「これ、欲しいぜ。くれよ。あ、駄目か、これ一枚しかねぇんだな」
未練がましく、石版をつくづくと眺め、手放そうとしない。少年はだんだん、心配になってきたようだ。あのう、というようにそろそろと寄って行く。それに気づかず、
「これ見りゃ、きっとミチルさんも、俺は実はハンサムなんだって納得すると思うんだよな。そうだ。隼人なんてスカした野郎よりずっと…ああ、これ、見せてやりてぇな、あいつらに。欲しいなあ」
うぉん、と吠えられる。
「なんだよ、うるせえな」
そこでやっと、もじもじしながら同時にかなり切迫した顔で、手を差し出したり引っ込めたりしている少年と、早く返せよと言いたげな彼の友に気がついた。
「わかってるよ。かっぱらったりしねえよ。ほら」 返してやると、少年は明らかにほっとした顔で、石版を大事そうに受け取った。未練たっぷりでそれを見送ってから、
「なあ、他にないのか?お前が描いた絵」
それの、ほかに、おまえが、かいたえ。ゼスチャーもだんだんコツをつかんできた。少年は意味を知って、照れた。その表情を見て、
「あるんだな?さっさと見せろよ」
ほとんど、エロ本を持っている友人を脅して出させるような言い方だ。
少年は小突かれてふらついてから、まだ暫くもじもじしていたが、最後には照れながらも、物入れの中に大切にしまわれている、布のカバーをかぶったものを出して来た。石版より少し大きい。
「なんだよ、あるんじゃねえか。もったいつけやがって。早く見せやがれ」
実際口が汚い。言葉が通じなくて良かった点もある。
それでも丁寧には扱って、そっと布をはいだ。
これは、紙に書かれている。硬い板に、四隅をとめてあった。
そして再び、ぎゅっと内臓をつかまれたみたいな衝撃に、竜馬の汚い口も閉じた。
絵としては、ごく地味な構図だ。老人が椅子に座り、足元に犬がうずくまって、両者ともこちらを見ている。それだけの絵といえばそうなのだが、
なんだろう、この、背中をかけのぼる、畏れに似たものは。
深いしわ、疲れ切った肩や背、大きくて変形した手、なおもやわらかい口元からは、決して安楽な道の末にここまで来たのではないこと、そしてそうやって生きて来た人間だけが持つ大きな大きな寛容と、強い優しさを持っていることがわかった。
老人は、慈愛に満ちたまなざしで、こちらを見つめている。書き手への愛情が、老人の姿全体から発散されているのがわかる。
「これ、お前のじいさんか?」
しかし、『じいさん』という、続柄や関係といった形のないものは、身振りで表すのは難しい。いくらか苦労する。
「この、年寄りだよ。お前の、オヤジの、オヤジ。ええいくそ、このじじいはじじいかってきいてんだ」
訳がわからない。
少年は、相手の質問を、『この老人はどうしたんだ?』と受け取った。それでなのだろう。静かな、暗い貌になって、首を振った。
「え?違うのか?じゃあ近所の誰かか?」
なおもとんちんかんな事を言いかけて、相手の表情の冥さに、ふと黙る。
少年は、その絵と一緒に、布でくるんであったものを、取り出して、竜馬に見せた。絵の中の老人がかぶっている帽子だった。
帽子を見、絵を見てから、少年を見て、
「もしかしたら」
竜馬の声に込められた、そうは思いたくないが、そうなのだろうな、という響きを聞き取って、少年はうなずいた。閉じた目に、うっすらと涙が浮かんでくる。が、すぐに、慌ててこすった。
おじいさんは、今は、寒くもないし辛くもないところで、おなかいっぱい食べられて、そこから僕を見守っていてくれるのだ。だから、泣くことなんかない。でも、やっぱり、もう会えないことは悲しい。…
竜馬は口の脇を掻いてから、絵に描かれている犬と、そこにいる少年の友を見比べ、あまり変わっていないと思った。
「てことは、お前のじいさんが死んだのはあんまり昔のことじゃねえんだな」
言った途端、自分が寝ていた寝台のあるじが誰だったのか気づいた。
あの寝台がからっぽになって、もうそこにじいさんが寝ていないのを、こいつは毎朝起きる度に見てきたんだな…と思うと、柄にもなく、しめっぽい気分で黙ってしまう。
慌てて顔を振り、うん、これもすごい、いい絵だ、とやたらでかい声で言った。少年の友がびっくりしたようにこちらを見た。
「なんだ、これはちゃんと紙に描いたんだな。どうせなら俺の絵も紙に」
言いかけて、すぐに気づいた。
元気なら、あっ間違えた、と言ってびりびり破いて捨てる紙だが、この子にとっては、食事を諦めて買うものなのだ。
その金で買ったたった一枚の紙に、じいさんと友達の絵を描いていたのに、途中でじいさんがいなくなってしまったのだ。
…なんといって慰めればいいのかわからない。でも、
「どうせ言葉が通じないんだから、何て言って慰めても、同じだな」
ぽん、ぽん、と竜馬の手が、少年の頭を押さえた。撫でたのではない。かかえてやったのでもない。ただ、押さえたと言うほかはない触れ方だったが、触れられたそこに、竜馬の心と力が残っているような気がした。言葉で表す方法を知らない、この男の悼みと、少年への励ましが。

少年は、毎日少しずつ、その絵に加筆しているようだった。もう、モデルはいなくなってしまったが、目の裏に焼きついたその懐かしい姿を、少しずつ紙の上に移していくように、ゆっくりゆっくり、絵を描いてゆくのだった。
首を傾げ、考え込んでは、ふと友を見る。友は、かつて少年の祖父の側に居たように座って見せる。
少年は微笑んで、うなずき、目を閉じ、しばらくのちにまた目を開け、絵に向かうのだった。

それから幾日か経った朝、例によって少年と友がこっそりと、家を抜け出して、出かけていった直後だった。
なにやら、険しい怒鳴り声が聞こえてきて、竜馬は飛び起きた。もともと、少年が起きる時には、目が覚める。少年が起こさないように気を使っているから寝たフリを続けていただけなのだ。
寝台から床に降り立つ時棒を使ったが、何とか歩けそうだ。無論、まだ痛みはあるが、そんなことを言ってはいられない。
どぉんとドアを押し開けて外へ出た。
隣りの家の前で、少年は鼻と顎がやけに出っ張った男に、襟首を掴まれていた。男は前掛けをして、汚い靴を履いている。勿論何を言っているのかわからないが、居丈高で尊大で聞いていると胸の悪くなる響きは、初日に少年をいびっていた男によく似ている。あの男ほどの威厳や自信はないが、その分、『自分より弱いものにだけ強く出られる』ものがなしさがより際立っている。あの男のミニ・ミーというところだろうか。
男が、憎々しげに近づけた顔を、ひどく意地悪い笑顔に変え、少年を小突きまわしたところで、
「おい。いい加減にしろ」
低い怒号が男と少年を振り返らせた。さっきから低く唸り牙をむきながら、例によって大人しくしている他なかった少年の友も、耳をぴんと立てて振り向き、すぐにまた男を見た。
竜馬が、下から睨みつける目つきで、そこに立っている。
男はうろたえて、何か言いかけた。それを圧して、
「いいから手を離せ。話はそれからだ」
男は左右で違うゆがみかたの眉をして、懸命に虚勢を張りながら、少年に何か言った。
やちんもはらえないごくつぶしのぶんざいでふろうしゃをひろってやったというのはほんとうなのかそんなことをしていられるよゆうがあるならこのまえかしてやったしおとらんぷのあぶらをいますぐ
「手を離せって言ってるんだ」
一息で、二人の側まで近づくと、思い切り男を突き飛ばした。殴らないのは、ここで暴力沙汰になると少年が困るという、少年の友の動きを封じ続けてきたやっかいな問題を、竜馬もこの頃には理解していたからだった。
とは言え、突き飛ばしただけで、充分暴力沙汰になってしまうのが難しいところなのだが。
少年が、感謝と、非難の入り混じった目で竜馬を見る。男は仰向けに倒れ、笛のような悲鳴を上げかけた。竜馬は素早く手を伸ばして男の襟首を掴むと、ぐいと引いて立たせた。男は人形のようにたやすく立ち上がった。ぱん、ぱん、と埃を払ってやる。
「ガキ相手にえばるんじゃねえ。帰れ」
今度は軽く、肩を突く。男は怯えと憎しみと半分ずつの表情で、竜馬の全身を眺め回し、少年を一回にらみつけると、よろよろ戻っていった。ばぁんというドアの閉まる音に、びくりとしてから、
少年は肩を落として、竜馬を見ない。
感謝と、非難と。
正面から庇ってくれる逞しい腕は嬉しいけれども、これ以上、居場所がなくなるのは…
「もう暴れねえからよ。今だって暴れてねえぞ。ちょっと撫でたくらいだ。…あのよ」
何か、ずっと喋っているが、勿論通じない。しかし、相手が懸命に喋っているのを無視し続けることができないらしく、少年は弱々しく竜馬を見上げた。
「…今日はいい。行って来い。明日から、お前の早朝労働に、俺も付き合おうと思うんだが、いいな?」
いいな?と言われても、いいも悪いもわからない。首をかしげている。
それをいいことに、竜馬はひとりでうんとうなずき、
「決まったな」
勝手に決めた。

竜馬はその日のうちに、器用に松葉杖をつくった。少年はぽかんとして眺めている。
竜馬が少年の仕事に同行しようと思い立ったのは、いろいろな理由があった。大分衰えた筋力を取り戻すトレーニングをしたいということや、今朝のようないざこざがあった時、自分がいれば少年を守ってやれるということ、それから、少年がどこまでいくのか知らないが、とにかく自分を取り巻く環境がどこかで『コンピュータや、無線機や、スィッチを押すと作動を始めるロボットがいる世界』とつながっているものかどうか探りに行きたい、ということ、などだった。
何と言ってもイーグル号を見つけなければならない。実はあれから竜馬は少年の石版のすみっこに(自分の絵を自分で消すのはしのびなかったので)、イーグル号を描いて見せて、これを見なかったかと尋ねたのだった。ちぃーさくて余計にわかりにくいし、竜馬に少年の半分も絵心があれば、あるいは赤い絵の具でもあれば、事態はここでかなり変わっていたのかも知れないが、生憎、半分の半分の半分の絵心も、赤い絵の具もなかった。少年は純真な目で、それをじっと見つめ、首を振った。
翌朝から、朝もやの中進む小さな子供の影、四つの足で歩く影に、巨大でむさくるしい影が加わった。
長い長い一本道は、丘を登ってゆく。竜馬はじわじわと汗をかきながら、ふぬ、ふぬ、と進み続けた。少年と友が時々振り向いてこっちを伺う。
「いいから、…大丈夫だ、…このくらいで、…俺様が、」
わざわざ疲れるようなことを喋り続け、ようやく、登りが終わる。
今度は緑のじゅうたんの中を、延々と伸びてゆく道を上から見下ろす。そして、竜馬は目を見張った。道は、ゆるやかに伸び、その行く手はるか彼方に、かなり大きい街があるのが見える。
「でけぇぞ、ありゃあ。いいぞ。いいじゃねえか。電話くらいありそうだな。緑でも赤でも黒でもいい。持ち上げるとぷーとか言ってくれるヤツがいたら…それでバンザイだ」
竜馬が何を嬉しがっているのか、少年にはわからない。曖昧な笑顔で、竜馬の喜びを祝福している。
村から、その大きな街までは、思いのほか距離があった。4〜5キロほどはある。
その距離を、少年と友は竜馬を気遣いつつ、竜馬は出来る限りのスピードを出して、歩いた。
だが、急ぐ必要は、悲しいが、無かった。
「それ」がないのは、少年の村も、この大きな街も同じことだったから。
働き者の人々が忙しく歩き回る早朝の、大きな石造りの街を竜馬はしばらく見渡し、見回し続けたが、やがて、
「…電線がねぇと、空がきれいだなあ」
物悲しく呟いて、うなだれた。

傷心の竜馬を気にしながら、少年は友が引いてきた荷台の牛乳を業者に納め、金を貰い、帰路についた。
こつんこつんと石畳に急造松葉杖の音を響かせながら、
「ま、どうせ、金もってねえから、電話あってもかけられなかったけどな。ここらのカネも日本のカネも持ってねえし」
ぶつぶつ言い、ふと、少年が立ち止まってこっちを見ているのにぶつかりそうになった。
「なんだ?」
少年は困ったように、ここ、と指した。見上げるばかりの、巨大な大聖堂がどっしりとそびえたっていて、ひっきりなしに人々が出入りしている。
「立派な寺だな。…寺ってことはねえだろ」
自分の言葉に自分でつっこみ、
「この建物に何か用か?」
寄ってくのか、というようなジェスチャーに、少年はうなずき、ごめんなさいという仕草をした。
「いいけどよ。…なにがあるんだ?」
少年について中に入り、度肝を抜かれる。なんてまあでっかくて、天井が高くて、荘厳で、寒々しいタテモノだろう。竜馬はあまり長居をしたい気分にはならなかった。無言の圧力のようなものを感じる。人によっては、神威に打たれて感動のあまり涙を流すのだろうが。
少年は聖母の絵の前までゆくと、ひざまづいて、祈った。そばに友が項垂れてつきあっている。竜馬はつまらなそうに、その絵を見上げ、あまりタイプでないなとくそ生意気なことを思った。
ふと見ると、他にも絵があるが、黒い幕がかかっていて、見られない。
「なんであれは見せないんだ?見せないと見たくなるな。見てやるかな」
ずかずか近づいて、松葉杖を伸ばして幕をはごうとした。他の人間が悲鳴を上げたり、慌ててかけよって羽交い絞めにしようとする。
「わっ、なんだよ!離せ、この野郎」
わめいたところに少年がかけてきて、必死で首を振り、それから周りの人間たちに必死で頭を下げ始めた。
「やめろ。わかった。もうよす。畜生、ただ絵を見ようとしただけだろうが。なんだ」
不快になって、舌打ちすると、
「どけ!殴るぞ」
周りの人間たちをうるさげに払いのけ、出口へ向かった。途中でちらと後ろを見ると、少年が聖職者の服を着た割には妙に物欲の濃そうな男に何度も頭を下げているのが見えた。
むかむかむか、とイヤなものがこみあげてくる。足をひきずって戻る。怯えた顔の人間たちをなぎ払って、少年につめよると、
「ぺこぺこアタマ下げんな!てめえのせいじゃねえだろうが!」
自分のせいだろうに、少年を怒鳴りつける。少年の友が、竜馬に向かって吼えた。
「うるせぇ!犬!蹴るぞ!」
顔中口にしてわめくと、今度こそ背を向けて、無理やり出て行った。その背を、少年は、驚きと悲しみの混ざった表情で見つめている。

少年がのろのろと外に出て、目を見張った。竜馬が石段に座って待っていた。
何も言わず側に行くと、竜馬は振り返った。憤懣と、苛立ちと、照れの入り混じった顔で、
「悪かったよ。…一応、謝っといてやらぁ」
そんなことを言うのは、言葉が通じないと思う気安さのせいだろうか。
少年は数秒呆然としてから、ひどく嬉しそうに笑った。少年の友は、まだ低く、うふ!うふ!と吼えている。少年を怒鳴りつけたことにまだ腹を立てているらしい。
「怒るなよ。…しつけぇ犬だな、お前」
少年は竜馬の参ったなという口調に笑いながら、友の首筋を何度も撫でてやった。もう許してあげてよ、というように、何か話し掛けている。

ある日の午後、丘の上にスケッチに出かける少年と友の後ろについて、竜馬も歩いていた。もう、かなりひょこたん歩きからは回復している。
少年が見知らぬ巨人を介抱し、居させてやっているということは、竜馬にこっぴどい目に遭わされた男が喋ったのだろう、村の連中は皆知っていて、道行く二人と一匹をじろじろ眺めてはひそひそやっている。かなり、感じが悪い。
ただでさえ、息をひそめるようにして暮らしている少年の肩身をいよいよ狭くしているようだ。
それがわかるから、竜馬は「なんだってんだこの野郎!」だとか「なんだその目つきは!喧嘩売ってんのかコラァ!」だとか言わず、ただにらみ返すに留めて、頑張って歩を進めているのだった。
ここにやってきて、どのくらい過ぎたのだろう。落ち着いて、指を折ってみれば数えられる程度の日数だろうが…
「数えておかねえと、わからなくなるかも知れねえな、こいつの家にカレンダーはねえしな」
ぶつぶつ独り言を言うのは、日本語を忘れるのが怖いためだろうか。
ふと見ると、少年は竜馬のぼやきも耳に入らない様子で、一心に絵を描いている。多分、話しかけても気づかないだろう。
後ろからそっと覗きこむと、少年は丘の上の赤い風車と、その向こうにある大きな屋敷を描いていた。
「立派な家だけどなあ。…あの家からも電線は出てねえし」
どさん、と後ろに寝っ転がったら、そこには少年の友がいた。
「おう、悪い」
別段いやがりもせず(嬉しそうでもなかったが)竜馬を背で受け止めてじっとしている。
「お前らには世話になったな。今もなってるけどよ。…どうするのが一番、お前の御主人への恩返しになるかな」
友は無表情に竜馬の髪を見ている。
「…もし、帰る手立てが見つからなかったり、…いつまで経っても、隼人も武蔵も誰も探しに来なかったら…」
もし、と言いながら、その仮定の連なりはどんどん竜馬をしょぼくれさせてゆく。それを振り切って、
「ここで働いて、お前の御主人に金入れて、住まわせてもらうかな。時々やってくるイヤな野郎どもも、俺がいればそんなにお前の御主人を痛めつけないだろうしな」
友の耳がぴこ、ぴこと動く。機嫌の良い時の仕草だ。
「でも、そのためにはここの言葉おぼえねえと仕事もできねえな。俺ぁそういうの苦手でな。空手なら得意なんだが」
お前は本当に物覚えが悪いな。元気の方がよほどマシだぜ。
そうそう。ホントにものおもいが悪いぜ。
何言ってるのよ、ムサシくん、うふふふふ…
「…俺のかっこいい絵をもらっても、もう見せられないかも知れねえな…」
目の前の青い空が、ぶれた。誰にも内緒だが。

[UP:2001/11/9]

夜明けの道4へ 夜明けの道2へ ゲッターのページへ