幸か不幸か、ハイデッカの部屋に辿り着くまで、一人の兵にも出会わなかった。会っていれば、しなくてもいい言い訳をし、それからふんぎりもついただろう。何のふんぎりなのか考え出すと止めどが無くなるので、首を振って考えるのを止めた。ぎくしゃくと彼女を部屋に導きいれ、そっと廊下に首を出し辺りをうかがってから、ドアを閉めた。それから、ドアを開けたままにしておけばよかっただろうかと思ったが、
「御免なさい、急に、勝手に来てしまって…」
ティアの細い声が聞こえて、慌てて彼女の方へ戻った。
「そんなことはいい。君が来てくれるのなら、いつでも大歓迎だ。昼でも夜でも」
大袈裟に手を振り回すのは、太陽や星空をあらわしているのだろうか。ティアは、どことなく情けない笑顔で、相手の腕振り体操を見ている。ハイデッカはやがてその手をゆっくりと下ろして、おもむろに尋ねた。
「どうしたのだ、ティア」
うなずいて、相手の顔に当てていた視線をこっちもゆっくりと下げていく。最後に目を閉じて、
「ひとりで、この風の音を聴いていたの。さっきまで」
結婚したら、バウンドキングダムに住むことにはなっているが、この家へはちょくちょく来るのだから、そんなに気合入れて片づけることはないとハイデッカには言われた。それでも、この家へハイデッカを初めて夫として迎える時には、きちんと綺麗にしておきたい。そう思って、昼過ぎから一生懸命掃除をしていた彼女が、息をついて外を見た時には、既に日は落ち、夜半の嵐に向けて風は強くなってきていた。
「嵐になりそうね」
独り言を言った時だった。
いつだったか、もう忘れた。本気で思い出そうとすれば、多分思い出せるのだろうが。
あの夜も、激しい風が吹き荒れていた。ティアはやはり独りで、店のカウンターについて座り、不安げに外の景色を見つめていた。
もうすぐ嵐が来そうだ。そのことはいい。別に、双親に死なれてから初めて嵐が来る訳じゃない。家が弛まないように、手を借りてちゃんと縄は張ったし、庭や用具類の始末もした。あとは戸に板を釘付けするだけだ、
マキシムが帰って来たら。
思わずティアは息を吸い込んで、顔を伏せた。胸の中は外の空模様と比例して、荒れ騒いでゆく。帰ってこない。一体今どこにいるのだろう。これから嵐になるという日暮れ、マキシムは何故戻って来ないのだ。まさか、
戻りたくても戻れないのではないのか?魔物と戦ううちに怪我をしたり、道を踏み違えて崖から落ちたり、洞窟のトラップが発動してしまったりして、立ち往生しているのではないか…
「やめて!」
つい悲鳴を上げたが、そんな縁起でもないことを考えているのは自分自身なので、止めさせることは出来なかった。胸の前でかたく手を組み合わせて、あまり激しく動悸を打つので外へ飛び出しそうな心臓を押さえつける。その姿勢は祈りの姿に似ていた。
あまりに激しい胸の痛みに耐えるのは、これで何度目になるのか。
そうだ、あの夜のことをティアは思い出したのだったが、似たような夜ならいくらもあった。ただ、二人の未来を象徴するような、あのとびきりに激しい嵐の夜が、一番心に残り易かったというだけのことだ。
帰ってこないマキシムを案じて、張り裂けそうな胸を一人必死で宥めながら、ただひたすら帰りを待つ。他にティアに出来ることはない。あるような錯覚に陥って、あるいはあると思いたくて、旅に同行したが、結局は嵐の夜唇をかみしめてじっとカウンターにすがりついて帰りを待っているのと、大した違いはなかった。ティアが懸命に鞭を振るい、不慣れな呪文を叫んでいる前から、マキシムはどんどん遠ざかっていってしまう。それは、ティアにも、おそらくマキシムにもどうしようもないことなのだろう。
まだ、その定めに気づいていない頃のティアは、ただひたすら祈り続けている。
マキシムが、無事に、自分のもとへ帰ってくることを。
激しい音がして、扉が開いた。もはや暴風に近い。限界だ。
「だって、マキシムがまだ帰ってきていないのに」
弱々しいティアの抗議に反発するように、さっさと扉を釘で打ちつけない彼女に立腹したように、風は吠え、扉は荒々しくその身を幾度も枠に打ちつけた。早くしないとバラバラに壊れて、お前に当たってやる。その後は雨と風と、外の木切れやあるいはもっと剣呑なものを、どんどんここから家に入れてやる。最後にはこの小さな家も、嵐にまかれて吹っ飛ばされることだろう。ざまをみろ。
右手に金槌を持ち、左手に板切れと釘を持って、ティアはのろのろと立ち上がった。
私がここを釘付けにした後すぐにマキシムが戻ってきたら。一体どこに逃げるというのだ。この家が、エルシドで最後に戸が開いている家なのに、ここに入れなくなったら、マキシムはどこに避難するのだ?隣り村まで行くのだろうか、この嵐の中。しかしそこももはや、一件残らず戸は開かなくなっているだろう。戸があいている家があるのを探し回っているうちに、スィングウィングが無くなったら…
戸に向かうティアの足が止まった。
駄目だ。この戸は閉められない。たとえ家の中がめちゃめちゃになり、あるいは嵐で家が吹っ飛ばされても。
ティアは戸を力一杯閉めた。しかしすぐに向こうからすさまじい力で押し返され、悲鳴を上げて転んだ。慌てて立ち上がり、必死で戸を閉める。全身で戸を枠に押し付けながら、泣き出しそうになるのを懸命に堪え、心で叫んだ。
マキシム、お願い、早く帰ってきて!お願い、早く、はやく帰って来て!
知らず、ティアは両手で自分の肘を掴んでいた。あの夜の絶望と恐怖と孤独感を思い出すと、どうしてもこういう姿勢になる。
「ティア、大丈夫か」
ハイデッカは素早く側に寄って、そこから後はぎこちなくティアの隣りに座り、そっと手をティアの肩に回し、ごくごく僅かに抱き寄せた。腕の中から、小さな声がした。
「御免なさい。大丈夫よ」
「それで…マキシムは、戻ってきたのか?」
すぐ側でそう尋ねたハイデッカの顔に、ティアは思わずひどく情けなく、なんとか苦笑にしたというような、つつけばすぐに泣き出しそうな笑顔を見せた。ハイデッカは驚いて、それからやや遅れて口を開いた。
「ティア」
「ええ。…笑ってしまうの、それがね。…」
結果として、ティアは、一晩中戸にしがみついていた。
幾度か吹き飛ばされ床に叩き付けられ、必死で立ち上がっては戸にすがりついて閉めることを、数え切れないほど繰り返した。いつ、外から、開けてくれティア、俺だという声が聞こえてもいいように。そうしたらすぐさま開け放って、家の中に迎え入れることができるように。
嵐はおそらく、彼女が感じた程には強いものではなかったのだろう。でなければ、まだ15、6歳の少女が自力で戸を閉めたままでいられる訳がない。しかし、ティアにとっては、ほとんど永遠とも思われる程長い永い夜だった。どうやら、彼女が戸から離れても風で開かなくなった頃には、ティアは見る影もなくやつれ果て、疲れきっていた。
深く深く息をつきながら、びしょびしょの服のまま、床に座り込んだ。このままだと気絶しそうだと思い、鉛のような手足を動かして、服を着替え、辺りを片づけた。その後だった。
ノックの音がした。
「はい」
しわがれた声が出て、咳込みながら戸に近づき、一晩必死で閉めていた戸を自分で開けた。
外はもう早朝だった。狂ったような速度で空一面の雲が走って行く。僅かに切れ始めた東の空が、美しい桃色に染まり始めている。そして、まだ強い風に眉をしかめていた顔が、ティアに気づいて笑顔に変わった。
マキシムが立っていた。
「マキシム…」
かすれきった彼女の喉と対照的に、マキシムは落ち着いたごく普通の調子で、
「ひどい嵐だったな。入っていいか」
「ええ」
無表情に受け答えしている自分は、一体どうしてしまったのだろう。
一晩、待って待って待ち続けた相手が、嵐が去った後帰って来た。何か、言うことはないのか?もう一人の自分に言われて、仕方なくティアは口を開いた。本当に、仕方なくという感じだった。
「どこに、いたの」
「ああ。隣り村との間の洞窟にいる間に、嵐がひどくなったから、岩陰にはりついて一晩過ごしたんだ」
「どうして…」
「え?」
うまく、言葉を選ばないと、泣き出してしまいそうだ。まるで飛び石のようだ。踏む場所を間違えると、池に落ちて、手が付けられなくなる。
「帰って、来なかったの」
「だって、戸が釘付けされてちゃ、入れないじゃないか」
訳のわからないことを言うなよ、と言うように、笑いを込めて、マキシムはあまりに当然の調子ですらすらと言った。
「ティアなら、親父さん亡くしてから何回か嵐も経験してるから、ちゃんと出来るだろうと思ったしな。大丈夫だったんだろう?ちゃんと戸を釘付けして、寝たんだろ?」
答えを待つまでもない気軽な口調に、ティアは、瞬間、何と言えばいいのかわからなかった。
泣いて怒らないの?と誰かの声がした。
あなたが外にいるのに、私が戸を釘付けすると思っているの?私は一晩、あなたが帰るのを必死で待っていたのよ、こんな有り様になりながら!それなのにあなたは最初から、私が戸板を打ちつけてぐっすり眠ったと思っていたの?
何故そう言って泣かないのか。こういう場合は、泣いてもいいんじゃないだろうか?こうまで徹底的に、完璧に、自分の懸命さをすっころばして、そしてそのことに気づいてもいない男。
しかし。
「…ええ」
ティアは、そう答えていた。そうか、と応じたマキシムの声は、もはやティアがそう答えたという意識さえないようだった。
「さすがに、ちょっと疲れたよ。一休みさせてくれ。目が覚めたら、片づけを手伝うから」
すたすたと、部屋の隅の長椅子へ向かうと、毛布をかぶって横になった。少しもぞもぞしていたと思うと、すぐに寝息が聞こえ始めた。
再び静かになった部屋の中で、マキシムの寝息を聞きながら、ティアはぼんやりと立っていた。
池に落ちてしまえば良かったのじゃないか?
そんなふうにも思う。
泣いて叫んで相手を詰れば、さすがにマキシムにも伝わるだろう、ティアが一晩心配と不安を堪えながら開こうとする戸と格闘していた辛さが。しかし、
自分が今までやっていたことを聞かせたら、
マキシムは勿論、それは済まないことをしたと言うだろうし、彼女の気持ちにも気づかずあんなことを言って悪かったと謝るだろう。そして同時に、優しい笑顔のどこかに、やれやれという驚きを見せる。──そんな相手を見るのは、ティアは思った通りちゃんとやっていた、と納得して寝てしまうマキシムを見るより、辛い。いたたまれない。
一瞬、ティアの胸を突き破って、何かが外へ出ようとした。
しかし、ティアは無表情のまま、それを無理矢理にねじ伏せ、少し震えてから、片づけの続きを始めた。
マキシムが次に目を覚ました時には、お茶の用意がされていて、目が覚めたの、飲む?と尋ねたティアに、お願いするよとマキシムは答えた。部屋の中はきちんと元通りになっていた。そのため、マキシムはこの家に戻ってきた時に、ちゃんと釘付けしてとっとと寝てしまった割には室内が変なちらかり方をしているなと思ったことを、忘れてしまった。
「ひとりで、嵐の音を聞いていたら、あの夜のことを思い出したの。…そうしたら、ひどく不安になってきて、じっとしていられなかったの。それで、あの…
御免なさい、こんなことで、押しかけたりして…」
言いながら、自分はなんて嫌な女だろう、と思った。マキシムとの苦い思い出、帰って来なくて不安で気をもんだのに相手にわかってもらえなかったなどという愚痴を、もうすぐ結婚する相手に聞かせるなんて、ほとんど信じられないほど嫌なことをしている。しかも、ついこの間、マキシムが私にくれるようにと言った宝石を取り戻すために、あんな思いまでしてきた相手に!
ああ、自分は嫌な女だ。本当に、本当に、女のいやらしさの塊みたいなやつだ。だからマキシムにも背かれたのだ、決して相性の問題なんかじゃない、私がこんなに嫌な人間だからマキシムに嫌われただけのことなのだ。
唇が震える。一旦踏み込むと抜け出せない自責の檻だ。認めてしまったらおしまいだと思う反面、その通りだと絶叫している自分もいる。あんたはマキシムに嫌われただけのことなのよ。それを、自分が傷つくのがいやで、ハイデッカこそがあんたの相手だったなんて言ってみせてるだけ。ハイデッカは、あんたのクッション。皆に、マキシムを失ったってことを言わなくて済むように用意した看板なのよ、
『わたしのちゃんとした相手(マキシムのことは本気じゃなかったのよ)』
そして今はその看板に、マキシムって意地悪なひとだったわ、と書き込んでいる。そのためにわざわざ嵐を押してやってきて、部屋に押しかけて…
「ティア!」
強く呼ばれて、肩を揺すぶられる。はっとして上げた目に、張り詰めたハイデッカの顔が映った。
色のないティアの目が、涙にぶれる。
「御免なさい、わたしって、ひどい…最低の」
「俺は」
力一杯、抱きしめる。初めて、結婚してくれと言った時のように、両腕の中にティアを抱え込んで、懸命に泣くまいとしている顔を胸に押し付けて、
「どんな嵐の中だろうと、必ず君のもとへ帰る。君が戸を釘付けにしていたら、無理やり押し入る。その後でちゃんと釘を打ち直すから、安心して釘を打って先に寝ていろ」
笑いの発作に襲われ、それから、堪えきれず泣き出した。
胸の中で声を上げて泣いているティアを抱きしめていると、ハイデッカの胸は、痛みと切なさで切り裂かれるようだ。どうしたら、この娘を心から安堵させてやれるのだろう、とハイデッカは身をもむようにして思った。この前からこっち、いや求婚してからだ。俺はこの娘を泣かせてばかりいる。
しゃくりあげながら、ティアは叫んだ。
「御免なさい、ごめんなさいハイデッカ」
「何故謝る」
「わたし、私、でも、あなたが好きよ。あなただけが好き。本当なの、本当なのよ、」
耳を塞いで、ティアは叫ぶ。
嘘よ。
自分の中に居る誰かの声を必死で遮る。違うわ。断じて違う。
「当たり前だ」
突然、巨大な助け船が来て、あえぎながら息をつぐ。上げた目には、やはりハイデッカの顔があって、不思議そうに、
「突然、なにを言い出す。俺は君のものだ。君は俺のものだ。他の誰のものでもない。そんなことは当然だ」
再び、笑いの発作に襲われる。
このひとは、わたしがどうにも越えられないところにくると、何故こうも軽々と上にいて、助けの手を伸ばしてくれるのか…
助命の呪文のように、命綱に書いてある使用方法でも読むように、ティアは唱えた。
「わたしは、あなたのもの」
「そうだ。君は俺のものだ。誰にも渡さん」
暗黒の海の、一灯。
いや、煌々と輝き渡って、水平線の彼方まで照らしてくれる、灯台のような力強さで、
ティアは、ふかくふかく息をついて、顔をハイデッカの胸へ押し付けた。その上をそっと押さえてやりながら、
「だから君も、俺を誰にもくれてやらないように。俺は、君に捨てられたら、ヤケ酒を呑んで皆にいやがられる与太者になるしかないのだから」
至極まじめに言う。
肩が震えているのは、笑っているのだろうか、それとも泣いているのか。押し付けた顔をうなずかせたようだが、それきり顔を上げずに、ずっと肩を震わせている。
「わかったのか、ティア」
気がかりになったのか、もそもそと尋ねる。ティアは、少し経ってから顔をゆっくりと離し、ハイデッカに向けた。
涙が流れている顔で、しかし、なんとか笑って、
「あなたを、誰にも渡したくない」
「おお。渡すな」
力強くうなずいてから、ハイデッカの顔が赤くなる。どんどん赤くなって、これ以上赤くなれないところまで言ってから、げほり、と咳をして、
「今夜は、嵐だから、その。泊まって、ゆくといい」
ティアは、ハイデッカより更に赤くなって、うつむいた。それから、随分経ってから、うなずいた。

しかし。 照れる必要はなく、その夜は別段、ガイが野次を飛ばすようなことはなにもなかった。ティアはハイデッカのベッドに眠り、ハイデッカはさっきまでティアが泣いていた長椅子に無理矢理寝た。
嵐の音を、こんなにも安らかな気持ちで聞ける夜がくるとは、思わなかった。
ティアは、低い天井を見つめながら、静かに涙を流した。少し離れたところで、あの時のマキシムのような姿勢で、ハイデッカが窮屈そうに眠っている。
あの時のように、相手の寝息を聞きながら、思った。
わたしは、嫌な女だ。
認めよう。嫌われる理由はいくらもある、女のいやらしさばっかり、の女だ。
でも、そんな私はハイデッカのものだ。
私は彼以外の、誰のものにもならない。
そして、
彼が、心底、俺は君のものだと言ってくれるような女には、これからなる。なってみせる。
ハイデッカの匂いのするベッドで、ティアは、今度こそ安心してぐっすり眠った。

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