もうすぐ夜明けだ。
黎明の光には、何かを期待させる力がある。
冷え切った唇を紫色にして、ティアは、はれぼったい目を、一度とて外さない紋章の上で、瞬かせた。
じっと座っているティアの、少し後ろで、これまたじっと動かない、二人の男の姿も、払暁の光に縁取られて、黄金色に輝きだした。
いつまで、戻らなかったら、バウンドキングダムの王に告げなければならないだろう?
二人の結婚は、5月の最初の満月の日と決めていた筈だ。
あいつは当分戻りません、実は底無しの穴に落ちまして、と言って…いつまで延期するんだろう。そんなこと、誰にもわかるわけがない。
ティアは、あいつが戻るまであのままなんだろう。やーめた、と言って立つことは、決して有り得ない。マキシムには、セレナがいて、二人で幸せになるのだと知ったから、あの時のティアは去ったのだ。今のティアが去る、どんな理由があるというのか。
このままでは、ティアさんは病気になってしまう。
無理にスクレイをかけてでも休ませるしかないだろう。寝て、食べて、待って。…ティアさんはエルフではない。それは、人間の生き方ではない。
だが、普通の人間の生き方を、ティアさんは選ばないだろう。
ハイデッカが帰ってくるまで。
それはいつになるのか?
ガイも、アーティも、同じことを、違う方から考え、結局途方に暮れて、立ち尽くす。
幾度目かに、二人が、同じ交差点に差し掛かって、思考の足を止めたその時だった。

夜明けの太陽よりもまぶしい、純白の光が、石段の上で炸裂した。
三人は反射的に立ち上がった。
光は来た時と同じく、唐突に去った。
そして、後には、
身体に合わないやたら大袈裟な鎧と、ひょろひょろの足と、泣き腫らした鉛色の顔の男と、
ぼろぼろになった皮のドレスと、ぐちゃぐちゃになった長い黒髪と、変にたくましい腕にこん棒を下げた女と、
それから、全身傷だらけで、いたるところに魔物の歯形や、爪痕を刻み、全身朱に染まった、下着姿の大男が残された。
現れた三人は、随分経ってから、目を開けた。三人同時だった。
そっと、回りを見渡す。
そして、張り裂けんばかりに目を見開いて、涙をぽろぽろこぼしながら自分を見詰めている娘(と、その後ろで、どんどんわやになってゆく男二人)を目に留めて、大男は叫んだ。
「ティア!」

その言葉で、呪縛を解かれた娘は、だっと駆け出した。しかし、それより早く、男はどすどすと近寄りながら、手を伸ばして、
「どうした、何があった。何を泣いている」
「なんて、間抜けなんだ、あいつは」
ガイが呟いた。
「他の何で泣いていると思っているんでしょうね」
アーティが、無表情な声を出した。
ティアは、なにも言わずに、ハイデッカの伸ばした腕をすり抜け、胸に顔を埋めると、しっかりしがみついた。二度と離れまいとするように。
それから、声を上げて泣き出した。子供のような泣き方だった。
「ティア、ティア、どうしたのだ。どこか痛いのか。何が辛い。言ってくれ」
うろたえて、ハイデッカは、もどかしそうにティアを抱きかかえた。
ティアは激しく首を振って、もっと強くハイデッカにしがみついた。彼女の服も血だらけになったが、そんなことはどうでもいいらしかった。
さっきまで、あんなにして、魔物と戦ってたのに。
今では、単なる、女の子の言動に左右されてるだけの、間抜けな男だ。
男と、女は、ぼうと突っ立って、ハイデッカと、ティアの姿を眺めていた。
「あんたたち…この中に入っちまったっていう、二人か」
ガイが、尋ねた。ルーイは首を巡らせ、相手を見たが、ララはハイデッカから目を動かさなかった。
「ああ、…そうだ」
「そうか。手当てをするから、降りなよ」
「…わかった」
ぼそぼそと答え、ルーイが足を踏み出し、石段から降りた。途端に、身につけていた鎧や、脛あてや、ちぐはぐな装備の全てが消え失せ、この洞窟に入る前の、ごく当たり前の旅人の格好に戻った。驚いて男は声を上げたが、すぐにまた無表情に戻った。このくらいのことでは、もはや感情は動かなくなっているのだろう。
アーティが進み出て、手をかざすと、ごく簡単に呟いた。
「エスリート」
緑の光に押されて、よろめいた後、自分の怪我やなくなった体力の全てが戻っていることに気づく。
「あ、有難う」
アーティは黙って首を振る。ルーイはララを振り返って、
「お前も治してもらえよ」
言いづらそうに言った。ララは何も言わずに、後に続いて降りた。途端、傷だらけのブロンズブレストや、こん棒が消え失せ、ララは右手で宙を掴んでから、手をほどいた。華やかな酒場の服装が、今の彼女には奇妙に浮いて見える。
ただ、何もかも消えたのかと思った、その大きく開いた胸元には、変わらずに水の石が輝いていた。
「あ」
ガイが声を上げて、アーティを見、それからハイデッカを見た。
「ねえ」
呼ばれて、ガイは顔を戻した。傷を治してもらって、生気の失せかけていた目に、強い光が戻っている。その目で、ララが自分をじっと見ていた。
「これ、どうして消えないのかしら?」
ララの顔と、声に、何かを感じて、ガイは少し考えてから、正直に答えた。
「これはもともとあの洞窟にあったものだからだ。以前、俺と、あいつと、他に二人で、あの洞窟の中で見つけたものなんだよ」
「貸しといてやるって、言われたの。これは…あのひとが、あの彼女に、あげようと思ってるからなの?」
「これはなあ」
ガイは少し黙った。しかし、何故か、やはり正直に答えていた。
「一緒に洞窟に入った男、あの娘が昔、好きだった男との約束で、あいつが取り戻しにきたらしい」
ティアが、電流に触れたように、顔を上げて、ガイを見た。
うなずいて、
「そいつは、別の女と結婚した後、魔物との大戦で、帰らなかった。で、あの馬鹿が、男の代わりに、石を探しにきたんだとさ」
ティアはハイデッカを見た。まだ石の紋章から降りないから、ハイデッカは下着姿の間抜けな格好のまま、うろたえた顔をして、
「う、あ、うん。まあな。ガイ、なんでお前がそんなことを知ってるんだ」
「お前の可哀相な部下どのが報告してくれた内容から、推察した」
「あいつ、要らないことまでへらへら言ったんだろうな。畜生」
「ハイデッカ」
胸の中から、自分をきっと見つめる、涙でぐしゃぐしゃになったティアの顔に、慌てて向き直る。
「そうなの?…マキシムが…?」
「ああ。
何もかも終わったら、この宝石のような色の髪をした娘に、やってくれと、頼まれたのだ」
ガイとアーティの目に驚きが閃き、ティアの目に、さまざまな感情が動いた。しかしそれきり、誰も何も言わないので、ハイデッカは少し考えてから、うなずき、胸の中のティアに向かって口を開いた。
「あいつは、君と一緒になることは、なかったかも知れない。でもなあ、ティア、あいつはあいつなりに、君の事を、ある意味誰よりも、大切に懐かしく思っていたのだ。俺はそう思う。そう思った。
だから、あいつの願いは、なんとしてでもかなえてやろうと思ったのだ。
今では、もう俺しか、いないからな」
そう言って、ハイデッカは、にっこり笑った。血だらけの、傷だらけの、顔で。
誰もが、声を失くして、ハイデッカを見ていた。
「自分の恋人が、前好きだった男の、贈り物を、届けようとして…」
ララが、読経のように、低くとなえてから、長く息をついた。
ルーイは、何も言わずに、ハイデッカの顔を、くいいるように見つめている。
「馬鹿ねえ」
泣くように、笑うように、ララが言った。
ティアはゆっくり、首を振る。それから、やりきれない声で、
「なんてこと…ハイデッカ、あの人とあなたの気持ちは…でも、でも、」
それから、もう一度泣き出した。
「有難う、でも、やっぱり」
泣きながら叫ぶ言葉はぐじゃぐじゃで、よく聞き取れない。
「心配で心配で、気が違いそうだったわ」
「わかったわかった、ティア、悪かった。ただその、まさか、君にそんな思いをさせているとは、想像もしていなかったし…ガイ、お前か、ティアに教えたのは」
「わたしです」
すらりと、アーティが答えた。
「教えるべきだと思ったから教えました。ティアさんは、あなたのことを自分以上に考える人間ないしエルフのうちの、ひとりですから」
「難しい言い回しを使うな!ただでさえふらふらなのに、余計倒れそうになる!」
ガイが大声で笑った。
アーティも笑い、仕方なしにハイデッカも笑った。
ティアは、泣きながら、笑っていた。
「さあてと、大馬鹿大将も戻ってきたことだし、ティア、そろそろ治療させようぜ」
はっとして、離れる。大慌てで辺りを見渡しながら、
「そうね、御免なさい、私ったら」
「いや、いいのだ。君を抱きしめていられるなら、それだけで怪我なんぞ治ってしまうからな」
そう言って、もう一度、しっかり抱きしめる。
「待っていてくれたのだな。有難う、ティア」
静かな声と、閉じた瞳に、ティアは一生懸命寄り添って、低く言った。
「戻ってきてくれると信じていたわ」
「勿論だ。どこからだろうと、必ず君のところへ戻る」
アーティはにこにこしているが、ガイは赤面し、
「いい加減にしやがれ、手前ら!二人だけになったらイヤというほどやれ!さっさと降りてこい」
全く、とぶつぶつ言ってから、ララを見た。
なんとなく、ララの感情に、ガイは気づいていた。
ララは、自分の胸の中で生き生きと輝いている石を、黙って見下ろしていた。
あのひとが危ないと思った瞬間、この石から不思議な力が吹き出して、あのひとを助けたっけ。
倒れそうな身体を互いに支え合って、尽きることのない魔物の大軍と、一緒に戦った。
「女がいることなんか、知ってたわ。そんなこと、どうだってよかった」
自分が声に出していることも気づかないで、そう呟いた。いつのまにか、あたしは、
そんなことどうでもよくなっていた。

「これ、あたしに頂戴」
厚かましく、尊大に、傲慢に、ティアよりずっと大きな胸を強調しながら、ララは胸元の石を、胸で示す。
ハイデッカは困って、
「あ、あのなあ、ララ、それは言ったように」
「聞いたわ。そっちの彼女の、昔の男からのプレゼントなんでしょ」
わざと、蓮っ葉に、ハイデッカが嫌うような、品の無い言い方で。
「それをわざわざ、結婚前にあげようっていうあんたは、本当に能無しのうすのろだわ。これ以上ふさわしくない贈り物ってないわ」
「そ…そうかも知れないが」
「いいから、あたしに頂戴よ。記念にさ。彼女には自分でなんか買ったげなさいよ。女は贈り物さえもらえれば何でもいいんだから」
「しかしなあ」
「いいの。ララさんにあげて」
ティアが、きっぱり言った。
「洞窟の底で、随分助けてもらったんでしょう?あなたから、ララさんに上げて。ね」
「ティア、でもこれは、マキシムが…」
「いいのよ」
それきり、なにがどういいのかも説明せず、背を向けて、行ってしまった。
「ああら、あんたの彼女がそう言ってるんじゃない。だったらあんたがへどもど言う必要はないでしょ」
げらげらと大声で笑ってから、ふっと、口元だけで笑って、
「いい子じゃない」
「うむ」
「臆面もなく言うのね、この馬鹿は」
図々しく、ひとを小馬鹿にして、鼻で笑って。
「じゃ、あんな目に遭わされた駄賃に、貰ってくわよ。さよなら。お世話様」
ぷりぷりと尻を振って、立ち去る。
「ララ」
無視して、大分遠ざかってから、振り返って、
「なに」
うるさそうに。
「お前はいい女だ」
驚いた顔になり、泣きそうになって、なんとか、馬鹿にした顔をつくって、
「あんたに保証されても、嬉しかないわよ」
ぷいと背を向ける。向けた向こうで、ララが泣いているのを、ハイデッカは知っているのか、知らないのか、黙ってたくましい背を見送った。
胸の谷間で、水の石が光を返す。
あたしは、この洞窟であったことを、誰にも教えないだろう。あたしがこの洞窟に入って、生きて戻ってきたと知ったら、話を聞きたがる男は数え切れないだろうけど、
あたしは黙っている。その綺麗な石はどこで手に入れたんだ、って聞かれても、
教えない。あいつ以上に、いかした奴が現れるまで。

「あの…」
なんとか、声を出してみたものの、言葉が見つからない。おどおどと足元を見つめているうちに、不意に、何かに背を押されて、慌てて叫んだ。
「悪かったよ。あんたも、ララも、ひどい目に遭わせて、」
叫んでから、これは自分の言いたいことではないと思った。言葉を止めて、顔を上げる。
ハイデッカが、大真面目な顔で、腕組みをして、待っていた。
その顔を見たら、すとんと素直になった。正面から、ハイデッカの顔に、
「彼女が、どうして俺から離れていったのか、ようやくわかった。あんたが教えてくれた」
「そうか」
静かに、
「別に、自分に正直になるのは、死ぬ間際でなくてもいいと思うぞ。生きているうちになれれば、もっといい生き方ができる。その方が、ずっといい」
丁寧に、一生懸命に、大層に、威張って言う。
ルーイは、うなずいた。誰かの言葉に、肩をすくめたり、鼻で笑ったりしないで、素直にうなずいたのは、随分久し振りのことだった。前回がいつだったのか、思い出せない。もしかしたら、ものごころついてから初めてのことかも知れない。
「あんたは、すごいな。本当に、そう思うよ」
「その通りだ」
謙遜すべき所で、思い切り肯定する。ルーイは笑った。この男の、皮肉やあざけりを含まない笑顔を、初めて見たとハイデッカは思った。何もかも初めてのことばかりだ。
「あんたみたいな人がいるなんて、俺は思わなかった」
頭を下げる。
「有難う」
そう言ったら、何故だか、涙が出てきた。魔物に襲われたり、女の石を奪おうとして平手打ちされた時とは違う涙だったが、傍目にはあまり違っては見えなかった。
「泣き虫だな、お前は」
ハイデッカは呆れたように言った。それを聞いて、ルーイはうなずいて、
「昔からなんだ」

もっとも、泣き虫という点では、ハイデッカの部下の方が上かも知れない。朝日が昇った辺りで、グルベリックの街から新しい水を持って、ティアのところへ行くのが日課になっていたので、今朝も同じように、大きな壷と、鉛色の顔色をなんとか支えてやってきたのだった。一段落ついたところの一同の前に現れ、目を大きく大きく見開いて、隊長、と言ったきり、あとはおんおん泣き出して話にならない。
「うるさいぞ、いい加減に泣き止め」
「いえ、ですが、隊長、わたくしは、わたくしはぁ」
あとは延々泣き続ける。直立不動で、山々の間をこだまするような大声で泣き続ける部下に、ハイデッカは困惑しきって、
「どこを押せば止まるんだ」
ティアが吹き出した。
「ほら、兵隊さん。あんたの隊長は無事で戻ってきたんだからさ。安心しなよ」
「良かったですね」
「は、はい。ガイさんも、アーティさんも、お世話になりました。本当に、有難うございました。わたくし一人ではもう、もう、どうしていいか」
またもや泣き出しそうな兵を叱り付けて、
「お前、陛下や殿下に何ぞ申し上げたりしなかっただろうな」
「はい、出来るものならしようと思っていたのですが、ガイさんに止められまして」
「ほう」
ちろ、と隣りのガイを見る。ガイは威張ってハイデッカを見返した。
「気の利く男だな」
「だろう」
二人は同時にふん、と言ってそっぽを向いた。
「ですが、隊長がなかなか戻られませんので、皆さんもう既に、かなり不審に思われておいでです。あ、ティアさんも姿を消したきりだと、エルシドの皆さんが心配していらっしゃいました」
「そうだろうな」
笑顔で戻ることが出来て、本当によかった、とティアは思った。5kgも痩せて還ってきた、あの時はあれでよかったけれど、今回は違う。今回は本当に違うのだ。
「さてと。当初の目的のものは無くなってしまったが、まあよしとしよう。皆、戻るぞ」
「はい」
「はっ」
「おう。長い逗留だったな、アーティ」
アーティは微笑して、す、と腕を上げ、一同をエリアに入れると、
「とりあえず、バウンドキングダムへ行きます」

もうすぐ結婚式だろうにどこまで魔物退治に出かけたのだ、と皆に非難され、魔物退治なら何故僕も連れてゆかなかったのだ!と勘違い王子に叱られ、恋敵のプレゼントを取り戻しに行ったらいにしえの洞窟に入る羽目になりまして、と言う訳にはいかないので、でかい身体を小さくしたまま、ハイデッカにとって長い時間がのろのろと過ぎた。
ティアも、追い込みに入っていたドレス部隊に、一体この時期にどこまで新婚旅行の下見に行ってた訳!?と散々ののしられた。まさか目の下に隈をつくっていつ戻るとも知れないあのひとを待っていたの、とも言えず、肩をすぼめて、御免なさい、と繰り返すばかりだった。
ガイと、アーティは、ただ黙ってそれぞれを見ていた。笑うような、ほっとするような、情けない顔で、ただ見ていた。

風の強い夜だ。意志があるような勢いで、窓を揺さぶり、叫び、遠ざかってはまたやってくる。
幾度目かに、ひときわ大きな音がしたと思ったら、掛け金が外れて窓が大きく外に開いた。ん、と声に出して言って、ばたばたとわめきたてる窓に手を伸ばし、強く閉めた。窓が閉まる瞬間、外の、春の匂いが濃く薫った。
「もう春だな」
呟いて、その言葉につられて微笑んだ。春という言葉は、もうすぐそこに迫った自分の結婚式に繋がっている。
もうすぐだ。あと少ししたら、教会の祭壇の前に立つ。後ろから、近づいてくるのは、純白のドレスに身を包んだティアだ。どんなに愛らしく、美しいことだろう。世界中を鉦と太鼓で探したところで、そうは容易に見つからないくらい美しい花嫁姿だろう。絶対そうだ。その姿を早く見たい。
そう思ったのと同時に、泣きながら、自分の腕の中に飛び込んできた姿を思い出した。あんなにも胸を痛めて、涙を流していた。可哀相なことをしてしまったという切なさと、自分のことをあれほど案じてくれていたという多少歪んだ喜びで、ハイデッカの眉はしかめられ、口元は緩んだ。
あの娘が、もうすぐ、俺の妻になる。
これから俺とティアは、お互いのことだけを見て、お互いの名だけを胸に刻み、ともに手を取って、生きてゆく。俺の胸に身をあずけるのは、ティアだけだし、ティアが寄り添うのは俺の胸だけだ。
うたうように、心地よく言葉はハイデッカの心をすべってゆく。もし傍に誰か居て心の詩を聞いていたら、浮いた歯がばらばら床に落ちそうだと思うか(例えば、ガイなら)約めて言えば半分になる文章だと冷静に思うか(例えば、アーティなら)どちらかに大別されるだろう。
しかし、どちらだとしても、詩の主をくさしたりはしないだろう。
冷やかしたり、茶々を入れたりしながらも、最後には男の幸福を心から祝うだろう。
ハイデッカはそういう男だった。
再度、ばあんと言って窓が開いた。留め金が弛んでいるのか、今夜の風が特別性なのか、どっちなんだろうと思いながらハイデッカは、それまでにやにやしながら上の空で磨いていた剣を椅子に立てかけ、立ち上がると、窓のところまで行った。せわしなく動いて今にも吹っ飛んでいきそうな窓枠を掴んで、勢い良く閉めようとした時、信じられないものを見て動きを止めた。
雨は降っていない。ただひたすら風が吠え猛り、草木をなぎ倒し迂闊にもおもてに出しっぱなしにしていた台車や桶をふっ飛ばしてゆく。その誰か迂闊者の桶が大きくバウンドして、一本の木にぶつかったはずみで箍が外れ、ばらばらになった。その破片のひとつが、彼女の腕を打った。
「!」
驚きのあまり口はぱくぱくするばかりで、言葉にならない。
細い手が上がって、桶の一部がぶつかったところをそっと押さえたが、大したことはなかったらしく、手はすぐに下りた。それから、乱れまくる髪をその手で押さえた。申し訳ないような、脅えたような表情が、随分遠くなのだが、はっきり見て取れた。
ハイデッカはなおも数秒、その場でうろたえていたが、
「何をしているんだ、俺は」
腹立たしげにわめいて、部屋を出ようとし、それから踵を返すと窓を大きく開け、窓枠を乗り越え飛び降りた。今度は彼女の方が驚いて、二三歩寄ってきたが、ハイデッカの巨体は思いの外身軽に着地した。窓の位置は三階だった。兵舎だからあまり天井が高くないとしても、普通の人間が飛び降りる高さではない。
ダメージはないらしく、すぐに立ち上がるとどすどすと駆け寄ってくる。手を広げ、いつもの格好だが、目の前まで来てさっき桶の破片がぶつかっていた腕をそっと取り、
「大丈夫なのか」
「ええ、平気」
そうか、とそのことについては安心して、それから新たな懸念に眉を上げ、
「一体どうした。何があった」
「ええ、…」
言いよどみ、俯いてゆく。明るくはない白い顔に、ハイデッカは気をもんで、
「とにかく、中へ入ろう。ここにいるとまた桶がぶつかってくる」
真面目に言ったのだが、うなずいてから、くすりと笑った。そのことで少しほっとする。入口まで、それほど距離はないのだが、ハイデッカは全身で彼女を守るようにして進んだ。
中に入ると、風の叫び声は少しだけ低まった。ふう、と息をついて、
「どこで話すか。広間の灯は落ちてしまったし、かと言って」
自分の部屋に連れていくのは、ちょっと憚られる。ここまで来て何言ってんだ、とガイには言われるだろうが、どうにも踏ん切りがつかないのだった。結婚前の若い娘を個室に連れ込むなど、と心の声がする。その相手が、あと少しで自分の妻になるということとは、どういう訳か別問題なのだ。
しかし、
「あなたのお部屋に連れていってくれない?」
思わずがた、と後ろに下がったハイデッカだったが、相変わらずひどく心細げな表情で、すがるように自分を見詰めている相手の眼差しに、逆らえるはずもなかった。
「か、構わんが」
しかし声は喉に絡んだ。
「有難う」
心からほっとしたようにそう言って、ティアはかすれた息をついた。

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