「一体、どうなってしまうのかしら」
「そんな不安そうな声を出しては駄目よ。勇気を出さなくては」
「そうよね。そうだわ」
「でも、おとうさまやおばあさまはどうしていらっしゃるかしら」
「きっと大丈夫よ。泣いては駄目」
姫たちは皆で手を取り合い、励まし合う。
ここは、小さな窓のある、重い一枚岩で作られた扉に閉じ込められた殺風景な四角い部屋だった。平たく言って監禁場所だ。王族の姫たちが入れられるようなところではない。
「全くあいつら、姫様たちに対してなんということを」
「許しがたい暴挙だ」
一緒に閉じ込められた者たちが憤慨する。
後から召使いや兵を含め全員を調査し、声に少しでも陽光に似た波長を持つ者たちは皆ここに押し込められていた。故に、歳の若い者が大部分で、ただひたすらにおどおどする者、何としてでもやつらを追い出してやる!と気のはやる者、いろいろに別れるがとにかくまとまりがない。
「それにしても、困ったわ。末の姫が敵の手に落ちているのでは、あまり思い切ったこともできないわ」
「そうね。ちょっと姿を見ないと思ったら、こんなことになっていたなんて」
「きっと独りで怯えているでしょうね。せめて一緒にいてやれたらいいのに」
皆がうなずいた時だった。
「本当にお優しい姉さまたち。私は本当に幸せ者だわ」
鈴を転がすような美しい声が、眉をしかめるような悪意を込めて、聞こえてきた。
いっせいに声の方を見る。小さな窓に、末の姫の顔が見えた。
「おお、姫さま」
「無事なの?何かひどいことをされなかったの?」
「されるわけはないわ。私が自分からあいつらに協力したんだから」
皆、一様に凍りつく。
一瞬の、完全な沈黙の後、驚愕のどよめきが起こる。
「なんですって?」
「どういうことなの、きちんと説明なさい」
「どうもこうもないよ。あたしが自分からあいつらに申し出たのさ。不愉快な王族どもと、マヌケなおつきの連中をとっ捕まえてやれるってね!」
そして哄笑した。今ではもう、わざとらしく取り繕った言葉使いもやめ、下品にゲラゲラ笑っている、それなのにその声は相変わらず美しい。
あまりのことに、お互いの顔を見合い、また意味の無い訴えを投げる連中の中、一番上の姉が、
「あなたは末の姫ではないわね?」
はっと皆息を呑む。
そんな事がありえるだろうか?どこからどう見ても、あれは末の姫の姿ではないか。勿論、別人になってしまった、と言いたくなるような言動をとってはいるが。
末の姫はニヤニヤと底意地の悪い笑みを浮かべて、笑いながら大声で、
「ああらひどいわお姉さま。何故そんなことをおっしゃるの?」
長姉は対照的に落ち着いた静かな、しかし厳しい声で、
「末の姫は自分たちを『王族』などという言葉で表現はしないわ。身分がどうというようなこと、意識すらしたことがないでしょう」
末の姫の目に、憎しみの光が浮かんだ。
「意識すら、ね。する必要のない連中は一生意識しないで過ごすわけだ。自分たちが置かれた境遇が、どんなにどんなに恵まれたものなのか、考えてみもしないで、ぬくぬくと!は!全く持って羨ましい。いけすかない連中だよ!」
最初は笑いで始まった言葉だったが、最後は憎悪の叫びに変わっていた。
長姉は続けて、
「あなたは誰?…いえ、
いっときでも、末の姫になりすまし得るほど私たちのことをよく知っていて、また憎んでいるものといったら、あの者しか思い浮かばないわ」
その言葉に、皆があっと叫んだ。口々に、
「魔女だ」
「森の魔女」
「渦巻きの果ての魔女」
「そうか、ならば姿を変えることもできよう」
合点がゆく。と同時に、二番目の姫が強い声で叫んだ。
「ならば末の姫はどこにいるの?様子がおかしいと思い始めた頃すでにすりかわっていたというのなら、もう随分経つわ。あの頃からずっと、どこかにとじこめられているというの?」
「そんな。じゃあ今は」
誰かが悲鳴を上げた。女官たちは泣き崩れ、
「おい、姫をどうした!言え!」
「言わぬとただではすまさぬぞ、魔女め!」
若い兵たちがウロコをぴくぴくさせながら怒号する。
「鎮まりなさい」
長姉が強く言い渡す。その一言で皆大人しくなる。と、その静寂の中に、末の姫の冷たい笑い声が響いた。
「とじこめただって?すりかわっただって?人聞きの悪いことを言わないでほしいね。なんとかしてくれ、と言って来たのは姫さまの方からなんだよ」
再びどよめきが起こる。
「なんだと?でたらめを言うな!」
「末の姫を侮辱する気なの?許さないわよ」
「でたらめなもんか!今証拠を見せてやるよ!」
大声で、かつ自信たっぷりに言い放たれ、皆黙った。
「ここでの生活が楽しくってね。あたしも、ここしばらく見てなかったよ。あれからどうしてたかね?ちゃっかり、不格好な生き物とつがいになったかね。どれ」
下品なことを言いながら、丸い水晶珠のようなものを取り出して、窓から掲げて見せた。掌にのるほど小さいが、うすい紫色で、時折不思議な光り方をする。と、そこからすーっと光が室内に入って来て、皆慌てて避けた。
部屋の真ん中に、丸い形の幻が浮かび上がった。どこかの景色が映っている。
「…あれは、魔女だ」
誰かが言う。確かに、皆が知っているおぞましい魔女の姿を宿した者が映っているようだ。長い金色の髪、ウロコのないむきだしの皮膚、不気味なほどに巨大な目、不恰好な二本足。
しかし魔女自身はどうやらここにいるらしい。末の姫の格好をして。
ということは?
皆の頭に、もしや、という嫌な予感が浮かんだ。そして慌てて映像に目を凝らす。
魔女の姿をした者は、とても美しい服を着て、髪飾りをつけている。しかし、悲しいなどというものでない、とてつもない絶望を刻んだ微笑に固まった顔で、誰かをじっと見ている。
その視線の先には、晴れやかな笑顔で、辺りに集まっている群衆に手を上げて応える、これまた豪華な服を着た人間の少年と、娘がいて、時折視線を合わせては幸せそうに微笑み会い、言葉を交わしている。音はしないので、ただ口をぱくぱく動かしているだけだが、お互いを見つめる眼差しの熱っぽさと、心から嬉しげに振られる手つきで、この二人が愛し合い、祝福されているのだということはわかった。
「この人間は、もしかしたら、ここより西の方の…」
この場にいる誰もが、末の姫のためにさんざん王子を探し回ったメンバーだ。これこれこういう姿をした人間を知らないか、と聞いて聞いて聞きまくったプロフィールと、目の前の幻燈の少年は、まさにぴったり一致している。
数秒の時が流れ、突然、耳を覆うような大音響で、笑い声が響き渡った。
末の姫が笑っている。美しい声をヒステリックに裏返し、ぶしつけに、無遠慮に、いやそんなものではない。指を突きつけて嘲笑している。呪わしく、吐き気のするような笑い声の後、
「ああ、ああ、なんと可哀想なこと!優しい姉さまたち、お父様おばあさま、自分を慕ってくれる者たち、安穏な暮らし、平和で温かい日々、永遠に続くような安らぎに満ちた毎日!それら全てを」
笑って笑って、笑いつかれて、末の姫は扉に縋って笑っている。
「全て捨てて、踏み台にして!自分の美しい姿も失い、あんな不格好ないきものの姿に成り果てて!深海の宝石のような声と引換えに、どんな汚い泥沼の中に棲む魚だって出さないような声をあずけられて!ようやく、ようやく手が届くと思っていた、愛しい愛しい王子様は」
誰も、一言も発しない。目の前の幻と、末の姫の姿をした、魔女の言葉に心を痺れさせ、かたまっている。
「同じ醜いいきもののむすめを選んじまった!あはははは、あーっははははは!なんてことだろうね!今まで、思いのままにならないことなんて、一つだってない生活をしてきて!ちょいと浮かび上がった上の世界のタイヨウに眩惑されて、挙句にはかなく消えちまうってわけだ。なんてお気の毒な一生だろう!」
「待ちなさい!今なんと言ったの?」
「はかなく消えるですって?どういう意味なの?笑うのを止めてきちんと説明なさい!」
姉たちが真っ青になって叫んだ。
その顔を順繰りに眺めながら、本当に満足そうに、ゆっくりと、
「あんたたちの知ってるあたしの姿をした、あれこそが末の姫さまさ。ま、察しはついてるだろうけどね。あの薄汚い生き物のオスのところへいけるようにしてくれというから、そうしてやったのさ」
息を呑む。あるいはため息をつく。
「なんてことを」
「ああ、なんということ」
「末の姫様は言ったよ。あたしの姿が羨ましいって。だからあたしは取り替えてやったんだよ。優しいだろう?
ただし、あの命は、あの人間のオスへの愛が支えて形作ってるんだ。その愛が踏みにじられた時には…
翌朝の太陽の光に当たった途端、末の姫は泡になって消えちまうんだよ」
絶望と恐怖の声が上がった。今度こそ家来たちは泣き伏している。若い兵士たちも、末の姫の運命に思いをめぐらせると、ただ涙が出てくるらしい。己の力の無さを詫びながら、泣いている。
姉たちは必死で、どうしたらよいかしら、何か手はないのかしら、泣いたらダメよ、と言い合いながらも、もはや目には涙が浮かんでいる。懸命にお互いを励ましあいながらも、心がくじける一歩手前の様子だ。
…どいつもこいつも。
魔女の目に、憎悪の色が浮かぶ。自分たちを足蹴にして、あんな生き物のもとへ走った小娘のために、本気で心配し、悲しみ、動揺し、心を砕いている。
あんな、苦労なんかひとっつもしたことのない、ただの、下らない、色気づいただけの小娘のために。
ムラムラと怒りがわいてくる。そして、それを下卑た嘲笑と、罵声に変えて、せめてこのばかどもにぶつけてやろうと、口をあけた。
ずん、という衝撃があってから、魔女は押されてふらふらと移動し、扉にぶつかった。
皆驚愕し、泣くのをやめる。
魔女はひどく熱い、自分の腰のあたりを、首を捻って見た。何かが生えているようだ。刃物の柄だ。体から飛び出している。
『それ』から今手を離した、侵略兵の一人が、素早く後じさりながら、
「これで貴様の声も聞こえなくなろう。せいせいしたぞ」
フンと鼻で笑った。魔女は、信じられないという顔をして、首を振り、
「どうして…あたしは…あんたたちに…協力を…」
続けて声が出てこない。身を捩ると、激痛とともに力が抜けてゆく。
兵は侮蔑の表情になり、
「我々はな、同胞を平気で裏切る者をこそ、敵よりも軽蔑するのだ。一度裏切った者は必ずまた裏切る。そのような唾棄すべき者をいつまでも隊列に加えているほど、我々は甘くはない」
吐き捨てる。
ずるずると、床に崩れた魔女に、けっと嘲りを投げると、その後ろから隊長が現れた。
倒れている魔女をじろじろ見ながら、
「ご苦労だったな。これで邪魔者は一人も居なくなった」
「はっ」
二人は廊下の向こうへ去っていった。
「…ねえ、あなた、しっかりして」
自分に掛けられた声に、魔女はかろうじて顔を上げた。扉の小窓に、懸命に顔を押し付けて、長姉が、
「この部屋の鍵は?あなたは持っていないの?」
少し置いて、のろのろした声が、
「今さっき、行ってしまったやつが持ってるよ」
「……………お願いです。あの子を助けたいの。何か方法があるのなら教えて下さい」
憎んでも余りある相手だろうが、こらえて、丁寧に頼んでいる。しかし、同時に焦っている。魔女がその気にならないまま、死んでしまったら、もう本当にどうしようもなくなる。
傷を手で押さえてみるが、どうやら助かりそうもないことが、わかってくる。
あたしはもう駄目なのだ。こんな所で。まださっぱり、何のいい思いもしていないのに。今までの長い長い寂寥を埋める、何も手にしていないのに…
どうやらあの馬鹿な小娘も、数歩違いで同じ運命のようだけれど。それだけが、まだせいせいする。あの女だけ幸せになるなんて、絶対に許さない。絶対に。
ぐったりと目の落ちかかった魔女の上から、なおも必死な声が降ってくる。
「ねえ、お願い。お願いです。何か、方法は」
うるさい。あんな馬鹿娘、とっととくたばっちまえばいいんだ。そう言い返してやろうとして、
目を開ける。
ゆっくりと小窓を振り仰ぐ。長姉の目が自分に注がれている。
「…あんたたち、この部屋を出る算段は、あるのかい」
次第に低くなってきた声に、あります、と叫ぶ。
「城の内部にはこういう時に備えて、私たちだけが知っている抜け道がありますから。この部屋にも外に通じる道があります」
「…そうかい。…なら、姫さまのところへ行って、これを渡しておやり」
震える、血に濡れた手で、何かを差し上げてくる。小窓の顔は引っ込んで、代わりにまっしろい手が、必死で伸ばされてきた。その手に、手渡してやる時、魔女は、
冷たく冷たく笑った。
受け取って一旦引っ込み、すぐに顔が覗いて、
「これは何です?」
「見ての通り…短剣さ。切れそうだろう」
「ええ」
しかしその短剣は、切れ味が良さそうだということよりも、血のように赤い色であることの方が特徴的だった。それに、なんだか、どくどくと息づいているようにも見える。気味が悪い、と皆息を詰めてその短剣を見つめた。血を吸ってふくれながら、なおも欲しがっているヒルのようなのだ。
「そいつで…姫が、愛している、相手の体を突くのさ。そこから吹き出る血潮を浴びれば、姫は…泡にならずに、済む。…」
「本当ですか!」
「疑うなら、勝手に…おし」
それきり、もう扉にもたれた姿のまま、動かなくなってしまった。口もきかない。
死んでしまったのかと思うが確かめることも出来ないし、暇も無い。ありがとう、と叫んで中に戻って行くのを聞きながら、
ありがとうか。面白いね。どういうつもりで、剣を渡したと思っているんだろうね。
あの姫が、あんなに入れ込んでいたオスを、自分の命可愛さで、刺すのかどうか。
刺さなければ泡になるだけだし、もし刺せば。
あたしはもうすぐ死ぬ。死んだら、術が解けてしまう。あたしはまた、あの醜い姿に戻る。
姫ももとの姿に戻るだろう。そしてまた姉上たちや召使いたちとの生活に戻る。
でも、心は、魂は、死んでいる。
何故って、愛した相手を自分の手で刺し殺すんだから。それは、自分の魂を刺すのと同じことだ。
そして姫は以後、以前と同じ姿をした、心のない人形になって、永い人生を送るのだ。
面白いね、と魔女はかすかに笑った。
どっち道、あの色ボケ小娘は、自分にとって二つとないどちらかを失うことになるんだ。命か心か。
「そのどっちなのか、見届けるまでは、死ぬに死ねないね。…ここで、」
のろのろと指が動いて、さっきの水晶珠を、膝の上で持った。
「最後まで、見ていてやるよ、姫さま」
廊下で、魔女がそんなことを呟いているとは露ほども知らない姉たちは相談し、結果、あまり大人数で行動すると見つかるということで、気の強い次女と、一番すばしこい、末からすぐ上の姫が行くことになった。
「急いで頂戴、姉さまたち。あまり時間がないわ」
「ご無事で、姫様」
「姫様がた、末の姫様を頼みます」
皆口々に激励の言葉を送る。二人もうなずいて、
「わかっています。必ず間に合ってみせるわ」
「皆も、ここで姫のために祈っていてね」
二人は部屋の隅の方の、取り外し可能な石積みをそっとはずして、ギリギリ通れるほどの穴を穿つと、そこに伸びている細い通路へと、入っていった。
真っ暗く細い、これが地上であれば通気孔の働きでもするのであろう道を、二人はごりごりと懸命に通ってゆく。最後についている岩の蓋をキィと開けると、城の裏に出た。
「急ぎましょう」
「ええ」
二人は頷きあい、一心に上の世界を目指して泳ぎ始めた。
だが、折悪しく、丁度見張りの交代の時であったため、城の裏廊下で点呼を取っていた兵たちが、その姿に気づいてしまった。たちまち、城内に警戒警報が鳴り響く。
『監禁していた者たちが逃げた。追いかけて捕まえろ。抵抗したら殺せ』
その言葉に、捕まっていたほかの姫たちや、召使いたちは飛び上がり、廊下で死にかけている魔女は舌打ちをする。
まだだよ。あの短剣を姫に渡すまでは、待っておくれ。
泡になるか、愛した王子の血しぶきを浴びる、そのどちらかの姫の顔を、見せておくれ。
あたしが醜いあの姿に戻るのは、その後だ。
「結婚式は正式にはいつになるのだろうね。それまでに一度、戻ってしまわれるの?ずっとこちらに居ればいいのに」
熱をこめて王子が言う。隣りにいる、まだ歳若い后は頬を染めて、
「ですが、一度殿下のご機嫌伺いに参っただけでしたもの。そのまま居座ってしまうのは、はしたないですわ」
「殿下などという呼び方はしてくださるな。僕は悲しくなります。もうあなたは后なのですから」
自室で、延々やっている。それを、姫は黙って控えて、待っている。
人形のように動かないその姿を、さっきから奇異に思っていたらしい后が、
「おまえは、ずっと王子に仕えていたの?」
声をかけてきた。優しい声だと思った。
微笑んで、首をかしげるような動作をする。
「ついこの前だよね。ちょうど僕があなたに助けていただいた、その頃からです。口はきけないし、身寄りのない様子なのでここに置いてやっていたのです」
「まあ、お優しいのですね、殿下は」
そう。どちらも、お優しい、美しくて品があって、とてもお似合いのお二人だ。
「この子の青い目が、僕を助けてくれた誰かの面差しを思わせるので、僕は本当にこの子の目を見るのが好きだったのですよ」
そう言って后の手を取る。后は嬉しそうに、また恥ずかしそうに頬を染めて、俯いた。
もう王子は、私の目を見ない。お后に、私を紹介したのが最後だ。あれきり、私の事を一度も見ない。多分もう二度と見ないだろう。
見る必要が無いから。
自分が本当に見たい、青い目が、自分の隣りに現れたから。
本当は私がお救いした青い目の主だと、ここでこのカエルの声でわめきだしたところで、結果は変わらない。証拠がないだとかいうことではない。王子にとっては、この顔をした隣国の姫こそが、自分にとってのたった一人の相手なのだ。私にとって、王子がそうであるように…
けれどもう王子は私の存在を必要としない。
私の愛を。
そう、はっきり自覚した時、自分の中で何かがかたりとはずれたのをおぼえた。
なんとなくわかる。止まっていた歯止めなのだろう。砂が落ちてゆく。落ちきったところで、空になるのだ。私のこの、他人のものである体を、体として支えておく骨組みが、今砂になって落ちてゆくところなのだ。
そのことを、姫は、悲しいとか恐ろしいとは思わなかった。
王子が私を見なくなった時点で、私の目は、見るべきものなど何も無い。王子が私を必要としなくなった時点で、私の居る場所などどこにもない。
だから消えてなくなるのは当然といえば当然のことだ。
ただ、懸命に王子の後を追った、あの自分の情熱が、無いのと同じことになるのが、寂しい、と思った。
就寝時間になり、おまえもういいよと言い渡され、姫は黙って頭を下げ、最後に王子の姿を見つめた。王子は后と手を携えて、隣りの寝室の方へ行った。
横顔が僅かに見えた…ところで扉がしまった。
廊下に出る。それから、ゆっくりと、いつものあの部屋へ向かう。
そっと扉を開けると、武蔵が背を向けて、床に座り、足を海の水につけていた。こちらを見ない。
姫は微笑んで、その隣りにゆくと、座った。自分も、すんなりした足を伸ばして、水に浸ける。
最後まで、歩くのは苦痛だった。決して慣れなかった。
所詮、私は地上を歩く生き物ではないということの、あらわれだろうか…
姫がそんなことを考えた時、
「…こんな時間まで、あいつらのべたべた話を聞いてやってたのか」
ぶすっとした、腹立たしげな、しかしなによりも根底に可哀想に思ってならない気持ちのある声がした。
姫は微笑んだ。
ゾウアザラシのような。聞いていると、心の安らぐ、この人の心根の、あらわれたような。
「もうほっといてやりゃいいんだ。あんな恩知らず。あんな、人の気持ちふんづけて平気でいるような」
悪口を連ねてから、奥歯を噛んでとめる。そんなやつでも、このコは、好きでたまらないのだ。だからこそ、今はどんなにか、悲しくてたまらないだろう。
そう思う、気持ちの、あらわれたような声を、しみじみと胸に響かせてから、姫は、
「一声でも多く、聞いていたかったんですわ。一つでも多く覚えておきたいんです」
潰れた聞き苦しい声で、静かに告げた。
相手はぎょっとした顔でこっちを見る。
この相手の、声を聞くのも、顔を見るのも、
「これが、最後だと思うから…」
「おい」
こちらに向き直り、手を伸ばし、姫の細い手首を掴んだ。ごっつい、丸い手。太い指。温かい手だ。
「それどういう意味だ?その、どっかへ行っちまうのか?王子に結婚相手が現れたから」
たとえ后になれなくても、傍に居ていい、などとふざけたことを言われて、素直にはいと聞けるか、と怒った武蔵だったが、いざ相手がどうやらこの地を後にするらしい事を言い出して、驚く。
王子の傍を離れていくっていうのか?自分から?このコが?出来るのか?そんなこと。
それに、なんだか、と武蔵は思う。
この顔が、えらくその…なんだろう。壮絶に、静かだ。覚悟を決めたような顔。そしてその度合いが、尋常じゃない。
まるで…
姫は武蔵を見た。
「お別れなんですわ、ムサシさまとも」
まるで、
「今まで、本当にありがとうございました。ムサシさまがいてくださって、」
…死ぬ覚悟をした、程の…
そのことがひどく恐ろしく、武蔵は無理矢理相手を遮った。
「どこに行くっていうんだ?ひょっとして故郷に帰るのか?」
故郷という言葉に胸が切り裂かれる思いになる。懐かしい海の底に帰れたら。いえ、帰れなくても、もう一度だけでも、お父様やおばあさまや、姉さまたち、皆にお会いしたかった。一目だけでも。
しかしそれも、随分と我儘な言い草だ。王子のあとを追うために、私は全てを捨ててきたのだもの…
姫は首を振った。
「じゃあどこに行くっていうんだよ。行くあてなんかあるのか?なあ、とにかくここを出ようっていうんなら、俺たちと一緒に」
「ムサシさま」
どんな言い訳を考えればいいのだろうと思い、ふと、本当のことを言いたくなった。どうせ、ウソをついても、あと少し。あと、ほんの少しの時間で、自分は。
姫は微笑んだ顔のまま、
「私は王子への愛でこうしていられるのです。その愛が消える時は、この姿が消える時。
明日の太陽が、あの水平線に現れる、その一筋を受けた時には、
私は泡になって消えてしまうのですわ」
しばし、武蔵はこおりついて、相手の顔を見つめていた。
…いつかどこかでそういうおとぎばなしを聞いた。
いつか、姫の素性に思いをめぐらせていた時に、脳裏に浮かんだことが、再び甦る。しかし、これはおとぎばなしではなく、姫にとって、そして自分にとって、どうやら現実らしい。
ひたひたと水位を上げる満潮の時が近づいてきたことに、今気づいたように、声を上げる。
「そんな。…ちょ、ちょっと、待ってくれ。…なにか、その、なんとかする、方法はないのか。今何時だ」
混乱しきって、うろたえきっている。しかし、何をバカなこと言ってんだ?と相手が笑わないのを、姫は不思議に思う。
「…下手なウソをつくものじゃない、と、お笑いにはなりませんの?」
「ウソなのか!?」
「いいえ」
「だろ、…いやいっそウソならよかった。俺をかついでひどい冗談を言ってるんなら、その方がよかったんだ。ええっくそ」
立ち上がって、手を握ったり開いたりしながら、姫を見下ろしている。ひどい汗をかいている。
思わず、姫は尋ねていた。
「なぜ。
何故あなたは、私の言うことを全て、そのまま受け入れるのです?」
「どうしてって」
武蔵は右と左を交互に見ながら、うわのそらで、
「おまえが本当のことを言ってるってのが、わかるからだろ。…冗談じゃないぞ、泡なんて。泡ってなんだよ、泡って」
姫は尚も尋ねた。
「どうして、おわかりになりますの」
「そんなこと知らねえよ!」
わめいて、そうか、日に当たらなきゃいいんだ、と拳を打って、
「おまえ、とりあえず明日は地下室に居ろ。明日中になんとか考えてやるから」
肩をつかまれる。姫は、呆然として、相手の顔を見上げた。
その時だった。
「末の姫」
部屋から入れるようになっている、海の方から彼女を呼ぶ声がする。とても美しい声だ。姫と、武蔵は、声の方を見た。
顎が張り、エラが張り、唇がでかくて分厚くて口角がきゅ、と上がっている、新種のサカナが、二匹、首を出していた。
「わっなんだなんだ」
武蔵は口走った。その声に驚いて、反射的にサカナたちは逃げようとした。
「お姉さま!待って、大丈夫。この方は大丈夫よ、お願い、逃げないで」
姫が叫ぶ。サカナたちは動きを止め、そろそろと戻ってきた。姫は、目にいっぱい涙をため、手をサカナたちに差し伸べ、
「お姉さまたち!わざわざ会いにきて下さったのね?ああ、こんな姿とこんな声になった私を許して下さい。そして、」
涙がぽろぽろとこぼれた。
「明日の朝消えてしまうことを、心から詫びていたと、皆に伝えてくださいまし」
お姉さま?と武蔵はかなり足止めを食う気分だったが、そのことに拘っている場合でもなく、サカナたちと姫の様子をただ見守っている。
「でも、間に合ってよかった。私が消えてしまう前に、お姉さまたちにお会いできて」
「本当に、間に合ってよかったわ、末の姫よ」
見た目はかなりショッキングだが、声は本当に、うっとり聞き惚れるような美しさだ。武蔵は、そのギャップの大きさにアテられ、目をぱちぱちさせる。
「でもね、私たちの言う『間に合った』はあなたのいうそれとは違うのよ。これで」
血のように赤い短剣を、片方のサカナが差し出した。
「あなたの愛する相手を、突きなさい!その血潮を浴びれば、あなたは助かるわ」
思わず受け取った短剣が、びくっと振れ、落ちそうになる。武蔵は姫の顔を見た。真っ青だ。
唇が僅かに開いて、あいするあいて、と呟いた。それから不意にがくがくと震え出した。
「早くなさい、姫!」
姉たちの声に叱咤されて、姫は、ふらふらと足を踏み出し、それから武蔵を見た。
どうしたらいいでしょう、という顔をしている。
これまでずっと、話を聞き、それはこういうことじゃないのか、きっとこうだぞ、と相手をしてやり、姫を慰め励ましてきた武蔵だ。そんな相手は他に一人もいない。姫が助力を請うとしたら、武蔵以外には居ないのだ。
なんと言ってやればいいんだろう、と武蔵は惑った。
こんなところで死んじまうなんてあんまりだ、とは思う。どんなことをしてでも助けてやりたいと思う。それに、あの王子は本当にひどい奴だ。ひどいことをしてやろうと自覚して、する人間と、どちらが罪深いのかはわからない。しかし、無知と無自覚がそれだけで罪だという、実物のようなあの笑顔を思い出すと、刺されて当然という怒りもわいてくる。
だが、武蔵が怒り狂ってあの王子を殴り飛ばすのはともかく、あの王子をあんなに愛していたこの娘が、この細い手で、短剣を王子の胸に突き立てる。
それは、果たして、妥当なことだろうか?
このコだからこそ、してはいけないような、しかしこのコだからこそ、しても許されるような…
ダメだ、全然わからない。ハヤトなら何て言ってやるだろう。今から行ってあいつに聞いてみようか。
武蔵が迷っている間に、後ろからサカナたちが鋭い声を投げた。
「もう時間がないわ。躊躇しているヒマはないのよ。急いで!もうすぐ夜が明けてしまうわ!」
「お父様やおばあさまに会いたくはないの?皆に会いたくはないの!?」
姫は声に押され、ぎくしゃくと歩き出した。おかしな歩き方だ。操り人形のようだ。
武蔵は立ち尽くしている。
呼び止めるべきなのか。
行けと促すべきなのか。
姫の脳裏には、初めて見た時からの王子の姿が、次々に浮かんではきえていく。自分を不思議そうに見つめて、にっこり笑った顔。何かを指差して、楽しそうに笑いかける顔。ため息をついてものおもいにふける顔。
最後に、あの后を見た時の、他では見たことの無いような嬉しそうな顔を思い浮かべ、
姫は一瞬怒りと悲しみをその白い顔に映したが、やがて、ゆっくりと顔を伏せ、
最後に首を振った。
「私には出来ません」
「姫!」
「姫、考え直して!」
サカナたちは必死で説得している。しかし、
姫はひどくきっぱりと言い切った。
「王子を殺して生き延びるくらいなら、泡になって消えた方がましです」
姫の言葉を聞いた時、武蔵の胸に、よく言った!と力いっぱいうなずくような思いと、相手のそれほどの献身が可哀想でならない気持ちと、そんな相手への誇りと、憐憫と、それから愛情がどっとこみあげた。
そう、姫のくちびるがうごいたのを、遠い遠い海の底で、魔女は水晶珠に映して、見ていた。
「おや、おや。つまらない。あたしと、しては、あの小娘が血に染まる姿の方が、見たかったのに。…」
もうほとんど虫の息だ。執念だけで生き延びている。ただ、一人では惨めに死なない、という呪いに似た執念だ。
兵たちが追いつく前にと、この部屋に閉じ込められていた連中も、先を争うようにして二人の姫を追って行った。どの道、追いつかれて、あいつらは全員殺されてしまうだろう。ざまをみろだ…
そこまで、この水晶珠で見ることができればいいけれど、とくちびるをゆがめ、そこから血のまじった咳をこぼした時だった。
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