王子は、彼を取り巻く大概の人間の予想に反してもともと、お気に入りの玩具にどんどん飽きて捨てて次の玩具、というタイプではなかった。
故に、突然現れた美しい口のきけない娘が、数日経ったところで王宮を放り出された、ということはなく、変わらず王子のもとにいた。
なかなかこれといった名前も見つからず、≪海の都の娘≫≪沈黙の姫≫など、こっちの方がこっぱずかしいのでは、と思うような叙情溢れる呼び方をしているのを、時折聞かされる。
「そら、見てご覧。あの部分の海は、お前の目のようだと思わないかい?可愛い拾いっ子さん」
娘は喜びに目を輝かせ、こっくりと頷く。
その後ろを三人は、どんよりした気分でついて歩いている。城内をお散歩中なのだ。
うー、帰りてぇ。暴れてぇ。ゲッターに乗りてぇんだよ!ちくしょ、これから遠泳にでも出てそのまま日本まで泳ぐかな。
早乙女博士に手を回してウソの連絡を入れてもらうか。万一バレたら後が面倒か。
しかし、カワイイ子だなあ。西洋人てなんでこう色が白いんだろうな。海って日に焼ける筈なのに、この子さっぱり黒くならないもんな。白くてぽわぽわしてむちむちして、マシュマロみたいだ。うまそう。
ふと、武蔵は、その白いかいなを見て、あるものを思い出した。王子が打ち上げられている傍らで、頭をなでなでしていた、あのサカナの腕だった。
だがすぐに首を振って、っていっても、この子はあのサカナとは別に関係ないだろう。だってあまりにも見た目が違いすぎる。こんなにカワイイ顔して、青い目が…
あのサカナも青い目をしてたっけ。
「………」
なんとなく、自分の中に妙な気分が流れ、武蔵はまじまじと後ろから娘を改めて眺めた。
王子を、どうやら助けてやったらしい、変なサカナ。王子を大事そうに撫でていた、見たことの無い生き物。
突然現れて、ずっと王子の傍にいる、口のきけない娘。白い手と青い目をした、それはそれは美しい少女。
うーん、と首をかしげる。
「ひょっとしてあのサカナが、魔法使いに、魔法でもかけてもらったのかな?」
武蔵は「よくあるよな、こういうお話。昔俺も読んでもらった気がする」といった意味合いで、そう言ってみたのだが、実際まさにそうだった。勿論、誰も、そんなことは知らなかったが。
それにしても、と武蔵は思う。
この、不思議な娘は、何故こうも悲しくて、必死な表情をするのだろう。
王子が娘を見ていない時に、王子を見つめる娘の目は、もはや『恋焦がれている相手を見る』範囲を超えた、色をしている。見ていると胸が詰まるようだ。
そして、そんな自分の顔を見てそんなことを感じている人間がいることは、娘は想像もしていない。ただ、ひたすら、王子しか見ていない。
あんな風に思われるというのは、どういうもんだろう、と思ってみる。自分がそんな立場になる、そのことそのものが、想像もつかないのだが。
思う側なら、なんとなくわかる気もする。ひたすらな情熱。ひたすらな恋慕。
命をかけて誰かを想う。
失ったらその時全てが終わるかのように。
娘の、そんなことを思わせる横顔を見ながら、武蔵はなんだかひどく、落ち着かなく、またぼんやりとした不安な気持ちになった。

夜になると今度はパーティだ。飽きもせずご馳走と酒とが用意され、楽隊が音楽を奏で、盛装の男女がダンスを踊っている。
「あの王子、確実に成人病になるぜ、毎日これじゃ。俺様もさすがに食い飽きたな」
竜馬がゲフと口でげっぷの音を言い、
「お前は別だろうな。ブラックホールの胃袋を持つ男」
傍らを見ると、武蔵が羽織姿で腕組みをして、何かをじーと見ている。信じられないことだが、山積みのご馳走を前にして、武蔵が何も食べていない。皿さえ持っていない。
竜馬がぎょっとして、ニ三歩下がった。
「おいどうしたんだ?大丈夫か?武蔵」
返事をしない。黙っている。竜馬はしばらくその、沈思黙考の横顔を見ていたが、振り返って、
「隼人!隼人!どこだ!」
「なんだ」
一人遅れてきた男が今やってきた。竜馬は大慌てで駆け寄って、腕を掴むと、
「武蔵がヘンだ。おかしくなった」
「なに?」
隼人は眉をしかめて、武蔵を見ると、相手を呼んだ。
「なんだ」
その様子を眺めてから、
「メシを食わないのか?」
「ああ。いらねえ」
その返事に、隼人はちょっとのけぞり、竜馬は大きくうなずいて、その後声がそろった。
「やっぱり変だ」
「なんだ、お前らは」
武蔵は失礼な、とむくれてから、
「俺だって考え事をして、食が進まないこともあるんだぞ」
「ほう。考え事か。何を…」
「食が進まないっていうのとも違う気がするけどな。昨日まではあれだけ食っていたしよ」
「余計なことは言うな」
竜馬の足を蹴ってから、隼人は場所を入れ替え、武蔵の隣りに来て、
「何を考えてるんだ」
「あれだよ」
声が指した先を見ると、にこやかに来賓客と話している王子、そしてその隣りにいて慎ましやかに微笑んでいる娘の姿があった。
「あの娘がどうかしたのか」
「ははぁ、武蔵、お前あの怪しい女が好きになったんだろ。それで気に入らないんだな。バカ王子がやたらそばにおいて見せびらかしてるから」
武蔵の顔がちょっと赤くなって、
「いやあ、カワイイ子だな〜とは思うけどよ」
ダンゴ鼻をごしごしこすって、
「それだけじゃなくてよ」
「何言ってんだバレバレのくせに。いくらスパイだ怪しいって言っても全然信じねえでよ、お前もバカ王子も、いずれこっぴどい目に」
「余計なことは言うなと言っているんだ」
今度は相当強く蹴り上げられ、竜馬は食べたものをもどしそうになりながらちょっと壁際にうずくまった。
武蔵は少しふくれてから、
「そりゃ俺だってゲッターに乗ってんだぞ。カオさえかわいけりゃあとはどうでもいいなんて言いやしない。なんかこう、あのコを見てると心配になるんだ」
「何が、どう心配になるんだ?」
「それがなあ」
首を傾げる。
「正直、自分でもわかんねえんだよ。自分が何を心配してんのか。このままだと、何か起こる、って思ってるんだけど、それが何なのかはさっぱり」
「ふん」
ふーん、の一歩手前のような、呟きを漏らしてから、
「その何かっていうのが、あの娘に関係するらしい、ということは確かだな?少なくとも」
「と思うけどな。いや、自信はねえんだ。俺はお前と違って、今ひとつニブイ方だし」
「そうだよな。お前はどっちかっていうと」
「ひっこんでろ」
ようやく復帰してきた竜馬は再び蹴られたが、今回は踏み止まり、
「さっきから好きなように蹴ってくれたな手前。このお礼は数倍にして返してやる。今から返してやる」
「うるさい」
と、その時。
『今からマリア・カラシ嬢の独唱が始まりますので、皆様ご静粛に』
というアナウンスと、おおというどよめき、そして拍手が起こった。見るとかなり豊満なタイプの、緑色のカクテルドレスを着た女性が、王子の前に進み出て一礼した。
「なんだ、あのおっぱい女」
竜馬と武蔵に聞かれ、
「ヨーロッパでは有名なオペラ歌手だ。大人しく聴いてろ」
隼人が早口で言い終わった時、拍手も鳴り止み、豊満女性は胸を張り、ピアノの前奏が始まった。
豊満女性の口から、糸を引くような美声、というやつが流れ出た。竜馬は正直、この料理同様ちょっとげっぷが出る、と思った。もちろんヘタとは言わないが、もう少しさりげない方が好みだ。
すごい肺活量だなと隼人は思った。それから、声楽家は自分の体を楽器に使って音を出すから、肥満した体の人間が多いのだそうだが、それにしてももう少し痩せた方が健康のためにはいいと思う。
武蔵は。
誰もが、豊満女性の表現力豊かなすばらしい美声に聞きほれ、その表情を見つめている中、一人だけ相変わらず、あの娘の顔を見ていた。
そして、その頬に、涙が流れるのを見た。武蔵はびっくりした。
感動の涙ではない。感動に打ち震えて泣いているのではない、それならば別にいいのだが。
怒りと悲しみと、もどかしさの涙だ。悔しさとじれったさと、やりきれなさの故の涙だ。
屈辱と、情けなさに震えながら涙を流している。あの、美しい娘が。
一体どういうことなんだろう?
何であんなふうに泣かなければならないんだろう?
娘は、うつむいて涙を拭った。顔を上げる。再びその頬を涙がすべる。うつむいて涙を拭う。
幾度拭っても、彼女の胸を深く切り裂いている傷から流れる血は止まらないらしく、結局豊満女性の歌の続く間ずっと、娘は涙を流し続けた。

「すげぇ声だったな。超音波だ。頭がクラクラするぜ」
「達人はガラスを割るそうだがな」
喋りながら、お開きになったパーティ会場を後にして、三人にあてがわれた部屋に戻ろうとした時だった。
突然武蔵が足を止め、
「悪い。ちょっと行ってくる」
「え。どこへ」
「ちょっとだ」
くるりと背を向け、羽織袴でどすどす走って行ってしまった。
二人並んでそれを見送る。ぼりぼりと頭を掻き、面倒くさそうな顔になって、
「なんだありゃあ。あいつ何考えてんだ?」
「どうも、あの娘の何かにひっかかっているようだが」
竜馬の顔の『面倒くさい』がいよいよ強くなる。
「なんだよ、外人女に本気でいれこむことにしたのか?しかもバカ王子の拾ってきた怪しい女なんて、これ以上ややこしい相手はいねえぞ。なんでそんなとこにわざわざ入り込むんだ」
「単に、あの娘が好きになってしまって心が乱れているというのとも、違うように見えるがな」
そこまで呟いてから、
「それに、誰かを好きになるのには、ややこしいだのなんでわざわざそんな相手をだのっていうのは、関係ないだろう」
「ああ?」
「好きになってしまったら、それまでだ。友人の彼女だろうと、人の妻だろうと」
突然、恋愛沙汰の大先輩に恋の指南を始められて、竜馬はヘキエキする。
「そ、そうかよ」
「そうだ」
「俺はあんまりそういう面倒くせえごたごたは遠慮してえな。お前や武蔵の女を好きになって泥沼なんて、考えただけで気が滅入る」
隼人はちらりと笑い、少しあってまた笑い出した。
「何がおかしいんだ」
「いや。そうやってる所が、とても想像できないだけだ」
ばふばふと袴の裾を膨らませながら、豪奢な真っ赤な敷物を踏んで角を曲がる。と、武蔵は慌てて戻った。それからそうっと首を出した。
いくつもいくつもいくつもある王子の寝室の一つから、そっと誰かが出てきた。あの娘だ。
ドアの両側には御付きの武官が二人突っ立っている。その脇をそっと通り抜け、こっちにやってきた。
(あわわ、どうしよう)
どたばたと慌て、ちょうどそこにあったでっかいツボの中に入った。ツボは真実でっかく、武蔵でさえ入れる大きさだった。足音が近づいて来て、武蔵のいる方へは来ず、そのまま真っ直ぐ通過して行く。
そろそろと頭を出す。娘が、自分に背を見せて歩み去ってゆくのが見えた。
ツボを出ると、再び後を追う。娘は、こみいった迷宮のような廊下を進み、階下へ降り、武蔵たちと初めて会ったあの部屋、海に出られるようになっている部屋に入っていった。
(あのコ、王子の隣りに自分の部屋くらいあるんだろうけど。王子のお気に入りなんだし。でも、同じ部屋で寝起きしてるのかなと思ってたぞ。違うんだな)
武蔵はなにやら一人で顔を赤らめ、
(いや別に、だからなんだっていうんじゃないけど)
言い訳のようなことをしつこく付け加えながら、あの王子俺より年下なのに全く、と再びつけくわえ、入り口からそっと部屋の中を覗いた。
娘は階段の途中まで降りて、座り込んでいた。背中がひどく小さい。
その背中がひくひくと震えている。
(また泣いてるのかな?一体何があって)
武蔵がそう思った時だった。
「ウ、うう。ううううう」
とんでもないそのダミ声に、武蔵は驚いて飛び上がりそうになった。
(なんだこの声)
最初は、何かほかのものがこの部屋に居て、それがうめいているのだろうかと思った。およそ、この可憐な娘が泣きながら出す声とは思えない。
しかし、当たり前だが、他には誰もいないし、娘の肩が震えるのと、そのおぞましい声はぴったり合っている。娘は、声が高くなると必死で堪えるようだが、どうしても堪えきることは出来ず、
「う、うぉ、うっ、うっうっうっ。うぉぉぉぉ」
ガマガエルのような聞き苦しい、吼えるような泣き声を、その口から漏らしている。
武蔵はしびれたようになって、その声と、その姿に釘付けになっていた。
やっぱり、口がきけたのか。…まあ、言葉が喋れるかはともかく。
それから、
すごい声だな。なんというかその、豪快っていうか、どすこいっていうか。
あんまり、見かけと合ってないっていうか…
だがそのことより、娘が顔を手で覆い、足を水に浸して、泣き続けていることの方が、武蔵には気になった。

足がやけつくようだ。
あんなに望んで手に入れた二本の足だが、勿論、姫は、『歩く』という行為はしたことがない。
一番最初に一歩、歩いただけで焼けた刃物の上を歩くような激痛が走ったが、それは決して薄れたり慣れてきて無くなる、ということはなかった。
日々が、苦痛との戦いだった。決して表にあらわすことのできない苦痛だ。普通人間は歩くということを苦にしないものだし、表そうとしたらそのとんでもない声しかない。
この声。魔女の声。おぞましく、おそろしい、聞く者を不愉快にしかしない声。
誰もいないとわかっている時、そっと出してみて、その不気味さがいや増しているような気すらする。
この声は、人に聞かせられない。愛しい王子様には殊更。何があっても聞かせることはできない。
燃えるように痛む足を、夜誰もいない水際で、そっと冷やす時、一人密かに泣く。足の痛みを。この声のおぞましさを。
この苦痛を、誰にもわかってもらえないことを。
愛しい王子様の傍に居られる喜びで、どんな絶望も悲しみも堪えられると思う。それには変わりはないが、だが、涙は、日増しにからくなってゆく。
そして今夜は、いつもの苦痛だけでなく、それよりもずっと大きな苦しみが、姫の心を満たしていた。
伸びやかな美しい絹のような声だね。
そう、王子は姫に言った。
こんなに美しい声で歌えるひとは、他には知らないよ。お前もそう思うだろう?
姫の泣き声が高くなる。ウシガエルが吼えている。
かつての私であったら。
あの人よりもっと。もっと。もっとずっと、美しい声で歌えるのに。王子様を驚嘆させ、感動させ、私をもっといとおしいと思わせることすら出来るのに。
深海の宝石のようだと謳われたあの声で王子様に歌をおきかせできたら、どんなに良かったか。
悲しい。辛い。悔しい。
思わず我を忘れてオウオウと泣き続ける姫の後ろに、そうっ、と近づく何者かの気配を感じて、姫ははっと振り返った。
そこには、ずんぐりした体型の男が立っていて、手をわたわたと振りながら、
「あの、怪しいもんじゃねえから。な、ほら、会ったことあるだろ。王子と、俺たち三人とでさ。な」
確かに、その顔に姫は見覚えがあった。
その声にも覚えがある。ゾウアザラシのような声の人だ。皆が私を怪しいと言ってじろじろ見ている中、一人だけ庇ってくれた人だ。
かといって、だったらすぐさま『ああ良かった』という訳にはいかない。聞かれてしまったのだ。この声を。
「あの娘は口がきける、しかもとんでもない声だ」などと笑いながら言いふらされたら、王子様にも嫌われる。出てゆけと言われるかも知れない。そうなっても行くところもない。
そもそも、王子様の傍を離れては生きてゆけない。
姫の額にじんわりと冷や汗が浮かび、もはや嗚咽もひっこんだ唇はわなわな震えている。
「そんなにおびえなくてもいいって。なあ、泣くなよ。なんにもしねえからよ」
なーんにも、と言いながら手を上に上げてぷらぷら振ってみせる。羽織がばふばふと言った。
まだ、じっとこちらを見たきりの、美しい青い目に、思わず「はふぅ」となる。なんてきれいな目だろう。ちょっと、声はその、アレだが。
「もしかしてあれか。そのう、気を悪くすんなよ。声がちょっと、ナニなんで、ずっと黙ってたのか?」
そう言った途端、姫の顔がさっとひきしまり、歪んだのを見て、武蔵は慌ててぺこぺこと頭を下げた。
「悪かったよ。ごめん。だから言ったろ気を悪くすんなって。あの、その。でもいいじゃんか、そんなに可愛いんだからよ、無口なタイプってことで。声なんかいいって別に。声なんか良くて特をするのはほら、今夜歌ってたあの歌手とかよ、そのくらいで」
武蔵はもちろん慰めるつもりでそう言ったのだが、姫の顔は見る見る悲しげに沈んでゆく。
私の歌を聴いて、幾人が誉めそやしてくれたろう。姫の歌を聴くだけで、体の痛む部分が楽になるようだと言ってくれた年寄りが、何人もいた。
お前は最高の歌い手だよと、おばあさまもおとうさまもねえさまたちも言ってくださった。
ああ。あの頃はあんなに、あんなに幸せだったのに。
………
愛しい王子様の傍に居られる喜びで、どんな絶望も悲しみも堪えられると思う。それには変わりはない。
呪文のように繰り返すこの言葉で、ここまでの夜を越えてきた姫だったが、
今宵、美しい歌を歌い褒め称えられていた歌手の姿を胸に甦らせた時、姫の忍耐の糸が切れた。姫は再び泣き出した。
この泣き声をきいたら、誰だってかわいそうになる前に、笑いそうになるだろう。
慰める前に、ハラを抱えて笑うだろう。同情するまえに、嘲りが口に浮かんでくるだろう…
今にも、目の前に居るこの男が笑い出す声が聞こえるようだ。私の泣き声を聴きながら大声で笑う。頼むからやめてくれ。そのホラ貝みたいな泣き声は可笑しすぎて腹の皮が…
誰かの手がそうっと姫の肩に触れた。反射的に振り払おうとする。相手の手はすぐに離れて、その代わりのように、
「泣くなよ」
声が、そっと触れてきたみたいに、耳に届いた。
姫は吼えるような泣き声をなんとかおさめようと苦労しながら、失敗してしゃくりあげ、前よりひどくなり、咳き込んだ。今度はその背を、ぱんぱんぽんぽんと叩いてやりながら、
「落ち着け。落ち着けって。な。大丈夫だから。安心しろ。深呼吸しろ」
太くて低い声が姫を宥め、背中を叩いていた手が、頭をなでている。「なでなで」してくれている。それはかつて、浜に寝かせた王子の、力ない額や前髪を撫でてやった、姫自身の手の動きのようだった。
随分、長いことかかって、姫は心を鎮めた。手で目を拭い、乱れた髪を整え、目を上げる。
今では隣りに座って、袴をフトモモまでたくし上げ、姫と同じように裸足の足首までを水につけている男が、にぃーと笑いかけ、
「落ち着いたか」
姫はうなずいた。もう一度涙を拭う。
「名前は前に言ったっけ?俺は巴武蔵てんだ」
姫は再びうなずく。知っている、という仕草だった。ほっぺたを指で掻きながら、
「あのよ、お前、こっちが言ってることはわかるんだよな?」
遠慮しながら言う。姫は少しうつむいていたが、
「わかり、ます」
ダミ声で答えた。この人にはもうわかってしまったのだから、覚悟した、という顔だ。
「コトバも喋れたのか。なんだそうか。じゃあ話は早いや。なあ」
どこから来たんだ。
何しに来たんだ。
お前の正体はなんだ。
覚悟はしたものの、それらの質問にはどう答えたらいいのか、まだ考えついていない。一瞬、緊張し困惑した姫に、
「なんでそんなに悲しそうに泣いてんだ?」
ほっぺたを再び掻きながら、
「さっきよ、歌を聴きながら、泣いてただろ?俺見たんだ。あれからずぅっと泣いてんだろ?ああ、王子の前では我慢したかも知れねえけど」
まさにそうだったので、姫は何も言う必要は無く、赤いくちびるを噛み締めた。
王子様の前では沈んだ暗い顔でいる訳にはいかないから堪えた。
堪えながら、外に出せない分どんどん辛さが増していった。
堪え切れなくなった時、王子様がお休みになると仰るので、そっと退室して…お気に入りの部屋、足を冷やせる、初めて王子様と会った部屋、一人で泣ける部屋に来た。
再び涙が浮かんできそうになりながら、ふと、この人は何故こんなによくわかっているのだろうと思う。
「教えてくれよ。これだけでいいからよ」
「何故…」
「そりゃあ、気になるからだろうが。きれいなかわいいコが一人ぼっちでめそめそ泣いてたら、どうしたんだろうなあと思うに決まってるだろ」
困ったように、憤慨しているように言われて、姫は戸惑い、それからほんのかすかだが、笑みを浮かべた。
この人は、私を慰めようとしてくれているのだ、ただそれだけなのだということが、ようやくほんの少しだけ、姫の胸に沁みたのだった。
「おおっ」
姫の笑顔を見て、武蔵は俄然張り切った。ほっぺたを赤くして背筋を伸ばし、いひひひーと笑う。その笑顔に再び笑みを返す。
不思議だ、とまた思う。私のこんな声を聞いた、その上で。…この人は何故。私を、慰めようとするのだろう。
その声を恥じるように、少しずつ、きれぎれに、
「昔は、私も、きれいな、声、でした。…今夜、歌った、人にも、負けない、くらい…
それが、失われたことが、悲しくて」
「それで泣いていたのか。そうかあ。それじゃしょうがないよな」
腕組みをして頷いている武蔵は、
なんでそんな声になったんだ?と聞くのは、あんまりだな、と思ったのでそれはやめた。
…第一、これだけでいいからよと言ったのだ。これ以上はいろいろ聞けない。聞きたいことは他にもあるのだが。
どうしようかな、と思ったが、やっぱりやめにして、
「俺が『気にすんな』って言っても、あんまり効き目ねえだろうけど、とにかくあんまり気にすんなよ。きっといいこともあるって。な」
なんとも頼りない励ましのお言葉に、姫はしかしうなずいた。武蔵は嬉しそうに歯をムキだして笑い、
「心配すんな。お前が喋れることは言いふらしたりしねえから」
姫は嬉しそうに再びうなずいた。武蔵はいよいよ力いっぱいうなずき返して、
「これだけって言ったけどあと一つだけ聞かせてくれ。お前の名前なんていうんだ?」
姫は困った顔になった。武蔵は慌てて、
「わあ図々しかったか?気にすんな。忘れてくれ」
いえ、と首を振り、
「あなた方の、ような、ヨビナを、呼ぶことは、私たちは、しないのです。言うなら…
『末の姫』とでも、なりますか」
ナマエのない国かあ。…どこらへんにあるんだろう。
よっぽど小さい国なのかなあ。…まあいいや。
「末の姫か。へえ〜。末っ子のお嬢さんってことか?末姫。乙姫みたいだな」
姫の、青い青い瞳を、鼻をこすりながら見返し、
「もうひとつだけいいか?歳、いくつだ?」
「15です」
答えながら、15の誕生日を迎えたあの夜のことを思い出す。あの夜から、随分いろんなことがあった。
少しうつむいた時。
「じゅうごぉ!?なんとまあ」
武蔵がすっとんきょうな声を張り上げ、
「15にしちゃ発育のいいおっぱいだな!いくら外人ったって、発育良すぎないか?」
姫の顔が再び困惑と、今度は苦い色に染まり始めたのを見て、再びぺこぺこと謝る。
「いやまったくもってごめん。忘れてくれ。忘れて。この通り」
その姿に、思わずくすりと笑いながら、
この姿がそもそも、私のものでないことを。この声の主のものであることを。
本来の私の姿は、このひとから見たら、この声以上に信じがたいものであることを、
このひとが知ったらどう思うだろう、
と姫は、ふと思った。

[UP:2003/7/20]
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