その日、アルンゼ王国に、大量の昆虫系モンスターが発生したとの知らせを受けて、ハイデッカはアルンゼへ行ったことのある一個師団と共にバウンドキンダムを後にした。
到着してみると、人間よりやや小振りくらいの虫たちが、港から平原から城の濠から山のようにいる。文字通り蜘蛛の子を散らしたような有様だ。
こういう場合は陣形がどうのということはないから、兵士たちはいっせいに襲いかかっていった。燐粉や糸に気をつければ、さほど強い敵ではない。ハイデッカは途中から面倒くさくなって、盾を後ろへ回し斧を二振り持って戦った。
上陸して数十分が経ち、もうほとんど駆逐したという頃、ハイデッカはふと、不吉な予感がした。
さほど遠くない距離、橋をいくつか渡ったところに、エルシドがある。
これほどの大量発生だ。もしや、そっちまで飛び火しているということはないだろうか。
そう思った時には行動していた。
「副長はいるか」
「はい、ここにおります隊長」
「俺は近隣の村を一回り見てから直接戻る。後の始末とアルンゼ国王への報告は任せる」
「わかりました」
馬を連れて来なかったのが悔やまれる。徒歩で行くよりは海路を使う方がまだ早い。船に駆け戻り、出せと叫んだ。副長がびっくりして走ってきた。
「た、隊長、その船を出されては我々が戻れなくなります」
「お前らは歩いて帰れ」
「そ、そんな。徒歩では何日もかかります。宿営の道具は持参いたしておりません。それに部下一同くたくたでありまして」
「アルンゼ王国で休ませてもらえ」
「あそこには、こんな大勢を留める部屋はありません」
ぴー、と頭上から水蒸気が噴き出した。
「このへなちょこ共が!ティアになにかあったら」
怒鳴りかけて、慌てて口を押さえた。くそ、と怒鳴って船を飛び降り、ものすごい勢いで走り出した。
部下たちは、呆気に取られてそれを見送った。モンスターとぶっ続けで数十分戦い、この中の誰よりも多く倒して、それで、何なのだあの体力は。
やはり、脳まで筋肉で出来ているという根拠のない噂は、強ち出鱈目でもないのかも知れない、と皆はぼんやり、疲れはてた頭で考えた。
この丘を越えた向こうに、アルンゼの村がある。そこで馬を借りよう。馬がなかったら犬でもロバでも牛でも、牛はまずい。着く前に日が暮れる。
馬鹿なことを言っている暇はない。
モンスター退治は済んだのだろうかと言い合いながら、村の広場に集まっていた村人たちは、駆け込んできたハイデッカの形相に竦み上がり、命ばかりはお助けをと叫んだ。その声を圧倒して、ハイデッカの声が響きわたった。
「馬を借りたい。必ず返す。出来るだけ足の疾い馬を貸してくれ」
皆一様に顔を見合わせ、村長がおずおずと、
「もしやあなた様は、バウンド」
「キングダムのハイデッカだ。貸すのか貸さんのかどっちだ」
ひどく気が急いていた。自分が焦っていることが、とてもよくない事の予兆のような気がして、冷汗が出て止まらなかった。
「わ、わかりました。お貸し致します。こちらへ」

少し前、エルシドでは、皆何も知らずに抜けるような青空へと洗濯物をいっせいに広げていた。ここ暫く雨が続いたので、どの家でも山盛りの洗濯物が干されている。
ティアも、他の家程ではないが、多少多目の衣類を物干し竿にかけていた。
「いい天気ねえ、ティア」
隣りに住んでいる娘が声をかけた。彼女はもう結婚して子供までいる。ティアが旅に出ている間は店番もしてくれたし、破れた恋を抱いて戻ってきた時には、思いきり背中を叩いて勇気づけてくれた。男っぽい、さっぱりした気性の彼女は、ティアより随分年上に思えるが、実際はそれほど離れている訳ではない。
そうだ。ちょうど、マキシムと同じ歳なのだ。
「おはよう、フレア。晴れてよかったわ。これ以上雨が続いたら困ったわ」
「全くよ。もう家中雑巾くさくってたまんないもの」
けらけらと笑う足元に、ようやく立てるようになった下の子供がよちよちとまとわりついている。
「ディムはどうしたの?いないけど」
「ああ。年上の子たちと一緒に遊びに出かけたわ。洞窟には入るなって言っておいたけど、どうだか」
「あそこは子どもには面白い仕掛けがあるものね。モンスターも臆病な数匹しか出ないし、大丈夫だと思うわ」
そうね、と相づちをうってから、
「それにしても、少し遅いわね。これ干し終わったら、見てくるわ」
フレアが、最後のおしめを竿に通し終わった時だった。
「おい、みんな、大変だ」
村の教会の方から、絶叫に近い驚愕の叫びが上がった。その声に込められた恐怖と絶望に、二人は顔を青ざめさせ、見合わせた。
「行ってみましょう」
他の村人も、何事かと集まってきた。
教会の前では、村長が一羽の伝書鳩を肩にとまらせ、手紙を読んでいる。顔色が真っ青だ。その前に立っている老人が、最初に寄ってきた妻の腕を掴んで、
「とんでもねえこった。アルンゼでモンスターが大量に出た。そいつらが南に下ってきたってよ」
「えええ?」
村人の悲鳴が上がった。
「もう隣り村まで来たらしい。絶対に外へ出るなって書いてある。ちょっとやそっとで退治できる数じゃないんだと」
「子どもたちが外へ出てるよ!ああ、なんてことだ」
ティアはフレアの顔を見た。唇が真っ白になって震えている。あちこちで、わが子の名を泣き叫ぶ母親や、泣きだしてしゃがんでしまう老婆がいる。
「なんとかしとくれよ!このままじゃ子供たちが化物に食われちまうよ」
 「早く助けに行かないと」
「じ、じゃが、もうこの村には、モンスターと戦える力のある男はおらん」
皆の脳裏に、懐かしい男の顔が浮かんだ。だが、懐かしい男は、今はもういない。モンスターと出くわしている子供たちを助けてはくれない。
ならば、どうする?
その時、ティアの隣りで呆然としていたフレアが、突然村はずれの方向へ駆け出した。ティアは必死で追いすがり、手首を掴んだ。
「フレア、待って!どうするつもり?」
「ディムを助けなきゃ!あの子を助けなきゃ…離して、行かせて」
 止める手を振りほどこうとする勢いが、ティアの迷いをふきとばした。
ティアは、回り込んで、両手でフレアの両肩を掴んだ。相手の顔をのぞき込んで、強く叫んだ。
「私が行くわ。あなたはここで待っていて」
「え?」
相手に伝わったのを見てとって、ティアは一散に家へと駆け戻った。店のカウンターを回り込んで、奥の戸棚を開ける。いつもは使っていない場所に、ブロンズブレストと、カッターウィップが入っていた。
どちらもかなり使い込んであるが、手入れはきちんとしていたから、今でも十分使える。
 武器屋の娘ですもの、商品は大事にしなくちゃ、と言っていた頃の自分、独りで戻ってきて、一度捨てようと思い、捨てられずにしまいこんだ自分を思い出す。つまり、こういうことなのだ。
手早く胸当てをつけ、右手に皮の手袋をはめる。手慣れたものだ。外に出て、一回ひゅん、と手首をしならせた。銀色のリボンのような武器は、目にも止まらない早さで翻り、数メートル先の木の枝を切り飛ばした。
一年や二年たっても、そうそう忘れるものではないらしい。それはそうだ。あんなに必死でやっていたことを、そう簡単に忘れるのでは困る。
ティアはちらっと苦笑を浮かべた。
皆、息をつめて、戻ってきた彼女を見つめている。
彼女の心に何があるのか、皆わかっている。そして、今は、この細い腕と細い首の娘に、村の子供達の命を託すしかないのだ。
不意に、フレアがティアの左手を取った。右手には武器を持っているからだ。
「お願い。お願い、ティア、あの子を。あの子たちを助けて」
他の母親たちも同様に叫びながら、寄ってくる。
 村長が、震える声で言った。
「申し訳ないが、今はお前しか頼る者がおらん。女のお前を危険にさらす酷さは承知の上で頼むしかない。どうか子供たちを」
「わかっています」
きっぱりと言い、母親たちに向かって、
「みんな、必ず全員連れて帰るから、決して村を出ないで。私を信じて待っていて」
母親たちは泣きながらうなずき、もう一度ティアにすがりついてから、離れた。スカートの裾を左手でたくし上げて、ティアは村の外に広がる平原を、北に向かって走った。モンスターの群れのいる方向へ。

あと少しで隣り村への洞窟の入口だという辺りで、ティアは子供の悲鳴を聞いた。自分が青ざめるのがわかる。
「みんな!お姉ちゃんよ、どこ?」
絶叫しながら走った。右手の大きな木を回り込んだ所で、あっと声を上げた。
先の窪地で、四人の子供が、蜘蛛の群れに囲まれて泣き叫んでいる。
「あっ、ティアお姉ちゃん」
「お姉ちゃん、助けてーっ」
ティアは夢中で坂を駆け降りた。数匹が彼女に気づいて、方向転換を始める。それより早く、右手の鞭がうなりを上げた。
瞬く間に、紫色の体液をまき散らして、数匹が分断された。
あっという間に子供たちの所までいきつく。ディムに牙をたてようとしていた奴に寸での所で間に合った。体を斜めに切られて、ぐげぇー、というような声を上げて転がり、二三度もがいてから動かなくなった。
一匹がもぞもぞと尻を動かす。ティアは射程距離内まで駆け寄って、鞭を振り下ろした。なんとか糸を吐く前に倒せた。すぐさま、その斜め後ろの数匹が、糸を吐こうとし出す。ティアは無我夢中で鞭を振るい続けた。
やがて、平原は、蜘蛛の化け物の死骸で埋まった。肩で息をしているティアの服は化け物の血と、自分の血とでまだらに染まっている。
汗びっしょりの額を、左手で拭った。顔に一筋、血の跡がひかれた。
「お、お姉ちゃん、」
誰かが、消え入りそうな声でそっと言った。ティアは、何とか笑顔をつくって、振り返った。頬が痙攣しているのがわかった。
「もう大丈夫よ、みんな」
 その途端、堰がきれたように、子供達は泣きだし、ティアにむしゃぶりついた。
「うわあーん、お姉ちゃーん」
「わーん。わあーん」
驚くような強さと激しさで泣きじゃくりながら、ぐいぐい押してくる。極限の恐怖の後のあまりに強い安堵で、ショック状態に陥っているようだ。
かわるがわる背中をさすってやりながら、
「無事でよかったわ。安心して。泣かなくてもいいのよ」
本当は、いつまたモンスターに襲われるかわからないから、急ぎたいのだ。だが、そんなことを言ったら子供達がパニックを起こす。
一番小さいディムを、ティアは胸に抱え上げ、
「みんなのお母さんが心配しているわ。早く戻って安心させてあげましょう」
その言葉は効き目があった。皆、涙を流したままぱっと顔を上げて、口々にうん、と叫んだ。皆走り出した。
「待って、みんな一緒に行きましょう。慌てないで。転ぶわよ」
うん、と言って走るのをやめた子供たちに追いついて、一同は村へと引き返し始めた。
「みんなでね、探検ごっこして遊んでたの。あの洞窟で」
リムルという子供が泣きながら言った。他の子も口々に、
「そしたら、なんか変な唸り声みたいなのが聞こえてきたの。それで怖くなって外へ出たんだよ」
「でももう外におっきな蜘蛛がいっぱいいたの。一生懸命逃げたんだけどどんどん追いかけられてね、囲まれちゃったの」
 ディムも、かかえられている腕の中から叫んだ。
「怖かったよ。あんなにいっぱいいるの初めて見たんだもん」
ティアはうんうんとうなずいてやったが、今一つ上の空だ。
 どうも、いやな感じが抜けない。姿の見えない強大な敵が、はるか彼方から近づいてくるような気がする。それが自分の不安のせいなのか、本物の敵の気配なのか、彼女には判断がつかなかった。あの頃も、マキシムやガイやセレナがさっと緊張して身構えると、自分も慌てて鞭を構え、同時に敵が出現する、というような場面ばかりだった。
もともと、自分にはそういう方面のセンスがないのだ、としおれるような思いでいたけれども、今はしおれるどころではなかった。お願いだから、この感覚が本物かどうか、誰か教えて欲しいと真剣に祈った。
「でも、ティアお姉ちゃんが全部倒しちゃったもんね。もう大丈夫よね」
「お姉ちゃん強いんだね。すごいなあ、びっくりしたよ僕」
子供たちが誇らしげに、尊敬と羨望の眼差しと口調になって叫び出した。恐怖が消えるにつれて、ティアの勇姿が思い出され、興奮してくるらしい。
「ひゅっひゅって鞭を振るとさあ、蜘蛛がすぱすぱって切られちゃうんだもん。剣で切ったみたいに」
「この鞭は端が鋭くなっているの。振るい方によって剣みたいな切れ味が出せるのよ」
「へええー」
子供たちはいっせいに声を上げて、まじまじとティアの鞭を見た。足が止まってティアは焦った。
「村でゆっくり見せてあげるわ。今は急いで戻りましょう」
「うん」
ここで見せてとごねることもなく、子供たちは聞き分けよくまた歩き出した。
行く手に丘が見える。あれを越せば、もうエルシドはすぐそこだ。大丈夫大丈夫あと少し、と自分を励ました時だった。
「きゃーっ」
子供たちの悲鳴が上がった。どうしたと思うまでもなく、自分らが目指している丘の上に、巨大な虫の群れが現われた。さっきの倍はいる。
そして、一匹、親玉なのかひときわ大きい蜘蛛の化け物が、真ん中に陣取っている。ここから先には行かせないというようだ。
海からか山からか知らないが、回り込んでいたのだ。
ここにいる五人の人間を殺して食べるために。
うごめいている虫たちをにらみつけながら、ディムをそっと下ろした。ディムは不安がって泣きだし、その声で虫たちの動きがせわしくなった。
子供達は恐怖で顔色がない。最初に悲鳴を上げたきり、声も出ない様子だ。リムルの手をつかんで、ディムの手を握らせ、ティアは素早く全員の目を見て、
「いい?みんな、決して動かないで。どんなに怖くても、絶対走り出したりしないで、そこにじっとしていて」
子供たちは救いを求めるように、ティアを見上げた。
その目に応えて、はっきりとうなずき、
「何があろうと、お姉ちゃんがみんなを守ってあげる。絶対に助けてあげるからね」
ティアは強く言いきった。そして、子供達に背を向け、鞭を構えた。
子供たちは、その背にすがることに決めた。しゃくりあげるディムの口を、年長の子がふさいで、草むらにかがんだ。
「泣くなよ。お姉ちゃんの気が散るだろ」
「我慢しなさいディム。お姉ちゃんがあいつらをやっつけてくれるまで、ここで大人しくしてんのよ」
言い聞かせる側も泣いている。声をたてるのを必死で堪えている。
火のように熱い闘志が、ティアの胸に噴き上がった。
負けるもんか。絶対に負けない。私がやられたらこの子たちも食われる。そんなことには絶対にさせない。
ゆらゆらと不規則な動きで、巨大な蛾が迫ってきた。ふっと息をついて、鞭を振るった。蛾は左右に切り裂かれてその場に落ちた。
それが合図だったように、虫たちはいっせいに丘を下ってきた。
ティアは駆け出した。いつまでもここにいると子供たちまで戦いの場に巻き込まれてしまう。かと言ってあまり離れ過ぎると、虫が子供たちのいる所へ回り込んでしまう。牽制しつつ、自分が敵を食い止められる所で迎え撃たなければならないのだ。
戦いは熾烈を極めた。何しろ数がさっきの倍だ。間に合わず蜘蛛の糸をくらって身動きが取れなくなる。足に牙をたてられ、悲鳴を上げる。
自分の鞭で糸を切り裂いた。自分の体にも傷をつけたが、そんなことに構っていられない。傷の手当をする暇さえない。
蝶が激しく羽を動かした。
「あっ」
毒の粉が片目に入る。激痛が走って何も見えない。目を押さえる前に蝶の体を切り飛ばしたが、あまりの苦痛に足がよろめいた。そこに蜂が編隊を組んで襲いかかってくる。
右肩が動かなくなってきた。毒が回ってきたのだろう。完全に腫れ上がる前に、全部倒さなければならない。片目で距離感がつかめない。歯をくいしばって、蜂をたたき落とした。
不意に、言語を絶するほどの激痛が右肩を貫いた。ティアは絶叫した。
親玉らしい蜘蛛の、長い長い一本の足が、後ろからティアの肩に突き刺さっていた。先端が、内側からティアの服を裂いて飛び出しているのを、信じられない顔で見てから、懸命に前に出た。足が引き抜かれる時、刺さった以上の痛みが、再度彼女に悲鳴を上げさせた。
血が吹き出しているのがわかる。右肩は燃えるように熱いのに、右手は冷えきっていて、鞭を持つ力がどんどん失われていく。
向き直るより早く、同じ足がティアの体を薙ぎ倒した。数メートル吹っ飛んで、地面に叩きつけられる。あまりの痛みに意識が薄れかけた。
かすかに、子供たちの泣き声が聞こえる。大声を出しちゃいけないと必死で堪えているのだろう。
自分の体を引きずり上げる。
素直な直毛、きれいに整えた髪が、血と泥でぐしゃぐしゃだ。
親玉の目は、他の蜘蛛の三倍くらいある。感情のない複眼に、傷だらけのティアの顔が映っている。のそのそとティアに向かって前進を始めた。残っていた他の虫たちも、それに習う。
鞭を振るおうとして、手からすっぽ抜けた。もうこれを使う力は残っていない。なすすべもなく立ちつくすティアの目の前に、虫の化け物がどんどん迫ってくる。
 だが、ティアの胸に、諦めはなかった。
そして。
悲しい時、マキシムの顔を思い出すのは嫌だな、と思ってきた。だから悲しいことがあると、自分の意志でさっさと別のことを考えることにしてきた。でも、これ以上ないくらい辛い思いをする時には、他のことを考える余裕なんかなくて、ついマキシムのことを考えてしまうかも知れないな、とも思った。
絶体絶命の危機において、ティアの心に、マキシムはいなかった。
ただ、火のように燃える闘志が、心の中に噴き上がり、そしてそれは不思議な力となって、傷ついた手の上に輝きはじめた。

洞窟の手前で馬を乗り捨て、怒涛の勢いで洞窟を抜けた。音をたてて坂を駆け上がる。そしてハイデッカは愕然とした。
はるか彼方の丘の手前で、子供たちが四人、小さくかたまっている。
更にその前方、モンスターの群れの前に、全身傷だらけのティアが、立っている。そう認識した時には、ハイデッカは駆け出していた。
ティア、と叫んだような気がするが、声にはならなかった。自分とティアの距離は、モンスターとティアの距離と比べると、月よりも遠い。
足に羽が生えろ。何とかって空間跳躍の魔法、それよりあの羽。あの羽があれば俺は即座にティアの所へ行って、
自分を矢にして飛ばしたいようだった。
「ティアァ!」
やっと声が出た。その声が解除の言葉だったように、ティアの手の上の輝きが、にわかに色を変えた。
それを見た時、思い出した。
何もかもを思い出した自分を感じながら、ティアは渾身の力を込めて、光に念じた。
 血のあふれる唇が、呪文を紡いだ。
「レ・ギ」
次の瞬間、天空から幾筋もの光の矢が降った。
空白があってから、すさまじい衝撃と爆発音が辺りを襲った。子供達は悲鳴を上げて固まり、ハイデッカの足が止まった。
真っ白い光に包まれて、ティアが立っている。
その光が薄れた時、モンスターの群れは、落雷の炎に包まれていた。大部分は既に動かなくなっている。 一番大きな親玉も、少し這ったが、すぐにその場に崩れ落ちた。
ふらり、とティアの体がかしいだ。
「お姉ちゃん!」
子供たちはどっと駆け寄って支えたが、支えきれない。よろよろと膝をついた。
「お姉ちゃん、しっかりして」
「大丈夫よ。それより、…皆に怪我はない?」
すっかりかすれてしまった声を、ティアはなんとか絞りだした。
「誰もなにもしてない。平気。お姉ちゃんが助けてくれたから」
泣きながら叫ぶ子供たちを順繰りに見て、心の底から安堵したのか、ティアはにっこり微笑んでから、地面に倒れた。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
「もう大丈夫よ。虫はやっつけたもの。村に、…帰り、ましょうね…」
しかし、それきりティアは気を失ってしまった。
「どうしよう、お姉ちゃんこんなに怪我してんのに。ほっといたらすぐに死んじゃうよ」
「僕らじゃ運べないよ。誰か呼んでくる!」
「いい。ちょっと待て」
突然頭上から声がして、皆ぎょっとして顔を上げた。
大男が、鎧に身をかためて立っている。子供たちは反射的に逃げだそうとし、それから、恐る恐る、
「おじさん、誰?」
大男は、さっきティアがしたように、一人一人の顔を見た。それから、
「ハイデッカだ」
唐突に名乗った。
「ハイ…」
「デッカ」
「そう」
うなずいて、ティアの側に行き、膝をついた。
血と泥と汗で汚れ、ほっとして微笑んでいる天使のような顔の右半分は、毒にやられ片目が紫色にふさがっている。右肩は服が裂け肉がはじけ、左肩の倍くらいに腫れ上がっている。腕も胴も足も、至る所傷だらけだ。
喉の奥から、熱いものがこみ上げてくる。
ぐっと奥歯で止めると、それは涙になって出そうになり、無理やり飲み下した。そっと、肩の下に手を入れ、抱き起こした。
ぱたりと顔がハイデッカの胸にもたれた。思いきり捻れば簡単に折れてしまいそうな首、手首。思いきり抱きしめれば簡単に折れてしまいそうな体。
これほどの傷を負いながら、たった一人で。よくも、
ティアの体を抱える手が震えた。突き抜けるような激情が身内から溢れてきて、ハイデッカは唸り声を上げた。
自分をなんとか鎮めて、抱き上げた。今は一刻も早く手当をしてやらなければならない。
 子供たちが疑惑と困惑の声を上げる。
「ハイデッカのおじさん、お姉ちゃんをどうするの」
「決まっているだろう。エルシドへ連れていって治療するのだ」
この巨人がエルシドの名を知っていることで、子供たちはやや安心した。その後、ティアを抱えたままどすどすと走り出したのを大慌てで追いかけた。
 途中で子供達が追い越した。

ティア03へ ティア01へ ゲームのページへ