途端に吹き付けてきた突風に、アーティの暗青色の髪が乱れた。
「こちらは、風が強いのですね」
「エスエリクトはもう春だったからな。こっちはこれから、風に運ばれて春が来るんだ」
天空をどんどん行き過ぎる雲を仰いで、くんくんと風の匂いをかいだ。
ハイデッカは、二人の会話は耳に入っていないらしい。仁王立ちになった顔が、緊張で引きつっている。
それを見て、おいおい、さっきまでの自信はどこへ行ったんだよ、と意地悪なことを言おうかと思ったが、やめておいた。下手な冗談を受け付けない様子だ。
「どうせ寝てるよ。ちょろっと家を見て、星に願いをかけて、帰ろうぜ」
気休めを言ったが、それにも返事がない。そっとアーティにささやいた。
「なんかもう、緊張しまくってるぞ」
「それはそうでしょう」
「そっけねえな、お前」
「しっ」
なんだよ、と言おうとして、アーティの指さす方を見た。ティアの家に灯がともっている。
「げっ、起きてる」
どうしよう、こんなのは予定になかったぞ、とガイが思った時、ドアががたがたと音を立てた。
三人はとっさに、村の中央に生えている巨大な木の後ろに隠れた。
ドアが開き、中からティアが出てきた。白いナイトウェアの肩に外套をかけて、裸足にサンダルをつっかけている。
髪も、ゆるやかな三編みにしている。いかにもこの後眠るといった姿だ。庭先へ出ると、その場にしゃがんで、持ってきたスコップで土を掘り始めた。
話に聞いた通り病み上がりのようで、少し痩せた感じがする。一番ひどかった右肩の怪我のせいか、右手の動きがちょっとぎこちない。しかしすぐに土は掘れたらしく、スコップを置いて、外套のポケットから何かを取り出した。
なんだろう、とガイが思った時、それをぱらぱらと掘った穴に降らし、上に土をかけた。どうやら何かの種らしい。
ティアは立ち上がって、ぽんぽんと土を払ってから、胸の前で手を組み、目を閉じた。小さく唇が動いている。何か願いをかけているようだ。
突然、ハイデッカが木の陰から出た。そのまま、すたすたと彼女に近寄っていく。待て、と言おうとして、自分で自分の口を塞ぐ。
アーティはちょっと驚いたようだが、黙って背を見送った。
誰かが近づいてくる気配に気づいて、ティアはこちらへ顔を向けた。
ハイデッカの、この上なく真剣で真面目な顔を見て、笑いと驚きの両方に表情が揺れる。
彼女は何も尋ねず、その場に立っている。不意に、ハイデッカが口を開いた。
「こんな夜中に、何の種蒔だ」
「プリフィアの種なんですって。花の山がある方から来た行商人がわけてくれたの」
ガイがはっとした。
ティアは、少しうつむいてから、顔を上げて、
「あなたは、この花の話は知ってる?」
「…ガイから、一度聞いたことがある。あいつと、あいつらとで、花売りの娘のために採ってきたと」
うなずいて、
「プリフィアっていい名前よね。セレナさんが考えたんですって」
静かに言ってから、ちょっと困った様子で笑った。
「昼間は、蒔きたくなかったの。誰かに、何の種?って聞かれたら、なんて言っていいかわからなくて。綺麗な花の種をもらったのって言えばいいんだろうけど、なんだか」
微笑んでいるティアを見られなくて、ガイは目をそらした。しかし、ハイデッカはひたと見据えたまま、
「何を願っていたんだ」
不躾な、と言うかと思いきや、ティアは今度はにっこり笑った。
 懐かしく温かく、心の安らぐ、プリフィアの花が咲いたような笑顔だった。
「あの人と、セレナさんがもたらしてくれた平和が、いつまでも続きますようにって願ったの。この花が地上にいっぱいになれば、その願いがかなったことになるでしょ?
この花に願うのに、一番ふさわしい願いだわ」
アーティの胸に、不思議な感情がわきあがった。
エルフの、感じることのない気持ちだろうと、自分でも思った。穏やかで、静かで慎ましく平和な、永い永いエルフの命は、こんなにも激しく辛い涙がこんなにも深く強い微笑みに変わる情景を、創り出すことはできない。
露のひとしずくほどの命しかない人間だけが振るえる魔法なのだ。
ティアの言葉を、自分の胸の奥底まで響かせてから、ハイデッカは口を開いた。
「ティア」
「はい」
素直に返事をした娘に、一歩近づいて、左手を胸に当てる。
「俺の妻になってくれ」
ティアの目が見開かれる。驚きの他に、何もない目に、ハイデッカの顔が映っている。
どのくらい、そうやって相手の目を見ていただろう。
ごうっと吹いた風に、ティアの三編みがはねた。
「今、あの」
困惑と動揺と春の嵐に、ティアの心が跳ねた。
「何故?だって、あなたは、私の」
何もかもを知っている。あの人を、どんなに愛していたか。愛されずに一人去っていった、最後の姿を見送った人なのだから。
他の人を愛していたと知っているのに、
「何故私を」
「俺は、君が好きだ」
真っ直ぐに、その緑の目のように、どこまでも真っ直ぐに言葉はティアに向かって飛んだ。言葉はあの時のように、ティアの心臓を温めた。
「でも、ハイデッカ、私は」
ティアのくちびるが迷ってから、
「あの人を…」
「マキシムは、とんでもなくすごい奴だ」
全員が息をとめてハイデッカを見た。
マ、を少し大袈裟に発音するのが、この男の癖だ。だから、ちょっとつんのめって聞こえる。
「あいつの強さは俺もわかってる。この俺が唯一引き分けた相手だからな。剣の腕も、人間としての優しさも、懐の広さも、顔の良さも、
地上最強だろう。俺がいなければな」
 いつもなら、誰かがつっこむ箇所だが、今夜ばかりは誰もつっこまない。
「だから、君が、あいつに惚れたのはわかる。当り前のことだ」
うん、と例によって一人でうなずいて、
「あいつをあんなに愛した君だからこそ、俺は好きになったのだ」
 ハイデッカは、ぐっと拳を握った。胸の前で。
「守りたい者を守り抜く勇気も、何があろうと諦めない闘志も、見返りを求めず人を愛する強さも、俺は凄いと思う。素晴らしいと思う。
俺は地上最強の男だが、君にはかなわん」
なんという口説き文句だ。戦士を勧誘してるんじゃないぞ。
無意識に茶々を入れながら、実の所ガイは感動していた。その通りだ。ティアの、掛け値なしにひたむきな情熱を、あんなふうに真正面から受けとめてくれると、なんだか泣けてきそうになる。
それから思った。あの馬鹿は、すげえ奴だ。馬鹿な点でもすごいが。
この人は。
「どうして、あなたは」
ハイデッカを見つめる目に、涙が、どんどんあふれてくる。
「そんなに、してくれるの?こんな、」
涙は頬を伝って流れ、地面におちた。
 「私のために、そんなに、一生懸命」
それ以上我慢できなくなって、ハイデッカは前に出た。広げた腕の中に、ティアの体をかかえこみ、ぎゅっと抱いた。どのくらい力を入れてもいいのかわからず、死にそうにもどかしかったが、そっとそっと、同時に思いきり、ティアの体を自分の腕の中に抱きしめた。
胸の中でティアが泣いている。ティアの涙と鳴咽が、ハイデッカの胸に沁みてきて、堪えきれず叫んだ。
「好きだ。ティア、俺は君を愛してる。好きだ好きだ好きだあ」
思わず、ガイは赤面した。なんという、うーん。その、正直なというか、素直というか、でも、
十代の若造ならともかく、いや。しかし。
「なにを照れているんですか」
アーティがしれっとした顔で尋ねる。
「お前、あれ見て、恥ずかしくならないのかよ」
そんな相手に文句をつけたが、アーティはもう一度、むちゃくちゃな抱擁をしている二人を見てから、視線をガイに戻し、
「ああいう燃えるような恋は、人間にしか出来ないので、いいものだなと思います」
それから、少し冷たい視線になって、
「あなたは、ああいう姿は、恥ずかしいものだと思っているのですか」
「いや、別にそういう訳じゃないけど」
赤くなったり青くなったりしながら、それでも二人から目を離さない。
じっとしていられない。だが、ティアの体を離したくない。更に強く、ティアの体をかきいだいて、堪えきれず呻き続けた。
「ティア、俺は、俺はあっ」
こんな情熱をぶつけられたのは、無論の事、初めてだった。
息もできないほど強く抱擁されているのに、少しも苦しくない。自分がこれほど愛されているのだと実感できる喜びは、生まれて初めてのことだった。
暗黒の闇の中、私を呼ぶこの人の声が、私の中から新たな勇気と、力を呼び覚ましてくれた。
この人の言葉は、報われない恋を抱えていたあの頃からずっと、私を支え、力づけてくれた。
そして今も。
「お願いがあるの」
細く、笛の音のように、彼女は叫んだ。
嵐のように、彼は吠えた。
「なんだ。どんなことだってきいてやる。言え」
「決して死なないで。
なにがあっても決して死なないって約束して」
がば、とハイデッカはティアの体を引き剥した。水色の泉のような瞳をすくうように見つめてから、びりびりと響くほどの声で、
「死ぬものか。俺は、剣の次に得意なことは、死なないことだ!
 君がいいと言うまでは、絶対死なん。一生死なん」
ティアが、つつっと微笑んだ。それから、新たに涙が吹き出し、ハイデッカの胸に顔を埋め、泣いた。
それをきつくかたく抱きしめたハイデッカは、今度は何も言わなかった。深い深い満足を心に刻んで、柔らかなティアの髪を、優しく幾度も撫でた。
ガイも、アーティも、今では微動だにせず、二人を見つめていた。
星が三つ流れた頃、ティアはそっとハイデッカの胸から顔を上げた。まだ泣いている。
「泣き虫に戻ってしまったわね」
恥ずかしそうに言う。涙があとからあとから出てきて、止められないのだ。
「いいか。これからは、泣くときは俺の胸で泣け。君が泣くのは俺の胸の中だけでだ。わかったな」
偉そうに同じことを何度も言う。くすんと笑って、
「はい」
答えた途端、また涙が出てきた。そんな彼女をもう一度抱きしめる。
「ずっと、こうして君を抱きしめたかった。君を抱きしめたらどんな感じなのだろうかと思っていた。こんな感じだったのだな」
ふむふむと感心している。
ティアは泣きながら笑い、目を閉じた。
マキシム。あなたを愛した私を、この人は愛してくれた。こんなにも。
私を尊敬し、私を支えてくれる人。あなたと共に戦い、認め合った人。
私は、
涙に濡れた目を上げて、男らしく力強い、ちょっと間の抜けた顔を見る。
「あなたと一緒に生きていくわ」
ハイデッカの口が、にいぃーと笑った。それから、歯をむき出して笑った。
「約束は守るぞ。それが俺の引出物だ」
わっはっはと、随分久しぶりで例の笑い方をして、それから本当にようやく、彼女の格好に気がついた。
「そんな姿で風邪をひくじゃないか」
「大丈夫よ」
「いや、だめだ。もう家へ入れ。おおそうだ」
くるり、と振り返って、
「お前ら、もういいから出て来い」
がくんとガイがひっくり返り、アーティが支えそこねて自分も倒れた。
「あああ、あの馬鹿」
「え、あの、ハイデッカ。もしかしたら、」
ティアが徐々に赤面する。ハイデッカだけが意気揚々と、
「おう。あいつらも来てるんだ。さっそく報告しなくてはな。早く来いと言ってるんだ。とっとと動け」
「真夜中に騒ぐな、馬鹿」
ガイとアーティは、自分たちが夜中にこそこそやってきたような姿勢で、現われた。
 二人揃って、バツの悪い笑顔を並べる。
「よお、ティア」
「夜分遅くたいへん申し訳ありません」
ティアは真っ赤になった。さっきまでのことは、全部筒抜けだったと気づいたからだ。
 左肩をそっと抱きよせて、ハイデッカが、
 「俺とティアは結婚するぞ」
 どばん、と言ってのけた。ティアは思わず羞恥でうつむいたが、何とか顔を上げて、
 「そうです」
 二人は、少しの間、ハイデッカとティアを見比べていたが、やがて、各々のいい笑顔になって、
 「おめでとう」
 異口同音に言った。
 ありがとう、と頭を下げてから、恥ずかしさが戻って来る。
「こ、こんな所で立ち話もなんだから、家へ来て、ガイ。アーティさん」
「悪いな。は、はは」
「あの、どうぞお構いなく」
馬鹿な男だけが元気いっぱいのままで、この世の春とばかりに騒いでいる。
「さあさあ入れ。ティア、そんな格好でいると体に悪いから、こいつらはほっといて寝ていいぞ。え、話すのか?じゃあちゃんとした服に着替えて」
「静かに、ハイデッカ」
 三人の声が揃い、最後にガイの、このバカという声だけがはみ出た。

「結婚式は、エルシドでやっても構わんぞ。まあ多分、バウンドキングダムでも祝ってくれるだろうしな。その後どこで住むかなんだがなあ。エルシドに住みたいだろうが、俺は一応王子の指南役で、衛兵隊長だからなあ。でもどうしてもここがいいと言うのなら、俺が毎朝ここから通ってもいいぞ。うむ」
「そりゃあ御苦労な事だな」
ぼやきのような合いの手を入れる。さっきからずっとこの調子なのだ。
ガイは、お茶を煎れているティアを、頬杖をついて見上げ、
「いいのかあ?そろそろ後悔してんじゃないのか?止めるなら今のうちだぞ」
案外本気で言っている。
ティアはくすくす笑って、首を振る。
「一時の気持ちで了解したんじゃないわ。随分前から、ハイデッカのことは見て知ってるんですもの。気の迷い様がないわ」
「うーん。それは、その通りだ」
「何をごちゃごちゃ言っとるんだ。お前は素直に祝おうという気がないのかあ」
「あるある。あるに決まってるだろうが」
それでも、なんとなくお座なりに感じられて、ハイデッカはぶうぶう文句を言った。それから、笑った。今は結局何を言われても嬉しい。
アーティはティアの、幸せに輝く顔を見た。
四狂神との戦い直後の、自分の気持ちに折り合いをつけるのが精一杯といった顔とは、別人のようだ。
 つい、呟いた。
「あなたを、苦しみの淵から引き上げてくれる手は、この人のものだったのですね」
「そうなんです」
ティアが素直に肯定した。
アーティの言葉は、ティアの静かな気持ちに、ぴったり添っていた。
だから、ティアは言えると思い、言った。この人たちの前で言っておこうと思った。あの人と、セレナさんと、共に戦っていた人たちの前で。
「三人とも、聞いてくれる?」
アーティは黙ってうなずき、ガイもおやという顔になってから、真顔になり、ちゃんとティアに向き直った。ハイデッカは少しの間ティアを見てから、何故か立ち上がった。
「私は、マキシムが好きだったわ」
誰も遮らず、否定せず、彼女の言葉を聞いている。水のようにしずかに。
「あの人と共に歩けないと知った時、あの人はセレナさんと共に歩くのだと知った時、死にたいくらい辛かった。
でも、あの人を愛したことは、今では誇りなの。決して忘れないわ」
そうか、とガイが低く呟いた。アーティが、微かにうなずいて、その後静かに微笑んだ。
「あの人を愛したことは、誇りか。うーん、いいなあ」
ハイデッカが脳天気に言って、うんうんとうなずく。
「あいつが聞いたら、さぞかし喜んだろうなあ。いや、照れたな。それから、ハイデッカの前でそんなことを言うな、とかなんとか俺に気を遣ったことを言うんだろうな」
ガイは、呆れ返った顔で、ハイデッカを見た。
こいつの中には、自分が惚れた女が、前に惚れていた男、という色眼鏡は、存在しないんだろうか。
あくまで、自分にとって好敵手であって、かけがえのない仲間としてのあいつだけが、懐かしく胸に居るのだろうか。
そうなんだろうなと思った。でなければ、これから先ティアの心の奥底に、いつまでも居続けるあいつの影に、堪えれられる筈がない。あいつなら仕方ない、いやそれが当然だと、心の底から思っているのだろう。
「お前には負けたよ」
つい、ため息が出た。
「お前ならきっと、ティアを幸せにしてやれるよ」
ガイの言葉に、ティアは頬を上気させ、何故かアーティを見た。アーティは、さっきと順番を違えて、微笑んでからうなずいた。
「なあーにを当然のことを重々しく言っとるか。そんなことは自明の理ともいうべきことだ」
「いや」
いつまでも続きそうな台詞を、何も否定する所はなく遮って、
「お前こそが、ティアを幸せに出来るんだ。あいつではなく。あいつがいなくなったからとか、あいつがいなければお前たちが出会わなかったとか、そういった事全て関係がない。
 ティアを幸せに出来るのは、過去から未来までたった一人お前だけだ」
今度は、ティアはガイから目を離さなかった。少し青ざめて見える表情で、じっとその言葉と向き合っている。厳粛でおごそかな顔を、アーティは見ていた。
荘厳な雰囲気をぶち壊して、ハイデッカが眉を掻きながら、
「おいおい、どうしたんだ。お前ともあろう者が俺様を誉めるとは。具合いでも悪いのか。何かして欲しいことでもあるのか?腹をさすってやろうか」
「ぶぁっか野郎。手前はーっ」
「おっなんだ、やるのか」
例によって例のごとく始めた二人を見比べ、後の二人は顔を見合わせた。
 少し考えてから、アーティは静かに言った。
「わたしは、あなたとマキシムのことを、直接には知りません」
こくりと顎を下げる。
「しかし、あなたの先ほどの言葉で、あなたにとって彼を愛したことは、たとえ報われずとも決して良くないことではなかったとわかりました。あなたの人生にとって、彼は、力強く闇を照らす道標の灯になったのです」
アーティは目を閉じて、開き、ティアを見上げた。
「その灯は、ハイデッカも、胸に持っている。ガイも、わたしもです。皆が、道に迷い、引き返そうかと弱気になる時、踏みとどまって前進を続ける決断をするための光です。どんな困難にも負けずに立ち向かっていった、彼の姿が、そのまま共に戦った全てのひとの心に、消えない灯となって輝いている」
ティアの瞳に、その灯がともっているように、輝いた。
二人も、取っ組み合いの姿勢のまま、アーティの言葉に聞き入っている。
薄い唇が、すっきりと微笑んでから、さっきのガイのように厳かな表情になって、まっすぐにティアを見据え、
 「ですが、灯は灯でしかない。その灯を掲げて人生を共に歩く相手は、他にいます。
わたしも思う。ハイデッカこそが、その灯の力を知り、灯に嫉妬するようなことなく、あなたと共に歩くひとなのだと。
二人で、その灯を胸にともしたまま、あなた方の未来こそを目指しなさい」
しいん、と室内が静まり返っていた。
いつの間にか胸の前で組んでいた手を、ぎゅっと握りしめ、
 「ありがとう」
 少しかすれた声で、ティアが言った。
「ガイの言ってくれたことも、アーティさんの言ってくれたことも、私にとってこの上ない最高の贈り物だわ」
じっとうつむき、握った手を震わせ、顔を上げる。
「あなたたちみんなに会えて、本当に良かった」
涙が浮かんで、揺れた。頬をすべりおちるより早く、ハイデッカが駆け寄って、ティアを抱きしめた。
「ハ、ハイデッカ」
ティアがうろたえ、ガイが赤面する。アーティは動じない。
「泣くときは俺の胸で泣けと言ったろう」
よく、ああいう事を、俺たちが見ているまえで平気でできるよなあ。やっぱりこいつは、神経が数本、抜けているのか元々ないのか、その辺だ。
それから、ハイデッカの腕の中で、もがくような寄り添うような中途半端な姿勢で、真っ赤になりながらまごうことなく喜びの光をたたえているティアの顔をちらっと見て、
あいつは、どちらかというと、無言の思いやりで相手を支えるタイプだった。セレナに対してさえ、人前で肩を抱きよせたり、手を握ったりするようなことはなかった。
ああいう、開けっ放しの、ただひたすら捧げ奪うような愛情表現は、ティアはされたことがなかっただろう。多分、生まれてから一度も。
女はね、わかっていても、時々言葉が欲しくなるのよ。
俺が、ジェシィに対して何もないことに対して、セレナが赤くなりながら戒めたことがあった。ティアは、そのセレナ以上に、言葉に飢えていただろう。決して求められない言葉。君が好きだという言葉。それから、愛情のこもった眼差しと、抱きしめようとする腕と胸と、それら全て。
奔流のごとく怒涛のごとくティアを繰り返しいとおしみいつくしむハイデッカの態度は、なんだか、その分を取り返させようとしているかのようだ。
ふと、そう思ってから、この馬鹿がそんなことまで考えてはいないだろうと、苦笑した。ただひたすら、自分が愛した女を抱きしめられる喜びに打ち震えているというだけのことだ。
かいがいしく、その割に荒っぽく素手で涙を拭ってやっている姿に、野次をとばす。
「その格好を城の方々に見せてやりてえな」
「ふん。そのうち見せるぞ。披露宴でぱーっと」
逆に威張られてしまった。
「ハイデッカ。やっぱり、式はバウンドキングダムで挙げましょう。あなたがお仕えしている国王や王子は、私もお世話になっているのだし」
抱擁からゆるく逃れて、ティアは赤い顔で言った。
「うーむ。そう言ってくれるのは本当に嬉しいが、エルシドのみんなに祝福されたいのじゃないか?いっそのこと全員をバウンドキングダムまで連れていくか」
「でも、お年寄りたちにとっては長旅すぎるわ」
「こうしたらいかがですか」
アーティがにっこり笑って、
「わたしも、式に呼んでいただけるということを前提に話すのですが」
言い終わらないうちに、ハイデッカが怒鳴った。
「なにをつまらんこと言っとるんだ。呼ぶに決まっているだろう!」
「ハイデッカ、静かに。でも、本当にそうだわ。そんなこと言わないで下さい、アーティさん」
「まあまあ。このエルフさんは礼儀正しいのが過ぎて少々無礼になってるんだよな。お前、少し厚かましいかなくらいで丁度いいんだからな。でないと今みたいに怒られるぞ」
間に入ったガイの言うことを、慎妙に拝聴してから、
「すみません、お二方」
「いや、その、謝られると困るが。でもそうだぞ。全く」
「そうだわ。でも、あの」
怒りながら困っている二人に、くすくす笑ってから、
「わたしの村に、ミルカという娘がいます。ガイは良く知っていますね。わたしとあなた方とが知り合うきっかけになった事件を起こした娘です」
「ああ、あの気の強い、お下げの可愛い子か」
「俺も知ってるぞ。お前らが虚空島から戻ってきた時に、お前にへばりついていた娘だろう」
二人が声を上げた。
 「あの子は母親譲りの魔力を持っていましてね。あの子とわたしの二人で、結界を張れば、この村の住人全員を同時にスィングで運べますよ」
三人は目を丸くした。
「そんなことが出来るのかあ?全員って、十人じゃ足りないぞ」
「大丈夫でしょう。それほど難しいことではありません」
「あの、本当にお願いしていいのかしら」
ティアが、ハイデッカを見上げてから、嬉しそうに、
「もし、そうして貰えたら、とても嬉しいのだけれど」
「任せて下さい」
静かに言いきって、一度だけうなずいた。
「…ありがとう、アーティさん。村のみんながいて、この人の国で式が挙げられるなんて、最高だわ」
「すまんな。よし、お前には一番いい席を用意してやる。かぶりつきで見てくれ。お菓子もやるぞ」
「なんだそれは。観劇と間違ってないか」
アーティが吹き出した。
「ジェシィとヒルダも精一杯めかしこんで来るだろうぜ。あいつらじゃ飾りたてても大して変わらないけどなあ」
「そのまま、お前も一緒に挙げちまえばいいんじゃないのか。結婚式」
「またそれかよ。いいんだ。する時にはする」
旗色が悪くなってきたのか、ガイは立ち上がって、
「じゃあ今夜はそろそろ帰るぜ。詳しい日程だの決まったら教えろよ。行こうぜアーティ」
「はい」
「おい待て。俺も行く」
ガイは驚いて、
「何言ってんだ。せっかく話が決まったんだから、語り明かすなり何なりすりゃいいだろうが」
「いや。結婚までは、夜泊まっていくような不埒な真似はせん」
きりりっと言って、
「ティアにふしだらな評判がたっては、俺の立つ瀬がない」
「だから、お前ら結婚するんだろうが」
「駄目と言ったら駄目だ」
「お前は、助平なんだか頭がかたいんだか、よくわからねえな」
ティアはうつむいて笑ってから、
「ありがとう、ハイデッカ」
「いやなに。本当はずっとここに居たいんだが。まあそのうち、ずっと居られるようになるからな。わっはっは。わーっはっは」
「静かに」
三人の声が揃った。
 「ごほん。えー、本当はおやすみのキスというやつをしたい所なんだが、式までそういうことはしないでとっておく」
偉そうに述べてから、両手でティアの顔を包み込んで、じっと見つめ、
「今日は今までで最良の日だ」
 ガイが白けた声で言った。
「ほら、先に行こうぜ、アーティ。いつまでかかるかわかったもんじゃない」
「今行く。ちょっと待て、おい」
慌てて駆けてくるハイデッカをちらと見てから、アーティは無造作に、
「スィング!」
すんでの所で間に合った。

誰もいなくなった庭を、戸口に立って見送り、それからティアは深く息をした。なんて、いろんなことがこの数時間の間にあったのだろう。
それは、あの数週間に似ていた。
ものごころついた頃からずっと、自分はマキシムが好きで、それを言い出せないまま幾年もの年月を過ごした。それが、数えられるほどの日々の中で、突然に決着がつき、まるでなにもなかったかのように独りになって、放り出された。
あの日々は一体何だったのだろうと、後で思った。
物事というものは、自分で思っているほど、理路整然と同じ速度で進むものではないらしい。プリフィアの種をまこうと外へ出たあの時から、まるで春の嵐に吹き飛ばされて、全然別の場所に立っているようだ。
だが、今度は、独りで放り出されたのではない。
ティアの頬を、喜びの涙が伝いそうになった。だが、誰かの胸でなければ泣けなくなった彼女は、それを我慢した。

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