胃の中が全部出た。
それなのに、まだ出そうとする僕の胃は、馬鹿なんだろうか?もう何も入ってないって、誰より一番わかっている筈なのに…
バケツに縋って、肩で息をする。身動きができない。何かアクションを起こすと、それが嘔吐の引鉄になる。とは言っても、いつまでも床にうずくまっている訳にはいかないから、胃と胸を宥めながら、そろそろと身を起こし、椅子に座った。
水差しからコップに水を注ぐ。胃を洗浄するような感じだなと思いながらそれを飲んだ。少しあって、アシュレーは一度体内にいれた水を口から出した。それでも、さっきよりはまだすっきりした。
そこで、ようやく、バケツと水差しとコップがもともとあった場所から、自力で近づいてきてくれていることに気付いた。
「カノンがやっていってくれたのかな」
声を出してみて、あまりにひどいので驚き、それから苦笑した。苦笑できたことに少し安堵し、そっとそっと呼吸をしながら、時計を見た。
朝イチの定例にあと5分だ。
げっとなり、同時に嘔吐感と嘔吐物がこみあげてきて、アシュレーはほとんど出もしない後者をバケツの中に出した。
リーダーが二宿酔いで会議に欠席なんて、断じてしていいことではない。吐きながら服を脱ぎ、立ち上がる。途端に世界が回った。
ベッドに転倒し、無理矢理立ち上がると、水差しの水を頭からかぶった。ぬるぬるする顔をなでまわしながら、新しいシャツをひっぱりだして、袖を通す。ドアへ向かう途中、もう一度吐きそうになったが、これは飲み下した。
もたつく足で廊下に出る。あまりにも眩しい陽光に、アシュレーは倒れそうになった。まるで、伝説のノーブルレッドのようだ。

では、とアーヴィングが言い、一同を見渡したその時、ばあんと派手な音がして扉が開き、
「遅れて…すみません」
一言で表すなら、「ものすごい」状態のアシュレーが、よろめきながら入って来た。
一番近くの椅子に倒れ込むように座る。げぶ、と喉がいやな音を立てた。リルカが、真ん丸く見開いた目を少し歪めて、
「…大丈夫?」
「大丈夫。もう吐くものは残ってない」
あまり、それを聞いて笑顔にはならない保証をし、タオルを口元に押し付けた。もう一度、喉が鳴った。
いやだ。オヤジーだ。こんなアシュレー見たことないし…見たくない。第一、臭いよ。この部屋もう充満状態だ。こっちまで吐きそう。
眉間にしわをよせ、口で呼吸しそうなのをなんとか我慢しているリルカの脇で、ティムも困ったようにうつむいている。僕は大人になっても…お酒はやめておこう。僕がお酒に強いとはあまり思えないし。
反面教師は、なんとかさりげなくそこに居ようとしているらしいが、喉は鳴り続けるし、腹も時々合いの手を入れる。何よりかなり強烈な臭気が、抑えようもなく発散され続けている。居心地は悪化の一途をたどり、アシュレーはせめてという訳か肩をすぼめた。
アーヴィングはあまり感情のない目で相手の様子を見て取り、それからちらとカノンを見た。新参のARMSは、これまた、非難も同情も含まれない目で、昨夜同じ酒の席にいた男を眺めてから、黙ってアーヴィングへ視線を戻した。
「では、定例会議を始める」
静かにそう言って、以後、アシュレーの様子については何も触れなかった。

「昨日はごめん」
口を押さえたまま言うので、声はくぐもってよく聞き取れなかった。カノンは目顔で何?と尋ねかけ、大体の意味を察して、首を振った。が、律義に、口を拭うとタオルを外して、もう一度言った。途端に酒の匂いが辺りに漂った。
酒って、ただそれだけでは大して匂いもしないのに、何故一度体内に入れるとこうも臭気を発するのだろう、とアシュレーは不思議に思った。
「謝られる程のことは何もなかった」
「なら、良かった。…正直、ところどころ記憶がないんだ。最後の方は完璧にないし」
首をかしげ、
「どうやって、タウンメリアからここまで歩いてきたんだろう。あなたが運んでくれたのか?」
「あたしは、肩を貸しただけだ。一応は、自分の足で歩いていたぞ」
「へえ」
他人事のように感心し、直後に喉がいやな音を立てた。
「ごめん」
「いちいち謝らなくていい。少し、自分の部屋で休んだらどうだ」
「そうはいかないよ。用意が出来次第出発しなきゃ」
とは言ったものの、正直、座っている椅子から立ち上がることができないでいる。何度か、さりげなくチャレンジしているようだが、その度眩暈と吐き気に襲われ、すごすごと椅子の上に戻ってくる。
「いいよ、アシュレー。私たちで行ってくるよ。大したことじゃないんだからさ」
あまり近寄らないで、リルカが言った。
「私たち三人いれば、何かあっても大丈夫だよ。すぐ終わって帰ってくるから、アシュレーは寝てなよ」
「でも」
「大丈夫ですよ、アシュレーさん」
リルカよりは酒のみ男に寛容なティムがそばに来て、うなずきかける。
「半日もあれば行って帰ってこられます。平気です」
にっこり笑った笑顔に、アシュレーは困惑する。これからジャングル越えはかなりきついなというのが正直な感想だった。
「…でも…本当に大丈夫かな」
「勿論ですよ。僕も結構強くなったんですから。一度行ったことがあるし…」
言葉の最後が力なく途切れた。が、すぐにきっぱりと、
「だから、アシュレーさんは休んでいて下さい」
もう一度だけ、立ち上がる努力をし、無駄に終わってから、低い声で、
「…じゃあ、悪いけど、頼んでいいか?」
「はい!」
力一杯答えたティムの後ろで、カノンが無言でうなずいた。
二人が部屋を出ていく、その後ろについたリルカが振り返って、
「部屋まで連れてってあげようか?」
相変わらず近寄らないまま、声をかける。うらめしげに、
「いいよ。そのくらいは自力でやるさ」
「ふーん。…マリナさん呼んであげようか?看病してもらったら?」
「リルカ」
「ごめん。じゃ、行ってくるね」
バイバイ、と手を振って、彼女も出ていった。
リルカの軽口に腹を立てた気持ちはすぐに萎んだ。情けないリーダーだ。肝腎のところでこれでは頼りにならないと言われても仕方がない。ため息をつき、それがそのまま嘔吐につながりかけて、慌てて止めた。

三人はヴァレリア・シャトーの外に出たところで、見えもしない緑の絨毯を、すかし見るように眺めた。
「グリーン・ヘルか。…オーブで飛ぶには、目標物がないな」
緑の地獄の深部に、所属部隊不明の人間が潜入していく目撃情報があったので、至急詳細を調べてこいという命令だった。
「近くは岩場だから、ギルドグラードのホバーでは上陸できません」
「かなり手前から歩いていくしかないのか。とすると…シエルジェまで飛べばいいのか?そこから橋を渡って」
リルカが慌てて何か言うより早く、ティムが手を叩いて、
「丁度いいから、寄っていけばいいですよ、リルカさん」
「え?」
聞き返したカノンに、リルカが言うことを考えるより先に、ティムがうなずいて、
「リルカさんはシエルジェの出身なんですよ。お友達や恩師の方々も沢山いらっしゃるんです」
「ほう」
カノンが呟いてリルカを見た。その視線に困った笑顔を作ってから、まだ喋っているティムの口をむりやり塞いだ。
「むぐ、なんですかあ?ぼくはただ…」
「うるさいよ!いちいち人の暗い過去を何もかも説明しなくてもいいの!お節介小僧が」
子供らの狂乱を眺めていたが、やがて軽く肩をすくめ、
「どうやら、帰りたい故郷ではなさそうだな」
「え?あ、ん、まあ、そうね。べ、別にあそこで札付きの不良少女だったとか問題児だったとかいうことじゃないからね。誤解しないでね、カノン」
「そういえば、テリィさんっていいましたっけ?あの人…」
リルカは再び振り返って、振り回していた手でティムの口を塞いだ。
「誰がテリィの話なんかしろって言ったのよ!厭味な自称天才君の名前なんぞ聞きたくもないよ!」
「す、すみません、ゴメンなさい」
あんまり乱暴に幾度も顔をいじられて、ティムの口元や頬が赤くなっている。
「厭味で自称天才のテリィとは、お前がとても良く知っている友人らしいな」
「うぐ。友人なんかじゃないよ…とにかく、顔を見にわざわざ行きたい奴じゃないんだ。もう!シエルジェなんか目標に使わないでよ」
「リルカさん、前の時もシエルジェに行くの嫌がって、」
ぼかん、と勢い良く後頭部を殴られて、つんのめった。
「い…痛いです…」
「いい加減で黙んなさい、このお子さんめ」
「リルカ、乱暴なのダ。ティムはリルカほど丈夫じゃないんだから、遠慮するのダ」
プーカがかん高い声で抗議する。
「失礼しちゃうね!なによ、リルカほどってのは。マリアベルよりはよっぽど優しく殴ってるんだからね」
「わかった。騒ぐな」
アシュレーから託されたテレポート・オーブを掌の上で一回きゅっと握って、
「逆側にしよう。北の平地に出た、あの近くに小さな村があった。…ええと、そうだ。セボック村といったな」
それまで、子供っぽくやりあっていた二人が、同時に顔をカノンへ向ける。
忘れたくて忘れたふりをしていたものは、ここのところで随分増えたが、その名も、そのうちのひとつだった。…
二人の、表情の消え失せた顔の裏の、異様な緊張と動揺を見て取って、カノンは数秒黙っていたが、
「これも、あの男の何かなのか?」
更に数秒の沈黙。
「どうして」
「わかるの?」
同様にかすれた、小さな問いに、うなずいて、
「お前たちがそんな表情をするのを、今まで何度か見たからな。…あの男に、関することに触れてしまった時に」
二人はゆっくり、力なくうつむいて、
「わかっちゃうか」
リルカがため息をつき、無理矢理に笑ってみせ、それからまた口元はひしゃげた。
「あのね…前に、追われてた時にね。5年前か。村の人を助けるために捕まったんだって。その時、怪我してるのを助けてくれた女の人と、犬がね、いるの。いつ行っても、待ってたって言って嬉しそうに迎えるの…
でも、まだ…知らないでる」
何をか。誰のことをか、言わないので、すんなり理解できない。が、カノンはもっとちゃんと説明しろとは言わず、相手の言葉を咀嚼してから、
「事件が終わった後、村へは行ってないのだな?」
黙って首を振る。
それはそうだろうな、とカノンは思った。まだ、あの男を失ったことで、誰もがこんなにも不安定になっている。リーダーは自責と悔恨とで酔いつぶれ、子供らはいっぺんで十も老けたような表情で凍り付く。とてもとても、全てがあの男を思い出させる場所へなど、赴くことは出来ないだろう。
ましてや。あの男の名を口にさえできないのに、帰還を待ち望む娘に、本人が死んだと告げるなど、出来る筈がない。
「この前」
突然、ティムがひび割れた声で呟き、顔を上げカノンを見る。
「思ったんです。いつまで…黙ってるんだろうって。言えません。絶対に。でも…女の人と犬と、あの人のお友達を、」
迷ってから、無理に口にした。
「一生待たせる気かって」
すうっと、リルカの顔色がなくなった。と、カノンの右手がオーブをしまって、リルカの肩を掴んだ。
「でも、やっぱり言えない。今は、オデッサと戦って、今出来ることを精一杯やるしかないんだって、自分に言い聞かせました。自分を…
そうやってごまかしました」
リルカが弱々しく首を振って、そっぽを向いた。
厳しい言葉ばかり、選んで使うのは、この子なりの自戒なのだろうなと思う。悲しみに溺れて泣いている自分への戒めだ。しかし、
「自分を責めても、解決しないことがある」
カノンはそう言って、自分を見つめている少年を、柔らかく見返し、
「お前の気持ちはわかる。だが、急ぐな。それでなくても」
微笑んだ。
「やることが多すぎるのだ。今のところ、自分から苦痛を背負い込む必要もない。
充分に納得できる答えが手に入ってからでいい」
ふと、肩を見ると、プーカがこちらを見ていた。色が、少し青みがかっている。
「プーカ…」
「カノンの、言うとおりだと、プーカも思うのダ」
少し、考えてから、
「今までプーカは、イノチというものを、ガーディアンと交信できるニンゲンが差し出す代金みたいに思ってきたけれど、決してそうではないのだと知ったのダ。それが失われるってことガ、どんなに大変なことカ。それをも超えて、何かをしおおせようとすることの、重さモ。
それは、…が教えてくれたのダ。…は、言うと、リルカが泣くから、言わないのダ」
「うん」
それから、ゆっくりうなずいて、もう一度、
「うん」
「今は、ティムに出来ることを精一杯やればいいのダ。多分、それで間違ってはいないし、決して逃げてる訳でもごまかしてる訳でもないと思うのダ」
静かに、風が渡って、一同の髪を流した。
その後、
「ありがとう、プーカ。有難うございます、カノンさん」
「私は?」
鼻をちょっとすすってから、口を尖らせて言う娘に、
「はい。有難うございます、リルカさん。…でも、リルカさんに何かしてもらっ…」
「うるさい!さ、行こう、カノン!いいや、こうなったら。シエルジェ行こう。中に入らなきゃいいんだもん」
急かされて、再びオーブを手にしながら、さっきから気になっている、
女の人と、犬と、あの人のお友達を、と言いかけたティムの言葉をもう一度考えた。
あの男の友達と言えば、スレイハイムの生き残りだろうか。しかし、A級戦犯の男の友人と言ったら、田舎にひっこんでいれば忘れてもらえるような階級ではないだろう。あの男を『待っている』とはどういう意味だ?村娘とでも結婚して、せめて男が立ち寄った時に宿代わりにでもなろうということか?
何か不自然だ。もっと詳しく聞けば済むことなのだろうが、なんとか気持ちを立て直している子供らに、もう一度動揺を与えたくはなかった。
そう考えている自分に気付いて、優しいことだな、と思わず苦笑する。オーブを慣れた手つきで掲げ、
「シエルジェへ行くぞ。寄れ」
子供らは各々気を取り直し、カノンの側に寄った。
さっき、手で、私を支えてくれたな、とリルカは目を閉じて思った。手と、気持ちとでだ、と改める。なんでかな。わかった。カノンが、私のこと支えようと思ってくれたことが。
相手の無言の心が、柔らかく同時に素早く自分の下方にすっと滑り込んでガードしてくれるような感触は、覚えがあった。そうだ、背の高いあのひとのものと似てる。
カノンは、本当に時々、あのひとに似ている。カノンはきっと、アシュレーとは違うふうに、あのひとの近くに行ける人間なんだろう。あのひとが…
ここにいたら。それが、はっきりしただろう…
涙があふれそうになるのを、堪えて、ぎゅっと目をつぶる。足の下がふっと消えた。

小さな小さな石の祠が、冷たい風のふきすさぶ荒れ地にぽつんと立っている。何も知らなければ、何の注意も払わず行き過ぎてしまう指標のようなこの庵が、一つの街をまるまる隠している、その入口なのだった。
寄っていきましょうとは、もうティムも言わなかった。考えてみれば、テリィはじめこの街で世話になった人間全てが、ブラッドのことを知っている。…そして、ブラッドがもういないことを知らない。
いつかは言わなければならないにせよ、今はとても気が重すぎて出来そうもない仕事だ。三人はコンパスと地図で場所を確かめ、細い道を橋の方に向かった。
奇声を上げて、白く巨大な猿のようなバケモノが上から襲って来た。リルカは一番前にしておいたクレストグラフをつかみ出して掲げ、風に逆らって叫んだ。
「フレイム!」
奇声は絶叫に変わった。体毛が一気に紅蓮の色に染まり、のたうったがあっという間に消し炭になった。
カノンが左手で軽く一匹を仕留める間に、リルカがもう一声炎の名を叫ぶと、敵は消滅した。後ろで肩をすぼめていたティムが目を丸くして、
「いつもにも増して早いですね、リルカさん」
「まあね。ここいらに住んでると、飽きたってくらい戦ってるんだよ、この白いキーキー野郎とはさ。もうね、あいつらの姿見ると条件反射なんだ。これを」
一番使いこまれているクレストグラフをひらひらさせてから胸ポケットにしまい、
「…差し出して『フレイム』って怒鳴るのはね。ふう」
汗を左手の指で拭い、ぽんぽんと岩の上に駆け上ってゆく。でっかい杖をもてあましながら、ティムが後に続く。それから、しんがりにカノンがつく。
長く、白い石づくりの橋は、内海と外海を隔てている。滅多に通る者もいない道を、三人は縦に並んで、黙々と渡っていった。
この次、シエルジェへ寄るのはいつになるのかな、とリルカは思った。その時には、アシュレーもいるんだろうか。その時には…
私は普通に、テリィたちと話をしてるんだろうか。あのひとのことを、昔居た人として、淡々と喋るんだろうか、
おねえちゃんのことみたいに。
鋭い刃が、不意に彼女の胸を切り裂いた。うずくまることも、倒れることもしなかったが、リルカの心は長く、深く傷口をあけ、見えない鮮血が溢れた。
しかし、リルカは泣かなかった。
何度目のことかわからなかったからだ。
いちいち、座って泣いていられない。私はすることがあるし…
座って泣いていても、誰も戻ってこないんだから。
だが、姉の時から連なる傷口は決して癒えている訳ではなく、尚、彼女の小さな身体を、無言で蝕み続けている。およそ、この年齢の少女が堪えられる痛みではない。いずれ、
リルカは堪えられなくなるだろう。
そうわかっていても、彼女自身にも、回りの誰にも、どうすることもできなかった。


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