末の姫の様子がおかしいことに、姉たちはすぐに気がついた。
六人の娘たちの中で最も快活で、美しく、心の優しい、それはもう深海の宝石のようだと皆に誉めそやされ、愛されていた末の姫が。
この頃、めっきりふさぎこんでいる。
いつも、城の最も高い場所にある尖塔の、琥珀のはめ込まれた窓から、頭上の方向をじっと見上げ、その白い手でそっと顎を支え深くため息をついているのだった。
「あの子、一体どうしちゃったのかしら」
五人の姉達は心配そうに話し合った。どの顔もよく似ている。
「つい先日までは、15の誕生日のことを心待ちにしてはしゃいでいたのに」
「そうだわ」
一人の姉がぽんと手を叩いた。
「あの子があんなふうにふさいでしまったのは、15の誕生日の夜に上の世界を見に行ってからだわ」
「まあ」
「まあ」
他の姉達は驚きと、そういわれればという色の声を上げ、お互いの顔を見てはうなずきあった。
「あの時、何かあったのかしら」
「確か、たいそう時化た夜だったと思うけれど」
「ねえ、あの子に聞いてみましょうよ。皆で聞けばきっと答えてくれるわ」
「そうね」
「そうしましょう」
そうよそうよと言いながら姉たちは、今日も妹の姫がひとりもの思いにふけっている塔へ上がっていった。
声をかけると、突然の姉たちの訪問に妹は驚いた様子でこちらを振り返った。青い、綺麗な瞳が見開かれているのが、本当に可愛らしいと皆思いながら、口々に、
「ねえ、何か心配ごとがあるのでしょう?姉さんたちに話してみてはどう?」
「最近のあなたは、見ていられない様子だわ。そら、そんなに痩せてしまって」
「姉さんたちは薄々狙いをつけているのよ。先日、15になった夜に上の世界を見に行って、そこでなにかあったんでしょう」
そういわれた途端、末の姫はびくりと震え、見渡してから、わっと泣き出してしまった。
姉たちはするすると側に寄っていって、白い美しい手で、泣きじゃくる妹の美しいウロコや、愛らしくとんがった頭の先っちょや、力なく揺れるおでこの触覚を撫でてやり、慰めた。やがて、不定期に乱れて翻っていた尾ひれが、規則正しく、王家の者らしく威厳のある調子に戻って、末の姫は顔を上げた。
「姉さまたち、聞いてくださる?」
震える声は、ただそう呟くだけで美しい旋律を奏でているかのような、比類なき柔らかさと心地良さ、胸を打つ響きを具えていた。聞いているだけでうっとりしてくる。それが、この末の姫の、見た目の美しさと心の優しさに加え、もう一つの素晴らしい魅力であった。
その美しい旋律を奏でる楽器とも言うべき口は立派な、堂々とした幅広い顔の端まで届き、やさしげにきゅっと上がっている。その曲がった先にふれてみたいというのが、この城に勤める全ての従者、はしためたちの大それた願いでもあった。
今すぐにでもまた泣き出しそうな妹の様子に、姉たちは胸を打たれ、
「あなた、随分独りで我慢していたのね」
「ばかねえ。何故わたしたちに打ち明けないのよ」
「姉さまたちはね、あなたのためならどんなことだってしてあげるわよ」
そう言われると末の姫は再び、わっと泣き出し、尾ひれの調子は乱れ、姉たちは再び群がって慰め出した。ニ三回、そのようなことが繰り返された後、やっとのことで妹の姫は内心の苦しみについて、ぽつりぽつりと語り始めた。
この、人間のやってこない王国では、15歳になった夜に、上の世界すなわち人間の住む世界を見にいってもよい、という決まりになっていた。上の世界というのは、もうずっと昔に亡くなってしまった王妃の代わりに、王国の規律を取り締まって来た王の母、皇太后が命名した呼び方だった。
姉たちは一番上から順番にその歳になって、上の世界を見に行った。それぞれ戻って来ては、自分が見た美しいもの、珍しいもの、この海の底では決して見られない数々のものを話して聞かせた。その話を最も憧れと熱意を持って聞いていたのは、自分の目でそれらを見られるのが一番最後になる末の娘だった。
中でも、三番目の姉がしてくれた、海辺でぱちゃぱちゃ水をはねかして遊んでいたという、上の世界の住人の話には、末の姫は強く強く興味を惹き付けられた様子だった。
我々のようにひれもないのに、自由に水の中を泳いでいる、大きさからいってまだ幼いと思われる人間。
その体は全部、我々の手と同じ白くむきだしの肌で、ひどく弱々しい印象を受ける。顔にもウロコがなく、その代わり頭のてっぺんにはふわふわした毛が生えていて、海藻のようにたなびいているそうだ。その毛は、我々のものより随分大き目の、瞳の上にも生えているらしい。
顔にウロコがないなんて、変だ、奇妙だ、おぞましいといいつのる娘たちの中で、そんなに変でもなかったと言う三番目の姉の言葉に、
「変なんかじゃないわ。ええ、きっとそうでしょうとも」
たった一人、末の娘だけは断固として同意した。
その他にも、上の世界には空という、海を映したような丸いぴかぴかのドーム型をした青い玻璃がはまっていて、時間によって金剛色や珊瑚色に変わりそれは美しいという話、上の方にはここの付近にはいない変わった姿の、鮮やかなサカナが群れをなしているという話を聞き、憧れはいよいよ募ったが、やはりことさら末の姫の心を惹いたのは、丸い天井から光が失われた後でも、色とりどりにきらきら輝く丸い灯りをいっぱいに灯した、人間の住む街や、水の上を移動する乗り物の話だった。
早く15になりたい。早くそのきらきら光る、人間がつくった世界を見たい。そこに住むという人間を見てみたい。
その熱っぽい眼差しを、期待に満ちた横顔を、王や皇太后は多少の懸念を持って眺めていた。
いよいよその日が来て、身だしなみをきちんと整えてやり、尾ひれに王族の証である貝の飾りをつけてやりながら、姫の祖母である皇太后は、
「たとえどんなに珍しい、面白いものがあっても、不用意に寄って行ってはいけません。殊更人間には、決して近づいてはいけませんよ。遠くから見るだけになさい」
末の姫は多少不服そうだったが、取りあえずはいと言った。その様子にまだ不安なのか、言葉を続けて、
「人間と我々は違う生き物なのです。違うというよりも…」
言いよどみ、首を振って、
「今のお前に言っても仕方がないでしょう。あまり遅くならないで戻っていらっしゃい」
「わかっていますおばあさま。では行ってまいります」
末の姫は喜び勇んで、上へ上へとのぼっていった。いつもならここでひきかえす岩棚から更に上へ。振り返ると城で一番高い塔が眼下に見える。行く手へ顔を戻す。もっと上へ。
幾人かの姉たちが言ったように、『徐々に周囲の濃い緑が薄くなって、だんだん淡い青の色に変わってくる』というような変化がないので、今は上ではヨルという真っ暗な時間なのだろうと末の姫は思いながら、どんどん上がって行った。それにつれて次第に周囲の水がぐらりぐらりと揺れ始め、深い海の底では体験したことはないが、これが「海が時化る」というものなのだろうと思いながらとうとう最後にはぽかりと顔を水の上に出した。
周囲に水がないというのは実に奇妙な感じだと思いながら、姫は辺りを見渡した。
少し先に、強い風と波に揺れ動きながら、巨大な黒いものが浮かび、ゆっくり進んでいることにすぐ気がついて、クジラかしらと思ったが、それは生き物ではなく、その上で沢山の生き物が賑やかに騒いでいるらしい。見上げた目を射るまばゆい灯りは、姫たちが辺りを照らすのに使っている、オデコにある触覚の先の光より遥かに強い。
あれが人間のつくる光なのかしら?あそこで楽しそうに笑ったり音楽を奏でているのが人間なのかしら?
きっとそうだわ。もっと近くで見たい。おばあさまは近寄るなとおっしゃったけれど、波も高いし、気付かれはしない。きっと大丈夫。
末の姫は胸をどきどきさせながら、高い波に隠れるようにしながらそっと船に近づいた。と、
上でわあーと悲鳴が上がった。驚いて見上げた目に、誰かが宙に放り出され、続いて落ちてくるのが映った。
その誰かは、姫と船の間にざんぶと落ちた。どんどん沈んで行く。姫はとっさに海に潜り、その誰かに泳ぎ寄った。
水に落ちた瞬間か、落ちてくる途中でかわからないが、すでに気を失っていたらしい。沈みながらもがくでもないし、姫の手が体を掴んでも、驚く風でもない。
姫は必死でその誰かを抱え上げ、海の上へ顔を出した。
船はなおも少し進んだ所で停まり、後方から強い光が海上に投げられていた。その光に浮かび上がった、腕の中の人間を見て、姫は声をのんだ。
ぐったりと目を閉じ、姫に身を預けきっているのは、見たこともないほど美しい顔をした、年端もいかない少年だった。姫のかいなのようにしろい顔、唇と頬はさんごの色、髪は萌えいづる海藻のような若々しい
黒をしている。歳は、姫とそう違わないように見える。
あまりの衝撃に息も出来ず、姫は雷に打たれたようになって、じっとじっと目の前の美しい顔を見つめた。
後ろの騒ぎが大きくなってきた。波に隠れながらそっと様子を伺うと、浮き輪がばらまかれ、また救援のための小船がいくつも下ろされているようだった。
この方を探しに来るんだわ。
見れば、大層立派な身なりをしている。さぞや、身分の高い方に違いない。
早くあの人間たちの元へ帰してさしあげなければ、と思いながら、どうやって?と戸惑う。この方を連れて私が近づいていったら、あの人間たちはおそらく驚いて大声を上げるだろう。私を捕まえたり、殺してしまおうとするかも知れない。おばあさまがあんなに気をつけろとおっしゃっておいでだったし。
それに、大声でこの方を呼んでいるようだけれど、人間たちの船はもたもたしてさっぱりやってこない。今転覆している者さえいる。何をしているのだろう。
人間への怯えと、人間がさっぱり来ないこと、それからもうひとつ自分でも説明のつかない思い、
もっとこの方と二人だけで居たい。
痺れるような、目が眩むようなその想いに突き動かされて、姫は見知らぬ少年をかき抱くと、ついとそこを離れた。
と言っても。
いつまでも、二人でこうしていることが許されないこと、この少年を元の世界に帰してあげなければいけないことは、聡明な姫にはわかっていた。
きれいな入江まで運び、浜に横たえてやった。自分にとっては水のないところというのは這い上がるだけで一苦労だ。なんとか砂地を見つけて必死で体を持ち上げる姫の、翡翠色の下半身にざりざりと砂が傷をつけた。
しかし、そんな苦痛も今の姫にとってはどうということはなかった。
東の果てがそれは美しい色、そこに横たわる少年の唇のような、胸を締め付ける紅色に染まり出し、彼のあどけない中にも凛としたものを秘めた美しい顔がいよいよはっきり見えてくるのを、姫は息を潜めるようにして見守った。
なんて美しい方。
なんて。
ほう、と吐息を漏らし、姫はたまらずそっと手を伸ばすと、少年の髪に触れ、撫でつけ、そして額と頬に触れた。
限りなく優しく甘く、そして激しく切ない、ふるふると身悶えするような想いが、姫の小さな胸を満たした。
今胸をさいなむものは、一体何だろう。
今までの15年間、一度として味わったことのない、辛くて、苦しくて、もどかしくて、涙が浮かんでくるほどの、けれど―――
輝くような、匂い立つような、他のどんな美しいものを見た時であれ、比較にならないような想いだ。
呼び名を知らないその想いに身をゆだねながら、姫はそっとそっと少年の髪を撫で続けた。
至福のひとときの終焉は丘の上から、軽やかな笑い声や靴音としてやってきた。姫は懸命に身を翻し、のたのたと不格好にのたくりながら海へ戻った。
なんとか姫が全身を水中に潜らせたのと、背後に現れた幾人かが、少年に気付いて声を上げたのが、ほぼ同時だった。
少し遠ざかってから、海の上に顔を出してみると、まだ横たわったままの少年と、少年を介抱する、歳若いシスターの姿が見えた。
自分があの娘になれたら、どんなにいいだろう、と姫は焼け付くほどの渇望に身を焦がし、うっすらと涙を浮かべ、海へ戻っていった。
その後も時々こっそり海の上へ行っては、船が浮かんでいた辺りや、あの入江の辺りを訪れたが、それきり少年の姿を見ることはなかった。はたと気付いてみれば、あの少年がどこの誰なのかも全くわからないままだった。
何回目かに上の世界を訪れた後、何の甲斐もなく空しく戻って行きながら、あの方にはもう二度と会えないのだ、と思った。その途端、涙がこぼれて止まらなくなったのだと、末の姫は言い、やはりここでもほろほろと大粒の涙を零した。
「まあ…」
「そんなことがあったの」
姉たちはよく似た顔を見合わせ、ため息をついた。
「どうしましょう。どうしたらいいかしら」
「どうしたらと言っても…」
「でも、いつまでもこの子が泣いている姿を見るのにしのびないわ」
姉たちは口々に言い合い、一人が、
「その、珊瑚の唇をした身分の高い方がどこの誰か、広い海には知っているものもあると思うわ。皆で手分けをして聞いてまわりましょう」
「それがいいわ」
「そうしましょう」
皆いっせいに賛成し、末の姫のとんがった頭をかわるがわる撫でながら、きっと知っているものもいるから、泣いちゃだめよ、と言って慰めた。末の姫は優しい姉たちの言葉に、再び涙をこぼした。
これこれこういう容姿、ある程度は高い身分、歳は15を過ぎたくらいの人間の少年を知らないか、と姫たちはあちこちに聞いて回った。深海に棲む者たちは人間のことなど知らない者が大部分だったし、最初のうちは何の手応えもなかったが、ある日、上の方を回遊している魚と面識のある召使いが、その人間のことを聞いて来た。
ちい姫さまのお誕生日の翌日に、大騒ぎになっている国があったそうです。ずっと西の方で、そこの第一王子が海に落ちて死んだと思ったら生きていたというので、国をあげてお祭りだとか。その王子の様子に、ぴったり合うんですって。
次期王位継承者と聞いて、ああやっぱり、と姫は得心がいった。あの気品に満ちた顔の線は、やはりやんごとなき身分の故だったのだ。
王子の住む宮殿は海のすぐ側にあると聞き、姫は矢も盾もたまらず、海を西へ向かった。
聞いた通り、白亜の宮殿がそびえている海辺の王国があり、今尚お祭りをしているようだ。海の上に張り出しそのまま海へ入れるようになっている、大理石で出来た階段状の談話場に、夢にまでみた少年の姿を見つけた時には、姫の胸は動悸のあまりはじけとびそうになった。
王子さま。私の王子さまだわ。
姫は息を殺して、そっと近づき、岩陰から愛しい人の顔を見上げた。
その人が目を開いた姿は、今初めて見たのであったが、姫にも負けない程美しく、叡智を湛えた黒水晶の目をしていた。すぐそこで、海に張り出した手摺にもたれ、どことなく憂いを帯びた表情をしているけれど、それはまた上品な顔立ちによく合っていて、思わず隠れている岩陰から出ていって慰めて差し上げたい気持ちにさせられる。
なにを悩んでおいでなのだろう。ああ、お側に行きたい。あの方の瞳に見つめられたい。
「殿下」
声がかけられ、王子は声の方を見た。そして
少しだけ明るい表情を取り戻し、
「これはこれは、ゲッターチームの方々。よく来てくれました。わざわざおよびだてして申し訳ありません」
これが王子の声だ。
姫は天上の音楽を聴くような思いで、その響きにうっとりと目を閉じた。なんて柔らかく、優しく、そして男らしく、それでいて知性と教養に満ちた声だろう。
と、姫から見えない角度の場所に居るらしい誰かが、返事をした。
「この度はご無事で何よりでした」
うっとりしていた気持ちに泥を撥ねられたようだ。耳触りは良いけれどひどく冷たい声で、姫は身を強ばらせた。しかし王子は嬉しそうに、
「僕が海に落ちた時、隼人さんの迅速で的確な判断があったと聞いています。誠に痛み入ります」
「いやあ、その時には見つからなかったんだから、別に恩に感じる必要はないぜ」
別の声がした。図々しくて荒っぽくて分別や思慮のない声だ。姫は不快になった。こんな下賎な者が、なんという口の聞き様だろう。王子に対して失礼ではないか。
「ところで、なんか悩みがあるとかって聞いたぜ。殿下をお慰めしてくれって侍従長さんが言ってたけど?」
この声は…また別の人間だ。音量が他の人間より大きい。ゾウアザラシの声みたいだ。あるいは、ゾウガメの。
この人間も口が汚い。でも、優しくておおらかで、他の二人よりは良い人間らしいと姫は判断を下した。
「その前に殿下、この二人の口のききようをお許し下さいますか。誠に申し訳ございません」
最初の冷たい声がもっと冷たい声で言った。言っていることは正しいけれど、この人の声を聞いているとなんだか、たった独り北の果ての海に連れて行かれたみたいな気持ちになる。姫は両肘をかかえてぶるっと震えた。きっとこの人は悪い人だ。
「ああそのようなことお気になさいますな。ゲッターチームの方々が僕を仲間のように扱って下さると思うと、非常に嬉しく思う程です」
王子の声を聴くと、それまでの不快さが消えてゆく。姫は小さく吐息をもらした。
「それはそれとして、聞いていただけますか」
「ああ。なんだ?」
王子はどうぞおかけくださいと言ったので、いくつか奥にも椅子がおいてあるらしい。
がたがたどすんという音の後、
「僕はこの西の入江に打ち上げられていたそうですね」
「え?あー、あの変なサカナ…」
野蛮な声が何か言いかけたのを、もが、と誰かが口を塞いでから、
「そのように伺っております」
冷たい声が言った。
「最初に発見したのは近くの港に船を持つ漁師だということでした」
王子は首を振って、
「しかし、僕はかすかに覚えているのです、ほんのかすかにですが。…青い目をした誰かが、懸命に僕を助けてくれていたのを」
姫の胸がとどろいた。
私のことだ。
王子は、私のことを覚えていてくださったのだ。ああ、なんということだろう。
「…我々も、殿下の救出に関しては全て聞いた話ですので、さようですかとしか申し上げられませんが」
なんとも歯切れの悪い言い方をしている。
「その、なんだ、王子さまよ。あんた、その、他にはナニをどのくらい覚えてんだ?」
まさか現場にいていろいろ見てたとは言えねえんだよ、というようなカッコを後ろにくっつけて、野蛮な声がそう尋ねた。
「他にですか?いえ、ただ青い目の誰かが僕を助けてくれた、ということをおぼろに覚えているだけです。でもあれは、名乗り出ていた漁師ではない。それは確かです。もっと若くて…」
あれって若かったのか?
若いか年寄りかどの辺で判断するんだろうな?
ていうかバカ王子よくわかったなそれが。
無言の会話は王子にも、姫にも聞こえなかった。姫は今ではぶるぶると震えていた。姫が震える度にちゃぷちゃぷと波が立ったが、王子には気づかれなかった。
なんということだ。
私がこんなに恋焦がれているように、王子もまた私のことを忘れずにいて下さったなんて。ああ、想像もしていなかった。
姫の声が聞こえたかのように、王子がひとつため息をついて、立ち上がるとこちらへ来た。姫は必死で岩陰に体を押し付けた。
手摺につかまり、身を乗り出す。こちらを覗き込めば目が合うかも知れない。
しかし王子はじっと海の彼方を見つめながら、
「もう一度そのひとと会ってみたいんです。僕を助けてくれたそのひとと」
「それはどうしたもんだろうなあ」
あの、呑気そうな声をした誰かが、ちょっと困った調子でそう言ったが、姫の耳には入らなかった。姫の世界は今、瑠璃色に輝いていた。
末の姫はお城に戻ると、ずうっと何事か思いつめているようだったが、この前までのような、ただ気が塞いで仕方がない、という様子とも違っているようだった。
ある時、自分の部屋のカーテンが揺れるので、誰かと思って皇太后が見ると、末の姫が居て、
「おばあさま、私です。お話をしてよろしいですか」
「お入りなさい」
答えた声は静かで柔らかだったが、既に何事か察知しているようだった。
外見は、孫の姫たちとあまり変わらないが、あたまのとんがりには小さい真珠の冠がちょんと乗っていた。これは二百歳を越さなければつけられない飾りであった。それだけ生きて来た年数を物語る、威厳のある水コケが背中のウロコに生えてゆらゆらと揺れている。
姫は祖母のすぐ側に尾ひれをおりたたんで座ると、
「お伺いしたいことがあるんです。私たちと、人間とは、…」
「結ばれることは有り得ませんよ」
言い方は優しいがきっぱりと言葉を継いで、
「わたくしたちと人間とは全然違う生き物です。以前そう言いましたね。わたくしたちは三百年も生きるけれど、人間は百年も生きられない」
「そんなこと、構いませんわ。たとえ百年の間だけでも、一緒に居られるのなら」
叫びかけて、自分がはしたないことを言っていると気づいて口ごもった。そんな姫を痛々しげに眺めて、
「生きる長さのことだけではありません。わたくしたちと人間とは相容れない生き物なのです」
「何故ですか」
「おまえ、上の世界にはあまり長い時間行ってはいけない、明るい光を撒き散らすかたまりが青い天井にある時はことさらと、わたくしやおまえのお父様が繰り返し言っているのを、ちゃんと覚えていますか」
「勿論です。ですからいつでも、すぐに戻ってまいりましたわ」
それは『私、あれから何度も上の世界に行っております』と言っているのと同じだったが、もうそのことを隠す余裕はないようだ。
「ならよろしい。あの輝きは、わたくしたちにとっては毒です」
「毒…」
その忌まわしい響きに、姫は怯え、小さく呟いた。皇太后は頷き、殊更強調しながら、
「いつまでも浴びていたら、死んでしまうでしょう。それ程の、毒です。けれども人間にとっては無くてならないものなのですよ。
わかったでしょう?ヒルとヨルのように、わたくしたちと人間は違うのです」
言葉をなくした姫を見つめ、
「かつて遠い昔には、わたくしたちは人間たちの住む上の世界にいたのだそうですよ。でも、更に上の方から死の光が降って来て、わたくしたちの同胞はすっかり死に絶えてしまいました。わたくしたちの遠い先祖は、その光の届かない深い海の底に身を潜めたのです」
皇太后の声は寂しげだった。
「しかし、その光を糧として進化し、上の世界を乗っ取った生き物もいました。それが人間です。
言わば、わたくしたちと人間は、仇敵同士のようなものです」
姫は白い手でごつごつした顔を覆い、恐ろしさに悲鳴を上げた。
「おばあさま、そんなことって」
「いいえ。本当のことです。姫、おまえがどんなに人間の男を好いて、想い焦がれても」
皇太后はすっかり承知していたようだ。姫の尾ひれは真っ赤に染まり、恥ずかしさを表す動きにくねったが、
「それは決してかなわないこと。諦めなさい」
冷厳に言い渡され、尾ひれは蒼褪め、絶望にくたりと折れた。
「おばあさま…どうしても、どうしてもですか?」
「諦めなさいと言ったのですよ、わたくしは」
今度こそ末の姫は色も無くすほどにうちしおれ、皇太后の部屋をよろよろと出ていった。
その背を、祖母は無言のまま、気づかわしげに見送っていた。
あの一番高い塔にのぼって、窓から外を見る。
…光に遮られた二つの生き物。
私は、かなわないものに憧れているらしい。
私があの方をお慕いするのは、フジツボがイルカを慕うよりおかしなことらしい。
いくらそう自分に言い聞かせても、この胸の鼓動は、
王子様。私の王子さま。王子さま。
こんなにも懸命にリズムを刻んでいる。
「駄目だわ」
首を振る。
私は、どうしてもあの方を忘れることなんて出来ない。忘れようとするだけ無駄だ。
「どうしたらいいかしら」
ふと、脳裏をかすめるものがあった。ここよりずっと深い所、激しく渦を巻いている恐ろしい場所を通り越した向こうに住んでいる、魔女のことであった。
あの魔女なら、なにか方法を教えてくれるかも知れない。
魔女が示す方法はおそらく、まっとうな、正統な道筋からは外れたことだという意識は、既に姫の中にあった。それでもいい、まっとうな方法では、この想いを遂げることは出来ないと、はっきりしているのだから。
姫の、今まで微笑み、笑い、あの美しい声で歌う、それだけしか知らなかったあどけないごつごつした顔に、確かに大人の翳りと、悲壮とさえ言える覚悟がしっかりと刻まれていた。
それこそが恋というもののもたらしたものであった。
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