自分が何かに揺すられていることに気づいた。それから、やたらに体が重いことに気づく。
目を開けると、誰かの腰が見えた。日に焼けた裸の胴と、生成の下着を付けた腰の、丁度境の所だ。
これは、と思った途端、突然どさりと床に放り出されて、息が止まった。何をする、と言おうとしたが、声は出なかった。その代わりに、
「ここでこいつを、」
「わかってるわ」
ごくあっさりした会話を、男と女の声が交わした。
顔を上げると、すぐ側にあの女が居て、どこかをじっと見ていた。視線の先の方向からは、何やら肉を打つ音や、おぞましい奇声が聞こえてくる。それは暫く続いて、やがて止んだ。
誰かの足音が戻ってくる。魔物か、と思って慌てておき上がろうとしたが、着ている鎧が重くて思うように動けない。もがいている間に、女は数歩そちらへ歩み寄り、
「大丈夫?」
「うむ」
この時ようやく、体を起こすことが出来た。床の上に座り直した男を見て、
「あら」
「気が付いたか」
ララとハイデッカが、それぞれ呟いた。
がちゃがちゃ音を立てて、ルーイは二人を見比べた。ララはあっさりしたドレスを着て、皮の小手をつけ、皮の脛あてをつけている。ハイデッカは落ちてきた時と同じ格好だが、太い木を切って釘の頭を出しただけという感じのこん棒を持っていた。
さすがにばつが悪く、上目遣いに二人を見て、
「これは…」
鎧を示した。
「今まで出てきて、あたしが着られないやつは、全部あんたが着てんのよ。それだけ着こんでりゃ、ムカデやクモに噛み付かれたって、歯は立たないから、安心しなさい」
女の言い方に、反抗心が頭をもたげたが、今の自分の有り様では何を言っても馬鹿にされるだけだと、苦々しく思い知って、
「それはそれは、有り難いことだったな。御苦労さん。さすがに腕利きの戦士ともなると、違うもんだ」
横を向いてぶつぶつ言った。睨み付ける女の目が、侮蔑と憎悪で燃え上がるのを見て、ハイデッカが口を開いた。
「気がついたなら、自分で歩け。万一奇襲された時に備えたいからな」
「ああ、今迄重くって済まなかったな。でもそもそも、あんたが俺を気絶させたからなんだ。まあ、自業自得と言って言えないことも」
「うるさいわね!黙って歩けばいいのよ、この屑野郎が」
たまりかねて女が叫んだ。
「なにぃ?屑だと」
「ああ屑よ。なあに?威張っちゃって。このひとが知らないと思って。あのねえ、こいつ、」
ララは何かを思い出して、意地悪い、黒い笑い方をした。あてつけがましい、厭な笑い方だった。
「自分の女が、他の男に貰ったものを呑み代にしちゃったのよ。そのくせ、女が戻ってくるもんだから、慌てて買い戻そうとして」
「黙れ!」
絶叫したが、鎧の重さで身動きがとれない。ララの笑い声が高くなった。
「文無しで質屋に来て、めそめそ泣きながら言ってたのよ。返してくれよう。あいつが帰ってきちゃうんだよう。頼むよう。ははーん、みっともない。馬ぁ鹿」
男の顔色がなくなり、目の色が薄くなった。
突然、げらげら笑っているララの頬を、ハイデッカが叩いた。強く打ったのではない。寝ている人を起こすような感じで、ぱん、と払ったのだった。
ルーイも、ララもきょとんとなって、ハイデッカを見た。
「趣味が悪いぞ。やめろ」
長々と説教する訳でもなく、それだけ、おまけのように付け加えて、歩き出した。この男に置いていかれたら、たちまち魔物の餌食にされるので、二人は慌てて立ち上がり、後を追った。
と、男がつまづいて転んだ。強打した鼻を押さえながら、つまづいたものに八つ当たりしようとして、絶叫した。
どこに潜んでいたのか、粘着力のあるゲル状の生き物が、ルーイの足にからみついて、じわじわと侵食を開始していた。
「いやあああ!」
ララの悲鳴が上がるより早く、青いどろどろした身体が、次々に床の上にあふれてくる。
「助けてくれえ!うわーっ」
「動くな」
声で、腹を捕まれるような気がして、もがいていた動きを止めてしまった。次の瞬間、鳥のような素早さで、ハイデッカの一撃がブルージェルの小さな脳めがけて落ちた。一度、びくりと動いてから、ルーイを襲った個体は水に戻った。必死で立ち上がると、がちゃがちゃ騒ぎながら男は逃げ出した。残されたハイデッカは、計五匹の真っ只中で戦う羽目になった。
身をたわめてから、二匹同時に、恐るべきスピードで飛び掛かってきた。頭に激突されて、脳震盪を起こしかける。足がふらついた。
「う」
「しっかりしてよ、ちょっと!逃げるんじゃないわよ、戻ってきてあんたも」
しかし、ルーイは部屋の一番向こうまで逃げて、頭を抱えている。
一匹がはねて、顔に張りついた。窒息させようというのだ。ハイデッカは引き剥がそうとしたが、両手も他の二匹がまとわりついて、動かない。
ララは回りを見た。遠くに、宝箱があった。必死で駆け寄り、開けた。何か攻撃用のアイテムでも入っていないか?目潰しでも、眠りの粉でも、何でもいい。
中に入っていたのは、小振りの剣だった。ショートソードと言われる、ごく一般的な武器だ。
一瞬、躊躇してから、ララは柄を握った。
意識が薄くなった時、不意に両手が動いた。顔にへばりついたのをはがして、床に叩き付ける。肺いっぱいに空気を吸い込んで、咳込む。見ると、ララが剣を振り回して、床に落ちた一匹を串刺しにしていた。
「助かった」
しわがれた喉で感謝する。ララは汗びっしょりになって、はあはあ息を荒げ、
「剣て重いのね。全然思うように動かない。これあんたにやるわ」
うなずいて、咳を連発しながら、受け取った。渡した手で、ハイデッカの持っていたこん棒を奪い取る。
「おい、」
「ないよかマシでしょ。あたしも持つから」
何故か、ちょっと恥ずかしそうに言ったララに、この時初めて、ハイデッカは微笑んだ。
その笑顔に、ララは顔を赤くして、なによ、とか何とか小声で言ってから、
「いつまで逃げてんのよ。戻ってきなさい、弱虫の役立たず」
怒鳴り散らした。
「いや、どうせあっちが出口だ。行くぞ、ララ」
「うん」
顎をつくようにして答えて、ララはちら、とハイデッカの遥か上方の、乱れた髪を見上げた。
歩きながら、尋ねる。
「ね」
「何だ」
「さっき、どうしてぶったの。あたしのこと」
「ああ、済まなかった。まだ痛いか」
「馬鹿ねえ。痛くなんかないわよ。あんな程度の力だったじゃない。…でも、どうしてかなって思ってさ。あいつのせいで、あんたそんな目に遭ってんのに、どうしてあいつをかばったの?」
「言っただろう。悪趣味だ。それだけだ」
「それだけ?本当に?あ、あんたも同じような目に遭ったことがあるとか」
マキシムの贈り物を、買い戻して、ティアにやろうとしている。
これは、ちょっとニュアンスは違うが、似たようなことなのだろうか?
素直に考えてみたが、当然わかる筈もなく、傾げた首を戻して、
「多分、違うだろう。わからん」
「そうよね。あんたはそんな、めそめそした弱虫じゃないもの。ていうより、そんな弱虫って滅多にいるもんじゃないわよ。初めて見たわ。多分他にはいないわね」
側まで来て、嘲るように言った。男は白っぽい目つきで二人を見上げたが、一番の重装備で壁際にうずくまっているとあっては、さすがにもう強がりも出ては来なかった。
下への階段は、次の部屋にあった。開けていない宝箱がないことを確かめてから、三人は降りた。

「どうする。…どうしようも、ねえな」
自分で言って、自分で結論を出し、深く息をつく。
アーティはガイの背をちらと見てから、洞窟の入口へ視線を移した。
何もかも手から放して入らなければならない洞窟。力という力の全てと、地上へ戻る出口と。
ハイデッカは、一体今、どこでどうしているのだろう。それを知ることができる者は、誰もいない。一緒に、闇の中へ消えていったという、男と女の他には。
いつ戻ってくるのか。いや…戻ってくるのか?
アーティの切れ長の目が、すっと細くなった。
「ガイ」
「なんだ?」
「ティアさんに、教えなければならないと思います」
ガイは驚いた顔でアーティを振り返った。
「お前、こんなこと、言えるか?ティアに」
「わたしが始めにハイデッカに言い付かったように、数日、用事で留守にするというだけなら、別に教える必要はないでしょう。ですが」
おう、丁度いいところに来たな。お使いを頼まれてくれ、アーティ。
いつもと同じ、でっかい体を揺らしながら近づいてくる。あの笑顔が、最後に見た彼の姿に、
ならないことを祈るしかない。
「教えないでいる訳にはいかない事態でしょう。
ティアさんはハイデッカの許婚です。知らなければならないと思います。わたしと、あなたの次には」
エルフという奴は、人間よりも感情の起伏が乏しいと、言われている。
決して、情感に欠けているのでなく、その場その場での感情に流されないだけなのだと、今の俺は知っているけれど、
そしてこの場合、こいつが言っていることが正しいのだと、俺はわかっているけれど。
「じゃあ、お前が連れてきてくれ」
俺は御免だ、という言葉の別の言い方のように、ガイは低い声で言った。それから、そんな自分を恥じるように、付け加えた。
「説明は、俺がするから」
「いいですよ」
一同に背を向けて、ふわ、とマントが翻った。風がおさまる前に、アーティの姿は消えていた。
彼のマントが静まったのは、どんぐりが背比べをしているように同じ姿をしているエルシドの建物に、やわらかな午後の日差しが降り注いでいる中でだった。
もうすっかり、アーティの姿は、皆に知れていたし、このひとが偉大なる大魔法使いで、我々皆をティアの結婚式に連れて行ってくれる恩人なのだと、一人残らず納得していた。
「あ、アーティさん、ようこそ」
「ティアなら家にいるよ」
彼の姿を見ると、全員が笑顔で声をかけてくる。
皆が、ティアのことが好きで、ティアに幸せになって欲しいと思っていて、ティアの相手がハイデッカだということを祝福してくれている。
そのことが、直接的な言葉を使わなくても、まるでこの日差しのように、静かに胸に流れ込んでくるのだった。
ティアの家の前に立つ。ノックをする。
「はい」
やわらかな、まだ少女のような声がして、ドアが開く。
「あら、アーティさん。いらっしゃい」
まだ何も知らない、晴れやかな、これから先の自分の前に広がる幸せを、信じて疑わない笑顔が、アーティを迎える。
突然、痛みに似た怒りが、アーティの胸に閃いた。何故、この娘には、こうまで幾多の試練が課せられるのだろう。何かの意図があるのだろうか?ヘラクレスやプロメテウスの子孫なのだろうか?どこまで続くのだろう。涙という名を持った時から宿命づけられたとでも、いうのか。
「ティアさん」
「はい?」
「お話があります」
いつも静かな男の、やはり静かな声を聞いてから、ティアの唇から笑みが引いた。波が引くように。
「…ハイデッカに、何かあったのですか?」
ティアに当てた瞳を動かさず、口を開いた。
「はい」
「何が、」
「来て下さい」
伸べた手に、急いで掴まる。ふぁ、と風が舞って、二人はいにしえの洞窟まで飛んだ。
細い足が、帰還の石盤の上に降り立った。ガイが、のろりと顔を上げて、肩越しに振りかえった。兵は、この人は確か、という顔で、どぎまぎしている。ティアは少しよろけてから、
「ガイ…アーティさん、ハイデッカがどうしたの?」
声が高くなりそうなのを懸命に自制して、二人に問い掛けた。
ん、とガイが力無く答えて、少し黙ってから、
「ちょうどいいから、あんたにも含めて、教えてやる」
兵に言って、立ち上がった。その顔が土気色なのを、ティアは見つめているうちに、自分の内側がどんどん崩れ落ちていくのを感じた。ただ事ではない。なにか、とんでもないことが、あのひとの上に起こったのだ。
茶色の目が、アーティと同じ物を映した。
「ティア、覚悟して聞いてくれ」
ぎゅっと目をつぶり、無理に開けて、ガイは話し始めた。
「ハイデッカがな、いにしえの洞窟に入っちまった。入口はそこの穴だ、近づくなよ。ティアはいにしえの洞窟を知らないな?」
「ええ」
大きな声が出ない。大声で叫びたいのだ、ハイデッカはどうしたの?今どうしているのかをまず教えて!洞窟の説明はいいから!しかし、かすれた声しか出ない。さっきまでは、サイレンのように鳴り響きそうなのを抑えていた筈なのに。
そんなティアを見つめたまま、ガイはいにしえの洞窟について、全てを告げた。
入ったら最後、上へ上がる階段のない、閉鎖空間だということ。
装備も道具も魔法さえも失い、力という力全てが半分以下になること。
モンスターは山のように出るし、下へ行けば行くほどどんどん強くなること。
戻る方法はただ一つ、どこにあるのかもわからない天使の像を見つけ出すしかないこと。…
兵が途中から悲鳴を上げ始め、最後は泣き出したが、ティアは何も言わなかった。じっと、ガイの口元だけを見つめている。
「もしも、あいつがその天への祈りという像を見つけ出せたら、そこの紋章の上に降ってくる。それがいつになるのか」
果たして、戻ってくる時が本当にあるのかどうか、
「わからない。その時までは」
もしも。中で、あいつが力尽きたら?
それは決してわからないのだ。死体は戻ってこないのだから。わざと、そう言葉して考え、口にはせず、ガイはティアを、自分の口元を見つめている娘を見つめた。
「助けには行けないのですか?もし、そのう、」
兵が泣きながら、ガイとアーティを見比べた。これだけの力のある人たちなら、多少弱くなったって、きっと助けにはなる。もし、行ってくれると言ってくれるなら…
「行って、助けになれるなら、あんたから話を聞いた時点で、俺たちはとっくに入口に向かってるよ」
ガイが無理矢理に笑ったが、すぐに消えた。苦笑さえも、苦く苦く滲んで、笑いは萎んで消える。
「え、あの」
「ここはな、同時に入らない限り、同じ場所には行けないんだ。後から入ったところで、中で出会うことはない。何の助けにもなれないんだ」
さっきから一言も口をきかないティアを、暇そうにしていた街の男はじろじろと眺めて、
「このおねえちゃん、誰だい。もしかして、あの隊長さんの」
兵だけが男を見た。ガイがうるさそうに、放るように言った。
「許婚だ」
「へえ」
再びじろじろと眺め、
「こんなにべっぴんさんがいるのに、何が悲しくてあんなことをしでかしたかね。結婚式もあげないうちに未亡人に仕立てて、何かいいことがあるのかね。保険金だっておりやしない、籍が入ってないんじゃあ。あんたも不運だな」
ガイが何か怒鳴ろうとした。兵は泣きながらわめこうとし、アーティはティアに何か言おうとした。
誰よりも早く、
「あのひとは、助けようとしたのよ。二人を」
ティアが、静かな声で言った。
男四人が、ティアを見た。
「なんだって?」
代表としてか、街の男が、馬鹿でかい声で尋ねた。
ティアの瞳は、真っ直ぐに、洞窟の入口を見ていた。その瞬間の、ハイデッカを見ているのだろうか。
かつて、ティアの笑顔を胸に抱きしめながら、魔境のような洞窟へ突っ込んでいったハイデッカの横顔を、ティアは胸に抱いて、
「この洞窟のことを、何も知らない二人だけで入ったら、絶対に出て来られないわ。
だから…一緒に行ったのよ。
中へ入ってしまう二人を助けるために」
沈黙が、一同を包んだ。それを破ったのは、やはり街の男だった。
「なんて…馬鹿な。それまでなんの面識もないただのどこかの馬鹿のために?」
「そうよ。知らない二人のひとのために、咄嗟に命を賭けたんだわ」
ティアの声は、誇らしげではなく、さりとて怒りや悲しみでどうにかなってしまったと、いう風でもなかった。
「これからあんたと結婚して、幸せになろうって矢先なんだろう?どうしてそんな時に、気違いじみた犠牲的精神を発揮したかね。偉いとか立派とかいう範疇じゃないよ。ほとんど自殺だ」
たまりかねて兵が男にむしゃぶりついた。
「何てこと言うんだ!取り消せ!」
「だってそうじゃないか、今ならあんただって、あの洞窟に自分から入っていくことが何を意味するか、わかるだろ」
もめている二人とは無関係に、ティアは続けた。静かな静かな声だった。
「自分がどういう時かとか、犠牲とか立派な行為とか、そんなことは考えてなかったわ、きっと。
今目の前で、何も知らない二人が洞窟に入っていこうとしていると思った時、走り出していたんだわ。それに」
目を閉じる。
ハイデッカが、歯を剥いて、大声で笑っている。
自分に向かって、あの大きな手で、大きな腕で、力一杯抱きしめようと、近づいてくる。
「自殺なんかじゃない。
必ず戻ってくるわ。約束したんだもの」
「ティア」
「ティアさん」
二人は言って、ガイが項垂れた。
「あの馬鹿…かっこつけやがって。ティアを…幸せにしてやることより先にすることなんか、何もありゃしねえんだ!畜生」
「申し訳ありません」
深く、頭を下げたアーティの、声がかすかにかすれている。
「我々にはどうすることも出来ない。たった今ハイデッカの側に行って、助けることが出来ないのでは、…魔力も武力も、何の意味もない」
「ううん、違うの、アーティさん」
珍しいといえばあまりに珍しい、アーティのそんな姿に、ティアは首を振って、
「私がもし、今洞窟に入れば、あの人の所に行けるのだとしても、私は行かないわ」
ガイが目を開けて、ティアを見た。
「心配よ、胸が裂けるくらい。今だってしゃがみこんでしまいそうなくらい。行けるなら、今すぐあのひとの側に行きたい。でもね、行っても、私は足手まといにしかならないわ」
どこかで聞いたとガイは思った。
俺はこのフレーズを、どこかで聞いた。
そんなガイの気持ちがわかったように、ティアは微かに笑みらしきものを見せて、
「落ちる塔の上で、私はそうセレナさんに言われた。あの時はこのひとなにを言ってるんだろう、このひとは私みたいにマキシムのことを愛していないんだと思った」
「あっ」
思い出した瞬間、声が出ていた。
崩れていく壁、無くなっていく足場。まだ幼いところのあるティアの顔が、涙と怒りで震える声で、背の高い女戦士にくってかかっている。
よくそんなことが言えるわね!あなたはマキシムのことが心配じゃないの?
「でも、悔しいけど、結局その通りだった。今なら、…たった今ならそのことが、よくわかるの」
胸の前で組んだ手が白くなるほど力を込めて、
「今のままの私が行ったところで、あの人の助けにはなれない。かえってあの人の負担を増やすだけだわ。なら…待つしかない。そうね。本当にその通りだわ。
本当に愛しているのなら、待つしかないのね。
セレナさんは、本当に、マキシムのことを愛していたんだわ。今、心の底から理解できた」
今更のように、そう認めて、遠く息をついた。それから、強く首を振って、
「私は、ハイデッカのことを本当に愛している。だから待てるわ。
マキシムのことは、待てなかったけれどね」
そこで、不似合いな笑い方をしてみせた。
言葉のないままのガイに、
「大丈夫。剣の次に得意なことは、死なないことだって、言ってたもの。
私がいいと言うまでは、決して死なないって…約束してくれたんだもの」
涙はなかった。
信頼だろうか、信念だろうか。そういったものとはまた、少し違う気がする。
石段の上から降りた場所に立って、ティアはガイと、アーティを見て、
「私、ここで待ちます。ハイデッカが還ってくるのを」
かすかに肩が震えている。
本当なら、泣き叫んで洞窟へ飛び込んで行きたいのだ。
あの時、この娘は、どんなに止めてもマキシムのところへ行くと言ってきかなかった。どうしてマキシムだけがこんな目に遭うのと言って、泣きじゃくっていた。
あの時は。
銅像のようになった一同を見渡して、男が、
「なんだかよくわからない理屈だね。とっととここを去って、別の男を探した方が、賢明だと思うけどねえ。あんたが幸せになった方が、あの隊長さんにとっても嬉しいんじゃないのかね」
最後の方は笑っている。
誰も返事はしなかった。

息を整える。正直言って喘ぐという感じの息遣いだ。
伝うのではなく、はっきり滴ると言っていい勢いの血を、ララは懸命に止めている。
「あんた、大丈夫?痛い?」
言わずもがなのことを言われて、ハイデッカはちらと笑った。
「それほどでもない」
「それほどでもあるわよ。こんなに血が出てる。ああ、どうして傷の治療薬が、ちっとも見つからないんだろ!」
腹だたしげに舌打ちして、傷の少し上を縛る。
「そう言うな。毒を食らわなかっただけマシだ」
「毒…」
ぎょっとする。毒消しなんて一個もない。今の状態でこの大男が毒にやられたり、麻痺したら、お手上げだ。
敵はどういう訳か、加速度的に強くなっていく。数もどんどん増しているような気がする。
「今、地下何階だっけ」
何度尋ねたかわからない問いをする。自分だって答えは、聞かなくてもわかっている。三人で、幾度数え合ったかわからない数字だ。
わかってはいるが、ハイデッカはそう言わず、答えてやった。
「地下10階だな」
「まだ半分なのね。あと半分もあるんだわ」
道程は、今迄よりずっときつくなるし、あと10階降りれば必ず天への祈りがあるとも限らない。そのことも、言わなくてもわかっているが、わざわざ言うことはしなかった。
「こっちに、宝箱がある」
ルーイが震えながら言っている。顔を向けると、あまりにも重装備な部分と、ほとんど素裸の部分のバランスの悪さが、まるで宴会芸のようになっている男が、通路の入口からこちらと向こうを見比べながら立っていた。情けないへっぴり腰は、後ろから蹴ったら簡単に転びそうだ。
「へえ。取りに行ったら。防具ならどうせあんたがつけるんだから」
どうして取りに行かないのか知っていて、ララは意地悪く言った。
案の定ルーイの顔が歪んだ。口元が厭な形になって、
「宝箱のそばに魔物がいるんだ」
「あらあ、そう。それは運が悪かったわね」
高笑いする女の胸に輝く水の石を、ルーイはうらめしげに睨み付けた。あれさえ装備できれば、今よりずっと防御力があがるのに、という顔をしている。
切れ味の悪くなった剣を手に、ハイデッカが立ち上がった。
「まだ傷が開くわ。動かない方がいいわよ」
「そうも言ってられん」
さばさばと言って、ぶん、と一回剣を振ると、ルーイの所まで行って、
「下がってろ」
自分が通路の向こうへ歩み去った。
ハイデッカの戦う姿を後ろから眺めながら、つい、呟いた。
「まだ終わらないのか?」
「よくそういうことが言えるわねえ。信じられないわ」
途端にララが毒づいた。
「何だよ」
「人に戦わせておいて、宝箱の中身は自分が付けて。それでよくでかい顔してられるわよね。まだ終わらないのかですって?だったら自分で戦えばいいでしょ」
「うるさい、この女!でかい顔はお前の方だろうが。いちいち難癖をつけるな」
「おい」
はっとして二人が見ると、いつの間にか戦いを終えたハイデッカが立っていた。
「脛あてだな。ほら」
ぽんと、薄い金属でつくられた防具を手渡されて、ルーイの顔がバツの悪さで赤黒く染まった。ごそごそ装備している姿を、ララは思い切り鼻で笑って、
「良かったわねえ。これでまた寿命がのびたわね」
「ララ」
別の部屋を探していたハイデッカに呼ばれる。
「なに?」
「これはお前だ。身につけろ」
差し出しているのは、ブロンズブレストだった。
「うわ、結構重そうじゃない。あたしがつけられるかしら」
ララは自覚はしていなかったが、最初の頃より、品をつくるようになった。しかし、それは珍しいことだった。自覚して品をつくって男にしなだれかかることは日常的にやっていたが、自覚せずにというのは、逆に、ほとんどない女だったからだ。
「大丈夫だ。お前よりもっと華奢な娘も、これをつけて戦っていたからな」
「あらあ、ひどい言い方するのね」
「なにがだ」
「お前よりもっと華奢な、なんて。あたしはそんなに華奢じゃないのかしら」
ちら、とハイデッカを見る。ハイデッカは真面目に、
「そうは言っていない。ただ、お前はその娘より体格がいいし、膂力もあると思うだけだ。なにしろ」
ルーイに一瞥を投げて、
「あの平手打ちを見せられてはな」
「ひどーい」
つくった拳で、ぽかと叩く。二人とも笑った。
「ねえ、つけるの手伝ってよ」
「ん」
肩と、胸の下で金具を留めてやりながら、あの時のティアのことを思い出した。魔物の牙と爪で傷だらけになったブロンズブレストの肩が、千切れそうになっていた…
「案外軽いのね。動き易いし、いいわ」
ハイデッカも、ルーイがさっきしたように、ララの胸の谷間に押し込められた石を見て、
「大丈夫なのか」
「なにが?」
「その石だ」
「やだ。エッチねえ」
けらけら、と笑ってから、上目遣いに見る。目に込められた艶っぽさには脂粉の匂いさえ感じ取れる。しかしハイデッカは相変わらず大真面目に、
「エッチではない。そんなふうにしておいて、走った時取れて落ちたりしないのかと聞いているのだ」
「大丈夫よぉ。ちょっと走ったくらいで落ちるくらい、胸は小さくないわよ」
言いながら、ぎゅ、と胸を寄せて、谷を深くしてみせる。
「ふん、そうか。ならばいい」
そこまできてから、ふと女の胸と、顔を見比べ、赤面する。ララは得意げになって、もっと胸を強調してみせた。
「だから、落ちないならいいと言っているんだ」
「いやねえ。何赤くなっているの?」
わざとらしくそんなことを言って、下から睨め上げる。
「ふん、こんな所でまで、男に尻を振る気かよ」
ルーイが厭な笑い方をしながら、言った。
「なんだ、入ってきたばかりの頃は、男二人に何をされるのかって顔をしていたくせに。今はなんだ?かわるがわるにやられたいとでも言い出しそうだな」
不快感が、喉の奥から込み上げてきた。
何か言葉にしたら、同時に吐いてしまいそうだと思った。
「なんだよ、不服そうな顔しやがって。今のそいつなら喜んで相手をするぜ。根は淫乱だからな、本当なら金をもらってすることでも、相手が気に入れば誰でもOKなんだ。その上宝石まで貰ったんなら、サービスたっぷりだろうさ」
「あら。いくら金を貰ったって、いやな奴はいやよ。例えばあんたとかね。世界に男があんた一人になったって、相手は御免だわ。カノジョにだってそれで逃げられたんでしょ。人のことをとやかく言えるの?」
動じず、女はいなした。ルーイの表情が粘土のように歪む。思い切り、ざまあみろと言いたくなって、すんでのところで止める。
「ルーイ」
「なんだよ。ざまあみろとでも言うのか。馬鹿女にへこまされて返事もできないでる弱虫の、役立たずって、言いたいのかよ」
声が涙でぶれてくる。ララはうんざりした顔で、泣いている重装備隊のような男を、見下ろしている。
「お前は、どうかすると、女は相手は誰でもよくて、金目のものさえもらえば誰の所へでも行ってしまうという意味のことを、我々に対して吐き散らすな」
「…」
返事はない。ただ、無言で泣いている。
「お前がそういう結論に達した、それまでの経緯を、俺は聞こうとは思わん。さっき多少聞いてしまって、それをお前が否定しないから、なんとなくは知ってしまったが」
とにかく、真面目に言うから、笑ってしまう。この人は真面目に言っているのだろう。でも、やはり可笑しい。ララと、ルーイさえもが、ふへ、と笑ってしまった。
「俺はお前に説教する気はない。そんなに、女との関わりが多い訳でもないからな。
ただな、お前が言ったことがそのまま当てはまる男もいるし、全然当てはまらない女も居る。それは確かだ。…それだけ、言っておく」
それだけ、と言ったのは本当だったらしく、自分の言った言葉の効果を確かめることもせず、突然先に立って、歩き出した。例によって、二人は考え込んだり余韻にひたったりする間もなく、大慌てで立ち上がると、後を追った。
涙で光る顔を、必死で手で拭う。
なんだ、偉そうに。結局は説教してるんじゃないか。
胸の中で、例によって難癖をつけるが、言葉にはしなかったし、そのくらいの長さで終わってしまった。
変な奴だ。
今まで、自分の経緯を聞いて、腰抜けと罵倒するか、嘲って笑う奴以外に会ったことがないルーイにとっては、ハイデッカは変な奴というしかない相手だった。
そんなに女との関わりが多い訳でもないって、本当だろうか。じゃあ、この石は、誰にあげるつもりだっていうんだろ。嘘吐き。
ララは、ぎゅぎゅ、と胸の谷間に石を押し込んだ。
もうこれはあたしのものだ。返せって言ったって返すもんか。この石は、あたしがこのひとから貰ったものなんだから。もし助かったら…そう、皆に言ってやる。この石をやる女にもだ。勿論だ!
一見、物欲のようで、実は微妙に違う感情が、ララの目の奥にあった。

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