顔を洗って、マヌケな顔を鏡に映して見ながら、タオルで拭く。眠そうだ、と自分の顔を見て思う。
とにかく、連夜、あの娘に逢いに行っているので、どうしても睡眠時間は減る一方なのだ。しかし、止めるつもりはない。
「ま、どうせヒマなんだし、昼寝すりゃいいだけのことだよな」
独り言を言ってから、あの娘が自分をこんな至近距離から見つめて、一心に話している顔を思い出し、にたにた笑おうとし…ふと、いやなことを思い出す。
口だけでなくそろそろ本気で日本に戻る算段もしなければならない。自分たちはいつまでもここにいる訳にはいかないのだ。
そうなったら、もう滅多にこの国に来ることも出来ないだろう。王子はまた来ても喜んで迎えてくれるだろうが、なにぶんにも地球半周するくらい遠いし、『一回くらいは挨拶しておかないと』という程度の事情で、やってきたのだ。一回来ればもうそれでオッケーになってしまうだろう。
あのコに逢えなくなる。それはつらい。でも、なんかその、それ以上に。
あのコが一人ぼっちになってしまう。
そりゃ、あの子が好きなのは王子だ。王子の傍に居られるんならそれよりほかのことは要らないってのはもう重々わかってる。だったら、別にいいだろうっても、思うけど。
でも、全部事情がわかってるのは、俺だけだ。
本当は喋れるけど、ちょっと聞き苦しい声なんで恥ずかしがって喋らないでいること。
王子のことがあんなにスキだってこと。
年は15だってこと。
名前は本当にないこと。
…事情って全部でこれだけか?と思うとなんだか拍子抜けし、かつ情けなくなるが、仕方がない。
どこから来たのかとか、何故どうやってあんな風に現れたのかとか、肝腎の部分はさっぱりのままだ。
「でも、本当は喋れるのを知ってるてのは、大きいよな」
目に見えて、武蔵に向かって話す態度が、リラックスしていく。昼間、唇を閉ざして王子の傍にいることが、どれほどのストレスなのかは、見ていればわかる。ささやかに、かつ偉そうに言わせてもらえば、今の武蔵は多分、彼女にとって唯一のストレス解消相手だろう。
自分はこんなに王子が好きだ。王子はこんなにステキな人なのだ。大声で褒め称えたい。自分の愛を伝えたい。
それが出来ないから、せめて、聞いてくれるこの男に聞かせる。代役は代役に過ぎない。でも、居ると居ないとでは、
「ちょっとは違う、くらいには、なってると思うんだよなあ」
眠気覚ましに、歯ブラシにたっぷり練りハミガキを塗りつけて、口につっこんだ。
『話を聞いてくれる人』のいない、四方を壁で囲まれたような生活に、再び戻るしかないとしたら。
あのコ、一人で大丈夫だろうか。
武蔵の三重まぶたが、心配そうに半分閉じた。
入り口の扉が開いて、竜馬が首を突っ込んだのが、鏡に映った。
「早くしろ。広間でバカ王子がお待ちだ。なんだか、おシラセがあるそうだぜ」
「おう」
慌てて歯ブラシを上下左右にかきまわしながら、水道の蛇口を捻った。王子の隣りには、あの子がいるだろう。
昨夜も遅くまで話し込んだ、青い目をした美しい謎の娘が。
たった今、年老いた国王が宣言のように皆になにやら言い渡し、その途端いっせいに拍手と歓声が上がった。
喜ばしげな顔をしなかったのはごくごく少数だ。具体的には、王子自身と、その隣りの娘、それからゲッターチームの三人だけだ。
ことさら、娘はほとんど蒼褪めていた。目の青がいよいよ濃くなり、半分うつむいた顔は不安と怯えで小刻みに震えている。武蔵は気が気でなく、
「おい、何の話だよ!」
隼人につめよった。その後ろで、腕組みした竜馬が、
「俺もさっぱりだ。何だってんだ?」
うん、と隼人は気のない調子で、呟くと、
「王子に、花嫁候補を引き合わせる準備があるそうだ」
「花嫁候補?」
「隣国の皇女らしいな」
「ちょ、ちょっと待て!」
武蔵が慌てて叫んだが、隼人が素早くシッと言って、
「取り乱した声を張り上げるな」
「だ、だってよ、それってつまりお見合いするってことだろ?」
「そうなるな」
「それでもし、」
武蔵の顔が一回、王子を見る。王子はあまり乗り気でないらしい、あんまり嫌そうな顔をしては不自然なので、という程度の微笑を浮かべている。それはわかるが、
「もし王子がその相手を気に入ったら、結婚しちまうんだろ?」
「国王は高齢だからな。早いところ、次の世継ぎの顔を見たいんだろう」
白けたような顔に、武蔵は何故だかひどくムカムカしてきて、つい拳を握って怒鳴った。
「俺は裏事情のことなんかどうでもいいんだ!結婚しちまうのかって言って…」
「武蔵」
取り乱している相手に、ついに手を伸ばして、隼人は武蔵の腕をつかんだ。
「ちょっと来い」
「放せよ!」
「お前のがなる声は目立ちすぎるんだ。いいから来い」
「さわんな、バカ」
「竜馬。手伝え」
竜馬はなんだか、気の毒そうな、バツが悪いような、ちょっとイヤそうな、あまり見ない感じの顔をして、懐から手を出しながら近づいて来ると、
「落ち着けよ武蔵」
それだけ言って、ぐいと武蔵の腕をねじり上げた。
「…いっ!リョウ、放せ!」
「騒ぐなって。頼むから俺たちに、お前に対してこんなことやらせんなよ」
声が暗い。ねじられた腕が痛いことより、その言葉を口にした竜馬の憂鬱さがねじった手から伝わってくるのを感じ取ったことで、武蔵はかくんと心のどこかが折れた。
「…わかった。騒がねえから放せ」
「ん」
相手の納得がすぐにわかったのだろう、二人ともあっさりしすぎているほどあっさりと手を放した。
周り中バンザイバンザイと喜んでいる中を、そっと部屋の外へ出る。廊下は逆に、驚く程静かに感じられた。
武蔵は俯いて考えていたが、顔をあげ、結局さっき途中になった質問をもう一度した。
「…王子が、その見合い相手を気に入ったら、結婚するんだろ?」
「そうなるだろうな」
「あのコはどうなるんだよ!」
隼人はちょっと考えてから、
「いくつか考えられるが、多分どうもならないだろう。これからも王子のお気に入りの…いや、二人のか、あるいは后のお傍仕えにされるかな」
しかし、と呟いて、
「身の回りの世話をしている訳ではないから、ちょっと微妙かも知れない。でも多分王子の性格から言って追い出されることはないだろう」
「おい!」
「わかってる」
「わかってねえ!」
武蔵は怒鳴った。竜馬は相変わらずひどく憂鬱そうな顔で武蔵を見ているし、隼人はここなら無理に黙らせる必要はないというわけか、ただ相手の怒りの矢面に立っている。
「追い出されなきゃそれでいいだろってのか。今までは王子の傍に居て、これからは二人の傍に居るだけのことだってのか。それで納得できると思うのか、あのコが!」
隼人の襟首を掴んでぐいとひきつける。元柔道部キャプテンの腕は隼人をしてその場に留まらせることを許さず、がくんとなって引き寄せられた。
「ふざけんな!」
「武蔵」
竜馬が、隼人の襟首を掴んだ武蔵の手を掴もうとしたが、隼人が片手でそれを制し、
「武蔵」
自分もただ相手の名を呼んだ。
廊下に、武蔵の声が響く。
「あのコはあんなに王子が好きなんだぞ。王子が結婚式挙げて、誓いのチューしてんのを目の前で見てろっていうのか。自分と反対側によその女を連れて物見遊山に出かけるのに、ついていけっていうのかよ!」
武蔵の目に涙がにじんでいる。
「逆にそれ、してろっていう方がひでえんじゃねえのか。居ていいよって言ってくれっから、居られてラッキーって、思えるかあのコ!」
自分よりずっと背の低い武蔵にぐいぐい引っ張られて、隼人は真っ直ぐ立っていられず、中腰みたいな姿勢でいたのだが、この時、顔の位置を自分から低くして、
「だがな、武蔵。なら、聞くが。
それほどに王子が好きだというあの女が、いつか、王子と結婚してこの国の后になれると、思うか?」
武蔵の目が見開かれる。酷い問いだ、と竜馬でさえ思った。が、
「あの女を気に入って、自分の傍に置いている王子が、周囲全ての反対を押し切って。嘆き罵る年老いた王を退けて、口のきけない、得体の知れないただ美しいというだけの女を、自分の妻に選ぶという、
そこまでの覚悟をもっていると思うか?」
隼人は静かに、しかし容赦なく、
「もし、絶対に許さないといわれたら、自分の身分を捨てて平民に堕ちても、あの女を選ぶつもりでいると、思うのか」
武蔵の手からは力が抜けていたが、隼人は背を伸ばさず、目の前の男に問い続けた。
「あの女は自分の全てでもって王子を愛しているかも知れない。それはお前が誰よりもよく知っているな。
だが王子は、その愛に応える覚悟があると思うか?
どうだ」
ついに、視線が隼人の顔からはずされた。降りて行く。敗北宣言のようだと竜馬は思った。
もうそこでやめてやれ、と思う。そんなことは、わかりきっている。他人のことなのに、こんなによくわかることがあっていいだろうか、というくらいわかる。
隼人は、無表情のまま、
「違うだろう?以前言ったな。俺が。
新しく手に入れたおもちゃを人に見せびらかしたいという程度のことだと。
王子は、すぐに飽きてぽいぽい捨てる性格ではない、一回気に入ればいつまでも大事にするだろう、
しかしそれは」
ゆっくりと腰を伸ばし、相手の頭のあたりを見て、
「ゲッターロボのフィギュアも、あの女も、同じという意味だ」
一瞬、武蔵の顔がカッとなった。隼人に飛びかかるか、と竜馬は思ったが、怒りの烈火は赤黒い熾火となって両目にともったまま、ゆっくりうつむいていく。
隼人が、かつてそう言った時。
俺は、すげえこと言うな、と言って呆れた。…
その通りだと思ったのだ。
「でも」
息を吸い込む。ここで、俺が、あのコの弁護をしてやらなくてどうする?
このまま、テレビの隣りに置いてあるお気に入りの一品扱いされて、それでオッケーにされてはたまらない。あの子が可哀想すぎる。
「王子はあんまり乗り気そうでなかった。実際に会っても、気が乗らなかったら、まさか強制は出来ないだろ。もし、ずぅっと、乗り気になる相手がいなかったら」
「お見合い数十回不成功の果てには、あの女を妻に娶るというのか?」
「そうだ!」
しかし、お互いにそう思っていない。そのこともお互いにわかっている。
「…いずれ、それが終わる日が来る。誰もが認め、太鼓判を押し、そして王子自身も、『まあ、この子ならいいや』と思う相手が現れる。
最初から、あの女は」
隼人は最後にとどめをさした。
「そのリストには、載ってすらいない」
どうして、と竜馬は、床に膝をついて、くちびるをかみしめている武蔵を見ながら、思った。
あの女は、あんなぺらっぺらの、後ろが透けて見えるようなヤツを、あんなにも好きになったんだろう。
自分を好きになる奴、自分に利益をもたらす相手を好きになるのは、まだ恋じゃないとか、いうのを聞いたことがある。恋は計算やそろばんや、安全な未来はあちらと書かれた立札を蹴飛ばして、自分を、入り込みたくもない迷路や行きたくも無い嵐の中に、引きずりこむのだと。
それにしても、そうまでして、自分を捧げる何の良さがあって、あんな奴を…
そこまで考えてから、
それでも好きになっちまうのが、恋というやつの恐ろしさかも知れない、と彼にも似つかわしくないことを、ふと思った。
波の音が繰り返される。
いつも、足を浸しながら、ムサシという人間に思いの丈を聞かせている、あの部屋に、今は姫と王子二人でいる。
椅子に座って、ああ、と王子がため息をついた。その足元の床に座って、姫は王子を見上げた。
「ああ、おまえ、心配してくれているのだね。僕がこんな顔をしているからかい?」
王子は姫の美しい金色の髪を撫でた。心地良い手触りに、王子は嬉しそうに微笑んだ。なんてお優しい笑顔なのだろうと、姫は思う。胸が震える。涙が出てきそうだ。今日は、違う、意味でも。
「父上はもうこの婚姻が決まったような口ぶりでいらっしゃるけれどね、僕は気が乗らないのだよ。だって、僕はそのなんとかという隣国の姫と、結婚などしたくないのだもの」
姫の胸に、小さな、淡い色の灯がともった。
王子はこのお話を拒むおつもりなのだ。いや、拒むことなどできまい、王じきじきに準備なさったお話なのだから…
希望と不安に揺れる姫の目の色を見つめながら、
「僕が結婚したいと思っているのは、あの日、海に投げ出されて溺れた僕を助けてくれた、青い青い目の誰かだけなんだ」
姫が思わず声を出しそうになって、堪えた。ああ。それは、それは私のことです。
「おまえに、その面影がある、あの美しいひとだけなのだよ。でも、そのひとと巡り会える日がいつか必ず来るなんて、子供っぽいことを言う気はないよ。
でも、その人以外の娘さんを妻に迎える気には、どうしてもなれないのだよ」
嬉しさと、苦しさが、同等の重さで姫の胸をしめつけた。ああ、王子はこれほどまでに、私のことを想っていて下さるのだ。私は王子に愛されているのだ。
けれど王子は、ご自分の愛が向かう先が、目の前の娘だということに、決して気づかれない。
王子は、苦しげに目を伏せてしまった姫の肩に手を置き、
「どうしたのだい?どこか悪いの?」
姫は慌てて首を振り、苦しそうな、しかし嬉しそうな目で、王子を見上げた。
その瞳をつくづくと見つめ、
「どうしても僕がいやだと言えば、父上も無理強いは出来ないだろう。年老いた父上には申し訳ないけれど。ああ、今からどれだけの姫君たちと引き合わされることになるのだろう!ああいっそおまえを選んではいけないのかな」
その言葉に、姫は目を見開いた。
王子は。私を。この私に向かって。
王子はにこにこ笑っている。今、王子は、
「だって、おまえ以上に、あの日のあの娘の面影を持つ娘は、いないからね。いいよ、」
私を妻にしてくださると…
「后は娶らないで、ずうっとおまえと一緒に遊んでいよう。ね」
姫の唇から希望の笑みがすぅと消えた。
「嫌なのかい?おまえ、どこかへ行ってしまうの?僕の傍を離れて」
再び首を振ったが、今度は、さっきより弱々しく、力の無いものだった。しかし、その違いに王子は気づかなかった。おそらく、何一つ気づいてはいないのだろう。
「そう。良かった。ねえおまえ、これからも僕の傍にいておくれよ。おまえは僕の一番のお気に入りなんだ。その美しい顔に、あの人の面影を見せておくれ。その青い目で僕を見続けておくれ」
姫はちからなく頷いた。それは俯く動作にもみえた。
王子は私を、
人生の、一生の、相手としては…
決して。
…
でも。
それでも。
王子は私以外の誰よりも、私をおそばにおいてくださる。
これからもずっとそうだと、仰ってくださる。
このままずっと、ずっと、お傍に居られれば、それは妻になるのと同じことではないか?
決して、
同じではないと、
気づいていたが、姫は無理矢理同じだと思うことにした。他にどうしようもないからだ。
自分のこの姿は、王子への愛だけが支えている。この愛が打ち消される時は、
自分自身が消える時だ。
その晩、武蔵は無言で部屋を出て行った。竜馬も、隼人も起きていたが、敢えて二人共何も言わなかった。
黙って、その背を見送る。扉が閉まって、気配が遠ざかる。
少し経ってから、
「どうなるんだろうな」
竜馬が呟いた。
隣りのベッドで相変わらず、死体かマネキンみたいに仰向けに寝ている男が、目を閉じたまま、
「武蔵や俺たちなら、いずれ日本に戻る。そのことは変わらないぞ」
「そりゃそうだろうけどよ」
「王子に関しては、時期はともかく、俺が言った通りになるだろう。賭けてもいいぞ」
「賭けなくてもいい。俺もそうだろうと思う」
「あの女に関しては」
隼人がこの時目を開けて、天井を眺めながら、
「…あの女に関してだけは、ちょっと、予想ができない」
珍しいな、と竜馬は冷やかすでなく、素直な口調で言って、隼人を振り返った。
気配で気づいたのか目を開け、しょっぱい顔でそれをちらと見返して、天井を見上げ、
「行動から推察できる内面は、わかりやすすぎるほどわかりやすい。丁度あの王子と同じように」
「そうだな。あのバカ王子にベタ惚れ、てことしかねえもんな」
「それ以外のことが一切わからないが、…まさかあれ全てが演技で、実は王子暗殺のためにやってきた某国のスパイというわけでもないだろう」
竜馬は一瞬呆れ、それから笑い出した。
「無理矢理すぎねえかそれは。こんなアイディア商品でもうけてるようなちっちぇえ国の後継ぎ殺してどうするんだ」
「どうせなら篭絡して后の座に納まった方が得だろうな。もしそんなそぶりをちょっとでも見せていたら、ああなるほど、で終わっていたんだが」
あの女の事を言っているのだろう。
「たまんねえな。てめえが好きな奴が、よその女全部フッてくれたら次にもしかしたら自分の順番が来るかも、なんてのは」
けっ、と毒づく。そして隼人が言うには、その順番は決してこないのだそうだし。
何も言わず、二人並んで座っている。
ちゃぷ、ちゃぷという音は、浸した足を、ゆっくりと姫が動かしているからだ。
沈黙が優しく、哀しく、二人の心を洗ってゆく。
なんとなく、今夜も、このひとは来てくれるような気がしていた。私のことを心配して、そっと、そうっと、戸を開けて、…やっぱり、その通りだった。
だから、安心させてあげなくては。
姫は微笑んだ。寂しい微笑みだった。
「ムサシさま、ご心配なさらないで」
「でもよう」
その声に、もう少し、微笑を濃くして、
「王子は仰ってくださいましたの」
隣りの男が顔を上げて、姫を見た。
「これからもずうっと、僕の傍にいておくれ、って」
「それって」
武蔵の目が輝いた。
「結婚してくれってことか?」
姫の顔に、突然鋭い刃物で刺されたような苦痛が、おさえがたく浮かび上がったのを見て、絶句し、
「ごめんな」
わけもわからず、意味もなく、反射的に謝った。
途端、姫は顔をそむけて向こうを向いてしまった。泣いているのだろうか。
この姿を見ただけで、王子にプロポーズされた訳ではないことは、わかってしまった。隼人が言ったとおりなのだろう。
后にする気はないけれど、傍には居ておくれ。そう言われたのだ。
ひどい、と武蔵の胸が熱くなった。煮えるようだ。やけつくようだ。かわいそうでかわいそうで、自分が苦しくなる。
「あのさ。…気わるくすんなよ。…お前さ、ここに居ても、あんまり…幸せじゃないと思う」
姫は顔を背けたままだ。聞きたくはないだろう、こんな言葉は。しかし、
「なあ、俺たちと一緒に、日本に来ないか?日本語できるんだし」
しばらくたった後、顔を半分くらいこちらに向け、
「ニホンゴ…?」
「そうだよ。お前今、日本語喋ってんじゃんか。珍しいよな。ガイジンで日本語ぺらぺらなんて。あの王子は日本びいきなんで勉強したって聞いたけど」
姫や、あの海底の一族にとって、言葉とは、地域によって異なる単語や文法を学んで会得するものではなかった。相手に自分の意思を伝えるための波形を、口の部分から発するといったほうが正しい。相手はその波長を、無意識のうちに自分の知っている言語に翻訳して聞いているのだった。
そんなことは知らない武蔵は、
「言葉さえ話せるんなら日本で生活できるって。それでその、住むトコがなければ、研究所に住めばいいしよ。早乙女博士だってうんて言ってくれる、絶対だ」
徐々に熱を込めて、姫の方に身を乗り出し、膝の上で拳を握って、
「なあ、そうしろよ。ミチルさんて、もう少し年上の女の子がいるんだ。面倒見が良くて優しくて明るいからきっといい友達になれるぞ。ミチルさんには元気って弟がいて、お前のこと見たら一発でポーだな。そこなら、声がどうとか気にするやつなんか絶対いない」
姫の目が、二三度まばたきして、武蔵を見る。それを、気持ちが動いているのかと思い、更に熱を込める。
「そもそも、そんなに気にするほどひどい声じゃないぞ。俺毎晩聞いててそう思うんだ。どうしても嫌なら、なんかこう、治療する方法だってあると思う。違う違う、あるに決まってる。そうだよ。病院で診察して、治してもらえばいいんじゃねえか。なあ?」
バカだなちっとも気づかなかった、と言って頭を掻いてがはははと笑う。一生懸命だ。
「なあ、一緒に行こうぜ。そりゃ、…そんなに、王子のことが好きなんだから、しばらくは辛いだろうけどよ。きっと、忘れることが出来るって。
王子の傍では、お前、決して、」
「ムサシさま」
カエルのようなダミ声が遮った。
見ると、姫は涙を浮かべて、微笑んでいた。
「私は、王子の傍を離れては、生きてゆけません」
そう、
言われては、
これ以上何を返すこともできない。
そうか、と呟いて、ゆっくり、顔を自分の正面に戻す。
「でも、ありがとうございます」
聞き苦しい、つぶれた声が、波間にただよって、流れてくる。
「ムサシさまのお気持ちは、本当に、嬉しいですわ。心から、感謝します」
感謝など要らない。
そんな、泣きそうな笑顔をいくら向けてもらっても、さっぱり嬉しくない。
そして、このコだって、と武蔵は思う。
傍にいておくれなんて、言葉は、本当は要らないのだ。きっとそうだ。
一人の人間として、お前を愛している、というのでなければ。どんなに優しくて品があって耳障りの良い言葉だって、要らないはずだ。
でも、そんなものにでも、このコはそれにすがってここに居るんだろう。それを止めさせることは、俺には出来ないみたいだ。
俺には、出来ないみたいだ、ともう一度呟いた。
それから数日後、お見合い相手の隣国の姫とやらが、真っ白い船にのって、やってきた。
港では歓迎の紙ふぶきが、雪のように海に舞い降る中、船が着く。
王族関係者はまっすぐに伸びた赤い絨毯の道の端に勢ぞろいして、待っている。なんだか冴えない表情の王子のすぐ後ろには、姫もとびきり上等の、歓迎用のドレスを着て、佇んでいる。
ゲッターチームの面々は、貴賓席の中に居た。赤い絨毯に対しぞろりと面している、その一番前だから、誰のどんな表情もよく見える。
武蔵はただ、一心に、姫の様子を見つめている。あまり、顔色が良くない。当たり前だが。
隣りの二人が低い声でぼそぼそ喋っているのが、耳に入ってくる。
「隣国の姫ってどんな女だ?」
「なんでも、親の方針で、幼い頃から身分を隠して修道院に入っていたそうだ」
「なんだそれ。お忍びで精神修養してたのか?…一休さんか?」
「当たらずとも、遠からずかも知れんな」
ファンファーレが鳴った。タラップから、一団がゆっくりと下りてくる。
護衛のごっつい兵たちの間に、柔らかな若草色のドレスが見える。あれかな、と竜馬は思い、首をカメのように伸ばした。そして、
「あれ?」
「なんだ」
「…気のせいか、見たことがあるような」
言われて、隼人も気づいた。見覚えがある。ただ、その時はああいう格好をしていなかった。髪も、出してはいなかった。そうだ、
修道女のケープで包まれていたのだ。
そう思った時、王子がたたっと前に駆け出したのが見えた。皆が驚き騒ぐ中、王子は真っ直ぐに駆け寄って、慌てて隣国の姫の前に立ちはだかるお付きの護衛たちに、どいておくれ、と頼んだ。
「よいですから、さがりなさい」
自分たちの主人に命じられ、兵たちが左右に退く。
天岩戸が開いたあとに現れたような、それはそれは美しい青い目を驚いたように見開いて自分を見ている、まだ幼いような姫の顔を間近で見つめ、
「ああ、なんてことだろう!やっと巡り会えた、あの時僕を助けてくれたひとに!」
王子が叫んだ。
相手の手を取り、ぎゅっと握り締める。
「僕が溺れて、浜に打ち上げられた時、僕を介抱してくれたでしょう?そして通りかかった漁師に僕の身柄を託して、ご自分は身を隠してしまわれた。
ひどい方だ!でも僕はあの時見たあなたの顔を、決して忘れたりはしませんでしたよ!」
「…あの時、やってきた教会のババアたちの中に居た、娘か」
竜馬が呆然とつぶやく。
「王子は、あの娘に助けられたと思っていたんだな。…まあ、当然だが」
隼人も言って、ちらと武蔵を見た。
武蔵はただ、真っ白な表情のあの子を見ている。
何も聞こえない。
周囲が驚き、どういうことだと口々に尋ねているのも、意味を持たない。
ただ、王子の、今まで一度も見たことがないほど嬉しそうな、紅潮した顔を、
…なんて、嬉しそうな笑顔なのだろう、
そう思った時。
王子が、たまりかねたように、隣国の姫を引き寄せ、胸に抱きしめた。隣国の姫は真っ赤になって、恥じらっている。
「もう二度とどこかへ行ってしまいますな!これからはずっと一緒です。ええ、この世の中で、僕が妻と呼ぶのは、あなたをおいて他にはありません!」
皆驚嘆し、それからたちまち、歓喜の声に変わる。お見合いに来て、到着直後に、婚礼が決まってしまった。これからは宴の準備だ。忙しくなる。
黙って立っている姫のところへ、王子は、隣国の姫、いや自分の后を連れて、やってくると、
「聞いておくれ!おまえに言っていた、この世で僕の妻になるただ一人の相手が、見つかったのだよ。僕のことをあんなに思ってくれるおまえだもの、きっと喜んでくれるだろうね?」
なんの悪気も、底意もなく、
ぺらっぺらの満面の笑顔でそう言った。
武蔵の目に殺意が揺らぎ、姫の目に薄く膜がはったような、微笑のような表情が浮かんだ。
姫はふかぶかとお辞儀をし、王子の后の手を取ると、そっと祝福のキスを送った。
この娘のくちびるはなんて冷たいのだろう、と王子の后は思った。まるで温度を感じない。
その頃、海底の王城は、謎の侵略者たちに占拠されていた。
再びやってきた連中を撃退しようと意気込んだ王女たちだったが、なんと、見えないと思っていた末の姫が、敵の人質となっていたのだった。
『お願い、姉さまたち、抵抗しないでください。皆も、この方々に従って頂戴』
この頃の彼女の言動とは一転、ひどくしおらしげな調子で懇願され、勿論彼女を見捨てることなど出来るわけもなく、開城し、従った。あの声を持つ姫たちは、鍵のかかる一室に押し込まれてしまった。
侵入者たちでいっぱいになった大広間で、侵攻隊の隊長が、末の姫に、
「どういうことなんだ。お前はこの王国の人間なんだろう」
末の姫は憎々しげに笑って、
「あたしにとっては、どこの馬の骨かわからないあんたたちの方が、親近感を覚えるってことだよ。王家のやつらをひどい目に遭わせる計画なら、喜んでのるさ」
「ああもういい、喋るな」
顔色が悪くなり、よろよろと遠ざかって行く。この裏切り者の娘の声は、ひときわ強烈に、こっちの肉体を責めさいなむ。隊長、大丈夫ですか、とやっているのを、腰に手を当ててながめ、
「ゴールさまだかなんだか知らないけど、大した連中じゃないようだね。でもいい時に来てくれたよ。どれ、愛しいおねえさまがたや、おとうさまたちの泣きっ面を見に行ってみようかね」
末の姫は楽しげに、通路へ消えていった。
「ゴールさまに対して…クソ!なんだ、あの口のきき方は」
「隊長、いつまでもあいつにでかい顔をさせておくのは危険です」
低い声で囁く部下にうなずいて、
「わかっている」
フンと鼻で笑った。
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