺風景な部屋だった。ベッドとクロゼットと机だけが、ただ手持ち無沙汰に並んでいる感じだ。まあ、この部屋でゆっくりとくつろぐ時間などというものは存在しないのだから、当然だろう。
そう思いながら、カノンはベッドに近づき、アシュレーの体をその上に横たえてやった。だがもし、カノンが自分の従兄妹たちの部屋を覗く機会があったら、思うかも知れない、
まがりなりにも自分の家であり、自分の部屋だろうに、これでは子飼いの兵と同じ部屋ではないか。
しかし、カノンにしても、そこにいるとゆったり落ち着ける部屋などというものは存在しないのだから、そんなことを思うこと自体、おそらくないだろう。
アシュレーの呼吸を確かめる。深すぎるということもなく、真っ赤な顔で正体をなくしている。ちょっと考えてから、部屋の隅にあったバケツと、机の上の水差しとコップを、すぐそばまでもってきてやって、彼女は部屋を出た。
アシュレーの部屋の場所を教えた男が、ずっとこっちを見ていたらしい、今慌ててあさっての方を向いたのが見えた。迷惑な邪推だ、と腹で笑いながら、男に近づき、
「あたしも休みたいのだが、どこの部屋を使えばいいのだろうな」
「あ、そことそことそこの部屋以外なら開いてますから、どうぞどうぞ」
男は必要以上に何度も、薦めてくれた。
部屋に入ると、さっき見たアシュレーの部屋と寸分違わないつくりだった。マントを脱ぎ、胸当てと脛当てを外すと、無造作にベッドに入った。
左手の整備がまだだったが、あの帽子のお陰で数年来ないほど調子がいい。明日の朝でもいいだろう。
それから、カノンは一度閉じた目を、闇の天井へ当てた。
自分の首のギアスを指している男が見えた。何か言っている。何だろう?
それを見つめているアシュレーの顔も見える。こちらは口を開けたきり黙っている。
もう、言うだけのことは言ってしまった後なのだ。今更後悔しても遅い。
アシュレーにとって、自分の口から出た言葉は、今も自分自身の胸に刺さって、傷口は鮮血を吹き出し続けている。傷口を縫う針も糸もない。そして、
自分の大事な茶色の髪の娘が悲鳴を上げたなら、たとえ血が流れたままだろうと、駆けつけて戦うだろう。そして、
ロードブレイザーに化身している間、その間だけは、胸の傷は存在しなくなる。他人を傷付けたことで己を責める傷など、ロードブレイザーには全く意味を持たないからだ。やがて、その繰り返しの中で、アシュレーはロードブレイザーの中に吸収されてしまうかも知れない。そうなったら。
そうなったら、
「あたしはお前を殺す、アシュレー。それを、あの男も」
ギアスに手をかけ、男は微笑し、また何か言った。
「望むだろう」
そっと呟き、目を閉じる。しかし、眠りはしばらく訪れなかった。

ふわあ、とあくびをし、伸びをし、顔を洗って、リルカは部屋を出た。このお部屋、窓がないから、今が朝か夜かもわからない。あんまりいい気分じゃないよね。まあ、仕方ないけどさ。
廊下へ出ると、天井まで届く高さの窓から、いっぱいに朝日が射し込んでいて、ほっとする。
丁度そこに、ティムの部屋のドアが開いた。プーカと話しながら、出てくる所へ、
「おはよ、ティム。プーカ」
「おはようございます、リルカさん」
「おはようなのダ」
プーカの紫の体毛は、金色の朝日に照らされると、不思議な色に透き通って見える。
「昨夜、二人帰って来たのかな。わかった?」
「いいえ、全然わかりませんでした。僕は9時頃寝ちゃったもんで」
「そっか。私もなんだ。どうしよ、タウンメリア行ってみる?でも朝イチでヴァレリアさんの話あるよね」
「心配いらないよ、リルカさん」
今交代して、寝に戻るらしい男が、廊下を曲がっていきながら、
「二人は昨夜…いや今朝か。帰って来たよ」
「え?カノンはどこで寝たの」
「そこだよ」
指が最後にドアを指して、消えた。
「なんだ。帰ってきたんだ。でもまだ眠ってるだろうな」
「昨夜遅かったみたいですしね」
「うん」
二人の間に沈黙があった。
あれから、二人で、何を話したのかは、想像するに難くない。アーム屋での三人の醜態を見て、さりげなくフォローしてくれた新入メンバーに、リーダーがきちんと説明したのだろう、何があったのかを。
「カノンは、戦ってるもんね。知ってるんだもんね」
何をかは言わないが、何かは、言わなくてもわかっていた。リルカさんの口から、ブラッドさんの名を聞かなくなって、ずいぶん経つ。
いつか、聞く時が来るんだろうか。想像できないけれど。
僕はこの前、ついうっかりぼろぼろと口にしてしまい、リルカさんを泣かせた。僕も泣いちゃったけど。これからは気をつけなければ。
「そうですよね」
気をつけると、何を言っても失言のような気がして、結局合いの手しか入れられなかった。と、少し離れたドア、さっき交代した男が指していったドアが唐突に開いた。
中から、昨日最後に見たのと変わらない様子のカノンが出て来た。
何をどうするという訳でもなく、二人で突っ立ってこちらを見ているのに気付いて、おやという顔をする。
「お、おやよう…違う。おはよう、カノン」
「あの、おはようございます」
ティムがぺこりとお辞儀をした。
「おはよう」
返して、それから、手をもんだり髪をいじったり薄ら笑いを浮かべたりしている二人の側まで行き、
「なんだ?」
「いやあの、その。ヴァレリアさんの話があるけど、二人ともまだ寝てるかなと思ったから、どうしようかなって」
「あたしはもう起きた」
ご覧の通り、というように手を広げてみせて、
「アシュレーはちょっと無理かも知れないな。絶対に参加しなければならないのなら、ひっぱたいて起こすが」
「いやいやいや、いいよ。単なる定期通達なんだから。単なるって言ったらまずいか」
大慌てで叫んだ。手を振り回す。
「あのう、アシュレーさん、無理って…なんでですか?」
「あいつはあまり、酒は呑んだことがなさそうだったからな」
「サケ…二人でお酒のんだの?」
「ああ。タウンメリアのホテルの地下で」
二人とも行ったことがないので、あそこか、と思い浮かべることはできなかった。
「そう言えば、アシュレーがお酒呑んでるとこ見たことなかったね。あんまり呑めなかったんだ」
「じゃあ、その、今は二宿酔いっていうやつですか?頭が痛くて…」
「多分そこまでも行ってないだろう。まだ目が覚めないか、醒めて吐いてるか、どちらかだな」
ちら、と笑った。その顔を、二人はまじまじと見た。
「カノンも呑んだんでしょ?そのう、アシュレーと同じくらい?」
「そうだな」
「カノンって強いんだね。アシュレーが弱いのかな」
それもあるだろうし、あたしはあいつみたいなのみ方はしなかった。喉が渇いた時の水、みたいな。あいつにとっては、ずっと抑えていたものをおもてに出すための、必要な誘い水だったんだろうが。
それに、昨夜のあいつならば、どんな酒でも悪酔いしただろう。仕方ない、最初から承知していたんだろうし。酒場に誘ったのはあたしだが…
「いろいろ、かかえていたようだしな」
その言葉で、二人が息を呑んだのがわかった。代わりのように、カノンが息をついてやって、
「お前たちもな」
それだけ付け加え、今度は口のはたを少しだけ上げ、微笑した。
ティムがゆるやかにうつむいた。リルカは、きっと顔を上げて、困った表情をしていたが、
「アシュレー、きっとその、少しは、楽になったよ。カノンが…話きいてくれて、あと一緒にお酒呑んでくれてさ。私たちじゃ、お相伴できないから、ね」
生意気に、うなずいてみせる。口がへの字になってゆくのを、懸命に堪えている少女に、カノンは、
「そうならいいと思う」
真面目に答えた。


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